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古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

三国志 考察 その22 なぜ、何進・袁紹は董卓を召し寄せたのか?①

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☆前のエントリー(三国志 考察 その21 霊帝は暗君だったか?

 

(『三国志』の引用(*1~*6)はちくま学芸文庫版、『後漢書』(*7~*18)の引用は岩波書店版からです。)

 

1.中平六(189)年の何進袁紹の宦官粛清劇I

 

 中平六(189)年霊帝崩御し、「皇太子(少帝-弘農王)が位につき、皇太后何進の妹で霊帝の皇后)が朝議に臨席して政治をとった。大将軍何進袁紹と宦官殺害の計画を立てたが、皇后は聴許しなかった。何進はそこで董卓を召しよせ、皇太后に圧力をかけようとし」(*1)ます。

 しかし、董卓がまだ到着しないうちに、何進は(筆者注:宦官達に)殺され」(*2)ます。この直後に、袁紹袁術による宦官の虐殺が起こります。

 その後董卓は到着すると、皇帝を廃して弘農王とし、献帝を擁立した。首都は大混乱に陥った。」(*3)という記述の通り董卓によるクーデターが発生し、後漢は大混乱の末、滅亡へと向かっていくことになります。

 

※ちなみに、『三国志』注の王沈『魏書』に以下の記述があります。

 

「太祖(筆者注:曹操)はそれ(筆者注:何進董卓を召しよせたこと)を聞いて嘲笑した、「去勢された宦官はいつの時代にもあって当然のもの。ただその時代の君主は、彼らに権力や恩寵を与えてはならず、このような事態を招かないようにすべきだ。もし彼らの罪を処断するならば、張本人を処刑すべきで、一人の獄吏で充分だ。どうしてごたごたと外にいる将軍を召しよせる必要があろう。彼らをみなごろしにするつもりになれば、事は露見するにちがいない。わしにはその失敗が目に見える。」(*3)

 

 上記を読んで、「曹操は、未来を見通せるんだ!さすが曹操、頭が良い!」とか思ってはいけません。この歴史書の記述は典型的な「事後予言」というものです。

 

 歴史家は歴史書を書いている現在において、過去のことを知っていますので、歴史書を書くときに、記述する人物がまるで未来を見通しているかのように語らせることができます。そういった記述を書くことで、その人物の聡明さを創作することができるのです。この『魏書』に限らず、こうした歴史上の人物に「事後予言」を語らせる手法は、中国の歴史書にはよく見かけられます。

 

 現代でも、陳腐な歴史ドラマの脚本では、登場人物に「事後予言」を語らせて、脚本家的には登場人物の聡明さをPRしているつもりの手法がありますが、かえって視聴者を白けさせていますので、脚本家はこうした手法はもうやめた方がいいのではないかと思います。

 

 こうした「事後予言」は歴史家の創作であって、曹操本人が上記注のように述べたとは考えられません。また、この『魏書』の曹操の述べていることは、現実からかけ離れた理想論を言っているのみであって、歴史家が曹操を頭良く見せようと思って、かえって「曹操は現実が見えていない」という印象すら与えかねません。「一人の獄吏で充分」なら、誰もこんな苦労はしません。これまでのエントリー(三国志 考察 その11 後漢の宦官は必要悪(1) (2) (3))で見てきたように、宮中での外戚と宦官との戦いは、全て宦官側が勝利しているのです。この事実を直視しない限り、宦官打倒をすることは無理です。

 

 歴史家は記述する人物のためにも、こうした創作は控えるべきでしょう。(陳寿はさすがに、この『魏書』の記述は本文から落としています。)

 

 話が脇道にそれました。元に戻って、なぜ何進董卓を召しよせたのか、検討しましょう。結局、何進董卓を召し寄せたことが、後漢の滅亡を早めた大きな要因といえるからです。

 

 上記にも書いてあるとおり、何進董卓を召しよせたのは、妹である皇太后に圧力をかけるためです。なぜ、何進は皇太后に圧力をかける必要があったのでしょう。

 

 元々、何進の妹が後宮に入れたのは「黄門(宦官の官位)の手びき」(*5)によるものです。そして、「〔妹は〕寵愛をうけ、光和三年(180)に皇后に立てられた。何進はそのおかげで出世し天子に目をかけられることになった。」(*6)とあります。

 

 また、霊帝の夫人の一人に王美人という人がいました。この王美人が後の献帝の母な訳ですが、何皇后は霊帝の寵愛が王美人に集まることを嫉視して、ついには王美人を毒殺してしまいます。この時霊帝「大いに怒り、后(筆者注:何皇后)を廃せんと欲せしも、諸々の宦官固く請いて止むことを得」(*7)ます。

