古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

千利休切腹の謎(?)

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 天正19(1591)年2月28日、秀吉の命令により千利休切腹しました。 

 タイトルを「千利休切腹の謎(?)」としましたが、千利休切腹に謎なんてありません。千利休切腹を命じたのは秀吉であることに間違いはなく、切腹を命じた理由も史料上はっきりしています。これを後世の人達の「願望」や「妄想」がそれを謎にしてしまっただけです。

 

 ある人は、「こんな程度の理由で秀吉が切腹を命じるはずがない」と言い、ある人は「利休が権力闘争に負けた結果だった」と言います。また、ある人は「秀吉との芸術観の相剋」と言い、最近の珍説では「利休は北条に鉛を密売していた」なんてのも飛び出しました。悪いのですが、それらのすべては「利休をもっと大きな偉大な存在としたい」「なんか陰謀とか謎とかあった方がドラマとして面白い」「何が何でも歴史を〇〇派と〇〇派の権力闘争劇にしたい」といった「願望」と「妄想」がゴールにあって、その結論から「説」を自分の説に組み立ててしまっています。(ただ、「秀吉との芸術観の相剋」というのは広い意味ではその通りです。これについては後で述べます。)

 

 こういうのは、歴史研究者としては厳にやってはいけないことですが、千利休切腹については、研究者でもこの罠に陥ってしまう人がいます。こうした「願望」と「妄想」を呼び込むだけ、千利休切腹は「面白くしがいのある」テーマなのでしょう。

 

 現在ある史料だけで、利休の罪状ははっきりしています。

 

 桑田忠親氏の『千利休』宮帯出版社には、以下のように書かれています。

「それならば、秀吉が利休を処罰するに至ったほんとうの原因は何か。大体、次の二件の罪状が原因となったのである。その一件は、やはり、大徳寺山門の金毛閣に利休の雪見姿の木造を安置させたこと、もう一件は、茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと、以上の二件である。」(*1)これは、桑田忠親氏に限らず、表向きの理由として一般的な見解です。

 

 上記については同時代の日記や書状に記載があります。前者については、『晴豊公記』や『伊達家文書』所収の伊達家家臣鈴木新兵衛書状に記載がありますし、後者についても『晴豊公記』『多聞院日記』に記載があります。(*2)

 

 正直に申し上げて、以上の二件で史料的には罪状は明らかです。史料的に明らかなものを「いや、こんな程度の理由で秀吉が利休に切腹を命じる訳がない。他に何か『本当の』理由があったはずだ」と思うから、本当は謎がないのにミステリーになってしまいます。そして、明らかにされている史料を否定する以上、その謎の答えは永遠にわからず、(新史料が発見されない限り)永遠に答えの出ないミステリーになります。

 

 史料に残っている罪状を否定するということは、真の「罪状」は、秀吉の内心にしかないことになるので、これは永遠に謎です。逆に永遠に謎なのですから、誰もが自分の願望や妄想通りに「これが真相にちがいない」と好き勝手なことが言えてしまいます。これでは百家争鳴の上、しかもこの諸説には何の根拠もないので、論争にきりがありません。

 ここはもっと史料を重視して、史料に沿って「罪状」を解釈すべきなのでしょうか。

 

 さて、現代の我々が(*1)の罪状に納得できないのは、つまりは、あの茶道の大成者である(偉大なる)千利休切腹に追い込むには、あまりにも罪状が軽すぎるということでしょう。しかし、これは現代的な視点であって現実にはたとえば、秀吉は、天正十八(1590)年、利休の一番弟子の山上宗二の鼻と耳を削ぎ打ち首にしています。この山上宗二の打ち首の罪状にしても諸説ある(まあ、山上宗二は当時北条の元にいましたので、それだけでアウトなのかもしれませんが)のですが、はっきりしません。山上宗二の罪状云々より、どちらかいうと茶人などは、独裁者秀吉の気に入らぬことがあれば即打ち首になるような、吹けば飛ぶような立場にすぎないのだ、という理解の方が重要です。千利休の処分も一介の茶人・町人に対する処分に過ぎず、秀吉が気に入らないという理由で殺せるほど生殺与奪の権は秀吉に握られていたのです(これは秀吉の子飼いの家臣も同じ立場です)。こうした「独裁政権」に対する理解がないと、「この程度の罪状で切腹になるはずがない」という、現代の法治国家におけるような解釈をそのままあてはめるような解釈になってしまいます。

 

 ここからは、筆者の私見です。(ということは他の諸説と同じ程度の信頼度ではないかと言われそうですが、筆者の私見は従来の史料からのみの解釈であり、史料に書いていないことから想像を広げた解釈ではありません。)

 

 上記(*1)のうち、重要なのは、「茶道具の目利きと売買にあたって利休が私曲(不正)をおこなってきたこと」なのではないかと思われます。私曲とは何か。それは千利休が「侘び茶」で推奨・珍重していた茶器を高値で売りつけたということです。利休が「侘び茶」で珍重していたものとは、例えば漁師が使っていた魚籠を花入としたり、朝鮮の名もなき陶工が作り農民が使っているような井戸茶碗であったりします。あるいは、そのようなレベルのものを「新作」として陶工に作成させています。

 

 つまりは、原価としてはとても安い物を高価な価値を持つ物として利休は高値で売りつけていたのです。

 これはまさに「芸術」の根源に関わる話ですが、金銭的にたいした価値ではないものに「芸術性」を見出すことそのものが、既にひとつの「芸術」といってよいのかもしれません(現代芸術にはそのようなものがあります)。しかし、利休は「茶人」であると同時に「商人」でもあります。「芸術」も「ビジネス」が絡むと途端にうさんくさくなります。

 

 現在でも古物商が、たいして価値のないものを「高い価値がある」といって売りつけたらどうなるでしょう。これは単純に「詐欺、イカサマ」でしょう。秀吉は、おそらく従来から「利休は『侘び茶』などといって安物の茶器を珍重しているが、実のところ、これって安物を高値で売りつける詐欺・イカサマビジネスなんじゃね?」と思っていたのかもしれません。しかし、別にこれを不快に思っているのではなく、むしろこの問いを利休本人に突き付ける機会がないか、突き付けたら利休がどういう反応を示すか、内心ワクワクしていたような気がします。こうした他人に自分の死を賭けさせて、人間の本音を引き出そうとするというのは、まさに残酷なる独裁者の楽しみといえるでしょう。

 

 従来から利休はそのような事をやっていたのにも関わらず、急に秀吉が利休に厳しくあたり始めたのは、桑田氏も指摘するとおり、利休の最大の庇護者であった秀吉の弟秀長の死(*3)によるのでしょう(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日)。弟がいる間は、利休に対して少しは配慮していた秀吉もその死をもって、満を持して利休に(前から考えていた)難問を押し付けることを実行に移したのです。

 

 これに対して母の大政所、妻の北政所なども「「利休のために命乞いをするから、関白様に、謝罪するように」」(*4)と利休の助命を取り成します。これに対して、秀吉も利休が詫びを入れてくるならば、助命しようと考えたという説もあります。

 

 しかし、利休が詫びを入れるという事は、つまりは自分の私曲(不正)を認めたということなります。謝罪し、許しを請うことは、それは利休の「侘び茶」というものがつまりは「イカサマ・詐欺ビジネス」に過ぎないと利休本人が認めたことになり、それは「茶人=芸術家」としての利休の死を示します。また、「イカサマ・詐欺ビジネス」をやっていると世間の評価が定着してしまえば、「商人」としての信用を利休は全て失うことになります。利休が許しを請うという事は、生命的に生きながらえることができたとしても、「茶人=芸術家」、「商人」として社会的に利休は死んだことになってしまいます。

 

 利休としては、自らの矜持として「茶人」としての自分を守らねばならず、守るためには死ぬしかなかったのです。利休の切腹によって、秀吉による「利休の『侘び茶』の実態は、イカサマビジネスなんじゃね」という問いかけを跳ね返し、かくして利休の「茶道」は「芸術」に昇華されたといえます。

 

 秀吉を「芸術を解せぬ俗物」という解釈は従来からありますが、秀吉は「芸術」と「ビジネス」の間の「うさんくささ」を敏感に感じてとっており、独裁者らしい残酷な問いを持って、利休に「お前の『茶道』は『芸術』か『ビジネス』のどちらなのか」を利休に突き付けたといえるでしょう。これは利休に対する「急所」を突いた問いといえます。

 

 この時、利休が泣いて許しを請い、それによって利休の命が生きながらえた場合、利休の「侘び茶」は秀吉によって「イカサマビジネス」のレッテルを貼られ、消滅していたかもしれません。そして、茶道の歴史は今とは大きく違っていたのではないでしょうか。

 

 このように、千利休切腹事件の真相は、秀吉の独裁者ならではの動機であり理由なのであり、独裁者秀吉以外の意思が介在する余地はありません。(あえて入れるならば、秀長の死でしょうか。)

 

 秀吉がその死後、(自身が利休を死に追い込んだにも関わらず)利休のことを追慕したような史料の記載があり(*5)、不思議に思う方も多いです。ですが秀吉は、利休が茶人としての矜持を守るために切腹したのを見て、はじめて利休を第一級の茶人として認めたのではないかと思われます。

 

(補足1:「侘び茶」は村田株光より始まり、千利休が大成させたといいます。利休が「侘び茶」を創始した訳ではないので、念のため。また、「侘び茶」という用語自体は江戸時代から使われた言葉らしいのですが、他に形容する言葉もないのでそのまま使いました。)

 

