古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第10章 『会津陣物語』に見る、江戸時代に作られた虚構のストーリー

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 徳川時代の軍記物語として『会津陣物語』があります。

 

 この物語は、江戸時代の老中酒井忠勝が、家臣の杉原清親に命じて、関が原の合戦の時期に、会津で起こっていた合戦の顚末を記したものです。(実際には、もっと前から話が始まりますが。)杉原清親は、上杉の重臣杉原親憲の一族でした。

 

会津陣物語』のはじめの部分の概要を述べます。(概要は、相川司氏の『Truth In History 21 石田三成 家康を驚愕させた西軍の組織者』を参考としました。)

 

会津陣物語』によると、石田三成が(親しい)直江兼続に「侍として生まれたからには、天下を取りたい」と相談すると、兼続は「それなら蒲生氏郷を殺害し、その領地に景勝を国替えさせて、家康を東西から挟み撃ちにしよう」と言い、二人で示し合わせて、天下を取ろうとするという物語になっています。

 そして実際に三成は氏郷を毒殺して、蒲生氏の家老に騒動を起こさせて、秀行を減封処分にして、景勝を会津に移封させ、家康を東西で挟み撃ちにする創作ストーリーが書かれています。

 

 史実では、氏郷は病死であることが曲直瀬道三の記録で分かっていますし、氏郷が病になった時に三成は朝鮮に在陣して日本に不在なので毒を盛れるわけもありません。

(下記参照↓)

 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 また、氏郷が死ぬと子の秀行が跡を継ぎ、しばらく後に蒲生家中に騒動が起こり、宇都宮へ減封となり、これを三成の画策とする説は『会津陣物語』の他、『蒲生盛衰記』『続武者物語』等がありますが、一次史料で三成が蒲生家減封を画策したという史料はありません。

 かえって、減封となった蒲生家の家臣団(蒲生郷舎・北川平佐衛門ら)を三成が引き取り、彼らが関ヶ原で奮戦したこと、蒲生氏行が三成娘婿岡重政を江戸時代以降重用したこと等の史実を合わせると、三成が蒲生家を陥れる訳もなく、かえって両者の結び付きの強さだけが浮かんできます。

 

 また、上記の史料(『会津陣物語』『蒲生盛衰記』『続武者物語』等)も前述した虚構の氏郷・三成毒殺説の関連から秀行減封が書かれており、毒殺説が虚構であれば、この説も虚構ということになります。

 この点については、下記を参照願います。↓

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 ここまで創作がひどいと、さすがに誰でも嘘だと分かりそうなものですが、以前のエントリーで紹介した通り、蒲生氏郷を三成が毒殺したという説は、新井白石頼山陽も紹介しています。(もっとも新井白石は「第2次奥州征伐(1591年)のとき、氏郷の見事な用兵を見た三成は、氏郷は殿下(秀吉)に二心があるのだろう」と考え、密かに毒を与えた。」(*1)という説のようです。

 

 そして、直江状です。この書状は、景勝・兼続の方に家康と戦う意思があり、無礼な文言で家康を挑発した文書とされています。

 しかし、直江状はよく知られているように原本がありません。あるのは写しとされるものだけですが、その写しは美文調で、当時(関ヶ原前後)の書状の形式からはかけ離れているので、普通の基準では、これだけで十分に明らかな偽文書だといえます。(しかし、この写しとされる文書にも一部真実が含まれているかも、と唱えている方もいます。)

 

 この点については、下記で詳述しました。↓

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 つまりは、景勝は上洛の意思はあったが、讒人を糾明してほしいと申し入れた一ヶ条すら不問にされ、相変わらず無条件に上洛せよと要求ばかりされ、上洛期限まで指定されたことから、上洛要求を呑めないと判断したと、景勝の上杉家重臣宛て書状に明らかにされています。

 

 また、三成と上杉景勝の事前通謀説(『関原軍記大成』に事前通謀の書状が載っていますが、『関原軍記大成』にしか記載はありません)も渡邊大門・宮本義己氏の指摘では、三成から真田昌幸に宛てた書状から否定されています。この点については下記の3.をご覧下さい。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 こうしてみていくと、江戸時代には、最初に『会津陣物語』を原型とした(か、『会津陣物語』の前に原型となっている)「虚構のストーリー」が作られており、この虚構ストーリーを元に歴史が編纂されていることが分かります。 

 

 この『会津陣物語』に代表される、江戸時代に作られた虚構のストーリーをまとめると、

 1.最初に三成と兼続がかなり昔から示し合わせて、彼らが天下をとるために、蒲生氏郷を毒殺し、蒲生家老の騒動を起こして、氏郷の息子秀行を減封に追い込むという計画を立てて、実行し、

2.上杉景勝を景勝会津に移して、家康を挟み撃ちにし、

3.兼続が家康を挑発(直江状)して、その挑発に対抗するために家康はやむを得ず上杉征伐に乗り出し、

4.その留守を狙って三成・兼続は事前に共謀して立ち上がって東西挟撃の策はなったが、

5.家康は、これに対抗して戦に勝ち、奸臣三成を除いた。

 

 つまりは、「家康公は、奸臣三成・兼続が天下を狙う野望に仕方なく対抗しただけ。悪いのはあいつら。家康公は悪くない。(神君家康公が悪いなんてとても言えません。)」というストーリーがまずあり、それを補強するために、当時の書式にもあっていない直江状(とされる)写しが残されていたり、なぜか一次史料や他の書物には記載のない(一次史料からは否定される)三成と上杉との事前通謀の書状の写しなどが出てきたりする訳です。 

 しかし、まあ、このストーリーは、誤った結論から逆算して作られた虚構であることは明らかなので、さすがにこのような虚構を信じる人は現代では誰もいないでしょう。

 

 以上を見ていきますと、江戸時代に書かれた、豊臣時代を描写した二次史料は、徳川公議に都合の良い、虚構のストーリーが既に結論としてあり、その虚構ストーリーに合うように偽文書すら創作されている状態で、そして基本的にその虚構ストーリーに沿って史書も編纂されている状態な訳です。

 現代から見ますと、豊臣時代を描写した江戸時代の二次史料は、信用できる水準とは到底言えません。

 

 注

*1 相川司 2010年、p143

 

 参考文献

相川司『Truth In History 21 石田三成 家康を驚愕させた西軍の組織者』新紀元社、2010年