古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十五 奉行衆の主な三つの権能

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 今回は、豊臣公議の奉行衆の主な権能について書きます。

 

 秀吉の晩年、いわゆる五奉行前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家)が、有力外様大名グループといえる五大老と協力・連携して、秀吉死後、幼君秀頼公が成人するまで政権を担う後見役として指名されました。

 

 この五大老五奉行の十人の衆とは、会社でいえば取締役会の取締役であり、秀吉社長死後の豊臣株式会社の運営を任された存在です。

 秀頼は幼年であり、豊臣株式会社の社長と言いながら、実際には実権はありません。五大老は、社外取締役です。彼らは、豊臣公議の正当性の根拠である「軍事力」を保証するメンバーです。彼らは、いずれも大大名ですが、彼らは一義的には、彼らが支配する領域の支配者なのであり、豊臣公議自体の大まかな方向性についての討議には参加しますが、公議の実質的な運営を執行するのは、これまでも豊臣公議を実質的に執行してきた社内取締役といえる五奉行という事になります。

 

 つまりは五大老の方が家格・軍事力ともに五奉行より遙かに上ですが、彼らは「外部から」豊臣公議を助言・指導する立場にあります。実際に豊臣公議の中心となって具体的な事業を執行するのは、五奉行となります。そして、五奉行が指名される以前から、奉行衆は豊臣公議の中核として事業を執行していました。

 

1.奉行衆の主な権能とは何か?

 

 奉行衆の主な権能は、(1)外交、(2)幕僚、(3)行政の3つです。以下順に説明します。

 

(1)外交

 奉行衆は、外様大名との外交(取次・指南)を行いました。例えば、石田三成は、津軽家、上杉家、佐竹家、真田家、毛利家、島津家等の取次を、浅野長政は南部家、伊達家等の取次、増田長盛は長宗我部家、里見家等の取次を行っています。

 また、前田玄以は、朝廷・寺社外交を一手に引き受けていました。

 

「取次」が行った主な職務について以下に書きます。

 

① 豊臣公議の大名に対する外交政策の基本方針は、全国に「惣無事」体制を遵守させることであり、この政策方針は日本すべての大名に適用されます。大名同士の「境目相論」等が発生した場合は、秀吉が「境目」の裁定を下しますが、取次が取次先大名の弁護人として裁定に関わります。

 

② また、(3)行政で示すような、太閤検地や刀狩り等の全国的な「豊臣行政改革」の執行を各大名に「指南」するのも取次である奉行衆の仕事です。

 

③「唐入り」や普請における大名に対する賦役・軍役・在番の指示も取次を通して行われました。

 

 彼らの彼ら「取次」の秀吉への進言により、その大名家の浮沈がかかっており、「取次」の各大名の権力は絶大でした。

 また、彼ら「取次」の指南する太閤検地等の豊臣行政改革の指導を受け、改革を行うことによって、大名達は中世の脆弱な大名権力から、近世の専制的大名権力体制に成長することができるため、「豊臣行政改革」を受け入れることは、大名自身の権力強化のためには良い側面もありました。

 このため、豊臣公議の「取次」と外様大名win-winの関係になることが多かったのです。

 こうした事により、慶長五年の天下分け目の戦いにおいては、西軍(豊臣公議軍)がなぜか(取次である奉行衆と繋がりの深い)外様大名連合軍が中心となる奇妙な構図を形成することになります。

 

(2)幕僚

 よく、石田三成増田長盛長束正家らは、豊臣軍の兵站を担ったため、「兵站奉行」と評されることが多いのですが、それは彼らの一面的な役割を示したものであり、彼らの豊臣軍における本来の立ち位置を理解することができません。

 彼らを評するのに、「兵站奉行」とのみ表現するのは適当ではなく、豊臣軍の総指揮官秀吉を補佐する「幕僚」と呼ぶのが、最も適当と考えられます。

 

 フランスのナポレオンの幕僚を務めたことがある軍事思想家のアントワーヌ・アンリ・ジョミニは、著作の『戦争概論』で以下のように述べています。(ページは該当書のページ数)

ロジスティクス(筆者注:「兵站」のことです)という用語は、われわれの知るとおり、兵站監(major gènèal des logis,ドイツ語のQuartiermeistetr の訳)から由来している。この将校の職分は、かつては部隊を宿営させ、縦隊の行軍を支持し、そして彼等を某地域に陣取らせることであった。ロジスティクスはこの場合全く限られたものでしかなかった。だが戦争が天幕なしでも敢行されるようになったとき、軍の移動は一層複雑なものとなり、そして幕僚は従来以上に広範な機能を果たすようになった。幕僚の長は戦域の遠隔地まで指揮官の意図を伝え、そして彼のため作戦計画策定に必要な文書を整えはじめた。すなわち幕僚長は、指揮官を補佐するため、これが計画を具体化し、部下指揮官に命令指示としてこれら計画の内容を伝え、これを説明し、かつ巨細にわたりこれが実行を監督することを求められるようになった。従って彼の職分は作戦の全般にまたがることになったのである。」(p172~3)

 

 もちろん、ジョミニは19世紀のスイスの軍事思想家であり、16世紀の日本の豊臣軍の事を論じた訳ではありませんが、豊臣秀吉が数十万の軍隊を組織し、補給を整えて、統合した作戦を長期運用するためには、幕下に指揮官秀吉を補佐し作戦を遂行するための専門的スタッフである幕僚を組織することが必須になったといえます。

 その幕僚の役割を兵站奉行と呼ばれる奉行衆が担うことになります。

 