(補足2:大河ドラマ真田丸』の「千利休が北条に鉛を密売した」「茶々が利休に木像を作らせた」「石田三成大谷吉継が利休切腹を画策した」というのはすべてフィクションです。)

 

 次回は千利休石田三成について書きますというか、千利休切腹石田三成は何の関係もないことについて書きます。

 

 ※次回のエントリーです。↓

 

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  注

(*1)桑田忠親 2011年、p120~121

(*2)桑田忠親 2011年、p121~122

(*3)桑田忠親 2011年、p124~125

(*4)桑田忠親 2011年、p97

(*5)桑田忠親 2011年、p116~118

 

 参考文献 

桑田忠親著、小和田哲男監修『千利休』宮帯出版社、2011年(初版 中公新書、1981年)

大河ドラマ 『真田丸』 第26話 「瓜売」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回はくだらない回でした。いや、わざとくだらなく書いているのは分かるんですよ。(これについては後で書きます。)

 

 さて、今回から「唐入り」が始まります。

 

 秀吉が「唐入り」をすることを聞いて、秀吉の正気を疑う大谷吉継ですが、以前の回(九州攻めの前に)で吉継は「唐入り」のことを言及していませんでしたっけ。なんで今、初めて聞いたような態度なんでしょうか?うーん、三谷さんはちょっと前に自分で書いた脚本をもう忘れているのでしょうか。

 

 三成は三成で、特に「唐入り」に反対することもなく淡々としています。前に三成が「北条攻め」にあれだけ反対(史料には無い)したのは、てっきり三成が「唐入り」に反対する前フリだと思っていましたが、特にそんなことはなかったようです。

 しかし、(史料には無い)北条攻めに反対する三成を描いたかと思ったら、(史料にはある)三成の「唐入り」反対を描かないというのも、本当にこの脚本は何を書きたいのかさっぱり分かりません。史実はおろか連続ドラマ内での整合性すらなく、行き当たりばったりでその都度フィクションを書いているだけだということがよく分かります。

 

 ネットで感想を見ますと、「唐入り」の際にも秀吉は「耄碌」しておらず、正気で頭脳は明晰だったという描写が新鮮だった、という感想もよくありました。

 

 筆者としては、当時の秀吉の書状や行動を見る限り、死の直前まで秀吉は明晰な頭脳を失っていない、つまり「認知症」や昔でいう「狐憑き」のような精神的な病にかかったような意味で「耄碌」した訳ではない、というのは賛成です。

 

 しかし、「耄碌」という言葉にはふたつの意味がある訳で、ひとつは文字通り精神的な病や認知症などで「耄碌」するという意味、もうひとつは比喩的な意味です。

 

 例えば、かつて無一文から身を起こして一代で大会社を築きあげた創業者が、歳を取ってから社運をかけて新事業に挑み、大失敗して会社を危うくするようなことがあります。その創業者自体は病気でもなく、頭脳も衰えていないつもりで、実際にも頭脳は昔と変わらず明晰なのですが、いつの間にか自分のやり方がまるで通用しなくなっているのにも関わらず、昔ながらのやり方で新事業に挑み、そして大失敗するのです。

 これを見た周りの人達は「あの社長も『耄碌』したか」と噂します。

 

 秀吉が「耄碌」したという場合、本当に「耄碌」したという意味で使ったり、ドラマにされたりすることも確かに多いですし、今回のドラマで安易にそのように描いていないのは陳腐でなくてよいのかもしれませんが、比喩的な意味では、やはり秀吉は「耄碌」していたのだと思うのですよ。

 

 このドラマで、秀吉は「唐入り」の動機を「対外的に戦をして、武士たちに働く場を与えれば、彼らは戦争で疲れ果てて、反乱など起こそうとしなくなるだろう」と信繫に説明して、信繫はあっさりその説明に納得してしまいますが、これ本当にそうでしょうか?

 

 もちろん、現代の我々は「唐入り」の散々な失敗を知っている訳ですから、何を言っても後講釈になってしまいますが、実際大軍が外国に行って国内に軍勢がほとんど空になる訳ですから、むしろ豊臣政権に不満で反乱起こす方としては、チャンスになるのではないでしょうか。(実際に「唐入り」に反発する勢力が、九州で梅北一揆など起こしていますが、これは散発的なものですぐに鎮圧されました。)まあ、正規軍がほとんど名護屋か朝鮮に集結している以上、残った者は、ほとんどがあぶれ者になるでしょうから、実際に反乱が起こってもたいしたことにはならないと思いがちですが、ここに秀吉政権に反対する結集軸が現れると、あっという間に大反乱に飛び火します。

 

 秀次の粛清劇では、「秀吉の秀次粛清は秀吉の言いがかりだ。秀次に反乱の意図は無かった」という意見が多いです。確かに、秀次に反乱の意図はなかったでしょう。しかし、秀吉にとっては、秀次自身に反乱する意図が無かったとしても、誰かが秀次を担ぎ出す、あるいは勝手に旗頭にして反乱を起こす、そうなると秀次自身の意思に関わらず、それはあっと言う間に、一気に秀吉政権を転覆する大反乱に繋がりかねないと本気で怯えていたのです。これほどの秀吉政権への怨嗟が起こったのは長引く「唐入り」による疲弊への、民から大名に至るまでの秀吉政権への恨み・怒りに他なりません。

 

 つまりは、「唐入り」で「反乱など起こそうなどしなくなる」ことを秀吉が目的としたのだとしたら、実際にはまるきり正反対の効果を生んでいる訳で、やはり秀吉のやっていることは「愚行」としか言いようがありません。

 

 やっている事が「戦争」である以上、やるならば勝たねばならず、勝たなければ秀吉政権は崩壊の危機になるのは当然です。もし秀吉が本気で勝敗のことなど何も考えず、ただただ武士たちに仕事を与えて疲れさせれば反乱をする気がなくなるだろうという動機だったとしたら、やはり秀吉は「耄碌」したとしか言いようがないでしょう。

 

 結局、秀吉はもちろんこの戦、「勝つ気」でいたのです。これは、おそらく相手の国(明・朝鮮)の国力の過小評価によるものです。この時代の秀吉の言動を追っていくと、秀吉は朝鮮の国力を琉球程度、明国の国力を日本全国程度にしか考えていなかったのではないかと思います。(比較はこの頃の秀吉の言動から見た筆者の私見にすぎませんので、「ソースは?」とか聞かないでくださいね。)よくこの頃の秀吉を誇大妄想といいますが、誇大妄想というよりは、相手を(非現実的なレベルで)過小評価していたのではないかと思われます。また、「異国」に攻めるという感覚ではなく、日本国内を攻める延長上で攻めている感覚のようです。

 日本国内で戦争するロジックで勝てると本気で秀吉は思っていたのです。異国と戦争するのは全然戦争のルールが変わってくるのに、日本国内の戦争のルールで通用すると思っている時点で、もはやそのやり方ではやっていけないのは自明でした。やはり秀吉は(比喩的な意味で)「耄碌」していました。

 

 この「唐入り」、三成をはじめとしてまともな人物は、皆反対していました。まともに思考すれば成功する確率は全くないに等しい、無謀なプロジェクトだったからです。それを押し切って秀吉は戦争をはじめます。こういう「愚行」は「愚行」、「失敗」は「失敗」、「耄碌」は「耄碌」ときちんと評価すべきです。

 

 さて、仮装パーティIN名護屋です。(仮装パーティ自体は史実です。)この仮装パーティの描写が実にくだらないのですが、前述した通りこれはわざとでしょう。ここで脚本家が描きたいのは「朝鮮出兵の前線で兵が苦戦する中、名護屋では秀吉主催のばかげた仮装パーティをやっている。豊臣の滅亡は近い」という感じでしょうか。おおまじめに仮装をやろうとすればするほど、ばかばかしさも増幅するというものです。

 

 しかし、ドラマなのですから、その「唐入り」の前線の様子をちゃんと「絵」にして描かないと、コントラストにならないのではないでしょうか。清正が、伝令の報告受けて怒鳴っているシーンだけではしょっているのは、明らかに手抜きで対比になっていません。なんか諸事情があるのか知りませんが、これは演出としてダメダメでしょう。

 

 というか、なぜに昌幸は瓜売にこだわるのでしょう。どうせくだらん仮装パーティなんですから、そんなもの太閤に譲ればよい話です。本当にくだらない。(細かいところですが、生まれついての武士で、おそらく行商人などやったことがない昌幸より、若い頃行商人をやっていたとされる秀吉の方が瓜売の真似は普通に考えてうまいはずでしょう。これもちょっと無理があります。)

 

 そして、佐助・・・・・・。そんなことで、泣くんじゃねえ!!本当にくだらん。いやわざと描いているのは分かりますが、こんなくだらんことに昌幸、昌相、佐助を巻き込むのをやめてほしいです。(昌幸パパは、最早このドラマではそういうキャラとなってしまっているので、もうあきらめていますが。)

 

 全然関係ないですが、なんで且元は猿回しやっているのでしょうか。(これもコントなんでしょうけど。)昌幸の瓜売かぶりより余程命がけのような気がしますが・・・・・。

 

 秀吉の母のなかが亡くなったのをセリフで流したのも、なんか力の配分を間違えているような気がしますね。秀吉が真田一家をあっさり信濃に戻すのを許す伏線に使われている訳ですから、こういう描写こそ尺を使えばという気になります。

 

 とりのナレ死フラグカットは、まあどうでもいいです。(他の方の感想に任せます。)

 

※次回の感想です。↓

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YOMIURI ONLINEのコラム「ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」の感想

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 YOMIURI ONLINEのコラムで以下のようなコラムがあります。(歴史研究者の方でもないコラムにあまり批判的に言うのもどうか、という話なのですが、あまりにも典型的なので・・・・・)

ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術」

http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20160627-OYT8T50092.html?page_no=1

 

 なんというか、この方が何も史実については調べないで、まさに(今回の大河ドラマを含む)ドラマや小説の描写を当然の前提として、石田三成の人物評を書いているのが分かります。(しつこいですが、筆者の方は歴史研究者とかではないので、こんなもんでしょう。一般の方の視点で書いていると見るべきなのは、その通りです。)

 

 以下、引用します。

「大企業には経営企画という組織があり、時には

 「机上の空論ばかり言っているやつらの命令で仕事したくない」①

 と、現場からは疎まれても現場をコントロールし続ける立場の部署がある。おそらく三成は仕事の理想を追う中間管理職として、現実を知る現場(現代なら営業など)の管理職と対決をしていたのであろう。②同僚からは、仕事と割り切る姿勢が反感を生んで疎まれる存在であったようだ。③

 「頭はいいけど性格に難があり気遣いが出来ず、人望はなかった」④

というのが、よく聞く三成評だ。関ヶ原の戦いで、小早川秀秋吉川広家脇坂安治など多くの同僚武将から裏切られたからである。④福島正則加藤清正といった豊臣家の「武断派」(軍人)と折り合いの悪さなどから衝突し、関ヶ原の戦いの原因となったことも有名な話だ。⑥

 一方、戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない⑦(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)。⑧おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?⑨」(番号ブログ主)

 

 たとえば、①ですが、「机上の空論」というのは、具体的に三成のどんな行動を指してこう言っているのか、よく分かりません。②の「仕事の理想」とは、「現実を知る現場」とは、その「対決」についても何を指しているのかよく分かりません。③「仕事と割り切る姿勢」というのもなんだかよく分からない。

 正直、これって筆者自身も分かっていないのではないか?という気がします。史実の三成の具体的な行動を見て、こうした感想を書いているのではなく、ドラマや小説の三成の人物像を見て、漠然とした全体的なイメージでこう書いているのに過ぎないのではないかと思われます。

 ④の評など、まさにドラマ等で書かれているフィクションの人物評をそのままの前提として書いているだけです。

 ⑤で、小早川、吉川、脇坂をひとくくりに「同僚」にしている時点で多分この筆者もそれぞれの武将について何も分かっていないだろうし、それぞれ裏切る理由は別々に検討しなければいけないのに、「三成の人望のなさ」がすべての原因となっているらしいです。こういうのも、ただ単に個別に検討するのが面倒くさいから原因を無理矢理ひとまとめにしているのに過ぎません。

 ⑥「武断派」との折り合いの悪さから衝突したことが、「関ヶ原の戦いの原因となった」という意見ですが、関ヶ原の戦いの原因は、家康の上杉征伐が原因なので、これもそもそもの前提がおかしいです。

 ⑦「戦の現場のリーダーとしては大きな成果をあげられていない。」という筆者の評価ですが、逆にこの筆者の三成の評価そのものが興味深いと言えます。

 そもそも、戦の現場のリーダーとしての三成は諜報(賤ヶ岳の戦い)であったり、兵糧奉行(島津征伐、文禄の役等)であったり、調略(賤ヶ岳の戦いでの上杉との交渉、対北条・伊達(想定)戦での反北条・伊達大名の糾合等)であったり、開城交渉(島津攻めにおける新稲忠元の説得)であったり、軍目付としての前線からの撤退の進言であったり(文禄の役)、戦後の撤兵対応(慶長の役)であったりする訳で、これを「大きな成果をあげられていない」と評価すること自体が、つまりは、戦で大将の首を取るとか、城を落とすとか(三成も北条攻めで館林城を開城させていますが)の目立った成果だけが「大きな成果」であり、こうした「裏方」の成果は「大きな成果」とは呼ばない、という筆者自身の評価基準を示しています。(というか、それ以前の問題としてこの筆者の方は、三成が数々の戦に従軍していること自体知らないのかもしれませんが・・・・・・。)

 しかし、これは筆者自身の評価であるとともに、当時の武将達の一般的な評価だったのかもしれません。(ところが、上司の秀吉はそうした「裏方」の評価を正当にしていました。)そうした「裏方」の評価などしない武将もいたであろうことも確かに想像はできます。ここら辺あたりは「あいつは過大評価されている」と、確かに一部の武将から反発される要因になったかもしれません。

 上記であげたように、数々の戦の現場で三成は働き、「成果」を挙げているので、 そもそも「現場を知り」つくしているし、朝鮮出兵の時の三成の対応を見ても「机上の空論ばかり言っている」どころか、「現場を知り」つくしている対応としか言いようがありません。

 前に大河ドラマ軍師官兵衛』感想にも描きましたが(以下参照↓)

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 この回の創作ドラマにおいても、「現場を知りつくした武将=官兵衛」、「現場を知らない奉行=三成」という描き方がされていましたが、なんとその「現場を知りつくした武将=官兵衛」の行動がそのまま史実の三成の行動そのものだったという驚天動地の捏造時代劇を描いていました。こういう描写を見ても、相当に史実を捻じ曲げないと、「現場を知らない奉行=三成」というのは描き得ないのだということが分かります。

 つまり、「現場を知らないエリート=三成」という構図は全くのフィクションといえます。

 ⑧(北条攻めの際の「忍城」攻略失敗など)については以下のエントリーで書きました。

(つまりは、水攻めは秀吉の指示によるもので、忍城を水攻めで落とすのは元々困難であり、三成は反対しているにも関わらず、秀吉が何度も((小田原にいる)城主の成田氏長が降服しても、小田原城が落城しても!)水攻めを続けるのを厳命したというのが結論です。)

 ↓

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 ⑨の「おそらく、実戦現場の中間管理職は、いざ現場で仕事をする時の三成に非協力的で、彼が失敗したときには「ざまあみろ」と陰口をたたいていたのではないか?」という筆者の推測は、その忍城攻めの時に同行した諸将のほとんどが西軍についていることで、その推測は間違っていることの回答になるでしょうか。

 そもそも当時、忍城攻略が「失敗」であったという認識そのものがあったかすら不明です。(忍城攻略が「失敗」という話になったのは、江戸時代以降です。)仮に、その当時から内心、忍城攻略が「失敗」だと思う人がいたとしても(史料では確認できません)忍城水攻めは秀吉の指示ですので、忍城攻略を失敗として馬鹿にするということは、すなわち秀吉その人を馬鹿にすることと同義ですので、そんな恐ろしい考えを表に出す人はいないでしょう。

 

 忍城攻めというのは、史実を知れば、まさに「現場を知る」中間管理職=三成が、「現場を知らない」トップ=秀吉の命令に振り回されるという話で、「サラリーマンあるある話」としか言いようがないのですが、いまだそうしたドラマが描かれたことはありません。それはそうでしょう。秀吉といえば、百戦錬磨の現場指揮官で戦に勝ち続けて天下を取った人物なのですから、そうした人物を「現場を知らないエリート」と描くのはドラマ的に無理です。(ただ、現実的には「現場をよく知っていた」人間でも、その現場から離れてしまえば、「『その』現場」のことは実はよく知らなくなる、という教訓にはなりますが。(もっとも秀吉は当時、小田原という「別の現場」にいたわけですが。))

 一方、三成は、つまるところ江戸時代を通じて(筆者の方が言う通り「徳川政権によるネガティブキャンペーンが浸透した結果」)「戦下手」のレッテルを張られた人物ですので、史実に反してでも「現場を知らないエリート」と描きやすいです。「ドラマ」として描きやすいか、描きにくいかが結局脚本の基準な訳ですので、それと史実は別物です。しかし、一旦ドラマ(や映画)として定着すると、それがあたかも「史実」であるかのように受け止められてしまいます。ドラマや映画の影響は大きいといえます。

 

 続きを見ていきます。

「さて、このように考えると三成は

 ・上司と部下は高い評価
 ・同僚からは低い評価

 の存在であったと言える。」

 

 とありますが、これも単純すぎます。まず、三成は「取次(外交官)」としての役割が大きいので、「高い評価」の中には「取次先の大名」も入れるべきでしょう。取次先の大名というと、上杉、佐竹、真田、毛利、島津、いずれも西軍についた大名です。他の取次先で東軍についた津軽為信は三成の子供達の命を救い、真田の中で東軍についた真田信之は江戸時代になっても石田三成からの手紙を残し続けました。

 また、「同僚」というのはおおざっぱすぎます。大谷吉継の他にも他の奉行衆はどうなのでしょうか?小西行長は?小早川秀秋が「同僚」になるのでしたら、宇喜多秀家は?織田秀信は?立花宗茂 は?

