古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

島津義弘と石田三成について②

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※ 前回のエントリーの続きです。↓

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 石田三成の果たした「取次」「指南」とは、島津家からの豊臣公議への要望を取次ぎ秀吉に取り成すことであり、また、豊臣公議から島津家へ豊臣公議の政策方針の伝達・指南や、軍役・普請等の要請をすることでした。

 

 秀吉からの島津家への要求としては、天正十七(1589)年正月二十一日に出された島津義久宛て石田三成細川幽斎連署状を見ると、「巣鷹(巣にいる鷹の雛)の徴発、琉球問題への対処、造営中の東山大仏殿(方広寺)への用材調達、刀狩り、勘合(対明交易)、賊船の取り締まり、など」(*1)であることが分かります。

 このうち、琉球問題とは、琉球に服属使節を派遣させろという要求であり、三成・幽斎連署状にも「遊山ばかりで、この命令を遂行しなければ、御家の滅亡であります(御遊山迄にて、此条数油断においては、御家のめつはうたるべく候)」(*2)とあるように、秀吉の要求の中でも最も重要視されたものでした。

 

 天正十七(1589)年頃から、島津義久はなるべく中央政権から距離をおこうとする姿勢が見えてきます。服属後に上洛し(天正十五(1587)年)、許されて帰国した(天正十六(1588)年)後は、なかなか上洛しようとしなくなりました。諸国の大名は大仏殿の普請のためにみな上洛を命じられているにも関わらず、義久のみ国元にいるのは許されませんでした。石田三成から、島津義弘へつよい要請があり、義弘は義久に上洛をすすめ、義久はようやく天正十七(1589)年九月に上洛します。義弘は入れ替わりに国元へ戻ります。(*3)

 天正十八(1590)年三月より、北条征伐がはじまり、この年18歳の島津久保(義弘の子、義久の娘亀寿の婿、男子のいない義久の後継者とされた)もこれに従軍し、初陣を飾ります。戦後、京都に久保は京都に戻り、帰国を許され京都を出発します。国元からは義弘が上洛します。(*4)

 天正十九(1591)年正月、義久は久々に国元に帰ることを許されます。京に義弘が残ります。(*5)

 天正十九(1591)五月七日付の鎌田政近(義久の家老)宛の義弘書状にはその頃の京都での島津の窮状が赤裸々に書かれています。

「「まず国持の大名といえば、毛利殿、家康、その次には島津である。それなのに、島津が関白様(秀吉を指す)の御用に立つことはひとつもない。なぜならどこかの国で一揆が起こったとして先手の軍勢に加えてもらおうと思っても、手持ちの軍勢がいなければなんともならない。関白様の御側に加えてもらうにしても、ようやく騎馬の者数人では、どの面さげて島津と名乗ればよいのか。かといって御前向きの御伽衆の役もできず、御普請の御用にも立たずとあっては、だれがこのような国持の家を長く保つことができるだろうか。京都・大坂を往復するとき、五騎・三騎の供衆さえ鑓を一本持つだけという体たらく、九州の龍造寺・鍋島・立花・伊東らの躰にも劣るようなありさまでは、言語道断、沙汰の限りである」

 義弘に供して在京する者は、ほとんどいなかった。これでは義弘が弱音を吐くのも無理はない。」(*6)

 

 国許の老中達も含む島津家臣団が京都での公議の務めを嫌い、義弘と供して上洛する者もほとんどおらず、上洛費用も負担しようとせず、一揆に対する先手勢としても、普請等の公議の御用にもまったく役に立たない状態になり、他の大名と比較しても面目を失う状況に島津家はなっていました。

 

 これにより、取次の石田三成の島津家の態度も変化します。

 同じ書状では、三成について、義弘はこのように書いています。 

「此のごろは何たる事を聞き付けられ候哉、はたと相替わり、島津家滅亡は程あるまじく思はれ候て、取次なども公議向きまでをと承り候条々多々候。

-(旧冬から今春までは石田殿は非常に懇切でしたが)、最近は何を聞き付けられたか、豹変して、島津家の滅亡は間近だと思われているようで、取次も公議向けだけという態度であることが多いのです。」(*7)

 

 これはいったいどういう事かと、島津家との連絡を担っている石田三成家臣の安宅秀安に義弘は聞いてみます。秀安はこのように述べます。

「「島津家の取次の三成と幽斎が、国の置目から京都屋敷の造作のことまで念を入れて指示したのに、そのうちひとつでも首尾よく達成したものはありません。三成は『これはひとえに義久が得心せず、真剣にとりくんでないからだ』と考え、『私もとんだ見込み違いをしたものだ。もう取次のことも、内々に立ち入っての熟談はよそう』と決意したようです。三成は、『とても島津家は、長くはつづくまいと見切った』と繰り返し仰せられました」(*8)

 

