古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について⑧~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(中)

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豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

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 今回は、豊臣秀次切腹後における石田三成の動向を見ていきます。

 

(1)文禄4(1595)年7月20日付血判起請文の作成

 

 7月15日に豊臣秀次切腹した後、7月20日に豊臣政権内ではじめて大きな動きがみられます。

 

 第一に、諸大名の血判起請文が、7月20日付で複数作成されたことです。特に、織田信雄以下二十七名連署による血判起請文が20日付で作成されています。

 この起請文は七月十二日付の石田三成増田長盛の起請文とは大きく異なり、起請文の作成方針が「個別」から「集団」へと変化しています。

 矢部健太郎氏は、「こうした変化を理解するためには、七月十二日からこの日までの間に、当初の予定を変化させるような「何か」が発生した、とするのが自然である。その間に起こった最大の事件が「秀次切腹」であることは衆目の一致するところだろう。」(*1)としています。

 

 つまり、「秀次切腹」という想定外の事件を受けて、急遽諸大名から一斉に起請文を集め、動揺した豊臣政権の引き締めを図る必要があったということです。

 この時に在国していた大名もいましたので、必ずしも7月20日にすべての諸大名が起請文を血判した訳ではありません。たとえば、徳川家康は7月20日にはまだ遠江におり、上杉景勝が秀吉と対面したのは8月4日でした。いずれにせよ、「秀次切腹」という急変事態に対処するために、諸大名に急遽上洛が秀吉によって指示されることになりました。(*2) 

 

(2)文禄4(1595)年7月20日付秀次遺領配分案

 

 第二に、秀次の遺領配分案が出されたことです。

 この遺領配分案(『佐竹家旧記』)で特徴的なのは、この7月20日付秀次遺領配分案では、秀次遺領で最も多い尾張清洲21万石が石田三成の所領に予定されていたことです。しかし、実際には三成は清州に移らず、佐和山に留まり、10万石から19万4千石に加増されます。清州21万石は、福島正則に与えられることになります。

 矢部健太郎氏は、「このことをみると、①当初の遺領配分案作成に三成は関与していなかったこと、②三成が承服しなかったために当初案が変更されたこと、以上の二点が明らかになる。」としています。

 そして、三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、尾張清洲二十一万石の配分は、当初案の冒頭に掲げられた最大の領域であった。それはすなわち、この地を与えられた者こそが「秀次事件」最大の功労者である、という世上の評判につながってこよう。しかし「秀次事件」は、秀吉政権の、そして三成の意図とは大きく異なる展開を見せてしまった。三成が尾張清洲の拝領を拒んだ理由としては、佐和山へのこだわりとして語られることが一般的であったけれども、実は「秀次事件」最大の功労者は自分ではなく正則である、との三成の批判的な主張も含まれていたように思うのである。」(*3)と述べます。

 

「三使」のうち、福原長堯は1万石の加増、福島正則尾張清洲21万石へ加増、池田秀雄は伊予に加増を受けます。

 

 秀吉政権の命令に反して、秀次に切腹をさせてしまった三使は功労どころか「大失態」でしかないのですが、秀次の「無実の訴え」を認めるわけにはいかない秀吉及び秀吉政権は、後付けで「秀次の切腹」を「謀反の罪による秀吉の切腹命令」による切腹として世上に公表することにします。このため、三使は「切腹の検分役」という役割ということになり、事件の始末をした「功労者」として、加増を受けることになります。

 

(3)文禄4(1595)年7月25日付針生盛信宛石田三成書状

 

 伊達政宗家臣の針生盛信から三成に秀次事件の詳細を問い合わせる書状が出され、これに対する三成の返信の書状が7月25日付で出されました。

 

 この書状は、

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り 

で紹介しました。以下に再掲します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民部太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*4)

 

 上記の書状で分かることは、

 

① 伊達政宗石田三成とは、この頃から親交があり、政宗は三成に秀次事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたこと、

② この時点(7月25日)での、秀吉と秀吉政権の秀次事件に対する公式見解は「関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた」であったということです。

 

(4)文禄4(1595)年7月25日 菊亭晴季越後配流奏上

 

 秀吉の使者として奉行衆の前田玄以石田三成が禁中へ派遣され、秀次の義父(秀次の正室一の台の実父)である菊亭晴季越後国へ流すことが報告されます。

 この時までに三成が天皇への「御使」として朝廷に派遣された事例は一つもありませんでした。これは、従五位下治部少補の三成は「地下人」であり、参内しても紫宸殿や清涼殿などの殿舎に上がることが許されないためでもあります。

 その三成が禁中に派遣されたことは異例であり、その訳について矢部健太郎氏は「考えられるのは、やはり三成の中にあった危機感だろう。それは「想定外」の「秀次切腹」に関わった福島正則への警戒心といってよい。」(*5)とします。しかし、三成がこの事態に危機感を持っていたのは確かと思われるものの、三成が警戒心を向けたのが「福島正則」であるというのは疑問です。

 

 なぜならば、この禁中へ報告で三成が同行しなければ、ただ単に前田玄以が禁中に報告に行っていただけだからです。(これまでも朝廷との交渉は、奉行衆の中では前田玄以が担っていました。)これが、仮にこれまた異例にも正則が玄以に同行するといったという経緯があれば、三成が警戒する理由も出てきますが、そういう訳ではありません。

 前田玄以が一人で、菊亭晴季配流の件を禁中へ報告に行くことを三成は警戒しました。つまり、三成が警戒心を向けたのは福島正則ではなく、前田玄以だったのです。

 

 なぜ、同じ奉行衆である玄以を三成が警戒しなくてはいけないのでしょうか?そもそも、この晴季の処分にしても、秀吉と(三成と玄以も含む)奉行衆が合議して秀吉政権として決定した処分だったと考えられます。秀吉政権として決定したはずの処分を、土壇場でひっくり返される可能性を三成は警戒したのだと思われます。

 こうしたいったん決まった「秀吉政権」の決定をひっくり返せる人物とは誰か?それは、秀吉その人に他なりません。

 秀吉が、秀吉政権として合議して決定した処分を、後から急に思い直して、更に過酷な処分を玄以ひとりに密かに命令して、朝廷に通告させる可能性があると三成は考え、その可能性を消すために玄以に同行したのです。

 

 秀吉も含めて合議して決めたはずの「秀吉政権」の決定を、その直後に秀吉自身が覆すなど、「普通では考えられない」ことですが、まさに、秀吉政権として決定されたものが、土壇場で覆されたのが「秀次切腹事件」でした。三成は二使の「秀次切腹」放置(黙認?)に秀吉の裏の真意があるのではないかと疑念を持ったのだと思われます。

 

 なぜ、三使の中で急に今まで秀次の処遇に関わりのなかった福島正則が(秀吉によって)指名されたのか?なぜ、秀次切腹の当日に三使のうち三成に近い福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?なぜ、秀吉政権の命令に反する「秀次切腹」という事態を阻止できなかったという「大失態」をおかしたのに、三使には何の咎めもないのか?

