☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
前回のエントリーの続きです。
※前回のエントリーは、↓
天正十八(1590)年五月二十六日に、増田長盛・石田三成のはからいの元、秀吉に拝謁した佐竹義宣と、宇都宮・結城・多賀谷・天徳寺ら北関東の大名・国衆はその後、石田三成らとともに、館林・忍城の両城を攻めます。
まず、五月三十日に館林城を開城させた三成らは、続いて忍城を攻めます。三成の一隊が忍城に着いたのは、6月5日以降のことです。
忍城攻めの詳細については、下記で検討しました。↓
七月十七日に秀吉は小田原を発し、二十六日に下野宇都宮に入り「宇都宮仕置」を行います。
中野等氏によると、「ここで伊達政宗・最上義光・佐竹義宣をはじめ、岩城(陸奥岩城)・戸沢(出羽仙北)・南部(陸奥南部)といった諸大名の領知が確認された。なお、三成が久しく肩入れしてきた会津の旧主蘆名義広の独立大名としての復活は、実現しなかった。常陸国内を転戦していた義広は、結局秀吉への拝謁に遅れをとってしまったからである。ただし、遅参は理由のあるところでもあるし、実家佐竹家や石田三成の後ろ盾をうけ、佐竹家与力大名として存続することが認められている。以後、実名を盛重と改め、常陸の江戸崎を領することとなる。」(*1)とのことです。
(令和3年10月21日 追記)
天正十九(1591)年閏正月四日 ■佐竹義宣充て石田三成書状。黒川に諸将が集結しており、三成・義宣もここに参陣していた。
「◇先ほどはお出でい頂き感謝します。明日はそちらへ伺いますので、必ずお会いしお話をしたく存じます。鶴はそちらで料理頂くということですので、こちらから持参します。御茶はしばらく執着もしておりませんので(うまく点てられるか)どうかと思いますが、(とりあえず)明日持参いたします。御逢いできることを楽しみにしています。」(中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年、p132)
(令和3年10月21日 追記終了)
文禄三(1594)年の十月から年末にかけては、三成・長盛の家臣から奉行が派遣され佐竹領の検地が行われました。これにより佐竹氏の領知は従前の領知高二十七万五千八百石から五十四万五千八百石へとほぼ倍増となり、佐竹氏としての大名権力の基盤強化を確立します。(*2)
※関連エントリー↓
2.宇都宮国綱改易事件
慶長二(1597)年十月、佐竹義宣の従兄弟である下野国の大名・宇都宮国綱(国綱の母は、義宣の父義重の妹です)が突如改易され、縁戚である佐竹氏もこれに連座され処分されそうになるという事件が起こります。しかし、取次である石田三成の取り成しでこの時佐竹氏は処分をまぬがれ、事なきを得ることになります。
この改易事件の原因は、『栃木県の歴史』によると以下のように説明があります。
「慶長二(一五九七)年十月七日、宇都宮国綱はとつぜん秀吉から所領没収のうえ備前国の宇喜多秀家預けとする改易処分をいいわたされた。これを近世後期の歴史書『宇都宮史』(下野庵宮住編著)は、「宇都宮崩れ」と称し、その原因を浅野氏による検地の結果と記している。検地の結果が「大幅な打ち出し」となり国綱による所領高の報告に誤りがあることが発覚、秀吉の怒りを買ったというのである。ついに十月十四日、国綱は上意にしたがい城を立ちのき、同時に譜代相伝の臣たちも一挙に浪々の身となり果てたという。国綱の宇都宮出立には、ゆかりの寺院わずか六カ寺が京まで供をしたと伝えている。
なお、『宇都宮史』は、国綱改易の原因について、前節とは異なる説のあったことも紹介している。すなわち、宇都宮氏の家督をめぐる家臣内部の抗争を主因とする説である。国綱に継嗣がないため、重臣の今泉四郎兵衛・菊池松音軒らが、浅野長政の次男長重を養子に迎えようと話を進めていた。これに国綱の弟芳賀高武が宇都宮氏に嗣子なきときは芳賀氏より相続するのが習いであると強く反対し、即座に兵を動かし今泉・菊池の両家を攻めたため、内部抗争が露見し、しかも浅野長政が通告したことから秀吉の不興を買い、国綱の所領はもちろん、一門類葉、多功・芳賀氏に至るまで所領を没収されたというのである。「御家騒動」を引きおこした家臣間の内部抗争の背後には、彼らがそれぞれに気脈をつうじていた浅野氏と石田氏との秀吉政権内部における権力闘争の存在を指摘するむきもある。」(*3)
