古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

千利休と石田三成について

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 前回の続きです、と言っても前回から随分経っていますが・・・・・。

 ※前回のエントリーはこちら↓

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 今回は千利休石田三成について書きますというか、千利休切腹石田三成は何の関係もないことについて書きます。

 

 桑田忠親氏は著作『千利休』において利休切腹についての三成陰謀説については全般的に否定的なのですが、一方で「また、秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像が、京都奉行の前田玄以石田三成らによって急に問題視され、」(*1)とも記載してあります。(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日。)

 

 しかし、この時期(後年京都奉行だったのは確かですが)にそもそも三成が京都奉行だったのか不明(示す史料がない)(以下※追記参照)ですし、実際には三成はこの年の前年12月からに大崎・葛西の一揆の鎮定のため奥州に向かって、そのまま越年、閏1月12日には武蔵岩槻にいます。秀長が亡くなったころには京都にはいません。三成が戻ってきたのは2月の中旬頃までのようです。(*2)このため、「秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像」について三成が問題視したという史実は成り立ちえません。(千利休の堺追放は2月13日、切腹したのが2月28日)

 

(※平成29年5月20日追記)

伊藤真昭『京都の寺社と豊臣政権』(法藏館、2003年)(p154)によりますと、石田三成京都所司代になったのは、文禄4年8月~慶長4年閏3月だということです。やはり、天正19年の頃は石田三成は京都奉行・京都所司代ではありません。)

 

 そもそも一次史料に石田三成千利休の対立をうかがわせるものは何も存在しません。むしろ、親密な仲である記録はあります。

 

「利休百会(回)記」という千利休の晩年の茶会記があります。天正18年(1590)8月17日から翌年閏1月24日まで、約百会の利休の茶会がおさめられていています。

 白川亨氏によると、「『利休百回記』の記録は、正確には九十七、八回であるが、その中には奥州検地から帰国した三成と佐竹義宣天正十八年十一月十二日の朝会に招いており、十二月十九日の朝会には三成の兄・石田杢守正澄と木下半介吉隆を招き、さらに利休が堺に追放される直前の天正十九年閏正月十五日には、戸田民部少輔(勝隆)と熊谷半次(半次郎=熊谷内蔵允直盛)を招いている。

『利休百回記』の解題では「熊谷半次を熊谷半吉では?」としているが、熊谷半吉ではなく熊谷半次郎(熊谷内蔵允直盛)である。

 すなわち千利休は「惜別の茶会」に、三成兄弟のうち三人までを招いていたのである。熊谷内蔵允直盛は三成の妹婿である。

 また豊臣秀長(筆者注:前回のエントリーでも指摘しましたが、秀長は利休の庇護者であり、秀吉が利休を切腹に追い込んだのは秀長が病死して、秀長に遠慮する必要がなくなったため、と見られています)と三成は、決して対立する間柄ではない。秀長は三成の仲人親であり、三成の舅・宇多頼忠(尾藤久右衛門=尾藤下野守)は藤堂高虎と同じく豊臣秀長重臣の一人であった。

 特に石田三成は、千利休の娘婿・万代屋宗安とは親しい間柄であり、関ヶ原合戦の直前に大垣城の三成に「陣中見舞い」に訪れている。そのとき三成は「唐来肩付(茶入)」を呈している。」(*3)とあります。

 

(ただし、川口素生氏によると「このうち、宗安は利休の娘婿で、茶の湯の上での弟子にあたります。『武辺雑談』には関ヶ原の戦いの直前、三成が宗安に名高い茶道具を預けたという逸話がしるされています。

 ただし、通説によると宗安は、文録三年(一五九四)に病没しています。三成が茶道具を預けたのは宗安ではなく、宗安の息子に当たる万代屋宗貫ということなのでしょうか。」(*4)とされています。)

 

 また、川口素生氏の上記著作によりますと、「さらに、ある土地の件で利休が三成の世話になっていたことが、年号欠十月二十日の三成宛ての利休の書状によって明らかにされました。従って、利休と三成が対立していたとは思えず、利休が三成に蹴落とされたという点も確認できません。」(*5)とあります。

 

 ちなみに、吉田神社吉田兼見の日記『兼見卿記』には、利休の生母と娘が石田三成に囚われて「蛇責め」の.拷問を受けて死んだという「噂」が記されていますが、そもそも利休の生母は天正十七年以前に没しており、また利休の娘がそのように殺されたという史料・書状・記録は、この「噂」を記した日記以外一切存在しません。「従って、「蛇責め」云々というのは、全く根拠のないデマ」(*6)といってよいでしょう。

 

 結論を言いますと、三成(及びその兄弟・義兄弟)は利休とは親密な仲であり、利休を追い落とすような策謀を考えることがそもそも考えられず、また時間的・物理的にもそのような策謀を行うことは無理だということです。

 

(令和2年8月4日追記)

天正18(1591)年12月下旬から天正19年(1591)年2月28日の千利休切腹までの流れを時系列的に参考に記します。

 

