古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の三十 宇喜多秀家・石田三成・大谷吉継・小西行長は「北政所派」②

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 前回の続きです。(前回のエントリーは↓)

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 以下、北政所と西軍諸将・淀殿との関係をまとめます。 

(以下の記述は、主に跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』、白川亨『石田三成とその一族』、『石田三成とその子孫』等を参考文献としてまとめました。)

 

 1.文禄五(1596)年九月、明との講和の失敗により秀吉の怒りを買い、しばらく政庁から遠ざけられた小西(洗礼名アゴスチイノ)行長に対して、「「太閤の奥方(北)政所様も(小西)アゴスチイノの夫人ジュスタを訪問するために幾人かの人々を遣わして、すべての諸事態がこのような災難に変化している中にあって夫人を慰めた」」(*1) (『ルイス・フロイスの年報捕逸』)とあります。

 跡部信氏は、この件について、

「(前略)北政所は、対立の争点となっていた講和問題で失脚しかけた行長を慰撫し、復帰に力をかす態度をさりげなく示していた。これは意気消沈する行長にとって特筆すべき栄誉だったが、勢いづかんとする清正へのメッセージでもあった。彼女は両派の一方が敗退するような事態を望んでいなかったのだ。しかもこの場合の彼女の行動は、秀吉の措置を薄める性質のものだった。夫とは異なる独自の立場から、自発的に働きかけたのだ。」(*2)と述べています。

 

2.慶長四(1599)年閏三月の石田三成の七将襲撃事件の収拾において北政所の取り成しがあり、三成は助命されたという史料があります。(公家の山科言経の日記に「太閤政所御アツカイニテ無事」とあります。)(*3)

 跡部氏は、この北政所の行動について、1.の北政所小西行長慰撫の姿勢からみて「北政所が秀吉生前、すでにこのような姿勢をみせていたことをふまえて、慶長四年閏三月の彼女の行動も理解されるべきであろう。

彼女は両派のあいだに仲裁に入る資格と経験を有していた。秀吉没後は平和と秩序の維持こそが豊臣政権存続の要件となっていたのだから、彼女が危機の打開に意欲を示すのが当然だった。」(*4)としています。

 

3.慶長四(1599)年八月に前田利長上杉景勝の二大老が京坂から離れ、それぞれの領国へ戻ります。

 その翌月の同年九月九日の重陽節句の祝いのため、伏見の徳川家康が大坂を訪問した際に、前田利長・土方雄久・浅野長政大野治長による家康暗殺未遂疑惑が騒がれます。

 この事件を理由に家康は大坂に居続け、九月二十六日に大坂城を退去して京都新城に移った北政所の居所である西ノ丸に入れ替わって乗り込み、そのまま西の丸に居座ることになります。北政所大坂城退去と徳川家康大坂城入城が関連している事は、『醍醐寺三宝院義演の日記及び島津義弘書状から分かります。(*5)

 

 これを、北政所が家康によって大坂城を追い出されたみたほうがよいのか、北政所が家康のために気をきかせて、自ら大坂城を退去したとみたほうがよいのか、どちらの見方が正しいのでしょうか。 

 翌年七月十七日に三奉行が家康の罪状を列挙して大名たちにばらまいた「内府違いの条々」には罪状のひとつに、「政所御座所に居住之事」(*6)とあり、西軍は北政所の居所であった大坂城二の丸への入居を、家康を弾劾すべき理由のひとつと考えていたということが分かります。 

 一方、家康の侍医である板坂卜斎は覚書に「政所の御はからい也」(*7)、つまり北政所がすすんで家康に居所を譲ったような記述をしています。しかし、関ヶ原合戦からおよそ二十年以上たった元和・寛永期に書かれた家康侍医の覚書にどれほどの客観性・信用性があるか疑問になります。 