 こうした疑問点を突き詰めていくと、「結局『秀次切腹』が秀吉の真意であり、「秀吉政権」の決定を覆して、秀吉は正則に密かに「秀次切腹」を命じたのではないか?」と三成が秀吉に疑念を抱くのは無理ありません。

 

 しかし、この「疑念」に確証がある訳でもありません。また、この「疑念」を秀吉自身に問いただす訳にもいけません。秀吉の「表の意志」は秀吉政権の決定であり、これに反する「裏の意志」が仮にあったとしたら、それは明かされてはいけないが故に「裏の意志」なのです。このような「裏の意志」を主君秀吉に問いただすような力は、三成を含め秀吉家臣には誰もありません。

 

 このため、「疑念」は「疑念」としてとどめたまま、起こり得る最悪の可能性を排除するために、今まで前例のない中、三成は禁中への報告に同行し、玄以が「秀吉政権」の決定以外の処分を朝廷に「報告」することが無いように牽制したのだと考えられます。

 

(現代的・客観的な視点から見れば、秀吉が秀吉政権として「秀次の謹慎」命令を出しつつ、同時に正則に「秀次切腹」の密命を出した可能性は極めて低いのですが、三成が置かれた立場からの視点では、そのような可能性に疑念を抱くのは無理はないという事です。)

 

 なお、菊亭晴季の配流処分は重い処分とされますが、配流先が三成の取次先で親交のある上杉景勝の領国である越後国、そして翌年文禄5(1596)年5月には春季の赦免が決定され帰洛したこと(*6)を考えると、三成ら奉行衆はなるべく晴季の処分が軽くなるように尽力していたと考えられます。

 

 また、白川亨氏は、石田家の親族(石田為親)が菊亭家の家司を勤めていたことを指摘しています。そして、秀次と正室一の台(晴季娘)との間に生まれた娘(隆生院)を、三成が真田家(真田家と石田家は縁戚です)に依頼し、密かに保護したとしています。

 隆生院はその後、真田信繁の側室となり、一女(於田)を生んでいます。その於田は寛永三(1626)年、多賀谷宣家(佐竹義宣の弟)に嫁いでいます。(佐竹義宣は三成の取次先であり、盟友でもあります。)(*7)

 

 石田家と菊亭家の関係については、今後の検討課題となると思われます。

 

5)文禄4(1595)年8月2日 秀次妻子の公開処刑が行われ、翌8月3日付で徳川家康前田利家宇喜多秀家毛利輝元小早川隆景上杉景勝連署により「御掟」「御掟追加」が発出されます。

 

 この豊臣政権下の唯一の体系的成文法ともいわれる「御掟」「御掟追加」により、「秀次切腹」後に変容を余儀なくされた豊臣政権の枠組が位置づけ直されることになりました。(*8)

 

 次回は、秀次家臣の保護に奔走する三成の動きについて検討します。

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 注 

(*1)矢部健太郎 2016年、p101~102

(*2)矢部健太郎 2016年、p229~234

(*3)矢部健太郎 2016年、p241~244

(*4)中野等 2017年、p259~260

(*5)矢部健太郎 2016年、p244~246

(*6)中野等 2017年、p274~275

(*7)白川亨 2009年、p230~231

(*8)中野等 2017年、p264~265

 

 参考文献 

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次切腹事件の真相について⑦~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(上)

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 最後に、3回に分けて豊臣秀次事件における石田三成ら奉行衆の動向を見ていきます。

 

(※下記でいう「奉行衆」とは、前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成長束正家らのことを指します。そして、今回の秀次事件の「穏便」処分方針を進めたのは奉行衆の中でも、後述するように増田長盛石田三成が中心だったと考えられます。)

 

(1)文禄4(1595)年7月3日 

前田玄以・富田一白・増田長盛石田三成聚楽第の秀次を詰問。

詰問の内容は「御謀反の子細御穿鑿これあり。」(『大かうさまくんきのうち』)(*1)

 

→太田牛一『大かうさまくんきのうち』は二次史料ですので、『大かうさまくんきのうち』はあまり信用できないとなりますと、この7月3日の奉行衆の詰問自体あったか不明となりますが、矢部健太郎氏も中野等氏も、この日の詰問はあったことが前提として記述がされていますので、『大かうさまくんきのうち』のこの記述は信頼できるということだと解されているということだと思われます。

 

「御謀反」の内容については、豊臣秀次切腹事件の真相について⑤~秀次は、実際に「謀反」を企てていたのではないか?~「むほんとやらんのさた」とは何か。で検討しました。

 

(2)文禄4(1595)年7月8日  

 豊臣秀次高野山行。

 

(3)文禄4(1595)年7月10日 

小早川隆景宛四奉行(長束正家増田長盛石田三成前田玄以連署副状

(秀吉の朱印状の副状)

 

「◇このたび、(秀吉が)関白(秀次)殿を不意の御覚悟によって高野山にお遣しになりました。それだけのことであり、ほかの子細はありません。その旨(秀吉の)御朱印が出されますのでご諒解いただき、下々へもよろしくご説明ください。万一根も葉もない噂がたったりしては問題であるとの配慮から、このように仰っています。」(*2)

 

→同様な朱印状・副状は島津義弘にも七月十日付で送られており(内容は「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すようなこともないので、気遣いなきように」との文面」(*3)、各大名に、秀次の高野山行事件は大事には至らないので安堵するようにとの朱印状が送られ、諸大名の動揺を防ごうとしていたことが分かります。

 上記の書状を見ても、秀吉政権(秀吉&奉行衆)に秀次切腹を命令する意図はなく、なるべく事件を「穏便」に処理しようとしていたことが分かります。

 

(4)七月十二日付「秀次高野山住」令発出

 

 七月十二日付「秀次高野山住」令が出されます。参照)

 この命令は、矢部健太郎氏が指摘している通り、秀次に(切腹ではなく)しばらく高野山への謹慎することを命じる文書といってよく、この文書においても、秀吉政権の秀次への切腹命令及びその意思はなかったとことが裏付けられます。 

 

 そして、「秀次高野山住」令が高野山の蓮華定院にあった由来から、この文書は高野山の秀次の元に到達しており、そもそも秀吉政権から高野山に派遣された三使(福島正則・福原長堯・池田秀雄)は、この「秀次高野山住」令を高野山と秀次に伝達し、遵守させることが目的であったと考えられます。

 

 三使のうち、福島正則は言うまでもなく秀吉の従兄弟であり、賤ケ岳七本槍等の活躍で知られる猛将、福原長堯は、石田三成の妹婿であり石田三成ら奉行衆に近い人物、池田秀雄は、「近江の戦国大名六角氏の家臣から信長に仕えるようになり、本能寺の変では明智光秀に属したものの、後に秀吉に許されて家臣となったという。まさに経験豊富な「老臣」で、すでに七〇歳前後だったと思われる。」(*4)とあります。

 

 矢部氏は、この三使の構成、特に「正則の名が列せられたことは何とも不思議」(*5)としています。筆者も同意します。

 

 今まで秀次事件は、「秀吉奉行衆」がこの事件の処理をしていたのです。(1)7月3日の秀次詰問も、(3)七月十日付秀吉朱印状・奉行衆の副状も、奉行衆の意向が強く反映されたものでした。(3)の朱印状・副状を見れば(4)七月十二日付「秀次高野山住」令も奉行衆の意向が反映されたものと解されるでしょう。奉行衆の意向は、今回の事件を(秀次の切腹ではなく)秀次の高野山謹慎処分で処理する方針であり、その奉行衆の方針を秀吉は承認していた訳です。

