古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

佐竹義宣と石田三成について①

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 常陸の大名佐竹氏は、天正十一年以前から中央の羽柴秀吉への接近をすすめていました。これは、同年四月一日佐竹義重上杉景勝に送った書状のなかで、「義重の事は、秀吉へ無二に申し通し候」(*1)と述べており、それより以前に両者の通交が成立していたことが分かります。

 佐竹氏を含む北条氏に従属しない北関東の大名・国衆は、南関東の大勢力である北条氏と対立・抗争を繰り返しており、北条への牽制のため中央の秀吉と結びつく必要がありました。

天正十二(1584)年に、秀吉と、織田信雄徳川家康の対立が深まり、小牧・長久手合戦等の戦が起こると、家康は北条氏との同盟関係を強化しますので、秀吉の方としても、北条氏が家康に援軍等を送らないように牽制をさせるため、遠交近攻の外交術として佐竹氏ら北関東の大名と同盟関係を築く必要がありました。

この頃より、石田三成は秀吉の下で佐竹氏・宇都宮氏・多賀谷氏等の北関東、特に常陸国の大名・国衆との書状の取次や副状の発出を行っており、佐竹氏らとの外交を行っていたことが分かります。

天正十七(1589)年六月に出羽米沢の伊達政宗が奥州会津の芦名義広領に侵入し、義広とそれを支える佐竹義重・義宣(義広は義重の子、義宣の弟です)連合軍を擦上原で打ち破り会津領を奪取します。

これに対して三成は芦名家臣に対して鉄砲・火薬・兵糧等を送り、芦名氏を救援しています。秀吉は政宗会津奪取を「惣無事」令違反として糾弾しましたが、これに対して政宗は弁明をして恭順を装いつつ、越後国内の津川城に拠っていた芦名家臣の金上盛実を攻め、三成の救援もむなしく盛実は九月に政宗に降伏することとなります。

 同年十一月、秀吉の裁定で真田領とされた名胡桃城を北条氏が奪取する事件(名胡桃城事件)が発生し、秀吉はこれに対する北条氏の非義を責め、翌年三月に秀吉は北条攻めのため大軍を率いて出陣し、四月には北条の小田原城を包囲します。

 三成は、秀吉の陣中にあって佐竹義宣らに戦況を細かく伝えています。五月二十六日、秀吉との謁見のため相州平塚に着陣した佐竹義宣に従う、佐竹一族の重臣、佐竹(東)義久に対して、三成は書状を発します。(現代語訳のみ引用します。)

 

「◇態々(わざわざ)申し上げます。義宣殿、平塚までお着きのこと、何よりです。今日はそこでお休みになり、明日秀吉の本陣までお越しになればよいでしょう。これまであなた一人に佐竹の支配を任されてきました。義宣殿がまだ若いからでしょうか、最近は多くの御用を(義久)に仰せ付けられています。とはいえ、現状はすべてあなたの才覚に拠らないと何事も片付きません。義宣の御進物などが見劣りすると、佐竹家のためにはなりません。佐竹家の今後は、この時にかかっています。いっそう熟慮が必要です。佐竹一門のなかで、殿下(秀吉)が御存知なのは、あなた御一人です。何事であれ充分にお考え頂かないと、義宣殿は勿論、あなたの落ち度と(秀吉が)お思います。他の佐竹家中に遠慮することなく、これまで通り意見を通され、佐竹家が間違いのないように御分別頂くのはこの時です。なお、使者の嶋清興(左近)に詳細は申し含めているので、懇ろな手紙は控えます。」(*2)

 ちなみに佐竹氏当主・佐竹義宣は、この時21歳。佐竹(東)義久は、37歳。

 

 この書状について中野等氏は以下のように述べています。

「翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえ、義宣からの進物などについて、三成は細やかな配慮をみせている。しかしながら、書状の眼目は、若年の義宣を当主とする佐竹家を、義久がこれからも支え続けて行くべきである、との助言であろう。当主義宣の秀吉への初めての拝謁を翌日にひかえ、東義久の目にも側近三成の存在は頼もしく映ったことであろう。実際政権への服属も、佐竹家は旧に倍して三成への依存を強めていく。また、この書状から、三成が義宣の陣営に、嶋左近清興を使者として派遣したことがわかる。嶋清興については詳らかにできないが、大和の筒井順慶の家臣であったという。順慶の没後は蒲生氏郷に仕えたともいわれるが、この頃にはすでに三成に属していたことが分かる。こののち、嶋清興は東義久(佐竹中務大輔)や小貫氏を宛所として書状を発しており、「差出」や「陣替」、人質の差し出しなどに関して細やかな指示を行っている。」(*3)

 

 ②に続きます。

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  注

(*1)黒田基樹 2013年、p72

(*2)中野等 2017年、p107

(*3)中野等 2017年、p107

 

 参考文献

黒田基樹『敗者の日本史10 小田原合戦と北条氏』吉川弘文館、2013年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年