☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
※コメントは、次回のページに記載します。(下記がコメントです。↓)
(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)
この頃 ■三成長男(重家)誕生(白川亨、p72~73)
一月十八日 ■石田三成、木村吉清・増田長盛とともに、上杉氏宛ての連署状を発する。(中野等、p32)
一月二十三日 ★昨年十月二日付の関白秀吉による大友・島津への停戦命令が「豊後侵攻の談合のため鹿児島に集まっていた(筆者注:島津家の)重臣達に披露された。
重臣らの反応は様々であった。関白からの書状であり、相応の請書を出すべきという意見がある一方、「羽柴事ハ寔々(まことに)無由来仁」と噂されており、由緒正しい島津家がそのような人物を関白扱いするとの意見もあった。結局、秀吉書状と同日付の細川玄旨(幽斎)・千宗易(利休)連判副状(松井氏所蔵文書)に対する返書を出すことになり、正月十一日付で細川幽斎宛島津義久書状が作成された(上)。
その内容は、停戦を命じる勅命に従うとしながらも、織田信長・近衛前久の仲介による豊薩和平は有効であり、島津側から大友氏に攻撃を加えるつもりはないこと、大友氏が日向・肥後境で数か所「破郭」しており、相応の防戦はするだろうが、島津側から手切れすることはないと、島津家の現状認識と立場を表明している。」(新名一仁、p197)
一月二十四日 ★織田信雄、三河岡崎城に赴く。(柴裕之、p87)
一月二十五日 ★「既に秀吉に臣従していた(筆者注:毛利)輝元は、小早川隆景・吉川元長(元春長男)を大坂に派遣し、これ(筆者注:秀吉による大友氏と島津への停戦命令)を受託したこと、そして京都への「馳走」を島津氏に助言するよう命じられたことを、天正十四年正月二十五日付で義久に伝えている(『旧記雑録附録』)。」(新名一仁、p196~197)
一月二十七日 ★織田信雄、岡崎城で家康と会見、秀吉との和睦をまとめる。(柴裕之、p87)
二月 ★秀吉、「織田信雄が徳川家康に和睦を応じさせたことを受けて、家康を「赦免」する。」(柴裕之、p185)
二月二十一日 ★秀吉、京都で聚楽第の工事をはじめる。(小和田哲男、p167、211)
二月二十二日 ★「小早川隆景は龍造寺政家に書状を出し、秀吉から停戦命令が出されたことを伝え、これに従うよう勧告し、龍造寺側も重臣成富氏を大坂に派遣したことがうかがえる。」(新名一仁、p201~202)
三月十一日 ■石田三成、下野の宇都宮国綱宛て書状を送る。
「◇大関晴増(弥七郎)方へ、飛脚を指し下す用がありましたので、ご挨拶いたします。先日、上杉景勝の使者の天徳寺宝衍を通じて、近々(宇都宮国綱が)御上洛されるという連絡がありました。私の満足というのは此の事ですし、(宇都宮家の)為にもなると思います。もし、北条が(宇都宮国綱の)上洛を聞いて、それを妨害するために、足利を攻略するなどと称してそちらに軍勢を差し向けるといった噂を流して、(宇都宮国綱の)上洛を妨害しようとするような企てがあるかもしれません。(とはいえ)そのうちに北条も、一門の誰かを上洛させ、公議のつとめを果たすようなことになることは必定です。たとえ(今回、北条が)出勢し、いったん領国を失うことになろうと。上洛されて(秀吉への拝謁・臣従)を済ますことが、つまるところはよい結果につながると思います。北条の策略による噂に怯え、上洛を先延ばしにする間に、北条氏輝(陸奥守)が先に上洛して、(宇都宮氏に)不利な申し立てをすれば、すでに時を逸することになります。とにかく一刻も早い上洛をお待ちしています。進上品などの配慮は無用ですので、万事を後回しにして、まず上洛を優先してください。こちらでの所用は私が行いますので、ご安心ください。」(中野等、p34)
