古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

机上の名将

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「机上ではうまくいくが、実戦ではうまくいかない」ということが、どれだけあるだろうか?

 たいていの場合は、「机上でもうまくいかないし、実戦ではもちろんうまくいかない」ことの方が多い。

 

 なぜ、こんなことを書いたかと言うと、大河ドラマ真田丸」23話の(三谷架空世界の)忍城攻めがまさにそうだからだ。愚将三谷三成の戦術は、そもそも机上ですら成り立たないものだから、現実でも勝てる訳がない。「机上でもうまくいかないし、実戦でも、もちろんうまくいかない」のは当たり前のことなのだ。

 

 しかし、「机上ではうまくいくが、実戦ではうまくいかない」というのが実際にはあるのか?という話なのだ。さて、実際に「机上ではうまくいくが、実戦ではうまくいかない」というシチュエーションを描ける人間がどれだけいるだろうか?たいていの人は三谷氏のように「机上ではうまくいくが、実戦ではうまくいかない」を書いたつもりが、「机上でもうまくいかないし、実戦ではもちろん、うまくいかない」シチュエーションを書くことになると思う。けっこう、これ書くの大変だと思う。

 ちょっと、こうしたシチューエーションを書ける人がいるかどうか募集してみたいと思う。我は、と思う方はコメントに書いていただきたい。シナリオ自体が机上の物だから、まあ非常に高いハードルなんだとは思うが・・・・・。

 

忍城水攻めの実相については下記をご覧ください。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第23話 「攻略」 感想

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※前回の感想です。↓

 

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 いやあ、酷い回でした。前回はドラマとしては面白いと書いたら、次の回はこんな酷い回だとは・・・・・・。絶句です。

 

 三谷氏に限らんのですが、大河ドラマの登場人物の人物造形というのは往々にして支離滅裂で、そもそも史実云々以前に「この時代にそんな事を言う奴はいねえ!」と怒鳴りつけたくなるような滅茶苦茶なキャラクター設定で、しかも連続ドラマなのに性格や言動に一貫性がなく、頭がクラクラしてくることがあります。複数の脚本家が書くとこういう混乱した展開になることが多いのですが、本作も優秀な三谷さんと、ダメダメな三谷さんの2人で書いているのかと思うぐらい各回の質のバラツキが酷過ぎます。

 

 さて、まず今回の北条攻めのきっかけは名胡桃城事件な訳です。つまり、公的には真田家のために豊臣家は軍を動かして北条と戦っている訳です。もちろん、それだけの思惑で秀吉が大軍を動かす訳がありませんが、公的にはそういう話です。つまり、真田昌幸が他人事のように「秀吉の下で戦うのが嫌だ」というのはなんか違うのです。このドラマの真田一家、自分ところの事件がきっかけの戦なのに、あまりにも他人事過ぎませんかね。

 

 このドラマの(架空の)出浦昌相も訳が分かりません。真田にとって現状において北条は直接的な明白な敵であり、その北条が圧倒的に劣勢となっているのに、これから味方に付くとかもう意味不明です。というか、こんな落ち目の北条について一体どうなるのでしょうか?全く有り得ません。有り得ないアホなセリフを堂々と言わなければいけない寺島進さんが可哀そうです。もう、史実と違うとかの次元ではありません。どうしようもありません。

 

 つーか、信繫は当事者の一人(明白な北条の敵)である昌幸の息子な訳です。使者として、しがらみがない、訳がないじゃないですか。このドラマの(架空の)江雪斎はアホとしか言いようがありません。当事者の息子が降服勧告の使者でやって来るなんて、氏政にとってどれだけ屈辱的なのか常識で分からないのでしょうか。これじゃあ、まとまるはずの話だって壊れてしまいます。

 

 というか、官兵衛・・・・・。官兵衛がいねー!!一昨年前の大河ドラマの主人公は誰だ!小田原開城の降服の使者を信繫にするために、このドラマの世界線では黒田官兵衛の存在そのものを、消失させてしまいました。コウキ、恐ろしい子!三谷さんにおかれましては「黒田官兵衛の消失」というドラマを作っていただきたいと思います。(来週、岡田官兵衛がサプライズ瞬間友情出演する伏線だったら、まあ面白いですが。)

 

 今回、最悪だったのは忍城攻めです。前回の予告を見て俗説通り描くのだろうな、と思っていたら、その予想の更に斜め下をいく史実でも俗説ですらない、三谷オリジナル滅茶苦茶展開を描くとはさすがに予想が外れました。もう、なんだこりゃって感じです。

 

 まず、三成は五月二十六日の時点で一隊を率いて館林城を攻め、三十日に開城させた後、六月五日以降に忍城を攻めています。だから、六月になっても三成が小田原の陣にいる訳ありませんし、忍城がなかなか落ちないので小田原でイライラする三成も、忍城に途中から行って諸将を怒鳴りつける三成も有り得ません。

 というか、お兄ちゃん(信幸)がさりげなく戦下手になっちゃっていますが、これも一体なんなのでしょうか。(このドラマではほとんど描かれていませんが、お兄ちゃん(信幸)は、第一次上田合戦をはじめとする数々の真田の戦いで活躍して勝利に貢献した名将ですよ・・・・・。)

 

 水攻めが秀吉の命令である話は、また「時代考証担当の話は聞いていますよー」のアリバイ作りのためかこのドラマでさらっとセリフで言っていました(てか、三谷氏は本当に時代考証担当の話を理解しているのでしょうか?)が、三成はこんなドラマのように水攻めにノリノリだった訳ではなく、水攻めでは周りの将達の士気が落ちるから(直接戦わないということは武功も立てられないということです)、まずは力攻めすべきだと反対する書状を、このドラマではやはり存在そのものが消失している浅野長吉に送っています。

 しかし、秀吉は水攻めを重ねて厳命しており、三成も長吉(長吉は途中からの参加ですが)もやむなく水攻めを続けています。更には、秀吉は小田原城が開城した後すらも、水攻めを続けるように景勝に書状を送っており、最早、城方を降伏させることよりも、水攻め自体が秀吉の自己目的化していることが分かります。

