古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

YOMIURI ONLINEのコラム「ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」の感想

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 YOMIURI ONLINEのコラムで以下のようなコラムがあります。(歴史研究者の方でもないコラムにあまり批判的に言うのもどうか、という話なのですが、あまりにも典型的なので・・・・・)

ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」

http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20160627-OYT8T50092.html?page_no=1

 

 なんというか、この方が何も史実については調べないで、まさに(今回の大河ドラマを含む)ドラマや小説の描写を当然の前提として、石田三成の人物評を書いているのが分かります。(しつこいですが、筆者の方は歴史研究者とかではないので、こんなもんでしょう。一般の方の視点で書いていると見るべきなのは、その通りです。)

 

 以下、引用します。

「大企業には経営企画という組織があり、時には

 「机上の空論ばかり言っているやつらの命令で仕事したくない」①

 と、現場からは疎まれても現場をコントロールし続ける立場の部署がある。おそらく三成は仕事の理想を追う中間管理職として、現実を知る現場(現代なら営業など)の管理職と対決をしていたのであろう。②同僚からは、仕事と割り切る姿勢が反感を生んで疎まれる存在であったようだ。③

 「頭はいいけど性格に難があり気遣いが出来ず、人望はなかった」④

というのが、よく聞く三成評だ。関ヶ原の戦いで、小早川秀秋吉川広家脇坂安治など多くの同僚武将から裏切られたからである。④福島正則加藤清正といった豊臣家の「武断派」(軍人)と折り合いの悪さなどから衝突し、関ヶ原の戦いの原因となったことも有名な話だ。⑥

 一方、戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない⑦(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)。⑧おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?⑨」(番号ブログ主)

 

 たとえば、①ですが、「机上の空論」というのは、具体的に三成のどんな行動を指してこう言っているのか、よく分かりません。②の「仕事の理想」とは、「現実を知る現場」とは、その「対決」についても何を指しているのかよく分かりません。③「仕事と割り切る姿勢」というのもなんだかよく分からない。

 正直、これって筆者自身も分かっていないのではないか?という気がします。史実の三成の具体的な行動を見て、こうした感想を書いているのではなく、ドラマや小説の三成の人物像を見て、漠然とした全体的なイメージでこう書いているのに過ぎないのではないかと思われます。

 ④の評など、まさにドラマ等で書かれているフィクションの人物評をそのままの前提として書いているだけです。

 ⑤で、小早川、吉川、脇坂をひとくくりに「同僚」にしている時点で多分この筆者もそれぞれの武将について何も分かっていないだろうし、それぞれ裏切る理由は別々に検討しなければいけないのに、「三成の人望のなさ」がすべての原因となっているらしいです。こういうのも、ただ単に個別に検討するのが面倒くさいから原因を無理矢理ひとまとめにしているのに過ぎません。

 ⑥「武断派」との折り合いの悪さから衝突したことが、「関ヶ原の戦いの原因となった」という意見ですが、関ヶ原の戦いの原因は、家康の上杉征伐が原因なので、これもそもそもの前提がおかしいです。

 ⑦「戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない。」という筆者の評価ですが、逆にこの筆者の三成の評価そのものが興味深いと言えます。

 そもそも、戦の現場のリーダーとしての三成は諜報(賤ヶ岳の戦い)であったり、兵糧奉行(島津征伐、文禄の役等)であったり、調略(賤ヶ岳の戦いでの上杉との交渉、対北条・伊達(想定)戦での反北条・伊達大名の糾合等)であったり、開城交渉(島津攻めにおける新稲忠元の説得)であったり、軍目付としての前線からの撤退の進言であったり(文禄の役)、戦後の撤兵対応(慶長の役)であったりする訳で、これを「大きな成果をあげられていない」と評価すること自体が、つまりは、戦で大将の首を取るとか、城を落とすとか(三成も北条攻めで館林城を開城させていますが)の目立った成果だけが「大きな成果」であり、こうした「裏方」の成果は「大きな成果」とは呼ばない、という筆者自身の評価基準を示しています。(というか、それ以前の問題としてこの筆者の方は、三成が数々の戦に従軍していること自体知らないのかもしれませんが・・・・・・。)