四月五日 ★大友宗麟、「みずからが大坂に上り、四月五日、大坂城にて秀吉に拝謁しており(大録)、ここで〝九州国分け案〟を提示されたと見られる。」(新名一仁、p206)(中野等、p45だと四月六日になっています。)
四月十日 ★「四月十日付で、秀吉は毛利輝元に対し、九州攻めの準備として豊前・肥前から人質を取ることや、筑前に軍事・兵糧を運び入れるように指示している。」(新名一仁、p207)
→既に、秀吉は島津が停戦命令を拒否する可能性が高いことを前提に、戦の準備をしていたことが分かります。(戦国大名の基本外交は「和戦両様」なので、戦の準備をしつつ、交渉もするのは常道の手段ということでもありますが。)
五月十四日 ★「妹の朝日姫を徳川家康に嫁がせ、羽柴家の親類とする。」(柴裕之、p185)
五月十六日 ■石田三成・木村清久(吉清)・増田長盛、上杉家重臣直江兼続宛ての連署状を発する。
「◇お手紙を拝見し、満足しています。先般の手紙でも申しましたように、家康が謝罪をしてきましたので、(秀吉が)お許しになられ、さらに婚姻を結ばれることとなり、(朝日の)輿入れとなりました。殿下様(秀吉)は、こうした機会を無駄にされないので、(家康からの)人質や誓紙もあるでしょう。このような次第ですので、ほどなく東国も秀吉思い通りになると存じます。関東における(諸勢力の)境界が決定する以前に、景勝が上洛されるのがよろしいと思い、意見を申し入れます。西雲寺の話では、(景勝が)熱心に上洛のことを口にされているようです。上洛の具体的な日程が決まれば、越中まででも御迎えにうかがいますので、確実に連絡をしてください。詳しいことは(使者の)口上に委ねますので、細やかなことは控えます。」
五月二十日 ★上杉景勝、上洛のため春日山城を出発。(児玉彰三郎、p81)
五月二十二日 ★島津義久によって「秀吉のもとに派遣されていた使番の鎌田政広が、日向に戻ってきた。」(新名一仁、p203)ここで、鎌田政広は、秀吉のつきつけたいわゆる「九州国分け案」を持って帰ります。「これは、島津氏が切り取った国のうち、肥後半国・豊前半国・筑後を大友義統に返還させ、肥前国を毛利輝元に与え、筑前国を秀吉直轄領とするものであり、島津氏に安堵されるのは、本領の薩隅日三か国と肥後半国・豊前半国のみであった。支配の実態がほとんどない豊前半国を島津領というのはよく分からないが、島津氏にとってはとても受け入れられない条件であったであろう。しかも、七月までに鎌田が再度上京して国分け案を受諾しなければ、必ず出馬すると通告したのである(同上)。」(新名一仁、p203~204)
五月二十五日 ■「五月二十五日付で秀吉は東国の諸勢力に朱印状を発給し、その書き留めに従って石田三成と増田長盛とが連署の副状を発する。(中略)同様の文書は、白川義親充てのものなどが知られるが、ここでは宇都宮家重臣塩谷義綱(受領名はのちに「伯耆守」)に充てられたものを紹介する。(中略)
(筆者注:秀吉の朱印状)◇佐野家のことについて、異儀もなしとのこと尤もに思う。万一の場合にも、親しく話し合うことが大事であろう。家康はいろいろと縁組みのことまで望んできたので、誓紙・人質などを占い選び、(指し出してきたので)赦免することとした。そういうことなので関東へは近日中に使者を派遣し、(諸勢力の)境界を確定し、穏やかに治まるようにしたい。もし妨害するような族がいるようなら、厳しく処罰する。それまでは、軽々しく軍事行動を起こしてはならない。委(くわ)しいことは山上道牛に言いきかせている。なお、増田長盛・石田三成が申すだろう。(中略)
