古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成家臣団

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 石田三成の家臣団について、以下にまとめます。

 

① 嶋左近清興

「三成に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」

と世にうたわれた、石田三成家臣の名将。

 嶋左近については、下記にまとめました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

② 渡辺勘兵衛

「三成が秀吉の近習で五百石を扶持されていた時、その扶持の全部を与えて召し抱えたという猛将。秀吉から二万石で交渉されたが、承諾しなかった廉潔者。三成が百万石の太守となった暁に、十万石を扶持するという約束で、その大志と度量に感じて三成に臣従した。生涯五百石で終始し、関ヶ原の東西合戦で討死した(『国史美談教訓画蒐』)(*1)

 

③ 旧豊臣秀次家臣(若江衆)

大場土佐守三左衛門、大山伯耆守、高野越中守、牧野伊代守重里、森九兵衛、前野兵庫助忠康(舞兵庫)(※1)

 

若江衆・・・「若年の頃の秀次は、三好康長(笑厳)の養子となっており、「三好孫七郎信吉」と名乗っていた。当時の三好家は河内国若江城を本拠としていたため、康長から秀次に引き継がれた家臣に「若江八人衆」あるいは「若江七人衆」と称される集団があった。三好康長の家臣からとりわけ武勇の士を、秀吉が選りすぐって秀次に配した者たちである。三成はこれら「若江衆」の大半引き受けて、みずからの臣下とした。(中略)しばらくのちのこととなるが、彼ら「若江衆」は、いずれも関ヶ原合戦で華々しい活躍をみせる。」(*2)

 

(※1)前野兵庫助忠康(舞兵庫)・・・前野長康の娘婿。舅の前野長康は秀次の後見役であり、文禄四(1595)年の秀次事件で秀次が切腹した際に、後見役としての責任を取る形で切腹した。三成は前野兵庫助をかばって、一時彼を匿い、秀吉から許しをえて五千石で召し抱えて重臣とした。その際、兵庫は舞姓に替えた。関ヶ原の戦いでは先鋒を務め活躍したが、討死したといわれる。享年39歳であったと伝えられる。(*3)

※ 参考エントリー↓

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④ 旧蒲生家家臣

蒲生頼郷(横山喜内)、浅香左馬助、小倉佐左衛門、蒲生大炊助、蒲生源兵衛郷舎、蒲生将監、蒲生大膳、北川平左衛門直実、田丸中務少輔直昌(*4)

 

「大きく領地高を削られて会津から宇都宮に移った蒲生家からは、かなりの大量の家臣が浪牢している。三成はこうした蒲生氏郷系旧臣を多く召し抱えており、それらのなかには、蒲生頼郷(本来の名は「横山喜内」、奥州塩川城主)ら城主級の者たちも含まれている。」(*5)

 

※ 参考エントリー↓

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⑤ 旧小早川家家臣

高尾又兵衛尉盛吉、神保源右衛門尉、曽根高光

 

小早川隆景の没(慶長二(1597)年後、その家臣は養嗣子秀秋に引き継がれますが、小早川家の越前北庄転封(慶長三(1598)年によって、多くの家臣が小早川家を離れます。その一部は旧縁を頼り、毛利本家に帰参しましたが、さらに三成は九州へ下るのに先立ち、小早川家旧臣を自身の家中へ引き受けることにします。

 慶長三(1598)年九月八日付の石田三成毛利輝元書状に以下のように書かれています。(引用は現代語訳のみ。)

「◇隆景の旧臣たちは小早川秀秋が引き継いでいましたが、(小早川家の)越前転封に伴って召し放ちがなされました。しかしながら、あなたが召し抱えてくれることになり、本当に頼もしく思い、私も悦んでいます。彼らの妻子などは、多くが中国の毛利領国にいるようですが、心配をかけるようなことはないので、安心して(隆景旧臣を)召しつかってくれれば本望です。なお委しいことは安国寺恵瓊に告げさせます。」(*6)

中野等氏は、「隆景旧臣の石田家召し抱えは、旧小早川領代官を円滑に進めていくための措置であろうが、隆景の本家筋にあたる毛利輝元も、これに謝意を表している。」(*7)としています。