 

 このように、皇太后何進は、宦官達の引き立てで今の位置にあるわけですから、宦官達とはむしろ友好関係にあった訳です。宦官達に感謝することはあっても、除こうと思うような関係ではありませんでした。

 

 この友好関係が崩れだすのが、霊帝崩御した時です。(以下の記述は、『後漢書 何進列伝』第八冊p272~を参照しました。)病が篤くなり自分の命がもういくばくもないと思った霊帝は、王美人の子である協皇子を宦官の蹇碩(ケンセキ)に託します。元々何進兄弟を軽んじていた蹇碩(ケンセキ)は遺詔を受け、皇太子である辯皇子(何皇后の子)を廃して、次の皇帝に協皇子を擁立しようと計画します。そのためには、まず重権を握る大将軍の何進を排除(誅殺)することが必要になります。蹇碩何進を宮中に呼び出し暗殺しようと計画します。

 

 しかし、蹇碩の司馬潘陰が何進と親しかったため、何進が宮中に入ろうとするときに目配せをして危険を知らせ、何進は病と称して戻り宮中に入りませんでした。暗殺計画は失敗し、予定通り皇太子であり何太后の実子である辯皇子が即位し、何太后が臨朝することになります。

 

 何進は、このような暗殺計画があったことを怒り蹇碩を誅殺しようと考えます。ここへ出てくるのが、現在何進の側近となっている袁紹です。袁紹はこの期に宦官達を一掃してしまうべきだ、と述べます。

 

 過去の「党錮の禁」によって、宦官達に批判的な勢力(党人達)は大弾圧を受けていました。党錮の禁黄巾の乱によって解除されましたが、このまま宦官達に宮中で権力を握らせてのさばらせておくと、いつまた「党錮の禁」が復活し、党人が排除されるか分かりません。また、長年の党錮の禁による宦官の弾圧により命を落とした清流派の士大夫は多く、士大夫の宦官に対する恨みは深いものがありました。この期に宦官達を宮廷から一掃して、国家のために患いを除いてしまえ、というのが袁紹らの意見です。何進はこれに同意します。

 

 一方の蹇碩は、何進の暗殺を諦めておらず、中常侍(宦官の官位)の趙忠等に書を与えて、何進の暗殺を呼びかけます。

 ところが、何進の同郷であり何進と親しい中常侍の郭勝が趙忠とはかり、蹇碩の呼びかけには答えず、この書を何進に報告してしまいます。何進蹇碩を捕えてこれを誅殺します。

 

 さて、蹇碩霊帝の遺言で擁立しようとしていた皇子協を養っていたのは、霊帝の母である孝仁董皇后であり、彼女もまた内心協皇子を皇帝に立てようと考えていました。自分の子である辯皇子を皇帝に立てたい何皇后との仲は悪化していました。董皇后もまた協皇子擁立勢力であり、今の帝の即位を万全とするには彼女もまた排除する必要が何進にはありました。

 このため、何進蹇碩を誅殺するとともに、上奏して董皇后の罪を挙げ、董皇后の兄の子驃騎将軍董重を捕え、自殺に追い込み、董皇后を宮中から追放処分とします。このような仕打ちを受けた董皇后はにわかに病が重くなり崩御します。(急な崩御ゆえに当然毒殺説も疑われることになります。)この事件は後に董卓に利用されますが、とりあえずこの時点では、何太后何進は宮中の協皇子擁立勢力の排除に成功します。(*8)

 

 これで一件落着とはいかず、袁紹はやはりこの期に宦官達を一掃すべきだ、と何進に説きます。何進袁紹の意見に同意し、その計画を妹の何太后に打ち明け、許しを得ようとしますが、太后は聴許しませんでした。

 

 何太后としてみれば、自分を皇后にまで引き上げてくれたのは宦官達の力であり、何かとかばってくれたのも宦官達です。感謝することはあっても、排除するなど思いもよらないことでした。今回の協皇子擁立・何進暗殺計画の首謀者の蹇碩は既に誅殺されています。何太后としては、この話は蹇碩の誅殺で終わりで良い話なのではないかという考えになります。

 

 何進が大将軍という高い地位にあるのは、妹が皇后・太后という地位にあるからであり、何太后が臨朝し少年の帝に代わって摂政をしている以上、現時点では何太后後漢王朝のトップということになります。太后の意見が違うのを無視する訳にもいかないため、ひとまず何進は宦官のうち目立って放縦な者を誅殺することで、その場をおさめようかと考えます。これに対して袁紹は、「中官(引用者注:宦官)は至尊に親近し、号令を出入りす、今悉く廃せざれば、後に必ず患いを為さんと。」(*9)と考えます。

