古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ 『真田丸』 第29話 「異変」 感想

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※前回の感想です。↓

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 29話の感想を書きます。

 

 今回は、秀吉が認知症になったという展開でした。このドラマはフィクションですので、突っ込んでも仕方ありませんが、ネットで過去の回を見た時の感想を見ると、「従来のドラマのように、晩年の秀吉を『耄碌』したように描いていないから、このドラマは斬新」と評価する意見も多かったので、なんだよ、結局従来よく描かれた路線と今更同じ路線に戻るのかよ、という気分になってしまいます。

 

 今回のドラマの時系列は、秀次の死(文禄4(1595)年7月15日)の後、慶長伏見大地震(文禄5(1596)年閏7月13日)までですので、その間に秀吉の(病状的な)「耄碌」は始まったことになります。

 

 慶長伏見大地震以後も、明使節の来日(文禄5(1596)年9月)、慶長の役(慶長2(1597)年2月(陣立書)~)、死後の体制の指示(慶長3(1598)年5月)などいろいろ豊臣政権には重要なイベントがありますが、ここら辺は認知症の秀吉が指示したのでしょうか。(秀吉の死は、慶長3(1598)年8月18日。)そのような史料があるのでしょうか?(いや、ないでしょうし、三谷氏に聞くのも野暮というものです。)

 

 よく晩年の秀吉が「耄碌」したという俗書は確かにいろいろ見かけますが、それは千利休切腹天正19(1591)年2月)、唐入り(文禄の役(文禄元(1592)年3月)、秀次切腹(文禄4(1595)年7月)あたりまで遡って「耄碌」していたというのが従来の見方ですので、三谷氏の説はそれとは違います。

 

 筆者の考えでは、秀吉の意識は(むしろ残念ながらと言うべきか)その死の直前まで明晰だったのではないかと思われます。でないと、慶長の役を強行することもできなかったでしょうし、また、秀吉の明確な意思が反映された遺言体制はできないでしょう。

 

 この遺言体制(豊臣政権にとって秀吉死後に一番警戒すべき最大の外様大名徳川家康を最優遇する五大老体制)は、いわゆる五(四?)奉行の意思に、まっこうから反するものでしたので(五奉行のうち浅野長政は家康に近く、奉行衆の中ですら信用されていませんでした。)、彼らが「耄碌」した秀吉に代わってこのような体制を指示することはありえません。

 

 仮に、晩年に秀吉が比喩的な意味ではなく病状として「耄碌」していて、代わりに秀吉死後の豊臣政権体制の具体的な指示を奉行衆から出すことができていれば、家康が豊臣政権に参画する道を実質的に排除して、直臣の奉行衆が政権を仕切りやすい体制にしていたはずです。(家康は、外様大大名(家康自身)が豊臣政権に参画した事により豊臣政権が崩壊したことの反省を踏まえ、徳川幕府に対する外様大名の政権参画を排除しました。)

 

 ということで、その死の1~2ヶ月前くらいまで、秀吉は残念ながら明晰な頭脳を持っていて、その明確な指示によって豊臣政権は動いていたといえるでしょう。

大河ドラマ 『真田丸』 第28話 「受難」 感想

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※前回の感想です。↓

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 このところ私事で忙しく、『真田丸』の感想も追いついていません。第28話、第29話も録画でまとめて見ました。まず、28話の感想を書きます。

 

 今回は、秀次役の新納慎也さんの演技がよかったです。ただ、このブログは歴史考察ブログなので他の感想のようにドラマの感想を書いても仕方ありませんので、史実との異同について書こうかと思いましたが、結局は秀次切腹の真相についての考察の話になってしまいます。この事件の考察については長くなりますので、別のエントリーで書きたいと思います。

 

 前回の感想で、「このドラマの秀次切腹(ってネタバレ?)の顛末は、現在の最新説である矢部健太郎氏の説を反映したものではないかと思われます。」と書きましたが、三谷氏自身もコラムで言及していたように、やはり矢部健太郎氏の説をベースに書いたようです。しかし、矢部氏の説そのままかというと、そのままでもなく、史実のいろいろな部分が省略されています。この省略により、ドラマの筋としてはすっきりしましたが、まあ、やはり厳密には史実通りではない(歴史ドキュメンタリーではなくドラマなので、いろいろはしょる必要がありますし、その批判ではありません)ですね。

 

 じゃあ、実際どうだったのか?というのを書いていくと非常に長くなる訳です。秀次切腹の真相についての考察を書こう、書こうと思いつつ、なかなか書く暇がありませんが、豊臣政権の崩壊の重大な要因とされる事件ですので、後で改めて書きたいと思います。

※(平成28年10月30日)豊臣秀次切腹事件の真相について(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です。)のエントリーを書きましたので、よろしくお願いします。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第27話 「不信」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回の予告編まで見ると、おそらく、このドラマの秀次切腹(ってネタバレ?)の顛末は、現在の最新説である矢部健太郎氏の説を反映したものではないかと思われます。矢部氏の説については私も概ね(全てではありませんが)賛同しています。しかし、まさかNHKの大河ドラマで最新説が使われるとは思いませんでした。矢部説は賛否両論あり、必ずしも定説ではないからです。普通、大河ドラマではあまりこうした(賛否両論ある)新説は使われません。(これは、なかなか挑戦的な試みで、個人的にはこういう展開は好きです。)

 

 矢部氏の説については、次回(次回書かなければいけないことが多過ぎ)に紹介したいと思います。(すいません、まだ書けてません・・・・・・。)

 

※次回の感想です。↓

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※矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想等です。↓

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千利休切腹の謎(?)