 上記のような単純化はちょっと無理なのが分かるでしょう。

「人事評価的に「人間関係構築に難あり」くらいの申し送り」

 

って誰が誰に申し送りをするのか知りませんが、どちらかというと三成は取次=人間関係構築のスペシャリストなので、主に取次の才能で出世を果たした三成がそんな評価になる訳ないでしょう。

 

「社長代行の家康の野心に鑑みれば

 1.そのまま家康体制が続くこと
 2.家康が豊臣秀頼に社長を引き継ぐ

と、2パターンの体制を考えた「経営企画としての対応」をすればよかったのだ。

 実際のところ、社長代行の家康は前者の道を選んだ。秀吉社長の死後、社長が禁止していた大名家同士の婚姻禁止の法度をさっさと破り、有力大名と姻戚関係を結び始めた。さらに五大老五奉行による合議体制を崩して、豊臣家から政権を奪おうという動きを見せ始めた。こうした動きに対して三成は反感を覚えて対立した。秀頼への事業承継しか考えていない三成は、家康の行為が許せなかったのだ。

 それでも、三成がサラリーマンの中間管理職なら、冷静に家康社長代行に仕えるべきであった。会社の行く末を導いてくれる上司は、消去法かもしれないが家康であったはずだ。ならば、前社長の方針を踏襲しない方針であっても、それを容認する度量が求められた。」

 

って、「それを言っちゃあ、おしめーよ」としか言いようがないでしょう。つまり、筆者の言いたいことは家康の豊臣政権乗っ取りを、三成は指をくわえて見ていればよかった、というのにつきるでしょう。これはこれで筆者自身の人生観として、そういう考えを持つのは勝手ですが、まあ結局は「たとえ義に反しても、強い者には従え、長いものに巻かれるのが処世術だ」という一般論でしかありません。確かに処世術としてはありかもしれないですが、これを堂々と広言するのは、あまりにも情けなくないか、という気がします。これは三成とかの人物評価以前の価値観の問題です。

 というか、もしそのような情けない行動を三成がとった場合は、そもそも歴史上に名が残ることもないでしょうし、こうしてYOMIURI ONLINEのコラムで三成の人物評価をするコラムが書かれる事はなかったでしょう。

 

「家康も三成を実務家として評価していた、との話もある。三成が家康体制を容認していたなら、江戸時代に貴重な老中=経営幹部として活躍したかもしれない。」

 

というのは、ありえませんね。というのは、家康は外様大名を政権に参画させることはなかったからです。秀吉が生きている間は、豊臣政権に外様大名を参画させることはなかったのですが、秀吉の遺言により、その死後は外様大名大老として政権に参画させました。その結果が豊臣政権の崩壊です。家康は、この豊臣政権の崩壊の教訓(まあ、豊臣の外様大名たる自分自身が崩壊させた訳ですが)から、外様大名を徳川政権に参画させることは絶対にやめるべきだと悟ったのでしょう。後の幕末に徳川政権が外様大名政権運営に参画させたことが、徳川幕府崩壊の大きな要因となります。

 

「一方、三成が現場の同僚を敵にまわさないためには、どうしたらよかったのか? 現代の会社でも現場部門と本社部門の対立はよくあることだ。その対立の原因となるのがお互いのセクショナリズム。例えば、営業と製造、開発と製造とお互いの利害を主張しあい妥協できなくなる状態だ。

 三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。⑩戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪からすれば、三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?⑫だから、三成はその存在を排除するために襲撃されたのである。

 こうした対立関係を解消するにはどうしたらいいのか? 現在の会社で行われている取り組みに鑑みて、「プロジェクトワーク」が効果的と考える。プロジェクトワークとは、組織横断で会社のために行う取り組みだ。⑬」

 

というのも、別に戦国時代の三成を持ち出さなくていい、現代のビジネスの一般論的な話にすぎないです。なんで、無理矢理三成に絡める必要があるのでしょう。(まあ、読売新聞にそういう原稿を書いてくださいと頼まれたからでしょうけど。)

「三成が本社の経営企画担当として現場に強いたことが、現場にとっては「頑張っても報われない」とか「本社は間違った方針を出している」としか思えなかったのであろう。」とかは、具体的に史実の何の行動を評しているのでしょうか。さっぱりこの文章からは分かりません。

「三成は(現場を尊重しない)逆の人事制度を導入しようとしているように見えたのではないか?」というのも、その「人事制度」ってなんでしょう?というか、三成が豊臣政権の人事制度を構築しているんでしょうか?普通に考えて人事制度(遺言体制も含めて)はトップの秀吉が構築しているんですが。要は具体例が何もない。

 ⑬のアドバイスは秀吉に向けられるべきだったでしょう。(いや、秀吉向けのアドバイスにも役に立っていませんけど。)

 ただ、家康が「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職)⑪」のニーズに答えたというのは確かでしょう。つまりは、これはもう1回日本国内で戦争を起こそうという話に他なりません。これが筆者の考える「最適解」ということで良いのでしょうか?

 

 結局、秀吉が後継体制(五大老五奉行制)を構築したときに、そこから排除された武将達のことを秀吉が何も考えていなかったということが、豊臣政権の最大の問題点だった訳です。

 特に、秀吉の従兄弟の福島正則、遠縁の加藤清正、おいの小早川秀秋等。結局豊臣政権とは一族経営なので、こうした親族(遠縁も含め)を死後の豊臣政権に参画させないと、出世の「負け組」とされたと感じた彼らは「非主流派」となり、その「非主流派」が、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ「徳川派」になっていくことになります。福島正則など秀吉の死後、真っ先に徳川家との婚姻を進めている訳です。

 秀吉の従兄弟である福島正則すらが、家康にすりよっている体たらくを見ればこの豊臣体制は遠からず崩壊すると諸将に思われても仕方ありません。秀吉は自分の親族に冷たく過酷な扱い(秀次の粛清等)をしていますが、一族経営なのにただでさえ少ない一族を冷遇したのでは豊臣政権が崩壊しても仕方ありません。

 五大老五奉行のうち、特に五奉行の実態は中小大名にすぎず、豊臣一族でもありませんので、彼らの力の源泉は秀吉の残した遺言と掟しかなかったのです。これを否定することは彼等自身の立場を否定することになります。これが三成ら五奉行の「限界」といえるでしょう。だから、五奉行が秀吉の遺言に反して自由に豊臣政権の人事制度を構築したり、勝手に(豊臣の領土を削って)恩賞を与えることなど極めて困難でした。

 これに対して、この遺言体制を破って新しいプロジェクトをはじめたのが家康でした。この時代のプロジェクトとは、つまりは「戦争」です。秀吉の「対外戦争」プロジェクトは散々な失敗に終わり、恩賞もほとんど与えられません。多くの家康についた東軍武将は、もっと恩賞を、領地を欲していたのです。そのニーズに答えたのが家康でした。彼は三成を排除した後、まずは前田利長に言いがかりをつけ、戦争を始めようとします。ところが、あっさりと利長は屈服してしまったので、次に言いがかりをつけたのが上杉景勝です。この予定された戦争に勝利することによって、家康派の武将は恩賞や領地を獲得することができます。諸将に与えられる恩賞・領地は上杉の領地だけでは足りないでしょう。家康は豊臣家の領地を削って恩賞にしようと考えています。こうして、豊臣家を弱体化させることも、家康が戦争を欲した大きな原因でした。

 こうした家康社長代行の意図に気が付いて驚愕したのが、当時残っていた二大老毛利輝元宇喜多秀家)と三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)でした。家康社長代行のやっていることは、朝鮮出兵から撤兵しようやく「平和」になったはずの日本に新たなる「内戦」を起こすものでしたから。当時「天下殿」とも言われた家康社長代行が、社長代行になってはじめたビジネスが「内戦」なのですから、とんでもない話です。

(三成隠遁後、一時期、二大老・三奉行が家康を支える体制になったのは、「とりあえず家康を社長代行として支えないと、豊臣政権は持たない」と考えたためですが、その家康が社長代行になってやろうとしたことが「内戦」ビジネスな訳ですから、彼らは家康に大きく失望したのです。)

 特に、二大老毛利輝元宇喜多秀家)は上杉が倒されたら、次なる家康の「内戦」ビジネスの標的となるのは自分達だと分かります。これはバカでも分かります。ということで、二大老・三奉行と三成は結束して、家康の暴挙をくいとめるために立ち上がったのでした。これが「内府違いの条々」クーデターです。

 家康が「天下泰平の礎を築いた」というのは結果論です。秀吉の死後の家康の正体は、ようやく「平和」になった日本に内戦を起こそうとする、きわめて好戦的な男にすぎません。おそらく、もう少し西軍の総大将毛利輝元が有能な人間であれば、下手をするとこの「内戦」は膠着状態となって長引き、また日本は百年以上戦乱の時代が続いたかもしれません。関ヶ原の戦いとされる日本を二分する戦いがあっさり終わったのは、西軍の総大将毛利輝元が惰弱で、あっさり降伏(なんと関ヶ原の戦いの前日に)してしまったからです。

 ついでに言うならば、幕末に日本が内戦状態にならず、あっさり明治国家ができたのは、徳川慶喜が惰弱で、戦わずあっさり恭順してしまったからです。(この時の徳川の敵が長州藩というのもまた歴史の皮肉ですね。)

 こうして考えるならば、徳川幕府が「天下泰平の礎を築いた」のに一番貢献したのは、「毛利輝元の惰弱さ」であるといってよいのではないかと私は思います。

 こういうコンサルタントの方に申し上げたいのは、安易に戦国時代の組織を現代のビジネス組織に例えるのをやめてほしいのですね。戦国時代のビジネスとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトとはなんですか?「戦争」です。プロジェクトを立ち上げる、事業を立ち上げるとは「戦争」するということなんです。秀吉の「唐入り」も、家康の「上杉征伐」も当時の武士たちのための公共事業です。戦国時代の戦国武将ビジネスとは当然血なまぐさいものです。あまり、安易に現代のビジネスと比較できるものではありません。

「戦で活躍することこそ高い評価につながると考えている現場の中間管理職⑪」のニーズに答えるというのは、つまりは「戦争」するということです。そして、豊臣政権の乗っ取りをたくらむ家康は、「内戦」を無理矢理起こして、そのニーズに答えました。でも、こういう「やり口」って当時としてもどういうもんなのか、と思う訳ですし、少なくとも三成の考えとは真っ向から違うでしょう(しかもその内戦の標的が三成の「取次」先の上杉家なので、これは「武士の面目」に関わる事態です。)。だから、三成が家康の家臣になることはそうした意味でもありえないことだったといえます。