(筆者注:増田長盛・石田三成の連署状)◇佐野家のことについて、(秀吉からの)御書がくだされましたが、佐野家家中は混乱もないとのことで、尤もに思います。今後はいっそう親密にすることが大事であると仰せです。概して、関東へはすぐに御使者を派遣され、穏やかに治まるようにされるでしょう。それまでは軽々しい軍事行動を起こさぬように。委しいことは山上道休に言い含めます。(筆者注:書状の現代語訳終わり)
下野国の佐野家では、前当主宗綱が討ち死にしたため、その家督継承が大きな問題となっていた。とはいえ、佐野家中として特に紛糾もないことを、秀吉は諒としている。」(中野等、p36~38)
五月二十五日 ■白川義親宛豊臣秀吉朱印状。「猶、増田右衛門・石田治部少輔申すべく候也」とあり、増田長盛・石田三成が副状を送っているのが分かる。内容は、家康と縁辺の儀が整い、赦免した事、「境目を相立て、静謐に属すべき候」とあり、「惣無事」を命じた書状であることが分かる。「栗野氏(筆者注:栗野俊之氏)の研究によれば、これと同日の日付で下野塩谷氏(筆者注:上記の塩谷氏宛て書状のこと)、常陸佐竹氏にも出されていたという。」
更に秀吉は、「静謐」の命令に背いた族(やから)がいた場合には、「急度申し付くべくの条」と書いており、北関東の大名達を脅かす北条氏を牽制していたことがわかる。(小和田哲男、p215~216)
五月二十八日 ■石田三成、「上杉景勝の上洛を迎えるために北陸道を北上し、五月二十八日には加賀森本で景勝主従を出迎えている。」(中野等、p38)
五月二十九日 ■上杉景勝、「前田利家の金沢城に招かれ、歓待を受ける。こののち三成は景勝と同道」(中野等、p38)「そのさい(筆者注:景勝が利家の金沢城に招かれた際)、能の上手の誉れ高かった九歳になる利家の次男又若に、能を舞わせてふるまったりした。」(児玉彰三郎、p82)
五月下旬 ★「同年五月下旬までに宗麟は豊後に戻り、大友義統は、秀吉から国分け案の提示があり、その「検使」(黒田孝高・安国寺恵瓊)が下向することを各地に伝えている(大録)。」(新名一仁、p206)
六月 ■「天正十四年(一五八六)六月に、織田信長時代から堺政所を勤めていた松井友閑が罷免され、三成はそのあとを襲って、小西立佐とともに「堺奉行」に就任する」(中野等、p44)「三成の堺奉行在職は天正十六年(一五八八)の末まで及ぶという」(中野等、p47)
六月六日 ★島津義久、秀吉の「九州国分け案」への対応のため、重臣たちを鹿児島に招集し、談合を開催する。(新名一仁、p204)(※新名氏の著書では、「八月六日」となっていますが、文脈上「六月六日」の誤植と思われます。)
六月七日 ★「(筆者注:上記六月六日の談合の)参加者全員が神慮に基づき大友氏を対峙すべきとの意見で一致をみる。」(新名一仁、p204)
六月七日 ■上杉景勝一行(三成も同道)、「近江国大溝を経て、夜五つ過ぎ(午後八時頃)に入京する。この日は、いったん坂本に一泊する案もあったが、三成の意見に従ってそのまま入京した。」(中野等、p38~39)
六月九日 ★「義久は豊後出陣を決断。六月二十七日に日向口から、同月二十四日に肥後口から進攻することを命じる(上)。」(新名一仁、p204~205)
六月十日 ■「三成は六月十日に、秀吉の使者として改めて京都百万遍に出向き、景勝に拝謁する。」(中野等、p39)「秀吉の使として石田三成が来訪し、在京の賄料として三百石を贈られ、遠路をねぎらわれた。その他、木曽義昌・村上義明・溝口頼勝等が来訪している。」(児玉彰三郎、p82)