天正18(1590)年12月26日 石田三成、大崎・葛西一揆(十月に発生)を受けて奥羽再下向。

天正19(1591)年1月10日 三成、相馬に到着

1月19日 伊達政宗に上洛命令書到着

1月22日 豊臣秀長病死

1月30日  政宗、米沢をたち京都へ向かう

1月30日? 三成、黒川に到着

閏1月4日  佐竹義宣石田三成書状より、三成は常陸の国にいたようである。

閏1月12日 三成、武蔵岩槻に到着

閏1月27日 政宗、清須で秀吉に閲して、そのまま上京

2月4日 政宗上京

2月9日 政宗、秀吉の聴取を受ける

2月12日 政宗、侍従に任じられて、従四位に任じられる

2月13日 秀吉は、千利休に堺屋敷での閉門を命じる

2月15日 『時慶記』に記載あり、2月中旬までには三成は帰京していたようである

2月25日 京都で利休の木像が磔にされる

2月28日 千利休切腹

(参考文献)

 田中仙堂『千利休』宮帯出版社、.2019年

 藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成【第2版】』思文閣出版、2017年

 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

 注

(*1)桑田忠親 2011年、p125

(*2)中野等 2011年、p299

(*3)白川亨 2009年、p214~215

(*4)川口素生 2009年、p245~246

(*5)川口素生 2009年、p246

(*6)川口素生 2009年、p254~256

 

 参考文献

桑田忠親著、小和田哲男監修『千利休』宮帯出版社、2011年(初版 中公新書、1981年)

川口素生『利休101の謎 知られざる生い立ちから切腹の真相まで』PHP文庫、2009年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』、思文閣、2011年所収)

「嫌なら見るな!」?

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 大河ドラマ真田丸』の感想も37話で終了し(個人的にはこれが最終回ですね)、38話以降は視聴終了ですが、ブログを見返してみると13話から毎回感想を書いており、なんというか自分の中では結構期待していた作品だったのだなあ、と今更ながらに思います。元々真田物語、真田昌幸・信幸(信之)・信繁(幸村)親子が大好きですし、今年はNHKがそれを大河ドラマでやるということで、いささか期待しすぎたのだなあ、と思いました。

 

 これまで、大河ドラマ真田丸』の批判をしてきましたが、そういった批判に対して「嫌なら見るな!」というコメントをよくいただきました。

 

 うーん、小説・漫画・舞台・映画・ゲームのような、「わざわざ金を払って見る・読む」ジャンルなら確かに、このコメントは基本的には妥当だと思うのですよ。なぜに、頼まれもせんのに、わざわざ金を払ってまで嫌なものを見なきゃいけんのだ、とは当然思いますし、そういう方は奇特な方だと私も思います。(うっかり他人の宣伝に引き摺られて、たまたま読む・見ちゃう場合もありますが。)

 

 しかし、NHKに関しては、既に我々視聴者は受信料という形で視聴料をほぼ強制的に徴収されている訳です。だから、あらかじめ受信料を払っている我々がNHKのドラマの出来が酷ければ文句を言っても当然かと思います。

 

 また、「わざわざ金を払って見」て、その上で文句を言うケースだって当然あるわけです。たとえば長年応援している野球とかサッカーのチームに新しい監督が就任して、滅茶苦茶な采配をしている場合とかです。こうした監督の采配を批判している時に「嫌なら見るな!」というのはやはり違う訳ですね。そのチームのファンだからこそ、こうした苦言が出てくるのです。

 

 こうした野球やサッカーのチームのファンに当てはめるならば、私は『大河ドラマ』や『真田物語』の長年のファンなのであって、別に「脚本家・三谷幸喜」のファンではありません。その脚本(采配)がおかしければ、当然批判の対象になる。これを「嫌なら見るな!」というのは、皆が三谷ファンで「三谷ドラマ」が見たくてこの番組を見ているはずだ、という勘違いでしょう。

 

 まあ、ともかく見るのはやめてしまったので、今となってはどうでもいいですが・・・・・・。

 

☆参考エントリー↓

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 ※上記↑は、34話までの考察で、36・37話の流れを見ると、三谷氏の本来のねらいがあまりにも悪趣味過ぎるので、NHKスタッフから軌道修正が入ったのかもしれません(省略激し過ぎ)。このため、もう三谷氏はやる気がなくなっていて、だからこんな雑な流れになっているのではないかとも思います。

石田三成と大谷吉継の友誼について

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1.『宗湛日記』の記載にある三成と吉継の友誼 

 天正十五(1587)年の九州攻めの折、吉継は秀吉に諫言を呈して、勘気に触れています。その時の描写が『宗湛日記』にありますので、以下に引用します。(『宗湛日記』とは、博多の豪商であり茶人としても有名な神屋宗湛の書いた日記であり、宗湛と三成は交友が深く、後に共に協力して博多の復興のために尽力する仲でした。)

 