 あと、念のため、最後あたりで真田信繁のことに触れていますが、信繫は江戸時代も大坂の陣まで生きていますし、大坂の冬の陣の後に徳川から引き抜きも持ちかけられています。(信繁は断りましたが。)この書き方だと、もしかして、その事も知らずに書いているのではないか、と思ってしまいます。

 こうやって、一行ごとに突っ込むしかないコラムなのですが、別にこれは筆者だけがおかしいのではなくて、筆者は、世間の三成に対する一般的な偏見、イメージをそのまま文章にして書いているに過ぎず、一般の人達の偏ったイメージをそのまま代弁しているのだともいえます。このイメージの形成はどこから来たかといえば、結局は大河ドラマとかのイメージなわけで、結局一般の人達の歴史上の人物評価というのはそうしたドラマの人物評価がそのままダイレクトに反映されてしまっているのです。ここら辺の偏見を払拭するのはかなり大変だなあ、とこのコラムを読んで改めて思いました。

大河ドラマ『真田丸』 第25話 「別離」 感想

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 ※前回のエントリーです。↓

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 今回は泣いてしまいしました。かつて、鶴松の死がこれだけ詳細に描かれたドラマがあったでしょうか?鶴松の死が、豊臣家の運命を変えていくのですが、かつてのドラマではあまりにもあっさり流されていました。

 

 秀吉が死に至る病状である鶴松に動揺してふらふらして、信繫が「良いことだけ考えましょう」と言うのも、これはフィクションであっても良いシーンです。鶴松の死後の最後あたりの、呆然としてふらふらしている淀殿北政所の脇を(避けて)通り過ぎようとして、無理に北政所淀殿を抱きしめて、淀殿が号泣するシーン、本当に泣けました。三成の清正、正則の水垢離の誘いを一度断って、あえて行くシーンも泣けます。

 

 それ以外の千利休のシーンは一から十まで、すべてデタラメです。(どれだけデタラメなのか、後のエントリーで書きます。)こういうのさえなければ、いいドラマなのですが。本当に、今回は褒めたいのに、なんでこういうのを混ぜなければいけないのでしょうか。

 

千利休切腹の理由については以下にまとめました。(脚本のデタラメさは、大徳寺の山門像以外は、元から全部フィクションなので、いちいち書いていませんが・・・・・・)

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 いや、頼むからこういう良いドラマを書けるのに、どうしようもないデタラメなフィクション(しつこいけど、フィクションを混ぜること自体は否定していません)を混ぜるのをやめて欲しいです。三谷氏は名脚本家なのですから、史実に配慮しつつ、本当に感動できる脚本が書けるはずです。

 

※次回の感想です。↓

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石田三成と忍城水攻めの実相について

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のぼうの城』で有名になった、石田三成忍城水攻めですが、俗説での大まかな流れは「三成が忍城水攻めを思いつき、堤をつくって攻めたものの、堤が決壊、水攻めは失敗して、小田原城開城後にようやく開城、石田三成の『戦下手』ぶりを示すことになった」といったところでしょうか。『のぼうの城』は、忍城の守将である成田長親が主人公ですので、当然俗説に沿って書かれています。

 

 しかし、中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』(サンライズ出版)によりますと、実際の史実では忍城の水攻めを指示したのは豊臣秀吉であり、三成は水攻めに反対していたということです。

 

 以下の記述は、主に中井俊一郎氏の『石田三成からの手紙』を参考にしました。

 

 まず、三成が佐竹義宣・多賀谷重経・宇都宮国綱ら約3万の軍勢を率いて城攻めを行うことになったのは、それまでこの別働隊を率いていた浅野長吉が、天正18(1590)5月末に小田原攻めをしている秀吉本隊に召還されたためです。これは、伊達政宗が小田原に参陣することになったため、伊達家との取次をしていた長吉がその対応をしなければならなかったことによります。三成はそれまで小田原の秀吉の陣下にいましたが、長吉と入れ替わる形でこの別働隊を率いることになります。佐竹義宣ら、関東の反北条・伊達大名の取次を行ない、対伊達の戦争に備えていたのは三成でしたので、その関係で三成が率いる形になったのだと思われます。この時に大谷吉継も共に忍城攻めに従軍しています。(ので、この辺でも『真田丸』の描写は誤りです。というか、『真田丸』では忍城攻めについて正しい場面などひとつもありませんが。)後にはこれに上杉景勝真田昌幸の軍も加わります。

 

 三成らの一隊が館林城に到着したのは5月26日。大軍に包囲された館林城は、その4日後の5月30日にあっさり開城します。一隊がその次に攻略に向かったのが忍城でした。

 三成の一隊が忍城に着いたのは、6月5日以降のことです。

 

 その後、6月12日付で秀吉から三成にあてられた書状があります。

 

「忍の城の儀、御成敗加えらるべく旨、堅く仰せつけられ候と雖も、命迄の儀は御助けなさるべく候様とも、達て色々嘆き申す由候。水責に仰せ付けられ候は(略)足弱以下は端城へ片づけ(略)扶持方申し付くべく候(略)其方御疑いなされるべく非ず候間、別奉行は遣わさるに及ばず候(略)」(*1)(下線筆者)

 

 上記の書状を見ると、水責(水攻め)は秀吉の指示であることがわかります。

 

 これとは入れ違いに6月13日付で三成が浅野長吉、木村常陸介に宛てた書状があります。

「昨日、家臣に丁寧な口上をいただきました。忍城のことは、思惑通り順調に進んでいるので、先発の者は引き取りたいとのご指示でしたので、そのとおりにしました。しかしながら、城攻めの諸将は水攻めと決めてかかっているので、全く攻め寄せる気がありません。城内から半分の人数が出る(投降してくる)よう城方に働きかけているとのことですが、そんなやり方では遅すぎるのではありませんか。もう城方の詫言などにかまうべき時ではありません。まず攻め寄せるべきです。ご指示お待ちしています。

  以上 

昨日河瀬吉左衛門尉進之候処、御懇之返事、口上被仰含候段、令得心候、忍之城儀、以御手筋大方相済ニ付而、先手之者可引取之由蒙仰候、則其文ニ申付候、然処諸勢水攻之用意候て、押寄儀も無之、御理ニまかせ有之事候、城内御手筋へ御理、半人数を出候ハゝ、遅々たるへく候哉、但人数を出候共、御詫言之筋目ハ、其かまい有之間敷候ハゝ、先可押詰候哉、御報待入候、猶口上申含候、恐々謹言、

            石田少

 六月十三日       三成(花押)

浅弾(浅野長吉)様

木常(木村)  様

 御陣所

 天正十八年(一五九〇)六月十三日、浅野長吉宛書状 浅野家文書 大日本古文書所収」(*2)

 

 つまり、城攻めの諸将が水攻めだと思っているので、城に押し寄せる気をなくしている。まずは攻め寄せるべきではないか、と浅野長吉、木村常陸介に尋ねています。この書状からは、三成自身は諸将が攻める気をなくすため水攻めに反対で、まず力攻めをすべきだと考えていることがわかります。

 

  しかし、その後(*1)の書状が三成に届いたと思われるわけで、秀吉自身の指示で水攻めを行うとされている以上、三成としては指示に従わざるを得なかったのでしょう。

 

 ちなみに「豪雨によって土堤が崩れたために、水攻めが失敗した」というのが従来の通説なのですが、桐野作人『火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』(新人物往来社)によりますと、

 

「『家忠日記』(筆者注:記主の松平家忠は、徳川家家臣で当時小田原在陣しています。)によれば、五月中旬から六月五日までほぼ連日雨が降っていたのに、土堤が完成してからはほとんど降らなくなった」(*3)(土堤が完成したのは桐野作人氏によると「6月14日」(*4)となっています。しかし、出典が書いてなく、おそらく、江戸時代の軍記物を参照されているかと思われますが、おそらくこの時点では完成していないと思われます。(理由は後述します。))

 

 また、「この豪雨になった日だが史料によって十六日説と十八日説がある。ところが、右の『家忠日記』によれば、両日とも雨が降った気配がない。間の十七日に夕立があるのみである.。小田原と忍(現・行田市)はそれほど離れていないから、天候にさほど違いがあるとは思えない。それに、この合戦の基本史料である「忍城戦記」にも、この豪雨と堤防崩壊の記述がみえない。」(*5)

 

とのことですので、豪雨によって土堤が崩れたという事実はなかったと思われます。

 

続いて、6月20日付秀吉の三成宛書状。

 

「水責め普請のこと、油断なく申し付け候は尤もに候、浅野弾正真田両人、重ねて遣わし候間、相談し、いよいよ堅く申し付くべく候(略)普請おおかたでき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候」(*5)(下線筆者)

(筆者注:浅野弾正=浅野長吉、真田=真田昌幸

 

上記からは、やはり秀吉の意思が水攻めであることが確認されるほか、6月20日の段階ではまだ堤は完成していなかったことがわかります。「普請おおかたでき候はば、御使者を遣わされ、手前に見させらるべく候」とあるので、逆にこの時点では普請はおおかたできていた訳ではないことが分かります。

 

 鉢形城攻め(6月14日開城)に参加していた浅野長吉は、7月1日頃に、忍城についたようです。(*6)浅野長吉が戻ったことにより、一軍の指揮権は長吉に戻されたのか三成が指揮をし続けたのか不明ですが、長吉は三成の上司筋にあたりますので、長吉が戻ったら指揮権は長吉に戻ったと考えるのが自然でしょう。

 

 7月3日付秀吉の長吉宛書状。

 

