古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十四 西軍における石田三成の立ち位置について

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 慶長五(1600)年に起こった天下分け目の戦いにおける西軍の戦略は、基本的に総大将毛利輝元方により立てられたものです。

 ※総大将毛利輝元の立てた戦略については、以下参照↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 従来の通説では、「実質的な総大将は石田三成」という誤った先入観があるため、この西軍の立てた戦略を、石田三成の立てた戦略であると勘違いしてしまう傾向にあります。

 しかし、実際には石田三成の立てた戦略が、西軍本部といえる大坂方に採用された形跡はありません。

 これは、石田三成真田昌幸・信幸・信繁宛書状等から分かります。

 これらの書状によりますと、西軍の基本戦略は、西軍主力が美濃国岐阜城主の織田秀信と連携して尾張へ出陣し、家康方の拠点を奪取し、さらに東進して三河方面へ進出するというものであったかようにみえます。

 しかし、これは、「石田三成」の立てた戦略であったかとは思いますが、「西軍全体」の戦略ではありません。

 石田三成としては、信濃で孤立している真田家を鼓舞するために、今すぐ大軍が東上するかのように述べて、味方に繋ぎとめておかなければなりません。

 三成に限らず、遠方で敵方に囲まれ孤立している大名・武将には、援軍が今すぐ来るぞ、のような景気の良い話をしてして士気を高める必要があり、また三成はこの戦略を実際に大坂方(毛利輝元増田長盛ら)に説いて、西軍の主戦略として提唱していたであろうかと思われます。

 けれども、大坂方(毛利輝元)の主戦略は、丹後・北国・伊勢・美濃・四国・九州へと兵を分散して、なるべく西軍の勢力範囲を拡大することに主眼が置かれており、美濃方面軍も1万5千人ほどしか兵は置かれていませんでした。

 この程度の戦力で東上作戦ができる訳もなく、清洲攻略も、三河方面へ進出する戦略も、西軍首脳部が採用していなかったのは明らかです。 

 三成は、東西で家康を挟み撃ちにする戦略を立てていたかと思われます。(ただし、三成が上杉景勝と事前に通謀していた形跡はなく、これは戦いが始まった後に急遽立てられた戦略です。)

 ところが、陸奥・北関東における親西軍勢力といえる上杉景勝佐竹義宣に関東に乱入せよと、説いたところで、後背の伊達・最上の動きが油断ならないこともあり、単独ではおいそれと動きようがありません。このため、西軍主力が東上し、東西から挟む姿勢を取らないと、彼らとしても関東乱入しようがないことになります。

 こうして、西軍主力による東上作戦がない以上、上杉・佐竹による関東乱入もないことになり、東西で徳川方を挟み撃ちする策は成り立ちようがありません。

 結局、三成の戦略の提唱は却下されている訳で、西軍における三成の立ち位置はその程度のものだと分かります。三成は戦略の決定権のない、西軍における(有力ではあるが)一大名にすぎません。

 こうした意味でも、石田三成が西軍の実質的な総大将と呼ぶのは誤りといえます。