※ 参考エントリー↓

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 「同六月

一、大谷刑部少輔(吉継)トノハ、ソノ前、上様(秀吉)御機嫌悪シキニ依テ、香椎ノ村ニ御隠レ候を、石治少(筆者注:石田三成)、我(宗湛)ヲ御頼リ候ニヨリ、船ニテ香椎ヨリメイノハマ(姪浜)ニ送申テ、御宿ヲハ興徳寺ニ置申也、サソラヘバ、大望ニ依リ、道具ヲメイノ浜ニ持参仕テ、刑少輔(大谷吉継)二御目懸ケ候也。」

 

 すなわち大谷吉継が秀吉の勘気に触れ、成敗寸前に逃れて香椎村(福岡市香椎町)に隠れていた。そのとき三成から神屋宗湛が頼まれ、船で姪ノ浜(福岡市姪浜町)まで移動させ興徳寺に匿った。

 さらに大谷吉継の強っての希望により、神屋宗湛が所持する名物(数の台と博多文琳)を持参し、お目に懸けたという意味である。」(*1)

 

 ちなみにこの時期、吉継が秀吉の勘気に触れた理由について、白川亨氏は4月の島津との日向根白坂の戦いの際に、消極的な戦いをした尾藤知宣を秀吉が怒り改易・追放処分にしたのを、吉継が諫めようとしてかえって秀吉の勘気を被ったのではないかとしています。(*2)

 

 尾藤知宣は、三成の正室の父、尾藤(宇多)頼忠の兄であり、三成の縁戚です。白川亨氏は大谷吉継としても盟友・三成の苦衷を見るに忍びなく、秀吉の諫言を呈したものであろう。」(*3)とします。

 

 一方、中井俊一郎氏は秀吉の勘気の理由として「吉継の何が秀吉の機嫌を損ねたのかは想像するしかないが、九州攻め・博多復興が進んでいる最中であるので、それに関係したことであろうということは察せられる。

あるいは吉継は、秀吉の朝鮮出兵構想を批判したのかもしれない。」(*4)としています。どの見解が正しいかは、まだ分からないようです。

 

2.三成と吉継の縁戚関係 

 黒田基樹氏の『「豊臣大名」真田一族 ―真説 関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年によりますと、大谷吉継の妹は石川光吉(貞清)の妻であり、さらに光吉の弟一宗の妻は、宇多頼忠の娘、すなわち石田三成の妻の妹になります。こうした形で石川氏・宇多氏を通じて大谷家と石田家は縁戚関係となっています。

 また、大谷吉継の娘(竹林院)は真田信繁正室であり、また信繫の妹は石田三成の父正継の養子(三成の舅宇多頼忠の実子(あるいは頼忠の兄知宣の実子ともいわれます))頼次に嫁いでいます。(*5)

 このように、石田三成大谷吉継は石川氏・宇多氏・真田氏を通じて二重の縁戚関係にあったのです。

 

3.三成と吉継が共に行動した動き

 三成と吉継が共に行動した動きについて年表風に見ていきます。

 

天正十一(1583)年四月 賤ヶ岳の戦い 吉継25歳、三成24歳

「ところが『一柳家記』によると賤ヶ岳の戦いにおいて「其時之先懸衆ハ加藤虎之助、大谷桂松(吉継)石田左吉(三成)、片桐助作、平野権平、奥村半平、福島市松、同与吉郎、大島茂兵衛、一柳次郎兵衛、同四郎右衛門、稲葉清六以上拾四人、壱万五千之敵ニ可馳向所存無類之儀」とある。吉継は賤ヶ岳七本のなかには入っていないが、三成とともにすばらしい働きをしたことがわかる。吉継二十五歳であった。」(*6)とあります。

(ただし、この記述は『一柳家記』にしかないため、本当に三成と吉継が賤ヶ岳の戦いで大活躍したのか自体は不明ですが、賤ヶ岳の戦いの時に先懸衆として三成と吉継が共に戦ったことは分かります。)

 

天正十三(1585)年九月 秀吉の有馬湯治 吉継27歳、三成26歳

「秀吉の有馬湯治に石田三成らとともに随行して、その途次石山本願寺に立ち寄った記録があり(『宇野主水日記』/石山本願寺坊官宇野主水の日記/同月十四日条)」(*7)ます。

 

天正一四(1586)年6月 三成、堺奉行となる。 吉継28歳、三成27歳

「三成・吉継コンビでもう一つ注目されるのは、天正十四年(一五八六)に三成が堺奉行となったとき、吉継がその補佐役となっている点である。(中略)

 そして、その三成の補佐役として、実際に財務・町衆対策を担当したのが吉継だったのである。」(*8)

 

天正一五(1587)年3月1日 秀吉は島津氏を討つため大坂を発向。 

 吉継29歳、三成28歳

 三成、吉継もこれに従う。小瀬甫庵の著した『甫庵太閤記』によると、「兵糧米馬之飼料下行あるべき奉行」として、小西隆佐・建部寿徳・吉田清右衛門尉・宮木長次の四人の名をあげ、「御扶持方渡し奉行」として石田三成大谷吉継長束正家の三人の名をあげている。

省略すれば、前者が下行奉行、後者が扶持奉行ということになるが、併せて兵站奉行としてとらえている。」(*9)