「皿尾口乗り破り、首三十余討ち捕るの由、絵図をご覧なされ候、破り候てしかるべきところに候条(略)とかく水責仰せつけらるる事に候間、其の段申し付くべく候也」(*7)(下線筆者)

 

 上記を見ると、忍城の皿尾口を破って首を三十余を討ち取った功労を上げた長吉に対して、破って当然だと褒めることもなく、水攻めにしろと重ねてしつこく秀吉が言っていることがわかります。つまりは、落城が早くなるかもしれない力攻めはするな、ともかく水攻めをするのだと念押しをしているのです。

 

 7月6日付秀吉の上杉景勝宛ての書状。

「小田原の事、氏政を初めとして、そのほかの年寄ども四五人切腹すべく候。(略)しからばその表の人数、この方へ入れず候間、忍面へ早々相越し、堤丈夫の申し付くべく候、十四、五日ごろには、忍面の堤の躰ご見物なさるべく候条。」(*8)

 

 7月5日に北条氏直は秀吉に降服しています。つまり、北条氏が降服した後にも関わらず、秀吉はなおも忍城の水攻めの継続を指示しているのです。

 

 7月16日に忍城は開城します。これに対し、桐野作人氏は「また忍城が開城した日についても、二説ある。六月二十七日説(『関八州古戦録』『稿本石田三成』など。「忍城戦記」も二十五日の直後とする)と七月十六日説(『行田市史』など)である。

現在は小田原開城のあととする後者が通説となった感がある。しかし、小田原城中にいた成田氏長が秀吉の勧めで、六月二十日頃に投降を承諾している事実がある。これが忍城に伝えられ、折から水攻めを受ける苦衷と相まって、六月二十七日に開城したとするほうが合理的な解釈ではないだろうか」(*9)

 

としていますが、(*7)(*8)の秀吉書状を見る限り、7月以降も水攻めの継続を指示していることが分かりますので、6月27日開城はなく、やはり通説どおり7月16日開城が正しいと思われます。

 

 しかし、成田氏長が6月20日頃に投降を承諾している事実も大きいです。城主(といってもこの時は小田原城にいるのですが)の氏長の投降の意向が城に伝えられることによって、本来忍城攻めは開城し、城攻めも終わるはずなのですが、最早水攻めそのものが自己目的化した秀吉によって、水攻めを継続させるためにこの城主氏長の投降の事実(更には北条氏の降服すら)は忍城内には伏せられ、7月16日まで水攻めは続けられたということなのだと思われます。

 

 忍城攻めの諸将も城方の諸将も秀吉のとんだ茶番劇に付き合わされたということになります。

 

 上記の一連の書状を見ると、実際の所、開城近くまで堤は完成していなかった(あるいは、堤は完成しても水がたまらなかった?)のではないかと思われます。そして、7月16日の数日前に堤は完成した(水がたまった?)のではないでしょうか。7月も半ばに至って、自分が思い描くように堤が完成した(水がたまった)ことに満足した秀吉は、ここではじめて氏長が投降した事を城内に伝えることを許し、この報を受けて忍城が7月16日に開城したという順番が正しいかと思われます。

 

 ここまで堤が完成しなかった(水がたまらなかった)理由としてはいくつかあるかと思われます。

 

 まず、成功した水攻め有名なのは備中高松城の水攻めがあります。この時に作られた堤の長さは2.5キロメートルほどだとされています。

これに対して、忍城の水攻めで必要とされた堤の長さは28キロに及んだといいます。忍城の水攻めではこの長大な堤による必要な水没面積を必要とします。

 それにも関わらず、前述したように「『家忠日記』(記主の松平家忠は小田原在陣)によれば、五月中旬から六月五日までほぼ連日雨が降っていたのに、土堤が完成してからはほとんど降らなかった」(*3)ということです。つまり、作らなければいけない堤は備中高松城と比べて膨大で、当然引き込まなければいけない水の量も大きかったにも関わらず、予想外に雨が降らず、引き込もうとした荒川・利根川の水流も少なく、水かさが思うようにたまらなかったのではないかと思われます。

 

 長く堤を維持するには補修も続ける必要があります。その労力も大変なものだったでしょう。現地を見た三成は備中高松城の水攻めなどとは比較にならない程、忍城の水攻めは困難であることを理解し、長吉に水攻め反対の書状を送ったものの、主君秀吉が水攻めに固執している以上どうしようもありませんでした。長吉も、戻ってすぐに皿尾口を力攻めしていることから、内心では水攻めに反対していたと思われますが、力攻めを秀吉から叱責される始末です。

 

 上記をみていけば、この戦により石田三成の戦下手が知れ渡り、三成は諸将の信頼を失ったなどということはないといえます。それは、忍城水攻めを共に行った大谷吉継長束正家、多賀谷重経、佐竹義宣真田昌幸上杉景勝らが関ヶ原の戦いで西軍に立ったことからも分かるでしょう。むしろ、秀吉のパフォーマンスに振り回される三成に同情が集まったのではないでしょうか。

 

 結局、忍城攻めは大軍で包囲することにより、相手が降服してあっさり終わるはずの戦い(実際、成田氏長から降伏の申し出はあった)を、秀吉が水攻めの様子を諸将に見せたいという理由だけで、無理矢理引き延ばしただけの戦いです。三成をはじめとする豊臣方も、そして守る成田方も、秀吉の都合に振り回されただけの戦いだったといえるでしょう。

 

(令和3年10月17日追記)

以下に、「石田三成関係略年表⑨ 天正十八(1590)年 三成31歳-北条攻め、忍城攻め、奥羽仕置、大崎・葛西一揆」の忍城攻めに記載のある部分について抜粋を掲載します。

 

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

※「水攻め・水責め」については、(引用部分を除き)「水責め」に統一します。

五月二十八日 ■秀吉、石田三成大谷吉継長束正家に上野館林城・武蔵忍城を命じる。また秀吉、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺らに、三成の指示に従って動くように命じた。(中野等、p108~p109)

五月三十日 ■三成、上野舘林城を開城させる。(中野等、p109)

六月二日 ■秀吉、三成に上野国の代官を命じる。(中野等、p109~110)

六月四日 ■三成、上野舘林城を発ち、武蔵忍へ移動。(中野等、p110)

六月五日 ■三成、六月五日以降は、忍城を囲む。(中野等②、p303)

六月七日 ■加藤清正充て秀吉朱印状。「忍城石田三成に、佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷勝俊・佐野天徳寺を添え、二万の軍勢で包囲するように命じたが、すでに岩付城が陥落したので、(筆者注:忍城の)城方の命は助け、城を請け取るように命じた。」とある。(中野等、p110)

→既に、忍城開城の目途がたっている(降伏の交渉が妥結した)かのような、秀吉の書状です。この書状を見ると、既に忍城は降伏することが決まっているというのが、秀吉の認識なのだと思われます。小田原城内に籠る忍城主成田氏長が秀吉に通じ、密かに降伏を申し出ていたら、秀吉がそのような認識となるのも自然かと考えられます。

 また、岩付(岩槻)城が陥落したため、忍城に積極的に落城させるべき戦略的価値がさほどなくなったことも、秀吉が急いで力攻め行う必要性をなくしたということもあるでしょう。

六月十二日 ■石田三成充て秀吉朱印状。

忍城攻略のことは堅く命じたが、(城方の)命は助けてくれるようにとの嘆願①がある。水責めにすれば②城内に籠もる者は一万ほどもいる③であろうが、(水没して)城の廻りも荒所であるから助けるようにし④城内の者の内で、小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤は、別の城(端城)に移して、忍城を請け取り⑥、岩槻城と同様に鹿垣を巡らせておくように。小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦そなたのことについては、何の疑念も持っていないので、別の奉行を差し向けることはしない。忍城を確保したら、すみやかに報告するように。城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧る。」(中野等、p111)(下線、番号筆者)

→ここからは私見です。上記の書状から考えると、小田原城内に籠っている忍城城主成田氏長が豊臣軍と既に内通しており、氏長の指示で忍城は開城する運びになっていたのだと思われます(「命は助けてくれるようにとの嘆願」①をしているのは氏長と考えられます)。

 ところが、小和田城にいる城主氏長に代わって城を守っていた成田長親らが氏長の指示に反発して開城を拒否し、籠城することで歯車が狂いだすことになります。

 氏長の内通の最低条件が、「小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤」の助命ということでしょう。氏長による内通の利益(小田原城内の状況の密告など?)を得ていた秀吉は、氏長との約束を裏切る訳にはいかず、忍城攻めに対しては、殲滅戦は行わず「水責め②」に切り換える必要があったことになります。更に秀吉はこの書状で内に籠もる者は一万ほどもいる③」(これらは、付近の村から城内に避難した民が多く含まれていると考えられます)が、これらの者も、「助けるようにし④」また、既に「小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦」ことになっているので、「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」)ています。

 

 三成は「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を殺すことなく、城内の籠る民達も「助けるようにし④」、小田原城内で内通している者たちは「召し抱える⑦」予定なのだから「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」る、という条件を全てクリアした上で、相手方を降伏させなければいけないという極めて困難なミッションを抱えることになります。

もとより、戦闘中に「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を見分けて助けるなど困難な訳で、更に秀吉は「内に籠もる者は一万ほどもいる③」がこれも「助けるようにし④」ろ、言っている訳ですから、基本的に城攻めでこのような命令を実行するのは不可能に等しいです。

 敵を殺さずに攻めるとしたら、秀吉の命令通り「水責め②」にするより他にありません。力攻めなどできない訳です。(なお、この書状から「水責め②」は秀吉の命令であった事が明確に分かります。)

