古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十五 奉行衆の主な三つの権能

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 今回は、豊臣公議の奉行衆の主な権能について書きます。

 

 秀吉の晩年、いわゆる五奉行前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)が、有力外様大名グループといえる五大老と協力・連携して、秀吉死後、幼君秀頼公が成人するまで政権を担う後見役として指名されました。

 

 この五大老五奉行の十人の衆とは、会社でいえば取締役会の取締役であり、秀吉社長死後の豊臣株式会社の運営を任された存在です。

 秀頼は幼年であり、豊臣株式会社の社長と言いながら、実際には実権はありません。五大老は、社外取締役です。彼らは、豊臣公議の正当性の根拠である「軍事力」を保証するメンバーです。彼らは、いずれも大大名ですが、彼らは一義的には、彼らが支配する領域の支配者なのであり、豊臣公議自体の大まかな方向性についての討議には参加しますが、公議の実質的な運営を執行するのは、これまでも豊臣公議を実質的に執行してきた社内取締役といえる五奉行という事になります。

 

 つまりは五大老の方が家格・軍事力ともに五奉行より遙かに上ですが、彼らは「外部から」豊臣公議を助言・指導する立場にあります。実際に豊臣公議の中心となって具体的な事業を執行するのは、五奉行となります。そして、五奉行が指名される以前から、奉行衆は豊臣公議の中核として事業を執行していました。

 

1.奉行衆の主な権能とは何か?

 

 奉行衆の主な権能は、(1)外交、(2)幕僚、(3)行政の3つです。以下順に説明します。

 

(1)外交

 奉行衆は、外様大名との外交(取次・指南)を行いました。例えば、石田三成は、津軽家、上杉家、佐竹家、真田家、毛利家、島津家等の取次を、浅野長政は南部家、伊達家等の取次、増田長盛は長宗我部家、里見家等の取次を行っています。

 また、前田玄以は、朝廷・寺社外交を一手に引き受けていました。

 

「取次」が行った主な職務について以下に書きます。

 

① 豊臣公議の大名に対する外交政策の基本方針は、全国に「惣無事」体制を遵守させることであり、この政策方針は日本すべての大名に適用されます。大名同士の「境目相論」等が発生した場合は、秀吉が「境目」の裁定を下しますが、取次が取次先大名の弁護人として裁定に関わります。

 

② また、(3)行政で示すような、太閤検地や刀狩り等の全国的な「豊臣行政改革」の執行を各大名に「指南」するのも取次である奉行衆の仕事です。

 

③「唐入り」や普請における大名に対する賦役・軍役・在番の指示も取次を通して行われました。

 

 彼らの彼ら「取次」の秀吉への進言により、その大名家の浮沈がかかっており、「取次」の各大名の権力は絶大でした。

 また、彼ら「取次」の指南する太閤検地等の豊臣行政改革の指導を受け、改革を行うことによって、大名達は中世の脆弱な大名権力から、近世の専制的大名権力体制に成長することができるため、「豊臣行政改革」を受け入れることは、大名自身の権力強化のためには良い側面もありました。

 このため、豊臣公議の「取次」と外様大名win-winの関係になることが多かったのです。

 こうした事により、慶長五年の天下分け目の戦いにおいては、西軍(豊臣公議軍)がなぜか(取次である奉行衆と繋がりの深い)外様大名連合軍が中心となる奇妙な構図を形成することになります。

 

(2)幕僚

 よく、石田三成増田長盛長束正家らは、豊臣軍の兵站を担ったため、「兵站奉行」と評されることが多いのですが、それは彼らの一面的な役割を示したものであり、彼らの豊臣軍における本来の立ち位置を理解することができません。

 彼らを評するのに、「兵站奉行」とのみ表現するのは適当ではなく、豊臣軍の総指揮官秀吉を補佐する「幕僚」と呼ぶのが、最も適当と考えられます。

 

 フランスのナポレオンの幕僚を務めたことがある軍事思想家のアントワーヌ・アンリ・ジョミニは、著作の『戦争概論』で以下のように述べています。(ページは該当書のページ数)

ロジスティクス(筆者注:「兵站」のことです)という用語は、われわれの知るとおり、兵站監(major gènèal des logis,ドイツ語のQuartiermeistetr の訳)から由来している。この将校の職分は、かつては部隊を宿営させ、縦隊の行軍を支持し、そして彼等を某地域に陣取らせることであった。ロジスティクスはこの場合全く限られたものでしかなかった。だが戦争が天幕なしでも敢行されるようになったとき、軍の移動は一層複雑なものとなり、そして幕僚は従来以上に広範な機能を果たすようになった。幕僚の長は戦域の遠隔地まで指揮官の意図を伝え、そして彼のため作戦計画策定に必要な文書を整えはじめた。すなわち幕僚長は、指揮官を補佐するため、これが計画を具体化し、部下指揮官に命令指示としてこれら計画の内容を伝え、これを説明し、かつ巨細にわたりこれが実行を監督することを求められるようになった。従って彼の職分は作戦の全般にまたがることになったのである。」(p172~3)