 

 何進も何太后も危機感が薄いのですが、今は表面上おとなしくしているだけで、宦官達のうち蹇碩だけが協皇子派とは限らないのですね。そして、蹇碩の誅殺を恨んで隠れながら、復讐の機会を虎視眈々と狙っている。そうした連中が未だ排除されることなく宮中に出入りし権力を持っている訳です。

 

 過去の後漢外戚達の繁栄と没落の歴史を見ても、宦官を排除しない限り、いつか協皇子派の宦官達からクーデターを起こされ、少帝も何太后何進も、まとめて排除されて誅滅されてしまう危険がいつまでもつきまといますよ(その場合、側近の自分(袁紹)も巻き添えくらいますね)、という事が袁紹は言いたいのです。

 

 何進が何太后の反対にあって計画を進められず、ぼやぼやしている間に、反何進派宦官達は巻き返しを図ります。彼らの狙いは、何太后何進の分断です。

 

「而れども、太后の母の舞陽君及び苗(筆者注:何進の弟、何苗は数々(しばしば)諸々の宦官の賂遺を受けたれば、進(筆者注:何進)の之(筆者注:宦官)を誅せんと欲することを知るや、数々(しばしば)太后に白(もう)して其の障蔽を為す(妨害する)。又た言(もう)すらく、大将軍(筆者注:何進)は専(ほしいまま)に左右を殺し、権を擅(もっぱ)らにして以て社稷を弱めんとすと。太后疑いて以て然りと為す。中官の省闥(禁中)に在る者或いは数十年、侯に封ぜられ貴寵にして、内外を膠固す(朝廷の内外をがっちり固める。)」(*10)

 

 このように、宦官達は何太后、母の舞陽君、弟の何苗に取り入り、何進が専横しようとしていると疑わせ、兄弟の仲を分断させることに成功します。宦官達の最終的な狙いは少帝を廃立し、協皇子を即位させ、外戚の何一族を排除することですので、何太后らが彼らの言う事を信じるのは自爆行為以外の何者でもないのですが、彼らは自分達が騙されていることに気が付きません。(また、何苗何進の弟ということにはなっていますが、何進と何太后は同父異母兄妹、何苗は何太后と異父同母兄弟であり、何進何苗の間に血のつながりは実はありません。)何進は、何一族の中で孤立することになります。

 

 またこの間、袁紹の勧めがあり何進は病と称して宮中に出入りしないようにしていました。宮中は宦官の庭と言ってよく、のこのこ出入りすると暗殺される危険性が高いためです。(この袁紹の懸念は、後に最悪の形で当たってしまいます。)しかし、何進が宮中に出入りできなかったということは、何進と何太后のやり取りは手紙や使者を介してということになり、直接面会ができない状態にあったということになります。ここら辺も何太后が危機感を抱けなかった要因なのかもしれません。

 

 これに対して何一族の中で唯一危機感を抱く何進は、袁紹ら宦官撲滅派の強硬な主張もあり、なんとか何太后の意向が変わるような策を考えます。

 かつて、桓帝の皇后の父で大将軍の竇武が、霊帝が即位したときに宦官を排除しようとして失敗し、自殺に追い込まれた事件(これが第二次「党錮の禁」のはじまりになるわけですが)がありましたが、実は現在の事態の動きはそのまま竇武が失敗した時のパターンと同じ流れになっているのです。このままの流れでは自分も竇武の二の舞になってしまうと何進は危機感を募らせます。

 

 次の章では時間を巻き戻して、建平元(168)年の霊帝即位時の竇武・陳蕃の宦官粛清の失敗について書きます。

 

2.建平元(168)年の竇武・陳蕃の宦官粛清失敗

 

 竇武は、長女が桓帝霊帝の先代の帝)の皇后となり、外戚として重権を握ります。この頃、桓帝は宦官を重用し、彼らは専横して権力をほしいままにします。宦官の専横を阻もうとした官僚達に反発した宦官達は、反宦官の官僚が徒党をなして朝廷を誹謗していると上書し、この上書に怒った桓帝により多くの清流派の士人が逮捕されます。これが「第一次党錮の禁」です。竇武の上奏により、士人は釈放されますが、その名は名簿に載り、終身の禁錮(任官できない身)になります。

 

