古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十六 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況①

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 豊臣秀吉死去前後の状況について、イエズス会が日本年報で報告しています。

 

 家入敏光訳「一五九八年十月三日(※筆者注:(日)慶長三年九月三日)付、長崎発信、フランスシスコ・パシオのイエズス会総長宛、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p105~108)より、以下抜粋します。

(※イエズス会が記す西暦と和暦では、丁度1か月ずれているようです。(和暦の方が西暦より1か月早い。)以下では、西暦の表示の後で和暦を(※(日)〇月〇日)と記載します。(筆者の追記で、原文にはありませんのでよろしくお願いします。))

 

「国王(太閤様)は、伏見城に滞在していた(一五九八年)六月(※(日)五月)の終りに赤痢を患い、よくあることだが、時ならず胃痛を訴えるようになった。当初は生命の危険などまったく懸念されはしなかったが、上記のように八月五日(※(日)七月五日)に病状は悪化して生命は絶望とされるに至った。だが太閤様はこの時に及んでも、まるで健康体であるかのように、不屈の剛気と異常な賢明さで、〔従来、万事においてそうであったのだが〕身辺のことを処理し始めた。そして太閤様は自分(亡き)後、六歳になる息子(秀頼)を王国の後継者として残す(方法)について考えを纏めあげた。太閤様は、関東の大名で八カ国を領有し、日本中でもっとも有力、かつ戦においてはきわめて勇敢な武将であり、貴顕の生まれで、民衆にももっとも信頼されている(徳川)家康だけが、日本の政権を簒奪しようと思えば、それができる人物であることに思いを致し、この大名(家康)に非常な好意を示して、自分と堅い契りを結ばせようと決心して、彼が忠節を誓約せずにはおれぬようにした。

 すなわち太閤様は、居並ぶ重立った諸侯の前で、その大名(家康)を傍らに召して、次のように語った。「予は死んでゆくが、しょせん死は避けられぬことゆえ、これを辛いとは思わぬ。ただ少なからず憂慮されるのは、(まだ)王国を統治できぬ幼い息子を残してゆくことだ。そこで長らく思い巡らした挙句、①息子自らが王国(を支配する)にふさわしくなるまでの間、誰かに国政を委ねて、安全を期することにした。その任に当たる者は、権勢ともにもっとも抜群の者であらねばならぬが、予は貴殿を差し置いて他にいかなる適任者ありとは思われぬ。それゆえ、予は息子とともに日本の全土の統治を今や貴殿の掌中に委ねることにするが、貴殿は、予の息子が統治の任に堪える年齢に達したならば、かならずやその政権を息子に返してくれるものと期待している。その際、この盟約がいっそう鞏固なものとなり、かつ日本人が挙げて、いっそう慶賀してくれるよう、次のように取り計らいたい。②貴殿は、嗣子(秀忠)により、ようやく二歳を数える(孫)娘を得ておられるが、同女を予の息子と婚約させることによって、ともに縁を結ぼうではないか。かくて貴殿は、一方(同女)の祖父、同時に他方(予の息子)の父となり得よう」と。

 この言葉を聞いて家康は落涙を禁じえなかった。彼は、太閤様の死期が迫っていることに胸がいっぱいになり、大いなる悲しみに閉ざされるいっぽう、以上の(太閤様の)言葉に示されているように、太閤様の己に対する恩恵がどれほど深いかを、また太閤様の要望に対してどれだけ誠意を示し得ようかと思い巡らしたからであった。③だがこれに対して、次のように言う者がないわけではなかった。家康は狡猾で悪賢い人物であり、これまで非常に恐れていた太閤様も、ついに死ぬ(時が来た)のだと思い、随喜の涙を流したのだ。家康は、とりわけ、いとも久しく熱望していたように、今や(国家を)支配する権限を掌中に治めたのも同然となったことに落涙せざるを得なかったのだ、と。(それはともかく)家康は悲嘆の面持ちで、次のように答えた。

 「殿様、拙者は殿の先君(織田)信長(様)が亡くなられた頃には、三河の一国しか領しておりませんでした。しかるに殿が日本国を統治し始められて以後、さらに三か国を加えられ、その後久しからずして、殿の無上の恩恵と厚遇によって、その四ヵ国は、現在のように槻関東八ヵ国の所領に替えていただきました。拙者に対する恩恵は以上に留まらず、絶えずはなはだ多大の贈物を賜りました。殿は今後、拙者が生命を抛っても、御子息に対してあらゆる恭順、奉公を尽くすようにと、拙者ならびに拙者の子孫を解き難い絆で固く結ぼうとなさいます。拙者は当初、殿が御意向を示された折、拙者は粉骨砕身、もって王子(秀頼)へ主権(の移譲)が安泰たるよう、その後見人として励もうと決心しておりましたが、(今や)殿は、国王(秀頼)御身、ならびに国家の命運をも拙者の忠誠に委ねられ、また、かたじけなくも殿の御子息を(秀忠)の娘に、花婿として下さいます〔拙者にとり、これに過ぐる恩恵は、いまだかつてなきところでございます〕。かくて拙者は、大いなる愛の絆によって殿に縛られた奴隷にほかなりませず、今後は万難を排し、あらゆる障害を取り除き、もって殿のご要望なり御命令を達成いたす覚悟であります」と。