 

天正一五(1587)年3月18日  秀吉が島津征伐へ向かう途中、厳島神社に参拝。

 

 参拝に三成・吉継も同行。この時に境内の水精寺で和歌の会が催された。この時に秀吉(「松」が秀吉の雅号)、三成、吉継が詠んだ句。

「 ききしより詠めにあかぬいつくしま

      見せばやと思ふ雲のうへびと

              松

  春ごとのころしもたえぬ山ざくら

     よもぎがしまのここちこそすれ

             三 成

  都人(みやこびと)にながめられつつしま山の

            花のいろ香も名こそたかけれ

                   吉 継

 と詠んだ(『厳島図会』巻の三)。」(*10)

 

天正一五(1587)年4月23日  

 三成は「大谷吉継安国寺恵瓊連署状を発して、博多町人の還住を勧める(「原文書」)」。(*11)

 

天正一五(1587)年6月

 1.のとおり吉継が秀吉の勘気を被るエピソードがあります。

 

天正一八(1590)年3月1日~ 吉継32歳、三成31歳

 秀吉の北条征伐。三成・吉継もこれに従い出兵します。吉継は三成と共に館林城忍城を攻略したとされます(*12)が、当時の史料に記載はないようです。

「その後三成は浅野長吉・大谷吉継らと奥羽仕置きを命ぜられ」(*13)ます。

 

天正一九(1591)年 吉継33歳、三成32歳

 天正一八年十月からはじまる九戸政実の乱に対する南部信直の援軍要請に対して、「秀吉は豊臣秀次を総大将に蒲生氏郷浅野長政石田三成井伊直政上杉景勝・吉継ら六万余の大軍を応酬九戸城攻略に送った。(奥州再仕置)。吉継は上杉景勝の軍監として、出羽口から胆沢(岩手県胆沢郡)・和賀(和賀郡)へ進撃した。」(*14)

 

天正二十・文禄元(1592)年2月20日~ 吉継34歳、三成33歳

 三成は「「唐入り」に従うため大谷吉継ともに京を出陣(『言経』)。途次、3月4日付で大谷吉継増田長盛連署で過書の発給を行っており(「五十嵐文書」)、肥前名護屋への下向は単なる行軍ではなく、侵攻体制を構築しながらのものであったようである。すなわち、3月13日付で発給される「陣立書」において三成は大谷吉継・岡本宗憲・牧村俊貞とともに名護屋在住の船奉行に任じられている。(中略)秀吉の名護屋入城は4月25日であるが、大谷吉継とともに早速同日付の秀吉朱印状に取次として登場(『黒田』)。5月5日・6日と島津家の「御日記」に登場し、名護屋在陣が確認される(薩藩旧記)。その後も大谷吉継増田長盛長束正家らとともに秀吉の直状に取次として名がみえており、名護屋での在陣を継続していた。

 渡海延期を決定した秀吉に代わり、6月6日朝名護屋から出船(『薩藩旧記』)。7月16日大谷吉継増田長盛とともに漢城着(「西征日記」同日条に石田治部少輔・増田右衛門尉・大谷刑部少輔、三人入洛)とある。以後基本的に漢城にあって、在朝鮮の諸将に秀吉の軍令を伝えていく。」(*15)

 

☆文録二(1593)年 吉継35歳、三成34歳

漢城で越年。在漢城は4月中旬まで継続。謝用梓・徐一貫ら偽りの明使節を受け入れることで、日本勢は漢城からの撤退を開始。三成も漢城を離れるが、増田長盛大谷吉継小西行長ととも日本に向かう明使に同行する。(中略)さらに、一行は5月13日に名護屋に到着(「大和田」)。5月24日石田三成増田長盛大谷吉継名護屋を発って朝鮮に戻る(「大和田」)。(中略)まもなく帰還する明使を迎えるため再び名護屋に戻っている。「今日刑少・治少・摂津頭彼唐人召しつれ、釜山海で被罷候」とあるように、7月18日明使節をともない、大谷吉継小西行長とともに名護屋を発ち、釜山へ発向(『薩藩旧記』)。(中略)

 その後、講和交渉に伴う撤兵計画に従って、三成も日本へ帰還。(中略)閏9月には大坂へ到着しているようであり、閏9月13日付の木下半介吉隆書状に「浅弾・増右・石治・大形少も一両日中可参着候」とみえる(『駒井』)。」(*16)

 

*朝鮮からの帰国後、大谷吉継の病状は悪化し、しばらく表舞台から姿を消します。(ただし、吉継は慶長4(1599)年には宇喜多騒動の調停役や、慶長5(1600)年の上杉征伐に先立つ上杉家との調停役等を行っていますので、慶長4(1599)年以降は病が小康状態にあったのかもしれません。)

 

☆慶長五(1600)年 吉継42歳、三成41歳

 7月2日吉継は上薄着征伐に参陣するため、美濃垂井に着陣し、佐和山城に使者を送って三成の子重家の同陣を求めたところ、来訪を乞われ佐和山城に向かい、佐和山三成から家康打倒の謀議を打ち明けられたとされます。その後、七月十一日、吉継は佐和山城で三成とともに家康打倒の兵を挙げることに決しました。(*17)