六月十二日 ★景勝、大坂下向。(中野等、p39)「(筆者注:景勝は)増田長盛の館に泊」まった。(児玉彰三郎、p82)
六月十三日 ★「義久は突如筑前出陣を決定した。」(新名一仁、p206)
→豊後出陣から筑前出陣に、強引にでも方針転換したい義久の意向でした。毛利勢進攻が近く、筑前に秀吉方の軍勢・兵粮が運び込まれる予定を知った義久が、筑前の攻略を急いだとみられます。(新名一仁、p206)
六月十四日 ★上杉景勝、「大坂城で秀吉に拝謁する。」(中野等、p39)
六月十五日 ■「三成は十五日に大坂の石田屋敷に景勝一行を招き、饗宴をはる。」(中野等、p39)
六月十六日 ★「秀吉はふたたび景勝を招いて茶の湯を催し、自ら茶をたてて景勝にすすめた。」(児玉彰三郎、p82)
六月十八日 ★上杉景勝、大坂を発ち、深更京都に入る。(児玉彰三郎、p83)
六月二十一日 ★景勝、「秀吉の奏請により、左近衛権少将に任じられ、従四位下に叙せられた。」(児玉彰三郎、p83)
六月二十三日 ★「(筆者注:この日)秀吉より景勝に与えた書にも、佐渡の鎮撫を命じ、景勝の意見に背く者は、きっと成敗を加えるべきであるといっている(後略)」(p83~84)
六月二十四日 ★上杉景勝、帰洛。(中野等、p39)
六月二十六日 ★島津義久、出陣。(新名一仁、p206)
六月末 ★「島津勢が筑前に侵攻したことは、六月末、大友義統によって秀吉に通報された。」
七月二日 ★義久、肥後八代に布陣。(新名一仁、p207)
七月六日 ★「島津忠長・伊集院忠棟ら率いる島津勢は、(筆者注:島津方から大友方へ寝返った)筑紫広門の支城鷹取城(佐賀県鳥栖市牛原町)を攻略。(新名一仁、p208)
七月十日 ★島津勢、筑紫広門の居城勝尾城を攻略し、広門を降伏させる。(新名一仁、p208)
七月十二日 ★「秀吉は、七月十二日、大友義統に返書を送り、島津討伐を決めたことを伝えている(大録)。(中略)
具体的には、長宗我部父子と四国勢に先手を命じて、七月二十日に出船させること、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景に中国の先手を命じ、門司関を超えて、立花統虎・高橋紹運らを助成するように命じたこと、そして黒田孝高・宮木堅甫を派遣したと記している。なお、この頃までに、毛利輝元と大友義統の和睦が成立したことも記されている。」(新名一仁、p211)
七月 ★「島津氏勢力の「征伐」の意向を示し、仙石秀久と長宗我部元親ら四国勢を先勢に、毛利氏の軍勢にも出陣を命じる。」(柴裕之、p185)
七月十四日 ★島津勢、大友氏重臣高橋紹運の籠る岩屋城(福岡県太宰府市大字観世音寺)を包囲。(新名一仁、p208~209)
七月十七日 ★「家康は真田昌幸を信州上田に討とうとして、浜松から駿府まで出馬した。」(児玉彰三郎、p86)
七月二十五日 ★「黒田孝高・宮木堅甫と毛利の先勢が渡海した」(新名一仁、p211)
七月二十七日 ★岩屋城陥落。高橋紹運自刃、城兵は全員討ち取られた。(新名一仁、p210)
七月二十七日 ★徳川家康の従三位参議叙任が行われる。(藤井譲治、p111)
七月二十八日 ★島津勢は、高橋紹運の子長男立花統虎(宗茂)が籠る立花城(福岡県福岡市東区大字下原)の攻略に向かう。(新名一仁、p210)
八月頃 ■「堺奉行に就任して二ヶ月ほど経った後、三成は堺の豪商でキリシタンであったディオゴ日比屋了珪の女婿ルスカ宗礼なる人物を断罪している。」(中野等、p45)