 永康元(167)年桓帝崩御します。桓帝には世継ぎとなる子がいませんでしたので、竇武らは皇族の中から解瀆亭侯の劉宏を皇帝として擁立します。大将軍となった竇武は陳蕃らと謀り、この期に宦官を粛清しようと計画しますが、この計画は失敗し宦官の反撃を受け、竇武らは宮中の戦いで敗死します。

 

 竇武らが失敗した理由として以下が挙げられます。

 (1)娘の竇太后が宦官の誅滅に反対したこと。父の竇武が竇太后に、宦官を「宜しく悉く誅廃して以て朝廷を清むべし」(*11)と言ったのに対し、竇太后「漢より来(このかた)の故事に、世々有り(いつの世にも宦官は存在した。)但だ当に其の罪有る者を誅すべし。豈に尽く廃す可けん邪(や)」(*12)と言って反対します。

 

 前にも書いた通り、後漢王朝では幼帝の摂政をするのは皇太后となっています。朝廷の最高権力者である皇太后の言う事に父親といえども逆らえません。皇太后にしてみると、側近くに仕える宦官達に悪意は感じられず、むしろ頼れる存在と思っているので、父親ほどの危機感がないのです。

 

 竇武は竇太后の言う通り、まず特に罪のある宦官の粛清のみ行い、悉く誅廃することはできませんでした。 この行為は、竇武に対する宦官達の恨みを増やし、また宦官達が反撃する機会を与えることになってしまいます。宦官に反撃の機会を与えないためには、一気に粛清してしまうしかなかったのです。

 

 (2)そして、宦官全体の誅滅を竇武が行えない間に、宦官達は「陳蕃と竇武、奏して太后に曰(もうし)帝を廃して、大逆と為す」(*13)と叫び、霊帝を軟禁(もっとも霊帝にしてみると事情が分からないので、凶事が起こって宦官に保護されているという主観でしょう)し、尚書太后を脅し、逆らう者は殺して、竇武等を捕収せよ、という詔書を作り命令します。

 

 宦官の強みはこうして、玉(皇帝と太后)を握り詔書を作って、敵対する人物を逆賊とすることができることです。また、官僚がぐずぐずと正式な法的手続きを進めようとするのに対し、宦官が政敵を葬るときの決断は素早く、行動は迅速であり、暴力的な手段を使うのにためらいがありません。こうした宮廷内の暴力闘争については宦官の方が長けており、決断が鈍く法的手続きにこだわる官僚達を倒すことなど朝飯前なのです。

 

 (3)竇武らは詔書を受けず、宮中の兵士に命じて、「黄門常侍反せり。力を尽くす者は侯に封じ賞を重くせん」(*14)と言って宦官達と戦います。ところが、その時たまたま都に戻っていた事情を知らない御匈奴中郎将張奐が詔を信じて宦官の軍と合して竇武を攻めます。宦官達は率いている兵士達に、竇武の軍の兵士達に向かって以下のように叫ばせます。

 

「竇武反せり。汝は皆な禁兵なり。当(まさ)に宮省に宿衛すべきに、何の故にか反者に随う乎(や)。先に降れば賞有り」。(*15)

 

 これに対して竇武の軍の兵達の反応は、以下の通りでした。

 

「営府は素より中官(引用者注:宦官)を畏れ服したれば、是(ここ)に於いて武の軍稍稍(しだい)に甫(引用者注:宦官の王甫)に帰し、旦自(よ)り食時に至って(夜明けから朝食の時刻までに。)、兵降りて略(あらま)し尽く。武と紹(引用者注:竇武の兄の子、竇紹)走(のが)るるも、諸軍追いて之を囲み、皆自殺す。」(*16)

 

 上記のように、宦官の反撃により宦官打倒派は壊滅してしまいます。

 

 つまりは、大将軍といえども宮中の兵士を掌握しきれず、宮中の兵士は宦官を畏れているということです。なにより宦官は詔という切り札があり、これを出されると宦官打倒派は一気に「逆賊」になり、宮中の兵士の刃は「逆賊」に向かうことになります。

 

 3.中平六(189)年の何進袁紹の宦官粛清劇Ⅱ~建平元(168)年の反省

 

 宦官の誅殺計画を考えるにあたり、建平元(168)年の竇武・陳蕃の失敗を繰り返さないために何進袁紹は策を練ります。

 それが、「多く四方の猛将及び諸々の豪傑を召し、並びに兵を引きて京城に向かわしめ、以て太后を脅さんと」(*17)する策です。この策は以下のふたつの理由で作られたものと思われます。

