古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

秀吉軍が行った「補給戦」とは?

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(以前ツイートで書いたものを元に、追記・訂正してまとめたものです。)

 

1.戦国時代は「兵糧自腹」 

 戦国時代の兵糧事情について、よく「兵糧自弁」という言葉が使われるが、「兵糧自弁」というのは誤解を招く表現といえる。「兵糧自腹」というのが正しいだろう。そして、「自腹」といっても各大名が負担したのであり、兵が負担した訳ではない。(短期戦はどうか分からないが。)

 というのは、兵糧というものは、兵士たちにとってはカネ(給料)でありモノ(食べ物)でもあったのだ。給料である兵糧を食べてしまうも、酒等を買うのに使ってしまうのも兵士次第。酒等に変えて使いきってしまう兵士は飢えることになる。だから、兵糧を使いきってしまった兵士が飢えて、山の木の根やら木の実やらを食いだす場合も出てくる。

 籠城戦においては、後先を考えず兵糧を早く使い切ってしまう兵士は本当に飢え死にしてしまうので、兵たちの兵糧(給料)を徴収して、蔵に備蓄することが行われたようである。

 

 豊臣秀吉は、傘下の大名達の軍を率いて戦を行ったが、各大名の兵は彼らの兵なので、当然その兵糧も豊臣家が負担する訳ではない。各大名の「自腹」である。(豊臣軍が各大名に兵糧を贈与したとしたら、それは同盟大名に対する「恩恵」・「援助」という扱いであり、秀吉軍が大名の兵糧を当然に支給したという訳ではない。

 その兵糧はどこで調達したかというと、基本的には「現地調達」したのである。(詳しくは3.で説明する。)

 

2.「兵糧はお荷物」

 兵糧は重い「お荷物」であり、重い荷物を抱えた荷駄隊と実戦部隊が一緒に行動すれば、その軍の行軍スピードは著しく落ちる。

 しかし、戦争において勝機を見たら実戦部隊は補給部隊を置いて、自軍の主力を敵の主力のいる戦場に移動させ(必要があれば急行させ)、ぶつけることによって勝利を収める必要がある。まさに「兵は神速を貴ぶ」であり、対明智光秀の「中国大返し」、賤ケ岳の戦いにおける「美濃大返し」等、秀吉軍は、こうした「機動戦」を駆使して戦い、勝利を収めてきた。

 こうした「機動戦」と兵糧重視の「持久戦」の使い分けができるのが秀吉軍の強みである。こうした「機動戦」が可能なのは、「つなぎの城」か「中継地点」にあらかじめ食料が備蓄されていたということである。こうした配備を秀吉軍が、あらかじめ行っていたことももまた、「補給戦」なのだといえる。

 

3.「現地調達」とは 

「補給戦」というと、補給部隊、つまり荷馬車やら小荷駄隊のことを考えてしまう。しかし、この補給部隊とは、持久戦においては、あくまで兵糧確保の補助的役割に過ぎない。戦国時代の「兵糧奉行」の役割は、そうした補給部隊(小荷駄隊)の管理にあったのではないし、小荷駄隊の管理は、当時の軍の構成上、基本的に各「備え」つまりそれぞれの部隊の管理だったと思われる。(統一的に独立した大規模な補給部隊があった訳ではない。)

 では、戦国時代当時の補給は何に頼っていたのか?主に「現地調達」に頼っていたのである。

 

「現地調達」というと、略奪が思いつくし、実際略奪もあったろうが、戦になれば村人達も兵糧を持って山やら城やらへ、逃げ込んでしまうので思うように略奪できるとは限らない。

 略奪による現地調達で長期戦を戦うのは困難である。また、戦になれば攻め込んだ大名は戦地の村や寺社によく禁制を発して、略奪等の防止を保証していた。(禁制には礼銭が必要だったが。)禁制にどれだけの効果があったか疑問に思う人もいるかもしれないが、敵軍がやってくれば争って領民や寺社が禁制を入手しようとするのを見れば、それなりの効果があったのだろう。

 ということで、どれだけ兵糧が手に入るか不明な略奪で、長期戦の兵糧を確保するのは実質的に困難である。

 