八月三日 ★「いまだ岩屋城落城を知らない秀吉は、高橋紹運・立花統虎に対しても書状を送り、毛利・小早川・吉川の各氏に関戸(関門海峡)を超えて、大友義統と相談の上「凶徒」=島津方を誅伐するように命じたことなどを伝え」た。(新名一仁、p211)
八月三日 ■「景勝から無事帰国の使者(吉田肥前守)を迎えた三成は、その返信として、八月三日付で増田長盛との連署状を発する。秀吉の意向に従って、当面する東国政策の詳細について連絡するためである。具体的には、秀吉の意向に背いて上洛しなかった真田昌幸への対処と、佐渡仕置などについての指示である。真田昌幸は、北条氏と上野方面で交戦する一方で、徳川家康と緊張関係が継続していたため、上洛するに至らなかった。このことが秀吉の怒りを買う事になり、秀吉をして「表裏比興者」と言わしめている。いずれ家康が討伐の軍勢を差し向けるであろうから、越後から真田に対して助勢などのないように、と厳命している。その一方で、佐渡の仕置については景勝の意向に任せる、とした。さらに今後関東・奥羽へ秀吉の朱印状を送達する場合、上杉家の手寄りによって進めていきたいと告げている(『上越市史』二-三一二四号文書)。」(中野等、p39)
八月九日 ★「秀吉は家康の家臣水野惣兵衛に書を送り、家康の上洛がおくれようとも、苦しくない、真田の首をはねることが専一である。とまで言っている。」(児玉彰三郎、p86)
八月九日 ★「上杉景勝は新発田征伐のため出陣した。」(児玉彰三郎、p85)
八月十四日 ★「再度秀吉は統虎に書状を送り、七月二十五日に黒田孝高・宮木堅甫と毛利の先勢が渡海したこと、兵粮・玉薬の補給を黒田・宮木に命じたことを伝えている。」(新名一仁、p211)
八月十六日 ■「十六日には、石田・増田が兼続に書を送り、信州の郡割りのことについて指示し、家康と協力すべきことを命じたのである。」(児玉彰三郎、p86)
八月二十日 ★「ところが、家康の(筆者注:真田への)出馬は中途で取り止めとなり、同二十日には、浜松へ引き上げている。これは、秀吉の働きかけによるものとされる(後略)」(児玉彰三郎、p86)
八月二十四・二十五日 ★「島津勢は立花城包囲を秋月種実ら筑前・筑後勢と交替し、肥後へと撤退していった(同上)。」(新名一仁、p212)
八月二十四日 ★立花統虎(宗茂)は反撃に転じ、島津軍を追撃。(小和田哲男、p195)
八月二十五日 ★統虎(宗茂)は島津方の高鳥居城を攻撃。毛利輝元の援軍もあり、高鳥井を落とし、島津方の武将星野鎮胤・鎮元を討ち取る。その後、岩屋・宝満山両城も奪回している。(小和田哲男、p195)
八月二十七日 ★島津方に拘束されていた筑紫広門、脱走。(新名一仁、p214)
八月二十八日 ★筑紫広門、勝尾城奪還。(新名一仁、p214)
九月六日・八日 ■「九月に入ると秀吉は、景勝に敵対する新発田重家へ対応するため、木村吉清(弥一右衛門尉)を越後に下す。この決定は九月六日付の秀吉直書で景勝に告げられるが、三成も翌々日の八日付で直江兼続に充てた書状を発している(『上越市史』二-三一三五号・三一三六号文書)。ここで秀吉は、越後国内に敵対勢力を抱えることは、天下のためにも東国のためにもならない、と景勝を諭している。その真意は、景勝と新発田重家を和解させ、上杉勢の力を真田追討に向けることにあった。」(中野等、p39~40)
九月十一日 ■「秀吉は三成らに命じてあらためて新発田重家らに降服を勧告し、木村清久は兼続に新発田城を明渡し、本領相当の替地を与えるという重家の降服条件を示し、ついで新発田に赴いて重家らを説得したが、これはついに成功せず、吉清は空しく京に引き上げたのであった。」(児玉彰三郎、p85~86)