(1)まず太后を翻意させ、宦官誅滅の承諾を得ないと計画が進みません。竇武らは太后の承諾が得られずに、ぐずぐずしていたために宦官に反撃の機会を与えてしまったのです。なんとしても太后を翻意させないといけません。

(2)また、宦官らは最終的に帝の詔を切り札に使ってくる必要があります。それが本物であるか、偽勅であるかは宮中の兵士には不明です。宮中の兵士は、宦官が「勅」だ「詔書」だといい、「何進が逆賊だ」と叫べば、盲目的に何進を敵として向かってくる可能性があります。宮中の兵士はあてにならないのです。外部より宦官誅滅を同じ目的とし、何進を裏切らない将や兵を呼び寄せる必要がありました。

 

 この策に、陳琳、盧植、鄭太は反対します。特に盧植、鄭太は董卓を警戒します。(まあ、これも「事後予言」の可能性がありますが。特に董卓を名指しにしているのが微妙です。(董卓が問題なのは未来の我々には自明のことだからです。)しかし事前の献言だと考えると、他の「外部から来る武将」に対する言及・評価がないのが、いかにも胡散臭く嘘っぽいのですね。(董卓だけ呼ばなければOKなのか?という話になります。)私見ですが、盧植、鄭太の献言も「外部の軍を呼ぶ」こと自体に反対だという意見であり、董卓名指しは後世の創作なのじゃないかな、と思います。)

 

 しかし、何進は彼らの反対を聞きません。つまるところ彼らの意見というのは、「宦官の撲滅には宮中の兵で足りる」という建平元(168)年の失敗の反省が何も生かされていない、根拠のない極めて楽観的な意見で、このような楽観的な計画で海千山千の宦官達を打倒できるとは何進には思えず、採用しなかったのだと思われます。

 

 我々は未来人で結果を知っているので、結果からすると陳琳らの意見は妥当ではないかと思ってしまう訳ですが、陳琳らの意見は何進からすると、歴史に学ばない愚かな策であり受け入れることができなかったのです。

 

 そして、何進は計画を進めます。

「遂に西のかた前将軍董卓を召して関中の上林苑に屯せしめ、又府掾の太山の王匡をして東のかた其の都の強弩を発せしむ。并(あわ)せて東郡太守橋瑁を召して成皐に屯せしめ、武猛都尉丁原をして孟津を焼かしめ、火は城中を照らす。皆宦官を誅せんことを以て言と為すのも、太后猶お従わず。」(*18)

 

 これらの外部の武将に求められたのは、仮に宮中(つまりは宦官がということですが)より「何進を逆賊として誅滅せよ」という命令が出ても聴かずに、いざとなれば宮中に突入して宦官を皆殺しにする「蛮勇」でしょう。

 宮中の官僚達や兵士達は、「詔書」が出てしまうと、それが宦官より発せられたことが薄々分かっていても「勅命」に反するのをためらう、あるいは下手をすると「勅命」に従ってしまうという「従順」さを示しかねないと、何進は危惧の念を抱いたのだと思われます。

 

 こうした、外部の軍による脅迫にも関わらず、太后はなお宦官誅滅の承諾を何進に与えませんでした。

 

三国志 考察 その23 なぜ、何進袁紹董卓を召しよせたのか?②に続きます。(現在、執筆中)

 

 

(*1)『三国志 魏書 武帝紀』1、p16

(*2)『三国志 魏書 武帝紀』1、p16

(*3)『三国志 魏書 武帝紀』1、p16

(*4)『三国志 魏書 武帝紀 注『魏書』』1、p16~17

(*5)『三国志 魏書 董卓伝 注『続漢書』』1、p410

(*6)『三国志 魏書 董卓伝 注『続漢書』』1、p410

(*7)『後漢書 皇后紀下 霊思何皇后』第2冊、p325

(*8)『後漢書 皇后紀下 孝仁董皇后』第2冊、p319~320

(*9)『後漢書 何進列伝』第8冊、p276

(*10)『後漢書 何進列伝』第8冊、p276

(*11)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p259

(*12)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p259

(*13)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p262

(*14)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p263

(*15)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p263

(*16)『後漢書 竇武列伝』第8冊、p263

(*17)『後漢書 何進列伝』第8冊、p277

(*18)『後漢書 何進列伝』第8冊、p278

 

 参考文献

陳寿 裴松之注(今鷹真・井波律子訳)『正史 三国志1』ちくま学芸文庫、1992年

范曄撰、李賢注(吉川忠夫)『後漢書』第2冊・第8冊、岩波書店、2002年・2004年