古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の五 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交③ 出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立事件について

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※前回のエントリー↓

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 天正十六~十七(1588~89)年における、出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立と、その問題の解決については、石田三成及び増田長盛の対上杉外交の要素としても重要な事件ですので、以下に記載します。

(以下のカッコ内のページは、参考文献の中野等『石田三成伝』で参照しました、該当ページです。)

 

天正十五(1587)年十月、上杉景勝新発田重家を滅ぼします。(p58)

 

天正十六(1588)年五月七日、上杉景勝は入京、十二日に秀吉と対面を果たします。五月二十三日付で正四位下、参議に昇任することになります。(p58)

 

天正十六(1588)年八月から、天正十七(1589)年七月にかけて、出羽庄内を巡る上杉家、最上家、大宝寺家を巡る騒動が起こります。

 

 それには、以前から以下のような経緯がありました。

 

 出羽庄内の大名、大宝寺義興は、天正十五(1587)年十二月二十三日に、最上義光に攻め滅ぼされ自害することになりました。

 

子のいない義興は、その以前より上杉家重臣本庄繁長の実子千勝丸(のちの義勝)を養子に迎えていました。繁長を通じて、上杉の援助を頼みとしていたためです。

 しかし、新発田重家の乱により、越後に釘付けになっていた本庄繁長は、義興救援に動けず、義興は最上義光によって自害に追い込まれたのです。からくも逃れた養子千勝丸は実父繁長の元に逃れます。

 

 天正十六(1588)年八月、本庄繁長・大宝寺千勝丸親子は、上杉景勝の後押しを受けて、最上義光の支援する、元大宝寺重臣だった(ただし、東禅寺義長は、大宝寺義興の兄であり大宝寺当主だった義氏を暗殺した人物です)東禅寺義長・勝正兄弟と十五里ヶ原の戦いで激突します。結果、上杉(本庄)・大宝寺連合軍は勝利し、東禅寺・最上連合軍は敗北し、出羽庄内は大宝寺の元に取り戻されることになりました。

 

 しかし、この戦いは、天正十五(1587)年十二月の、豊臣秀吉による奥羽惣無事令の発令後であり、最上義光は、これを奥羽惣無事令違反であると豊臣公議に訴えることになります。(最上家に対する豊臣家の奏者は富田一白です。)

 

 最上と本庄、双方の言い分を聞くために、秀吉は両者の召還を命じます。上杉・本庄方の奏者には、増田長盛石田三成が、最上方の奏者には、富田一白が付きます。

 

 これにより、本庄繁長あるいは大宝寺千勝丸の上洛の速やかに求められたものの、繁長は政務で忙しく(他の事情があったのかもしれませんが)、千勝丸の上洛も結果的に大きくずれ込むことになりました。

 

 結局、千勝丸が上洛したのは、天正十七(1589)年六月二十八日、秀吉に拝謁したのは、七月四日でした。京で元服した千勝丸は、武藤(大宝寺)家の継承を秀吉から承認され、実名を「義勝」と称することになります。

 また、義勝は従五位下左京大夫の官途名を許され、出羽守を称することになりました。つまりは、庄内問題における上杉家・本庄家・大宝寺家の弁明が、すべて豊臣公議によって認められたのです。

 

 この間、石田三成増田長盛とともに、上杉家・本庄家・大宝寺家の弁明の周旋を行っていたことが『大宝寺義勝上洛日記』などから確認されると、中野等氏は述べています。(p71~74)

 

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 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

「嫌われ者 石田三成の虚像と実像~第12章 慶長の役に対する石田三成の「肉声」~「うつけ共か色々事申候ハ、不入事候」

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☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 慶長の役に対する石田三成の「肉声」を伝える文書が、毛利家の『萩藩閥閲録』に残っています。

 以下は毛利輝元が慶長二(1597)年十二月二十三日に伏見で豊臣秀吉に拝謁した際に、秀吉に近似していた石田三成が話していたことを聞き取った書状の一部です。

 以下、中野等氏の『石田三成伝』から引用します。

 「一、国替之さたもやミ候、治少被申事ニ、人かなにと申候共、気二かけ候ましく候、うつけ共①か色々事申候ハ、不入事候、高麗か日本之様二おさまり、九州衆もありつき候ハてハ、九州之知行上む(表)ハ候ましく候、さて上む(表)候上にてこそ、国ふり二より備前・中国の衆、其心得も可入候、それハさたまらぬ事候、其上二年・三年二さ様おちつき候事ハ候ましく候時ハ、国替之心得も以来不入物にて候二、人かわるき推量候て申事うつけにて候と被申候、

 ◇国替えも中止になった。(これについて)石田三成(治少)が次のように言っている。人が何を言おうと、気にすることはない。愚か者①が色々言っても無益なことである。朝鮮半島が日本と同様に治まり、九州の諸大名の(朝鮮半島への)転封先が決まらなければ、九州(大名)の知行収公はない。知行収公がなされた上で転封先が決定すれば宇喜多家(備前)・毛利家(中国)の衆にもその覚悟が必要となる。(しかし)朝鮮半島の状況は安定しないし、さらにこれから二、三年は落ち着かないであろう。(したがって)国替えの覚悟など今後は不必要であり、人の悪意ある推量による発言など意味がない。 

 