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 天正19(1591)年2月28日、秀吉の命令により千利休切腹しました。 

 タイトルを「千利休切腹の謎(?)」としましたが、千利休切腹に謎なんてありません。千利休切腹を命じたのは秀吉であることに間違いはなく、切腹を命じた理由も史料上はっきりしています。これを後世の人達の「願望」や「妄想」がそれを謎にしてしまっただけです。

 

 ある人は、「こんな程度の理由で秀吉が切腹を命じるはずがない」と言い、ある人は「利休が権力闘争に負けた結果だった」と言います。また、ある人は「秀吉との芸術観の相剋」と言い、最近の珍説では「利休は北条に鉛を密売していた」なんてのも飛び出しました。悪いのですが、それらのすべては「利休をもっと大きな偉大な存在としたい」「なんか陰謀とか謎とかあった方がドラマとして面白い」「何が何でも歴史を〇〇派と〇〇派の権力闘争劇にしたい」といった「願望」と「妄想」がゴールにあって、その結論から「説」を自分の説に組み立ててしまっています。(ただ、「秀吉との芸術観の相剋」というのは広い意味ではその通りです。これについては後で述べます。)

 

 こういうのは、歴史研究者としては厳にやってはいけないことですが、千利休切腹については、研究者でもこの罠に陥ってしまう人がいます。こうした「願望」と「妄想」を呼び込むだけ、千利休切腹は「面白くしがいのある」テーマなのでしょう。

 

 現在ある史料だけで、利休の罪状ははっきりしています。

 

 桑田忠親氏の『千利休』宮帯出版社には、以下のように書かれています。

「それならば、秀吉が利休を処罰するに至ったほんとうの原因は何か。大体、次の二件の罪状が原因となったのである。その一件は、やはり、大徳寺山門の金毛閣に利休の雪見姿の木造を安置させたこと、もう一件は、茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと、以上の二件である。」(*1)これは、桑田忠親氏に限らず、表向きの理由として一般的な見解です。

 

 上記については同時代の日記や書状に記載があります。前者については、『晴豊公記』や『伊達家文書』所収の伊達家家臣鈴木新兵衛書状に記載がありますし、後者についても『晴豊公記』『多聞院日記』に記載があります。(*2)

 

 正直に申し上げて、以上の二件で史料的には罪状は明らかです。史料的に明らかなものを「いや、こんな程度の理由で秀吉が利休に切腹を命じる訳がない。他に何か『本当の』理由があったはずだ」と思うから、本当は謎がないのにミステリーになってしまいます。そして、明らかにされている史料を否定する以上、その謎の答えは永遠にわからず、(新史料が発見されない限り)永遠に答えの出ないミステリーになります。

 

 史料に残っている罪状を否定するということは、真の「罪状」は、秀吉の内心にしかないことになるので、これは永遠に謎です。逆に永遠に謎なのですから、誰もが自分の願望や妄想通りに「これが真相にちがいない」と好き勝手なことが言えてしまいます。これでは百家争鳴の上、しかもこの諸説には何の根拠もないので、論争にきりがありません。

 ここはもっと史料を重視して、史料に沿って「罪状」を解釈すべきなのでしょうか。

 

 さて、現代の我々が(*1)の罪状に納得できないのは、つまりは、あの茶道の大成者である(偉大なる)千利休切腹に追い込むには、あまりにも罪状が軽すぎるということでしょう。しかし、これは現代的な視点であって現実にはたとえば、秀吉は、天正十八(1590)年、利休の一番弟子の山上宗二の鼻と耳を削ぎ打ち首にしています。この山上宗二の打ち首の罪状にしても諸説ある(まあ、山上宗二は当時北条の元にいましたので、それだけでアウトなのかもしれませんが)のですが、はっきりしません。山上宗二の罪状云々より、どちらかいうと茶人などは、独裁者秀吉の気に入らぬことがあれば即打ち首になるような、吹けば飛ぶような立場にすぎないのだ、という理解の方が重要です。千利休の処分も一介の茶人・町人に対する処分に過ぎず、秀吉が気に入らないという理由で殺せるほど生殺与奪の権は秀吉に握られていたのです(これは秀吉の子飼いの家臣も同じ立場です)。こうした「独裁政権」に対する理解がないと、「この程度の罪状で切腹になるはずがない」という、現代の法治国家におけるような解釈をそのままあてはめるような解釈になってしまいます。

 

 ここからは、筆者の私見です。(ということは他の諸説と同じ程度の信頼度ではないかと言われそうですが、筆者の私見は従来の史料からのみの解釈であり、史料に書いていないことから想像を広げた解釈ではありません。)

 

 上記(*1)のうち、重要なのは、「茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと」なのではないかと思われます。私曲とは何か。それは千利休が「侘び茶」で推奨・珍重していた茶器を高値で売りつけたということです。利休が「侘び茶」で珍重していたものとは、例えば漁師が使っていた魚籠を花入としたり、朝鮮の名もなき陶工が作り農民が使っているような井戸茶碗であったりします。あるいは、そのようなレベルのものを「新作」として陶工に作成させています。

 

 つまりは、原価としてはとても安い物を高価な価値を持つ物として利休は高値で売りつけていたのです。

 これはまさに「芸術」の根源に関わる話ですが、金銭的にたいした価値ではないものに「芸術性」を見出すことそのものが、既にひとつの「芸術」といってよいのかもしれません(現代芸術にはそのようなものがあります)。しかし、利休は「茶人」であると同時に「商人」でもあります。「芸術」も「ビジネス」が絡むと途端にうさんくさくなります。

 

 現在でも古物商が、たいして価値のないものを「高い価値がある」といって売りつけたらどうなるでしょう。これは単純に「詐欺、イカサマ」でしょう。秀吉は、おそらく従来から「利休は『侘び茶』などといって安物の茶器を珍重しているが、実のところ、これって安物を高値で売りつける詐欺・イカサマビジネスなんじゃね?」と思っていたのかもしれません。しかし、別にこれを不快に思っているのではなく、むしろこの問いを利休本人に突き付ける機会がないか、突き付けたら利休がどういう反応を示すか、内心ワクワクしていたような気がします。こうした他人に自分の死を賭けさせて、人間の本音を引き出そうとするというのは、まさに残酷なる独裁者の楽しみといえるでしょう。

