古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」②


 

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 前回の話の続きです。

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 石田三成大谷吉継が慶長5(1600)年7月11日に佐和山で決起した翌日の12日、大坂城で動きが3つありました。

 

1.奉行の増田長盛らによって、家康に対して石田三成大谷吉継に不穏な動きがあるとの一報がされたということです。

2.上記の三成・吉継の決起を名目(口実)に三奉行が大坂に在住する大名の家族を人質にしようとする風聞が立ったことです。

 (以上については、前のエントリーで見てきました。)そして、

3.三奉行が三成・吉継決起の事態に対処するため、大坂城大老毛利輝元の来援を要請したことです。以下の書状が知られます。

 

「(慶長五年)七月十二日付前田玄以外二名連署状写[『松井』四一五]

大坂仕置儀付而、可得御意候間、早々可被成御上候、於様子者、自安国寺(恵瓊)可被申入候、長老為御迎、可被罷下由候へ共、其間も此地之儀申談候付而、無其儀御座候、猶、早々奉侍存候、恐煌謹言、

   七月十二日 長大(長束大蔵大輔正家

         増右(増田右衛門尉長盛)

         徳善(前田徳善院)(引用者注:前田玄以

(毛利)輝元様

 人々御中」(*1)

 

 上記の書状は、大坂の仕置(石田三成大谷吉継決起の対応)のため、三奉行が毛利輝元に上坂を請う書状ですが、この書状についは、研究者の間では2つの見方があるようです。①の説は、三奉行が毛利輝元石田三成大谷吉継決起の鎮圧のために毛利輝元の上坂を要請したという説です。②の説は、三奉行が輝元に三成・吉継の決起への参加を促すための上坂要請であるという説です。

 

  ①の説だと、三奉行は7月12日の時点では徳川家康方であり、反家康側には立っていないことになります。

 

 ②の説ですと、7月12日の時点で既に三奉行は反家康側に立っており、毛利とも気脈を通じて(反徳川のための)毛利の上坂要請は、既に予定の行動だったことになります。

 

 石畑匡基氏はこの書状を7月12日に増田長盛らが家康に対して石田三成大谷吉継に不穏な動きあるとの一報をしたことを根拠に、「三成・吉継らの軍事行動を鎮定してくれるように輝元に要請したものと理解すべき」(*2)としています。つまり、①の見解です。

 

 筆者の意見は石畑匡基氏の見解とは違います。普通に考えて7月12日の時点で徳川側だった三奉行が、わずか5日後の7月17日に「内府違いの条々」のような家康に対する宣戦布告を突き付ける立場まで突然変わるでしょうか。

 

 7月17日の「内府違いの条々」発出とは豊臣政権からの徳川家康追放というクーデター劇なのです。大坂には親徳川大名も多くいる中、毛利輝元と三奉行は事前に緻密に計画を立てて秘密を洩らさずに親徳川大名の動きを排除し、この一大クーデターを成功させました。この計画は、計画側がひとつ間違え秘密を漏洩すると崩壊するような極めて危ういものです。その計画の中核にいるはずの三奉行が、実は7月12日までは計画メンバーの蚊帳の外の部外者で、わずか5日のうちに立場を変えてしまうようなフラフラした立場だったとしたら、そもそもこのクーデター劇は成功する以前に計画が実行されることすらないでしょう。慎重すぎて石橋を叩いて壊してしまう性格の毛利輝元がこんな計画に乗るでしょうか。

 

 7月17日のクーデターは首謀者達が事前に綿密な計画を立てないと、成り立たないものであり、その中核メンバーである大坂の三奉行が、はじめ徳川方であったのがわずか数日で反徳川側に立場を変えるというのはありえないことです。

 

「いや、そうは言ってもじゃあ増田長盛他の家康宛て書状は何なの?やっぱり三奉行は少なくとも7月12日までは徳川よりだったんじゃないの?」という意見もあるでしょう。

 