 秀吉軍は遠征において、対織田信雄徳川家康連合軍戦では十万人、九州島津征伐では十八万人、関東小田原征伐では二十一・二万の大軍を展開し、長期に渡って運用することによって勝利を収めています。このような遠征における大軍の長期運用は、戦国時代において豊臣秀吉のみができたものであり、この大軍を長期運用できる能力自体が秀吉の天下統一を成し遂げた原動力だったといえるでしょう。

 

関連エントリーです。↓

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(3)行政

 豊臣公議は、全国に改革を推し進めることになります。その主な改革が、太閤検地であり、刀狩りでした。

 太閤検地については、以下で書きました。↓

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 刀狩りについては、従来は村にある百姓の武器をすべて没収したように見られていましたが、実際にはすべての武器が没収された訳ではなく、主に百姓の「刀」を取り上げて帯刀を許さないことによって、帯刀を許されるのは武士のみとし、武士と百姓の身分コードを形成したのが主目的とされています。

 つまり、武士以外に刀の帯刀を認めない事により、身分を外見的にも明確にする、武士・百姓の身分の分離・統制令として「刀狩り」という政策があったといえます。

 

 こうした政策を豊臣奉行衆は全国に展開していくことになります。

 

 この他、奉行衆は、全国に散らばった豊臣公議約220万石にわたる蔵入地の管理を行い、豊臣家の財政運営を行っていました。

 実際の蔵入地を直接管理するのは、派遣された代官か近隣の大名が代官となって行うことになります。蔵入地の大名は厳正な蔵入地管理が求められ、そこから得られた年貢は当然豊臣家に上納する必要がありました。

 この全国蔵入地の年貢の上納の管理を奉行衆が受け持っていました。上納が滞る場合は奉行衆から厳しい督促があり、これは奉行衆と蔵入地を管理する大名達との軋轢を生んだ可能性があります。豊臣蔵入地を管理するのは豊臣家譜代大名が多く、利害関係を共有しない秀吉死後奉行衆と豊臣家譜代大名が対立する、対立までいかなくても距離をおかれる原因のひとつとなったと考えられます。

 

 また、京都奉行・所司代や堺奉行などの都市行政を行うことも、奉行衆の権能のひとつでした。

 

 以上を見てきても、奉行衆の権能は、行政・外交・軍事に幅広く広がっていることが分かります。

 

2.奉行衆は「吏僚派」ではない。

 

 さて、従来、奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶ方が一部いますが、実はその呼称自体が多大な問題をはらんでいると思われます。

 というのは、(2)の奉行衆の「幕僚」としての機能こそが、彼らの軍事における専門的権能でした。

 奉行衆の遠征における大軍の長期運用・兵站管理能力が、織田信雄徳川家康を臣従に追い込み、九州島津攻め、北条攻め等を勝利に導いて、秀吉の天下統一を支えました。奉行衆こそが、秀吉軍が「常勝」である原動力・中核だったといえます。 

 このため、彼ら奉行衆は武官であり、また軍の中心にいる存在であるといえ、それを「吏僚」「官僚」と呼んでしまうと、彼らの軍事の中核たる幕僚の活動を、まるで軍事ではないかように見られてしまいかねません。

 だから、彼ら奉行衆を「吏僚派」「官僚」と呼ぶのは非常に問題のある呼称といえるでしょう。

 奉行衆の主な権能の一つに(3)行政もあり、行政官僚としての奉行衆も重要な権能のひとつですが、奉行衆を「吏僚」と見るのは、奉行衆の幅広い権能を狭く見る一面的な見方だといえます。

 

 また、この「幕僚」としての奉行衆の能力に対する当時の戦国武将たちの評価は、関ヶ原の戦いの西軍・東軍の構図に大きな影響を与えたと考えます。

 

 豊臣軍と対峙して戦った、また対峙することはなかったにしても、戦う事をシミュレーションしてみた外様大名にしてみると、豊臣軍は驚異の存在だったでしょう。

 戦国時代の常識では、遠路はるばる十万・二十万の大軍がやってくることが考えにくく、もしやってきたとしても大軍ゆえに兵粮が尽きてすぐに撤退せざるを得なくなってしまうことが当然想定されたからです。

 当然、彼らにしてみれば、大軍による遠征軍の一番の弱点である兵粮が尽きることを待って(彼らの兵糧が尽きる)持久戦に持ち込もうとすることが、主な作戦となります。ところが、相手方の兵糧は尽きないため、あきらめて結局降伏するより他ない訳です。

 こうした、大軍の長期運用を可能にした豊臣軍幕僚=奉行衆によって、これまでの戦国時代の戦争の常識は打ち破られました。彼ら奉行衆は「武人」として戦争自体の概念を塗り替える存在として、外様大名にとっては畏敬の存在となったでしょう。

 彼ら奉行衆が「取次」として、外様の大大名と対等に渡り合えたのも、大名達から、奉行衆の「武人」としての能力への畏敬の念があったからだと思われます。

 

 一方で、他の豊臣譜代大名にしてみれば、奉行衆は出世競争のライバルに過ぎませんので、彼らが評価されれば、自分たちが出世競争で遅れるだけの話になります。このため、彼らが奉行衆の能力を正当に評価するメリットはありません。

 だから、彼らが奉行衆の能力をなるべく低く評価しようとするのは、ある意味当たり前なのです。互いの能力を認め合い称え合うスポーツマンシップのようなものを戦国武将に期待するのは無駄なことです。