 このなかに、慶長の役に関する三成の「肉声」が残されている。三成は国替えを憂慮する輝元に対して、戦況を踏まえつつ当面その心配は不要であると述べている。

 慶長の再派兵は、朝鮮半島南部を実力で奪取するためのものであった。三成ら政権中枢②は、征服後の朝鮮半島に、九州大名を転封させる心算であった。さらにその上で、宇喜多家や毛利家をその跡の九州へ移すことを計画していた。しかしながら、三成はすでに朝鮮半島の戦況を悲観的にみており、九州大名の朝鮮転封はいうまでもなく、宇喜多家・毛利家の転封も数年間はあり得ないことを。告げたのである。いささか後年の伝聞史料にはなるが、日本に抑留された朝鮮の儒者である姜沆(カンハン)が遺した『看羊録』(ここでは平凡社東洋文庫四四〇を使用)によると、石田三成はつねづね「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた、とある。」(*1)(下線・番号筆者)

 

 さて、ここで三成の言うところの、「うつけ共=愚か者①」とは、誰のことを指しているのでしょうか?中野氏の解説を読みますと、この「うつけ共」とは、「三成ら政権中枢②」を指すことになるようにもみえますが、そうすると、この発言は三成がみずからを自虐して否定した台詞になりますが、そうなのでしょうか?

 

 私見を述べますと、このような「うつけた」ことを言っていると三成が考えているのは、政権の中枢である主君豊臣秀吉その人であり、その秀吉の言う事に逆らわない秀吉側近、三成以外の四奉行(浅野長吉、前田玄以増田長盛長束正家)のことを指しているのだと思われます。

 

 以上から考えますと、三成は慶長の役の秀吉の朝鮮出兵の方針が非現実的だと批判的であり、その秀吉の方針に無批判な他の四奉行に対しても批判的だった上、その批判を表立って発言していたことが分かります。(「うつけ共」とは、かなりの痛烈な批判です。)

 それにしても、この発言は三成が太閤秀吉の意向を批判したと輝元に受け取られかねず、三成の身が危うくなるような、かなり危険な発言と言わざるを得ません。

 

 文禄の役の時は、軍目付(増田長盛石田三成大谷吉継)は小西行長の講和交渉に同調し講和派でした。

 しかし、この講和は結局うまくいかず、慶長の役に突入すると、講和の失敗を秀吉に責められた長盛・行長は主戦派に転じます。吉継は、病でしばらく政治の表舞台から退場しています。

 

 中井俊一郎氏によると、はじめ朝鮮出兵の日本側拠点である名護屋の三成の陣は名護屋城に程近い北方の波戸岬の高台にあったが、その後に本営から南に大きく隔たった野元に移った可能性を指摘しています。

 このことは(はじめ文禄の役の時には)戦略・外交・講和交渉の主役だった三成が、(慶長の役の時には)秀吉と見解が対立し、朝鮮の役の(戦略・外交・講和交渉の)主役から降ろされたのかもしれない、としています。(*2)

 

(*1)の三成の発言を考え合わせますと、かつての講和派が秀吉の意向を受け、主戦派に転じる中で、三成のみは慶長の役の時も出兵を反対する立場となっていたことが考えられます。このため、この頃の三成は、朝鮮の役の戦略・交渉の主役からも外され、奉行衆の中でも孤立した苦しい立場にあったのではなかったのでしょうか。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p345~346

(*2)中井俊一郎 2016年、p50~53

 

 参考文献

中井俊一郎「第七章 肥前名護屋 謎残る三成の陣跡」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

読書メモ:オンライン三成会『決定版 三成伝説』第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候

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 オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現残る石田三成の足跡』(サンライズ出版、2016年)に所収されています、中井俊一郎氏の「第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候」の記述が印象深かったため、以下に引用します。

 

「ちょうどこの頃(筆者注:朝鮮出兵文禄の役)が始まり、石田三成ら軍目付が秀吉の代理として朝鮮を渡海し、漢城に着城した文禄元(1592)七月頃)三成らが書いた注進状が残っている。それは三成の戦略眼の確かさを示したものである。

 注進状の中で三成は前線での兵粮不足の問題をあげ、秀吉に命じられた年内の明国進攻は不可能であることを述べている。また戦線がバラバラに延びきっており、日本側が分散していること(「日本之一ヶ国程へ人数千二千ほと参候分にて」)、治安が悪化しており往来もままならないこと(「跡之路次無人にて通路たやすからず」「国都静謐つかまらず」)などの現状の問題を指摘している。その上で、このままでは局地戦には勝てても補給の続かない日本側は全滅するだろう(「勝ち申しうちに、日本人は無人に罷りなり候」)と述べているのである。これはまさに、当時の日本側の問題点と、文禄の役の行く末を正しく言い当てたものであった。連戦連勝に浮かれる武将たちの中で、三成はこの戦役全体の行方を見据えていた。

 三成は延びきった戦線の整理と、朝鮮の治安を最重要課題に捉えているが、占領地の拡大を第一に考える武将たちとは、その見解は一致しなかった。(後略)」(前掲書p46)

 

