古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第13章 細川ガラシャ事件と石田三成は無関係

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 細川ガラシャ(明智玉子)は細川忠興の妻で、関ヶ原の戦いのあった慶長5(1600)年の7月17日に西軍による人質要求を拒否して「自害」した女性として知られます。(この最期については自殺を禁じるキリスト教的視点から、実際に(物理的な意味の)自害だったのか、家臣に介錯されて亡くなったのか検討されることも多いですが、このエントリーの主題ではありませんので、ここではその検討はいたしません。) 

 

「果たして、ガラシャに対して人質要求を行ったのは誰なのか?」ということについて、以下の一連のエントリーで検討しました。

 従来の通説的には石田三成が人質を要求したという話になっています。しかし、下記のエントリーで検討した通り、時系列的に考えるとこれはちょっと考えられないことなのです。

 この頃、まだ石田三成大谷吉継と共に佐和山城に籠って「不穏な動き」をしている状況であり、表面上は「大坂方」から警戒されている状態です。(これが裏で繋がっていたのが明らかになるのが、七月十七日の「内府違いの条々」クーデターとなります。)

 三成本人はもちろん、三成の軍勢が大坂に行ける余地はありませんし、実際にそのような記録はありません。

 

 この時期に、実際に大坂城にいる「大坂方」の責任者といえるのは、 三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)です。当然、この時期人質作戦を指揮したのは三奉行という事になります。

 この七月十七日以前の時点から、大坂城の人質作戦が展開された事実は、三奉行が(毛利輝元の軍が大坂に入ったことによって)受動的に仕方なく西軍についたという事は全くなく、早い時期から西軍の首謀者として、西軍決起・「内府の違い条々」クーデーターを中心となって計画していた事を示しています。

 

 詳細は、以下で検討いたしましたので、参照願います。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

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