 戦国大名の配下家臣団は互いに、あちらが上がれば、必然的にこちらが下がる「ライバル」同士なのであり、基本的に仲良し集団という事は有り得ない事について注意が必要です。

 

 なお、(「吏僚派」と対立する意味での)「武断派」なる派閥も存在しません。彼らが結局東軍についたのは、秀吉死後の実力者としての徳川家康との結びつきを重視したが故であり、彼らの多くが徳川家と縁戚関係を結んでいます。つまりは、彼らは「徳川派」と呼ばれるべきです。

 これを存在しない派閥である「武断派」等と呼んでしまうと、まるでそのような派閥が存在したかのような誤解を生んでしまいますし、彼らが「徳川派」である事の本質から外れてしまう恐れがでてきてしまいます。

 

3.関ヶ原の戦いにおける奇妙な構図

 

 関ヶ原の戦いを中心とする慶長五年の「天下分け目の戦い」を見ると奇妙な構図になっていることが分かります。

 

 西軍をみると、奉行衆(前田玄以増田長盛長束正家石田三成大谷吉継)、豊臣準御一門衆(宇喜多秀家毛利秀元小早川秀秋(後に裏切り))の他に西軍の中核を占めたのは、豊臣家にとっては外様大名といえる、上杉景勝佐竹義宣(上杉と密約を結ぶも、実際には動き(け)ませんでしたが)、真田昌幸織田秀信毛利輝元長宗我部盛親立花宗茂島津義弘らです。

 

 これに対して、東軍には豊臣恩顧大名とされる、福島正則加藤清正藤堂高虎細川忠興黒田長政らは家康にこぞって付きます。

 

 奉行衆は、外様大名への「取次」役を担うことにより、多くの外様大名からの信頼を受け、彼らは西軍につくことになります。一方、豊臣譜代大名は、奉行衆とは「取次」関係にはなく、むしろ蔵入地管理等を通じて、厳しく奉行衆から管理・統制される立場であり、唐入りの恩賞も秀吉死後はないに等しく、奉行衆に対して好感を抱いておりませんでした。

 そして、秀吉死後、奉行衆が運営する豊臣公議は、自分達の利益を反映するものではないと、彼らは考えました。

 

 この時代の大名達は「唐入り」により多大な兵の損耗、戦費の負担、重税による農村の荒廃により疲弊に喘いでいました。

 しかし、秀吉死後、「唐入り」の論考行賞については、秀頼が成人するまで基本的に加増等は凍結されました。「唐入り」の失敗により、新たな土地を切りとれなかった以上、そこをあえて土地を加増するならば、豊臣蔵入地より削る他ありません。豊臣蔵入地を管理する奉行衆としては、これを勝手な判断で認めるという事は、豊臣家に対する違背を問われ、できることではありませんでした。

 これにより、秀吉死後に「唐入り」諸将への加増は、撤退に際して抜群の働きをした島津家以外には、与えられませんでした。

 このため、特に豊臣譜代大名を中心に、「唐入り」への恩賞がないことに対する不満が高まることになります。

 

 これに対して、徳川家康は、不満を持つ彼らに利益をもたらす存在だと受け止められたということになります。しかし、その家康が「(諸大名に対して)利益をもたらすという事」は、日本国内に標的(前田利長あるいは上杉景勝)を作り出し、内戦を引き起こして勝利することによって、豊臣家から恩賞・加増を引き出して諸大名にばらまき、豊臣家を弱体化させる、という目論見だった訳ですが。

 

 こうして、豊臣方である西軍に多くの外様大名がつき、徳川方(東軍)に多くの豊臣譜代大名がつくという、ねじれの構図が天下分け目の戦いにおいて現出することになります。

 

(注)「譜代大名」も「外様大名」も当時の呼称ではなく、歴史用語としても江戸時代の大名の分類として使われる用語ですが、便宜的にここでは使用しました。よろしくお願いします。(特に譜代の使い方は厳密に言えば、適当ではないかもしれませんが、ご容赦願います。)

 

 参考文献

小和田哲男『秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

ジョミニ著、佐藤徳太郎訳『戦争概論』中公文庫、2001年

平井上総『[中世から近世へ]兵農分離はあったのか』平凡社、2017年

石田三成と甲賀と忍者

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 2017年8月26日付の河北新報によりますと、

 

青森県弘前市内で昨年秋に見つかった忍者屋敷に、戦国武将石田三成の子孫が居住していたことが25日、青森大忍者部の調査で分かった。同部は観光資源としての活用を呼び掛けており、全日空は11月、屋敷を含めた三成や忍者ゆかりの地を巡るツアーを始める予定。
 調査によると、関ケ原の戦い後、三成の次男重成が津軽地方に逃げ延び、杉山源吾と改名。宝暦5(1755)年の屋敷の居住者を記した地図から、杉山家の子孫である白川孫十郎が住んでいたことが判明した。
 実在した弘前藩の忍者集団「早道之者(はやみちのもの)」は重成の子の吉成によって結成されたことも分かった。杉山家は代々、早道之者を統率し、蝦夷地の調査や監視活動を指揮したとされ、屋敷は拠点として使用されていた可能性が高いという。」

http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201708/20170826_23002.html

 

との記事があります。

 

 なぜ、石田三成の子孫が弘前藩の忍者集団を結成することになったのでしょうか?