 豊臣秀吉の遺言によれば、前田利家の死後は息子である前田利長が利家の代わりに大阪城に入り秀頼の保護をすることになっていました。しかし、七将襲撃事件以後、家康は利長に国元に帰ることをすすめ、前述したように利長は慶長四(1599)年8月に国元へ帰ります。私婚違約事件の時に家康弾劾の先頭にたったのは前田利家であり、その時の遺恨を家康が忘れていないことを知っていたからでしょう。利長に家康と中央政務で張り合う意図はなく、秀吉の遺言に反する形になりますが、家康のすすめに従って利長は国元に帰ることになります。

 そして、九月には家康の圧力により、宇喜多秀家大坂城を退去し、伏見に移ります。

 同月、土方雄久・浅野長政大野治長が家康暗殺計画の疑惑で謹慎処分になります。

 これにより、大坂城北政所は縁戚の奉行浅野長政、婿の大老宇喜多秀家の後ろ盾を失い、非常に弱い立場に追い込まれます。石田三成も既に佐和山で隠居に追い込まれています。

 こうした経緯をみれば、家康が北政所に圧力をかけ、大坂城から北政所を追い出したと考えるのが自然といえるでしょう。北政所大坂城退去、家康の大坂城入居によって、家康の豊臣公議独裁色が強まり、家康が大坂にいる間は誰も家康の暴走を止めることができなくなっていくことになります。

 そもそも、利長が国元に帰ったからといって、家康が大坂城に入城する理由にはなりません。秀吉の遺言では、あくまで家康は伏見城に残り中央の政務を行うことが役割なので、大坂城にいることではありません。家康の大坂城居座りは明らかな秀吉遺言違反でした。慶長四年九月の家康の行動は事実上大坂城占拠のクーデターといえ、北政所も家康の「政敵」として大坂城から排除されたというのが実情といえます。 

(※ただし、跡部氏は「彼女(筆者注:北政所)は家康の大坂入城を契機として京都へ移住した。しかし秀吉最期の構想に照らせば、彼女が大坂城で秀頼と同居することこそが予定外だったのであり、じっさい彼女は大坂退城以前から京都を二次的な拠点としていたのだ。家康の入城が移徒のタイミングをきめた因子にすぎず、それなくしても彼女が大坂を出た可能性は十分にある。彼女の京都移住を秀吉の構想の延長線上に位置付けるならば、その目的は首都に殿館をかまえ居住することによる、統治者としての威信の確保、といったところになるだろう。彼女が傾注していた朝廷対策は、その具体的な実務である。」(*8)としています。

 上記についての私見ですが、確かに通常の状態であれば、将来的な予定行動として北政所の京都移住は将来の秀吉構想の中にあったかもしれませんが、当時の状況は婿の宇喜多秀家が大坂から伏見へ退去させられ、縁戚の浅野長政が家康暗殺未遂疑惑で謹慎処分を受けている状況であり、その状況下での北政所大坂城退去です。両者が関連していないとは到底いえないかと思われます。) 

 ちなみに土方雄久は、前田利長の従兄弟であり当然前田派となります。大野治長淀殿との密通疑惑が当時持たれており、むしろこちらの疑惑に対する処罰という色彩が強いかと思います。淀殿サイドに対する牽制(これにより、大野治長を「人質」にとられた淀殿サイドが政治的行動を主導的な取ることができなくなりました。)

 

4. 慶長五(1600)年六月初旬、淀殿の乳母で大野治長の母である大蔵卿局が京都で拘束されます。これは、上杉征伐を控え、前年九月の家康暗殺未遂疑惑に連座して(また『看羊録』等によると、前述したように淀殿との密通疑惑があったとされます)下総国に流された息子の大野治長の動静に関わることだと解釈されます。

 この時の北政所の動きについて跡部氏は以下のように記載しています。 

「在京の公家や僧侶の日記にあたってみると、『義演准后日記』六月二日条には「大蔵卿局、被召置云々」とあり、『北野社家日記』同月五日条には「昨日大蔵卿殿儀、相済、大坂二御下之由也」とみえ、『時慶記』の同日条には大坂からもたらされた情報として「北政所、明日可有御上洛由候。大蔵卿局赦免ノ由候」と書かれ、同月八日条には「北政所殿、大坂ヨリ御上洛之由候」と記されている。」(*9) 