上記で述べられた原因についてですが、前者の「所領高の報告に誤りがあることが発覚」については、そもそも検地をすれば「大幅な打ち出し」になるのは、佐竹氏や島津氏で行われた太閤検地をみれば明らかなことであり、「大幅な打ち出し」があったから、「所領高の報告の誤りがあった」という事にはなりません。(そのように無理矢理の屁理屈を秀吉や長政がつけたというならば別ですが。)後者の「宇都宮氏の家督をめぐる家臣内部の抗争」が主因という説が妥当と考えられます。
いずれにしても、この宇都宮国綱改易事件には浅野長政が関与していたと考えられます。
この事件については、五奉行のうち、佐竹氏の取次である石田三成・増田長盛と、宇都宮氏を与力大名として従えていた浅野長政の対立を引き起こし、秀吉死後に五奉行の中で三成・長盛が長政に対して不信感を抱き、距離を隔てる原因となった事件といえますので、下記に詳細について検討したいと思います。
(以下、梯弘人「豊臣期関東における浅野長政」(『学習院史学49,12011-03』所収)を主に参照・引用しました。)
まず、宇都宮国綱宛に上洛を呼び掛ける天正十四(1586)年三月十一日付の石田三成書状から、はじめに宇都宮国綱と豊臣政権との窓口になっていたのでは石田三成です。(*4)
そして、佐竹義宣とともに石垣山(小田原市)において国綱は、秀吉に出仕し、正式に豊臣大名として認知されることになりました。この出仕に際しては石田三成と増田長盛が仲介を行っています。(*5)
また、その後朝鮮出兵の際に、宇都宮氏をはじめとして里見氏、那須氏、成田氏が「増田右衛門尉一手」として増田長盛の指揮下に編成され、釜山浦の城普請工事に動員されていたことが当時の書状から確認できます。ただし、この指揮関係は朝鮮出兵晋州城攻撃に際して作成された一時的な計画であり、増田長盛が軍事指揮をふくむ政権からの上意下達を、恒常的に担った取次であったかどうかまでは不明とされます。その宇都宮氏と増田長盛の関係も以下の書状により、政権中枢の政策によって上から変更されました。(*6)
以下、梯弘人氏の「豊臣期関東における浅野長政」から引用します。
「史料三 豊臣秀吉領地判物
甲斐国之事、令扶助之訖、全可領知候、但此内壱万石、為御蔵入、令執沙汰、可運上候、并羽柴大崎侍従(伊達政宗)、南部大膳大夫(南部信直)、宇都宮弥三郎、那須太郎、同那須衆、成田下総守事、為与力被仰付候之条、成其意、可取次候也、
文禄弐
十一月廿日 (秀吉花押)
本史料は文禄二年に浅野長政・幸長親子にあてて出されたものである。内容は浅野親子に甲斐国を宛行い、伊達氏、南部氏、宇都宮氏、那須氏、那須衆(那須地方の小領主層)、成田氏を「与力」として編成し、これらの領主たちの「取次」を行うよう命令を下したものである。文禄二年の十一月時点において、朝鮮半島では一時的な講和が成立し、具体的な軍事作戦が計画されている状況下ではない。つまり軍事作戦という臨時的な状況下における編成ではなく、ある程度恒常的な関係として「与力」の編成が行われたと考えられる。
甲斐国の領有と抱き合わせの命令であるところから、徳川家康対策であると考えられ、いざ徳川氏との合戦になったら、浅野長政が彼らを軍事指揮下において、戦闘が行われるという想定でのものであろう。
この浅野長政の「与力」編成と「取次」の任命という事象は、増田長盛の段階からの発展をみることができる。編成される領主の中に下野の領主に加えて伊達氏、南部氏が加えられた。その上、軍事指揮権のみではなく、地方領主の豊臣大名化の推進と、それぞれの領国への介入・領主への統制に関する権限を持つことになった。浅野長政に対して上から権限を設定したことは、豊臣政権の地方統制を考える上で、その意義は大きいと評価できよう。
さて、宇都宮氏と浅野長政の関係として注目すべきは、宇都宮領検地実行に浅野長政が関与している点である。文禄四年(一五九六)、文禄五年(一五九七)に作成された検地帳に浅野氏の関与が確認できる。恒常的な関係で、なおかつ地方領主の豊臣大名化を進めているところから、浅野長政は宇都宮国綱の取次であったと評価できよう。」(*7)
つまり、宇都宮氏に対する豊臣政権の窓口は、はじめは増田長盛・石田三成であり、宇都宮氏は長盛・三成との関係が深かったわけですが、文禄二年十一月二十日から、宇都宮氏は浅野長政の「与力」として、秀吉政権に位置付けられたということです。