 これに関連すると思われる事項を、白川亨氏の『石田三成とその一族』(新人物往来社、1997年)より、引用・紹介します。(ページは上記書籍の該当ページです。)

 

「石田家も、かつては近江守護大名・佐々木氏の配下にあり(『一向宗極楽寺系図』)、甲賀の諸族も石田氏同様に佐々木氏の配下にあった(『江州佐々木南北諸氏帳』)。甲賀の入り口に当たる野洲郡赤野井村(現・守山市石田町)は、石田一族が大永年間から地頭?として配されており、現在も石田町の半数近くは石田姓が住んでいる。」(p104)

  

 そして、三成は(元服後から)十八歳まで「武芸と兵法の修業」のために、甲賀の多喜家に預けられたと、白川亨氏は『極楽寺系図』や『霊牌日鑑』より述べています。

 三成の祖母(祖父為広の妻)は甲賀の多喜家の出であり、そのため三成は多喜家に預けられ、甲賀独自の武芸と兵法の習得を図ったのであろうとしています。(p106)

 

 従来、三成が秀吉に仕官した時期については、天正元(1573)年~天正二(1574)年までの秀吉の横山城代か小谷城主の頃(三成十四~十五歳の頃)の説が多いですが、白川氏は当時の家臣知行配分記録には、石田左吉の名は載っておらず、また三成嫡男宗享禅師(重家)の遺した『霊牌日鑑』には、三成は十八歳(天正五(1577)年)の時、姫路にいる秀吉に仕官したと記録されている、としています。(p106)

 

 また、三成の次男杉山源吾重成(「杉山」姓は関ヶ原の戦い後に、津軽に亡命した際に名乗った姓)は、戦前は秀頼の小姓として「杉山の郷」を拝領していたという杉山家の伝承があり、この杉山の郷とは、現在の滋賀県甲賀郡信楽町大字杉山に当たると白川氏はしています。この甲賀の地は隣接する伊賀の地と同様に忍者の里として知られています。(p104・106)

 

 以上のように、三成の祖母は甲賀の多喜家の出であり、三成はその多喜家の元で武芸と兵法の修業に励みました。また、三成の次男重成が秀頼の小姓として拝領したのも甲賀の杉山の郷でした。

 こうした石田家と甲賀忍者との関係が三成の子孫にも受け継がれ、弘前藩の忍者集団を結成するに至ったのだと考えられます。

北信濃で石田三成・直江兼続が進めた「兵農分離」

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関連エントリーです。↓

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~36を引用・参照しました。)

 

 近年は、「兵農分離はあったのか?」という疑問が出されるようになりました。

兵農分離」の定義は何か?というところから始まりそうな話ですが、近年の研究を見ると、同時期に全国的に均一な「兵農分離」が行われた訳ではない、という見解が多いように見受けます。

 

 さて、高橋敏氏の『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』の記述によりますと、慶長三(1598)年に行われた上杉景勝の越後・北信濃四郡→陸奥・出羽120万石陸奥・出羽への国替に伴う、北信濃の「兵農分離」は徹底して行われたようです。

 この国替作業を石田三成は、上杉景勝家老直江兼続と共に取り仕切ります。

 

 以下、高橋敏氏の著作より引用します。

 

「ちょうど(筆者注:秀吉の景勝に対する国替命令から)一ヵ月後の二月一〇日、直江兼続信濃埴科郡海津・水内郡長沼両城の石田三成の奉行衆への引き渡しを命じ、領内から会津へ移動に際して一二ヶ条からなる掟書を発令している。注目すべきは、三成の意を受けた家臣に仕える奉公人の移住に関する厳格な措置である。上位の倅者(かせもの)から百姓身分と分かちがたい小者・中間に至るまで家中の武士身分に包括された者は、すべて一人残らず会津に同伴しなければならない。これに従わない者は成敗せよと厳命している(「信州河中嶋海津・長沼両城治部少輔殿奉行衆へ可相渡覚」『信濃史料第一八巻』)

 

 一此中めしつかい候かせもの(倅者)ゝ義ハ申にをよはす、こもの(小者)・ちうけん(中間)成とも、今度罷下らす候ハヽ、すなハちせいはい(成敗)いたすへき事

 

 一方で残留する百姓には手厚い保護の手を差し延べている。家中の地頭・代官に不法な搾取があったときは文書を持って訴えることを許している。さらに横合いから不当な所業をする奉公人は即刻成敗し、見逃した者も同罪であると旧領内在地に残留する百姓・町人を保護している。百姓に甘く、奉公人には厳しい処置である(掟書「条々」)。

 

 一当地頭・代官、前々法度を背き、一銭成共非分之儀を申懸は、以目安(めやすをもって)可申上事

 一為奉公人者、不寄上下、町人・地下人に対し横合非分之儀、乗合、笠咎(かさとが)め・押売・押買、惣而我儘之者於有之者(これあるにおいては)、立所可加成敗(せいばいをくわうべし)、自然見合候者ハヽ致見除、取逃に於(おい)てハ同罪可為(たるべき)事

 

 当然、兵農分離によって豊臣氏の蔵入地の村々に残って年貢負担者となる百姓を保護し、新しい村つくりが着手される。

 

 一百姓以下、唯今迄有来可為如(ごとくたるべく)候、縦(たとえ)如何様儀於有之者、可為用捨(ようしゃたるべき)事

 一百姓たとへ私曲ありと云共、速に不遂披露(ひろうをとげず)、私に成敗不可有之(これあるべからざる)事

 一困窮出百姓等者無利分之米、分際用所次第可借(かすべき)事

 