 

 というか、兵糧の無駄を気にしているなら、水攻めなんて金もかかるわ、人数も物資も労力もかかるわ、時間もかかるわ、別に敵兵も即死する訳ではないから、結局開城までに時間がかかるわ、これほど無駄な戦術はありません。兵糧の無駄とか時間の無駄を気にするなら最も取りえない戦術であり、その戦術でわずか「四日で落とす」とか豪語していること自体が常識的に全く有り得ない展開です。

 

 最も成功した水攻めとされる秀吉vs清水宗治(毛利軍)の備中高松城の水攻めでさえ、包囲を始めたのが五月九日で、講和がされたのは六月四日と一ヶ月近くかかっています。水攻めのメリットは、直接戦わなくてよいので味方の損害が少なくなること、敵の援軍も城方と遮断されて連携できないことなどがあります。力攻めで早く落城させるというより、相手を心理的に追い詰めて降伏させる戦法ですので、(相手があっさり降伏しない場合は)どうしてもそれなりの時間はかかります。しかも、この忍城攻め、相手が降服を申し出ているのに、秀吉が無視して、あえて水攻めを引き延ばしているふしすら伺えます。

 

 もう、このドラマの三成は三成ではありません。史実とここが違うとかそういう話ですらありません。ただの三谷氏の創作上の「頭のおかしい人間」です。こんな頭のおかしい人間は、そもそもこの時代のどこにも存在しません。三谷氏の完全オリジナルの、架空の頭のおかしい人物をどうしても出したいならば、それは三谷氏の自由に描けばいいし、別に歴史ドラマで架空のオリジナルキャラクターを出す手法はあるので、そのようにすればいいのではないでしょうか?仮にも史実上の人物を、頭のおかしい人物として演じさせるというのは、その歴史上の人物に対する侮辱ですので、もうやめて欲しいです。

 

 というか、忍城攻めのメンバーって、ほとんど全員、のちの西軍メンバーですよ?(多分、このドラマの世界線では他の諸将(佐竹義宣等)は存在しないのでしょうけど。)このドラマで三成と称する何者かが、この後の展開では西軍の実質的な総大将になるんでしょう?(いや、このファンタジー展開では、それすらないか。西軍の総大将は信繫になるのかも。)普通のドラマだと、直江兼続と三成の熱い友情が描かれるのに、本作ではそれもなく、三成は諸将を怒鳴りつけて仲は険悪そうだし、兼続は疲れて呆れかえった顔で三成と称する者を見ているだけだし、史実での上杉家・兼続と三成との親密な関係はこのドラマではどこへ行ってしまったのでしょう。

 

 昌幸も三成を皮肉な顔で見ているだけ。史実での真田家と石田家の昵懇の仲はどこへ行ってしまったのでしょう。石田家と真田家の縁戚関係も(多分)無視、取次関係も無視、書状に残された信幸と三成の友誼もおそらく無視、これで、何故後に真田昌幸・信繁が西軍についたのか、どうやって説明する気なのでしょうか?いや、説明する気なんて初めからないのかな?

 

忍城水攻めの実相については下記をご覧ください。↓

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 いや、これほどツッコミどころの多い、どうしようもないドラマは久しぶりです。一昨年前の「軍師官兵衛」も酷かったですが、それより酷いドラマを見ることになるとは夢にも思いませんでした。

 

※次回の感想です。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第22話 「裁定」 感想

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※前回の感想です。↓

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真田丸」第22話『裁定』感想です。

 

 第22回は、沼田を巡る三者の法廷劇がメインでした。今回はドラマとしては面白かったと思います。(しつこいようですが、この三者討論会はフィクションです。)こういった法廷ドラマを三流の脚本家が書くと、どうしようもない滅茶苦茶な理屈で展開して、見ている方が恥ずかしくなってくるのですが、さすがは三谷氏、沼田の歴史的経緯をそつなくまとめ(そつなくまとめたはずの片桐且元が、秀吉に怒鳴られ気の毒でした)、それぞれ(北条、真田)の論点も整理され、なかなか面白かったです。信繫も主人公補正でスーパー成歩堂くん展開になった訳でもなく、バランスが取れていました。

 

 今回のドラマの北条(板部岡江雪斎)の敗因は、徳川を味方に付けられなかったことですね。実際には、この三者の中で一番の悪(わる)は二枚舌外交をしている家康です。しかし、徳川はこの場の被告ではなく、第三者の証人の扱いです。江雪斎は真田を攻撃しているつもりで、この場の証人でどっちに味方につくかで勝負が決まってしまう徳川を攻撃してしまったのです。双方の起請文は裁判官たる豊臣方に渡ってしまっているのですから、吟味すれば、仮に本多正信が何を言おうと黙ろうと真実がおのずと明らかになってしまいます。正信は、豊臣方に吟味されて、徳川が不都合な事実を「隠している」と思われる前に、先に起請文に何が書いてあるのかばらしてしまいました。

 

 江雪斎は、この場で信繫を攻撃するつもりで、徳川にとって一番痛い弱点を突いてしまったのです。(本来はこの論点はスルーして、裁判官(豊臣方)の興味が向かないようにすべきでした。)こうなると、家康名代の正信は、徳川家を守るために自家の弁護に努めるしかありません。(これを、後で真田に恩を着せるかのような印象操作をする正信はさすがです。)

 

 結局、この裁判は江雪斎の勇み足、自爆ということになりますが、江雪斎が無能という訳ではありません。アホな脚本家ならば江雪斎の無能として、いかにも江雪斎が無能そうなセリフを吐かせて自爆させて結着させるところが、「いや、あれは仕方なかったね」と思わせる展開でしたので、なかなか白けることなく面白いドラマとなりました。

 

 今回、好感を抱いたのは、意外にも真田昌幸の描き方です。このドラマは不必要に(史実に反して)昌幸を貶すところがあり非常に不満でしたが、今回は良い点がいくつかありました。