 文禄の役がはじまったのは文禄元年四月、五月三日に漢城が陥落、六月六日に奉行衆が渡海をはじめ、この書状が書かれたのは七月か八月頃とされます。

 上記で中井俊一郎氏が指摘するとおり、豊臣軍の武将たちが連戦連勝に浮かれる中で、冷静な現状分析を行い、この戦いの行く末を三成は見通していたといえます。 

 ただ、この三成のような人物は、周りの武将からは勝利の水を差す存在として嫌われたのかもしれんな、と思うと悲しい気分になります。

 

(令和3年1月3日追記)

 このエントリーを記した後、いくつかの「唐入り」関連の書籍を読んで思ったことですが、秀吉の六月三日軍令の主眼である「明国への侵攻」を実際積極的に行いたいと考えていたのは、正直加藤清正ぐらいしかおらず、他の諸将は明国への侵攻よりも、朝鮮国内の安定的支配を優先すべきと考えていたように見受けられます。石田三成大谷吉継増田長盛の上記の書状に書かれた注進も、現地の多くの武将の本音を代表するものだったのではないかと考えられます。

 

※ この書状の詳細については、下記に記しました。↓

文禄の役時の石田三成の動向について②~勝申候内二日本人ハ無人ニ罷成候 

 

(令和3年1月7日追記)

 上記の書状を発出した後の、三成他奉行衆及び朝鮮諸将の動きについて、中井俊一郎氏の「第六章 朝鮮・文禄の役~日本人は無人に罷りなり候」オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現残る石田三成の足跡』(サンライズ出版、2016年)所収、p46~48に記載されていますので、引用します。

「そしてやがて三成の危惧が現実のものとなるターニングポイントがやってきた。年が明けた文禄二年(一五九三)一月、李如松率いる明の大軍が小西行長の守る平壌へ来寇したのである。

 

対立する三成と武将たち

 

 寒気と兵粮不足に悩まされて行長は、この明軍の攻撃に耐えきれずに敗走、前線の日本郡は総崩れとなる。文禄の役、最初の敗北である。この危機にあたって三成は、戦線を一気に縮小、漢城まで撤退し、自軍を結集し反撃することを主張した。だがこの三成の戦略では占領地の多くから無血撤兵することになる。占領地を放棄することに武将たちは激しく反発した。その反対の最先鋒は小早川隆景であった。

 小早川隆景は、漢城よりずっと北方にある要衝・開城(ケソン)で明軍を迎撃することを主張した。開城は大河臨津江(イムジンカン)北岸にあり、軍事上は極めて重要な場所であり、秀吉も書状で、その厳守を命じていた。

 だが大河を背にした開城では、補給を断たれれば孤立するその危険性を示し撤兵を促す三成に対し、隆景が放った言葉は、「三成の臆病ものめ(大明多勢に臆病風でも差し起し候哉)」であった。①

 隆景だけではない。加藤光泰も加藤清正も占領地を手放すことに反対した。目先の利益を失うことに耐えられなかったのだ、戦略をめぐる三成と隆景の対立は激化するが、大谷吉継・前野長泰が両者を仲介し、ようやく隆景は撤兵に同意する。

 

三成の正義

 

 文禄の役のその後の経緯を見れば、三成の判断が正しかったことは明らかである。ただでさえ兵粮不足の日本側が、補給の困難な開城の占領に固執していればもっと悲惨な状況に陥っていたことは間違いない。

 三成らの指示のもと、漢城に集結した日本側は追走してきた明軍を迎え撃ち、これに大勝する。史上名高い碧蹄館の戦いの勝利である。この極地戦の直接の功績は、戦場で巧緻な戦術を見せた立花宗茂小早川隆景の活躍に帰するものであるが、その背後には三成の正しい戦略眼があったことを見過ごすべきではない。三成は目先のことにこだわることなく、大局的な視点から戦略指導を行ったのである。

 碧蹄館の戦いの後、三成らしいエピソードがある。開城無断撤兵をとがめる問責使が漢城にやって来た。朱印状をもって厳守を命じた地を勝手に撤兵したことが秀吉には許せなかったのだ。この時、責任をおそれうつむき黙り込む諸将の中で、三成一人が立ち上がり開城撤兵の理由を滔々と述べたという。三成は責任を一人で被るつもりだったのだろう。②

 だが結局碧蹄館の勝利でも文禄の役の戦局を変えることはできなかった。この勝利からわずか三ヶ月後には日本側は王城漢城も維持できなくなり、朝鮮南岸へ撤退していく。

 その中で三成が自らに下した結論は早期講和であった。このあと三成は一貫して、明との講和、戦いの早期終結を働きかけていくのである。臆病者と言われた三成のそれが正義であった。文禄の役における三成の行動を追うと、そのまっすぐな性格と高い視点がよく理解できる。」(下線部筆者)

 

 以下、コメント(上記で掲げられた史料が正しい前提としてのコメントです。)

 上記下線部の「その危険性を示し撤兵を促す三成に対し、隆景が放った言葉は、「三成の臆病ものめ(大明多勢に臆病風でも差し起し候哉)」であった。」①が本当に小早川隆景の本音であったかは不明です。実際に、「臆病」と秀吉に評価されてしまうと、その大名は改易の危機に陥ってしまう訳です。このため、秀吉の命令の裏付けのない三成の提言に対して、隆景が本当は三成の判断が正しいと考えていたとしても、うっかり三成の提言に賛成してしまえば、後々秀吉の不興を買うような提言をした三成共々隆景も巻き込まれて粛清(改易)されてしまう危険性がある訳です。このため、隆景の本心が三成の策に賛成であろうと、一旦は反対し、大谷吉継らの説得を受けて渋々了承する形にして、この判断は奉行衆の責任によるものであり、自らには責はないということを示す必要がありました。