 山本博文氏は以下のように説明しています。

「「取次」という存在は、大名の申し出や献上物を秀吉に披露し、秀吉の命令を大名に伝える文字どおりの公議向きの「取次」のほかに、「内々に立入候ての熟談」もすることが期待されていた。すなわち大名家には豊臣政権から期待されている行動を指南し、また大名家には豊臣政権から期待されている行動を指南し、また大名家の体制強化のため、しかるべき助言を行っていたのである。これにしたがうことによって、大名は自己の存続をはかることができた。しかし、その助言にしたがわないと豊臣政権の要求に応えることができず、ひいては御家の断絶につながることになるのである。 

安宅秀安の忠告

 三成は、島津家の中央政権の期待に応えていない現状が、義久の態度にあることを認識していた。島津氏がこのような様子では、「よくて国替え、悪くすると御家滅亡はまもない」と義弘をおどす。いや、親身に忠告しているのであろう。

「国としての置目をゆるがせにせず。借銀もなく、騎馬の者を十人も二十人も召しつれ、国持大名として恥ずかくないような外観を保ち、京都の屋敷も人並み以上のものを建てて、御家をもり立ててみせてほしい」

 と、皮肉ではなく義弘を励ましている。ここで紹介している義弘の長文の手紙の中で、この安宅の話を伝える次の一節に事の本質が現れている。

 

 就中(なかんずく)三兵(安宅三郎兵衛秀安)物語に、京儀へ精を入れ候ものは、惣別国元衆へ気にはづれ、龍様(義久)も我ら共も国元衆へ同意候て、京儀をも題目と存じ寄らざるの由、治少(石田三成)聞き付けられ候由に候。誠に大事なる儀共に候。

-とりわけ安宅秀安の話によると、豊臣政権に精を入れて働く者は、多くが国元の武士たちに嫌われ、義久様も自分(義弘)も国元の武士に同調して、豊臣政権の軍役などを大切に考えていないと、石田三成が聞き付けたということです。誠に重大事であります。」(*9)

 

 豊臣公議に臣従した大名には、京儀(豊臣公議)への奉公が課せられます。具体的には軍役、普請、在京の務め等です。こうした奉公が満足にできない大名は改易の対象となりえます。ましてや、当主の義久が、国元の豊臣公議に不満を持つ武士たちに同調して、率先してサボタージュしている状況は、島津家が豊臣公議に叛意を示していると受け止められても仕方なく、島津家滅亡の危機的状況といってよい状態にあります。

 石田三成は、「取次」「指南」として、どうにかしてこの島津家が公議の命令を無視している状況を打開し、島津家を忠実な豊臣大名として奉公させなければなりません。現状において島津家の行状が秀吉に咎められ取り潰される可能性というのは脅しでもなんでもなく、現実の可能性として大いにありうるのです。

「取次」は、取次先大名を盛りたて、忠実な豊臣大名として豊臣公議に貢献させれば、評価が高まりますが、逆に取次先の大名が豊臣公議に反抗的な態度ばかりをとり取り潰された場合は、取次先大名の「指南」ができなかったという話になりますので、「取次」としての資質に欠けると秀吉からみなされ、取次自身も失脚(改易)する可能性も高いです。そういった意味で、取次と取次先大名は一蓮托生の存在といってもよいといえます。

 島津家を説得するために、石田三成は、(それまで懇切・親身に島津家に接していたのに)急によそよそしく他人行儀の態度を取るようになり、取次の業務も公議の最低限の対応しなくなります。

 今まで親切だった人間が、急によそよそしくなると普通に怖くなりますね。それで義弘は、石田家臣の安宅秀康に三成の態度の変化した訳を聞きだし、現在の島津家が危機的状況にあることを認識します。義弘に現在の状況を認識させることによって、島津家に根本的な改革が必要な事を自覚させた訳です。

 

 天正十九年、秀吉は「唐入り」、すなわち明国征服へ向けての準備のため、「唐入り」の本拠として肥前名護屋城の普請・作事が命じられ、黒田長政小西行長加藤清正らを中心とする九州の諸大名によって始まる中、三成の兄石田正澄(当時、三成は奥州仕置で奥州にいるため在京していません)は、八月十五日付の書状で、島津義弘宛書状で島津義久に対して、積極的に名護屋城普請に応じるように促しています。

 これを受けて、義久はいったん名護屋に向かいますが、途中での罹病を理由に鹿児島へ帰ってしまいます。後に、義久は弟義弘を差し向けるので、問題ないと三成に弁明しているものの、ここでも義久の政権と距離をとろうとする態度が出てしまったといえます。(*10)

 

 加えて、島津家の分家である出水島津家の島津忠辰は、豊臣公議に対して非協力的な態度で、検地の実施や名護屋城普請の役負担に応じず「御迷惑」だと、義久から石田三成細川幽斎への書状に書かれています。三成・幽斎はこの問題にも対処しなければなりませんでした。(*11)

 