 

 第一に、名胡桃城事件が秀吉と昌幸の陰謀によるものだという俗説がありますが、実際にはそんな都合のいい展開などある訳がなく、この説はありえないと私は思っています。しかし、青春編の「黒い策士」昌幸の描写では、そういった黒い(俗説的)展開があってもおかしくはないと思っていましたが、そういう嫌な展開にならなかったのは、非常に良かったです。家臣鈴木主永が切腹したのを聞いて、「名胡桃などくれてやればよかった」と昌幸が後悔する場面は、家臣思いの昌幸の意外な一面が垣間見えました。(いや、まさか名胡桃城事件をナレーションとCGマップでぶった切るとは思いませんでしたが。)

 

 第二に、自ら名胡桃城を取り返せず歯がゆい思いをして、出浦と酒を飲む画面です。ここら辺も「時代に取り残された昌幸」と思う人もいるかもしれませんが、今回のこのドラマの昌幸は、三成の説得に応じて沼田を明け渡し、名胡桃を取り戻そうとして息子の説得に応じて秀吉に謁見し、秀吉に「下がれ」と言われたら、素直に下がります。もう時流については知っているのです。その上で、自らの始末を自分でつけられず、秀吉に委ねるしかないことを昌幸は武士として歯がゆく思っています。聚楽第を攻める云々は出浦のジョークです。そうやって出浦が自分を慰めてくれるのを知って笑っているのです。

 

 戦をなんとか避けようとする三成というのも、対北条戦では、三成がそんな行動をしている史料はないのですが、もうどうでもよくなってきました。確かに、朝鮮出兵に反対して、「つねづね、『六十六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか』(『看羊録』)」と言い、実際に和平のために努力した三成を知れば、「三成=平和主義者」(この「平和主義者」は現代の平和主義者とは別物です)というイメージになるのは、ある意味分かりますし、三谷氏がそういうイメージで三成のキャラクター造型をしているならば、ひとつひとつのエピソードがフィクションでも「史実に基づいたキャラクター造型によるフィクション」ということになるのでしょうけど、今後どう描かれるのですかね・・・・・・。

(ちなみに、暴君秀吉の前で、秀吉の意向に真っ向から反する『六十六州で充分である。どうしてわざわざ、異国でせっぱつまった兵を用いなくてはならないのか』などという台詞を広言する三成という男は何と命知らずなのかと思います。関ヶ原に突入する前に、何度死んでいてもおかしくありませんね。

 あと『看羊録』というのは、朝鮮出兵の際に日本軍に捕えられた朝鮮の儒学者カン・ハンの虜囚録です。当時儒学者として尊敬されたカン・ハンの元に僧や儒学者が訪問し、彼は捕らわれの身でありながら、色々な情報を知ることができ、それを書きとめたのが『看羊録』です。このため、『看羊録』というのは同時代の記録であり、貴重な史料とされています。)

 

 さて、来週は忍城攻めがあるようですが、次回予告を見ると俗説通り描くみたいですね。既に色々な方が色々な所で指摘している通り、この俗説は誤りです。「忍城攻め」の実像については、既にネットで色々な方が解説されているので、これ以上、別の人が解説する必要はないかと思っていましたが、実際には小説・映画『のぼうの城』とか、次回の『真田丸』の影響力の方が甚大でしょうから、次回は「忍城攻め」について考察してみたいと思います。

 

忍城水攻めの実相については下記をご覧ください。(「次回」と書いてだいぶ後になってしまいました・・・・・・。)↓

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※次回の感想です。↓

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宮下英樹『センゴク権兵衛』1巻での石田三成エピソードの感想

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 漫画の宮下英樹センゴク権兵衛』講談社、2016年 1巻での石田三成のエピソードの感想を書きます。

センゴク』シリーズは戦国武将、仙石権兵衛秀久の一代記を書いたシリーズであり、現在も連載中です。

 

 以下のエピソードは、おそらく作者の創作なのでしょうが、三成の人となりをよく示しているな、と思ったので紹介します。

 

 まず、以下で出てくる大音新助とは史実では三成の家臣です。文禄三年の島津領の太閤検地で三成に命じられて総奉行を務めていますので、三成家中の重臣のひとりであり、また実務に優秀な人物であったことがうかがえます。

 この漫画では、三成の推挙で秀吉の奉行となった人物として描かれていますので、多分、以下の話はフィクションだということになりますが。

 

 以下引用します。(下記のことは天正十三(1585)年のことです。)

 

 ※カッコ内及び番号筆者です。

 

「VOL.5 奉行

大坂状城本丸 表御殿

 

大音新助『お見知りおきを』『石田三成様のご推挙にて此度奉行衆に加わった大音信助に』

増田長盛『手前は増田長盛 かくも多忙の日初の奉公とは不運よの』『ともかく羽柴様が参られる前に皆に挨拶を』『おっと気を付けよ 書状に進物に人が行き交っておる』『さあ、「文庫へ」』

大音新助『・・・・・・』『この書状類すべてを捌かねばならないのですか?』

増田長盛『ハハッそれだけでは駄目だ』

大音新助『は!?』

増田長盛『ともかく挨拶だ』『石三殿 大音信助が着到だ』

石田三成『やぁ大音来たかね』(書状を書きながら)

大音新助『石田様 此度は・・』

石田三成『アイサツ無用!』(*1)『それより――』『台所より入ったのかね?』

大音新助『は!』

石田三成『宜しい』『常に台所よりの歩数を覚えておくように』

大音新助『・・・・歩数?』

増田長盛『台所より御廊下を渡り御座の間まで三十間 歩数は六十歩――』

大音新助『六十歩・・・・』

石田三成『羽柴様はご多忙故』『直接進言能(あた)うのは六十歩の間のみ ということだ』

奉行頭 浅野弥兵衛長吉『かくの如し』『奉行の務めは 是(これ)ら日ノ本全土よりの報(しらせ)を書一枚にまとめ羽柴様にお読み頂く事じゃ』

大音新助『・・・・・・あ あれらの内容を一枚にまとめると――!?』

石田三成『いかにも まず報告を書にまとめる』『その他 進捗中の件 問題のある件 考慮を要する件』『それらを口頭にてお伝えしご理解頂き指示を仰ぐ』『良いな六十歩だ(*2)』『能(あた)わねばここでは無用だ』」