 

⑥ 旧宇都宮家家臣

芳賀高武

 下記のサイトを参照願います。↓

www.sankei.com

※ 石田三成と佐竹家・宇都宮家との繋がりについては↓

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⑦ 外交系家臣(主に島津氏との取次)

安宅秀安

三河守。三郎兵衛。主として島津・相良両氏との折衝において活躍した。対島津氏関係では、天正十九年以降、島津氏君臣との間に、しばしば書状を取り交わしている(「後編薩藩旧記雑録」。)また、対相良氏関係では、天正二十年から慶長二年にかけて、種々の指示を行っている(「相良家文書」)。」(*8)

・・・安宅秀安は、石田家中で対島津氏・相良氏外交を中心となって担う重要な家臣であったといえます。

 

十島助左衛門

「慶長三年六月二十五日、島津氏より銀子一枚、鉄砲一挺の代銀十五匁を贈られ、同年十一月二十四日には、島津氏の家老へ文書を発している(『後編薩藩旧記雑録』)。関ヶ原役で合戦たけなわの時、三成の使者として再度、島津隊へ後続の要請に赴いた。しかし、馬に乗ったままで使命を伝えたため、島津の将士は軍令を失するといって咎め罵った。けだし彼は臆病者であって、味方の旗色が悪くなると、ただ一騎、本陣より駆けだした。味方は、彼が何をするかと見てあれば、一鞭あてて逃げ失せたのである。一同、愛想がつき、失笑したという(『関原軍記大成』)(*9)

関ヶ原で決戦の最中、三成の近臣・八十島助左衛門が、馬を駆って一目散に逃亡したので、「関ヶ原、八十島かけて逃げ出でぬと、人には告げよ、あまり憎さに」と(筆者注:三成家臣の磯野平三郎が)狂歌をものした。命がけの戦場で、なかなかの余裕である。」(*10)

 

⑩ 検地奉行(各地へ派遣され検地に携わった奉行衆)

大音新助(島津氏検地の総奉行)

雨森勘左衛門、猪子弥平次、今井伝左衛門、奥田伝助、大橋甚右衛門、河崎新六、黒川右近、駒井勝介、坂上源之丞、島田弥五右衛門、白井三郎右衛門、高橋新太夫、多賀喜四郎、田中宗兵衛、富田九兵衛、富森九介、中小路伝五、平井助兵衛、村地助九郎、村山理介、行松四郎太夫(島津家検地)

大島助兵衛、藤林三右衛門、山田勘十郎(佐竹氏検地)

神保源右衛門、高尾又兵衛(筑前国検地)

平塚捨平、吉原仁右衛門(尾張国検地)

 

⑪ その他

青木市左衛門、赤尾四郎兵衛、安宅作右衛門(摂津出身)、東新太夫、渥美孫左衛門、阿閉孫九郎、磯野平三郎、猪尾甚太夫、入江権左衛門(※2)、上野喜左衛門、海北市郎右衛門、大西善右衛門、大橋掃部、荻野鹿之助、小幡信世、樫原彦右衛門、上坂二郎右衛門、河瀬織部、河瀬左馬助、駒井権五郎、塩野清助、島信勝(島左近の嫡子)、杉江勘兵衛、須藤権右衛門、隅東権六(※3)、千田采女、高橋権太夫、佃宗右衛門、津田清幽(※4)、土田桃雲、中島宗左衛門、服部新左衛門、林半介、日向帯刀、松田重大夫、水野庄次郎、森九兵衛、山田嘉十郎、山田上野介、山田隼人(上野介の子、三成長女の婿)、横山監物、渡辺新之助、渡辺甚平

                          

 

(※2)入江権左衛門・・・「関ヶ原合戦の当日、三成の命で島津の陣に付け置かれた。敗軍のさい、島津隊と共に敵中突破し、鳥頭坂を経て牧田村に達した時には、義弘以下残兵五十余名となっていた。入江はこれが案内者となって、一之瀬・上多良をへて山路を近江の多賀へ抜け、大津を差して逃れ出でた(『関原軍記大成』)(*11)