 

「この時、責任をおそれうつむき黙り込む諸将の中で、三成一人が立ち上がり開城撤兵の理由を滔々と述べたという。三成は責任を一人で被るつもりだったのだろう。」②というのも、そもそも開城(ケソン)撤兵のような提言をすること自体が秀吉の逆鱗に触れかねない行為であり、このような秀吉の怒りを買うような主張をした時点で、三成は一人で責を被る覚悟を決めたのでしょう。朝鮮在陣の奉行衆(石田三成大谷吉継増田長盛)は、秀吉の逆鱗に触れる危険性を覚悟しつつ、戦地で日本軍を壊滅させないために、危ない橋を渡り続け決断を迫られる日々を過ごしていたのです。

 

※ 参考エントリー↓

考察・関ヶ原の合戦 其の十一(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相②~朝鮮在陣諸将の独断決定はどこまで許されるか 

秀吉の朝鮮渡海を主張する石田三成

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(令和5年10月22日 文末に追記しました。(当初書いた見解とは異なる見解になります。))

 

 天正二十(1592)年、豊臣秀吉の軍勢は朝鮮半島への侵攻を開始し、文禄の役が始まります。五月三日に漢城を陥落させた知らせを五月十六日に聞いた秀吉は、自身の渡海の準備を加速させ、六月の決行が予定されます。

 しかし、六月二日になって、徳川家康前田利家らが秀吉の渡海再考を促します。これを受けた談合の場で石田三成はこの六月中の秀吉渡海を主張しますが、結果的に徳川家康前田利家等の意見が通り、この渡海計画は延期されることになります。この時の延期の理由の第一は、「不時の早風」という天候上の問題でした。(*1)

 

 秀吉の渡海に代わって、石田三成大谷吉継増田長盛ら奉行衆が軍目付として、六月に朝鮮に渡ることになります。

 

 元々三成は、朝鮮出兵反対派です。下記のエントリーでも書きましたが、↓

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 たとえば「戦いの始まる前に、博多の嶋井宗室と図って戦いをやめることを秀吉に進言した記録が享保年間(一七一六~一七三五)の著述集『博多記』に残って」(*2)います。また、『看羊録』には「石田治部は、つねづね、「六六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか」と言っていた。」(*3)とあります。

 

 朝鮮出兵反対派であった三成が、なぜこの時は秀吉の渡海を主張したのでしょうか。

 それは、以下の理由が考えられます。

 

 少し時代を下りますが、「戦争を終結させるためには、秀吉自身の渡海が望ましいとの期待感」(*4)から秀吉の渡海を望む以下の聖護院道澄の手紙があります。(聖護院道澄は、京都聖護院門跡で、関白太政大臣近衛稙家の子、近衛前久の弟です。)

 

「  当春者太閤可為渡海由候間、定一行被仰付静謐候歟、不然者、被引取候歟、何辺一途之儀可有之候間、珍重候。

 朝鮮在陣中の島津義弘にあてた文禄二年の正月七日付書状のなかで、道澄はまぢかにせまった秀吉渡海を望ましいものだと述べている。(筆者注:この秀吉渡海も実現には至りませんでした。)その理由は、彼が対外戦争に積極的なためでではない。秀吉の渡海によって朝鮮国内を静謐に制圧できるか、あるいはそうならなければ朝鮮から撤兵することになるか、いずれにせよ戦争に一つの決着がつき、終戦への見とおしが得られるから「珍重」だと書き送っているのだ。」(*5)

 

 天下人・太閤秀吉の意思によって「唐入り」は決行された以上、それを終結できるのは、秀吉自身以外ありません。秀吉自身が渡海せず、全軍の指揮を直接にしなければ、朝鮮に在陣する諸将はばらばらに行動し、秀吉の意思・命令の統制はとれず、戦争は収拾がつかない泥沼の状態になるおそれが高くなります。

 

 出兵には反対の立場であった三成ですが、主君秀吉が出兵と決めて号令をかけた以上、家臣としては従うほかはなく、すみやかな戦争の決着をつけるためには秀吉自身の渡海、秀吉による全軍の指揮が必要と考えたのだと思われます。

 

 この後も秀吉の朝鮮渡海は何度か計画されますが、結局秀吉は朝鮮に渡海することなく、慶長三(1598)年8月18日死去します。

 

(令和5年10月22日 追記)

 従来、この秀吉の朝鮮渡海を巡る石田三成徳川家康の「論争」は、石田三成が即時の豊臣秀吉の渡海を主張し、徳川家康前田利家が秀吉の渡海の中止を主張し、「不時の早風」という天候上の問題を理由に渡海を延期することに決したという事だとされてきました。これに対し、谷徹也氏は、「朝鮮三奉行の渡海をめぐって」(立命館文學 677号)で、以下のように述べています。(下線筆者)

