古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十二 七将襲撃事件以降の石田家の動向について

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 七将襲撃事件以降の石田家の動向について以下に述べます。

 

 慶長四(1599)年閏三月四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

 なお、家康の「仲裁」といいますが、七将襲撃事件の黒幕が徳川家康自身なのでないかという見方は当時からあった、というより、当時より家康が七将の黒幕であることは当然の前提として、周囲の人物達から考えられていました。

 

 例えば、閏三月四日以降に書かれたとみられる毛利元康宛毛利輝元書状を見ると、大坂城の番である小出秀政・片桐且元は「内府方(徳川派)」であるため、軍事行動は無駄としており、また大谷吉継は輝元が家康と対峙すべきだと述べている等、襲撃者一派(七将ら)が「内府方(家康派)」であることを当然の前提とした記述をしています。(*1)

 

 また、前田家家臣村井勘十郎は、その覚書に七将襲撃事件について「内府の御意に入り度く体にて」と書き記しています。(*2)

 

 慶長五(1600)年七月十七日の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の「内府違いの条々」には、家康弾劾の項目の第一として、家康が浅野長政石田三成の「年寄(奉行)」を逼塞に追い込んだことを咎めています。(*3)

 

 また、徳川家康は、七将襲撃事件の七将の一人である細川忠興を慶長五(1600)年二月、六万石の加増を行っており、(*4)これも「内府違いの条々」の指弾の一つとなっています。

 忠興には加増に値するような特に目立った功はなく、忠興が七将襲撃事件を主導し家康の権力強化に貢献した「功」に、家康が私的に報いたとみなされても仕方ありません。

 

 つまり、七将襲撃事件の黒幕は徳川家康である事は当時から知れ渡っていたことなのであり、そうであるにも関わらず、徳川派も反徳川派も、家康がまるで善意の中立的な仲裁者であるかのような茶番劇を演じることによって、双方の交渉を可能にしたという事になります。

 

 さて、三成が佐和山に実際に隠遁する閏三月十日に先立つ、閏三月八日に三成の嫡男重家の出仕が認められ、重家は家康の元に赴き礼を述べています。(*5)この頃には、家康の「仲裁」方針の大方が固まったということでしょう。こうして重家を当主とした石田家の存続が認められることになります。

 

 石田三成の兄、正澄も豊臣家家臣・堺政所として健在であり、また秀頼御にいつでも伺候できる衆の一人に名を連ねています。(*6)

 

 慶長四(1599)年九月七日、重陽節句に際して、伏見から大坂の石田三成邸に家康は入ります。家康の大坂宿所として石田家が主不在の大坂屋敷を家康に提供した訳です。(*7)

 

 そして、その日に家康の元を増田長盛が訪れ、前田利長を首謀とする家康暗殺計画があることを密告します。

 一方、正澄は三成邸に入った家康に、その五日後の十二日には自身の屋敷を提供し、自らは堺へ移ります。なぜ、三成邸から正澄邸に家康を移したかというと、三成邸は大坂城外にあり、正澄邸は大坂城内にあるという理由によるものだとのことです。(*8) 

 

 一方、佐和山にいた三成は、家康から利長の軍勢の上洛を阻止するよう命じられ、一千余の軍勢を越前へ派兵しています。(*9)(なお、三成は隠居中であり、三成自身の出陣はありませんでした。)

 

 こうして見ていくと、石田家は七将襲撃事件以降、家康とは協力関係にあったように見受けられます。しかし、以前のエントリーで見た来たとおり、秀吉の生前から石田家と徳川家の親交はあったのです。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

 

 七将襲撃事件以後から、いきなり石田家と徳川家が親しくなった訳ではありません。

 そして、この時期(七将襲撃事件以後)、石田三成自身の意思として、三成と徳川家康が協力関係にあった、と考えるのは早計です。

 三成は七将襲撃事件の結果隠居し、石田家当主としての力も失いました。三成に代わって年少の重家(当時14~16歳だったとされます)を支えて、石田家存続のために尽力したのが、三成の兄の正澄といえます。つまり、この時期の石田家の判断・行動は正澄の意思によるものが大きいと考えるべきです。

 正澄の判断・行動は強大な権力を持つ家康に従わない限り、石田家の存続はありえないという判断によるものだったのでしょう。(この判断は結果的に正しかった訳です。)

 

 一方で三成は、七将襲撃事件以前は、家康とは一定の親交関係にあり、私婚違約事件の際にも事態の収拾のために動いていた訳です。しかし、七将襲撃事件の黒幕が家康である可能性が高いというのが当時の共通認識だった訳ですから、むしろ七将襲撃事件が、三成が家康に不信感を抱き、敵視するきっかけになったのではないでしょうか。

 

 このため、この時期の石田家と徳川家の協力関係を、隠居している三成の積極的な意思とみなす事はできません。また、越前派兵も家康の要請によるものであり、この時期は、石田家の存続のためには徳川家に従うより他はなく、これを石田家の自発的な意思とみなすのは間違いです。

 

 石田家は最終的には真田家のようには家を東西に分けることなく、石田家当主として復活した三成の意思に従って、全員が西軍につきます。石田家の結束力は高かったといえるでしょう。

 

 注

(*1)光成準治 2009年、p28~30

(*2)白川亨 2009年、p126

(*3)中野等 2017年、p419

(*3)中野等 2017年、p419

(*4)小和田哲男 2012年、p270

(*5)水野伍貴 2011年、p96

(*6)水野伍貴 2011年、p96

(*7)水野伍貴 2011年、p97

(*8)水野伍貴 2011年、p97

(*9)水野伍貴 2011年、p97

 

 参考文献

小和田哲男ミネルヴァ日本評伝選 黒田如水-臣下百姓の罰恐るべし-』ミネルヴァ書房、2012年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

水野伍貴「石田正澄と石田三成」(『歴史読本 2011年12月号』新人物往来社、2011年所収)

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年