九月十六日頃 ★島津氏、鬮引きで豊後出陣の成否をはかる。霧島山(現在の霧島神宮ヵ)で鬮(くじ)が引かれ、「結果はすぐさま豊後への出陣であった(上)」。(新名一仁、p216)
九月十八日 ★「仙石秀久(一五五二~一六一四)・長宗我部元親ら率いる四国勢が、豊後沖の浜(大分県大分市)に上陸する。」(新名一仁、p212)
九月二十五日 ■新発田重家は、「景勝への服従を嫌って、抵抗をつづけた。さきに景勝と新発田重家との間を調停しようとした秀吉も態度を変え、九月二十五日付の直書(『上杉家文書』八一五号)では、景勝の新発田攻めを諒解した。」(中野等、p40)
この直書は、上杉景勝宛石田三成・増田長盛の連署副状を伴っています。(内容は以下のとおり)
「◇ 御手紙の趣旨は、(秀吉に)細かく披露しましたので、御書として指示がくだります。
一、新発田を厳しく攻めつけられていること、近々には決着がつきそうなので、尤もに存じます。詳細を木村吉清に言伝されて、そちらに遣わされていますので、どのようなかたちであれ、すみやかに解決するようにとの指示、尤もなことと存じます。
一、真田については、先般命令があったように、虚偽ばかりなので討伐することにしていたが、今回は控えることとします。
一、関東ならびに伊達・蘆名(会津)などの御取り次ぎのことについて、(秀吉の)朱印状を調えました。賢明に対処していただくことが大事かと存じます。」(中野等、p41)
九月二十六日 ★「徳川氏は上洛を求める秀吉の使者・浅野長吉(のちの長政)たちを交えて岡崎城で話し合い、家康の上洛を決めた。」(柴裕之、p88)
★「秀吉および織田信雄は家康に使いを遣わし、先に家康のもとに嫁した秀吉の妹朝日姫と面会することを口実に、事実上は人質として、秀吉の母大政所を浜松に送ることを条件に、家康の上洛を促し、ようやく家康もこれを諒承して、これに従うことになった。」(児玉彰三郎、p87)
九月二十七日 ■島津義久、関白秀吉・弟秀長・石田三成・施薬院全宗に対し書状を送る。
「秀吉には、「夏以来肥筑境の凶徒の妨害により返事が遅くなった」と釈明し、施薬院全宗には、「鎌田政広が下向途中に病気となり快気しないので、長寿院と大膳坊を派遣した」と見え透いた嘘をつき、秀長や三成には、「筑前出陣が領内の悪党を懲らしめるためであり、京都や隣邦(大友氏)に敵対するつもりはない。中国・四国勢が九州に向かっているとの噂を聞いたが、納得できない」として「邪正糾明」を求めている。
豊臣勢の強さをよく分かっていた義久は、この外交交渉に一縷の望みを託したのであろうが、もはや手遅れであった。」(新名一仁、p217~218)
十月三日 ■「ついで十月三日附の秀吉の書状が来着した。これは九月十日の景勝の書状に答えたもので、「新発田征伐については、諸口の通路を留めて納馬のことはもっともである、来春の一撃を期待している。なお委細は増田・石田より申すであろう」と言っており、右両人の書状はかなり長文のものであるが、新発田氏については、来春は即時討ち果たすべきとの由、もっともであること、真田氏については、先に景勝上洛時のときにも仰せられた通り、表裏の者であるので成敗を加えるべきであるが、今回は遠慮されたこと、家康が近日上洛することになり、小河原貞慶も召されているので、その時信州の境目のことは決定する予定であること、などを報じたのであった。」(児玉彰三郎、p88)(笹本正治氏によると、増田・石田の副状は十月五日のようである。(笹本正治、p148~149))