 このように家康が答えると、太閤様の面前へ嫁(家康の孫娘)が連れてこられ、時間が許すかぎり(太閤様の枕もとで)喜びと厳粛さのうちに結婚式が挙行された。それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、彼らは太閤様の嗣子に対しては、嗣子が成人した後には、その政権を掌握できるように尽力することを、また家康には対しては、その間尊敬と恭順の意を表すことを誓った。さらに太閤様は、その他の(より身分の)低い諸侯が、家康の屋敷で同じように誓うことを命じ、加えて、家臣たちの心を自分に固く結びつけ、彼らが太閤様の嗣子に対して忠節を尽くすようにと、金銀その他高価な品々を数多く分かち与えた。太閤様は非常に気前よく寛大さを示して、寡婦や古くからの下僕のような貧しい私人のことにも思い及び、それぞれの身分に応じて何らかの品を授けた。 

 ④太閤様はその後、四奉行に五番目の奉行として浅野弾正を加え、一同の筆頭とした。次いで太閤様は、奉行一同が家康を目上に仰ぐよう、また主君(秀頼)が時至れば日本の国王に就任できるよう配慮すべきこと、すべての大名や廷臣を現職に留め、⑤自分が公布した法令を何ら変革することなきようにと命じた。また確固たる平和と融合-これなくしてはいかなる国家も永続きできぬ-が諸侯の間に保たれるようにと、一同に対し、旧来の憎悪や不和を忘却し、相互に友好を温めるようにと命じた。

 そして太閤様は、領主たちの不和がとりわけ国家にとって不都合を生じ得るに鑑みて、彼らがそれぞれ息子や娘たちを婚姻関係で結ぶことによっていっそう団結することを希望した。また某の娘に養子をとらせ、同様に他の諸侯とも縁を組み、諸侯が大いに慶祝するようにした。それから国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常であったから、これを未然に防止しようとして、⑥太閤様は(日本中で)もっとも堅固な大坂城に新たに城壁をめぐらして難攻不落のもとし、場内には主要な大名たちが妻子とともに住めるように屋敷を造営させた。太閤様は、諸大名をこうしてまるで檻に閉じ込めたように自領の外に置いておくならば、彼らは容易に謀反を起こし得まいと考えたのであった。

 太閤様は、これらすべての企てが効を奏するためには、上記(大坂城)の普請が完成し、かつ朝鮮、日本両国に善かれ悪しかれ和平が締結されて、全諸侯が朝鮮から帰国するまでは自分の死が長らく秘されるがよい。かくて自分の息子の将来は、いっそう安泰になるであろうと考えたのであった。」(下線・番号、筆者)

 

コメント

1.イエズス会報告の上記の記述の部分はあくまで伝聞という事になります。(後のエントリーで引用するロドゥリーゲス師の秀吉との会見は直接ロドゥリーゲス師が見聞きした史料という事になります。)

 しかし、上記の記述はかなり詳細に書かれているため、おそらくこの秀吉や家康の発言を直接見聞き武将・大名から聞いた話といえるでしょう。ただし、どの大名から聞いた話なのかは書かれておりません。(小西・黒田らの主だったキリシタン大名は、朝鮮に在陣中ですので、誰から聞いたの話なのかまでは分かりません。)

また、この話をイエズス会に伝えた人物は、徳川家康に好意的な人物である事が上記の記述からも分かります。ただし、②にあるように報告では、この時点で既に家康の野心を警戒している人物もいた事も紹介しています。

2.上記の記述以外も含め、『イエズス会日本報告集』を通読すると、イエズス会は家康に好意的というか、かなり期待をかけていた事が分かります。

 なぜイエズス会が家康に期待をかけていたかというと、豊臣公議は、天正十五(1587)年の「バテレン追放令」以降、公的にキリシタンを弾圧していたからです。(弾圧しつつ、死の直前に宣教師ロドゥリーゲス師を呼んで好意を示すなど、秀吉の行動もよく分からない所がありますが。)豊臣の奉行衆の中には前田玄以石田三成等、イエズス会に同情的な者もいましたが、彼らは豊臣家の家臣であり、主君秀吉の決定した政策を覆す力はあまり期待できません。

 秀吉が行ったキリシタン弾圧政策を転換しキリスト教の布教を認め保護する政策を示す、新たに日本国を率いる力を持った指導者の出現をイエズス会は求めており、その新しい指導者として期待されるのが家康だったといえます。

3.この秀吉と家康との会見の要点は、以下のとおりです。

A.秀頼が成人するまでの間、家康に日本の全土の統治を委ねることにする。(上記①参照)

B.A.の盟約を強固なものとするため、秀頼と家康の孫娘を婚姻させる。(上記②参照)(上記の記述では、この日に既に結婚式が行われていますが。)