 天正二十(1592)年三月十三日、秀吉は朝鮮への渡海命令を発します。「唐入り」のはじまりです。

 この時、島津義弘・久保父子は、毛利吉成ら九州大名とともに第四軍に属し、朝鮮に速やかに上陸する予定でした。しかし、島津家においては義弘の軍団にだけにまかせ、義久の家臣はまったく無関係のような顔をしていました。また、朝鮮に渡る軍船を、国元から一艘も送らなかったため、義弘は、賃船を乗り継いで朝鮮を目指します。しかし、乗り継ぐ賃船もなかなか見当たらず諸国大名が我先に渡海する中、渡海は遅れに遅れ、かくして義弘が「日本一の遅陣」と嘆く不面目な事態に陥ります。(*12)

 

 義弘の「日本一の遅陣」の惨状の訴えを知った義久は、五月四日に鹿児島を出発し、六月五日に名護屋に詰めるとともに、島津家中で出陣していないものを調査し、出陣を命じます。

 この義久の命令が国元ではさらに深刻な事態が引き起こすことになります。朝鮮に出陣しようとしていた島津家の武将梅北国兼が、出兵に反対し、とって返して六月十五日、加藤清正の領地肥後佐敷の城を占拠し、反乱を起こすという事件(梅北一揆)が起こったのです。しかし、二日後の六月十七日、梅北国兼は謀殺され、乱が大規模になる前に一揆勢は討たれました。梅北一揆が起こった原因は、朝鮮に出陣していない者を調査・派遣させようとしたところ、遅れて渡海することを心外に思った梅北が「遅渡海の儀迷惑」に思って一揆を起こした、ということになっています。(*13)

(ちなみに、三成は軍目付として六月六日に朝鮮に渡海するため名護屋から出船しており、梅北一揆の処置に直接あたっていませんが、家臣の安宅秀安を介して島津家への指示を発しているようです。(*14))

 

 梅北一揆についての始末として、秀吉はこの梅北一揆の影に義久・義弘の弟歳久がいると睨み、七月十日付で以下のような朱印状を島津家に送ります。この朱印状について、山本氏は以下のように説明しています。

 

「七月五日、鹿児島にかえった義久は、同日付で名護屋の秀吉に注進状を送るが、折り返し返ってきた七月十日付の秀吉朱印状には、義久の弟歳久につき次のように記されていた。

「先年(島津氏征伐に)薩摩へ軍を出したとき、歳久は上意に対し慮外の働きをしたため、処罰しようかと考えていたが、その方と義弘を赦免したため同様に許した。しかし、京都に参勤することもなく重々不届きなので、京都からでも命じようかと考えていたが、ついでもなく延引していた。今回、もし歳久が義弘とともに朝鮮に渡っているなら、その身の儀は助け、家中の者に悪逆(反乱)の棟梁がいるのであろうから、十人も二十人も首をはねて進上せよ。もし朝鮮に渡らず国元にいるのであれば、かの歳久の首をはねて提出せよ」

「慮外の働き」とは、秀吉が歳久の祁答院領を通りすぎたとき、秀吉の輿に矢を射かけたことをいう。また、「悪逆之棟梁」という言い回しをみると、秀吉は、梅北一揆の陰に歳久がいるのであろうと推測しているようである。

 たしかに北薩摩を領地とする歳久を一揆の背後にみるのは自然である。そのため秀吉は、歳久が朝鮮に出陣しているか否かを試金石としようとしたわけである。

 はたして歳久は朝鮮へは出陣していない。年来の病身のため、国元で静養していたのである。秀吉の誤解であるが、なかなか申し開きもできない。」(*15)

 結局、梅北一揆の始末は歳久の自害で結着が付けられることになります。(*16)

 

 日本一の遅陣、梅北一揆により露呈した島津家の実情により、島津家は豊臣公議より、島津家内の政治体制を根本的に刷新する必要に迫られることになりました。このため、島津家の「取次」である細川幽斎の「薩隅仕置」が天正(1592)年八月から始まることになります。

 

 次回は、細川幽斎の「薩隅仕置」と、島津久保の死去・島津忠恒の継嗣について検討します。

※次回のエントリーです。↓

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  注

(*1)中野等 2017年、p67

(*2)山本博文 2001年、p59

(*3)山本博文 2001年、p60~62

(*4)山本博文 2001年、p62~65

(*5)山本博文 2001年、p65

(*6)山本博文 2001年、p68~69

(*7)山本博文 2001年、p69~70

(*8)山本博文 2001年、p70

(*9)山本博文 2001年、p70~72

(*10)中野等 2017年、p153

(*11)中野等 2017年、p153~154

(*12)山本博文 2001年、p78~80

(*13)山本博文 2001年、p80~82

(*14)中野等 2017年、p165

(*15)山本博文 2001年、p86~87

(*16)山本博文 2001年、p87~88

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山本博文島津義弘』中公文庫、2001年(1997年初出)