 しかし、これは筆者自身の評価であるとともに、当時の武将達の一般的な評価だったのかもしれません。(ところが、上司の秀吉はそうした「裏方」の評価を正当にしていました。)そうした「裏方」の評価などしない武将もいたであろうことも確かに想像はできます。ここら辺あたりは「あいつは過大評価されている」と、確かに一部の武将から反発される要因になったかもしれません。

 上記であげたように、数々の戦の現場で三成は働き、「成果」を挙げているので、 そもそも「現場を知り」つくしているし、朝鮮出兵の時の三成の対応を見ても「机上の空論ばかり言っている」どころか、「現場を知り」つくしている対応としか言いようがありません。

 前に大河ドラマ軍師官兵衛』感想にも描きましたが(以下参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 この回の創作ドラマにおいても、「現場を知りつくした武将=官兵衛」、「現場を知らない奉行=三成」という描き方がされていましたが、なんとその「現場を知りつくした武将=官兵衛」の行動がそのまま史実の三成の行動そのものだったという驚天動地の捏造時代劇を描いていました。こういう描写を見ても、相当に史実を捻じ曲げないと、「現場を知らない奉行=三成」というのは描き得ないのだということが分かります。

 つまり、「現場を知らないエリート=三成」という構図は全くのフィクションといえます。

 ⑧(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)については以下のエントリーで書きました。

(つまりは、水攻めは秀吉の指示によるもので、忍城を水攻めで落とすのは元々困難であり、三成は反対しているにも関わらず、秀吉が何度も((小田原にいる)城主の成田氏長が降服しても、小田原城が落城しても!)水攻めを続けるのを厳命したというのが結論です。)

 ↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 ⑨の「おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?」という筆者の推測は、その忍城攻めの時に同行した諸将のほとんどが西軍についていることで、その推測は間違っていることの回答になるでしょうか。

 そもそも当時、忍城攻略が「失敗」であったという認識そのものがあったかすら不明です。(忍城攻略が「失敗」という話になったのは、江戸時代以降です。)仮に、その当時から内心、忍城攻略が「失敗」だと思う人がいたとしても(史料では確認できません)忍城水攻めは秀吉の指示ですので、忍城攻略を失敗として馬鹿にするということは、すなわち秀吉その人を馬鹿にすることと同義ですので、そんな恐ろしい考えを表に出す人はいないでしょう。

 

 忍城攻めというのは、史実を知れば、まさに「現場を知る」中間管理職=三成が、「現場を知らない」トップ=秀吉の命令に振り回されるという話で、「サラリーマンあるある話」としか言いようがないのですが、いまだそうしたドラマが描かれたことはありません。それはそうでしょう。秀吉といえば、百戦錬磨の現場指揮官で戦に勝ち続けて天下を取った人物なのですから、そうした人物を「現場を知らないエリート」と描くのはドラマ的に無理です。(ただ、現実的には「現場をよく知っていた」人間でも、その現場から離れてしまえば、「『その』現場」のことは実はよく知らなくなる、という教訓にはなりますが。(もっとも秀吉は当時、小田原という「別の現場」にいたわけですが。))

 一方、三成は、つまるところ江戸時代を通じて(筆者の方が言う通り「徳川政権によるネガティブキャンペーンが浸透した結果」)「戦下手」のレッテルを張られた人物ですので、史実に反してでも「現場を知らないエリート」と描きやすいです。「ドラマ」として描きやすいか、描きにくいかが結局脚本の基準な訳ですので、それと史実は別物です。しかし、一旦ドラマ(や映画)として定着すると、それがあたかも「史実」であるかのように受け止められてしまいます。ドラマや映画の影響は大きいといえます。

 

 続きを見ていきます。

「さて、このように考えると三成は

 ・上司と部下は高い評価
 ・同僚からは低い評価

 の存在であったと言える。」

 