 上記の記述を見ると、六月二日に大蔵卿局が京都で拘束され、それを聞いた北政所大蔵卿局の赦免のために大坂城に向かい、おそらく家康と掛け合って大蔵局の赦免を願い、家康はこれを受け入れて大蔵卿局を赦免したということが分かります。このように、北政所淀殿の乳母の大蔵卿局の救出のために積極的に動いており、この時期に北政所淀殿は対立していたとか、互いに憎悪していたという説は誤りと考えられます。 

 また、「もと織田信長の側室で、本能寺の変後、北政所の侍女となっていた小倉お鍋という女性は、やはり関ヶ原合戦で息子が西軍についたため、秀吉からあてがわれていた五百石の知行を没収されてしまった。そこで、困窮したお鍋に秀頼(実質は淀殿)が五十石、北政所が三十石を融通しあい、協同で彼女の晩年の生活をささえたと伝えられる。」(*10)とされています。

 

 5.慶長五(1600)年七月五日、『梵舜日記』によると、宇喜多秀家が豊国社において「神馬立の儀式」の出陣式を執り行っています。そして、七月七日の『梵舜日記』の記載では、秀家の女房衆(豪姫)等が必勝祈願の「湯立神楽」を奉納しています。その時、北政所は侍女の東殿を代参として、派遣しています。(*10)

 果たして、この時の宇喜多秀家の「必勝祈願」は何に対しての必勝祈願だったのでしょうか。近年の研究では、宇喜多秀家は西軍決起の首謀者の一人とされており、七月十七日に三奉行の「内府違いの条々」が発出されたことを考えれば、この時期の「必勝祈願」は、「徳川家康打倒」のための「必勝祈願」であると考えるのが自然です。

 しかし、七月五日はまだ西軍決起が公にされていない段階ですので、その決意は秀家の内心に秘められ、表には出てなかったと考えられます。

 このため、七月七日に北政所が東殿を代参で派遣したとしても、北政所が未来の西軍決起を察知した上で、西軍支持(あるいは西軍決起要請)のために代参をさせたとは考えにくいでしょう。(白川亨氏はそのように考えているようなふしがありますが。)

 この後、七月二十三日に伏見城攻略の最中にも秀家は豊国社を参詣に訪れ、金子一枚を奉納しています。この時、北政所からも祈祷の依頼があり、二位(吉田兼見卿)が直接それを申し付けています。(*12)

 この時期の北政所の祈祷は宇喜多秀家の無事を祈願したものでしょう。北政所宇喜多秀家との結びつきの強さを感じます。

 

6.関ケ原合戦時の北政所の甥達の去就について、白川亨氏は以下のように述べています。

「兄の木下家定には現在七~八人の男子がいたことが確認されている。(前掲系図参照)。

 すなわち、北政所の実の甥には、木下勝俊(後の長嘯子)、木下利房、木下延俊、木下俊定、木下秀俊(小早川秀秋)、木下秀規、木下某?、紹叔(後の高台院の住職)がいたようである。

 そのうち、出家した紹叔は別として、東軍に属したのは、関ヶ原合戦終了後の田辺城回復戦で、東軍に参じた細川忠興の妹婿にあたる木下延俊(当時、播磨三木軍二万石。戦後、豊後日出藩三万石)のみであり、その他の甥達は総て西軍として旗幟を掲げている(勿論、小早川秀秋関ヶ原決戦で西軍を裏切り、戦いの帰趨を決定させている)。」(*13)

 また、北政所の侍女頭である孝蔵主の一族も揃って西軍として戦っており(*14)、同じく侍女東殿の息子大谷吉継も言うまでもなく西軍として戦っています。

 

