村上春樹作品における「悪」について-第6章 『1Q84』の「悪」~リトル・ピープル
(村上春樹『1Q84』、ジョージ・オーウェル『1984年』のネタバレを含む言及があります。ご注意願います。)
『海辺のカフカ』と『1Q84』の2つの長編の間に『アフターダーク』がありますが、『アフターダーク』は、はっきり言って「よく分からない」作品なので、「リトル・ピープル」という概念があり、比較的まだ分かりやすい『1Q84』の方から先に検討します。
第4章で引用した村上春樹のインタビューで「ささやかなネガティブの集積の上に巨大な悪がある。」(*1)という言葉がありました。また、オウム真理教の悪について「暗闇の同根状態から生まれ出てくる」(*2)という言葉を使っています。
「ささやかなネガティブの集積の上に巨大な悪がある。」と、「暗闇の同根状態から生まれ出てくる」という「悪」に対する見解から、生まれた作品が『1Q84』であり、「リトル・ピープル」という概念といえます。
リトル・ピープルとは何か?「1Q84」書評②~ビッグ・ブラザーとリトル・ピープルと反リトル・ピープル - 謎解き 村上春樹 で前述したように、リトル・ピープルとは「無名の人間達による、無数の悪意の集積」です。この概念をどのように村上春樹が考え出したかというと、書評ではインターネットの発達を挙げましたが、他にも下記の著作の影響があるかと思います。
(1)ジョージ・オーウェル『1984年』~ビッグ・ブラザーは実在するのか?
ジョージ・オーウェル『1984年』では、「独裁者」である、ビッグ・ブラザーが登場します。そして、『1Q84』ではリトル・ピープルと対置する概念であるかのように、作中では戎野によって語られます。
しかし、実際に『1984年』を読むと、このオーウェルの『1984年』世界に本当に「ビッグ・ブラザー」は実在するのか、極めて曖昧に感じられるのです。確かにテレスクリーンにビッグ・ブラザーの画像は存在しますが、これは過去のものであるのかもしれず、ビッグ・ブラザーは現在死んでいても不思議はありません。世界を支配するシステムが強固なものになり、システムの支配を執行する優秀な官僚達がいれば、ビッグ・ブラザーはいてもいなくても構わないのです。
この「ビッグ・ブラザーが実在してもしなくても、システムが存続すれば支配は続く」という考えがリトル・ピープルの概念に影響を与えています。
(2)「集合的(普遍的)無意識」と「普遍的な影」
第2章の「ユング心理学における「悪=普遍的な影」と『ねじまき鳥クロニクル』について」で、詳述したように、村上春樹の元々の「悪」の概念は、ユング心理学を下敷きにしています。集合的(普遍的)無意識にある人々の普遍的な影=悪が集積した時、これが巨大な悪になるというのが、村上春樹の「悪」のとらえ方です。
(3)アーレントの「陳腐(凡庸)な悪」
『イェルサレムのアイヒマン』以降のアーレントは前述したように、「現在の私の意見というのは、悪は決して「根源的」ではなく、極端なだけで、深遠さも悪魔的な次元も備えていないというものです。それは表面を覆う菌のように広がるがゆえに、全世界にはびこり、それを荒廃させるのです。それは、私が言ったように、「思考を拒む」(thought-defying) ものです。」(*3)と述べています。
この「表面を覆う菌のように広がる」悪という概念がリトル・ピープルに影響を与えた可能性があります。
しかし、アーレントの「陳腐な(凡庸な)悪」の概念は前述したとおり、大きな問題を抱えています。この概念は、ヒットラーや麻原のような「悪をなさせる悪」を説明していないのです。
村上春樹がオウム真理教の「悪」について解明する時、オウム真理教の起こした「悪」のうち、教祖である「麻原」の「悪」も、実行犯となった弟子たちの「悪」も両方について解明していく必要がありました。
これに対して、インタビューで村上春樹は「麻原」の「悪」も、弟子たちの「悪」も「暗闇の同根状態から生まれ出てくる」としています。では、この「暗闇の同根状態」とは何か?この説明をしないといけません。
『1Q84』における「巨大な悪」を体現するのは、「さきがけ」の教祖です。しかし、この作品では、「羊」や、「ねじ緩め鳥」や、ぬるぬるした白い「邪悪なもの」のような「巨大な悪そのもの(根源的な悪)」は実体として存在せず、かわりに「リトル・ピープル」が出現します。これは、「巨大な悪」である教祖の「悪」と、弟子たちの「陳腐な(凡庸な)悪」が「同根」であるという作者の見解に基づくものです。
「リトル・ピープル」は、「無名の人間達による、無数の悪意の集積」であり、「集合的無意識」の汚染であり、「表面を覆う菌のように広がる」悪です。