 百姓は従来通りの生業がゆるされ、たとえ私曲不正が見つかっても私の成敗から逃れ、切り捨て御免はなくなった。また貧窮のため逐電等離村した百姓には無利子の米を貸して帰村を図っている。百姓にまとわりついていた倅者等の種々の中間搾取者を会津に追放して領主と百姓という単一の支配を構築して一地一作人制の新しい村を創出しようとしたのである。

 侍・中間・小者のいなくなった村はどうなるのか。「おとな百姓」なる百姓のリーダーが現れている。新しい領主の支配の下百姓をまとめ年貢諸役を請け負う村役人、名主に先行した存在であった。

 

 一自然之儀ハ、其品之儀札に書付、印判を定、おとな百姓に可申付候、左様慥(たしか)成儀無之而、一切不可致許容(きょよういたすべからず)候、強而申付族於有之者(しいてもうしつけるやからこれあるにおいては)、召搦(めしからめ)、地頭・代官に可引渡事」

 

 以上を見ますと、ここまで徹底した「兵農分離」というのは、現実には「国替」を伴わないと困難だったのではないかと思われます。

 また、当然豊臣家の蔵入地(直轄地)に、豊臣公議の目指す政策が直接反映されたことになります。(他の大名の土地政策に、直接一から十まで介入できる程、豊臣公議は中央集権的な政権ではありません。そこは、各大名の実情に合わせ、現実的な政策の「指南」が行われていたといえます。)

 

 この、北信濃で新しく作られた豊臣家蔵入地の「兵農分離」に、豊臣公議奉行衆石田三成らが目指した「村づくり・国づくり」が見えてくるのではないでしょうか。

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年

考察・関ヶ原の合戦  其の二十四 西軍における石田三成の立ち位置について

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 慶長五(1600)年に起こった天下分け目の戦いにおける西軍の戦略は、基本的に総大将毛利輝元方により立てられたものです。

 ※総大将毛利輝元の立てた戦略については、以下参照↓

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 従来の通説では、「実質的な総大将は石田三成」という誤った先入観があるため、この西軍の立てた戦略を、石田三成の立てた戦略であると勘違いしてしまう傾向にあります。

 しかし、実際には石田三成の立てた戦略が、西軍本部といえる大坂方に採用された形跡はありません。

 これは、石田三成真田昌幸・信幸・信繁宛書状等から分かります。

 これらの書状によりますと、西軍の基本戦略は、西軍主力が美濃国岐阜城主の織田秀信と連携して尾張へ出陣し、家康方の拠点を奪取し、さらに東進して三河方面へ進出するというものであったかようにみえます。

 しかし、これは、「石田三成」の立てた戦略であったかとは思いますが、「西軍全体」の戦略ではありません。

 石田三成としては、信濃で孤立している真田家を鼓舞するために、今すぐ大軍が東上するかのように述べて、味方に繋ぎとめておかなければなりません。

 三成に限らず、遠方で敵方に囲まれ孤立している大名・武将には、援軍が今すぐ来るぞ、のような景気の良い話をしてして士気を高める必要があり、また三成はこの戦略を実際に大坂方(毛利輝元増田長盛ら)に説いて、西軍の主戦略として提唱していたであろうかと思われます。

 けれども、大坂方(毛利輝元)の主戦略は、丹後・北国・伊勢・美濃・四国・九州へと兵を分散して、なるべく西軍の勢力範囲を拡大することに主眼が置かれており、美濃方面軍も1万5千人ほどしか兵は置かれていませんでした。

 この程度の戦力で東上作戦ができる訳もなく、清洲攻略も、三河方面へ進出する戦略も、西軍首脳部が採用していなかったのは明らかです。 

 三成は、東西で家康を挟み撃ちにする戦略を立てていたかと思われます。(ただし、三成が上杉景勝と事前に通謀していた形跡はなく、これは戦いが始まった後に急遽立てられた戦略です。)

 ところが、陸奥・北関東における親西軍勢力といえる上杉景勝佐竹義宣に関東に乱入せよと、説いたところで、後背の伊達・最上の動きが油断ならないこともあり、単独ではおいそれと動きようがありません。このため、西軍主力が東上し、東西から挟む姿勢を取らないと、彼らとしても関東乱入しようがないことになります。

 こうして、西軍主力による東上作戦がない以上、上杉・佐竹による関東乱入もないことになり、東西で徳川方を挟み撃ちする策は成り立ちようがありません。

 結局、三成の戦略の提唱は却下されている訳で、西軍における三成の立ち位置はその程度のものだと分かります。三成は戦略の決定権のない、西軍における(有力ではあるが)一大名にすぎません。

 こうした意味でも、石田三成が西軍の実質的な総大将と呼ぶのは誤りといえます。

考察・関ヶ原の合戦  其の二十三 徳川家康の森忠政独断加増事件-北信濃を巡る関ヶ原前哨戦

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(以下の記述は、高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年のp31~39を参照しました。)

 

 慶長三(1598)年正月十日、豊臣秀吉は越後一国と北信濃四郡(更科・埴科・水内・高井)を支配する上杉景勝に対し、会津若松城を本城とする陸奥・出羽120万石への国替を命じます。

 

 上杉重臣直江兼続と共同してこの国替作業に携わったのが石田三成でした。三成は、上杉の旧領すべてを一旦自らの管轄下に置き、配下の奉行衆を派遣して、領知替え万端を監督します。

 

 越後国には堀秀治が入封し、北信濃四郡十三万九〇〇〇石のうち、関一政・田丸直昌領、寺社領、代官扶持領を除いた、五万五二六五石が豊臣家の直轄蔵入地に編入されました。

 

