古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の二十八 イエズス会日本報告の記述における豊臣秀吉死去前後の状況③

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 豊臣秀吉死去前後の状況について、イエズス会が日本年報で報告しています。

 本エントリーは、前回の続きです。

※前回のエントリーです。↓

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 家入敏光訳「一五九八年十月三日(※筆者注:(日)慶長三年九月三日)付、長崎発信、フランスシスコ・パシオのイエズス会総長宛、日本年報」((松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期3巻』同朋舎出版、1988年所収、p110~112)より、以下抜粋・引用します。 

 

「太閤様は日本の諸事について、このように処理したが、病状が日々悪化したので、城中のもっとも高まった座敷へ移させた。太閤様はすべての訪問客と騒音を遠ざけるように命じたが、これはもし(病状が)治まる望みがあるならば、より安静に療養するためか、あるいは人に煩わされることなく、息をひきとるため(と思われる)。そこで訣別の許しを申し出た国王(秀頼)に対して、太閤様は、「今後、予を父と思わず、家康を父と呼ぶがよい」と言った。その際太閤様は、国王(秀頼)を家康に託し、一座の大名とも最後の訣別をし、また自分のもとに留まる者や、寝所の出入りを許される者の人数を限った。さらに太閤様は、医者たちに常詰めするように命じた上、先に定められた場所へ移った。太閤様がこのように奥まったところへ籠ってしまったことが、息子や近臣たちの胸をいかに深い悲しみで閉ざしたかは、誰しも容易に推察できることであった。〔彼らは、太閤様との家族的な交わりから、いっそう大いなる栄誉が授けられることを期待していたのであった。〕(太閤様の寝所から)非常な嘆声が起こった時には、書状も持ち出せぬほど、どこもかしこも出口や扉は厳重に締め切ってあった。それにもかかわらず、太閤様の寝所近くでの哀悼の声は、外部にも漏れ聞こえ、国王(太閤様)が亡くなられたという噂が、さっそく広がってしまった。そうすると、略奪者が公道で横行し(始め)、また民衆は、こうした時にはどのように群集心理が働くかを心得ていたので、より安全な場所を求めて逃げ出した。大坂、都(ミヤコ)、伏見では、よろずにつけ上を下への大騒ぎとなってしまい、家康も奉行たちも、まったく群集を鎮めることができなかった。大名たちがそれぞれ自衛のために、居城の守りを固め出したことが、民衆の噂(太閤様の死)を裏付けた。こうした風聞が八日ないし十日続いた後、国王(太閤様)はいくぶん病状を回復し、二人の奉行を召して次のように命じた。両人は大坂に赴き、大阪城の拡張工事に着手し、できるうるかぎり早急に全普請を完成するように全力を尽くせ。また、伏見から大坂へ屋敷を移さねばならなくなった諸侯には、金、銀、米をもって出費を補ってやれ、と。

大坂城に新しく)巡らされた城壁の長さは三里(レーグア)にも及んだ。その労力に対して支払われる賃金は数千金にも達したが、太閤様はこれについて少しも支払うことはなかった。その区域内には(それまでに)商人や工人の家屋〔七万軒以上〕があったが、すべて木造だったので、住民自らの手ですべて二、三日中に取り壊されてしまった。〔その命令に従わぬ者は皆、財産を没収すると伝えられていた〕。ただし(立ち退きを命ぜられた)住民に対しては、長く真っ直ぐな道路で区分けした代替地が与えられた。そしてそれぞれの家屋は軒の高さが同じようになるようにして、檜材(ヒノキ)-日本における最良の材木-を用いるようにと命令された。この命令に従わなかった者は、地所も(建築に)必要な材木も没収されるということであった。

 民衆は、諸侯や人夫たちが喧噪のうちにこのような大普請を開始したのを見ると、奉行たちが言うように、太閤様はまだ存命だとすっかり信用し始めた。というのは、家康も奉行たちも(もし太閤様が亡くなったのなら)このような辛く厭な仕事に容易に着手するはずのないことは、容易に察せられたからであった。太閤様の容態は九月三、四日(筆者注:邦暦八月三、四日)までやや持ち直し、奉行とごく近親の者以外は誰も近づくことができず、その間というものは、もっぱら数組の(諸侯の)婚姻に関する配慮とか、国家が息子(秀頼)のために、いっそう固められるために、誓詞を(諸侯に)要求することで過ぎていった。だが九月四日(筆者注:邦暦八月四日)には、(太閤様)の容態は悪化し、(伏見城では)すべての門で厳しい警備態勢が続き、同月十四日((筆者注:邦暦八月十四日)には息を引き取ったかと思われるほどになった。しかもなお十五日には太閤様は意識を回復し、狂乱状態となって、その間、種々様々の愚かしいことを口走った。だが息子(秀頼)のことに関しては、息子を日本の国王に推挙するようにと、最期の息を引き取るまで、賢明に、かつ念を押して語っていた。こうして、太閤様はついにその翌朝未明(注)に薨去した。

(注、この報告書によると、陽暦九月十六日、すなわち邦暦八月十六日の未明となるが、日本側の権威ある記録では慶長三年八月十八日(一五九八年九月十八日)、丑の刻(午前二時)である。)

 日本の奉行たちは太閤様が亡くなると、伏見にいる工匠ならびに住民に対して国王(太閤様)が存命であるか薨去されたか、病状が良いか悪いかについては、第一に、いっさい口外せぬと誓うように、第二に、この点、正直に約束を履行せぬ者は、何びとも家の中に入れぬと誓うように命じた。そしてたまたま或る大名の下僕がこの命令に従わず〔太閤様の薨去について語った〕ところ、彼はただちに磔刑に処せられてしまった。この見せしめは、日本人たちを非常に恐れしめるところとなって、それ以後はこの事件についてあえて口を開く者すら誰もいなくなった。(このような次第で)今に至るまで国内はしごく平穏であり、大坂で始まった普請は進捗しており、諸大名に当てられた用地では数ヵ所の丘が平地に変えられている。」

 

メモ:上記のイエズス会の報告を見ていく上で、気をつけないといけないのは、イエズス会の記録は伝聞情報ということです。しかし、伝聞情報とはいえ、日単位で詳細な情報が記載されており、大坂城内部にイエズス会に情報を伝えた人物(おそらくキリシタンでしょう)がいた事が分かります。ただし、その内部情報提供者も、秀吉が亡くなった正確な日は分からなかったようです。その情報提供者が、誰だったのか気になるところですが、特に記載はないので分かりません。

 また、大坂城の普請を命じる等、秀吉はその末期においても明瞭な意識を持っていたことが分かります。(ただし、十五日(死去の三日前)は「狂乱状態」になった、と記載されていますが。)

 

 次回は、毛利家家臣が聞いた豊臣秀吉死去直前の状況及び彼が聞いた「秀吉の遺言」について検討します。

 以前のエントリーで検討した、「秀吉の三つの遺言」及びイエズス会の報告及び毛利家家臣の報告を検討することによって、「秀吉の遺言」の実態はどんなものであったのか考察していきたと思います。

 

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