 では、実際どうしていたかというと、戦になれば戦場に商人が兵糧を運び、兵糧を売っていた。秀吉軍は、商人と結んで大量の兵糧を戦場に運びこませ、その兵糧を売らせていたのである。

 戦場に商人が出入りして、兵糧を売るのは豊臣軍だけでなかったし、秀吉以前の時代からあった。

 しかし、戦場近くに市場を確保し、組織的・大規模に商人に兵糧等を売らせたのが、秀吉軍兵糧奉行が行った画期的な「補給戦」改革だったといえる。このため、豊臣奉行衆は、堺商人や博多商人らと密接な関係を築くことになったのである。これにより、秀吉軍は大軍の長期的運用が可能になった。

 

4.豊臣銀行 

 兵糧を買う財政力のない大名はどうだったのか。そうした大名には、豊臣一族が金を貸して兵糧を買わせていた。いわば、豊臣銀行といえる。これが、ある意味豊臣家の財政の根幹のひとつといえる。

 戦が長期化すればするほど、豊臣一族は各大名に金を貸して、兵糧を買わせ、ますます豊臣一族は金が儲かる。しかし、これでは各大名は赤字になるだけだ。見返りに大名に加増しなければ、大名としては割が合わないので、戦は必ず勝ち、土地を得なければいけない。

 軍事国家である豊臣公議が、各大名を支配するには、際限なく軍役を行い、恩賞となるべき土地を得なければならなかった。外征が続かないと、戦争するしかやることのない武士は失業していまい、生きていけなくなる。そうなれば、また土地を求めて内戦が始まるだけである。これでは統一政権はもたない。

 そこで秀吉が考えたのが「唐入り」であり、求める土地は大きければ大きいほどよい。こうして、「際限なき軍役」が始まる。軍事国家で。ある豊臣公議が豊臣公議であるためには、戦に勝ち、土地を得続けなければならず、「唐入り」が失敗した時点で豊臣公議の崩壊は決まった。

 結局、秀吉が死んだら、内戦ははじまってしまったわけで、「天下統一して戦がなくなっても、戦しかやる事のない武士達は、戦を求めて内戦をはじめるだろう」という秀吉の懸念は当たった。武士たちのニーズをうまく汲み取って、内戦を復活させたのが、徳川家康だといえる。

 豊臣公議といっても、豊臣秀吉石田三成ら奉行衆とは温度差があり、秀吉は「外征(唐入り)なくして、軍事国家としての豊臣公議は持たない」というのに対し、おそらく三成らは「外征をしなくても、貿易と農地開墾による商業・農業国家を目指せば、豊臣公議は持続する」という考えだったのではないか。

 そう考えると、『看羊録』に書かれている「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」という事も理解できる。 

 結局、主君である豊臣秀吉の構想が優先され、奉行衆の構想は実現しなかった。奉行衆の構想は、徳川公議にこそ受け継がれたのではないか、と思われる。

 

5.「兵糧奉行」としての豊臣奉行の果たした役割とは 

 まず、「中国大返し」や賤ケ岳の戦いの際の「美濃大返し」の際に、補給ポイントを整備して「機動戦」を可能にしたのは、増田長盛石田三成らの「兵糧奉行」が裏方となって、「大返し」を可能にしたと思われる。 

 そして「兵糧奉行」として豊臣奉行は、堺・博多等の大商人と結びき、豊臣家の豊富な財政力を生かして、大量の兵糧を調達した。その兵糧は現地(たとえば、小田原城攻略戦では、小田原を囲む豊臣軍陣地に市が立てられ、兵糧が売られた。)で確保することが可能になった。 

 こうした大軍による長期運用を可能にした秀吉軍は、戦国時代において軍事的に画期的な役割を果たしたといえる。

 

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 参考文献 

久保健一郎『歴史文化ライブラリー415 戦国大名の兵糧事情』吉川弘文館、2015年

西股総生『戦国の軍隊』角川文庫、2017年

藤木久志『朝日選書579 戦国の村を行く』朝日新聞出版、1997年

マーチン・ファン・クレフェルト著、佐藤佐三郎訳『補給戦-何が勝敗を決定するのか』中公文庫、2006年