 

 もちろん、ジョミニは19世紀のスイスの軍事思想家であり、16世紀の日本の豊臣軍の事を論じた訳ではありませんが、豊臣秀吉が数十万の軍隊を組織し、補給を整えて、統合した作戦を長期運用するためには、幕下に指揮官秀吉を補佐し作戦を遂行するための専門的スタッフである幕僚を組織することが必須になったといえます。

 その幕僚の役割を兵站奉行と呼ばれる奉行衆が担うことになります。

 

 秀吉軍は遠征において、対織田信雄徳川家康連合軍戦では十万人、九州島津征伐では十八万人、関東小田原征伐では二十一・二万の大軍を展開し、長期に渡って運用することによって勝利を収めています。このような遠征における大軍の長期運用は、戦国時代において豊臣秀吉のみができたものであり、この大軍を長期運用できる能力自体が秀吉の天下統一を成し遂げた原動力だったといえるでしょう。

 

関連エントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

(3)行政

 豊臣公議は、全国に改革を推し進めることになります。その主な改革が、太閤検地であり、刀狩りでした。

 太閤検地については、以下で書きました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 刀狩りについては、従来は村にある百姓の武器をすべて没収したように見られていましたが、実際にはすべての武器が没収された訳ではなく、主に百姓の「刀」を取り上げて帯刀を許さないことによって、帯刀を許されるのは武士のみとし、武士と百姓の身分コードを形成したのが主目的とされています。

 つまり、武士以外に刀の帯刀を認めない事により、身分を外見的にも明確にする、武士・百姓の身分の分離・統制令として「刀狩り」という政策があったといえます。

 

 こうした政策を豊臣奉行衆は全国に展開していくことになります。

 

 この他、奉行衆は、全国に散らばった豊臣公議約220万石にわたる蔵入地の管理を行い、豊臣家の財政運営を行っていました。

 実際の蔵入地を直接管理するのは、派遣された代官か近隣の大名が代官となって行うことになります。蔵入地の大名は厳正な蔵入地管理が求められ、そこから得られた年貢は当然豊臣家に上納する必要がありました。

 この全国蔵入地の年貢の上納の管理を奉行衆が受け持っていました。上納が滞る場合は奉行衆から厳しい督促があり、これは奉行衆と蔵入地を管理する大名達との軋轢を生んだ可能性があります。豊臣蔵入地を管理するのは豊臣家譜代大名が多く、利害関係を共有しない秀吉死後奉行衆と豊臣家譜代大名が対立する、対立までいかなくても距離をおかれる原因のひとつとなったと考えられます。

 

 また、京都奉行・所司代や堺奉行などの都市行政を行うことも、奉行衆の権能のひとつでした。

 

 以上を見てきても、奉行衆の権能は、行政・外交・軍事に幅広く広がっていることが分かります。

 

2.奉行衆は「吏僚派」ではない。

 

 さて、従来、奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶ方が一部いますが、実はその呼称自体が多大な問題をはらんでいると思われます。

 というのは、(2)の奉行衆の「幕僚」としての機能こそが、彼らの軍事における専門的権能でした。

 奉行衆の遠征における大軍の長期運用・兵站管理能力が、織田信雄徳川家康を臣従に追い込み、九州島津攻め、北条攻め等を勝利に導いて、秀吉の天下統一を支えました。奉行衆こそが、秀吉軍が「常勝」である原動力・中核だったといえます。 

 このため、彼ら奉行衆は武官であり、また軍の中心にいる存在であるといえ、それを「吏僚」「官僚」と呼んでしまうと、彼らの軍事の中核たる幕僚の活動を、まるで軍事ではないかように見られてしまいかねません。

 だから、彼ら奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶのは非常に問題のある呼称といえるでしょう。

 奉行衆の主な権能の一つに(3)行政もあり、行政官僚としての奉行衆も重要な権能のひとつですが、奉行衆を「吏僚」と見るのは、奉行衆の幅広い権能を狭く見る一面的な見方だといえます。

 

 また、この「幕僚」としての奉行衆の能力に対する当時の戦国武将たちの評価は、関ヶ原の戦いの西軍・東軍の構図に大きな影響を与えたと考えます。

 

 豊臣軍と対峙して戦った、また対峙することはなかったにしても、戦う事をシミュレーションしてみた外様大名にしてみると、豊臣軍は驚異の存在だったでしょう。

 戦国時代の常識では、遠路はるばる十万・二十万の大軍がやってくることが考えにくく、もしやってきたとしても大軍ゆえに兵粮が尽きてすぐに撤退せざるを得なくなってしまうことが当然想定されたからです。

 当然、彼らにしてみれば、大軍による遠征軍の一番の弱点である兵粮が尽きることを待って(彼らの兵糧が尽きる)持久戦に持ち込もうとすることが、主な作戦となります。ところが、相手方の兵糧は尽きないため、あきらめて結局降伏するより他ない訳です。

