古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原への百日①~慶長五年六月

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

(このページは、関ヶ原への百日①~慶長五年六月 です。)

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

 以下に、関ヶ原の戦い(慶長五年九月十五日)の百日前である慶長五(1600)年六月八日前後から戦いのあった九月十五日前後までにあった事柄について時系列的に示す。

 

慶長五(1600)年六月

 

6月2日 「徳川家康上野国白井城主本多康重に対して会津征伐を報じ、直ちに準備して攻撃に参加するように命じた。」(藤井治左衛門、p134)

6月6日 「家康は諸将を大坂城西の丸に集め、会津攻撃の部署を定めた。家康・秀忠は白川口から、佐竹義宣は仙道口から、伊達政宗は伊達・信夫口から、最上義光は米沢口から、前田利長は越後津川口から。」(藤井治左衛門、p135)

6月6日・7日 徳川家康、大坂在(『舜旧』)(『居所集成』p118)

6月8日 毛利輝元、(京都在)。(これまでは、伏見に居住)(『お湯殿』6月8日条に「あきのもりちうなこん、くにへくたりのよし申されて、くわんしゆ大こんまて、しまのかみ御つかいにて、しろかね廿まい、おのみちの御たる十しん上申」とある。同日北野社から暇乞い。『北野社家』同日条に「輝元へ暇乞二参、国へ御下也、大祈進物」とある。(『居所集成』p233)

→この時期の輝元の本国(広島)への帰還は、6月16日より始まる家康の上杉景勝征伐と期を一にしたものと考えられますが、この時期からすでに西軍決起の陰謀が動いていたか、仮に動いていたとしても輝元がこの時期から首謀者に入っていたかは不明です。

6月8日 北政所大坂城より帰城。(この時期、北政所は京都新城に居住。)(『時慶』)(『居所集成』p430)

6月13日 家康、大坂在(『言経』)(『居所集成』p118)

6月14日 輝元、洞春寺で元就の三十三回忌を執行。(『居所集成』p233)

6月14日 伊達政宗、大坂発、伏見着(『治家記録』)。(『居所集成』p285)

6月14日 東征する毛利勢は、安国寺恵瓊吉川広家が率いることになった。(慶長五年六月十四日付安国寺恵瓊毛利輝元書状『萩藩閥閲録』遺漏巻三ノ三)(中野等、p413)

6月14日 「徳川家康は、越後国新発田城溝口秀勝に、佐渡国庄内へ進撃することを中止させた。」(藤井治左衛門、p137)

6月15日 「前田玄以長束正家増田長盛三奉行は六月十五日付で会津出陣の命を下す。(六月十五日付兼松又四郎正吉充て連署状・名古屋市秀吉清正記念館所蔵文書)。会津出陣の日時は「関東」すなわち家康が決するとするものの、七月十日以前の出陣は「地下人」に迷惑がかかるとして、それ以後にすべきことを述べている。」(中野等、p413)

6月15日 政宗、伏見逗留(『治家記録』)。(『居所集成』p285)

6月16日 家康、大坂→伏見 会津上杉景勝攻撃のために、家康は大坂を発して伏見に入る。(『言経』「会津中納言逆心有間、内府可発向之由云々、大坂ヨリ伏見マテ御上了」)。(『居所集成』p117、118)

6月16日 政宗、伏見発(『治家記録』)。(7月12日に北目城到着。)(『居所集成』p285)

6月17日 家康、伏見在(『鹿苑』「午時者新太明神へ内府公御社参ナリ」)。(『居所集成』、p118)

6月17日 輝元、厳島神社に参詣、同日夜に広島に帰城(「毛利家三代実録」)。(『居所集成』p233)

6月18日 北政所、豊国社へ社参す(『舜旧』)。(『居所集成』p430)

6月18日 家康、伏見→醍醐寺(通過)→(江戸)(『義演』「内府家康出陣下国也、当所巳剋被融了」)。(『居所集成』、p118)

6月18日 「家康は、伏見城を発し、途中大津で京極高次の饗を受け、同夜石部に泊まろうとしたが、水口城主長束正家石田三成京極高次等が夜襲するとの噂を聞き、夜半、遽に出発して伊勢の関に向った。」(藤井治左衛門、p139)

6月20日 『続武者物語』『関原軍記大成』によると、「石田三成上杉景勝の重心直江兼続に、徳川家康が十八日伏見を出発したことを報じた。」(藤井治左衛門、p143)

→この書状は石田三成上杉景勝直江兼続との事前通謀を示す書状になりますが、『続武者物語』『関原軍記大成』ともに江戸時代に編纂された軍記物であり、この書状は「関ケ原の戦いは、石田三成直江兼続が事前通謀して引き起こしたもの」という誤説を創作するために、江戸時代に作られた偽文書だと考えられます。

※ 石田三成上杉景勝直江兼続のあいだに事前通謀はなかったことについては、下記のエントリーで検討しました。↓

関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?

6月23日 浅野長政、息子幸長の甲府到着を家臣に告げている(同日付藤井某等宛長政書状写「太祖公済美録」)、本人はおそらく江戸に滞在。(『居所集成』p328)

6月25日 「六月二十五日付で三奉行(筆者注:前田・増田・長束)は東下する軍勢に対して兵粮・馬飼料の給付を証明する連署状を発する。(六月二十五日付連署状・名古屋市秀吉清正記念館所蔵文書)。」(中野等、p413)

6月28日 織田秀信妙照寺に対し安堵城を出した。(藤井治左衛門、p144)

6月29日 丹後の細川忠興近江国今津を発する。(中野等、p413)

 

 参考文献

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1989年