古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

谷徹也編著『石田三成』読書メモ~慶長五(1600)年六月頃の石田三成の動き

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 谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』(戎光祥出版、2018年)の読書メモです。

 

 以下、引用。

 

(慶長五(1600)年の上杉征伐時)「淀殿北政所は出兵を思い止めさせようとしたが、六月十六日に家康は大坂から出馬する。この際、三成の子息である隼人(重家)、出陣するはずであったが、「佐和山騒申」という事態が生じ、三成が佐和山から出るようにとの家康の指示が出された。その後、家康は道中での滞在のために佐和山城を借りたようとしたが、「一切手切」として三成は佐和山に引き籠り、普請をしている。ただし、福島正則も同様の姿勢を見せているため、この時点で家康への抗戦を試みた訳ではなく、出陣反対の意思表明といえよう。」(*1)

 

佐和山騒申」「一切手切」と物騒な言葉が並びますが、(上記の記述の注を見ると『義演准后日記』「徳川秀忠書状写(『金森文書』)」、「来次氏秀書状(「杉山悦郎氏所蔵文書」)」が典拠とのことです。)つまり石田三成は、今回の家康が強行した上杉征伐に異を唱え、石田軍の出陣を拒否したということでしょう。

 

 七将襲撃事件以降、石田三成佐和山に隠遁に追い込まれ、石田家は徳川家に屈服し、表面上は徳川家と協力関係を築くことになります。

 慶長四(1599)年の徳川家康暗殺未遂疑惑事件の際も、容疑者である前田利長の警戒にあたるため、豊臣公議(つまりは筆頭家老家康)からの要請を受け石田家は、家中から一千余の軍勢を越前へ派兵しています。((隠居している)三成自身が兵を率いた訳ではありません。)(*2)

 

※関連エントリ―↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 しかし、今回の征伐については、三成は上杉家と長年の取次・親交関係にあり、会津転封作業に直接関わったのは三成本人であり、(少なくとも三成の認識では)景勝に豊臣公議に対する謀反の意思などないことは明白でしたので、今回の上杉征伐に対する三成の抗議の意思として、石田軍の出陣を拒否したということとなります。

 

 この石田家の出兵拒否は、筆頭大老家康が絶大な権力を有する豊臣公議の命令に逆らったこととなり、改易等の処分が下る可能性もありましたが、家康としても、ここで全体の出陣のスケジュールを遅らせる訳にもいかず、(筆者の推測ですが、)後からの参陣を求めることにして出馬を急いだという形になるかと思われます。

 

 七月に大谷吉継が嫡男重家を迎えに佐和山城に向かっていますので(もっとも、大谷吉継の方が石田三成に西軍につくよう説得した説をとると、これも表面上の動きになってしまいますが)、この時点で吉継が重家の率いる石田軍とともに家康の陣に参陣していれば、石田家も大谷家も東(家康)軍として扱われ、その後の大谷家・石田家の歴史は変わったでしょう。

 

 この六月の出兵拒否の時点で、三成が、毛利輝元宇喜多秀家・三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)らを中心とした西軍決起の謀議に加わっていたかは微妙です。謀議は秘する必要があり、三成の行動は悪い意味で目立ちすぎ、仮に三成が謀議に参画していれば発覚しかねません。密議をしている最中にこのような悪目立ちするような行動は、普通しないかと思います。

 ということで、六月の三成の出兵拒否の時点では、西軍決起の謀議に三成は参加しておらず、三成が独断で行った(暴走気味の)抗議行動なのではないかと考えます。

 

 また、気になるのは、「福島正則も同様の姿勢を見せている」という記述です。結局、正則も家康の上杉征伐に同行して、そのまま東軍として戦っている訳ですが、六月の時点では正則は三成と同様に上杉征伐に疑問を示す態度を取っていたのかもしれません。

 

 西軍決起後、西軍諸将は、正則が西軍につくであろうと思っていたふしがありましたが、上記のような正則の行動に理由があったからだと考えること腑に落ちます。(結局、正則は西軍につきませんでしたが。)

 

 注

(*1)谷徹也 2018年、p62

(*2)中野等 2017年、p409~410

 

 参考文献

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年