 

 しかし、この流れから見ればこの三使の選出のされ方は確かに不思議です。この事件の処理の仕上げともいうべき「秀次高野山住」令の伝達及びその遵守をさせるという使者の役目は、これまでもそうだったように、本来奉行衆が主導してやるべきものです。

 

 ところが、ここへ来て福島正則、池田秀雄という奉行衆からは縁遠い人物が三使の二人につけられ、かろうじて奉行衆に近い人物は福原長堯のみという、異常な事態になっています。(しかも、後に見るように、秀次が切腹をした七月十五日には福原長堯は高野山にいなかった可能性があります。)

 

 そもそも、この三使は誰が選出したのか?奉行衆ではありえません。奉行衆が選出するならば自らが行くか、あるいは三人とも奉行衆に近い人物で固めたでしょう。となれば、この人選は秀吉自らが選んだものといえます。

 

 なぜ、秀吉は、三使の人選をこのようにしたのでしょう。

 

 一瞬、秀吉は7月12日付で(切腹ではなく)秀次の高野山謹慎の命令を出したにも関わらず、一方で同時に秀吉はそれと相反する密命(秀次をやはり切腹させよ)を二使(福島正則、池田秀雄)に伝えた、という可能性も考えたのですが、同日に相反する命令を出すとは、いくらなんでも秀吉の人格が分裂していて考えられませんし、命令として支離滅裂です。(秀吉が秀次の謹慎命令を思い直して、やはり切腹させることにしたのなら、「高野山住山」令を撤回して改めて、切腹命令を出せばよいだけです。)

 

 では、なぜなのか?

 これまで奉行衆は、秀次に対し「寛大な処置」をすること(本来なら切腹をさせるところを、謹慎処分に止めた)を秀吉に説き、秀吉はその処置を認めました。確かに、現役の関白が秀吉に対して謀反を起こしたというのを政権が公的に認めてしまったら、豊臣政権の大混乱は避けられません。 

 また、奉行衆が秀次を「穏便な処置」にすべきと説いたのは、秀次を欠けば豊臣政権において、秀吉と秀頼のあいだの「つなぎ」がいなくなり、秀吉がすぐに死去した場合、幼い秀頼がトップでは豊臣政権を支えきれずに、豊臣政権がガタガタになって崩壊するおそれがあるからです。(実際に、ガタガタになり崩壊しました。)

 だから、豊臣政権を支える秀吉奉行衆としては、秀次の存在は「つなぎ」として、どうしても必要であり、秀吉としても、その時点では奉行衆のその意見を聞かざるを得ませんでした。つまりは、奉行衆発案の、この「高野山謹慎処分」は秀次が将来的に政権復帰することを予定した処分な訳です。

 

 しかし、この「穏便な処置」である奉行衆の案というのは、将来的に「秀頼を確実に秀吉の後継に据える」という秀吉の思いからすれば、非常に心もとないものでした。

 また、この処置は、奉行衆が秀次のために秀吉に「取り成し」をして寛大な処置を勝ち取り、秀次に恩を売ったということになります。「寛大な処置」を「取り成し」てくれたことに対する秀次の感謝は当然(秀吉にではなく)、奉行衆に向かうことになります。これにより、「奉行衆」と秀次の間が将来的に親密になってしまう可能性が出てきてしまったのですね。

 

 秀次の謹慎処分がいずれ解かれ、秀次が将来的に復帰した場合、秀吉の死後に奉行衆も含む残された秀吉の家臣たちがどのような行動を取るのか、秀吉には不明です。 

 自分(秀吉)の死後に、秀次が後見役として豊臣政権の実権を握ることになるとすると、結局その時点での豊臣政権の実力者NO.1は秀次になってしまいます。権力を握ったその時こそ、秀次は御拾ではなく、自分(秀次)の子を擁立しようとするのではないか?

 仮にそうした事態になった時に、奉行衆達は秀次の暴走を止められるのか?というか、強きになびくで、秀次の味方になる可能性すらあるのではないか?奉行衆が、秀次が親密となることによって、秀吉死後に御拾ではなく、秀次、あるいは秀次の子を擁立する可能性も出てきました。奉行衆と秀次を近づけすぎたことに、秀吉は不安を感じます。

 

 このように誰もかれも疑っていくと、そもそも秀次が政権復帰できる目を与えておくと、結局秀頼は排除されるのではないか、という考えになります。現在秀吉に絶対の忠誠を誓っている奉行衆にしても、秀吉死後、政権に復帰する秀次に対して将来的にどう転ぶか信頼できません。

 

 秀吉は、秀次の処遇を奉行衆に制御させることに不安を抱きました。あくまで、秀次の処遇を決める権限(生殺与奪の権)は、秀吉自身が握っているのではなくてはいけません。

 

 このため、今まで奉行衆に仕切らせてきた秀次の処遇を改め、秀吉みずからが秀次の処遇を仕切れるように変えるため、秀吉によって三使が選ばれました。

 

 まず、自分(秀吉)の意思をストレートに秀次に伝える役目として最適だと考えたのが従兄弟であり、自分の言う事は忠実に聞き、奉行衆からは距離があると考えられる福島正則だったのでしょう。

 

 次に、池田秀雄がなぜ選ばれたのかは不明ですが、おそらく奉行衆とも近くなく、また影響力もなく、自分の主張も言わない人物だと秀吉に思われたためではないかと思われます。

 

 そして、三成に近い福原長堯を混ぜたのは、奉行衆に近い人物を混ぜることによって、表面上(今まで秀次の処遇を仕切っていた)奉行衆に対してもバランスを取るような体裁を整えるためでしょう。

 しかし、福島正則と福原長堯では、秀吉政権での格が違いますので、この人選ではやはり福島正則の意見・判断が一番通る構成になっています。そして、秀吉の意を通じた正則の意向が通るであろうこの三使の構成が、秀吉が自分が一番コントロールできると望んだ構成だった訳です。

 

(5)文禄4(1595)年7月12日

「七月十二日付で石田三成増田長盛がいち早く起請文をしたため、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う。」(*6)

 

→秀次の高野山事件の政権動揺を防ぐために、秀頼への忠誠と「太閤様御法度・御置目」の遵守を誓う起請文を各大名に提出させることが計画され、「秀次高野山住」令と同日の7月12日に、まず奉行衆の石田三成増田長盛がいち早く起請文を提出することが求められました。

 

 なぜ、いち早く起請文の提出を求められたのが奉行衆の中でも、この二人だったのか?それは、この二人がこれは「秀次事件」の処理(秀次への「寛大」な処遇)をしてきた中心人物だったからでしょう。

 

 秀吉は、この二人が「秀次事件」の処理・「取り成し」を通じて、秀次サイドと将来的に親密な関係を構築する可能性に不安を抱き、まず真っ先にこの二人に起請文を持って改めて御拾への絶対的な忠誠(将来、もし後継者争いが発生しても、必ず御拾を守り後継者とさせることに全力を尽くすこと)を誓わせたということが考えられます。