 

(*1)念のためですが、ここでの『アイサツ無用!』と三成が言うのは、たとえば大河ドラマ真田丸』で他人の挨拶を無視するような無礼な(架空の)三成とは似て非なるものです。この漫画の新助にとって、三成は新助を羽柴家に推薦してくれた恩人であり、それでなくとも先輩ですので、三成に対して本来は新助から懇切な挨拶が必要です。そこを、三成は「忙しいし、君と私の親しい仲なのだから、堅苦しい挨拶など無用だ」と言っている訳です。昔、どこぞの元大物芸人が、新人芸人に「アイサツがない!」といって、暴力をふるっていたのとは大違いです。

 

(*2)ここでの「六十歩」とは、現代のコンサルタントのスキルとしてよく紹介されている「エレベーター・テスト」に似ているのかな、と思います。原作者が参考にしているのかは知りませんが。

 エレベーター・テストとは、偶然プレゼンテーションの前に取引相手のプレゼンのキーパーソンとエレベーター前で居合わせたと想定して、そのエレベーターが1階に下りる二十秒の間にプレゼンテーションの要点を伝えて、相手の心を掴むことができるか?というテストです。この後に本当のプレゼンは行われるのですが、実際にはこのエレベーターでの20秒プレゼンの間にキーパーソンの心を掴めるかで、プレゼンの成否は、既に決まっているのです。(私が前見た本では、キーパーソンがプレゼンテーション会場に来訪したのを入り口で出迎え、エレベーターを使ってプレゼンテーション会場の前まで同行する間の会話で、プレゼンの成否が決まるような話でした。)

 

石田三成『さて そろそろ参られよう』『ちょっと桜門まで行こうか』

大音新助『外へ?』

石田三成『そう 面白い光景が見られよう』

(二人、桜門へ向かう)(羽柴秀吉 軍勢と共に到着)

出迎えの兵士達『祝着ッ』『ご祝着にッ』『内大臣昇任祝着至極ッ』

 

羽柴藤吉郎秀吉(数え四十九歳)此度 内大臣に昇官 武威のみならず 朝廷の権威も得 日の出の勢いで天下一統に邁進していた

 

(歩く秀吉。迎える兵士達とともに礼をする石田三成と大音新助)

(秀吉、大音新助に声を掛ける)

羽柴秀吉『面上げい』

大音新助『はッ』『はは・・・・』

羽柴秀吉『見ん顔じゃ』『・・・・・・ちゅうこたぁ わぬしが大音新助じゃな』

『ハッハハ よう来た よう来た』『石三推任の才子と聞いとるぞ』

侍?A『内府様ッ』

侍?B『内府様ッ』

羽柴秀吉『待て待て 新助とのアイサツが先じゃ 来い新助』

大音新助『は・・・・はいっ』

羽柴秀吉『母上は息災か 眼病を患うとるらしいの』

大音新助『ご・・・・ご・・・・ご存じで!?』 

羽柴秀吉『聞いとるわいな』『黒田家秘伝の眼薬じゃ 官兵衛よりとりよせさせた』(眼薬を新助に渡す秀吉。涙ぐむ新助)(*3)

羽柴秀吉『しっかと石三に倣え 奉行は大変じゃぞい』

大音新助『い・・・・命を賭して・・・・』

羽柴秀吉『馬鹿言え 死んじゃあならん ハッハ』

大音新助『う・・・・』『く・・・・』(泣く新助)

(そのまま門へ向かう秀吉)

侍?C『内府様ッ』

侍?D『内府様ッ』

羽柴秀吉『わかった わかった なんじゃいな』」

 

(*3)ここまで見て、むしろ「エレベーター・テスト」は秀吉から新助に仕掛けられたことが分かります。桜門に入るまでの六十三歩(後述)の間に、秀吉は新人家臣大音新助の心をガッチリ掴んでしまいました。

 ここで恐ろしいのは、この「秀吉人たらし劇場」を演出したのは、石田三成であることです。新助の母親が眼病を患っているのを知っているのは当然三成でしょうし、忙しい秀吉に代わって官兵衛から眼薬を取り寄せたのも三成でしょう。というか、秀吉の新人家臣新助への出迎えシナリオの筋書きを書いたのはすべて三成でしょう。おそらく「人たらし」たる秀吉がこの三成の描いたシナリオを喜んでノリノリでやるであろうことも計算に入っています。

 そして、この秀吉の六十三歩の「人たらし芸」を新助に見せることによって、「六十歩」のプレゼンとは実際にどうやるのかを、上司の秀吉を使って授業しているのです。「立っている者は、上司でも使え」という感じですね。

 

「大音新助『い・・・・石田様・・・・・・』

石田三成『・・・・・』

大音新助『て・・・・手前を内府様の下に』『おとりたて頂き・・・・ 感謝しきれませぬ・・・・』(*4)

石田三成『大音・・・・・・』『何歩歩いた――?』

大音新助『は!?』

石田三成『六十三歩だ』

石田三成『六十歩超えて何も伝えておらん』『つまり無能だ』(*5)

大音新助『!』

石田三成『羽柴様が一度君を無能と見なせば』『今とは全く正反対の扱いを受けることとなるぞ』(*6)

 

(*4)(*5)(*6)三成は、感涙にむぜぶ新助に水を差すことも忘れません。『て・・・・手前を内府様の下に』『おとりたて頂き・・・・ 感謝しきれませぬ・・・・』(*4)となると、感謝が自分(三成)に向かってしまい、秀吉に向かわない可能性があります。そうすると、秀吉が嫌う自分自身への「人気取り=私党を組む」になってしまい、その度が過ぎると睨まれた秀吉に粛清される危険すらあります。

