「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第16章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(2)
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前回の続きです。(前回のエントリーは↓)
それでは、続きを見ていきます。
②「書状に拠らば
先度の「小田原の陣の頃」
【富田一白から政宗への書状】
「若し又御遅延に至りては一途之仁、御代官として指上せらる」
秀吉への平伏が遅れるなら強硬者(三成)を送るので覚悟せよ-と政宗は脅され」(『センゴク権兵衛㉒』)
前述したとおり、豊臣政権「内」における「中央集権派VS地方分権派」の派閥対立は存在しないことについて説明しました。(「中央政権(豊臣政権)」と「地方大名」との対立・利害調整は当然ありえます。)
上記の②の書状についても、豊臣政権内の「中央集権派VS地方分権派」の対立という誤った構図で読み解こうとすると、誤った理解をしてしまうことになります。
上記の書状については、豊臣政権の(あるいは戦国大名の一般的な)外交方法が「和戦両様」であることと、「和戦両様」の構えの交渉をする際に有効なブラックな交渉術として知られる「良い警官、悪い警官」交渉術について理解する必要があります。
「和戦両様」とは、敵勢力と外交する際に、交渉で平和的に解決する可能性も、全面的な戦争となる可能性も、両方の可能性がある事を計算に入れ、どちらでもよいように準備しておき、交渉に臨むことです。戦国大名だからといって、必ず敵対勢力と戦争することによって自勢力の目的を達成するわけではありません。かといって、交渉が成功しなければ結局戦争となる訳ですから、戦争への準備を交渉の間にも怠らずに進めていく事が必要な訳です。
こうして、戦国大名の外交交渉ルートには、「和」(平和交渉)のルートと「戦」(戦争準備)のルートの2つのルートが必然的に発生します。「和」のルートと「戦」のルートを同一人物が担当することはできませんので、この2つのルートは、それぞれ別の家臣が担当することになります。
この時、豊臣政権において、対伊達交渉の「和」のルートを行ったのが、富田一白らでした。当時、伊達家とも敵対していた反北条勢力(佐竹・芦名・宇都宮等)との同盟交渉を担っていた石田三成・増田長盛らはそのまま、対伊達の「戦」ルートを担うことになります。
「良い警官、悪い警官」とは、昔のドラマなどでよくあるパターンですが、警官が容疑者を自白に追い込む時などに使う手法で、まず「悪い警官」役が取り調べで容疑者に対して怒鳴りつけたり暴力をふるったりして散々ビビらせ、恐怖心を抱かせます。
その後におもむろに「仏の〇〇さん」という優しい刑事(「良い警官」)があらわれて、「悪い警官」をなだめ、容疑者を優しく扱い、同情するようなことを言って説得を始める。「良い警官」を味方と思い信頼した容疑者は泣きながら自白を始める、という「交渉術」です。(応用パターンは色々あります。)
しかし、この「良い警官」の手に相手が乗らず自白しなかった場合は、また「悪い警官」が出てきて容疑者を締め上げる訳ですね。
上記の書状における、豊臣家臣の対伊達家取次・富田一白も、伊達政宗を懐柔するのに、この「良い警官、悪い警官」メソッドを駆使した訳です。ここで、富田一白は、自分たちの交渉に応じれば伊達家の安全と領地は保証されると「良い警官」を演じて伊達を懐柔する一方、「このまま我ら『和』のルートの交渉に乗らないと、(石田三成ら)『戦』(悪い警官)の担当ルートの出番になるぞ、そうならないうちに、我らの交渉に乗っておけ」と脅している訳ですね。
上記で見た通り、富田一白らにしろ石田三成らにしろ、豊臣家中でそのような外交ルートを担う交渉役をあらかじめ秀吉に命じられて、それぞれの担当職務を仕事として行っているだけの話であり、彼ら秀吉家臣が、先に伊達政宗を個人的に敵視したり、親しく感じたりしている結果、そのような「和」や「戦」の交渉を勝手に行っている訳でもなんでもないということです。
③「「奥州叛乱」の頃にては
【政宗書状】
「石田治部少輔下向之由候間廿一日此方へ可相立候」
政宗は三成が来ると聞いて 急遽 一揆鎮圧を※六日早め 豊臣への忠誠を示している
※27日予定→21出立」(『センゴク権兵衛㉒』)
④「そして此度の「上洛」
【政宗書状】
「我等不図罷登二付而 治少輔(三成)も 御登ときこえ申候 但いかゝ(いかが)いかゝ」
我らの上洛につき 三成も上洛とはいかがなもの- と政宗は苦言を呈す」(『センゴク権兵衛㉒』)
しかし、現代でも同じかと思いますが、仕事や職務上で「敵対関係」になった人間に対して、人間は結果としてその後事情が変わったとしても、人間として個人的に敵意や警戒感を抱くものです。逆に、それが職務上・仕事上でやった事であったとしても、取り成してくれた人間に対しては感謝の意を抱き、信用するのが人情というものです。「仕事は仕事。個人は個人」と感情を切り分けられる人は(現代でも)ほとんどいません。
前述したように、小田原参陣前の伊達政宗に対して職務上「戦」のルートの担当を担い、政宗と「戦う」準備を進めてきた三成ですが、その後、伊達政宗が小田原に参陣し豊臣家に臣従することに決した以上、これ以上対伊達の戦争準備を仕事として進める必要もなく、政宗を敵視する行動をする必要もなくなりました。
前述した、その後の三成の伊達家への協力的な姿勢(「伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 」「伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り」)をみれば、三成が過去の経緯にとらわれて、個人的に過去の「敵意」を引き摺るような人物ではない事は明らかです。
しかし、このように仕事上の過去の経緯であったしても、その時に敵対的な業務を行えばその人物に対して敵対的感情を普通の人間は抱いてしまうものですし、その後事情が変わったとしても、過去の敵対感情を水に流してしまうような人間は実際には少ない訳です。三成は珍しい人物といってよいかと思われます。
このため政宗は、小田原参陣以後も「三成は相変わらず政宗に対して『敵意』を抱き続けている」と思い込んでおり、三成に対して警戒を解いていないことが③、④の政宗書状から分かるのです。ここで重要なのは、③、④の書状は、この時期の政宗が三成に対してどう思っていたのかについては伺い知る事ができる史料にはなりますが、当時の三成が政宗をどう思っていたかを示す史料にはならないということです。
「自分が思っている同じ事を、相手も思っているだろう」という「勘違い」というのは人間にはよくある思い込みですが、それはただの「勘違い」であり、事実ではありません。
政宗が秀吉に臣従する前に、三成が「対伊達」の「戦」のルートの担当をしていたことから始まる政宗の三成に対しての警戒感は、その後も容易に解消されるものではなく、三成が時間をかけて解消していく必要のあるものであったという事です。その後、三成の政宗に対する協力的な働きかけがあったことにより、慶長年間頃には両者は親密な関係を結んでいる訳です(「伊達政宗と石田三成について(1)」等参照)。
「取り成し」によって人望を集めた、三成の(意外な)「人たらし」としての才の側面が垣間見えるものといえるでしょう。
※ 参考エントリー
参考文献