「(前略)ここからは、三成が先に渡海の機会を六月に限定することで、家康の天候を理由とした渡海の困難さの主張が有効性を持ち、ついに秀吉も即時渡海を断念するに至ったという論理展開が読み取れる。つまり、三成と家康はともに秀吉の渡海を制止する方向性は一致しており、あたかも事前に調整したかのように両者の主張が会議の場で機能したと考えられよう。
会議後、秀吉自身も漢城在陣中の宇喜多秀家らに対して、家康・利家とともに「只今罷越候者とも」(三成ら)も即時渡海を強く制止したために、来年三月まで渡海を延期した旨を伝えている。こうした三成の志向性は、姜沆『看羊録』において、家康が朝鮮再侵(丁酉再戦、慶長の役)を失策と非難し、三成も日頃から対外侵略に批判的であったとする見立てとも合致する。」

 つまり、秀吉の朝鮮渡海を巡る徳川家康石田三成の「論争」は、あたかも(家康と三成が)事前に調整したかのように、秀吉の渡海を制止する方向へ誘導されたものだったという事となります。谷氏の見解に賛同いたします。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p163~165、跡部信 2016年、p125

(*2)中井俊一郎 2016年、p45 

(*3)姜沆 2008年、p160~161

(*4)跡部信 2016年、p132

(*5)跡部信 2016年、p131~132

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

姜沆(訳注 朴鐘鳴)『ワイド版東洋文庫 440 看羊録』平凡社、2008年

中井俊一郎「第六章 朝鮮・文禄の役 日本は無人に罷りなり候」(オンライン三成会『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』所収)サンライズ出版、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

読書メモ:小和田哲男『戦国大名と読書』~『先哲叢談』における直江兼続と藤原惺窩のやり取りについて

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 小和田哲男氏の『戦国大名と読書』(柏書房、2014年)を読了しました。 

 上記の書籍において、上杉景勝の重臣・直江兼続儒学者・藤原惺窩とのやり取りを描写した記述で、印象に残った箇所を引用します。(前掲書p155~157)

 

「兼続が中国の古典籍に親しんだのは、一面で古典籍蒐集を趣味としていたからであるが、それだけではなかった。次第に儒学にのめり込んでいった様子が見られる。『先哲叢談』(*1)(『日本逸話大事典』第六巻所収)に興味深いエピソードが載っている。

 慶長五年(一六〇〇)の関ケ原に戦いの少し前(*2)、景勝・兼続主従がまだ京・大坂に滞在中のことである。兼続が儒学者の藤原惺窩を訪ねたことがあった。惺窩は、あとで触れるように、中国の政治論書『貞観政要』を徳川家康に講義したことで知られる当代一の儒学者だった。兼続はどうしても惺窩の意見を聞きたいと考え、惺窩の自宅を訪ねている。

 その日、惺窩は在宅していたが、訪ねてきたのが兼続だと知ると、居留守を使って会おうとしなかったという。居留守を三回使ったというのだから、訪ねる方も訪ねる方だし、居留守を使う方もよく使ったものだと思う。惺窩としては、兼続から「昨今の家康の行動は、儒学からの立場からはどうなのか」と切り出されるのを嫌って、兼続を避けていたのかもしれない。

 その日はあきらめて帰った兼続だが、別の日、もう一度惺窩のもとを訪ねている。ところが、その日は本当に惺窩は外出していた。兼続は応対に出た惺窩の弟子に、「私はこのまま会津に帰らなければなりません」と言い置いて去っていった。

 帰宅した惺窩は、弟子から兼続の来訪のことを聞くと、何を思ったか、兼続のあとを追い、近江の大津で追いついた。兼続は惺窩に「急いでいるので、一つだけ聞きたい」と、次のような質問をぶつけている。

  夫(そ)れ絶えたるを継ぎ、傾けるを扶(たす)くるは、今の時に当つて将(まさ)に行ふ可きか否や。

 要するに、兼続は、慶長三年(一五九八)の秀吉の死後、豊臣家が傾きつつあるという認識を持っていて、「傾きつつある豊臣家を助けるべきなのかどうなのか」との質問である。これに対して、『先哲叢談』は「惺窩答えず」とのみ記している。

 兼続としては、これまで自分が何人もの禅僧から習い、身につけてきた儒学の教えに照らし、秀吉死後の家康による豊臣家簒奪の動きをどうみたらよいのか、それを確かめたかったものと思われるが、惺窩からの答えはなかった。結局、兼続の最後の拠りどころは、上杉家の家風、つまり謙信以来の「義」だったのではないか。「義」を貫くため、家康の戦いも辞さずとの腹を固めることになったものと思われる。」((*数字)は筆者) 

 

 上記を補足しますと、

(*1)『先哲叢談』とは、江戸時代初期から中期までの儒学者を対象とした伝記集です。江戸後期の儒学者の原念斎の著によるもので、文化十三(1816)年刊行されました。

(*2)上杉景勝が伏見から領国の会津に戻る前の話ということですので、慶長四(1599)年8月以前の話ということなります。

 

 『先哲叢談』は、江戸後期の儒学者の著作ですので、上記の兼続と惺窩のやり取りも現実にあったのか不明ですが、江戸後期の儒学者による「関ヶ原の戦い」観がどのようなものであったかがうかがえます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第11章 「地震加藤」はなかった?~文禄の役の加藤清正の一時帰還について

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地震加藤」という話があります。以下に概要を述べます。

 

 文禄の役の時、加藤清正小西行長石田三成の讒訴により、叱責を加えるために秀吉に呼び戻され、伏見の私邸で蟄居することになります。しかし、文禄五(1596)年閏7月13日に起こった慶長伏見大地震の際に、清正は秀吉の元に真っ先に駆けつけ、その捨て身の態度に感服した秀吉が怒りを説いた、というような話です。

 

 この「地震加藤」は歌舞伎や落語にもなり、人々の間に流布された話ですが、この話は史実なのでしょうか?