 

 従来から利休はそのような事をやっていたのにも関わらず、急に秀吉が利休に厳しくあたり始めたのは、桑田氏も指摘するとおり、利休の最大の庇護者であった秀吉の弟秀長の死(*3)によるのでしょう(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日)。弟がいる間は、利休に対して少しは配慮していた秀吉もその死をもって、満を持して利休に(前から考えていた)難問を押し付けることを実行に移したのです。

 

 これに対して母の大政所、妻の北政所なども「「利休のために命乞いをするから、関白様に、謝罪するように」」(*4)と利休の助命を取り成します。これに対して、秀吉も利休が詫びを入れてくるならば、助命しようと考えたという説もあります。

 

 しかし、利休が詫びを入れるという事は、つまりは自分の私曲(不正)を認めたということなります。謝罪し、許しを請うことは、それは利休の「侘び茶」というものがつまりは「イカサマ・詐欺ビジネス」に過ぎないと利休本人が認めたことになり、それは「茶人=芸術家」としての利休の死を示します。また、「イカサマ・詐欺ビジネス」をやっていると世間の評価が定着してしまえば、「商人」としての信用を利休は全て失うことになります。利休が許しを請うという事は、生命的に生きながらえることができたとしても、「茶人=芸術家」、「商人」として社会的に利休は死んだことになってしまいます。

 

 利休としては、自らの矜持として「茶人」としての自分を守らねばならず、守るためには死ぬしかなかったのです。利休の切腹によって、秀吉による「利休の『侘び茶』の実態は、イカサマビジネスなんじゃね」という問いかけを跳ね返し、かくして利休の「茶道」は「芸術」に昇華されたといえます。

 

 秀吉を「芸術を解せぬ俗物」という解釈は従来からありますが、秀吉は「芸術」と「ビジネス」の間の「うさんくささ」を敏感に感じてとっており、独裁者らしい残酷な問いを持って、利休に「お前の『茶道』は『芸術』か『ビジネス』のどちらなのか」を利休に突き付けたといえるでしょう。これは利休に対する「急所」を突いた問いといえます。

 

 この時、利休が泣いて許しを請い、それによって利休の命が生きながらえた場合、利休の「侘び茶」は秀吉によって「イカサマビジネス」のレッテルを貼られ、消滅していたかもしれません。そして、茶道の歴史は今とは大きく違っていたのではないでしょうか。

 

 このように、千利休切腹事件の真相は、秀吉の独裁者ならではの動機であり理由なのであり、独裁者秀吉以外の意思が介在する余地はありません。(あえて入れるならば、秀長の死でしょうか。)

 

 秀吉がその死後、(自身が利休を死に追い込んだにも関わらず)利休のことを追慕したような史料の記載があり(*5)、不思議に思う方も多いです。ですが秀吉は、利休が茶人としての矜持を守るために切腹したのを見て、はじめて利休を第一級の茶人として認めたのではないかと思われます。

 

(補足1:「侘び茶」は村田株光より始まり、千利休が大成させたといいます。利休が「侘び茶」を創始した訳ではないので、念のため。また、「侘び茶」という用語自体は江戸時代から使われた言葉らしいのですが、他に形容する言葉もないのでそのまま使いました。)

 

(補足2:大河ドラマ真田丸』の「千利休が北条に鉛を密売した」「茶々が利休に木像を作らせた」「石田三成大谷吉継が利休切腹を画策した」というのはすべてフィクションです。)

 

 次回は千利休石田三成について書きますというか、千利休切腹石田三成は何の関係もないことについて書きます。

 

 ※次回のエントリーです。↓

 

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  注

(*1)桑田忠親 2011年、p120~121

(*2)桑田忠親 2011年、p121~122

(*3)桑田忠親 2011年、p124~125

(*4)桑田忠親 2011年、p97

(*5)桑田忠親 2011年、p116~118

 

 参考文献 

桑田忠親著、小和田哲男監修『千利休』宮帯出版社、2011年(初版 中公新書、1981年)

大河ドラマ 『真田丸』 第26話 「瓜売」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回はくだらない回でした。いや、わざとくだらなく書いているのは分かるんですよ。(これについては後で書きます。)

 

 さて、今回から「唐入り」が始まります。

 

 秀吉が「唐入り」をすることを聞いて、秀吉の正気を疑う大谷吉継ですが、以前の回(九州攻めの前に)で吉継は「唐入り」のことを言及していませんでしたっけ。なんで今、初めて聞いたような態度なんでしょうか?うーん、三谷さんはちょっと前に自分で書いた脚本をもう忘れているのでしょうか。

 

 三成は三成で、特に「唐入り」に反対することもなく淡々としています。前に三成が「北条攻め」にあれだけ反対(史料には無い)したのは、てっきり三成が「唐入り」に反対する前フリだと思っていましたが、特にそんなことはなかったようです。

 しかし、(史料には無い)北条攻めに反対する三成を描いたかと思ったら、(史料にはある)三成の「唐入り」反対を描かないというのも、本当にこの脚本は何を書きたいのかさっぱり分かりません。史実はおろか連続ドラマ内での整合性すらなく、行き当たりばったりでその都度フィクションを書いているだけだということがよく分かります。

 

 ネットで感想を見ますと、「唐入り」の際にも秀吉は「耄碌」しておらず、正気で頭脳は明晰だったという描写が新鮮だった、という感想もよくありました。

 