 これより、後に「天下分け目の戦い」とされる戦いが始まることになります。

 

関連エントリー 

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  注

(*1)白川亨 2009年、p60~61

(*2)白川亨 2009年、p61

(*3)白川亨 2009年、p61

(*4)中井俊一郎 2016年、p44

(*5)黒田基樹 2016年、p56~59

(*6)花ヶ前盛明 2000年、p17

(*7)外岡慎一郎 2012年、p31~32

(*8)小和田哲男 2000年、p128~129

(*9)小和田哲男 2000年、p126~127

(*10)花ヶ前盛明 2000年、p18

(*11)中野等 2011年、p296

(*12)花ヶ前盛明 2000年、p24

(*13)中野等 2011年、p299

(*14)花ヶ前盛明 2000年、p30

(*15)中野等 2011年、p300

(*16)中野等 2011年、p301

(*17)花ヶ前盛明 2000年、p39~41

 

 参考文献

小和田哲男「大谷刑部と石田三成」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

黒田基樹『「豊臣大名」真田一族 ―真説 関ヶ原合戦への道』洋泉社、2016年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

外岡慎一郎「徹底検証 大谷吉継の実像」(『歴史読本』編集部編『炎の仁将 大谷吉継のすべて』新人物往来社、2012年所収)

中井俊一郎「天下の貨物の七割は浪華に・・・堺の変革、博多の復興で新たな都市空間へ」(『月刊歴史街道 平成28年7月号』、PHP研究所、2016年所収)

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年所収)

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

大河ドラマ『真田丸』 第37話 「信之」 感想

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前回のエントリー

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 今回は、関ヶ原の戦いの後日譚及び昌幸・信繁が九度山に配流されるまでのエピソードです。いくつか感想を。(といっても、別に今回のあらすじをなぞるようなものではありませんので、すいません。)

 

1.まず、清正が三成の妻を匿ったエピソードはもちろん三谷フィクションですが、全く意味不明です。何か作者には作者なりの意図があるんでしょうけど、はてしなくどうでもよいです。

 

2.三成の最期のシーンはシンプルで良かったです。特に干し柿エピソードなどやられたら最悪(おそらく以前の回の細川忠興干し柿エピソードと繋げるでしょうから)でしたので無かったのは良かったです。関ヶ原の戦いもそうですが、省略すればするほど、ほっとするというか、もう脚本家は余計な事書かなくていいよ、という心境に達してしまいました。

※参考エントリー↓(三谷版ストーリーでは柿を干し柿にしています。)

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3.本多忠勝を演じる藤岡弘、さんの演技は良かったです。

 

 以上です。正直、もはや各回各回の感想を言っても仕方なく、前回の第二次上田城合戦のショボさと、関ヶ原の戦いの省略が、この『真田丸』というドラマの全てといってよいかと思います。「真田家視点」だから関ヶ原の戦いは省略する、というのは一見もっともそうですが、このドラマだけには当てはまりません。なぜなら、このドラマは第2部「大坂編」から信繫をカメラとして豊臣家メインのストーリーを延々と続けていたからです。

 

 第2部以降の主人公は信繫に見えて実際には、彼はこのドラマのカメラマンやレポーターの役割に過ぎませんでした。そして、信繫カメラを通じてメインに映し出していたのは豊臣秀吉であり、石田三成等豊臣家の人々だったのでした。

 

 これだけ、豊臣秀吉石田三成等をメインに描いて(しかもメインで描きながら全く好意的ではなく、三成に至ってはフィクションを混ぜ込んでまで貶めようとして)、最後は「真田家視点」だから関ヶ原の戦いを省略するというのは、自分が作ったドラマの構成を自ら崩壊させているのに過ぎませんが、個人的にはこのドラマの構成の内容自体が最悪なもの(なぜ「最悪」なのかは過去の感想及び以下のエントリーで書きました)↓

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ですので、最悪のドラマ構成を脚本家が自ら崩壊させてご破算にしようと、最早どうでもよいですね。

 

「愛の反対は無関心」といいます。もうこの『真田丸』というドラマも、今後の『大河ドラマ』の方向性についても関心はなくなりましたので、今回で視聴終了といたしたいと思います。(逆に言えば、これまでは『真田丸』や『大河ドラマ』に対して、もしかしたら、これからまた挽回して良くなるのではないかと、かすかな期待を抱き続けていたんだなあ、と今更ながらに思いました。)

斎藤一の写真見つかる

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 新選組の三番隊組長、「牙突」の(ちがう)斎藤一さんの写真が見つかったそうです。53歳当時の写真ということですが、「若い頃は結構イケメンだったのでは・・・・・」という感じの写真です。

 

www.huffingtonpost.jp

 

 それより前の、斎藤一さんとされる肖像画はスポックでしたからね。

matome.naver.jp

 