 この蔵入地は、「家康の西上に備える兵站基地にしようとした企みが見え隠れする。」(*1)と高橋敏氏は指摘しています。

 三成の縁戚・盟友といえる信濃国上田の真田昌幸と、豊臣恩顧大名である関一政・田丸直昌領、そして五万五二六五石の蔵入地をもって、関東の家康が万が一豊臣家に刃向かい、信濃を経由して西上を図った場合、これを阻止するための基盤を北信濃に確保した訳です。

 

 しかし、秀吉が慶長三(1598)年八月一八日に死去し、翌年閏三月に起こった七将襲撃事件によって三成が隠居に追い込まれた後、家康の反撃が始まります。

 

 慶長五(1600)年二月一日、徳川家康は田丸直昌を川中島から美濃国内四万石、関一政を飯山から美濃国内三万石に移封します。五大老連署の決まりを破った家康単独署名の領知状でした。

 同日、家康に近い森忠政が美濃兼山城から海津城に移され、忠政は七万石から一三万石七五〇〇石の大幅加増となります。豊臣家の蔵入地五万五二六五石の蔵入地は、家康の勝手な判断で没収され、徳川方に押さえられることになりました。

 家康から私恩を受けた森忠政は、関ヶ原の戦いで徳川方に付くことになります。

 

 こうして、北信濃に築かれた家康防波堤は、家康によって破壊されることになりました。これにより、徳川軍の中山道西上を阻止するのは、上田の真田昌幸のみということになり、北信濃で徳川軍の西上を阻止するのが困難になったといえます。家康の先の戦いを読んだ蔵入地没収と、森忠政への独断加増といえます。

 しかし、天下分け目の戦いが起こった時に、中山道を西上した(徳川本隊といえる)徳川秀忠軍が結局関ヶ原の戦いには間に合わずに終わったのは、また歴史の皮肉といえるでしょう。 

 

関連エントリーです。↓

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 注

高橋敏 2017年、p32

 

 参考文献

高橋敏『一茶の相続争い-北国街道柏原宿訴訟始末』岩波新書、2017年

考察・関ヶ原の合戦 其の二十二 七将襲撃事件以降の石田家の動向について

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 七将襲撃事件以降の石田家の動向について以下に述べます。

 

 慶長四(1599)年閏三月四日、石田三成は、加藤清正ら七将の襲撃を受けます。三成は大坂から伏見に逃げ、伏見城の治部少丸に籠りますが、徳川家康の「仲裁」を受けて、三成が閏三月十日佐和山に隠居することで事件は決着します。

 

 なお、家康の「仲裁」といいますが、七将襲撃事件の黒幕が徳川家康自身なのでないかという見方は当時からあった、というより、当時より家康が七将の黒幕であることは当然の前提として、周囲の人物達から考えられていました。

 

 例えば、閏三月四日以降に書かれたとみられる毛利元康宛毛利輝元書状を見ると、大坂城の番である小出秀政・片桐且元は「内府方(徳川派)」であるため、軍事行動は無駄としており、また大谷吉継は輝元が家康と対峙すべきだと述べている等、襲撃者一派(七将ら)が「内府方(家康派)」であることを当然の前提とした記述をしています。(*1)

 

 また、前田家家臣村井勘十郎は、その覚書に七将襲撃事件について「内府の御意に入り度く体にて」と書き記しています。(*2)

 

 慶長五(1600)年七月十七日の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の「内府違いの条々」には、家康弾劾の項目の第一として、家康が浅野長政石田三成の「年寄(奉行)」を逼塞に追い込んだことを咎めています。(*3)

 

 また、徳川家康は、七将襲撃事件の七将の一人である細川忠興を慶長五(1600)年二月、六万石の加増を行っており、(*4)これも「内府違いの条々」の指弾の一つとなっています。

 忠興には加増に値するような特に目立った功はなく、忠興が七将襲撃事件を主導し家康の権力強化に貢献した「功」に、家康が私的に報いたとみなされても仕方ありません。

 

 つまり、七将襲撃事件の黒幕は徳川家康である事は当時から知れ渡っていたことなのであり、そうであるにも関わらず、徳川派も反徳川派も、家康がまるで善意の中立的な仲裁者であるかのような茶番劇を演じることによって、双方の交渉を可能にしたという事になります。

 

 さて、三成が佐和山に実際に隠遁する閏三月十日に先立つ、閏三月八日に三成の嫡男重家の出仕が認められ、重家は家康の元に赴き礼を述べています。(*5)この頃には、家康の「仲裁」方針の大方が固まったということでしょう。こうして重家を当主とした石田家の存続が認められることになります。

 

 石田三成の兄、正澄も豊臣家家臣・堺政所として健在であり、また秀頼御にいつでも伺候できる衆の一人に名を連ねています。(*6)

 

 慶長四(1599)年九月七日、重陽節句に際して、伏見から大坂の石田三成邸に家康は入ります。家康の大坂宿所として石田家が主不在の大坂屋敷を家康に提供した訳です。(*7)

 

 そして、その日に家康の元を増田長盛が訪れ、前田利長を首謀とする家康暗殺計画があることを密告します。

 一方、正澄は三成邸に入った家康に、その五日後の十二日には自身の屋敷を提供し、自らは堺へ移ります。なぜ、三成邸から正澄邸に家康を移したかというと、三成邸は大坂城外にあり、正澄邸は大坂城内にあるという理由によるものだとのことです。(*8) 

 

 一方、佐和山にいた三成は、家康から利長の軍勢の上洛を阻止するよう命じられ、一千余の軍勢を越前へ派兵しています。(*9)(なお、三成は隠居中であり、三成自身の出陣はありませんでした。)

 

 こうして見ていくと、石田家は七将襲撃事件以降、家康とは協力関係にあったように見受けられます。しかし、以前のエントリーで見た来たとおり、秀吉の生前から石田家と徳川家の親交はあったのです。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!? 