 筆者としては、当時の秀吉の書状や行動を見る限り、死の直前まで秀吉は明晰な頭脳を失っていない、つまり「認知症」や昔でいう「狐憑き」のような精神的な病にかかったような意味で「耄碌」した訳ではない、というのは賛成です。

 

 しかし、「耄碌」という言葉にはふたつの意味がある訳で、ひとつは文字通り精神的な病や認知症などで「耄碌」するという意味、もうひとつは比喩的な意味です。

 

 例えば、かつて無一文から身を起こして一代で大会社を築きあげた創業者が、歳を取ってから社運をかけて新事業に挑み、大失敗して会社を危うくするようなことがあります。その創業者自体は病気でもなく、頭脳も衰えていないつもりで、実際にも頭脳は昔と変わらず明晰なのですが、いつの間にか自分のやり方がまるで通用しなくなっているのにも関わらず、昔ながらのやり方で新事業に挑み、そして大失敗するのです。

 これを見た周りの人達は「あの社長も『耄碌』したか」と噂します。

 

 秀吉が「耄碌」したという場合、本当に「耄碌」したという意味で使ったり、ドラマにされたりすることも確かに多いですし、今回のドラマで安易にそのように描いていないのは陳腐でなくてよいのかもしれませんが、比喩的な意味では、やはり秀吉は「耄碌」していたのだと思うのですよ。

 

 このドラマで、秀吉は「唐入り」の動機を「対外的に戦をして、武士たちに働く場を与えれば、彼らは戦争で疲れ果てて、反乱など起こそうとしなくなるだろう」と信繫に説明して、信繫はあっさりその説明に納得してしまいますが、これ本当にそうでしょうか?

 

 もちろん、現代の我々は「唐入り」の散々な失敗を知っている訳ですから、何を言っても後講釈になってしまいますが、実際大軍が外国に行って国内に軍勢がほとんど空になる訳ですから、むしろ豊臣政権に不満で反乱起こす方としては、チャンスになるのではないでしょうか。(実際に「唐入り」に反発する勢力が、九州で梅北一揆など起こしていますが、これは散発的なものですぐに鎮圧されました。)まあ、正規軍がほとんど名護屋か朝鮮に集結している以上、残った者は、ほとんどがあぶれ者になるでしょうから、実際に反乱が起こってもたいしたことにはならないと思いがちですが、ここに秀吉政権に反対する結集軸が現れると、あっという間に大反乱に飛び火します。

 

 秀次の粛清劇では、「秀吉の秀次粛清は秀吉の言いがかりだ。秀次に反乱の意図は無かった」という意見が多いです。確かに、秀次に反乱の意図はなかったでしょう。しかし、秀吉にとっては、秀次自身に反乱する意図が無かったとしても、誰かが秀次を担ぎ出す、あるいは勝手に旗頭にして反乱を起こす、そうなると秀次自身の意思に関わらず、それはあっと言う間に、一気に秀吉政権を転覆する大反乱に繋がりかねないと本気で怯えていたのです。これほどの秀吉政権への怨嗟が起こったのは長引く「唐入り」による疲弊への、民から大名に至るまでの秀吉政権への恨み・怒りに他なりません。

 

 つまりは、「唐入り」で「反乱など起こそうなどしなくなる」ことを秀吉が目的としたのだとしたら、実際にはまるきり正反対の効果を生んでいる訳で、やはり秀吉のやっていることは「愚行」としか言いようがありません。

 

 やっている事が「戦争」である以上、やるならば勝たねばならず、勝たなければ秀吉政権は崩壊の危機になるのは当然です。もし秀吉が本気で勝敗のことなど何も考えず、ただただ武士たちに仕事を与えて疲れさせれば反乱をする気がなくなるだろうという動機だったとしたら、やはり秀吉は「耄碌」したとしか言いようがないでしょう。

 

 結局、秀吉はもちろんこの戦、「勝つ気」でいたのです。これは、おそらく相手の国(明・朝鮮)の国力の過小評価によるものです。この時代の秀吉の言動を追っていくと、秀吉は朝鮮の国力を琉球程度、明国の国力を日本全国程度にしか考えていなかったのではないかと思います。(比較はこの頃の秀吉の言動から見た筆者の私見にすぎませんので、「ソースは?」とか聞かないでくださいね。)よくこの頃の秀吉を誇大妄想といいますが、誇大妄想というよりは、相手を(非現実的なレベルで)過小評価していたのではないかと思われます。また、「異国」に攻めるという感覚ではなく、日本国内を攻める延長上で攻めている感覚のようです。

 日本国内で戦争するロジックで勝てると本気で秀吉は思っていたのです。異国と戦争するのは全然戦争のルールが変わってくるのに、日本国内の戦争のルールで通用すると思っている時点で、もはやそのやり方ではやっていけないのは自明でした。やはり秀吉は(比喩的な意味で)「耄碌」していました。

 

 この「唐入り」、三成をはじめとしてまともな人物は、皆反対していました。まともに思考すれば成功する確率は全くないに等しい、無謀なプロジェクトだったからです。それを押し切って秀吉は戦争をはじめます。こういう「愚行」は「愚行」、「失敗」は「失敗」、「耄碌」は「耄碌」ときちんと評価すべきです。

 

 さて、仮装パーティIN名護屋です。(仮装パーティ自体は史実です。)この仮装パーティの描写が実にくだらないのですが、前述した通りこれはわざとでしょう。ここで脚本家が描きたいのは「朝鮮出兵の前線で兵が苦戦する中、名護屋では秀吉主催のばかげた仮装パーティをやっている。豊臣の滅亡は近い」という感じでしょうか。おおまじめに仮装をやろうとすればするほど、ばかばかしさも増幅するというものです。

 

 しかし、ドラマなのですから、その「唐入り」の前線の様子をちゃんと「絵」にして描かないと、コントラストにならないのではないでしょうか。清正が、伝令の報告受けて怒鳴っているシーンだけではしょっているのは、明らかに手抜きで対比になっていません。なんか諸事情があるのか知りませんが、これは演出としてダメダメでしょう。