 ここで、さりげなく自らの人気取りと見られないように、あえて冷たい言葉を放つのです。それとともに、『羽柴様が一度君を無能と見なせば』『今とは全く正反対の扱いを受けることになるぞ』(*6)というのは本当のことであり、友である新助に対しての心からの忠告です。

(*5)『六十歩超えて何も伝えておらん』『つまり無能だ』というのは新助にとっては酷でしょう。というのは、今回の六十三歩は秀吉の「人たらし劇場」の独壇場であり、実際に新助が口を挟む余裕はなかったためです。三成はそうした事情は当然知りつつ、新助の今後のために忠告した訳です。

 

 秀吉が三成を評して「才器の我に異ならない者は、三成のみである」と言ったという(本当かどうか知りませんが)逸話がありますが、この「才器」とは「人たらし」の才のことでしょう。しかし、織田信長が配下の各武将の才能をある意味放置していたのに対して、秀吉は信長の本能寺の変の教訓があり、秀吉配下が「自分自身のために」自分の才を生かして人気取りをして「私党を組む」ことに非常に警戒感を抱いていました。三成が自らの「人たらし」の才を秀吉のために使わず、自分自身のために使っていた場合には、秀吉の粛清が待っていたのでしょう。三成は自らの「人たらし」の才を自分のためには使ってはいけなかったのです。

大河ドラマ 『真田丸』 第21話 「戦端」 感想

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※前回のエントリーの感想です。↓

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 今回は前半間延びした印象がありますが、後半から沼田を巡る真田信繁本多正信板部岡江雪斎の三者討論会が行われる運びになった辺りから、少し面白くなってはきました。といっても、この三者討論会自体がフィクションなので、あくまで「フィクション」としてはですが。

 

 ここまで三谷氏が、大坂編で真田昌幸をことさらに時代に取り残された愚鈍な人物のように書いてきたのは、この討論会で信繫に花を持たせるためだったかと思うと、なんか溜息が出てきますね。

 実際には、沼田を巡る交渉で真田が有利な条件を勝ち取ったのなら、それは当主昌幸の功績によるものでしょう。信繫は残念ながら特に何もしていません。この辺の経緯は下のエントリーで詳細に考察しました。↓

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 今回は大河ドラマ恒例の『主人公を上げるために、他人の功績を奪って主人公の物とする』モードが発動したということですね。これは大河ドラマでやらなきゃいけないお約束なんでしょうか?脚本家はNHKと契約結ぶ時に、そういう風に必ず書けとかいう契約でも結んでいるのでしょうかね?まあ、昌幸も息子の信繫に功績を奪われるなら、別にかまいはしない、と思うかどうかは知りませんが。

 

 もう一点疑問があります。今回のドラマでは千利休が秀吉に北条との戦をけしかけて、天下総無事のために北条との戦を避けようとする石田三成大谷吉継が利休を警戒するような描写がありましたが、これってなんか史料の裏付けがあるのでしょうか?それとも、三谷氏恒例の「一から十までフィクション」のひとつでしょうか?

 

 突っ込んだら負けだ、という気もしますが、たまには時代考証担当の意見を聞くのか、時折中途半端にマニアックな所が史実を反映していたりするので、モヤモヤしてくるのですね。上記の話は聞いたことがないので、多分フィクションだと思いますが・・・・・・。

 

 フィクションとしては面白いか?というと、まあ次回に行われる(架空の)三者討論会が面白いのかどうか、というところですね。これまた大河ドラマ名物の「主人公が妙ちきりんな理屈を振り回して熱弁し、言っていることが滅茶苦茶なのに、それに対して周囲の人物がなぜか納得してしまって、主人公を誉めそやす(反論した人物は『ぐぬぬ・・・』となる)」というアホな展開にならないことだけを祈ります。

 

※次回の感想です。↓

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真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?②

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※前回のエントリーです。↓

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 真田昌幸はなぜ、上洛を延引し続けたのか?①の続きです。

 

1.秀吉の「徳川の与力大名」というマジック 

 

 丸島和洋氏の『真田四代と信繫』平凡社新書より引用します。

 

天正一四年一一月二一日、秀吉は真田昌幸に赦免を通達し、改めて上洛を命じた。秀吉は上杉景勝にも昌幸に赦免を伝えるよう指示している。命令を受けて昌幸が上洛したのは天正一五年三月①のことで、徳川家臣酒井忠次が同席した。これは思わぬ副産物を産んだ。昌幸は秀吉と直接交渉を持っていたため、戦国大名上杉氏に従う国衆として処遇されるのではなく、中央政権に直接仕える豊臣大名になったのである。②上杉家との立場は、基本的に対等なものへと変化した。その上で、家康の与力大名という扱いを受けることになった。秀吉直属の大名だが、戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇である。③

 さらに、昌幸にとって幸運だったのは、秀吉がいったん「沼田領問題」を棚上げすることを承認したらしいということである。これにより、上野沼田には嫡男信幸が入った。真田氏は後に「沼田領問題」の裁定で、沼田領三分の二を北条方に引き渡すことになる。その際、三分の二の替地は徳川家康が用意している。③つまり、信幸を保護する責任者は徳川家康であった。徳川氏はこの後、同盟国北条氏の豊臣政権服属交渉に従事していく。その際、家康が信幸のいわば「後見人」という立場についたことは、真田氏にとって思いがけない僥倖となった。家康は、一方的に北条方の主張を呑む立場ではなくなったからである。昌幸が忌避した徳川与力大名という立場が、かえって真田家に有利に働いたのである。

 ここに昌幸は上田領三万八〇〇〇石、嫡男信幸は沼田領二万七〇〇〇石の豊臣大名として、新たな道を歩み始めることになる。父子合計で、六万五〇〇〇石の大名である。」(*1)(下線、番号筆者)

 

 上記についてコメントします。

 

  ①で「三月」とありますが、前のエントリーで書いた通り、「二月」と思われます。これは三月一日から秀吉は九州征伐に向かっているので不在のためです。

 