 逆にいえば、これは他の人間に先んじて御拾の絶対的守護者となるように、絶対的な宣誓を誓わされたということです。この事は、宣誓をした人間にとって特別な意味を持つでしょう。三成は、この宣誓に生涯縛られ続けることになります。(長盛がどう受け止めたのかは、よく分からない所がありますが。)

 

(6)文禄4(1595)年7月13日付 五奉行による「秀次切腹命令」

は、豊臣秀次切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)で記載したように、矢部健太郎氏の指摘通り小瀬甫庵の創作した偽文書です。 

 

 

(7)文禄4(1595)年7月15日

 秀次が高野山切腹して果てます。

 この時、「『川角太閤記』では、翌十五日の午前八時頃に福島正則と池田秀雄の二人だけが秀次のもとに現れ、秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えたという。」(*7)とあります。

 

→『川角太閤記』も二次史料ですので、そのまま鵜呑みにできないのですが、矢部健太郎氏が指摘するように、本来同一目的で派遣された三使のうち福原長堯が15日には別行動をしていたという記述は興味を引きます。(*8)

 

『川角太閤記』の記述を信用するならば、福原長堯は何かの理由をつけて(例えば「ひと足先に伏見へ報告に向かえ」などの指示をされ)高野山から遠ざけられたという推測ができます。

 

 なぜ、福原長堯は高野山から遠ざけられたのか?そして、誰がその指示をしたのか?

「誰が」ということならば、おそらくその指示をしたのは三使の中で最も地位が高いと考えられる福島正則だと思われます。

「なぜ」ということについては、福原長堯が「これから起こること」に邪魔だったからということになるでしょう。

 

 しかし、福島正則、池田秀雄が、「秀吉の真の「御意」は切腹であると伝えた」という『川角太閤記』の記述には疑問があります。 

 

 まず、秀吉が「秀次高野山住」令を出しつつ、同時に正則・秀雄には、秀次切腹の「密命」を下したという解釈は、前述したように無意味で理解不能な行為ですので、可能性は極めて低いと思われます。

 

 また、秀吉の真の「御意」を偽って、秀次の切腹を「けしかけた」という可能性もほとんどありえないと思われます。「三使」は秀次死後に加増されるので、なにか動機がありそうにみえますが、これは結果論であって、秀吉の真の「御意」を偽ったことが秀吉に露見されれば、加増どころか秀吉の怒りを買って処断される可能性が高いです。彼らがそのような危険を冒して秀吉の真の「御意」を偽るような動機は史料からは全く見出せません。

 

 しかし、奉行衆の目論見に反してはいるが、「秀次高野山住」令とは矛盾しない、秀吉の「御意」をこの二使が秀次に告げたという可能性はあります。

 二使が、秀次に告げたことは、秀次が最も気になることでありながら、「秀次高野山住」令には一切書かれていないこと、すなわち「秀次はいつまで高野山に謹慎し続けなければいけないのか?」ということでしょう。

 

 二使が告げた「御意」とは、秀次が切腹を決意するほど絶望的なものだったといえます。それは、たとえば「秀次の赦免は許さない。残る余生を高野山で謹慎して暮らせ」などの「社会的な死」の宣告だったのではないでしょうか。

 

 以前の回で、秀次切腹当日(七月十五日)の三使の動きについて、3つのケースが考えられると矢部氏が述べていることを紹介しました。

 

十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

 

 そして、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*9)としています。

 

 以前の回では検討しませんでしたが、ここではあえてどの可能性が高いか検討してみましょう。

 

 まず、①の「十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。」という可能性は低いでしょう。おそらく三使のうち、「穏便な処置」を望む奉行衆に近い福原長堯の存在は理由をつけてその場から排除されたという可能性が高く、『川角太閤記』の記載はそれなりに信用できると思われます。

 

 次に、③「十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。」という可能性ですが、これでは十五日に秀次が切腹を決意した理由が不明になります(やはり何かの「きっかけ」があったと思われます。そして、その「きっかけ」が二使の宣告という事になります。)ので、これもまた可能性は低いと思われます。

 

 そう考えると、やはり②「十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。」という可能性が一番高いと思われます。

 

 問題は、二使が秀次の「社会的な死」の宣告をした後に、秀次の切腹に立ち会っていたのか?ということです。

 

 三使の命令は、「秀次高野山住」令の伝達とその命令を遵守させることですから、その命令に反する秀次の切腹を黙って見ていて、立ち会ったというのも考えにくいです。

 

 もちろん、二使が内心では秀次切腹を望んでいて、あるいは秀次の意思を尊重して、秀吉の命令には反するが、秀次切腹に同調して立ち会った、という可能性もなくはないですが、ちょっとこれも不可解です。

 

 これは想像するしかないのですが、たとえば、秀次が「しばらく側近のみと話したいので席をはずしてほしい」等と述べて、二使は秀次の願いを聞き、しばらく席を外していた間に秀次たちは切腹したという可能性もあるのかな、と思います。秀次の監視が三使の使命のひとつですので、普通では考えられない大失態ですが、案外大事件というものは、こういった「普通では考えられない大失態」によって起こるのかもしれません。

 

 次回は、秀次切腹後の石田三成の動きについて検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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(*1)小林千草 1996年、p148

(*2)中野等 2017年、p257

(*3)中野等 2017年、p70

(*4)矢部健太郎 2016年、p94

(*5)中野等 2017年、p95

(*6)中野等 2017年、p258

(*7)矢部健太郎 2016年、p223

(*8)矢部健太郎 2016年、p224

(*9)矢部健太郎 2016年、222~226

 

 参考文献

林千草『太閤秀吉と秀次謀反 『大かうさまぐんき』私注』ちくま学芸文庫、1996年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次切腹事件の真相について⑥~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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豊臣秀次切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) に戻る

 

 ※前回のエントリーです。↓

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 前回の話の続きです。 

 さて、ここまで以下の3つの論点を検討しました。矢部健太郎氏の説には同意できるところも多いのですが、やはりしっくりこない点もあります。

 今までの各論点の矢部氏の説と、筆者(古上織)の私見をまとめてみます。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

 

→矢部氏の説:政権交代説(秀吉個人が原因ではなく政権の要請)、きっかけは「天脈拝診怠業事件」)」(*1)(「密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。」)(*2)

 

→古上織の私見秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画の露呈。

 

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

 

→矢部氏の説:「関白職剥奪の根拠はなく、出家・出奔ともに秀次自身の意志に基づく行動」(*3)

 

→古上織の私見秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

→矢部氏の説:「無実であることを=身の潔白を証明することため、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。」(*4)

 

→古上織の私見秀吉の処罰が秀次の予想していたものより重かった(秀次は、無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した)ため絶望して、秀吉の命に背き、秀次が自ら切腹を決意した。

 

 さて、第4の論点「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」に移ります。

 文禄四年八月二日、京都の三条河原で秀次の妻子三十余名が公開処刑にされます。なぜ、秀次の妻子は処刑されることになったのか?