 

 というか、なぜに昌幸は瓜売にこだわるのでしょう。どうせくだらん仮装パーティなんですから、そんなもの太閤に譲ればよい話です。本当にくだらない。(細かいところですが、生まれついての武士で、おそらく行商人などやったことがない昌幸より、若い頃行商人をやっていたとされる秀吉の方が瓜売の真似は普通に考えてうまいはずでしょう。これもちょっと無理があります。)

 

 そして、佐助・・・・・・。そんなことで、泣くんじゃねえ!!本当にくだらん。いやわざと描いているのは分かりますが、こんなくだらんことに昌幸、昌相、佐助を巻き込むのをやめてほしいです。(昌幸パパは、最早このドラマではそういうキャラとなってしまっているので、もうあきらめていますが。)

 

 全然関係ないですが、なんで且元は猿回しやっているのでしょうか。(これもコントなんでしょうけど。)昌幸の瓜売かぶりより余程命がけのような気がしますが・・・・・。

 

 秀吉の母のなかが亡くなったのをセリフで流したのも、なんか力の配分を間違えているような気がしますね。秀吉が真田一家をあっさり信濃に戻すのを許す伏線に使われている訳ですから、こういう描写こそ尺を使えばという気になります。

 

 とりのナレ死フラグカットは、まあどうでもいいです。(他の方の感想に任せます。)

 

※次回の感想です。↓

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YOMIURI ONLINEのコラム「ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」の感想

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 YOMIURI ONLINEのコラムで以下のようなコラムがあります。(歴史研究者の方でもないコラムにあまり批判的に言うのもどうか、という話なのですが、あまりにも典型的なので・・・・・)

ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」

http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20160627-OYT8T50092.html?page_no=1

 

 なんというか、この方が何も史実については調べないで、まさに(今回の大河ドラマを含む)ドラマや小説の描写を当然の前提として、石田三成の人物評を書いているのが分かります。(しつこいですが、筆者の方は歴史研究者とかではないので、こんなもんでしょう。一般の方の視点で書いていると見るべきなのは、その通りです。)

 

 以下、引用します。

「大企業には経営企画という組織があり、時には

 「机上の空論ばかり言っているやつらの命令で仕事したくない」①

 と、現場からは疎まれても現場をコントロールし続ける立場の部署がある。おそらく三成は仕事の理想を追う中間管理職として、現実を知る現場(現代なら営業など)の管理職と対決をしていたのであろう。②同僚からは、仕事と割り切る姿勢が反感を生んで疎まれる存在であったようだ。③

 「頭はいいけど性格に難があり気遣いが出来ず、人望はなかった」④

というのが、よく聞く三成評だ。関ヶ原の戦いで、小早川秀秋吉川広家脇坂安治など多くの同僚武将から裏切られたからである。④福島正則加藤清正といった豊臣家の「武断派」(軍人)と折り合いの悪さなどから衝突し、関ヶ原の戦いの原因となったことも有名な話だ。⑥

 一方、戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない⑦(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)。⑧おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?⑨」(番号ブログ主)

 

 たとえば、①ですが、「机上の空論」というのは、具体的に三成のどんな行動を指してこう言っているのか、よく分かりません。②の「仕事の理想」とは、「現実を知る現場」とは、その「対決」についても何を指しているのかよく分かりません。③「仕事と割り切る姿勢」というのもなんだかよく分からない。

 正直、これって筆者自身も分かっていないのではないか?という気がします。史実の三成の具体的な行動を見て、こうした感想を書いているのではなく、ドラマや小説の三成の人物像を見て、漠然とした全体的なイメージでこう書いているのに過ぎないのではないかと思われます。

 ④の評など、まさにドラマ等で書かれているフィクションの人物評をそのままの前提として書いているだけです。

 ⑤で、小早川、吉川、脇坂をひとくくりに「同僚」にしている時点で多分この筆者もそれぞれの武将について何も分かっていないだろうし、それぞれ裏切る理由は別々に検討しなければいけないのに、「三成の人望のなさ」がすべての原因となっているらしいです。こういうのも、ただ単に個別に検討するのが面倒くさいから原因を無理矢理ひとまとめにしているのに過ぎません。

 ⑥「武断派」との折り合いの悪さから衝突したことが、「関ヶ原の戦いの原因となった」という意見ですが、関ヶ原の戦いの原因は、家康の上杉征伐が原因なので、これもそもそもの前提がおかしいです。

 ⑦「戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない。」という筆者の評価ですが、逆にこの筆者の三成の評価そのものが興味深いと言えます。

 そもそも、戦の現場のリーダーとしての三成は諜報(賤ヶ岳の戦い)であったり、兵糧奉行(島津征伐、文禄の役等)であったり、調略(賤ヶ岳の戦いでの上杉との交渉、対北条・伊達(想定)戦での反北条・伊達大名の糾合等)であったり、開城交渉(島津攻めにおける新稲忠元の説得)であったり、軍目付としての前線からの撤退の進言であったり(文禄の役)、戦後の撤兵対応(慶長の役)であったりする訳で、これを「大きな成果をあげられていない」と評価すること自体が、つまりは、戦で大将の首を取るとか、城を落とすとか(三成も北条攻めで館林城を開城させていますが)の目立った成果だけが「大きな成果」であり、こうした「裏方」の成果は「大きな成果」とは呼ばない、という筆者自身の評価基準を示しています。(というか、それ以前の問題としてこの筆者の方は、三成が数々の戦に従軍していること自体知らないのかもしれませんが・・・・・・。)