  ②のように、上杉傘下の国衆でもなく、徳川傘下の国衆でもなく、昌幸は「中央政権に直接仕える豊臣大名」になりました。これは、真田家の身分保障は豊臣家によって行われるということです。徳川家(あるいは上杉家)の傘下(家来)ということになってしまいますと、その大名が真田家の主家ということになってしまいます。そうすると、主家の判断で気に入らぬことがあった際に、改易等の処分がされる可能性が出てきますし、最悪「上意討ち」などで殺されたとしても、基本的にその「主家家中の問題」として扱われ、不問にされてしまう可能性すらあります。

 

 真田氏が豊臣の直属大名となったことにより、徳川氏が主家として、真田家の処遇を定めることはできなくなりました。昌幸が一番の懸念としていた問題が、この秀吉の措置で解決されたことになります。

 

  ③その上で、真田氏は「家康の与力大名」という扱いを受けます。与力大名とは、丸島和洋氏の説明にある通り、「秀吉直属の大名だが、戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」です。なぜ、このような処遇にしたかといえば、おそらく豊臣家と徳川家が和睦した際に、徳川に信濃の支配権を認めたためでしょう。信濃の支配権を認めた以上、信濃の国衆である真田家は本来徳川の傘下となるはずですが、昌幸が家康を不安に思いゴネたため、豊臣直属大名として昌幸を扱うことによって昌幸を安心させ、家康に対しては、真田家を「家康の与力大名」という扱いにすることにより、和睦条件の信濃の支配権という約束を守り、徳川の面子を保ったということになります。

 

 しかし、この「家康の与力大名」という扱い、実はだいぶ有名無実なものです。というのは、この後、実際に真田家が「戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」を受けたことはないのです。その後、最も「戦争時には家康の指揮下に配属される」ことが期待される、豊臣と北条の合戦においては、真田家は前田利家上杉景勝らの東山道を通って攻める部隊に従っており、家康の指揮下に入っていません。北条滅亡後は、後述するように徳川の与力から真田家は外されており、実質的に真田家が「戦争時には家康の指揮下に配属されるという処遇」を受けたことはありません。

 

 一方で、大河ドラマ真田丸』で秀吉が言ったように、家康は自分の「与力大名」が攻められたら「後見人」として、これを守らなければいけません。これは一般論や抽象的な話ではなく、天正十五(一五八七)年二月の段階(昌幸上洛の時期)に、真田家は沼田を北条家に攻められています。沼田の問題は「今ここにある危機」の問題であり、北条が「矢留(停戦)」を破って、沼田を攻めた場合、北条家の同盟大名・縁戚である家康が真田家のために体を張って、北条から沼田を守られなければいけないという話になります。

 

 更に、上記③にもあるように後に「沼田領問題」の裁定で秀吉は、沼田の三分の二を北条家に、三分の一を真田家に引き渡すように裁定を下しますが、その際に真田家が失う所領の替地を徳川に用意させています。

 

 以上を見ると昌幸は、

(1)豊臣家の直属大名の扱いとなった。(徳川家の家来にならなくて済んだ。)
 
(2)「家康の与力大名」という扱いにはなったが、実際には家康の指揮下で戦うことはなく、一方、家康は「後見人」として北条から真田を守らなければいけなくなった。
 
(3)沼田領の三分の二を北条に引き渡す時も、相応の替地を(秀吉の命令により)徳川が支給してくれた。

 

 という条件を勝ち取ったことになります。

 

 昌幸が上洛を延引し、粘り強く豊臣家と交渉を続けた結果、ほぼ、昌幸の望み通りの回答を豊臣家から引き出すことができました。満額回答といっていいでしょう。昌幸は「タフ・ネゴシエーター」と呼ばれてよいと思います。(丸島和洋氏はこれを「思わぬ副産物」「幸運」「思いがけない僥倖」などと評していますが、この結果は偶然ではなく、昌幸が粘り強い交渉を続けた結果の話です。)

 

 上洛後、昌幸は三月十八日駿府に赴いて、家康に挨拶をしていますが、大河ドラマ真田丸』では家康が、昌幸が頭を下げてきたと満面の笑みで迎えています。しかし、実際にはこの条件交渉で最も割を食っているのは家康です。昌幸は頭を下げながら、こんなに真田家にとって有利な条件を豊臣・徳川が呑んでくれるなら、いくらでも頭を下げるわい、と思ったことでしょう。

 

2.なぜ、秀吉は真田家に有利な条件を呑んだのか?

 

 さて、なぜ秀吉は真田家に有利な条件を呑んだのでしょう?この時期、北条家は秀吉に服属していません。最終的に戦いになるかもしれませんし、後に、実際に戦いになり北条家は秀吉に滅ぼされました。豊臣が北条と戦う際に、最も気になるのは、北条の同盟大名・縁戚である徳川の去就です。家康は上洛して臣従したものの、ついこの間まで戦っていた相手、北条と戦うということになった場合に、北条につく可能性はあります。

 

 以前のエントリーでも書きましたが、秀吉に限らず戦国大名の外交術は「和戦両様」です。対北条との今後のパターンとして、

 

(1)北条は臣従、徳川も臣従を続ける

(2)北条とは戦争、徳川は臣従を続ける

(3)北条と戦争、徳川も北条と同盟して戦争

 

の3パターンが予測され、秀吉としてはこの3パターンのどれに転んでも対処できるようにシミュレーションを練らなければいけません。

 

 秀吉にとって最悪なパターンは、(3)北条と戦争、徳川も北条と同盟して戦争ですが、軍事・外交というのは最悪なパターンを予想して、最善な対処をする必要があります。

 

 もし、北条が徳川と結び、秀吉と戦うとしたら、真田を徳川の家来にしてしまうのは危険です。真田は信濃・上野双方に領地を持っており、信濃と上野を結ぶルートである碓氷峠を抑えている形になります。真田を徳川傘下とし、もし北条と徳川(の傘下の真田も含む)が結んで豊臣と戦った場合、豊臣軍は東山道碓氷峠ルートを敵に抑えられてしまうことになり、この方面からの攻略が相当に困難になります。