次に、慶長二年(一五九七)におきた宇都宮国綱改易事件について、前掲書より引用します。
「改易された宇都宮国綱は岡山に蟄居することとなった。その頃に作成されたのが史料四である。
史料四
宇都宮国綱書状
返々、早々為脚力承候、忝候、宇都宮之様子何と候哉、一切不相聞候、以上、
来札披見、忝候、仍不斗様子を以身上相果候、天道浅間敷存迄候、然者、西国備前岡山へ可罷下由御諚候間、即罷下、岡山近辺号鷹辺山家ニ指入居候、増右(増田長盛)・石治(石田三成)内存少も不相替懇切候間、其憑迄候、其方事何様ニも関東中堪忍候様、尤候、当国へ被打越事、遠境と云、爰元堪忍無調之儀と云、必此方へ之儀叶間敷候、其元取乱之様、令推量、扠々痛間敷候由存候、尤身之手前之儀可有推量候、巨細追々可申遣候、恐々謹言、
(慶長二年)霜月九日 国綱(花押)
「七郎殿(結城朝綱) 国綱」(見返シ奥切封ウハ書)
本史料は「身上相果」という表現などから「宇都宮崩れ」直後に作成された史料であると考えられ、宇都宮国綱が弟である結城朝勝に近況を伝えたものである。宇都宮国綱は、突然改易された事は天道によるものであったとしても、あまりになげかわしいものだと記し、配流先の岡山にいることを伝えている。また増田長盛と石田三成はこれまでと変わらず懇切にしてくれるので、彼等を頼みとしていることを伝え、最後に手元不如意の状況を述べ、結城朝勝に岡山訪問を思いとどまって、関東にいるようにと述べている。
宇都宮氏への改易について「不斗様子を以身上相果」と宇都宮国綱は意識している。豊臣政権中枢における宇都宮氏の改易政策の立案と上申と、それが決定される過程そのものを宇都宮国綱は政権側から知らされていなかったことが推察される。宇都宮氏の身上に関する動きについて、本人に宣告されていないという状況である。
また、宇都宮氏と政権の繫がりを示す上で着目されるのは、宇都宮国綱が「与力」として付属した浅野長政ではなく、かつて取次関係が存在した石田三成・増田長盛を頼りにして地位の回復を期待している事実である。改易を主導したのが浅野長政と考えられるので、彼を頼るというのは無理がある。また地方領主が様々なルートを駆使して政権中枢に結びつき、身上保障を確実なものにしようとしてきた事例は既に周知のものである。石田三成を頼ったのは宇都宮国綱の妻の実家である、佐竹氏の取次であった関係からであろう。また、後述するように佐竹氏も「宇都宮崩れ」に巻き込まれるので、石田三成が関与する可能性が存在した。ここで大切なのは浅野長政と増田長盛や石田三成との関係性である。
宇都宮国綱は増田長盛や石田三成を頼り再起を期し、いわゆる慶長の役に際して渡海しているが、結局再興はならなかった。この事実は浅野長政が増田長盛や石田三成の運動を阻止することができたことをあらわすであろう。秀吉の朱印状により政権から設定された取次であった浅野長政は、宇都宮氏の身上に関する他の者を介した上申を排除する権力を持っていたのである。」(*8)
宇都宮国綱改易事件は、縁戚である佐竹氏も危うく連座され、処分されそうになりますが、三成の取り成しで処分を免れることとなります。
「そして「宇都宮崩れ」における佐竹義宣と石田三成の関係を示す史料が次のものである。
史料五
佐竹義宣書状写
猶々、宇都宮闕所ニ付而、宮之荷物一駄も我等分国中へ相透申候ハヽ、可為曲事由、かたく冶部少輔を以被仰付候間、半途よりも太田の留守居へ被仰越、宮之荷物一たんもとをし不申様ニ可被仰付候事、肝要ニ候、境目へハ涯分申付候、以上、急度以早飛脚申入候、宇都宮殿御不奉公有之ニ付而、闕所ニ被仰付候、千本・伊王野、是も闕所ニ被仰付候、就之我等身上なとへも、上様より仰出之儀も御座候、冶少被入御念被仰分候間、身上相続候て満足仕候、むさといたしたる義をも申唱候共、御本ニ有間敷候、次御手前御上洛之事、達候者、冶部少輔殿直御断ニ候、神も偽無之候、一刻も早速御稼、御登尤候、宇都宮へ浅野弾正方為御検使被罷下候、路地中ニ而はるかに御よけ被成、御手前御上洛之儀を弾正方不被存候様ニ御透候へと、冶少御内儀にて候、何も少之儀も上様御耳へ此中猶以入申候間、遥に無御登候間、一刻も早速御登可然之由被仰事にて候、尚御登之上可得御意候間、不宣候、恐々謹言、
(慶長二年) 次郎
十月七日 義宣(花押)
御北城(佐竹義重) 人々御中