 以上の、六月十二日付秀吉書状及び前述の六月七日付秀吉書状を見ると、秀吉の命令は既に相手方が降伏していることが前提な話であるように見えますし、そうでなければ実行が極めて困難なものばかりですが、既に降伏が決定事項ならば、水責めをする必要もないし、城内の全ての将兵及び民も降伏しているはずな訳です(つまり忍城の降伏は決定されていない)。秀吉の命令は意味不明で、三成も理解に苦しんだと思われます。

なお、「岩槻落城後は、忍城の軍略的意味合いも低下し、むしろ敵味方を問わず関東・奥羽の将兵に、上方勢の戦の仕様を見せつけることに意味があったとみるべきであろう。」(中野等、p113)という指摘もあり、忍城を降伏させることより、敵味方の将兵に秀吉のパフォーマンスを見せつけることを目的として、秀吉は「水責め」を選択されたとも言えます。

六月十三日 ■浅野長吉・木村重茲充て石田三成書状。

「昨日、家臣の河瀬吉座衛門尉を遣わしたところ、御懇の返事と口上で詳細を河瀬にお伝えいただき①、諒解しました。忍城のことは、これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰ったのでその通りとします②。ところで、味方の軍勢は水責めの用意を進め、押し寄せることもなく、その方向で動いています。城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③ただし、城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④御返事を待ちます。なお(使者に)口上を言付けします。」(中野等、p112~113)

→この書状の日付は六月十三日付書状ですが、先程の六月十二日付の秀吉朱印状が三成に届いていたかは不明です。しかし、この書状は、三成家臣の河瀬吉座衛門尉を浅野長吉・木村重茲の元に遣わして詳細を伺った事に対する返状であり、その「詳細」とは秀吉朱印状の内容とほぼ同内容が伝えられたのだと考えられます。

三成が忍城に派遣される以前は、浅野長吉・木村重茲が忍城攻略の担当だったと考えられ、三成は「引継ぎ」を受ける必要があったのでしょう。このため、三成は「引継ぎ」を受けるため、家臣の河瀬吉座衛門尉を派遣したということになります。

「これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰った②」のは、浅野長吉・木村重茲ということになりますので、長吉・重茲の話をそのまま信じれば、ほぼ忍城降伏の目途がついたという事になりますが、なぜかその後「水責め」の話になってしまいます。ほぼ「降伏」でかたがつきそうなら、水責めをする必要もない訳で、前任の浅野長吉・木村重茲も、後任の石田三成も、秀吉の命令は意味不明で、困惑していることが伺えます。

「城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③」の「半数」とは、六月十二日付秀吉朱印状に書かれた「別の城(端城)に移」すようにとされる「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)」のことでしょう。「城内への御手立てに任せて」とは、忍城内に内通している者がいるのが前提なのでしょうが、そもそも内通者だけでなく、城を守る成田長親が事前の交渉でこの条件を受諾していなければ、城内の半数の引き渡しなど無理でしょう。三成が「ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)」③と書いているところからみれば、このような条件での城方との交渉は全く行われておらず、ゼロから交渉しろということになります。このような「引継ぎ」を受けた三成の困惑はいかばかりか、と思われます。

「城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」

→「城内の半数を退去させる」という条件交渉を貫徹せず、ただ単に「(殲滅せずに)降伏させる」という目的だけを守ればよいのなら、何もしていなくても相手方が「城内の半数を退去させる」という条件を受諾するとは思われませんので、「すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」と三成は聞いています。これに対する長吉・重茲の返信があったかは分かりませんが、六月十二日付の秀吉朱印状の内容から考えると、「すみやかに攻撃をかける(力攻め)」ことも不可、あくまで水責めをするとともに、条件交渉も行え、という返信が三成にあったのだと思われます(こうした返信がなくても六月十二日付の秀吉朱印状の内容で、秀吉の意思は三成には伝わったと考えられます)。

六月二十日 ■石田三成充て豊臣秀吉朱印状。

「◇其所について送って絵図と説明を諒承した。水責めのための普請を油断なく命じたこと、尤もである。浅野長吉・真田昌幸の両名を派遣するので、相談の上、手堅く措置するように。普請の大部分が出来上がれば、使者を遣わし実見させるので、それを招致して精進するように命じる。」(中野等、p114)

六月二十四日 ★北条氏規の籠る韮山城開城。(小和田哲男、p242)

六月二十六日 ★相模石垣山城が作られる。(柴裕之、p109)秀吉、石垣山城に本陣を移す。(中野等、p105)

七月一日 ■この頃、浅野長吉が忍城攻めに戻った。(中井俊一郎、p36)

七月三日 ■浅野長吉宛て秀吉書状。

「(忍城の)皿尾口を破って首を三十余り取ったそうだが、絵図を見れば破って当然のところだ。(忍城は)ともかく水攻めにする。その段申し付ける。」(中井俊一郎、p36~37)

→浅野長吉が忍城の皿尾口を「力攻め」した報告に対する秀吉の返状とみられます。秀吉は、皿尾口は破って当然のところであり、ともかく「水責め」の履行を命令します。ここから、(「力攻め」ではなく)「水責め」が遵守すべき秀吉の既定方針であることが分かります。

七月五日 ★北条氏直、豊臣軍に投降。(柴裕之、p109)

七月六日 ★小田原城開城。(柴裕之、p109)

七月六日 ■上杉景勝宛て豊臣秀吉書状。

「小田原では(筆者注:北条)氏政をはじめ、その他年寄りたち四、五人切腹させます。(略)ついては(小田原の事は片付いたので)こちらへ来ずに、忍城へ早々に行って、堤づくりをしてください。十四、十五日頃には忍城の堤を見物に行きます。」(中井俊一郎、p37)

小田原城開城後もなおも、秀吉が水責めに固執していることが分かります。秀吉にとって忍城水責めは28km(「大正期に現地調査した清水雪翁氏の「全く新規に作った堤が6km程度、既存の堤を補修した部分が22km程度あった」、という評価が妥当なものであろう。」(中井俊一郎、p38)))に渡る大堤防を築き、敵味方に豊臣の水責めの威容を知らしめること自体が目的であり、忍城を早く落城させることすら目的ではないということです。中井俊一郎氏は、「仮に堤の全長を14kmと仮定した場合、必要となる土砂の量は70万㎥となる。旧陸軍の基準に照らすとこの規模の土木工事は築堤だけで約四就六万人に地、すなわち一日一万人の人が働いたとして四十六日かかる工事量という計算になる。」(中井俊一郎、p39)としています。

七月十一日 ★北条氏政・氏照ら切腹。氏直は高野山へ蟄居。(柴裕之、p109)

七月十六日 ■忍城が開城。(中野等、p115)

 

 参考文献

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、2012年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

(令和3年10月17日追記 終わり)

 

 注

(*1)中井俊一郎 2012年、p35

(*2)中井俊一郎 2012年、p28~29

(*3)桐野作人 2010年、p234

(*4)桐野作人 2010年、p234

(*5)中井俊一郎 2012年、p36

(*6)中井俊一郎 2012年、p36

(*7)中井月一郎 2012年、p36~37

(*8)中井俊一郎 2012年、p38

(*9)桐野作人 2010年、p234~236

 

 

 参考文献

中井俊一郎『石田三成からの手紙』サンライズ出版、2012年

桐野作人『戦国最強の兵器図鑑 火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力』新人物往来社、2010年

史実とフィクションのあいだ

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 今回の大河ドラマの何がモヤモヤ、イライラするかって、正直に言ってまったく史実に準拠していないフィクションの連続なのに、どうも三谷氏は「史実準拠です!」みたいに本気で思っているようなふしがうかがえることです。

 

 幸村ではなく、信繫という本当の名前を使っているのもそうだし、時々妙に史実を反映した言葉が出てくるとか、本当に三谷氏的には史実に依拠しているつもりなのでしょう。しかし、実際にやっているのは三谷氏の創作エピソードばかり、信繫、昌幸、景勝、三成らの登場人物の人物造型もすべて三谷氏の創作です。

 

 こういうのって、どこかで見たな、と思ったのですが、現代の歴史作家が書いてしまうオリジナル『三国志』に似ているのかな、と思います。今更現代の作家が『三国志演義』の焼き直しを書いても仕方がないので、だいたいの場合、陳寿の『三国志』をベースに書いていくわけですが、結局、じゃあ陳寿の『三国志』通りに書いているのかというと、そうでもなく作家の独自の解釈、独自の創作エピソード満載で書いていることが多いです。まあ、作家なんだからそうなるでしょう。

 

 だから、「〇〇版『三国志』」ということなら、それはそれでよいのですが、その作家さんが「『三国志演義』は通俗的で陳腐でフィクションだ。自分の『三国志』こそが「史実準拠」の(真の)『三国志』だ!」みたいなドヤ顔をされると、「おいおい、お前の作品だってフィクションだらけじゃないか。これでよくも『史実準拠』だなんて言えたもんだ」と思ってしまいます。

 

 別に三谷氏がフィクションを書きたければそれでよいのですが、なんか現代の作家の『三国志演義』に対する低評価のように、例えば『真田十勇士』とか『忍び』のエピソードに対する低評価みたいのが、うかがえるのですね。「あんなの荒唐無稽なフィクションじゃん」みたいな。「いや、三谷氏のドラマだって全編荒唐無稽なフィクションじゃないですか」とツッコミたくなります。

 

 池波正太郎氏の『真田太平記』には直接真田十勇士は出てきませんでしたが、架空の忍びが複数出てきて大活躍でした。NHKドラマの『真田太平記』も原作と同様に大活躍だったと思います。本作でも佐助という忍びは出てきますが、かなり地味な扱いです。

 

 忍びは諜報活動が命で、昌幸はその諜報活動を駆使してしたたかに乱世を生き残ったというのが、忍びを大事にする真田家の歴史的イメージの大前提なのですが、今回三谷氏は史実を歪めてまで、大坂編から昌幸を「最新の情報に疎く、時流を読めない愚鈍な男」という架空の人物造型として書いてしまったため、こうした忍びの諜報活動とかはこの人物造型からはずれてしまうのでバッサリ切られてしまっています。これは三谷氏の「忍び」に対する軽視な訳です。「忍び」の活躍を軽視するのが「史実準拠」だと思っているのです。

 

 なんか、三谷氏は、荒唐無稽とされる「真田十勇士」や「忍びの活躍」という真田家物語の呪縛から必死に逃れることが「史実準拠」だと思っているふしがあるのでしょうね。現代の歴史作家が『三国志演義』の呪縛から逃れたくて、『演義』の主人公である劉備諸葛亮をディスり、曹操を称揚すれば「史実準拠」になると思い込んでいる傾向にあるのに似ているな、と思います。「史実準拠」と思っているつもりが、ただ単に別の荒唐無稽のフィクションを書いているのに過ぎないのに気が付かないのでしょうか?