 しかし、これは筆者自身の評価であるとともに、当時の武将達の一般的な評価だったのかもしれません。(ところが、上司の秀吉はそうした「裏方」の評価を正当にしていました。)そうした「裏方」の評価などしない武将もいたであろうことも確かに想像はできます。ここら辺あたりは「あいつは過大評価されている」と、確かに一部の武将から反発される要因になったかもしれません。

 上記であげたように、数々の戦の現場で三成は働き、「成果」を挙げているので、 そもそも「現場を知り」つくしているし、朝鮮出兵の時の三成の対応を見ても「机上の空論ばかり言っている」どころか、「現場を知り」つくしている対応としか言いようがありません。

 前に大河ドラマ軍師官兵衛』感想にも描きましたが(以下参照↓)

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 この回の創作ドラマにおいても、「現場を知りつくした武将=官兵衛」、「現場を知らない奉行=三成」という描き方がされていましたが、なんとその「現場を知りつくした武将=官兵衛」の行動がそのまま史実の三成の行動そのものだったという驚天動地の捏造時代劇を描いていました。こういう描写を見ても、相当に史実を捻じ曲げないと、「現場を知らない奉行=三成」というのは描き得ないのだということが分かります。

 つまり、「現場を知らないエリート=三成」という構図は全くのフィクションといえます。

 ⑧(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)については以下のエントリーで書きました。

(つまりは、水攻めは秀吉の指示によるもので、忍城を水攻めで落とすのは元々困難であり、三成は反対しているにも関わらず、秀吉が何度も((小田原にいる)城主の成田氏長が降服しても、小田原城が落城しても!)水攻めを続けるのを厳命したというのが結論です。)

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 ⑨の「おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?」という筆者の推測は、その忍城攻めの時に同行した諸将のほとんどが西軍についていることで、その推測は間違っていることの回答になるでしょうか。

 そもそも当時、忍城攻略が「失敗」であったという認識そのものがあったかすら不明です。(忍城攻略が「失敗」という話になったのは、江戸時代以降です。)仮に、その当時から内心、忍城攻略が「失敗」だと思う人がいたとしても(史料では確認できません)忍城水攻めは秀吉の指示ですので、忍城攻略を失敗として馬鹿にするということは、すなわち秀吉その人を馬鹿にすることと同義ですので、そんな恐ろしい考えを表に出す人はいないでしょう。

 

 忍城攻めというのは、史実を知れば、まさに「現場を知る」中間管理職=三成が、「現場を知らない」トップ=秀吉の命令に振り回されるという話で、「サラリーマンあるある話」としか言いようがないのですが、いまだそうしたドラマが描かれたことはありません。それはそうでしょう。秀吉といえば、百戦錬磨の現場指揮官で戦に勝ち続けて天下を取った人物なのですから、そうした人物を「現場を知らないエリート」と描くのはドラマ的に無理です。(ただ、現実的には「現場をよく知っていた」人間でも、その現場から離れてしまえば、「『その』現場」のことは実はよく知らなくなる、という教訓にはなりますが。(もっとも秀吉は当時、小田原という「別の現場」にいたわけですが。))

 一方、三成は、つまるところ江戸時代を通じて(筆者の方が言う通り「徳川政権によるネガティブキャンペーンが浸透した結果」)「戦下手」のレッテルを張られた人物ですので、史実に反してでも「現場を知らないエリート」と描きやすいです。「ドラマ」として描きやすいか、描きにくいかが結局脚本の基準な訳ですので、それと史実は別物です。しかし、一旦ドラマ(や映画)として定着すると、それがあたかも「史実」であるかのように受け止められてしまいます。ドラマや映画の影響は大きいといえます。

 

 続きを見ていきます。

「さて、このように考えると三成は

 ・上司と部下は高い評価
 ・同僚からは低い評価

 の存在であったと言える。」

 

 とありますが、これも単純すぎます。まず、三成は「取次(外交官)」としての役割が大きいので、「高い評価」の中には「取次先の大名」も入れるべきでしょう。取次先の大名というと、上杉、佐竹、真田、毛利、島津、いずれも西軍についた大名です。他の取次先で東軍についた津軽為信は三成の子供達の命を救い、真田の中で東軍についた真田信之は江戸時代になっても石田三成からの手紙を残し続けました。

 また、「同僚」というのはおおざっぱすぎます。大谷吉継の他にも他の奉行衆はどうなのでしょうか?小西行長は?小早川秀秋が「同僚」になるのでしたら、宇喜多秀家は?織田秀信は?立花宗茂 は?

 上記のような単純化はちょっと無理なのが分かるでしょう。

「人事評価的に「人間関係構築に難あり」くらいの申し送り」

 

って誰が誰に申し送りをするのか知りませんが、どちらかというと三成は取次=人間関係構築のスペシャリストなので、主に取次の才能で出世を果たした三成がそんな評価になる訳ないでしょう。

 

「社長代行の家康の野心に鑑みれば

 1.そのまま家康体制が続くこと
 2.家康が豊臣秀頼に社長を引き継ぐ

と、2パターンの体制を考えた「経営企画としての対応」をすればよかったのだ。

 実際のところ、社長代行の家康は前者の道を選んだ。秀吉社長の死後、社長が禁止していた大名家同士の婚姻禁止の法度をさっさと破り、有力大名と姻戚関係を結び始めた。さらに五大老五奉行による合議体制を崩して、豊臣家から政権を奪おうという動きを見せ始めた。こうした動きに対して三成は反感を覚えて対立した。秀頼への事業承継しか考えていない三成は、家康の行為が許せなかったのだ。

 それでも、三成がサラリーマンの中間管理職なら、冷静に家康社長代行に仕えるべきであった。会社の行く末を導いてくれる上司は、消去法かもしれないが家康であったはずだ。ならば、前社長の方針を踏襲しない方針であっても、それを容認する度量が求められた。」

 