 とありますが、これも単純すぎます。まず、三成は「取次(外交官)」としての役割が大きいので、「高い評価」の中には「取次先の大名」も入れるべきでしょう。取次先の大名というと、上杉、佐竹、真田、毛利、島津、いずれも西軍についた大名です。他の取次先で東軍についた津軽為信は三成の子供達の命を救い、真田の中で東軍についた真田信之は江戸時代になっても石田三成からの手紙を残し続けました。

 また、「同僚」というのはおおざっぱすぎます。大谷吉継の他にも他の奉行衆はどうなのでしょうか?小西行長は?小早川秀秋が「同僚」になるのでしたら、宇喜多秀家は?織田秀信は?立花宗茂 は?

 上記のような単純化はちょっと無理なのが分かるでしょう。

「人事評価的に「人間関係構築に難あり」くらいの申し送り」

 

って誰が誰に申し送りをするのか知りませんが、どちらかというと三成は取次=人間関係構築のスペシャリストなので、主に取次の才能で出世を果たした三成がそんな評価になる訳ないでしょう。

 

「社長代行の家康の野心に鑑みれば

 1.そのまま家康体制が続くこと
 2.家康が豊臣秀頼に社長を引き継ぐ

と、2パターンの体制を考えた「経営企画としての対応」をすればよかったのだ。

 実際のところ、社長代行の家康は前者の道を選んだ。秀吉社長の死後、社長が禁止していた大名家同士の婚姻禁止の法度をさっさと破り、有力大名と姻戚関係を結び始めた。さらに五大老五奉行による合議体制を崩して、豊臣家から政権を奪おうという動きを見せ始めた。こうした動きに対して三成は反感を覚えて対立した。秀頼への事業承継しか考えていない三成は、家康の行為が許せなかったのだ。

 それでも、三成がサラリーマンの中間管理職なら、冷静に家康社長代行に仕えるべきであった。会社の行く末を導いてくれる上司は、消去法かもしれないが家康であったはずだ。ならば、前社長の方針を踏襲しない方針であっても、それを容認する度量が求められた。」

 

って、「それを言っちゃあ、おしめーよ」としか言いようがないでしょう。つまり、筆者の言いたいことは家康の豊臣政権乗っ取りを、三成は指をくわえて見ていればよかった、というのにつきるでしょう。これはこれで筆者自身の人生観として、そういう考えを持つのは勝手ですが、まあ結局は「たとえ義に反しても、強い者には従え、長いものに巻かれるのが処世術だ」という一般論でしかありません。確かに処世術としてはありかもしれないですが、これを堂々と広言するのは、あまりにも情けなくないか、という気がします。これは三成とかの人物評価以前の価値観の問題です。

 というか、もしそのような情けない行動を三成がとった場合は、そもそも歴史上に名が残ることもないでしょうし、こうしてYOMIURI ONLINEのコラムで三成の人物評価をするコラムが書かれる事はなかったでしょう。

 

「家康も三成を実務家として評価していた、との話もある。三成が家康体制を容認していたなら、江戸時代に貴重な老中=経営幹部として活躍したかもしれない。」

 

というのは、ありえませんね。というのは、家康は外様大名を政権に参画させることはなかったからです。秀吉が生きている間は、豊臣政権に外様大名を参画させることはなかったのですが、秀吉の遺言により、その死後は外様大名大老として政権に参画させました。その結果が豊臣政権の崩壊です。家康は、この豊臣政権の崩壊の教訓(まあ、豊臣の外様大名たる自分自身が崩壊させた訳ですが)から、外様大名を徳川政権に参画させることは絶対にやめるべきだと悟ったのでしょう。後の幕末に徳川政権が外様大名政権運営に参画させたことが、徳川幕府崩壊の大きな要因となります。

 

「一方、三成が現場の同僚を敵にまわさないためには、どうしたらよかったのか? 現代の会社でも現場部門と本社部門の対立はよくあることだ。その対立の原因となるのがお互いのセクショナリズム。例えば、営業と製造、開発と製造とお互いの利害を主張しあい妥協できなくなる状態だ。