7.八月二十九日、北政所は自らの住居である京都新城を破却し、石垣や櫓を公家に下げ渡しはじめます。(*15)この行為は、東軍にも西軍にも京都新城を拠点として使わせないという彼女の「非武装中立」という姿勢を明確にしたものといえますが、状況は彼女がそうした彼女の中立的姿勢を許しませんでした。

 

8.慶長五(1600)年の「天下分け目」の戦いのなかの大津城(城主京極高次)攻防戦における開城交渉のために、北政所淀殿は協働してあたったことが知られています。特に、北政所は執事の孝蔵主を大津城に派遣し、孝蔵主は淀殿の使者とともに大津城を訪れ開城交渉に成功しています。(*16)このように「天下分け目の戦い」の際には北政所淀殿は協力して事にあたっていました。

 また、跡部氏は「石田三成らの決起が伏見と大坂に騒動を引き起こしたのは七月十二日だが、時をおかずに孝蔵主は京都をたち、伏見を経由して大坂へ向かっている。そして七月下旬には帰京し、八月十一日前後には、また大坂へでかけているのだ。すでに西軍の拠点となり、大名妻子たちへの監視も強められていた戒厳令下の大坂へ、である。」(*17)と記しています。西軍決起の直後から京都(北政所)と大坂(淀殿)の間は常に連絡が取られており、互いに協力関係にあったことが分かります。

 しかし、この大津城開城交渉は東軍(家康)にとって、北政所は西軍派とみなされかねない行為でした。

 

9.関ヶ原の戦いの二日後の九月十七日、北政所は准后勧修寺晴子(後陽成天皇生母)の屋敷に避難しました。「カチハダシノ躰」で駆け込むという慌て振りでした。(*18)

 この記述のみから、北政所が西軍よりだったのか、東軍よりだったのか考えるのは困難です。北政所が避難した直接の理由は、「この日、彼を警護していた兄の木下家定を人質にとろうとして、大坂城の西軍が迎えにきている」(*19)事だと考えられます。既に九月十五日の小早川秀秋の西軍裏切りにより関ヶ原の戦いで西軍が敗北した事実は公に知られています。大坂城の西軍が、秀秋の叔母の北政所と実父の木下家定が秀秋の裏切りに関与しているのではないかと疑うのはある意味当然です。このため、西軍は木下家定を人質にとろうとしたのでしょう。秀秋の裏切りのため、北政所は中立を主張できない立場に追い込まれたのです。

 一方、北政所は東軍からも信頼されていたわけではありません。

 大津城開城のために奔走した北政所・孝蔵主は、東軍から責任を追及され処分されかねない立場に陥ります。その最中、北政所は十月十一日、豊国社宝殿に秀吉の遺品とおぼしき諸道具を奉納しています。(*20)これは、財産保全のためだと考えられます。

 大津城の開城交渉に加わった人物である木食応其や新庄東玉斎も西軍加担の容疑で失脚したため、北政所・孝蔵主が処分を免れたのは異例でした。これは、甥の小早川秀秋が寝返りにより東軍の勝利に貢献した事が考慮されたのかもしれません。

(異例というならば(大津城開城交渉に協力した)淀殿が処分されないのも異例ということになりますが、家康はこの時点では秀頼君に逆意はない事を示さねばなりませんので、生母の淀殿をこの時期に処罰する事は当然無理といえます。)

 

10.慶長十四年九月、家康は前年八月に亡くなった木下家定の遺領を没収してしまいます。家定の遺領については、一旦高台院北政所)に預けられた後、家定の長男勝俊と次男利房に分与されるはずでしたが、高台院が勝俊だけに相続させようとしたため、家康の怒りにふれて没収されたのです。しかし、この案件については高台院から将軍秀忠の側近本多正信に希望が伝えられ、了承が得られた話でした。(*21)