 

 七将襲撃事件以後から、いきなり石田家と徳川家が親しくなった訳ではありません。

 そして、この時期(七将襲撃事件以後)、石田三成自身の意思として、三成と徳川家康が協力関係にあった、と考えるのは早計です。

 三成は七将襲撃事件の結果隠居し、石田家当主としての力も失いました。三成に代わって年少の重家(当時14~16歳だったとされます)を支えて、石田家存続のために尽力したのが、三成の兄の正澄といえます。つまり、この時期の石田家の判断・行動は正澄の意思によるものが大きいと考えるべきです。

 正澄の判断・行動は強大な権力を持つ家康に従わない限り、石田家の存続はありえないという判断によるものだったのでしょう。(この判断は結果的に正しかった訳です。)

 

 一方で三成は、七将襲撃事件以前は、家康とは一定の親交関係にあり、私婚違約事件の際にも事態の収拾のために動いていた訳です。しかし、七将襲撃事件の黒幕が家康である可能性が高いというのが当時の共通認識だった訳ですから、むしろ七将襲撃事件が、三成が家康に不信感を抱き、敵視するきっかけになったのではないでしょうか。

 

 このため、この時期の石田家と徳川家の協力関係を、隠居している三成の積極的な意思とみなす事はできません。また、越前派兵も家康の要請によるものであり、この時期は、石田家の存続のためには徳川家に従うより他はなく、これを石田家の自発的な意思とみなすのは間違いです。

 

 石田家は最終的には真田家のようには家を東西に分けることなく、石田家当主として復活した三成の意思に従って、全員が西軍につきます。石田家の結束力は高かったといえるでしょう。

 

 注

(*1)光成準治 2009年、p28~30

(*2)白川亨 2009年、p126

(*3)中野等 2017年、p419

(*3)中野等 2017年、p419

(*4)小和田哲男 2012年、p270

(*5)水野伍貴 2011年、p96

(*6)水野伍貴 2011年、p96

(*7)水野伍貴 2011年、p97

(*8)水野伍貴 2011年、p97

(*9)水野伍貴 2011年、p97

 

 参考文献

小和田哲男ミネルヴァ日本評伝選 黒田如水-臣下百姓の罰恐るべし-』ミネルヴァ書房、2012年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

水野伍貴「石田正澄と石田三成」(『歴史読本 2011年12月号』新人物往来社、2011年所収)

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年

考察・関ヶ原の合戦 其の二十一 宇喜多騒動とは

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※前回のエントリーです。↓

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 それでは、宇喜多騒動について述べます。

 

1.宇喜多秀家の大名権力確立

 

 天正年間(1573~92)末期から文禄年間(1592~96)にかけて宇喜多秀家は、豊臣政権=秀吉を後ろ盾にして、自身への集権化を進め、領国支配体制の確立を進めます。

 大西泰正氏は、この宇喜多支配体制の確立への行程を4点に整理しています。

 

A.豊臣秀吉の後援のもと家中統制を強化(領国支配体制の確立)

B.叙位任官によって秀家-有力家臣の主従関係・序列を明確化

C.有力家臣から実務に秀でた側近(「直属奉行人」)への領国支配主導権の移行

D.惣国検地による土地所有権の秀家への集約(「家臣独自の土地所有を否定」)と家中の再編(*1)

 

 特に、D.の惣国検地と家中再編により、宇喜多家の総石高は増加し、土地支配権は大名の秀家に集約され、大名蔵入地(直轄領)は大幅に増加することになります。

 一方で、宇喜多家の三家老(岡・長船・富川(戸川)家の三家)以下家臣団は所領の移転(所替)ないし分散を強いられ、在地領主の性格を失い、秀家との主従関係も強化されます。

 しかも、新たに決定した石高は、実際よりも過大に設定され、多くの家臣が実質的な減収と軍役負担の増大を強いられました。(*2)

 

 惣国検地により、それまでの既得権力を削がれた宇喜多家の有力家臣達の不満・憎悪は、検地を取り仕切った中村家正らの直属奉行人へ向けられることになります。

 

 そして、慶長三(1598)年秀吉が死去し、その後、宇喜多家を後援していた豊臣公議奉行衆が(石田三成浅野長政の謹慎等により)失権する事により、豊臣大名・大老としての秀家自身の権力も弱体化することになります。

 

 この秀家の権力が弱体化した頃合を見計らって、それまでに溜まっていた宇喜多家有力家臣達の不満が、慶長四(1599)年末に爆発し宇喜多騒動へと発展していきます。

 

2.宇喜多騒動の展開

 

 以下、大西泰正氏の著作を参考に、宇喜多騒動の概要をまとめます。(*3)

 

① 慶長四年(1599)の末、秀家の有力家臣、浮田左京亮・戸川達安・岡越前守・花房秀成らが、大坂城下の左京亮邸に集結、武装して立てこもります。(浮田左京亮は宇喜多秀家の従兄弟です。宇喜多詮家と呼ばれることが多いですが、大西泰正氏は「詮家」という名は後世の創作としています。(*4))

② これより前に、宇喜多秀家が直属奉行人として重用していた側近中村家正の成敗を彼らは企てていますが失敗、大谷吉継榊原康政徳川家重臣)らがその仲裁を試みるも、失敗しています。