 正直に申し上げて、この論点についての秀吉の判断は不可解であり、どんな方が説明されても理解できたことがありません。

 

 矢部氏の説ですと、

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

 

→「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」(*5)

 

ということになりますが、これも正直理解できません。

(というか、矢部氏説は「秀次は無実」なのに対して、古上織の私見では「秀次は有罪」ですので、この時点で見解が分かれてしまいますが。)

 

 いや、「謀反事件」ならば家族が連座することは確かにあるでしょう。しかし、その場合も男子は殺されるが、女子は出家になるあたりが(当時の世間的な感覚としても)妥当ではないでしょうか。

 残虐な殺戮劇が多かった戦国時代においても、小さな娘も含め妻子皆殺し(秀次の妻子の中でも例外的に生き残った人もいるようですが)というこれだけ残虐非道な事件はあまりないかと思います。

(ただ、じゃあ「まったくない」か、というとそんな事もなく、織田信長は裏切った荒木村重の一族・妻子122人を皆殺しにしていますし、武田勝頼新府城を放棄して逃げるときに、裏切った武将の家族を焼き殺していますが。)

 

 これだけ残虐な処刑にする理由は、秀吉自身が残虐だからとしか言いようがなく、この残虐さに現代的な視点から合理的な説明をつける事は困難かと思います。

 

 矢部説への感想を以下に述べます。

 

 まず、矢部氏の説ですと、もともと秀次は無実であるが、秀次が秀吉の謹慎命令に逆らう形で、「無実」を訴えて自分の意思で切腹してしまった結果、その「無実」の訴えを認める訳にはいかない秀吉政権が、「謀反」事件を仕立て上げた、ということになります。

 

 秀次が(秀吉の命令ではなく)自身の意思で切腹した見解には同意ですが、前回述べたように、秀吉は、厳しい処罰感情を持って秀次重臣切腹命令を出している訳で、この事件についての秀吉政権の認識は、本当は「謀反」事件だったのだと思われます。

 

 しかし、これを「関白秀次謀反事件」と政権が公言してしまうと、関白が太閤に謀反を起こそうとしたという重大な危機事態を公表してしまうということになってしまうので、秀吉政権は大混乱になってしまいます。

 

 そこで、はじめ秀吉政権は、「不届きなこと」(不相届子細)(「文禄四年七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状」)(*6)という曖昧な説明でこの事件はあまり大した事態ではないと対外的にはアピールをして、秀次には高野山にしばらく謹慎させるという「穏便」な処置を行うことによって、事態の収拾をはかろうとしたのだと思われます。

 

 ところが、秀次が高野山切腹をしてしまったがために、もはや「穏便」な処置がとれなくなってしまったのですね。

 

 高野山で謹慎していた秀次が7月15日切腹したということは、高野山から京都の東寺を通じて翌日には京中に広がりました。『御湯殿殿上日記』によると、秀次の切腹の理由は「むしつ(無実)ゆへ、かくの事候のよし申しなり、」(*7)と書かれています。これは、京都に急報を伝えた高野山の僧たちの見解を書いたものとされます。(*8)

 

 そのように「自分は無実だ」と秀次自身が高野山の僧に言って切腹したのか、特に何も言わなかったのかは不明ですが、対外的には「謀反の噂」で秀吉に疑いをかけられたことによって、秀次は高野山で謹慎しているわけです。

 秀吉の疑いに対して「自分は無実である」という抗議のために、秀次は切腹したと少なくとも高野山の僧には解釈されたということです。

 

 これは、かえって秀吉の処罰感情を悪化させました。 

 

①そもそも、秀吉の「温情」で秀次は切腹すべきところを、高野山での「謹慎」にすませているのです。そして、「秀次高野山住山」令にも「出家の身だから刀・脇差を携帯するな」(*9)とあり、これは切腹を禁止する趣旨でもありました。

 このため、秀次の「切腹」とは、切腹を禁じる秀吉の命令に逆らい、秀吉の「温情」に仇をなす行為であり、秀吉としては許すべからざる行為でした。

 

高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられました。この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したことになります。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉の判断・処分は間違っていたということを認めることになってしまいます。そして、秀吉は自分の判断・処分は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと思っていました。

 

 上記の秀次のメッセージを認めてしまうと、「秀吉は間違った判断で秀次を謹慎処分にして、自殺に追い込んだ」という話になってしまいますので、秀吉としてはこのストーリーを世間的にも認める訳にはいきませんし否定するより他ありません。

 

 秀次の高野山行時に「不届きなこと」(不相届子細)な曖昧な表現で説明し「穏便」にすませる予定だった事態は、秀次の切腹により穏便にすませる訳ではいかなくなり、「秀次の『謀反』があった」と公表せざるをえなくなりました。

 

 秀吉の温情による謹慎処分すら認めず、かえって秀吉の判断は間違いだと否定して、抗議の自殺をするという「究極の反抗」をした秀次に対して、秀吉は激しく憎悪することになります。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺でした。青厳寺は秀吉の母大政所の菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」(*10)と矢部健太郎氏は述べています。

 

④中世において「切腹」は色々な意味合いがあります。命令による切腹は名誉の「刑罰」ですが、自らの意思でする切腹は、その時々の状況で「謝罪」「殉死」「無実の訴え」「抗議」等、色々な意味合いがあります。

 その中で、矢部健太郎氏は、もうひとつ「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」でもあったとする」清水克行氏の研究があるとしています。(*11)

 

 秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があります。そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになります。

 

⑤前述した織田信長にせよ、武田勝頼にせよ、一族・妻子皆殺しという処分は、自分に裏切って反逆するとこうなるという「見せしめ」という意味を示します。これは、このように家臣や諸大名に「見せしめ」という恐怖を植え付けないといつ裏切られるか分からないという君主の他者に対する不信感の表れです。このため、「恐怖」をもって他者を支配するしかないと考えるのです。(勝頼の場合は、最早「みせしめ」をしてもどうしようない状態でしたので、やけくそという感じですが。)

 

 また、過酷な「みせしめ」処分は、最も身近な秀次にすら裏切られたのだから、最早誰も信用できないという秀吉の「怯え」のあらわれともいえます。(こうやって、他者に向けて「みせしめ」処分をして、他者を恐怖感で縛らなければ、他者を支配し従属させることができないという、自らの力への自信のなさと他者への怯え。)

「天下人」秀吉の残虐性とは、他者に対する不信と怯えの裏返しです。秀次切腹により、秀吉の人間不信と怯えは更に深まることになりました。

 

 上記のような理由で、秀吉は「謀反を起こしたものはこうなる」という見せしめの意味で秀次の妻子三十余名を処刑します。しかし、謀反事件の処分としては、当時の事件としても過酷なものであるといえます。

 

 矢部健太郎氏は、秀次の妻子を処刑した理由を、「「想定外」の秀次切腹を受け、一貫性のある「謀反事件」に仕立て上げるためのやむを得ない選択」としますが、秀吉が本心では「秀次は無実」だと思っていたとしたら、謀反事件の処分としても、当時の世間の感覚でも更に過酷な処分をする必要はないのですね。むしろ、(「謀反事件」の体裁のみを整えればよいのですから)もっと軽い処分をしていたでしょう。

 