十月五日 ★「四国勢も、十月五日までに大友義統とともに豊前に陣替し、豊後南部には、朽網鑑康(くたみあさやす)・一万田鑑実(いちまだあきざね)だけが留守に残り、日向との国境の宇目は手薄になっているとの情報ももたらされている。」(新名一仁、p219)
十月十四日 ★島津義久ら、鹿児島を出陣。(新名一仁、p219)
十月十四日 ★家康、浜松を発する。(児玉彰三郎、p87)
十月十八日 ★「徳川家康の上洛にあたり、(注:筆者注:秀吉は)母の大政所を人質に差し出す。」(柴裕之、p185)「大政所は徳川方に迎えられて岡崎城に入った。」(柴裕之、p88)
十月二十四日 ★島津義弘ら、津賀牟礼城(竹田市入田)を落とす。その後、岡城(竹田市竹田)を攻めている。(小和田哲男、p196)
十月二十六日 ★島津家久ら、三重松尾城(大分県豊後大野市三重町)に進駐する。その後家久は豊後府内へ進軍。(新名一仁、p220)
十月二十六日 ★家康、「大坂に着き、秀吉の弟・秀長の屋敷を宿所とした。秀吉は着いたばかりの家康を歓迎し、その夜は宿所の秀長の屋敷を訪れて自らもてなした。」(柴裕之、p88)
十月二十七日 ★「徳川家康と摂津大坂城で対面し臣従を誓わせる。」(柴裕之、p185)
「ここに両者(筆者注:豊臣秀吉と徳川家康)は「入魂」となり、家康は何事にも関白殿次第」と秀吉に臣従する姿勢をとった。その折に秀吉と家康が談合した結果、「関東の儀」は家康に任せることになる(『上杉家文書』)。しかしその内実は、北条氏と関東諸領主との抗争の和睦=「惣無事」の仲介であり、北条氏を秀吉に臣従させる手助け、具体的には北条氏直あるいは父氏政の上洛を実現させることにあった。」(藤井譲治、p114)
十月 ★「家康を大坂に迎えた最中、秀吉は堺の環濠を埋めるように命」ずる。(中野等、p47)
十一月 ★「十一月に入るみずから出馬して(筆者注:堺の)濠の埋め立てを進める」(中野等、p47)
十一月四日 ★「家康の上洛を景勝に報じたものとして、十一月四日付の秀吉直書が二点残っている。(『上越市史』二-三一五九号・三一六〇号文書)。これらによると、関東のことは家康に任せ、真田昌幸・小笠原貞慶・木曾義昌らを家康に属させたとし、とくに真田は景勝の斡旋もあるので赦免するという。秀吉は、上杉家の面目をつぶさないように真田の問題を解決させ、景勝には新発田討伐と越後統一に専念することを命じたのである。」(中野等、p42)
十一月五日 ★「秀吉は家康を従わせ参内し、家康を秀長と同位の正三位権中納言に叙任させた。」(柴裕之、p89)「秀吉は上洛を遂げた家康に改めて信濃国衆の真田・小笠原・木曾の三氏を政治的・軍事的支配下の与力として認め、徳川領国の存立を保護した。そのうえで、秀吉が求める「関東・奥両国惣無事」(関東・奥羽〔東北〕地方の統制と従属)に、徳川氏がこれまでの諸大名・国衆との通交や軍事力を駆使して尽力すること(奉公)を求めた。」(柴裕之、p89)
十一月七日 ★「正親町天皇の譲位式を催す。」(柴裕之、p185)
十一月八日 ★家康、帰国する。(柴裕之、p89)
十一月十三日 ★秀吉、島津勢の豊後侵攻を許してしまった二人(仙石秀久・長宗我部元親)に対し、「他国に移動したのは無分別だとして、軽率な軍事行動を戒め、陣を固めるよう命じ(百瀬文書)、大友宗麟には、蜂須賀家政・加藤嘉明・脇坂安治率いる阿波・淡路勢を新たに派遣することを伝える(大録)。」(新名一仁、p221)
十一月十五日 ★徳川家康、北条氏政に秀吉の「関東惣無事令」を伝える書状を送っている。これより前に、秀吉から北条氏に「関東惣無事」令を出していたことがわかる。(小和田哲男、p216~217)