その「悪」の流れは一方向ではありません。「リトル・ピープル」が「代理人」として「悪の王」(巨大な悪)となる人間を選び、彼または彼女を「王」にするのです。彼ら「悪の王」は、「王」といっても結局的には「リトル・ピープル」の代理人に過ぎません。「リトル・ピープル」に飽きられれば捨てられ、逆に生贄として殺されるだけの存在です。「悪の王」が、リトル・ピープルを作り出すのではなく、リトル・ピープルが「悪の王」を作り出すのです。
一方で、「悪の王」の役割は、「無数の悪意」を増幅させ、「王」の力によって「リトル・ピープル」を増殖させることです。この「リトル・ピープル」の悪は、王の能力によって、表面を覆う菌のように広がり、全世界にはびこり荒廃させます。
「リトル・ピープル」とは、集団の無意識の悪が「王」を生み、「王」が集団の無意識の悪を集積・増幅させる相互機能を果たすという、「悪の循環理論」なのです。
その「リトル・ピープル」の「悪」ひとつひとつは、ささやかな悪意の集まりに過ぎず、怪物的なものでも、悪魔的なものではありません。それが集積することによって「巨大な悪」になります。われわれはその存在について、怪物的・悪魔的なものではなく、凡庸・陳腐であり我々凡庸なる人間達自身の無意識の中に潜むものであるがゆえに戦慄しなければいけません。
もう一点あげるとするならば、「悪の陳腐(凡庸)さ」は、青豆とタマルにも当てはまるということです。青豆は、緒方の「歪んだ正義」の元に殺人を重ね、タマルは最後には組織の保身のため牛河を殺します。結局彼等も緒方という「歪んだカルト」に忠実に従う「陳腐な(凡庸な)悪」です。これは、主人公補正でさらっと読み流してしまいがちですが。主人公に「陳腐な(凡庸な)悪」を背負わせるというのは、かなり厳しい視点の小説であると考えます。
次章は、『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』とドストエフスキー『悪霊』について考察します。
第7章 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』とドストエフスキー『悪霊』~スタヴローキンはどこへ行った? に進む
注
(*1)村上春樹 2003年、p35
(*2)村上春樹 2012年、p125
(*3)小山花子 2005年、p160
参考文献
A・サミュエルズ、B・ショーター、F・プラウト(山中康裕監修、濱野清志・垂谷茂弘訳)『ユング心理学辞典』創元社、1993年
大場登・森さち子『精神分析とユング心理学』NHK出版、2011年
河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年
小山花子「美学観察者としてのハンナ・アーレント:『イェルサレムのアイヒマン』を中心に」(『一橋論叢 134(2)、2005年』)
https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/rs/bitstream/10086/15543/1/ronso1340200890.pdf
ジョージ・オーウェル(高橋和久訳)『一九八四年[新訳版]』ハヤカワepi文庫、2009年
ドストエフスキー(江川卓訳)『悪霊』(上・下)新潮文庫、1971年
ハナ・アーレント(大久保和郎・大島かおり共訳)『全体主義の起源 3 全体主義』みすず書房、1974年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(第1部・第2部)新潮社、1994年
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(第3部)新潮社、1995年
村上春樹『1Q84』(BOOK1、BOOK2)新潮社、2009年
村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集1997-2011』文春文庫、2012年
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、2013年
森川精一「『全体主義の起源について』――五○年代のアーレント政治思想の展開と転回」(『政治思想研究』2008年5月/第8号)
矢野久美子『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』中公新書、2014年
リチャード・J.バーンスタイン(阿部ふく子・後藤正英・齋藤直樹・菅原潤・田口茂訳)『根源悪の系譜 カントからアーレントまで』法政大学出版局、2013年