 秀吉が、「謀反事件」としても、なぜ普通に考えられるようなものより過酷な処分をしたということは、「秀次は実際に謀反を起こそうとしていた」と秀吉は確信していたからだとしか考えられないのですね。

 

 そして、一旦は肉親の情で温情的な処分をしたにも関わらず、それを「抗議」や「復讐」の意味での「切腹」をさせられるという最悪の形で返されれば、秀吉にしてみれば、まさに恩を仇で返されたのも同然、しかもこの事件のために秀吉政権は大混乱で崩壊の危機、秀吉の秀次に対する怒りは計り知れないものになったということになったのではないしょうか。 

 

(上記のように説明しても、多分よく理解できない方のほうが多いと思います。ただ、正直、元から残虐な性格で、常人ではない秀吉の思考回路を考察している訳なのですから、世間的に常識的な解答が出る訳がありません。

 

「常識的な解答」ではないから納得できないと言われても、秀吉自身が常識的な人間ではないからどうしようもありません。しかし、秀吉が常識的な人間ではなくても、秀吉は秀吉なりに(秀吉の主観的には)合理的な行動・判断をしているはずですので、現代の我々でも、秀吉の思考回路を考察することがなんとか可能なのです。)

 

 次回は、秀次切腹事件時の石田三成らの動向について検討します。

※次回のエントリーです。↓

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(*1)矢部健太郎 2016年、p300

(*2)矢部健太郎 2016年、p58

(*3)矢部健太郎 2016年、p300

(*4)矢部健太郎 2016年、p301

(*5)矢部健太郎 2016年、p301

(*6)矢部健太郎 2016年、p69~70

(*7)矢部健太郎 2016年、p213

(*8)矢部健太郎 2016年、p213~218

(*9)矢部健太郎 2016年、p175~177

(*10)矢部健太郎 2016年、p184

(*11)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次事切腹事件の真相について⑤~秀次は、実際に「謀反」を企てていたのではないか?~「むほんとやらんのさた」とは何か。

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※以前の豊臣秀次切腹事件の考察エントリーです。↓

豊臣秀次事切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) 

豊臣秀次事切腹事件の真相について②~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) 

豊臣秀次事切腹事件の真相について③~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) 

豊臣秀次事切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です) 

 

1.秀次「謀反」説は現在ほとんど支持されていない

 

 さて、これまで「豊臣秀次切腹事件の真相について~矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想です(    )」で、秀次切腹の謎に対する矢部健太郎氏の新説を検討してきたのですが、個人的には、この新説でも色々腑に落ちない点が多くあり(もちろん、従来の通説でも腑に落ちないところがたくさんあり、というより従来の通説が腑に落ちない点が多々あるから、今回の新説が唱えられたのだと思いますが)なんかすっきりしないのですね。

 

 そこで、上記のタイトルに戻る訳です。近年の大多数の(矢部健太郎氏も含めた)歴史学者の説は「秀次は『謀反』の企ては無かった。『無実』なのに、秀次は切腹して死ぬことになった(その「切腹」が「秀次自身の意思」なのか、「秀吉の命令」か、はまさに矢部説の論点で、これは現在の歴史学者でも見解が分かれる訳ですが)」というのが、通説です。

 現在の歴史学者で、「いや、秀次は実は本当に『謀反』を企てていたのだ」という説を唱えている方はほとんど見たことがありません。(唱えている学者の方がいたらご教示願います。)

 

 しかし、矢部説のように、「秀吉には秀次に切腹させる意思はなかった」としても、秀次は秀吉政権からの詰問により、高野山行きを余儀なくされました。

 そして、その詰問の内容は「むほん(謀反)とやらんのさた御入候て、大かうきけんわろくて(機嫌悪くて)」(*1)と『御湯殿上日記』の七月八日条にあるように(ちなみに、『御湯殿上日記』とは、宮中御所の女房たちによって書き継がれた公的な日誌で貴重な一次史料です。)秀次による「謀反」とやらの噂が秀吉の耳に入って、秀吉の機嫌が悪くなったから、その「謀反の噂」の真偽を問いただすための詰問だったわけです。

 

 ここから、分かることは、

 

 ① 『秀次謀反』の噂はあり、しかも秀吉の耳に達するまでに噂は広がってしまい、これを秀吉政権としては放置するわけにはいかなくなった。

 

 ② この「『秀次謀反』の噂」の真偽を問いただす詰問使に対して、秀次は申し開きができなかった。あるいは、申し開きはしたが、その弁明は認められなかった。

このため、秀吉に対する謝罪の意を示すために高野山に行くより他なかった。

 

ということです。

 

 いずれにしても、秀次の高野山行の原因となったのは、「謀反とやらの噂」に対する秀吉政権の詰問であり、その「謀反とやらの噂」の内容が分からなければ、そもそも「謀反」説が正しいかわかりません。

 

 実のところ、この秀次の「謀反」とは何を指しているのでしょうか?

 

 一般的に考えられる「謀反」とは、例えば「本能寺の変」の如く、秀次が秀吉を狙って暗殺したり、暗殺までいかなくても謀って秀吉を幽閉するなどして、秀吉の実権を奪い自身が成り代わったりする等、実力行使が必要なわけです。このための本当の意味での「謀反」は大掛かりな準備や共謀計画、軍事力や資金が必要で、当然このような謀反の計画を立てて途中で露見すれば、証拠が残るはずです。

 

 このような準備があった証拠が全くない(史書からも全くみられない)ゆえに、秀次には「謀反」の証拠は全くない、だから秀次は「謀反」などしている訳がない、という理由により現在の歴史学者の大多数の説は、秀次「謀反」の事実はなかった、という結論になっています。

 

 しかし、実際には「むほんとやらんのさた(謀反の噂)」は実在しています。この「謀反の噂」というものの内容について、もっと注目すべきなのではないでしょうか。

 

2.そもそも、秀次の「謀反」とは、どういう意味なのか?

 

 そもそも、ここで言われている「謀反」とは、上記で書いているような、(軍事力等を伴うような)具体的な「謀反」を指すのでしょうか?

 

 ここで、太田牛一の「大かうさまくんきのうち」を紹介します。

 

 まず、太田牛一ですが、彼は織田信長の旧臣です。彼が書いた『信長公記』は信長について記載された一代記であり、その記述の精確さから(もちろん、牛一の記憶違いの部分なども指摘されていますが)、歴史学者からも信長研究の第一級の歴史史料として高く評価されています。

 本能寺の変以後は丹羽長秀・長重に使えますが、一時隠居、その後秀吉に召し出され、秀吉の死後は秀頼に仕えます。

 

 彼の書いた「大かうさまくんきのうち」は、豊臣秀頼のために書かれた豊臣秀吉の一代記であり、秀次切腹事件の記述もされています。基本的には秀吉・秀頼に不利なことは書いてない書物と考えるべきでしょう。また、作者太田牛一による意図的な虚偽の記述も散見されるようです。このため、「大かうさまくんきのうち」は、『信長公記』ほど客観的に正確な記述としてはあまり信頼されていません。

 

 しかし、同時代を生きた太田牛一の記録なのですから、この史料は史料として内容を検討する必要があります。特に当時の「むほんとやらんのさた(謀反の噂)」の(その「噂」が真実かは別として)の内容を知る上では貴重な史料といえます。