 こうした写真が出てきて非常に嬉しいです。

大河ドラマ 『真田丸』 第36話 「勝負」 感想

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前回のエントリー

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今回の感想ですが、良かった点と悪かった点がありますので、書きます。

 

 まず、良かった点。

 

1.信幸の戸石城攻め(守る信繫)の「リアル戦芝居」の場面は非常に良かったです。特にその前段の内通者役を任される矢沢三十郎頼幸役をされた迫田孝也さんの熱演は非常に良かったでした。思わず頼幸の心情に感情移入してしまい、もらい泣きをしてしまいました。

 

 今回は第一部の戦芝居を伏線としていますが、この回は徳川の監視役もいますので、芝居といっても実際に鉄砲を撃ち合い、斬り合うという一歩間違えれば死者がでる「リアル戦芝居」です。このドラマは緊迫感があり、非常に良い場面となっています。

 

2.昌幸が久々に策士となっています。やはり、こういう昌幸をみたいのです。(結局不発に終わってしまいますが。)

 

 悪かった点ですが、以下の点です。

1.稲がいきなり変心して、沼田城で昌幸らを阻みます。いや、これは不自然なんで、やはり沼田城に稲は前からいて、夫の知らせにより、昌幸らを阻んだ、でいいんじゃないでしょうか?細かいことだと言われそうですが、これが通説なんですよ。細かく歴史改竄しているのは三谷氏の方なんです。これじゃ、稲姫が昌幸を騙したような形じゃないですか。

 稲が昌幸の入城を拒否する一方、近くの寺で孫と昌幸を会わせる気遣いを見せるという(私的には結構好きな)エピソードもこれで消えました。

 あのですね、細かいかもしれませんが、別に三谷氏がこういったエピソードを多分知らない訳じゃなくて「あえて」「意図的に」こういったエピソードにしていることが、なんなのかな、と思うのです。

(前回エントリーの関連記述・追記を再掲します。参考に願います。↓)

 

 稲が大坂にいて、この混乱時期に沼田に脱出したのかは不明です。(というか、その説ははじめて聞きました。)①内府違いの条々の家康弾劾のひとつに「家康が勝手に大名の家族の人質を返した」とあります。徳川の養女である稲姫がこの「家康が勝手に大名の家族の人質を返した」の中に入っていて、この時期より前に、沼田に返された可能性は大いにありえます。②あるいは、そのまま大坂に人質にいて、沼田城稲姫が待ち構え、昌幸が沼田城に入ろうとするのを邪魔するのは虚構とする説もあります。

 

 しかし、やはり沼田城稲姫エピソードはドラマ的に絵になるエピソードですので、ドラマ的には①の説の方がよいでしょう。

 

(平成28年10月30日追記)

 

 黒田基樹『シリーズ・実像迫る001 真田信繁』戎光祥出版、2016年 47ページには、「ここで良く取り上げられるのが、信幸の妻小松殿が、信幸留守中のため、昌幸らの入城を阻んだという逸話である。

 

 しかし、これも事実とは考えられない。というのは、小松殿はそれまで大坂の信幸屋敷にあって、このときは大坂方に人質にとられており、沼田城にはいなかったからである。大坂方は、七月十七日からただちにそれぞれの大坂屋敷にいた諸大名の妻子を人質として収容していっていた。そのときに昌幸の妻山之手殿(信幸・信繁母)と信繫の妻竹林院殿も大坂方に拘束されたものの、姻戚関係をもとに大谷吉継の屋敷に保護されており、信幸の妻小松殿も大坂方に確保されたことが知られれている(「真田家文書」信一八・四三四)。」

 

 とあります。やはり歴史研究では②の説の方が一般的なようですね。これに対して「①の説の方が正しい」とあえて反論するとしたら「真田家文書」には信幸の「妻」としか書いてなかったと思われますので、「ここでの「妻」とは清恩院(『真田丸』での「おこう」)のことだ!」とかぐらいですけど、妻というと普通は正室を指すのでやはり小松殿であるというのが自然ですので、やはり残念ですが、小松殿が信幸留守中のため、昌幸らの入城を阻んだエピソードはおそらくフィクションということになります。

 

 ただ、ドラマですのでやはりこのシーンがないと物足りませんので、ドラマでやること自体は良いとは思います。)

 

 

 

2.第二次上田合戦が雑ですね。これは、三谷氏の責任ではなく、要するにNHKに「予算がない」って事なんだと思います。いや、私も第二次上田合戦が数日しかなく、秀忠は家康の書状で関ヶ原に向かっていますので、さして大戦はなかったと思うんですけど、例えば時代考証担当の平山優氏の『真田三代』php新書、2011年には「徳川軍全軍が神川を渡河したのを確認した昌幸は、神川の塞ぎ止めを一気に切り落とさせ、さらに城郭に攻め寄せた敵に反撃を命じ、伏兵に蜂起を指示した。このため徳川軍は前方からは城方の弓矢、鉄砲と軍勢に、城門側面の林から出現した真田兵に側面を衝かれ、大混乱に陥った。さらに、虚空蔵山に伏せていた真田兵は、染屋原の秀忠本陣に襲いかかった。このため徳川軍の指揮命令系統は寸断され、周章狼狽した徳川方は小諸目指して算を乱して敗走を始めた。ところが神川は増水しており、真田軍の追撃を怖れて恐慌状態に陥っていた徳川軍の将兵達は多数溺死したという。」