(※念のために書いておきますが、家康に好意的なイエズス会の報告にすら、秀頼が成人後その器でないならば家康に天下を譲るみたいな、三国志劉備の遺言のような記述はどこにもありません。)

4.④の記述にあるとおり、浅野長政五奉行の列に入れられたのは、秀吉の死の直前である事が分かります。

 前述したように(以下参照↓)、

koueorihotaru.hatenadiary.com

 慶長二(1597)年十月石田三成増田長盛がかつて奏者を務め親交の深い下野の大名・宇都宮国綱が改易に追い込まれ、縁戚の佐竹義宣(佐竹家は石田三成の取次先です)も連座されそうになる事件がありました。この事件に浅野長政が関与しており、これにより石田三成増田長盛浅野長政の仲は悪化します。

 あえて仲の悪い浅野長政を奉行衆の中(しかも、イエズス会の記述によると筆頭)に入れた秀吉の狙いは「相互監視」でしょう。秀吉は、どんな人物も基本的に信頼していません。これは家康に対しても、奉行衆に対してもです。家臣のいずれかが権力を独占することを秀吉は警戒し、四奉行の監視役として浅野長政をつけただと考えられます。(逆に浅野長政は、他の四奉行と仲が悪い事を秀吉自身も知っていますので、権力を独占しえません。)

5.「⑤自分が公布した法令を何ら変革することなきようにと命じた。」との遺言は、秀吉死去後の私婚違約事件の火種となります。また、バテレン追放令を受けているイエズス会にとっては落胆せざるを得ない遺言といえるでしょう。

6.⑥で書かれているように、大阪城を更に堅固に難攻不落にするための工事が秀吉の命令で始まっています。これは秀頼を大坂城に居住させる予定のためです。

 上記のイエズス会の記述には書かれていませんが、秀吉は自身の死後の意向は、堅固な大坂城に秀頼が居住することで、秀頼の身の安全を保障させる事でした。

 秀吉の遺言書(下記参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

で分かるとおり、家康は伏見城で政務をとることになっており、大阪城には秀頼の守役として前田利家が入り秀頼を保護します。家康と秀頼を分離することが秀吉の遺言の目的であり、結局、秀吉は家康を信頼しておらず警戒している事が分かります。

 秀吉の、家康に対しての「日本の全土の統治を委ねる」というのは、家康に対して、しばらく日本の統治「のみ」を行い、秀頼が成人したら、おとなしく統治権を返還してくれ、という意味です。

 しかし、野心溢れる戦国大名家康がおとなしく統治権を返還せず、豊臣公議を簒奪する事も十分考えられますので、そのための抑止措置として作られたのが、秀頼(大坂)と家康(伏見)の分離、家康監視機構としての五大老五奉行制でした。

 秀吉が家康に対して直接「お前の事は信頼していない。警戒しているけど、日本の全土の統治はしばらく任せる。決して裏切るなよ」などと言う事はありえません。そんな事を言われて「はい、秀頼君様のために全国の統治を、全力をもって代行します」なんて家康ならずとも誰も言いたくないですよね。当然、直接的には美辞麗句でおだて上げて、秀頼の後見役を進んで引き受けてもらうように秀吉は言う訳です。

 しかし、実際には自筆遺言状で委細は五奉行に委ねられ、その五奉行は起請文の取り交わしで家康の権力を牽制し限定的なものとするような方向にしていきます。

 これを奉行衆の勝手な判断とみる方もいますが、そうは思われません。秀吉が家康に後事を全権委任することが、秀吉本来の望みであれば委細は直接家康に伝えられるでしょうし、家康は秀頼が居住予定の大坂城に居住する事になるでしょうし、そもそも五大老五奉行などという機構自体不要です。秀吉は口では調子のよい事を家康に言っておきながら、他の四大老五奉行には家康を警戒し、監視するように伝え、そのための措置を実行するように遺言で伝えていたのが実態と思われます。秀吉の死の前後に作成される起請文は、秀吉が遺言で五奉行に話した「委細」を反映したものと考えられます。

(追記)

  家入敏光訳「一五九九年十月十日付、日本発信、巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノのイエズス会総長宛、一五九九年度、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p119))には、

「しかし彼(筆者注:豊臣秀吉)は五大老の権力が強すぎはしないかと疑問を抱き、彼が大いなる栄誉へ抜擢した寵臣たちの中から五(奉行)を選んだ。(五奉行)は主君なる己が息子(秀頼)のことを特別に面倒を見てやり、また家族のことや、さらには日本全土のことを司って、重要な事項のすべてを(徳川)家康とその四名の同僚に報告させることにした。それゆえ後者の五(奉行)が、日本国の統治者として栄誉ある称号と名前を得ていた。しかし、誰よりも太閤様の寵愛を得ていた(徳川)家康が頭となっていた後者の五(大老)が国家全体の鍵を掌握し、統治権を司っていた。」と記述があります。

 

 イエズス会報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況②に続きます。(作成中)