(村上春樹『1Q84』『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、ドストエフスキー『悪霊』のネタバレを含む言及があります。ご注意願います。)
前章で説明した「リトル・ピープル」理論は、実はきわめて危うい曲解されやすい理論です。この「暗闇の同根状態」という概念は、悪をなさせた教祖の「悪」と、命令に従い実行した弟子たちの「悪」を「同じもの」であると誤解させるおそれがあります。実際には「同根」であることと、それぞれの罪と責任の重さは別問題なのですが混同される危険性があります。
また「リトル・ピープル」理論を誤って理解すると「『巨大な悪』など存在しない。あるのは、『ささやかな悪意の集積』だけだ」と、「巨大な悪」の存在を忘却し、免罪してしまう危険性があります。「リトル・ピープル」理論は、「巨大な悪」の存在を否定するものではありません。いや、「巨大な悪」の存在は決して忘却してはいけないものなのです。
村上春樹自身はインタビューで(原発事故問題や第二次世界大戦に関して)「ただ、僕は日本の抱える問題に、共通して「自己責任の回避」があると感じます。(中略)このままいけば「地震と津波が最大の加害者で、あとはみんな被害者だった」みたいなことで収まってしまいかねない。」(*1)と話しており、「加害者」の責任が忘却されたり、免責されたりすることを危惧しています。「リトル・ピープル」理論や村上春樹作品は、「悪」や「加害者」の罪を無視したり、忘却したり、軽減したり、免責するためにあるのではありません。(特に『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』はそのような作品と誤解している方もいるようですので、そうではないことを強調しておきます。)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』は、ドストエフスキー『悪霊』の影響を受けている作品です。『1Q84』も『悪霊』の影響があるとされていますが、本文中に「悪霊」というキーワードが使われている本作の方がより強い影響にあるといえるでしょう。
しかし、『悪霊』を読まれた方は、次のような疑問を抱くはずです。「『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』が『悪霊』の影響を受けているとするならば、『~多崎つくる~』ではニコライ・スタヴローギンはどこへ行ってしまったのだろう?」
『悪霊』では、若者たちに過激な思想を吹き込み(「悪霊」を取り憑かせる)、暴走させる(暴走によって行われる「悪」は彼の直接的な指示によるものではなく、勝手に若者達が暴走していることがほとんどですが)ニコライ・スタヴローギンという「悪をなさせる悪」「巨大な悪」が存在します。
「悪をなさせる悪(巨大な悪)」の吹き込む「思想(悪霊)」によって踊らされ、「悪」をなす、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキーらは、命令に盲目的に従うアーレント的な「陳腐(凡庸)な悪」を想起させますが、その「陳腐(凡庸)な悪」の範囲はアーレントより広いといえます。彼らは悪霊に踊らされていますが、自らの意思で動いているつもりだからです。
しかし、『~多崎つくる~』では、「悪霊」という言葉が出ながら、シロに「悪霊」を取り憑かせた「巨大な悪」の存在は表面上見えません。
(以前の『~多崎つくる~』の考察では私は「根源的な悪」という言葉を使っていますが、ここでは「巨大な悪」という言葉を使います。「巨大な悪」という言葉も正直しっくりする言葉ではなく(巨大な国家的犯罪を連想してしまいますので)「根源的な悪」の方がしっくりするのですが、確かにアーレントの「根源的な悪」と混同するおそれがありますので、あまり使用すべき言葉ではなかったかもしれません。
なぜ、「根源的な悪」あるいは「巨大な悪」と一般的な「悪」を区別するかというと、それは「悪をなさせる悪」は、やはり普通の悪とは違うものとして取り扱わなければならないからです。
ここで「根源的な悪」を使わない理由は、この作品は「リアリズム小説」のため「根源的な悪」を彷彿させる「悪魔的な存在」が出てこないためです。しかし、ブログの以前の記述は(執筆当時は一番しっくりくる言葉でしたので)訂正せず、そのままにしておきます。)
私は、「「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である」で、「「巨大な悪」は存在しないのではなく、隠されているのだ」という推論を立て、考察しました。なぜそう思ったのかといいますと、「シロのレイプが狂言ではなく本物であったこと」、「シロが自殺ではなく殺された」ことによります。
「巨大な悪」が存在しないのならば、シロのレイプが狂言であり、そしてシロは自殺したという話であっても小説の進行上問題ないのです。この小説の中で明確に犯罪が実行されていることを示している記述となっているのは、抽象的な概念などではなく、小説中に実体を持ち、犯罪を行う「巨大な悪」が実在することを示すためのものであると、筆者は考えました。
考察の結論から言いますと、「巨大な悪」は小説中に実在する、というのが結論です。(詳しくは、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は推理小説である。(感想・考察・謎解き) (ネタバレあり)をご覧ください。)
次章では、『アフターダーク』の位置づけについて考察します。
注
(*1)毎日新聞、2014年11月3日
参考文献
A・サミュエルズ、B・ショーター、F・プラウト(山中康裕監修、濱野清志・垂谷茂弘訳)『ユング心理学辞典』創元社、1993年
大場登・森さち子『精神分析とユング心理学』NHK出版、2011年
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年
小山花子「美学観察者としてのハンナ・アーレント:『イェルサレムのアイヒマン』を中心に」(『一橋論叢 134(2)、2005年』)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15543/1/ronso1340200890.pdf
ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年[新訳版]』ハヤカワepi文庫、2009年
ドストエフスキー(江川卓訳)『悪霊』(上・下)新潮文庫、1971年
ハナ・アーレント(大久保和郎・大島かおり共訳)『全体主義の起源 3 全体主義』みすず書房、1974年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部)新潮社、1994年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)新潮社、1995年
村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)新潮社、2009年
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』文春文庫、2012年
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、2013年
森川精一「『全体主義の起源について』――五○年代のアーレント政治思想の展開と転回」(『政治思想研究』2008年5月/第8号)
矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年
リチャード・J.バーンスタイン(阿部ふく子・後藤正英・齋藤直樹・菅原潤・田口茂訳)『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』法政大学出版局、2013年