③ 翌年正月五日には、京都太秦に隠れていた中村家正が左京亮らの一党に襲撃されます。家正は所用のため、大坂住吉に出かけており、危うく難を逃れます。

④ 正月九日、伏見の秀家邸で磔刑者がありました。左京亮らの関係者とみられます。

⑥ 大坂の徳川家康が調停に乗り出します。正月のうちにいったん騒動は収束しました。『当代記』によると、このとき、大谷吉継は秀家に道理のあることを主張し、家康は左京亮らを弁護したといいます。

⑦ 家康による裁定の結果、浮田左京亮・岡越前守・花房秀成らは備前へ下国、戸川達安らは武蔵国岩付へ送られます。

⑧ 五月に、宇喜多秀家と有力家臣は再び衝突。五月中旬には決着が付きます。この結果、岡越前守・花房秀成が秀家のもとを離れ、大和国に移ります。

⑨ こうして、秀家に反抗した有力家臣は浮田左京亮を除き、すべて宇喜多家中を去りました。その想定知行は十四万石余りにも及んだということです。「直属奉行人」中村家正らも、宇喜多家を退去します。

 宇喜多家中の人材不足は深刻なものとなり、秀家は騒動には中立の立場を守った明石掃部(一般に、明石全登と呼ばれますが、全登は後世につけられた名称とのことです。)を領国指導者に抜擢します。

⑨ さっそく明石掃部は、上方で知名の侍多数を宇喜多家中に召し抱えるなど家中の立て直しをはかりますが、領国支配を立て直す時間的余裕もなく、関ヶ原合戦を迎えます。

 

3.宇喜多騒動の影響

 

 宇喜多騒動が及ぼした影響について、以下に書きます。

 

① 宇喜多騒動で多くの有力家臣が離脱したことにより、西軍の主力軍となったはずの宇喜多軍は、牢人衆を中心としたものにせざるを得ず、弱体化したということです。

 これが、関ヶ原の戦いので西軍が敗れた原因のひとつになったとされます。

 ② 宇喜多騒動に参加した家臣のうち、浮田左京亮と戸川達安は、関ヶ原の戦いの際に東軍(徳川軍)につきます。 

 

 浮田左京亮は、上杉討伐のため、東国に宇喜多本隊よりも先に出陣して徳川軍に合流しており、そのまま七月十七日の内府違いの条々発出以降も、宇喜多軍には戻らず徳川軍につきました。 

 これは宇喜多騒動で秀家に反抗した浮田左京亮が、西軍決起の際に宇喜多家中に留まっているとすれば、不満分子として内部で反乱や内通を起こされかねませんので、それをあらかじめ防止するために浮田左京亮を先行させるよう、秀家が措置したという事が考えられます。

 

 戸川達安は、家康の領国である武蔵国岩付に配流されましたが、西軍決起後、東軍の一将として福島正則らと共に清洲まで西上します。

 慶長五(1600)年八月十八日付の達安の、明石掃部宛の書状(明石掃部の調略を狙ったものです)には、

「(前略)一、私(筆者注:戸川達安)はこのたびの家中騒動の処分の際、家康様に大きな恩を受けました。その上配流先の関東においても親切にしていただきましたので、妻子がそちらにおりましても家康様に無二の奉公をし、どのようなことがあっても家康様のために死ぬ覚悟です。(後略)」(*5)

という内容が書かれています。 

 この書状を見ますと、家康は戸川達安の配流先を自国の武蔵国岩付にして、その地で達安を庇護することによって、事実上の徳川家臣となるように取り込みを図ったといえます。

 ② 『慶長年中卜斎記』によると、宇喜多騒動で「大谷吉継榊原康政・津田秀正の三名が仲介に入ろうとしたが、康政は家康から叱責されて関東に追い返され、吉継と家康の仲もこの一件を契機に悪化したと」(*6))されています。

 

 その前の慶長四(1599)年九月に、家康が秀家の大坂から伏見への異動を強制している事から分かるように、秀家は家康にとっては、自らの豊臣公議の権力独占を阻む政敵でした。

 このため、宇喜多騒動を仲介する立場を利用して、秀家に反抗的な家臣の保護・取込みを図り、その事によって宇喜多家の弱体化を図ろうと、家康が企てて実行したと考えられます。

 

 こうした家康の言動を見て、吉継は家康の態度に不信感を抱き、この事がそれまで親徳川派として行動しているように見受けられた吉継が家康を見限り、関ヶ原の戦いにおいて西軍についた契機になったといえます。

 

 ※関ヶ原の戦い前の大谷吉継の動向については、以下のエントリーを参照願います。 ↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十七 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・大谷吉継も、しばらく「徳川派」だった

 

(この後、上杉征伐の阻止のために吉継は上杉との取次役として奔走しますが、結局家康は、吉継の意図に反して上杉征伐を強行に押し切りましたので、吉継の家康への不信・疑念は更に高まったことが考えられます。)

 

 次回は、七将襲撃事件以後の石田家の動向について検討します。

 

 

  注

(*1)大西康正 2017年、p45~46

(*2)大西康正 2017年、p47

(*3)大西康正 2017年、p71~75

(*4)大西康正 2017年、p26

(*5)光成準治 2009年、p217~218

(*6)光成準治 2009年、p210

 

 参考文献

大西泰正『シリーズ・実像に迫る013 宇喜多秀家』戎光祥出版、2017年

光成準治『NHKブックス[1138]関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』日本放送協会(NHK出版)、2009年