(※3)隅東権六・・・「慶長五年六月、家康が上杉征伐のため東下することになった時、三成に命じられ使者となって大坂の家康のもとへ赴き、三成の嫡子・重家(隼人正)を大谷吉継に託して東征に従軍させたいと申し述べた。家康はこの申し出を尤もだとした。(『慶長見聞録』)(*12)とあります。

 二次史料ですので、この話が本当か不明ですが、仮にこの申し出が史実だった場合、①この時点で西軍決起の陰謀を知っていて、(家康を警戒させないために)あえて実際はやる気もないこのような申し出をしたのか、②この頃は陰謀の存在は知らず(あるいは陰謀自体が決せられておらず)大勢が上杉征伐に決した以上、従軍拒否をしても無駄だと諦め、重家の従軍を申し出たのか、どちらかは不明です。

(※4)津田清幽(きよふか)・・・「和泉守と称す。初め徳川家康に仕えた。石田正澄が堺奉行の時(筆者注:慶長四(1599)年の頃)、たまたま家康が堺に赴き、清幽を正澄に託した。関ヶ原役の時、佐和山城の水の手口を守り、小早川秀秋の先鋒・平岡頼勝を迎撃した。家康は清幽を招いて和議を申し入れ、清幽は正澄に説いて和議を承知させたが、翌日田中吉政の隊は、にわかに力攻して大手を破り、ついに佐和山は落城した。けだし和議が成立すれば、正澄らは自刃して、城兵・婦女の命を救うことになっていたが、和議を知らぬ田中隊が、巧妙にはやって突入したので、落城の大惨事となった。婦女は南方の懸崖から身を投じ、この懸崖を今に女郎墜という。清幽と、その子の重氏は逃れ出て、家康より罪を赦されて一命を全うしたという(『関原軍記大成』)(『常山紀談』)」(*13)

 白川亨氏によると、この時清幽は、城中にいた石田三成の三男(幼名左吉(佐吉)、この時六歳とされます)を伴い佐和山城を脱出し、家康の本陣に赴いて左吉の助命を請います。家康は出家を条件に助命を約しました。清幽は、当時近江の飯道寺に隠棲中の高野山の木食上人(深覚坊応其)に佐吉を託し出家させています。木食上人はその後、深長坊清幽(せいゆう)の坊安名を与え、甲斐の河浦山薬王寺の法弟に託し、後に深長坊清幽は薬王寺十六世住職となります。延宝四(1676)年九月八日に享年八十二歳で深長坊清幽は世を去ります。

 木食上人が左吉に深長坊清幽の坊安名を与えたのは、命を救った津田清幽の恩義を忘れないようにとの思いを込めたものだとされます。(*14)

 

〇 石田三成家臣団の構成

 

 石田三成家臣団の構成は大きく分ければ、以下のようになると考えられます。

 

A 近江・美濃衆・・・三成の領地となった地元(近江・美濃)で召し抱えられた家臣団(三成は美濃に知行があった頃もあります。)

B 旧豊臣秀次家臣(若江衆)

C 旧蒲生家家臣

D 旧小早川家家臣

E 旧宇都宮家家臣

F 外交系家臣(主に島津氏の取次)

G 検地奉行(各地へ検地をするために派遣された奉行)

 

 注

(*1)安藤英男・齋藤司 1985年 p213~214

(*2)中野等 2017年 p284

(*3)石田世一 2016年 p130の記述を参考にしました。

(*4)白川亨 2007年 p118~119

(*5)中野等 2017年 p352

(*6)中野等 2017年 p382~383

(*7)中野等 2017年 p383

(*8)安藤英男・齋藤司 1985年 p196

(*9)安藤英男・齋藤司 1985年 p212

(*10)安藤英男・齋藤司 1985年 p197

(*11)安藤英男・齋藤司 1985年 p198

(*12)安藤英男・齋藤司 1985年 p207

(*13)安藤英男・齋藤司 1985年 p208~209

(*14)白川亨 2007年 p77~78

 

 参考文献

安藤英男・齋藤司「石田三成家臣団事典-三成をめぐる九十二名-」(安藤英男編『石田三成のすべて』新人物往来社、1985年所収)

石田世一「第二陣 第十章 舞兵庫」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年)

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年