十一月二十一日 ★秀吉、真田昌幸に書状を送り、上洛を促す。「秀吉は、昌幸が家康に対して思うところがあるようだが、それはこちらで直接聞く。自分としても昌幸のやったことは道理に背いていると考えるが、この度のことは許そう。だから早々に上洛せよと命じたのである。」(笹本正治、p151)
十一月二十三日 ★秀吉、「仙石秀久に対し、自身が出馬するまで四・五十日間、味方に落ち度がないように諸事手堅く、もし出馬する前に少しでも落ち度があれば曲事であると念押ししていた。(「黒田家譜」)。」(新名一仁、p221~222)
十一月二十五日 ★「後陽成天皇が即位する。それにあわせて太政大臣となる。」(柴裕之、p185)
十二月三日 ★十二月三日付多賀谷重経宛豊臣秀吉書状。
「◇石田三成に対する書状を披見した。関東・奥羽の惣無事のことを、このたび家康にお指示したので、異議を差し挟むことのないように。もしこれに背く者があれば討伐する。なお、石田三成も申述するであろう。
冒頭の文言から、三成が多賀谷重経の書状を取り次いでいたことが理解される。恐らく、結城晴朝についても同様であろう。これは結城や多賀谷も佐竹と同様に常陸国を本拠とすることから、佐竹家の奏者をつとめる三成が、これらについても奏者として機能していたものと考えられる。」(中野等、p43)
→上記の書状については天正十五年のものとする説もあります。
「佐竹氏などと同様、北条氏の圧迫をうけていた常陸の結城晴朝や多賀谷重経も天正十一年(一五八三)六月には秀吉は書状を送って誼を通じていた(後略)。」(中野等、p42)
十二月四日 ★家康、居城を浜松城から駿府城に移す。(小和田哲男、p187)「これも秀吉容認のもとで実現したのであろう。」(平山優、p210)
十二月六日 ★島津家久ら、利光宗魚が籠もる鶴賀城(大分市大字上戸次字利光)を攻める。(新名一仁、p220)
十二月十日 ★利光宗魚、戦死。(新名一仁、p220)
十二月十一日 ★伊鶴賀城の後詰のため、大友義統・仙石秀久・長宗我部元親ら四国勢が戸次川左岸に布陣。(新名一仁、p222)
十二月十二日 ★「仙石秀久、長宗我部元親らの軍勢は秀吉出陣まで戦闘は避けるようにという指示に背き、豊後国戸次川(大分市)で島津軍と戦う事態となり、大敗してしまう。」(柴裕之、p185)(新名一仁、p222~223)
十二月十三日 ★島津家久勢、府内制圧。このまま越年する。(新名一仁、p223)
十二月十九日 ★秀吉、太政大臣に任官。(中野等、p47)
十二月二十二日 ★この日までに戸次川の戦いの敗報が大坂の秀吉に伝えられている。(新名一仁、p223)
十二月二十四日 ★島津義弘、朽網城に移り、そこで越年。(小和田哲男、p199)島津義弘は、それまで志賀親善の籠もる豊後岡城を攻めるも激しい抵抗にあって失敗し、攻略を諦めている。(新名一仁、p220~221)
参考文献
跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)
小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年
児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年
笹本正治『真田氏三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年
新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年