古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第8章 石田三成は蒲生氏郷を毒殺していません

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 現代の方で、そもそも石田三成蒲生氏郷を毒殺した」という説を信じている方はいないかと思いますが、江戸時代の史書というものが、いかに馬鹿げた嘘だらけのものであるかを示すために、この説も紹介いたします。

 江戸時代の史書の多くが、三成の策謀によって蒲生氏郷が毒殺されたとしています。例えば、「『藩翰譜』(新井白石)、『日本外史』(頼山陽)、『氏郷記』では、太閤没後の天下を狙う蒲生氏郷を恐れた石田三成によって、毒殺されたとする説を載せて」(*1)いますが、これは以下に述べるようにまったく根拠のない、でたらめな話です。

 また、『備前老人物語』にも同様な毒殺説が載っていますが、この『備前老人物語』によると、天正十九年(1591)年二月に切腹した千利休が、なぜか文禄二(1593)年に(毒による)病の蒲生氏郷を見舞うという滅茶苦茶な話になっており、これも全く信ずるに値しない論外な話といえます。(*2)

 白川亨氏の『真説石田三成の生涯』を以下引用します。

蒲生氏郷肥前名護屋の陣中で発病したのは、文禄二年(一五九三)一月である。初め吐血があり、続いて下血、浮腫も出たと記録されている。(筆者注:また、医師曲直瀬道三の『医学天正記』にもこの時期に氏郷が病にかかった記載があります。(*3))従って同年八月二十五日、秀吉とともに大坂へ帰り、同年十一月には会津若松に帰っている。

石田三成が奉行として朝鮮に渡海したのは、その前年の天正二十年(一五九二)年六月三日であり、明の講和使節とともに一時帰国したのは文禄二年五月八日、肥前名護屋に到着し、直ちに朝鮮に引き返している。(筆者注:三成は、その後五月二十四日に朝鮮に戻り、九月二十三日帰国しています。(*4)従って、蒲生氏郷が文禄二年一月、三成は在鮮中であり、蒲生氏郷に毒を飲ませることができようはずがない。」(*5)としています。

 その後の氏郷の病状については、白川亨氏の『石田三成の生涯』より引用します。

「翌文禄三年一月、秀吉の伏見城完成・祝賀のため上洛し、四月には氏郷の伏見邸も完成している。四月十四日、伏見・蒲生邸に秀吉が来訪、その頃、病が再発したようである。

十一月二十五日、秀吉を再び伏見・蒲生邸に招いているが、その頃、既に氏郷の病状は相当に悪化していたようである。それを心配した秀吉は、十二月一日に徳川家康前田利家に命じて九人の医師を派遣して診断させている。

その一人である曲直瀬道三は、「十ニ九ツ大事ナリ、今一ツカカル年ノ若キト食ノアルトバカリナリ、食アルイハ減ジ気力衰エテハ、十ニ二十モ大事ナルベシ」と報告している。即ち「十の内九迄は回復の見込みはない、後の一つは年が若いのと食欲があるのが希望を抱かせるが、食欲がなくなり気力が減じたときは、その希みも断れる」としている。当時の医療水準では、もはや手の施しようがなかったのであろう。

その後は、曲直瀬道産の診断どおり病状が進んで、翌文禄四年二月七日、伏見・蒲生邸に於いて四十歳の若い生涯を閉じ」(*6)ることに氏郷はなります。

 

 つまりは、蒲生氏郷は、文禄二年(一五九三)一月は名護屋の陣中で発病し、その時に三成は朝鮮に在陣しており、毒を飲ませるようなことはできません。また、氏郷の死が病によるものであるのは、曲直瀬道三の記録から明らかであり、これを毒殺とすることもできません。

 江戸時代の史書というものは、新井白石頼山陽のような著名な学者ですら、平気でこのようなでたらめな話を載せてしまう水準のため、史料としての信用性の低さにはがっくりしてしまうのですね。

 

 注

(*1)白川亨 2009年、p216

(*2)白川亨 2009年、p217

(*3)白川亨 1995年、p156

(*4)中野等 2011年、p301

(*5)中野等 2011年、p217

(*6)白川亨 1995年、p156~157

 

 参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年