 

 さて、その「大かうさまくんきのうち」では秀次の「謀反」はどのように描かれているのでしょうか?以下、引用します。

 

「又、関東より、粟野木工頭と申もの参り、御意に合ひ、(中略)すでに陰謀(おんぼう)をさしはさみ、御拾様へ御世へ渡され候事、全くもつて御分別参るところに候。さいわひ、若君様まし〱候間、これに御譲りなされ、日本国、唐、南蛮まで御心一つにまかせらるべきの旨、たくみをめぐらし申上ところに、げにもと御同心。こゝより、夜輿をひかせられ、又、しゝ狩と号して、山の谷、峰、茂りの中にて、より〱御謀反御談合とあひ聞こへ候。」(*2)(下線引用者)

 

 つまり、粟野木工頭という人物が、秀次の御意を得て近侍することになり、その後秀次に「謀反」を持ち掛けます。その「謀反」の内容とは、「うまいぐあいに、秀次に息子があったので、それに名目上の関白職をゆずって、秀次自身は、実権として、日本国、唐、南蛮までわが心一つに治める」(*3)(下線部に対応)というものでした。

 

 ここで、注意しなければいけないのは、この粟野木工頭と秀次が考えている「謀反」とは、「今・現在」のことではないのです。秀次が秀次の息子に関白の地位を譲ろうと思っても、長男仙千代丸は秀次切腹事件当時の文禄4(1595)年でも、かぞえで6歳、関白を譲れるような年齢ではありません。つまりは、この「謀反」とは秀吉死後の将来のことを考えています。

 

 といっても、これは遠い将来の話ではありません。現実に秀吉が死去するのは慶長3(1598)年、3年後の話です。秀吉もこの時代では老齢であり、いつ亡くなるかもわかりません。

 

 秀吉は、死後は御拾(秀頼)に後継させる意思を明確に示していますので、秀次が御拾ではなく、自分の息子を後継にすることを望むならば、秀吉が死去したらすぐに行動を起こさねばなりません。これはある種のクーデターですから、秀吉死後どのように行動すれば(御拾ではなく)自分の息子を後継に据えられるか、事前に同志と密談して準備しておく必要があります。(例えば秀吉死去時に自分の息子が成人しているか、していないかで、大きく計画は変わっていきますし、色々な展開に分けてシミュレーションする必要があります。)

 

 この「秀吉死後に、秀頼ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」というのが、「謀反」の内容です。こうした「謀反」に「今・現在に、物理的な謀反を起こす準備の証拠」が出てくるわけがありません。

 

「(物理的な)謀反の具体的な証拠がない」から「謀反」はなかったとするのは誤りです。

 

3.秀吉の「処罰感情」への違和感

 

 矢部健太郎氏は、その著作『関白秀次の切腹』で秀次の高野山行時点の秀吉の処罰感情に「さほど厳しい処罰感情があったとは考えにくい」(*4)としています。

 

 確かに、文禄四年七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状には「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。その他は別に記すこともないので、気遣いなきように」(*5)とあり、この書面だけ見れば厳しい処罰感情があったとは考えにくいですが(むしろ事態を拡大させないように収拾を図っているようにみえます)、一方で七月十三日には秀次重臣の熊谷大膳直之・粟野木工頭秀用・白井備後守成定が秀吉の命令で切腹を命じられ(*6)、七月十五日には、同じく秀次重臣の木村常陸介重慈も秀吉の命令で切腹させられます。(*7)

 秀次の切腹が七月十五日ですから、これらの秀次重臣の切腹命令は、秀次切腹が原因ではなく、それ以前から決まっていたことといえます。

 

 つまり、秀吉は彼ら秀次重臣に対しては、厳しい「処罰感情」があったといえます。

 この秀吉の厳しい「処罰感情」は、たとえば「秀次に謀反の意思がなく、特に咎めるべき理由はないにも関わらず、秀吉が(秀頼のために)秀次を邪魔に思って適当な理由をつけて高野山に行かせた」とか、「秀吉の態度に過剰反応した秀次が発作的に、自発的な意思として高野山に出奔した」とかいう説では説明がつかない厳しい感情といえます。

 

 これは、実際には秀次の「謀反」の意思があることが秀吉に確認され、切腹を命じられた秀次重臣達こそが、この「謀反の密謀」の主犯であると秀吉に判断されたからです。

 本来であれば、秀次の謀略を諫めて止めなければならないはずの秀次の重臣たちが、秀次の謀反計画に乗り(あるいはけしかけ、)密謀を図っていたという事は、秀吉にとっては許しがたい事だったのでしょう。(もしくは、彼らは秀次の計画に賛成していなかったのかもしれませんが、こうした謀反計画を持ち掛けられながら、それを止めずに黙っていれば、それは謀反に加担したという事になります。)

 

 では、なぜ秀次自身は高野住山のみの寛大な処置になったのでしょう。

 これは、秀吉の秀次に対する「温情」でしょう。秀吉といえば、現代では血も涙もない冷徹で非道な人物の印象が強い人物ですが、決して単純に冷徹な人物ではなく、秀吉の手紙などを見れば親族に対して愛情深い人物であることが分かります。人に対する愛憎の振れ幅が極めて大きい人物なのですね。

 

 秀次というのは、これまで一族の中では最も期待をかけてきた甥、御拾が生まれる前は後継者(養子)として関白の地位を譲った人物なのです。秀吉に甥(養子)に対する愛情が残っていないわけではなく、今回の事件もなるべく寛大な処置にしたかったというのが、秀吉の本音でしょう。

 

 そう見ると、秀次の高野山行の理由が「むほん(謀反)とやらんのさた御入候て、大かうきけんわろくて(機嫌悪くて)」(『御湯殿上日記』)、「今度、関白秀次に不届きなことがあったので、高野山に遣わされた。」(「七月十日付島津義弘宛秀吉朱印状」)という極めて曖昧な理由しか、対外的には秀吉政権からは説明されない理由が分かります。

 

 仮に「秀次の謀反計画はあったことで確定」ということが秀吉政権の公式見解になってしまうと、秀吉としては秀次に本当に切腹命令を下さないといけません。当たり前ですが、謀反は重大犯罪です。また、現役の関白である秀次が秀吉(というより御拾に対してですが)に謀反を計画したというのが明らかになれば政権の動揺は計り知れません。

 

 ドラマの『真田丸』でも違和感を抱いたのですが、「秀次には本当に何の罪もないが、秀次が高野山を出奔してしまったことを取り繕う」ために、後から理由をでっち上げる理由としては「謀反の噂」というのは極めてきな臭いもので、事態を収拾するためにつけた後付けの理由としては、ふさわしからぬものです。

 こんな理由ではかえって事態が深刻化してしまいます。(もし理由をつけるのなら、ストレートに「気鬱にて」高野山に出奔とかでよいと思われます。実際、この時代にも気鬱で寺に駆け込んだ人間はいたでしょう。)

 

「むほん(謀反)とやらんのさた」というのは、後付けの理由ではなく、本当にあったことなのです。そして、その噂が真実であると確認されたため、秀次重臣が切腹を命じられました。