 中野等氏の「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戎へ光祥出版、2014年所収)に、この点についての検討がされており、結論としては「清正の帰国について、むしろ明使節の来日とそれを迎える儀式・饗宴への参列という事情を勘案すべき」(*1)、「こうしてみてくると、上述した「地震加藤」の逸話も史実ではなさそうである。清正の日本への帰還が小西や石田らの讒訴によるという説も併せて再考を要するのでは無かろうか。」(*2)としています。

 

 上記の結論の論拠として、中野氏は以下のように述べています。

 

1.文禄五年(推定)の五月十一日付相良頼房宛て島津忠豊書状に、加藤清正帰国予定の旨が記載されている(「仍主計頭(加藤清正)殿近日御帰朝之由風聞候」)が、特に讒訴による召還等を思わせるような記載はない。(*3)

 

2.秀吉が叱責を加えるために清正を日本に召還したという説は、キリシタン史料や朝鮮側の史料、さらに『清正記』や『清正高麗覚日御帰朝』などにはみえるが、菅見の限り(1.の史料も含め)一次史料から確認されるものではない。

3.この年の五月二日付島津忠恒島津義弘書状に、明の勅使を迎えるために、朝鮮に在留している諸将にも帰国命令が出されていることを示す旨が記されており、朝鮮に在陣する清正の帰国も明の勅使を迎えるためによることが考えられる。(結局、忠恒自身の帰国は延期になってしまいましたが。)(*4)

4.閏7月13日に起こった大地震を国許に伝える清正の第一報は地震から2日たった15日付で発せられ、その書状を見ると、

① 特に、清正が伏見に真っ先に駆けつけて秀吉を保護したなどの記載は一切見えない。

② 小麦の売買や唐船のルソン派遣、検見の実施など在地支配の詳細を伝えており、逼塞を命じられた様子は微塵も伝わってこない。

③ 地震発生時の清正居所については「伏見ニハいまた造作無之候あひた」とあり、この時期、いまだ伏見には清正の屋敷もできてはいないと述べており、この時伏見に清正はいなかったことが分かる。(中村等氏は、袖書きで京から胡麻を取り寄せようとしている記述から、消去法で清正の居所は大坂であった可能性が高いとして、第一報を発するのが当日ではなかったのも首肯されるとしています。(*5)

 

 上記の中野氏の記述を考えますと、やはり「地震加藤」の逸話は史実ではなく、虚構である可能性が高いかと思われます。

 

 注

*1 中野等 2014年、p176

*2 中野等 2014年、p178

*3 中野等 2014年、p175~176

*4 中野等 2014年、p176

*5 中野等 2014年、p175~178

 

 参考文献

中野等「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正』戎光祥出版、2014年所収)

「古今消息集」にある「慶長五年九月十二日付増田長盛宛石田三成書状」は偽文書?

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 高橋陽介氏の『一次史料にみる関ケ原の戦い(改訂版)』星雲社、2017年を読了しました。

 

 本書籍については、白峰旬氏の「関ヶ原の戦いについての高橋陽介氏の新説を検証する -高橋陽介氏の著書『一次史料にみる関ヶ原の戦い』を拝読して-」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04609.pdf?file_id=8221

を先に読み、本書籍を読まないと何を白峰氏が批判しているのかよく分からなかったため、購入して閲読した次第です。

 

 私が読んだのは「改訂版」ですが、白峰氏の批判した内容はだいたい残っていますので、内容はあまり変わらないかと思われます。

 

 個人的には、概ね白峰旬氏の批判が妥当かと思いますが、評価は各自でご判断いただければと思います。(といっても、本書籍の内容が分からないと評価しようがないかと思いますが、正直あらすじをまとめる気力がないのでご容赦願います。)

 

 また、この後も高橋氏、白峰氏の議論は続いているようですが、フォローしきれていませんので、現状の議論がどうなっているのかよく分かりません。

 

*                 *                  *

 

 さて、今回の本題はタイトルのとおり、「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」は偽文書なのか?という話です。

 

 高橋氏の前掲書の根拠史料の主なひとつとして、この「古今消息集」の「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」が使われており、これに対して白峰氏は、結論として、「九月十二日付石田三成書状については、後世の偽文書である可能性を考えるべきである」と述べています。

 

 この「古今消息集」にある「慶長五年九月十二日付増田長盛石田三成書状」は、高橋氏のみならず、様々な歴史学者・研究者が関ヶ原の戦い直前の情勢を描写する主な論拠として使用している有名な史料です。

 

 この書状は関ヶ原の戦い(慶長五(1600)年九月十五日)の直前である九月十二日に大垣に在陣する石田三成が、大坂城の奉行増田長盛に、西軍の窮状を訴える内容となっています。

 

 白峰氏のこの書状に対する疑義を紹介する前に、この書状の現代語訳の全文を引用します。(今井林太郎氏の『石田三成吉川弘文館、1961年、p177~p183に現代語訳の全文が掲載されていますので、こちらから用します。) 

 