 とあります。

 

 いや、もしかして2011年の時代考証担当の著作を覆す新史料があったのかもしれませんし、それならいいんですが(私は聞いたことがないのですが、素人なんで見逃しはあってもご容赦ください)多分ないと思うんですね。(あったら、それこそ別の時代考証担当の方が大宣伝しそう。)単純に、真田昌幸最大の最後の見せ場である第二次上田合戦をヘチョくするために、このような展開にしたとしか思えません。

 

 しかし、これを三谷氏の責任にするのは酷でしょう。上掲の資料を再現すると、ものすごい予算がかかるのは分かります。これから、大坂冬の陣、夏の陣、スルーするわけにはいかない、金のかかるシーンがあるのは分かっています。まあ、スルーするのはある意味仕方ありませんが、ここまで昌幸が貶められてきたのだから(予算とかはおいといて)「最後ぐらい見せ場を作ってくれよ」と思ってしまいます。

 

3.これが最大。関ヶ原合戦のスルー。これも三谷氏の責任では多分ないでしょう。NHKも予算がないんでしょう。しかし、悪いけど「NHKも落ちぶれたもんだな・・・・・・」としか言いようがないです。

 私も悪いです。「もう関ヶ原の戦いなんてスルーしろ!」と過去のエントリー(コメント欄)で書いています。これは、なんというか、NHKにはっぱを掛ける意味なんであって、まさかマジで本当にこんな重要なストーリーをスルーするとは思いませんでした。

 

 いや、もうこれが全てです。悪いけど、この時代の大河ドラマとして、関ヶ原の戦いが描けないなら、やはりおしまいです。責任としては、三谷氏よりNHKの責任者(プロデューサー?)の方が重いでしょうね。「斬新!」とかいってフォローしちゃ駄目ですよ。資金がないのが当然なインディペンデント映画とかとは違うんですから。

 

 でも、「金がない」でおしまいなんですかね?受信料って値下げになったことありましたっけ? 

 よく分からんのですが、今回の大河ドラマって、過去の歴代大河ドラマと比べて、そんなに予算がひっ迫しているんでしょうか?受信料は変わらないのに?(むしろBSとかで上がっているのに?)もしかして過去の大河ドラマを想い出の中で美化しているだけなのかもしれませんが、正直この大河ドラマは予算的に「みみっちい」と思います。(これは、脚本家の三谷氏の評価とは違います。)

「(三谷幸喜のありふれた生活:815)石田三成の「ミニ関ケ原」についての考察」の考察

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関連エントリー

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 大河ドラマ真田丸』脚本の三谷氏のコラムが朝日新聞(ウェブ版)に載っています。 

三谷幸喜のありふれた生活:815)石田三成の「ミニ関ケ原」についての考察↓

http://www.asahi.com/articles/DA3S12538866.html

(ログインしないと全文が読めません。)

 

  これについての感想は、前回の孫陳さんへのコメントの返答の通りです。

(下記参照↓)

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 三谷さんは、なぜ「捏造」と自分が批判されているか自体まったく理解できていません。ちょっとこれは溜息しかでません。

 なぜ、「捏造」だと批判されているのか?それは三谷氏のこの数回で書いた骨格のストーリーそのものがフィクション・捏造な訳で、結局無理があるから、オリジナルのフィクションストーリーをさらに創作・追加して、つじつまを合わせるよりほかなく、三谷氏は逆に自分の脚本で、自分の採用した史料が信用ならんものだと、暴露してしまったにすぎない、ということだからです。

 

 ただ、この三谷氏のコラムの以下の点は私も首肯できます。

①知られざるエピソードを、史実を基に、独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか、想像しながら物語を組み立てる作業はとても楽しかった。まさに大河ドラマの脚本を書く醍醐味(だいごみ)がここにある。」(番号、下線は筆者。)

 

 歴史ドラマの脚本家のみならず、市井の素人歴史考察家も「①知られざるエピソードを、史実を基に、独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び。」が理由で、歴史考察しているのです。(ドラマ化はさすがに難しいですが・・・・・)

 

 では、市井の素人歴史考察家も、上記の「②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか」について、考察してみましょう。

 

 まず、前提として、以下にこの当時の前田派と徳川派の対立について、一次史料に基づいて時系列に並べたエントリーをご覧ください。↓

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 以下、抜粋します。

 

 ここで、1月19日、家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①」とあり、すでに1月19日の詰問事件の翌日から和解が目指されていた、とあります。

 

 そして、その後「家康暗殺計画事件」など影も形もなく、両派は和解に向かって動き、2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされた(『毛利』)。(浅野長政)(p327)②」となるわけです。

 