 

 仮に北条との戦争が始まった場合に、東山道からの交通の要所といえる碓氷峠を抑えるためには、その地の支配者である真田家を徳川の傘下ではなく、直臣大名、絶対に豊臣の味方となる大名としてなんとしても抱え込む必要がある、と秀吉は判断したのだと思われます。

 

 後に秀吉は沼田裁定の際に、沼田の三分の二を北条家に、三分の一を真田家に引き渡すことになりますが、その際沼田の全部を引き渡せと主張する北条に対し、昌幸は「名胡桃(昌幸が主張した三分の一の地一帯)は祖先の墓があるため引き渡せない」と主張します。この昌幸の主張は「明確な嘘」(*2)(祖先の墓などない)ですが、その嘘の主張を黙って秀吉は認めます。これは、上野側に真田の領地があること、つまり碓氷峠のルートを真田が確保すること(北条には確保させないこと)が、秀吉にとっても重要事項だったからでしょう。

 

3.そして、「豊臣大名」へ

 

 天正十八(一五九〇)年三月にはじまった豊臣と北条との戦いは七月、北条氏が降伏することによって終結します。(豊臣と北条が戦う原因となった名胡桃城事件については、書くと長くなりますので省略します。(本当は省略しちゃいけないですが、長くなりますので(笑)))

 

 その後、七月二十六日秀吉は下野宇都宮に到着しました。

 以下、黒田基樹『「豊臣大名」真田一族-真説関ヶ原合戦への道』洋泉社より引用します。

 

「秀吉はここで、関東・奥羽の大名・国衆に対する処置、すなわち没収した北条氏およびその国衆らの領国についての新たな知行割(所領の配分)を実施した。それは新たに制圧した関東・奥羽を羽柴領国に組み込む政策であった。これを「宇都宮仕置」あるいは宇都宮「関東仕置」と呼んでいる。そのなかで二十九日、昌幸についての処置が取り決められたらしく、その内容を秀吉から伝えられた徳川家康駿河大納言)は、この日に、秀吉側に対して承諾の旨を返答している(「水野文書」信補遺上・六九八)。

 具体的な内容までは記されていないものの、その後の変化から考えて、昌幸には本領信濃上田領を安堵し、また嫡子信幸に旧領であった上野沼田領全域を与え、さらに昌幸はそれまで家康に与力として付属されていたが、それを解除して、秀吉直属の「小名」(筆者注:「小名」とは「(従下五位下の位階と相応の官職を称した諸大夫)、領国も一国に満たないものの、自律的な領国支配を展開していたような存在を指したとみられる」(*3)とのことです)とする、というものであったに違いない。ここに昌幸は、秀吉に直属する「豊臣大名」の地位を成立させることになった。」(*4)(下線部筆者)

 

とあります。

 

 また、従来引き続き徳川家康の与力だったのではないかとされる真田信幸についても黒田基樹氏は否定しています。

 

「なお信幸については、関東に領国を持ったことから、引き続いて徳川家康の与力になったとする見解があるが、前著『真田昌幸』でも指摘したように、そのことを示す史料は一つもみられず、また逆に、これからみていくように、豊臣政権への様々な負担は、父昌幸とともに務めていることからも、そうした見解は誤りである。信幸も、昌幸と同じく、秀吉に直属する「小名」の地位を成立させたのであった。」(*5)

 

 そして、

 

「ところで宇都宮仕置により、徳川家康と、昌幸以外の与力大名、それに徳川氏従属国衆は、すべて関東に転封となった。信濃には、与力大名として筑摩・安曇郡小笠原秀政木曽郡木曾義昌、従属国衆として佐久郡の松平依田康国(ただし小笠原合戦で戦死)、諏訪郡の諏訪頼忠、伊那郡の保科正光らがいたが、彼らはすべて家康に従って、関東に転封となった。その結果、信濃の国衆で、信濃に居残ることができたのは、真田氏だけとなった。」(*6)

 

とあり、他の信濃国衆とは違って、いかに真田氏が破格の優遇措置を豊臣家から受けたか分かります。この秀吉の破格の処遇に対する昌幸・信繁の感謝が、関ヶ原の戦いの時に昌幸・信繁が徳川軍に対して上田城で奮戦し、大坂の陣で豊臣家のために信繫が奮闘することに繋がっていくのです。

 

 注

(*1)丸山和洋 2015年、p156~157

(*2)丸山和洋 2015年、p164

(*3)黒田基樹 2016年、p13

(*4)黒田基樹 2016年、p12

(*5)黒田基樹 2016年、p13

(*6)黒田基樹 2016年、p16

 

 

 参考文献 

黒田基樹『「豊臣大名」真田一族-真説関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年

丸島和洋『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年

聚楽第落書事件について

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以下は大河ドラマ真田丸』第20話感想の補足です。(追記あります。)

ドラマの感想は以下です。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 

 今回の大河ドラマ(『真田丸』20話)の聚楽第落書事件の件であまり秀吉のフォローなどしたくないのですが、感想等をみると単純に秀吉が狂っているような感想があるようなので、捕捉します。秀吉が恐ろしいのは、単純に狂っているのではなく、頭脳は死の直前までずっと明晰で、なおかつ病んでいるところです。

 今回の事件の黒幕は少なくとも(下手人を匿った)「本願寺」だと、秀吉は初め考えたのは間違いないでしょう。なんかドラマでは、本願寺は普通のお寺で、困った人を分け隔てなく匿うアジール(避難所・聖域)のように描かれていましたし、中世では確かに寺は基本的にはアジール的な役割を果たしていました。

 しかし、比叡山を焼き討ちした(規模については議論がありますが、信長が比叡山を攻めたのは間違いのない史実です)、旧織田家家臣団の一人である秀吉が、そうしたアジール理論に配慮する訳がありません。また、旧織田家家臣団はかつて本願寺と血みどろの合戦を10年に渡って繰り返し、降伏した者も含め本願寺信徒を殺しまくっていたのが史実です。