 三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。⑩戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪からすれば、三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?⑫だから、三成はその存在を排除するために襲撃されたのである。

 こうした対立関係を解消するにはどうしたらいいのか? 現在の会社で行われている取り組みに鑑みて、「プロジェクトワーク」が効果的と考える。プロジェクトワークとは、組織横断で会社のために行う取り組みだ。⑬」

 

というのも、別に戦国時代の三成を持ち出さなくていい、現代のビジネスの一般論的な話にすぎないです。なんで、無理矢理三成に絡める必要があるのでしょう。(まあ、読売新聞にそういう原稿を書いてくださいと頼まれたからでしょうけど。)

「三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。」とかは、具体的に史実の何の行動を評しているのでしょうか。さっぱりこの文章からは分かりません。

「三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?」というのも、その「人事制度」ってなんでしょう?というか、三成が豊臣政権の人事制度を構築しているんでしょうか?普通に考えて人事制度(遺言体制も含めて)はトップの秀吉が構築しているんですが。要は具体例が何もない。

 ⑬のアドバイスは秀吉に向けられるべきだったでしょう。(いや、秀吉向けのアドバイスにも役に立っていませんけど。)

 ただ、家康が「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職)⑪」のニーズに答えたというのは確かでしょう。つまりは、これはもう1回日本国内で戦争を起こそうという話に他なりません。これが筆者の考える「最適解」ということで良いのでしょうか?

 

 結局、秀吉が後継体制(五大老五奉行制)を構築したときに、そこから排除された武将達のことを秀吉が何も考えていなかったということが、豊臣政権の最大の問題点だった訳です。

 特に、秀吉の従兄弟の福島正則、遠縁の加藤清正、おいの小早川秀秋等。結局豊臣政権とは一族経営なので、こうした親族(遠縁も含め)を死後の豊臣政権に参画させないと、出世の「負け組」とされたと感じた彼らは「非主流派」となり、その「非主流派」が、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ「徳川派」になっていくことになります。福島正則など秀吉の死後、真っ先に徳川家との婚姻を進めている訳です。

 秀吉の従兄弟である福島正則すらが、家康にすりよっている体たらくを見ればこの豊臣体制は遠からず崩壊すると諸将に思われても仕方ありません。秀吉は自分の親族に冷たく過酷な扱い(秀次の粛清等)をしていますが、一族経営なのにただでさえ少ない一族を冷遇したのでは豊臣政権が崩壊しても仕方ありません。

 五大老五奉行のうち、特に五奉行の実態は中小大名にすぎず、豊臣一族でもありませんので、彼らの力の源泉は秀吉の残した遺言と掟しかなかったのです。これを否定することは彼等自身の立場を否定することになります。これが三成ら五奉行の「限界」といえるでしょう。だから、五奉行が秀吉の遺言に反して自由に豊臣政権の人事制度を構築したり、勝手に(豊臣の領土を削って)恩賞を与えることなど極めて困難でした。

 これに対して、この遺言体制を破って新しいプロジェクトをはじめたのが家康でした。この時代のプロジェクトとは、つまりは「戦争」です。秀吉の「対外戦争」プロジェクトは散々な失敗に終わり、恩賞もほとんど与えられません。多くの家康についた東軍武将は、もっと恩賞を、領地を欲していたのです。そのニーズに答えたのが家康でした。彼は三成を排除した後、まずは前田利長に言いがかりをつけ、戦争を始めようとします。ところが、あっさりと利長は屈服してしまったので、次に言いがかりをつけたのが上杉景勝です。この予定された戦争に勝利することによって、家康派の武将は恩賞や領地を獲得することができます。諸将に与えられる恩賞・領地は上杉の領地だけでは足りないでしょう。家康は豊臣家の領地を削って恩賞にしようと考えています。こうして、豊臣家を弱体化させることも、家康が戦争を欲した大きな原因でした。