って、「それを言っちゃあ、おしめーよ」としか言いようがないでしょう。つまり、筆者の言いたいことは家康の豊臣政権乗っ取りを、三成は指をくわえて見ていればよかった、というのにつきるでしょう。これはこれで筆者自身の人生観として、そういう考えを持つのは勝手ですが、まあ結局は「たとえ義に反しても、強い者には従え、長いものに巻かれるのが処世術だ」という一般論でしかありません。確かに処世術としてはありかもしれないですが、これを堂々と広言するのは、あまりにも情けなくないか、という気がします。これは三成とかの人物評価以前の価値観の問題です。

 というか、もしそのような情けない行動を三成がとった場合は、そもそも歴史上に名が残ることもないでしょうし、こうしてYOMIURI ONLINEのコラムで三成の人物評価をするコラムが書かれる事はなかったでしょう。

 

「家康も三成を実務家として評価していた、との話もある。三成が家康体制を容認していたなら、江戸時代に貴重な老中=経営幹部として活躍したかもしれない。」

 

というのは、ありえませんね。というのは、家康は外様大名を政権に参画させることはなかったからです。秀吉が生きている間は、豊臣政権に外様大名を参画させることはなかったのですが、秀吉の遺言により、その死後は外様大名大老として政権に参画させました。その結果が豊臣政権の崩壊です。家康は、この豊臣政権の崩壊の教訓(まあ、豊臣の外様大名たる自分自身が崩壊させた訳ですが)から、外様大名を徳川政権に参画させることは絶対にやめるべきだと悟ったのでしょう。後の幕末に徳川政権が外様大名政権運営に参画させたことが、徳川幕府崩壊の大きな要因となります。

 

「一方、三成が現場の同僚を敵にまわさないためには、どうしたらよかったのか? 現代の会社でも現場部門と本社部門の対立はよくあることだ。その対立の原因となるのがお互いのセクショナリズム。例えば、営業と製造、開発と製造とお互いの利害を主張しあい妥協できなくなる状態だ。

 三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。⑩戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪からすれば、三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?⑫だから、三成はその存在を排除するために襲撃されたのである。

 こうした対立関係を解消するにはどうしたらいいのか? 現在の会社で行われている取り組みに鑑みて、「プロジェクトワーク」が効果的と考える。プロジェクトワークとは、組織横断で会社のために行う取り組みだ。⑬」

 

というのも、別に戦国時代の三成を持ち出さなくていい、現代のビジネスの一般論的な話にすぎないです。なんで、無理矢理三成に絡める必要があるのでしょう。(まあ、読売新聞にそういう原稿を書いてくださいと頼まれたからでしょうけど。)

「三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。」とかは、具体的に史実の何の行動を評しているのでしょうか。さっぱりこの文章からは分かりません。

「三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?」というのも、その「人事制度」ってなんでしょう?というか、三成が豊臣政権の人事制度を構築しているんでしょうか?普通に考えて人事制度(遺言体制も含めて)はトップの秀吉が構築しているんですが。要は具体例が何もない。

 ⑬のアドバイスは秀吉に向けられるべきだったでしょう。(いや、秀吉向けのアドバイスにも役に立っていませんけど。)

 ただ、家康が「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職)⑪」のニーズに答えたというのは確かでしょう。つまりは、これはもう1回日本国内で戦争を起こそうという話に他なりません。これが筆者の考える「最適解」ということで良いのでしょうか?

 

 結局、秀吉が後継体制(五大老五奉行制)を構築したときに、そこから排除された武将達のことを秀吉が何も考えていなかったということが、豊臣政権の最大の問題点だった訳です。

 特に、秀吉の従兄弟の福島正則、遠縁の加藤清正、おいの小早川秀秋等。結局豊臣政権とは一族経営なので、こうした親族(遠縁も含め)を死後の豊臣政権に参画させないと、出世の「負け組」とされたと感じた彼らは「非主流派」となり、その「非主流派」が、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ「徳川派」になっていくことになります。福島正則など秀吉の死後、真っ先に徳川家との婚姻を進めている訳です。

 秀吉の従兄弟である福島正則すらが、家康にすりよっている体たらくを見ればこの豊臣体制は遠からず崩壊すると諸将に思われても仕方ありません。秀吉は自分の親族に冷たく過酷な扱い(秀次の粛清等)をしていますが、一族経営なのにただでさえ少ない一族を冷遇したのでは豊臣政権が崩壊しても仕方ありません。

 五大老五奉行のうち、特に五奉行の実態は中小大名にすぎず、豊臣一族でもありませんので、彼らの力の源泉は秀吉の残した遺言と掟しかなかったのです。これを否定することは彼等自身の立場を否定することになります。これが三成ら五奉行の「限界」といえるでしょう。だから、五奉行が秀吉の遺言に反して自由に豊臣政権の人事制度を構築したり、勝手に(豊臣の領土を削って)恩賞を与えることなど極めて困難でした。

 これに対して、この遺言体制を破って新しいプロジェクトをはじめたのが家康でした。この時代のプロジェクトとは、つまりは「戦争」です。秀吉の「対外戦争」プロジェクトは散々な失敗に終わり、恩賞もほとんど与えられません。多くの家康についた東軍武将は、もっと恩賞を、領地を欲していたのです。そのニーズに答えたのが家康でした。彼は三成を排除した後、まずは前田利長に言いがかりをつけ、戦争を始めようとします。ところが、あっさりと利長は屈服してしまったので、次に言いがかりをつけたのが上杉景勝です。この予定された戦争に勝利することによって、家康派の武将は恩賞や領地を獲得することができます。諸将に与えられる恩賞・領地は上杉の領地だけでは足りないでしょう。家康は豊臣家の領地を削って恩賞にしようと考えています。こうして、豊臣家を弱体化させることも、家康が戦争を欲した大きな原因でした。