本史料は佐竹義宣から父である佐竹義重に送られた書状である。内容は「宇都宮崩れ」に関わるものである。まず宇都宮氏、那須衆の千本・伊王野氏に対して、秀吉から改易命令が出たことが述べられている。宇都宮氏の改易理由は「御不奉公」としており、具体的な理由までは判明しない。
続いて佐竹氏へも改易命令が下ったものの、石田三成の取り成しによって、佐竹氏の存続が認められたことが述べられている。取次であった石田三成が佐竹氏のために動き、それによって佐竹氏の身上保障が為されたことを確認できる。
更に、石田三成から佐竹義宣への「内儀」として以下のことが伝えられている。佐竹義重の一刻も早い上洛が必要であるが、宇都宮領への検使として浅野長政の関係者が向かうので、浅野方に佐竹義重の行動が悟られないように、気をつけて上洛するようにということであった。また追而書では、宇都宮領からの荷物を佐竹領に通さないようにと石田三成を通じて命令があったので、佐竹義宣が国境に命令を下したということが記されている。
以上の内容から「宇都宮崩れ」を主導したのは、浅野長政であったと考えて良いであろう。また、佐竹義重の上洛が浅野方に知られてはまずい事態に発展する可能性を秘めていたことも推測できる。例えば、佐竹義重の活動を謀反の動きとして捉えられ、浅野方の介入を許してしまうとか、佐竹義重の上洛が妨害され、佐竹氏による弁明・上申が不可能とされるような事態を想定するのは不可能ではあるまい。いずれにせよ、浅野氏との緊張関係にあったことが窺われる。宇都宮領の処分は政権の意思として決定しており、それに沿った形での石田三成の指示伝達である。本史料中における石田三成の佐竹氏への関与は、「御内儀」として内々の指示・指導という形であったこともそれを裏付けよう。そして石田三成は佐竹氏への改易処分を事前に阻止するという形で動いたわけではなく、佐竹義宣も秀吉の命令が一旦下ったと認識している。浅野長政の発言力が強かったことを示していよう。
一方で、一旦下された決定を覆すという形で、石田三成による取り成しが成功している点も見逃せない。浅野長政と石田三成が完全に上下関係のみで編成されていたならば、石田三成は浅野長政の動向を制約することができずに、佐竹氏も宇都宮氏ともども改易されていたであろう。つまり、石田三成が佐竹氏の取次であり、佐竹氏からの下意上達に関する権限において、指揮を受けることはなかったと見てよいだろう。そのため、石田三成は佐竹氏へ下された命令を撤回させ、佐竹氏の存続が認められたと考えられる。佐竹氏の取次ではなかった浅野長政に対して介入する隙を与えなければ、むやみに佐竹氏が取り潰されることはなかったということがいえよう。
以上の状況から、「宇都宮崩れ」を巡る状況における石田三成と浅野長政の関係を考察していきたい。
浅野長政は宇都宮氏、佐竹氏への改易処分を主導し、宇都宮領接収にも関与していた。改易命令が下された宇都宮氏は浅野長政の「与力」であり、その上「取次」を受ける立場にあった。一方で、佐竹氏は浅野長政との関係は確認できず、石田三成との強いつながりが存在した。
その石田三成は「宇都宮崩れ」に際して、浅野長政の主導する状況の下で活動することとなった。その中で取次関係にあった佐竹氏の取り成しを行い、佐竹氏に対する改易命令は撤回され、佐竹氏の存続が果たされた。しかし、佐竹義重の上洛が浅野方に知られたり、宇都宮領接収の検使である浅野氏関係者に見つかったりする危険性について、気を配らなくてはいけなかった。その上、宇都宮領の荷物が佐竹領に流入しないように警戒する必要もあった。佐竹氏への改易命令が撤回されたとはいえ、浅野長政に隙を見せないようにする必要があった。取次であった石田三成の行動が、そのまま政権の意志として反映されたというわけではなかったことが分かる。
ただし、佐竹氏へ「内儀」を伝え、行動に気をつけていれば浅野長政であっても容易に付け入ることができなかったといえよう。浅野長政は石田三成の上申を阻止する地位にはなかったが、佐竹氏に対する秀吉の意向を左右する力を持っていた。