一、赤坂の敵は今日にいたるも、何等の行動を起こさず、ただじっと居陣しているだけで、何かを待っているように見受けられ、皆が不審だと言っている。

一、大垣城には、伊藤盛正の家来を始め近辺のものまで人質に取っているが、敵より放火の才覚があり、伊藤は若輩ゆえ、家中の者共は様々の才覚をするので、心を許すことができない。

一、今日の相談で味方の軍略も大体きまるであろう。一昨日自分等は長束正家安国寺恵瓊の陣所を訪れて、彼らの内存を承ったが、その限りでは、事がうまく運ぶと思われない。というのは彼等は殊のほか敵に対して大事をとり、たとい敵軍が敗走しても、それを壊滅させる工夫もせず、とかく身の安全ばかりを考え、陣所を垂井の上の高所に設けたが、そこは人馬の水もない高い山で、万一のとき人数の上下もできない程の山であって、味方中も不審に思い、敵もきっとそう思っているであろう。

一、当地で苅田を行えば、兵粮はいくらでもあるのに、敵を恐れて苅田にさえ人を出さず、兵粮は近江から運ぶことにしているようだが、近頃は味方中が畏縮してしまっている。

一、とにかくこの様にだらだらと日を延ばしているようでは、味方の心中も計り難い。御分別をなさるべき時である。敵味方の下々の取沙汰では、増田と家康の間に密かに話合いがついていて、人質の妻子は一人も成敗することはないといっている。是もものの分ったものが申すのではなく、下々の申すことである。先書にも申した如く、犬山に加勢に赴いた衆が裏切ったのも、妻子が大丈夫だからであると、下々は言っている。敵方の妻子を三人・五人成敗すれば、心中も変わるだろうと当地の諸将は言っている。

一、大津の京極高次のことは、この際徹底的に処分しなければ、以後の仕置のさわりになると思う。殊に高次の弟高知が当地で種々と才覚していることは、御推量のほかである。

一、敵方へ様子を聞きに放った人が帰ってきての報告に、佐和山口から出動した衆のうち(小早川秀秋を指すと思われる)、大軍を擁して、敵と内通し、伊勢への出陣をも抑え、各自それぞれその在所在所で待機するようにと命じたという噂が、この二-三日頻りに伝えられ、敵方は勇気づいていたが、近江の衆が悉く山中へ出動したので、敵方では噂に相違したといっているということだ。とにかく人質を成敗しななければ、取られた人質について心配しないのは当然で、これでは人質も不要のように見受けられる。

一、連絡のための城には、毛利輝元の軍兵を入れておくようにすることが肝要である。これには子細あることであるから、御分別をなされて、伊勢を始め大田・駒野(岐阜県海津郡南濃町)に城を構えることがよかろうと思う。近江と美濃の境目にある松尾の城や各番所にも中国衆を入れておくように御分別なさることがもっともである。いかほど確かな遠国勢でも、いまどきは所領に対する欲望が強いので、人の心は計り難い。分別すべきときである。

一、当地の儀はなんとか諸将が心を合わせれば、敵陣を二十日以内に撃破することはたやすいことであるが、この分だと結局は味方の中に不慮のことが起るのは、眼に見えるようだ。よくよく御分別ありたい。島津義弘小西行長等も同意見であるが遠慮しているようである。自分は思っているだけのことを残らずいっている。

一、長束正家安国寺恵瓊は思いのほか引っ込み思案である。あなたに当地の様子を一目なりと御目にかけたい。さてさて敵のうつけたる体たらくといい、味方の不一致といい、ともに御想像のほかであるが、それ以上味方中はさげしむべき体たらくである。

一、毛利輝元の出馬しないことは、自分はもっともだと思う。家康が西上しない以上、不必要かとは思うが、これについても下々では不審をたてて、いろいろいうことである。

一、度々申し入れた如く、金銀米銭を使うのはこのときである。自分などは分相応にはや手許に持っているだけ出してしまった。人をも召し抱えたので、手元の逼迫は御推量ありたい。この際が一番大事な時期だと思うので、あなたもその御心得がありたい。

一、近江から出動してきた衆(小早川秀秋を指すものと思われる)に、万一不慮のこともあろうかと存じ、これがただただ迷惑である。輝元の出馬がなければ、中国衆を五千人ばかり佐和山城へ入れておくように処置することが肝要である。また伊勢へ出陣された衆は、万一のときは大垣・佐和山の通路を経ずに、太田・駒野から畑道を通って直ちに近江に退去しようという意図のように見受けられるので、長引くことと思われる。

一、宇喜多秀家の今度の覚悟はあっぱれで、このことは方々からお聞きになるだろうから、申し上げるまでもないが、一命を捨てて働こうとの態度である。その分別御心得ありたい。島津義弘小西行長も同様である。

一、当分成敗をしない人質の妻子は、宮島へ移されるがよかろう。御分別が過ぎてもよくない。

一、長束正家安国寺恵瓊は、この度伊勢方面より出動した中国勢は勿論のこと、大谷吉継及び秀頼麾下の御弓鉄砲集までも南宮山に引き寄せようとしているので、人数が少々無駄になるようだ。

一、丹後方面の人数がいらなくなった由であるから、その人数を少しでも当地へ差し向けるようにしてほしい。」

 

