古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

千利休と石田三成について

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 前回の続きです、と言っても前回から随分経っていますが・・・・・。

 ※前回のエントリーはこちら↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 今回は千利休石田三成について書きますというか、千利休切腹石田三成は何の関係もないことについて書きます。

 

 桑田忠親氏は著作『千利休』において利休切腹についての三成陰謀説については全般的に否定的なのですが、一方で「また、秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像が、京都奉行の前田玄以石田三成らによって急に問題視され、」(*1)とも記載してあります。(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日。)

 

 しかし、この時期(後年京都奉行だったのは確かですが)にそもそも三成が京都奉行だったのか不明(示す史料がない)(以下※追記参照)ですし、実際には三成はこの年の前年12月からに大崎・葛西の一揆の鎮定のため奥州に向かって、そのまま越年、閏1月12日には武蔵岩槻にいます。秀長が亡くなったころには京都にはいません。三成が戻ってきたのは2月の中旬頃までのようです。(*2)このため、「秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像」について三成が問題視したという史実は成り立ちえません。(千利休の堺追放は2月13日、切腹したのが2月28日)

 

(※平成29年5月20日追記)

伊藤真昭『京都の寺社と豊臣政権』(法藏館、2003年)(p154)によりますと、石田三成京都所司代になったのは、文禄4年8月~慶長4年閏3月だということです。やはり、天正19年の頃は石田三成は京都奉行・京都所司代ではありません。)

 

 そもそも一次史料に石田三成千利休の対立をうかがわせるものは何も存在しません。むしろ、親密な仲である記録はあります。

 

「利休百会(回)記」という千利休の晩年の茶会記があります。天正18年(1590)8月17日から翌年閏1月24日まで、約百会の利休の茶会がおさめられていています。

 白川亨氏によると、「『利休百回記』の記録は、正確には九十七、八回であるが、その中には奥州検地から帰国した三成と佐竹義宣天正十八年十一月十二日の朝会に招いており、十二月十九日の朝会には三成の兄・石田杢守正澄と木下半介吉隆を招き、さらに利休が堺に追放される直前の天正十九年閏正月十五日には、戸田民部少輔(勝隆)と熊谷半次(半次郎=熊谷内蔵允直盛)を招いている。

『利休百回記』の解題では「熊谷半次を熊谷半吉では?」としているが、熊谷半吉ではなく熊谷半次郎(熊谷内蔵允直盛)である。

 すなわち千利休は「惜別の茶会」に、三成兄弟のうち三人までを招いていたのである。熊谷内蔵允直盛は三成の妹婿である。

 また豊臣秀長(筆者注:前回のエントリーでも指摘しましたが、秀長は利休の庇護者であり、秀吉が利休を切腹に追い込んだのは秀長が病死して、秀長に遠慮する必要がなくなったため、と見られています)と三成は、決して対立する間柄ではない。秀長は三成の仲人親であり、三成の舅・宇多頼忠(尾藤久右衛門=尾藤下野守)は藤堂高虎と同じく豊臣秀長重臣の一人であった。

 特に石田三成は、千利休の娘婿・万代屋宗安とは親しい間柄であり、関ヶ原合戦の直前に大垣城の三成に「陣中見舞い」に訪れている。そのとき三成は「唐来肩付(茶入)」を呈している。」(*3)とあります。

 

(ただし、川口素生氏によると「このうち、宗安は利休の娘婿で、茶の湯の上での弟子にあたります。『武辺雑談』には関ヶ原の戦いの直前、三成が宗安に名高い茶道具を預けたという逸話がしるされています。

 ただし、通説によると宗安は、文録三年(一五九四)に病没しています。三成が茶道具を預けたのは宗安ではなく、宗安の息子に当たる万代屋宗貫ということなのでしょうか。」(*4)とされています。)

 

 また、川口素生氏の上記著作によりますと、「さらに、ある土地の件で利休が三成の世話になっていたことが、年号欠十月二十日の三成宛ての利休の書状によって明らかにされました。従って、利休と三成が対立していたとは思えず、利休が三成に蹴落とされたという点も確認できません。」(*5)とあります。

 

 ちなみに、吉田神社吉田兼見の日記『兼見卿記』には、利休の生母と娘が石田三成に囚われて「蛇責め」の.拷問を受けて死んだという「噂」が記されていますが、そもそも利休の生母は天正十七年以前に没しており、また利休の娘がそのように殺されたという史料・書状・記録は、この「噂」を記した日記以外一切存在しません。「従って、「蛇責め」云々というのは、全く根拠のないデマ」(*6)といってよいでしょう。

 

 結論を言いますと、三成(及びその兄弟・義兄弟)は利休とは親密な仲であり、利休を追い落とすような策謀を考えることがそもそも考えられず、また時間的・物理的にもそのような策謀を行うことは無理だということです。

 

(令和2年8月4日追記)

天正18(1591)年12月下旬から天正19年(1591)年2月28日の千利休切腹までの流れを時系列的に参考に記します。

 

天正18(1590)年12月26日 石田三成、大崎・葛西一揆(十月に発生)を受けて奥羽再下向。

天正19(1591)年1月10日 三成、相馬に到着

1月19日 伊達政宗に上洛命令書到着

1月22日 豊臣秀長病死

1月30日  政宗、米沢をたち京都へ向かう

1月30日? 三成、黒川に到着

閏1月4日  佐竹義宣石田三成書状より、三成は常陸の国にいたようである。

閏1月12日 三成、武蔵岩槻に到着

閏1月27日 政宗、清須で秀吉に閲して、そのまま上京

2月4日 政宗上京

2月9日 政宗、秀吉の聴取を受ける

2月12日 政宗、侍従に任じられて、従四位に任じられる

2月13日 秀吉は、千利休に堺屋敷での閉門を命じる

2月15日 『時慶記』に記載あり、2月中旬までには三成は帰京していたようである

2月25日 京都で利休の木像が磔にされる

2月28日 千利休切腹

(参考文献)

 田中仙堂『千利休』宮帯出版社、.2019年

 藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成【第2版】』思文閣出版、2017年

 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

 注

(*1)桑田忠親 2011年、p125

(*2)中野等 2011年、p299

(*3)白川亨 2009年、p214~215

(*4)川口素生 2009年、p245~246

(*5)川口素生 2009年、p246

(*6)川口素生 2009年、p254~256

 

 参考文献

桑田忠親著、小和田哲男監修『千利休』宮帯出版社、2011年(初版 中公新書、1981年)

川口素生『利休101の謎 知られざる生い立ちから切腹の真相まで』PHP文庫、2009年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』、思文閣、2011年所収)