「宇都宮崩れ」を巡る状況においては、浅野長政に大きな権限や主導性が認められる。つまり、浅野長政は政権の意志決定に関与しうる立場にあったと言えよう。ところが、佐竹氏への改易命令は石田三成を介する上申によって撤回されてしまった。すなわち、「取次」という視点から見れば浅野長政と石田三成の関係は単純な上下階層関係ではなく、「並列」と考えたほうが妥当ではないだろうか。石田三成と佐竹氏との取次関係に対して、浅野長政は外部にあった存在だったと考えられる。つまり、政権の内部において取次と地方領主の関係を解消するためには、秀吉の意思によらねばならなかったと考えられるであろう。「上から」設定された取次であれば、秀吉による解任がなければ、各地方領主と独占的に関係を持つことができたと位置づけることができるだろう。
結局浅野長政は、佐竹氏への改易命令を貫徹させることはできなかった。それは石田三成が佐竹氏の取次だったためであった。浅野長政は秀吉の意志決定に大きな影響力を有していたが、石田三成による佐竹氏の意志を上申する行動を阻止できるような関係は持っていなかった。そこに浅野長政の限界があったと評価することができる。
また一方の佐竹氏は、従来関係を持っていた石田三成を頼り「内儀」の指導まで受けることによって存続を果たした。その取次であった石田三成は、政権の意志決定に直接参与し、改易命令を事前に阻止することはできなかったが、改易命令を撤回させることに成功した。石田三成による佐竹氏の囲い込みが奏功したと位置づけることができるだろう。こうした関係が、後年関ヶ原合戦時に佐竹義宣が西軍よりの動きをする理由の一つになったと推測できる。」(*8)と梯弘人氏は述べています。
3.まとめ
以上から以下のことが分かります。
(1)秀吉の天下統一以前は、増田長盛・石田三成が、佐竹氏・宇都宮氏の取次を務めており、交友関係も深かったのですが、おそらく秀吉の方針により、文禄二年十一月二十日以降は、宇都宮氏は浅野長政の「与力大名」として、長政の従属下に組み込まれることになりました。これに対して、佐竹氏はそのまま長盛・三成との取次関係が維持されることになります。
(2)慶長二年十月の宇都宮国綱改易事件においては、長盛・三成の働きかけは通らず、宇都宮氏を与力として従える浅野長政の意向が通り、宇都宮氏については改易となり、復領も結局認められませんでした。
しかし、佐竹氏については、長政の介入は成功せず、長盛・三成の取り成しが通り、佐竹氏は処分を受けず無事に済みました。そのためには長政に付け入られる隙を与えないために用心する必要があり、三成らは色々と佐竹氏に助言する必要がありました。
(3)長盛・三成は、かつて秀吉政権側の連絡の窓口となり、交友関係もあった宇都宮氏を長政の画策により改易に追い込まれ、長盛・三成の働きかけにも関わらず結局復領はなりませんでした。
その上、取次先の佐竹氏の改易まで介入され、危うく佐竹氏も改易に追い込まれるところでした。長盛・三成としては、長政に武将としての面目を潰されたも同然であり、この事が秀吉の死後に長政に不信感を抱き、距離を置かれる原因となったと考えられます。
この五奉行内の対立関係・相互不信が、後の七将襲撃事件で長政の子の幸長が七将襲撃事件に加わることに関わってくるのではないかと思われます。
なお、従来の説で、浅野長政は秀次事件において連座して一時期失脚しており、その裏には長盛・三成の陰謀があったかのような説がありますが、実際の長政と秀次事件との関わりは不明であり、またそもそも、幸長が能登へ配流処分となったのは、秀次事件(文禄四(1595年)の翌年の文禄五(1596)年であり、秀次事件と直接関係があったのかも不明ですし、これについて長盛・三成が関与をしていたという史料もありません。
※詳細は、下記エントリーを参照願います。↓
※以下のような記事も、三成が「武闘派」を召し抱えたという視点だけではなく、宇都宮氏と交友関係のあった三成が、改易された宇都宮氏の一族、芳賀高武を召し抱えた、という視点でも見ると良いかと思います。↓
③に続きます。(作成中)
注
(*1)中野等 2017年、p115
(*2)中野等 2017年、p245~246、252~253
(*3)阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良 1998年、p163~164
(*4)中野等 2017年、p33~34
(*5)梯弘人 2011年、p20~21
(*6)梯弘人 2011年、p21~22
(*7)梯弘人 2011年、p22~23
(*8)梯弘人 2011年、p23~24
(*9)梯弘人 2011年、p24~27
参考文献
阿部昭・橋本澄朗・千田孝明・大嶽浩良『栃木県の歴史』山川出版社、1998年