 こうした家康社長代行の意図に気が付いて驚愕したのが、当時残っていた二大老毛利輝元宇喜多秀家)と三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)でした。家康社長代行のやっていることは、朝鮮出兵から撤兵しようやく「平和」になったはずの日本に新たなる「内戦」を起こすものでしたから。当時「天下殿」とも言われた家康社長代行が、社長代行になってはじめたビジネスが「内戦」なのですから、とんでもない話です。

(三成隠遁後、一時期、二大老・三奉行が家康を支える体制になったのは、「とりあえず家康を社長代行として支えないと、豊臣政権は持たない」と考えたためですが、その家康が社長代行になってやろうとしたことが「内戦」ビジネスな訳ですから、彼らは家康に大きく失望したのです。)

 特に、二大老毛利輝元宇喜多秀家)は上杉が倒されたら、次なる家康の「内戦」ビジネスの標的となるのは自分達だと分かります。これはバカでも分かります。ということで、二大老・三奉行と三成は結束して、家康の暴挙をくいとめるために立ち上がったのでした。これが「内府違いの条々」クーデターです。

 家康が「天下泰平の礎を築いた」というのは結果論です。秀吉の死後の家康の正体は、ようやく「平和」になった日本に内戦を起こそうとする、きわめて好戦的な男にすぎません。おそらく、もう少し西軍の総大将毛利輝元が有能な人間であれば、下手をするとこの「内戦」は膠着状態となって長引き、また日本は百年以上戦乱の時代が続いたかもしれません。関ヶ原の戦いとされる日本を二分する戦いがあっさり終わったのは、西軍の総大将毛利輝元が惰弱で、あっさり降伏(なんと関ヶ原の戦いの前日に)してしまったからです。

 ついでに言うならば、幕末に日本が内戦状態にならず、あっさり明治国家ができたのは、徳川慶喜が惰弱で、戦わずあっさり恭順してしまったからです。(この時の徳川の敵が長州藩というのもまた歴史の皮肉ですね。)

 こうして考えるならば、徳川幕府が「天下泰平の礎を築いた」のに一番貢献したのは、「毛利輝元の惰弱さ」であるといってよいのではないかと私は思います。

 こういうコンサルタントの方に申し上げたいのは、安易に戦国時代の組織を現代のビジネス組織に例えるのをやめてほしいのですね。戦国時代のビジネスとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトを立ち上げる、事業を立ち上げるとは「戦争」するということなんです。秀吉の「唐入り」も、家康の「上杉征伐」も当時の武士たちのための公共事業です。戦国時代の戦国武将ビジネスとは当然血なまぐさいものです。あまり、安易に現代のビジネスと比較できるものではありません。

「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪」のニーズに答えるというのは、つまりは「戦争」するということです。そして、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ家康は、「内戦」を無理矢理起こして、そのニーズに答えました。でも、こういう「やり口」って当時としてもどういうもんなのか、と思う訳ですし、少なくとも三成の考えとは真っ向から違うでしょう(しかもその内戦の標的が三成の「取次」先の上杉家なので、これは「武士の面目」に関わる事態です。)。だから、三成が家康の家臣になることはそうした意味でもありえないことだったといえます。

 あと、念のため、最後あたりで真田信繁のことに触れていますが、信繫は江戸時代も大坂の陣まで生きていますし、大坂の冬の陣の後に徳川から引き抜きも持ちかけられています。(信繁は断りましたが。)この書き方だと、もしかして、その事も知らずに書いているのではないか、と思ってしまいます。

 こうやって、一行ごとに突っ込むしかないコラムなのですが、別にこれは筆者だけがおかしいのではなくて、筆者は、世間の三成に対する一般的な偏見、イメージをそのまま文章にして書いているに過ぎず、一般の人達の偏ったイメージをそのまま代弁しているのだともいえます。このイメージの形成はどこから来たかといえば、結局は大河ドラマとかのイメージなわけで、結局一般の人達の歴史上の人物評価というのはそうしたドラマの人物評価がそのままダイレクトに反映されてしまっているのです。ここら辺の偏見を払拭するのはかなり大変だなあ、とこのコラムを読んで改めて思いました。

大河ドラマ『真田丸』 第25話 「別離」 感想

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 ※前回のエントリーです。↓

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 今回は泣いてしまいしました。かつて、鶴松の死がこれだけ詳細に描かれたドラマがあったでしょうか?鶴松の死が、豊臣家の運命を変えていくのですが、かつてのドラマではあまりにもあっさり流されていました。

 

 秀吉が死に至る病状である鶴松に動揺してふらふらして、信繫が「良いことだけ考えましょう」と言うのも、これはフィクションであっても良いシーンです。鶴松の死後の最後あたりの、呆然としてふらふらしている淀殿北政所の脇を(避けて)通り過ぎようとして、無理に北政所淀殿を抱きしめて、淀殿が号泣するシーン、本当に泣けました。三成の清正、正則の水垢離の誘いを一度断って、あえて行くシーンも泣けます。

 

 それ以外の千利休のシーンは一から十まで、すべてデタラメです。(どれだけデタラメなのか、後のエントリーで書きます。)こういうのさえなければ、いいドラマなのですが。本当に、今回は褒めたいのに、なんでこういうのを混ぜなければいけないのでしょうか。

 

千利休切腹の理由については以下にまとめました。(脚本のデタラメさは、大徳寺の山門像以外は、元から全部フィクションなので、いちいち書いていませんが・・・・・・)

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 いや、頼むからこういう良いドラマを書けるのに、どうしようもないデタラメなフィクション(しつこいけど、フィクションを混ぜること自体は否定していません)を混ぜるのをやめて欲しいです。三谷氏は名脚本家なのですから、史実に配慮しつつ、本当に感動できる脚本が書けるはずです。

 

※次回の感想です。↓

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