 

 信繫にしても、昌幸にしても、景勝にしても、三成にしても、早くも暗雲がたちこめた政宗にしても、皆、史実の人物とは全く違う三谷氏の架空のオリジナルキャラクターに過ぎません。こういうのって、何を批評しても「しょせんは全部フィクション、三谷氏のオリジナルキャラクター」ということですので、白けてしまうのですね。たとえ、この先どんなに感動的なエピソードがあったとしても「しょせんは全部フィクション」だということになりますので。

 

 まあ、肩の力を抜いて「しょせんはフィクション」という生暖かい目で見ていくしかないのかな、と思いました。歴史上の人物だと思うから腹が立つのであって、このドラマに出てくる登場人物はすべて三谷氏創作のオリジナルキャラクターだと思えば、それなりに面白いドラマだと思います。

大河ドラマ 『真田丸』 第24話 「滅亡」 感想

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※前回の感想です。↓

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 今回も、酷い回でした・・・・・・、と書こうと思ったのですが、よくよく考えてみると大河ドラマの水準なんて元々こんなものですし、何か自分で勝手に期待して、勝手にがっかりしているだけなような気もしてきました。

 

 これ以上このドラマの感想を書く意味があるのか、いちいち史実と違う所を指摘しても仕方ないのではないかという気もするのですが、このドラマが史実だと誤解する視聴者が、もしかして少しはいるかもしれないのが嫌なので、今回もつらつらと書いていこうと思いました。(このドラマを史実だと思う方が、このブログを覗くことはないような気もしますが。)

 

 前回と今回で史実と違うところを以下に列挙します。というか、今回のドラマでフィクションじゃない描写があるのでしょうか?

 

1.忍城攻めの描写がすべてデタラメ。特に、三成は忍城攻めで諸将がやる気が無くすのでまず力攻めした方が良いと水攻めに反対する書状を送っているし、そもそも水攻めで「4日で落とす」とかいうこと自体が有り得ないセリフ。三成は、これまでも秀吉の戦に何度も従軍しているので、まるでこれがはじめての戦のような描写もおかしい。

 

 なんか、もうここに尽きるのですが、三成に限らずすべての登場人物の言動が「ここが史実と違う」以前に、根本的に史実を知っていれば「有り得ない」言動、人物造形なんですね。脚本家が史料の読み込みがまったくできていないことが分かります。

 

忍城水攻めの実相については下記をご覧ください。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

2.もちろん信繫が北条との和平交渉のため使者となるのはフィクションです。今週、実は、黒田官兵衛がギリギリサプライズで登場するのかと私は思っていました。

 今回、時代考証担当の先生が色々ツイッターでフォローされていました。まとめると

(1)信繫が北条への和平交渉のための裏の使者になる可能性は「なくはない。」

(2)信繫が北条への裏の使者黒田官兵衛が北条への表の使者

という感じでしょうか。

 

 時代考証担当の先生の著書は拝読しており、新たな知見を得られて感謝していますので、時代考証担当の先生にこのような苦しい説明をさせてしまう、脚本家の方はいかがなものかと思います。

 

(1)信繫が北条への和平交渉のための裏の使者になる可能性は「なくはない」といっても、それは「近藤勇坂本龍馬は、同時期に江戸にいたんだから知り合いであってもおかしくないだろ」くらいの可能性にすぎません。信繫が小田原城に潜入したとか開城交渉をしたとかいうことをうかがわせる史料など存在しないのですから、純粋に信繫が小田原城に潜入したのはフィクションです、ということでよいのではないでしょうか。「可能性」について、論じること自体が無意味です。

 

 誰も信繫がフィクションの行動をしていることを批判しているのではないのです。そもそも信繫は、大坂の陣の前の事績はほとんど残っていませんし、残っていないということは、実際にはほとんど目立った活躍をしていないのでしょう。だから、信繫を主人公にして大河ドラマで史実通り書こうとしても、1年持ちません。それゆえ、大河ドラマで信繫を主人公にすると、信繫を無理矢理史実に絡ませ主人公補正をするというパターンの連続となるであろうことも、このドラマが始まる前からわかっていたことです。主人公補正自体が許せない人は、だいぶ前の段階でこのドラマはもう見ていないでしょう。今このドラマを見ている人は、この「主人公補正」自体は問題にしていないかと思います。

 

(2)だから、時代考証担当の先生の「信繫が北条への裏の使者黒田官兵衛が北条への表の使者」の説明通りのドラマ描写だったら、ここまで批判が強くならないでしょう。

 今回のドラマ描写の問題点は「黒田官兵衛が北条への表の使者」どころか、「そもそもこのドラマ世界には、黒田官兵衛は存在しない」という描写にしか見えないところです。いや、主人公に関係ない人物は別に出さなくてもよいです。通常であれば、信繫と官兵衛の接点はまったく無いに等しいので、別にこの大河ドラマに官兵衛が出てこなくても問題にはなりません。

 

 ところが、今回信繫をフィクションで小田原開城の裏の使者にしてしまったので、なかったはずの官兵衛との接点ができてしまいました。小田原開城の交渉で黒田官兵衛を出さないのは、やはり極めて不自然です。こうしたフィクションをやる以上、官兵衛を出さないのはおかしいのです。というか、今回、官兵衛は「出ていない」のではないです。誰も官兵衛について言及しないし、ナレーションですら触れられていない。どう見ても「このドラマ世界は、黒田官兵衛自体が存在しないファンタジー世界である」としか言いようがない描写なのです。

 

「出ていない」と「存在しない」とは大違いです。例えば、忍城の守将成田長親は、このドラマに全く出てこないし、名前すら出てきませんが、それでもこのドラマ世界に存在することは想像できます。このように「描写はされていないが、存在はするのだろう」というキャラクターはたくさんいます。

 しかし、このドラマ世界で黒田官兵衛が存在することは想像しようがありません。官兵衛が必ず絡むはずの小田原開城交渉で、全く顔も出さない、誰も彼のことを言及すらしない、というのは、このドラマ世界は、官兵衛がそもそも存在しない世界である、としか解釈しようがないのです。これがいかに異様なことか、と言おうと思いましたが、過去の大河ドラマの水準もこの程度だったような気もしなくはないので、まあ、本作も歴代駄作大河ドラマの列を連ねたという程度の話かもしれません。

 

3.NHKは、小田原開城の際に秀吉が降服の条件を反故にした、という描写を描くのが大好きですが、これなんか根拠になる史料(江戸時代の意図的に秀吉を貶める根拠レスの軍記物以外に)があるのでしょうか?ちょっと、ここまでデタラメ描写が多いと、ひとつひとつ疑ってしまいますし、おそらくこれもデタラメなのでしょう。

 

4.真田昌幸上杉景勝忍城攻めから小田原へワープして、氏政の説得にあたるのも、もちろんフィクションですが、どうでもいいです。

 

5.真田昌幸が、氏政の兜を使って、忍城の開城を交渉したのも、もちろんフィクションですが、どうでもいいです。

 

6.今回、最悪だったのは千利休の描写です。うーん、千利休が秀吉に北条との戦をけしかける一方、敵の北条に鉛(鉄砲の弾の原料)を密かに売った、というのはいかなる史料に基づくものなのでしょうか?これが千利休切腹の理由になるようですが、これが理由なら、罪状の一番に掲げられるでしょうから、これもおそらくデタラメなのだと思います。

 いや、新史料などあればいいのですよ。 それもなく、千利休のような史実上の人物をデタラメで貶めるのは、非常にまずいのではないでしょうか?(もし、新史料があるぞ、という方がいらっしゃいましたら、教えていただけると嬉しいです。)

 

千利休切腹の理由については、以下にまとめましたのでご覧ください。↓ 

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 以上、このドラマが史実に基づいていないデタラメなドラマであることを列挙しました。大河ドラマなんて元々フィクションばかりですから、わざわざ列挙する必要なんてないのでは、という意見もあるかもしれませんが、このドラマ、思い出したように時代考証担当の意見を聞くのか、時々妙に史実を反映した描写を描くこともあるので、それで「このドラマは史実準拠だ」と誤解する人がたまに出てきます。

 いや、このドラマはそんな史実準拠なドラマなんかじゃないよ、全編フィクションだよ、ということで書きました。たとえば、このドラマを根拠に歴史上の人物批評をするなんてことは本当にやめてほしいです。

 

※次回の感想です。↓

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