古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十六「七将襲撃事件」とは何だったのか?⑤

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 前回の続きです。(前回のエントリーは、↓)

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『多聞院日記』慶長四年閏三月十四日条に

「十三日午刻、家康ふしみ之本丸へ被入由候、天下殿ニ被成候、目出候」

とありこの短い一文で様々なことが読み取れます。

 

A.閏三月十三日に徳川家康伏見城の「本丸」に入ったとされますが、これは『多聞院日記』の誤りであり、正確には「西の丸」です。

 

B.家康が伏見城の「本丸(正確には西の丸)に入った」ことによって「天下殿」になったとされますが、これを逆に見れば、三月十三日以前は家康の居所は伏見城ではありませんでした(家康の居所は、伏見城下の家康屋敷→向島の家康屋敷)。家康の伏見城「在城」は許可されていません。そして、伏見城が家康の居所でないが故に、それまで家康は「天下殿」ともみなされていなかったということになります。

 つまり、「伏見城の本丸入城」という事実がなければ、家康は「天下殿」とはみなされなかったということになります。(ここで、この「天下殿」という認識が『多聞院日記』の著者の個人的見解に過ぎないのか「世間」一般の認識に近いとみなしてよいのかという問題も生じてきます。また、「本丸」入城でないと「天下殿」ということにならないのか、「西の丸」であろうと伏見城に入城してそこを居所とすることが「天下殿」とみなされるということなのかについても議論の余地があるでしょう。)

 

 さて、「七将襲撃事件」の始末において、家康は「伏見城入城」を果たし、『多聞院日記』に「天下殿になった」と記載される地位に上ります。「七将襲撃事件」の始末(講和)において、家康の「伏見城入城」が講和条件だったといえます。

 なぜ、家康の「伏見城入城」が講和の条件になるのか?これは、結局「七将襲撃事件」というのが(従来説の「石田三成VS七将の対立」という構図ではなく)、私婚違約事件から始まる(徳川派VS徳川警戒派(私婚違約事件の時点においては四大老五奉行))の対立の延長戦だったからといえます。そうでなければ、「石田三成VS七将の対立」とは全然関係ない「家康の伏見城入城」などという条件など出てくる訳もありません。

 私婚違約事件においては慶長四(1599)年二月五日に家康と四大老五奉行の間に起請文の取り交わしがあり表面上の和解ははかられていましたが、徳川派はこの「表面上の和解」に不満であり、「家康警戒派」のトップである前田利家の死去を好機として、一気に徳川派が豊臣公儀の主導権を掌握するために仕掛けたのが「七将襲撃事件」の実態といえます。

 この政争の勝利の成果として「家康の伏見入城」というのが講和条件のひとつとなり、この条件を勝ち取った結果として、家康は伏見城へ入城して「天下殿」と称せされ、「豊臣公儀の実権を握った」ことになります。「七将襲撃事件」は徳川派の実権獲得のための一種のクーデーターであったといえるでしょう。

 

『多聞院日記』で、家康が「天下殿」になったことが「目出候」というのは、徳川派VS徳川警戒派の政争は武士同士の争いであり、当然戦争に発展する可能性もありそうなれば京坂で市街戦という事もなりかねない訳で、いずれにせよ結着がついて戦争にはならなかったことは「目出候」という事になるでしょう。

 

 参考文献

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会企画部、2016年