 こうした、大軍の長期運用を可能にした豊臣軍幕僚=奉行衆によって、これまでの戦国時代の戦争の常識は打ち破られました。彼ら奉行衆は「武人」として戦争自体の概念を塗り替える存在として、外様大名にとっては畏敬の存在となったでしょう。

 彼ら奉行衆が「取次」として、外様の大大名と対等に渡り合えたのも、大名達から、奉行衆の「武人」としての能力への畏敬の念があったからだと思われます。

 

 一方で、他の豊臣譜代大名にしてみれば、奉行衆は出世競争のライバルに過ぎませんので、彼らが評価されれば、自分たちが出世競争で遅れるだけの話になります。このため、彼らが奉行衆の能力を正当に評価するメリットはありません。

 だから、彼らが奉行衆の能力をなるべく低く評価しようとするのは、ある意味当たり前なのです。互いの能力を認め合い称え合うスポーツマンシップのようなものを戦国武将に期待するのは無駄なことです。

 戦国大名の配下家臣団は互いに、あちらが上がれば、必然的にこちらが下がる「ライバル」同士なのであり、基本的に仲良し集団という事は有り得ない事について注意が必要です。

 

 なお、(「吏僚派」と対立する意味での)「武断派」なる派閥も存在しません。彼らが結局東軍についたのは、秀吉死後の実力者としての徳川家康との結びつきを重視したが故であり、彼らの多くが徳川家と縁戚関係を結んでいます。つまりは、彼らは「徳川派」と呼ばれるべきです。

 これを存在しない派閥である「武断派」等と呼んでしまうと、まるでそのような派閥が存在したかのような誤解を生んでしまいますし、彼らが「徳川派」である事の本質から外れてしまう恐れがでてきてしまいます。

 

3.関ヶ原の戦いにおける奇妙な構図

 

 関ヶ原の戦いを中心とする慶長五年の「天下分け目の戦い」を見ると奇妙な構図になっていることが分かります。

 

 西軍をみると、奉行衆(前田玄以増田長盛長束正家石田三成大谷吉継)、豊臣準御一門衆(宇喜多秀家毛利秀元小早川秀秋(後に裏切り))の他に西軍の中核を占めたのは、豊臣家にとっては外様大名といえる、上杉景勝佐竹義宣(上杉と密約を結ぶも、実際には動き(け)ませんでしたが)、真田昌幸織田秀信毛利輝元長宗我部盛親立花宗茂島津義弘らです。

 

 これに対して、東軍には豊臣恩顧大名とされる、福島正則加藤清正藤堂高虎細川忠興黒田長政らは家康にこぞって付きます。

 

 奉行衆は、外様大名への「取次」役を担うことにより、多くの外様大名からの信頼を受け、彼らは西軍につくことになります。一方、豊臣譜代大名は、奉行衆とは「取次」関係にはなく、むしろ蔵入地管理等を通じて、厳しく奉行衆から管理・統制される立場であり、唐入りの恩賞も秀吉死後はないに等しく、奉行衆に対して好感を抱いておりませんでした。

 そして、秀吉死後、奉行衆が運営する豊臣公議は、自分達の利益を反映するものではないと、彼らは考えました。

 

 この時代の大名達は「唐入り」により多大な兵の損耗、戦費の負担、重税による農村の荒廃により疲弊に喘いでいました。

 しかし、秀吉死後、「唐入り」の論考行賞については、秀頼が成人するまで基本的に加増等は凍結されました。「唐入り」の失敗により、新たな土地を切りとれなかった以上、そこをあえて土地を加増するならば、豊臣蔵入地より削る他ありません。豊臣蔵入地を管理する奉行衆としては、これを勝手な判断で認めるという事は、豊臣家に対する違背を問われ、できることではありませんでした。

 これにより、秀吉死後に「唐入り」諸将への加増は、撤退に際して抜群の働きをした島津家以外には、与えられませんでした。

 このため、特に豊臣譜代大名を中心に、「唐入り」への恩賞がないことに対する不満が高まることになります。

 

 これに対して、徳川家康は、不満を持つ彼らに利益をもたらす存在だと受け止められたということになります。しかし、その家康が「(諸大名に対して)利益をもたらすという事」は、日本国内に標的(前田利長あるいは上杉景勝)を作り出し、内戦を引き起こして勝利することによって、豊臣家から恩賞・加増を引き出して諸大名にばらまき、豊臣家を弱体化させる、という目論見だった訳ですが。

 

 こうして、豊臣方である西軍に多くの外様大名がつき、徳川方(東軍)に多くの豊臣譜代大名がつくという、ねじれの構図が天下分け目の戦いにおいて現出することになります。

 

(注)「譜代大名」も「外様大名」も当時の呼称ではなく、歴史用語としても江戸時代の大名の分類として使われる用語ですが、便宜的にここでは使用しました。よろしくお願いします。(特に譜代の使い方は厳密に言えば、適当ではないかもしれませんが、ご容赦願います。)

 

 参考文献

小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

ジョミニ著、佐藤徳太郎訳『戦争概論』中公文庫、2001年

平井上総『[中世から近世へ]兵農分離はあったのか』平凡社、2017年