 しかし、これを覆す証拠がまさに『霜女覚書』なわけです。

 前回のエントリーで①『霜女覚書』によると7月12日の時点で大坂方の人質作戦が開始されたこと、②この「大坂方」とは石田三成では有り得ず、現実的には三奉行以外は有り得ない、を検討しました。つまり三奉行は来たる対家康の戦いのために大坂城に人質を集めようとしていたのです。こうした三奉行の動きを見れば、「三奉行が7月12日には徳川方だったが、5日後になぜか反徳川方になってしまった」というのが、いかに馬鹿げた説か分かります。

 

 では、7月12日付の増田長盛の家康家臣宛書状はなんだったのか?前のエントリーで見たように石田三成大谷吉継の決起は増田長盛だけではなく、他の二奉行も含め大坂在住の諸大名から家康宛てに送られています。三成らの決起は三奉行が秘匿しようとしても、他の大名から家康に注進が行ってしまいますので、どちらにせよ家康には分かってしまう事なのです。このような中、三奉行だけが家康に書状を送らなかったら、周りの親家康大名から「なぜ、三奉行は内府殿に書状を送らないのだ?さては、石田・大谷と通謀しているのでは?」と疑われる事必定ですので、書状を送らないわけにはいきません。

 しかし、今回の長盛書状はそういう消極的な意図だけではなく、今回のクーデターのための積極的な意図が込められていたのです。

 

 上記1.の三奉行の毛利輝元の上坂要請というのがなく、勝手に毛利輝元が軍勢を率いて上坂したら、どうなるでしょう。これは毛利輝元が豊臣政権に何の承諾もなく軍を大坂に向けて動かしたということになり、豊臣家に対する謀反ということになります。軍を勝手に動かすという事はそういうことです。在坂の親徳川大名は、毛利輝元の謀反に対して早急に対処しなければいけませんし、当然対処する(大坂城伏見城の占拠・籠城、秀頼君の保護等)ことになりますし、三奉行がこの事態に対処しようとしなかった場合は内通が疑われることになります。

 

 7月17日のクーデターは、毛利の軍勢を大坂に引き入れ、大坂を反徳川派で制圧することが成算の鍵なのです。大坂の親徳川大名が、毛利が軍勢を動かすのに疑念を抱かないような大義名分が三奉行にとっては必要でした。

 

 この毛利輝元が軍を動かすことの大義名分として、三奉行は「石田三成大谷吉継佐和山城決起」を持ち出しました。つまり、この家康への三奉行の書状は「石田三成大谷吉継佐和山城決起」を公のものとし、これを口実に「大坂城の妻子人質作戦」と「毛利輝元の上坂要請」を正当化し、公然と行うためのものだったのです。この時点では、三奉行が親徳川なのか反徳川なのか不明、というより現状では親徳川としか判断しようがありませんので、親徳川大名としても三奉行の動きに公然と反する動きができません。

 

 結局、「石田三成大谷吉継佐和山城決起」とは反徳川勢力(三奉行等)にとっては7月17日のクーデターのために、「毛利輝元の上坂要請」「大坂城妻子の人質作戦」を実行するための口実であり、この口実により在坂の親徳川大名の動きを排除するための行動だったといえます。

 

 以上のように、7月12日の時点で、三奉行、三成・吉継、毛利輝元は豊臣政権からの徳川家康排除を共通の目的として動いていた集団だったというのは明らかです。そして「石田三成大谷吉継佐和山城決起」と三奉行による「大坂城の妻子人質作戦」と「毛利輝元の上坂要請」は反徳川派による7月17日のクーデターのための、自作自演劇といえるでしょう。

 

 次回は、『霜女覚書』の続きの文章について検討します。

 

↓次回のエントリーです。

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 注

(*1)石畑匡基 2014年、p44~45

(*2)石畑匡基 2014年、p48

 

 参考文献

石畑匡基「増田長盛と豊臣の「公議」-秀吉死後の権力闘争-」(谷口央編『関ヶ原合戦の深層』高志書院、2014年所収)