 白峰氏は、上記の書状について以下のように述べ、「後世の偽文書である可能性を考えるべきである」としています。

 

(以下、白峰氏の前掲論文から引用)

「高橋本では、この九月十二日付増田長盛石田三成書状の内容について、真正の文書(石田三成 が実際に記した内容の書状)である、という前提で検討している。

 

  しかし、筆者(白峰)は、すでに前掲・拙稿「関ヶ原の戦いにおける吉川広家による「御和平」 成立捏造のロジック」で指摘したように、九月十二日付増田長盛石田三成書状については、以下 のような疑義がある。

 

 ①この九月十二日付石田三成書状は書状の原本が伝存せず、書状の写(「古今消息集」所収)しか 存在しない。

 

 ②この書状の内容については、中井俊一郎氏が「この書状は『古今消息集』に収められているものだが、正直なところ、これが三成の書いたものそのままとはとても思えない。通常の三成文書と 文体・内容ともかけ離れているからである。」(30)と指摘して疑義を呈している。

 

③確かに、三成の他の書状を見ると非常に強気な態度で理路整然と論旨を展開する内容であるのに 対して、この書状は全体に悲観的なことがくどくどと書かれていて、他の三成書状とはかなり異 なっている印象を受ける。

 

④特に一人称の使い方に着目すると、他の三成書状では一人称はほとんど出てこないのに対して、 この書状では「拙子」が5例、「拙者」が1例出ている点は他の三成書状と異なった点である。 他の三成書状では一人称の用例は少ないものの、「此方」(「(慶長五年)七月晦日付真田昌幸宛石 田三成書状」(31)など)、「拙者」(「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁宛石田 三成書状」(32)など)、「我等」(「(慶長五年)八月十日付佐竹義宣宛石田三成書状写」(33)などが一人 称として使用されている。三成書状における「拙子」の用例は「(慶長五年)八月十日付真田昌幸真田信繁石田三成書状」(34)にも見られるが、この書状では2例しか使用されておらず、九月 十二日付石田三成書状のように多用(5例)されているわけではない。

 

 ⑤他の三成書状では「秀頼様」に言及する記載が見られるが(前掲「(慶長五年)七月晦日付真田 昌幸宛石田三成書状」、前掲「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁石田三成 書状」など)、九月十二日付石田三成書状では「秀頼様」についての言及が一切ない。

 ⑥他の石田三成書状は8ケ条(「(慶長五年)八月十日付真田昌幸真田信繁石田三成書状」(35))、 10ケ条(「(慶長五年)八月五日付真田昌幸真田信之真田信繁石田三成書状」(36))、11ケ条(「(慶 長五年)七月晦日付真田昌幸石田三成書状」(37))、12ケ条(「(慶長五年)八月十日付佐竹義宣 宛石田三成書状写」(38))であるのに対して、九月十二日付増田長盛石田三成書状は17ケ条であり、条数が他に類例がない程多く、その文面の内容量も異常に多いことは異例である。九月十二日という軍事的緊張状態の中で石田三成が、このような異常に長い内容の書状を書いたとは考えにくい。

 

  こうした諸点を勘案すると、九月十二日付石田三成書状については、後世の偽文書である可能性 を考えるべきであると思うので、高橋本46 ~ 68頁の箇所については筆者(白峰)として内容の検証を加えないこととする。その理由は、九月十二日付石田三成書状を真正の文書と考える高橋氏と、後世の偽文書である可能性を考えている筆者(白峰)が議論しても平行線になって結論は出ないか らである。なお、こうした判断は、九月十二日付石田三成書状を真正の文書とする高橋氏の考えを尊重するものであり、決して非難するものではない。」 

 以下、私見を述べます。

 

1.この書状について原本は存在せず、あるのは『古今消息集』に掲載されている「写し」とされるもののみです。原本はなく、江戸時代に作成された文書というだけで、正直信頼性が著しく低くなります。これが真書・原本の写しであるという保証はまったくありません。

 2.この書状は大津で敵軍の手に奪われ、増田長盛の手に届かなかった(今井林太郎氏前掲書、177ページ)とされていますが、味方の大軍が大津城を包囲している時期であり、西軍の勢力圏内である大津近辺で敵に奪われたという経緯も不自然です。

 3.内容は、白峰氏が「三成の他の書状を見ると非常に強気な態度で理路整然と論旨を展開する内容であるのに対して、この書状は全体に悲観的なことがくどくどと書かれていて、他の三成書状とはかなり異なっている印象を受ける。」等と指摘している通り、三成の普通の書状の書き方から大きく逸脱しています。 

 また、この書状は、いたずらに冗長で悲観的な説明が延々と続いております。しかし、この書状で、これだけ悲惨な状況を訴えているのですから、普通なら輝元の援軍を要請する書状になる方が普通でしょう。しかし、「毛利輝元の出馬ないことは、自分はもっともだと思う」とも述べており、かなり支離滅裂で不自然な文書になっています。

 

 以上から、私もこの書状は偽文書である可能性が高いと思います。 

 しかし、私も含め、多くの方の従来の認識では、この書状で書かれている状況そのままが実際の関ヶ原の戦いの直前の状況であるという先入観があったりするのですね。  

 この書状が偽文書だとすると、(この書状が真書であることを前提とした)関ヶ原の戦いの直前の状況の認識も見直しをしないといけなくなるのではないでしょうか。