 その後信長の時に、和睦したとはいえ(本願寺が退去した石山本願寺の跡地が大坂城になります)旧織田家家臣団である秀吉にとって本願寺とは旧敵であり、いつ敵になるか分からない油断のならない相手であることは間違いありません。

 

 あと、「たかが落書き」なのかすら不明です。というのは、落書の内容はすぐに消されてしまったので、実際の内容は実は不明なのです。現在、この時の落書としてよく取り上げられるものは『武功夜話』という書物に残された落首(ドラマで書かれたのもおそらくこれを元にしていると思われます)ですが、武功夜話』は偽書説もあり、偽書でなくても江戸時代後期に書かれた書物とされ、信憑性に乏しいものです。

 だから、いたずらというレベルではなく、脅迫状的な深刻なものであった可能性があります。その脅迫状を聚楽第、いわば現代でいえば国会議事堂とか、首相官邸にあたるところに堂々と書かれてしまうというのは門番にとって大失態な訳で、この失態で門番が処刑されることについては、例えば信長の基準であれば仕方のないことです。当時の基準でも残虐な方だと思いますが、秀吉が突出して残虐な訳ではありません。

 脅迫状であった場合、そもそも落書と笑える話でなくなります。厳しい警備(だったのか知りませんが)を潜り抜けて聚楽第の壁に書いた(実際には、門に貼りだしたようです)としたら、豊臣方に内通者がいたという可能性が高くなりますし(今回のドラマで、容疑者の尾藤道休は門番だったということになっていますが、実際の史実では牢人です。)、その後の調べで容疑者は、旧織田軍の旧敵(仇敵)である本願寺に匿われているのです。これは、秀吉(をはじめとする旧織田軍)に恨みの残る本願寺が、牢人たちを集めて復讐をしようという計画を建てて、その一環としてこの落書を書いているのだと秀吉は疑ったのだと思われます。

 ドラマでも刀狩りの話が出ているように、秀吉の身分統制令で武士にも農民にもなれない人間達が、大量に牢人となって、都や大坂に溢れていたと思われます。当然、この牢人達は秀吉政権の政策に不満な人間達です。そうした秀吉政権に不満な牢人たちを匿っているのが、旧織田家家臣団の旧敵である本願寺である訳で、その本願寺に匿われた牢人が聚楽第落書の容疑者なのです。秀吉にしてみれば「本願寺は牢人たちを集めて、積年の恨みを果たすべく、自分に反逆するつもりなのでは?」と疑う話になります。

 しかし、犠牲者が多く凄惨だとされる今回の事件、本当に本願寺が黒幕だったと秀吉が確信した場合は「犠牲者が少なすぎる」のですね。これは秀次事件でも同じで、秀次が本当に反逆事件を起こしたのなら、もっと処刑される人数が多かったはずです。逆に「犠牲者が少ない」ことが、本願寺や秀次が実際にはそのような反乱を計画していなかったことの証拠と「解釈」されているのが現状です。

 おそらく、調べで本願寺は尾藤道休らを匿ったのは本当だが、事件の黒幕ではないことが分かったのでしょう。しかし、それでおさまりがつかないのが秀吉です。今回の件はそうでないかもしれないが、そもそも秀吉政権の不満分子を、本願寺が匿う事自体に問題がある。そうやって(元々秀吉政権に不満であろう)本願寺が不満分子の牢人を集める・匿うことによって、やがて本願寺が、秀吉不満分子が集結するアジト・拠点となっていくのではないかと考えたのでしょう。そういった事態が起こらないように、今回みせしめとして厳しく残酷な処分(天満森本願寺の近隣で捕えられ処刑された住民達とは、おそらく本願寺信徒でしょう)を下し、牢人たちを匿う事を本願寺に禁じることによって、将来的に本願寺が秀吉不満分子のアジトとなることを防いだ、というあたりが秀吉の考えかと思います。

 

 あれだけ信長を悩ませた本願寺の扱いが、秀吉の時代には平和なお寺の扱いとされ、実際にも本願寺が真っ向から秀吉政権に武装して立ち向かったことがないのは、ちょっと疑問でした。しかし、この事件において秀吉は本願寺に対して過酷なみせしめ処分を行い、更に「勘気の牢人を抱えないこと」などの寺内掟五カ条を本願寺に突き付けています。(*1)秀吉の、この一連の本願寺弾圧政策により、本願寺は事実上完全な「武装解除」を余儀なくされた、ということになります。

 

(追記1:この事件はフォローしようのない秀吉の残虐性を示した事件です。なぜ、上記のような事を書いたかというと、秀吉には秀吉なりの思考回路で、残虐な処分を命じた訳であり、なぜこのような事件が起こったのか考察するには、秀吉の思考回路を読むより他ないためです。秀吉の思考回路を肯定している訳では全くありませんので、念のため。)

(追記2:この事件では、増田長盛石田三成は奉行として事件の処理を粛々と行うことを秀吉に命じられます。

 また、この時には三成の縁戚(妻の伯父)である、九州征伐の時に失態を起こして豊臣家から放逐された尾藤知宣が本願寺に逗留しており、一時捕縛されました。しかも、この事件の犯人とされたのは尾藤道休。名字が一致しているのは偶然とは考えられず、知宣と道休は親族である可能性を疑われても仕方ありません。道休が知宣の親族ということになると、三成も道休の縁者ということになり、知宣も三成もまとめて処分(処刑される)ことになります。三成はこの事件の時に、死の際にいたといってよいでしょう。

 結局、道休と知宣は無関係(親族ではない)という事にされたのか、知宣は「この時」は処刑を免れ、三成も連坐して処刑される事はありませんでした。

 三成と尾藤(宇多)氏との関係については、今後のエントリーで詳しく書いていきたいと思います。)

 

 注

(*1)福田千鶴 2007年、p87

 

 参考文献

福田千鶴ミネルヴァ日本評伝選 淀殿-われ太閤の妻となりて-』ミネルヴァ書房、2007年