 なぜ、これが家康の怒りに触れたかというと、知行権を握っているのは誰かを高台院に見せつけるためだと思われます。高台院に知行の差配を任せたまま言う通りに遺領配分が決まってしまうのでは、自分(家康)の知行配分の権限がないがしろにされる、と考えたのでしょう。 

 この時の家康の怒りはすさまじく「「惣別、近年政所老気違、比興成事多」」(*22)(『当代記』)と高台院を罵倒しています。俗説では、家康と高台院は親密な仲であり、また史実でも表面上は親しい関係を築いていました(これは豊臣家との連絡・説得役、徳川幕府に対して強硬な秀頼・淀殿派との比較対象等、まだ利用価値があると家康が考えたためでしょうし、「豊臣恩顧大名」に対する手前もあったからでしょう)が、家康の高台院に対する実際の本音がさらけ出された罵倒といえるでしょう。

 

 まとめ 

 北政所関ヶ原時の行動をみていきますと、北政所が事前に西軍諸将に要請して西軍決起を促したり、西軍を積極的に支持したりした事実等はありませんので、北政所は積極的な「西軍派」とまでは言えないかと思われます。 

 戦時中も北政所はなるべく中立的に振る舞おうとしていますが、西軍諸将に近しい人物が多いため、西軍諸将に同情的な行動が散見されますし、実家の木下一族の大部分が西軍についたこと、北政所の侍女NO.1、2の孝蔵主・東殿の一族が西軍についている事、大津城の開城交渉に尽力した事を考えると、いかに北政所が中立的に振る舞おうとしても、東軍(つまりは徳川家康)から、「北政所は実質西軍派」とみなされても仕方なかったのではないかといえます。 

 一方、北政所が積極的に東軍(徳川家康方)諸将を支持したような形跡は一切ありませんので、北政所が「東軍派」というのはありえない話です。 

 関ヶ原の戦いの敗戦により、北政所は「西軍派」と家康からみなされ、失墜する可能が高かったといえます。この北政所の窮地を救ったのが、小早川秀秋の西軍「裏切り」であったといえるでしょう。

 次回は、小早川秀秋はなぜ西軍を裏切ったのかついて検討します。 

 最後に、白川亨氏の『石田三成とその子孫』のあとがきに書かれていたことが印象に残りましたので、紹介いたします。

 

「いまひとつ申し添えておきたいことがある。本稿執筆に先立ち大徳寺三玄院にお参りさせて頂いたが、三玄院の三成の墓碑には四百回忌の法要を行った卒塔婆が三本供えられていた。しかも三本とも木下姓の方々である。おそらく北政所の兄、木下家定公の御子孫と考えられる。」(*23)

 

 注

(*1)跡部 信 2016年、p242

(*2)跡部 信 2016年、p242

(*3)跡部 信 2016年、p240

(*4)跡部 信 2016年、p242~243

(*5)跡部 信 2016年、p244

(*6)跡部 信 2016年、p243~244

(*7)跡部 信 2016年、p243

(*8)跡部 信 2016年、p277

(*9)跡部 信 2016年、p245~246

(*10)跡部 信 2016年、p285

(*11)白川 亨 1997年、p34~35

(*12)白川 亨 1997年、p35

(*13)白川 亨 1997年、p40

(*14)白川 亨 2007年、p48

(*15)跡部 信 2016年、p252

(*16)跡部 信 2016年、p249

(*17)跡部 信 2016年、p250

(*18)跡部 信 2016年、p253

(*19)跡部 信 2016年、p253

(*20)跡部 信 2016年、p253

(*21)跡部 信 2016年、p260

(*22)跡部 信 2016年、p261

(*23)白川 亨 2007年、p233

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

白川亨『石田三成とその一族』新人物往来社、1997年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

外岡慎一郎『シリーズ・実像に迫る002 大谷吉継戎光祥出版、2016年

渡邊大門『宇喜多秀家と豊臣政権 秀吉に翻弄された流転の人生』洋泉社、2018年