 こうした家康社長代行の意図に気が付いて驚愕したのが、当時残っていた二大老毛利輝元宇喜多秀家)と三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)でした。家康社長代行のやっていることは、朝鮮出兵から撤兵しようやく「平和」になったはずの日本に新たなる「内戦」を起こすものでしたから。当時「天下殿」とも言われた家康社長代行が、社長代行になってはじめたビジネスが「内戦」なのですから、とんでもない話です。

(三成隠遁後、一時期、二大老・三奉行が家康を支える体制になったのは、「とりあえず家康を社長代行として支えないと、豊臣政権は持たない」と考えたためですが、その家康が社長代行になってやろうとしたことが「内戦」ビジネスな訳ですから、彼らは家康に大きく失望したのです。)

 特に、二大老毛利輝元宇喜多秀家)は上杉が倒されたら、次なる家康の「内戦」ビジネスの標的となるのは自分達だと分かります。これはバカでも分かります。ということで、二大老・三奉行と三成は結束して、家康の暴挙をくいとめるために立ち上がったのでした。これが「内府違いの条々」クーデターです。

 家康が「天下泰平の礎を築いた」というのは結果論です。秀吉の死後の家康の正体は、ようやく「平和」になった日本に内戦を起こそうとする、きわめて好戦的な男にすぎません。おそらく、もう少し西軍の総大将毛利輝元が有能な人間であれば、下手をするとこの「内戦」は膠着状態となって長引き、また日本は百年以上戦乱の時代が続いたかもしれません。関ヶ原の戦いとされる日本を二分する戦いがあっさり終わったのは、西軍の総大将毛利輝元が惰弱で、あっさり降伏(なんと関ヶ原の戦いの前日に)してしまったからです。

 ついでに言うならば、幕末に日本が内戦状態にならず、あっさり明治国家ができたのは、徳川慶喜が惰弱で、戦わずあっさり恭順してしまったからです。(この時の徳川の敵が長州藩というのもまた歴史の皮肉ですね。)

 こうして考えるならば、徳川幕府が「天下泰平の礎を築いた」のに一番貢献したのは、「毛利輝元の惰弱さ」であるといってよいのではないかと私は思います。

 こういうコンサルタントの方に申し上げたいのは、安易に戦国時代の組織を現代のビジネス組織に例えるのをやめてほしいのですね。戦国時代のビジネスとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトを立ち上げる、事業を立ち上げるとは「戦争」するということなんです。秀吉の「唐入り」も、家康の「上杉征伐」も当時の武士たちのための公共事業です。戦国時代の戦国武将ビジネスとは当然血なまぐさいものです。あまり、安易に現代のビジネスと比較できるものではありません。

「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪」のニーズに答えるというのは、つまりは「戦争」するということです。そして、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ家康は、「内戦」を無理矢理起こして、そのニーズに答えました。でも、こういう「やり口」って当時としてもどういうもんなのか、と思う訳ですし、少なくとも三成の考えとは真っ向から違うでしょう(しかもその内戦の標的が三成の「取次」先の上杉家なので、これは「武士の面目」に関わる事態です。)。だから、三成が家康の家臣になることはそうした意味でもありえないことだったといえます。

 あと、念のため、最後あたりで真田信繁のことに触れていますが、信繫は江戸時代も大坂の陣まで生きていますし、大坂の冬の陣の後に徳川から引き抜きも持ちかけられています。(信繁は断りましたが。)この書き方だと、もしかして、その事も知らずに書いているのではないか、と思ってしまいます。

 こうやって、一行ごとに突っ込むしかないコラムなのですが、別にこれは筆者だけがおかしいのではなくて、筆者は、世間の三成に対する一般的な偏見、イメージをそのまま文章にして書いているに過ぎず、一般の人達の偏ったイメージをそのまま代弁しているのだともいえます。このイメージの形成はどこから来たかといえば、結局は大河ドラマとかのイメージなわけで、結局一般の人達の歴史上の人物評価というのはそうしたドラマの人物評価がそのままダイレクトに反映されてしまっているのです。ここら辺の偏見を払拭するのはかなり大変だなあ、とこのコラムを読んで改めて思いました。