 このため、一次史料には見えない、「家康暗殺計画事件」や三谷氏の述べる「ミニ関ヶ原の戦い」などそもそも存在しなかったと切り捨てるのも簡単です。三谷氏の述べる「②しかも、本当の関ケ原の戦いでは、三成の味方となる大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いているのだ。どうしてこんなことになったのか」というのも「そもそも、後世の江戸時代に作られた徳川よりの二次史料であり、信用するに値しない」と切って捨てるのも簡単でしょう。しかし、それでは面白くない。

 

 二次史料にも、部分的になんらかの史実があるのだ、と解釈することが、「独自の解釈も入れながらドラマ化する喜び」に繋がるのですね。

 

『当代記』に、石田三成による「家康暗殺計画」の「物言(うわさ話)」があったという記載があることは、以前のエントリーで述べました。そして、この「物言(うわさ話)」があり(というより、徳川サイドが自ら広めた)、諸将が徳川家康を守るため、家康の屋敷に集まり、そしてその中には「大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いて」いたとしましょう。「そもそも、後世の江戸時代に作られた徳川よりの二次史料であり、信用するに値しない」と切って捨てるのではなく、この中に、部分的になんらかの史実があると考察していくのです。

 

 しかし、その二次史料の記載も、一次史料の記述に整合性があるように考察しなければいけません。そうしないと、三谷氏の失敗例のようにフィクションにフィクションを重ねてつじつま合わせをして、かえって自説の信憑性を著しく下げるという惨状になってしまいます。

 

 江戸時代の二次史料と、当時の一次史料とのあいだに整合性のある解釈・考察がありうるか?

 

 ここで、現代の「徳川史観」に批判的な歴史考察家すらも、江戸時代の史料による「徳川史観」による刷り込みから逃れられていない、ということに思い当たります。

 その刷り込みとは「石田三成は、秀吉の死後、一貫して反徳川の急先鋒だった」という考えです。今回の考察にいたるまで、私でさえ、「石田三成は、秀吉の死後、一貫して反徳川の急先鋒だった」という見解に囚われていました。

 

 難しく考えることはなかったのです。一次史料に1月19日、家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①」とあり、そして2月9日に、石田三成は大坂屋敷で、

宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄)を招いて茶会を開きます。和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出して」いるのです。これは、三成が私婚違約事件の当事者である伊達政宗を招いて和解の足掛かりとするためです。

 なんのことはない、一次史料を信用して、三成を含む九人の衆は、詰問事件の翌日からすぐに和解に動いていたのだという史実を受け入れればよかっただけなのです。

 

 前のエントリーで書いた通り、二次史料を一部信用するならば、「石田三成による家康暗殺計画」の「物言(うわさ話)」というのは、警護の口実で諸将を集めるための徳川派の自作自演の狂言でしょう。そして、「石田三成による」というのは、江戸時代の二次史料では信用できません。なぜなら著者自身が、「関ヶ原の戦いの首謀者は石田三成であるから、当時から石田三成は家康を敵視していたのだろう」という思い込みのもと、書いているからです。すべては後付であり、しかも書いている本人すら自分が書いていることが後付の思い込みに過ぎないことに気が付いてないのです。実際の三成は、他の八人の衆と同じように両派の和解に動いていたのです。

 戦国時代の大名の行動様式が「和戦両様」だというのが理解できないと、今回の事件は理解できません。両派がにらみ合っていざ戦か、という状態になっている一方で、同時にすでに両派は和解に向かって動き始めていたのです。

 

 こうした、戦国武将の行動様式を知っていれば、「大谷刑部や真田昌幸が、なぜかこの時は徳川方に付いて」いたのか疑問は氷解します。この時の九人の衆の力の根源は「九人の衆が一致団結して、家康の暴走に対抗する」だったのです。だから、この九人の衆が和解を目指していたからといって、自ら家康の説得におもむくと、かえって徳川派に取り込まれてしまいかねず、一致団結の結束が崩れてしまいます。

 しかし、和解交渉する人間は必要です。そこで、和解のための交渉要員に使われたのが、息子真田信幸の嫁が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘)である真田昌幸五奉行に準ずる奉行であり、三成とも近いが五奉行そのものではない大谷吉継でした。彼らは徳川派との和解交渉要員として使われたということに過ぎません。こうした「和戦両様」の「和」のルートの人間は、いつも第三者から「敵の味方についているのでは?」と疑惑を持たれる危険性があったのです。

 

 秀吉から、徳川家康との公式な交流を阻まれた三成が、なんとか家康との交流ルートを構築したのが石田三成-真田信幸-本多忠勝徳川家康というルートだったということは、以下のエントリーで指摘しました。↓

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 大谷吉継は、その後も関ヶ原の戦いの直前まで徳川派として行動しているではないか、という指摘がありそうですが、そこまで知っているならば、七将襲撃事件による石田三成謹慎以後、三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)も、石田家も、一時期「豊臣公議大老徳川家康に屈服していたことは知っているでしょう。大谷吉継も他の奉行衆と足並みを揃えているに過ぎません。