 しかし、秀次本人に「謀反」の責任を取らせるというのはすなわち死しかないため、なるべく穏便な処置にしたい秀吉政権は、公式には「むほん(謀反)とやらんのさた」という噂の段階で留め(それが真実であるかは確定させず)、「このような噂を立てられること自体がけしからん」という理由で、「秀次はその秀吉の責めを受け、自ら高野山に籠ることで謝罪の意を示した」という結着が、秀吉の望む「穏便な処置」だったといえます。

 

 しかし、その秀吉の「温情」は、秀次の切腹によって最悪の形で裏切られることになります。

 

 4.終わりに

 

 上記の解釈もまた、推測のひとつにすぎません。しかし、結局秀次事件の解釈は、一次史料だけでは情報が不足しており、二次史料は間違いだらけという状態ですので、確定した解釈が今後も難しいでしょう。今回のエントリーは、多数の人が当然視している「秀次は無実だった(「謀反」などたくらんでなかった)」という解釈に疑問を呈してみました。

 

 現在の秀吉の特に晩年の行動・判断に対する解釈は「晩年の秀吉は耄碌(実際に認知症という意味ではなく、比喩的な意味で)していた」という見解に基づく「豊臣政権滅亡必然史観(晩年の秀吉が耄碌して愚行を繰り返したために、豊臣家は必然的に滅びた)」という先入観に縛られているような気がします。

 

 実際には、この先入観は「おおむね」間違ってはいないのですが、この先入観が固まりすぎると、「晩年の秀吉が行った行動・判断は『すべて』耄碌した愚行であり、間違った所業である」という結論を先取りした解釈になってしまう危険性があります。

 

 要は、晩年の秀吉の判断であれば、それがどんな判断であれ、それはすべて愚行であり、間違った判断なのであると、内容そのものを検討することなく決めつけられる傾向にあるように見受けられるのです。実際にはそんなことはなく、晩年の秀吉の判断でも、優れたとはいえないまでもそれなりに考えた合理的な判断をしている場合もあるのですが。(それなりに考えた合理的な判断が、最適解にたどり着くかは別問題です。)

 

 こうした「豊臣政権滅亡必然史観」に基づいた先入観を秀次切腹事件に当てはめると、「秀次謀反の噂」を理由に「秀次を高野山に出奔させた」秀吉の判断に対する解釈は以下のようになるのはやむをえないでしょう。

 

「秀次が、秀吉政権の詰問により、高野山行を強いられたのは、秀次が秀頼を脅かすのではないかと疑心暗鬼にかられた秀吉の根拠なき暴走によるもの。秀次に「謀反」の意思はなかった。「謀反」の噂は根も葉もないものであり、存在しない。あるいは「噂」は秀吉政権側がでっち上げたもの。秀吉の暴走により秀次一族は粛清され、豊臣政権は弱体化した。豊臣政権が滅亡したのは必然だ。」

 

「晩年の秀吉の判断・行動はすべて間違い」なのですから、秀吉が「謀反の噂」を真実ではないかと疑っている場合、それは「すべてが間違っている秀吉」の判断な訳ですから「謀反の噂」は虚偽に決まっており、そんなものは存在しない、秀次は無実だ、という結論に自動的になってしまうわけですね。結論から解釈を定めてしまっているのです。

 

 また「謀反の証拠史料がない」という意見も聞きますが、そもそも秀吉政権は後世に審判をゆだねるために、謀反の証拠となるような書状等を保存するとかいう事務処理をしている訳ではありません。関係者に聞き取りは当然行われたでしょうが、そもそも書類として書きとられたものが存在するのか、書きとられたとしても、それが史料として現代まで保存されている可能性はどの程度なのか考える必要があるでしょう。

 

 秀吉が謀反と判定した時点でそれは「謀反」な訳で、現代の裁判記録とかと一緒にされて、「証拠がない」だから「秀次は無罪」だという現代的感覚で解釈するのもいかがなものかと思われます。こうした先入観に縛られることなく、個別に検討していく必要があると考えます。

 

(付論)

 秀次「謀反」説が正しかったとして、なぜ、秀次は「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」という考えにいたったのでしょうか。

 

 ここからは、完全に個人的な推測ですが、秀次は「御拾(秀頼)は秀吉の実子でない」と信じていたのではないでしょうか。

 

 ルイス・フロイスの『日本史』の記載によると、秀吉には子どもを作る体質を欠いているから、息子は彼の実の子どもではないと、既に同時代に多くの人から信じられていたということです。(*8)

 秀次もこの噂を信じていた可能性があります。服部英雄氏の『河原ノ者・非人・秀吉』によりますと、(この書籍の該当の章の記載は、主に「秀頼は秀吉の実子か否か」を検証したものなのですが、ここではその内容に立ち入らないことにします。)文禄二(1593)年八月三日に御拾が生まれた後、秀吉は十月二十日に淀殿付女房衆を大量に処刑します。(これを服部氏は「淀殿懐妊の不始末の責任を取らせたことによる」と解釈しています。)そして、十月二十七日に公卿との能の予定を延期して、秀次は急に伏見の秀吉に会いに行きます。

 

 服部英雄氏は「秀次が緊急に秀吉に会った理由は何か。秀次の強い主張があったと想定する。」(*9)とします。その主張とは「明らかに実子ではなく、本来なら犯罪行為の結果の子として葬るべき子どもを後継者にした。そのことに、強く反発したのではないだろうか。」(*10)としています。

 

 服部英雄氏の見解が絶対的に正しいともいえないのですが、「秀次が、『御拾が秀吉の実子ではない』と信じていた」というのは可能性のひとつとしてありうるかと思います。その場合は、「秀吉の実子ではない(と思っている)御拾に後を継がせるくらいなら、秀吉の血縁でもある自分の子に後を継がせたい」と秀次が考えるのも、ある意味自然な発想かもしれません。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p72

(*2)小林千草 1996年、p139

(*3)小林千草 1996年、p144

(*4)矢部健太郎 2016年、p70

(*5)矢部健太郎 2016年、p70

(*6)矢部健太郎 2016年、p147、248

(*7)矢部健太郎 2016年、p62

(*8)服部英雄 2012年、p610~612

(*9)服部英雄 2012年、p649

(*10)服部英雄 2012年、p656

 

 参考文献

林千草『太閤秀吉と秀次謀反 『大かうさまぐんき』私注』ちくま学芸文庫、1996年

服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』山川出版社、2012年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

豊臣秀次事切腹事件の真相について④~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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 前回の話の続きです。

(前回のエントリーです。↓)

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3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

 

 この論点が、矢部健太郎氏の新説の核心かと思われます。

「秀次の自発的な意思にせよ、命令にせよ、秀次が自害したことに変わりはないのだから検討することに意味はあるのか?」という意見もあるかもしれません。

 しかし、秀次切腹が秀吉の命令だとすると、秀次切腹は秀吉政権の予定通りの行動であることになります。

 つまり、秀次切腹は秀吉政権の規定通りの行動の一つということになり、これ以後に豊臣政権の運営のあり方に大幅な変更があったとしても、これも想定内・計画通りの行動だったということになります。

 

 これに対して、秀次切腹は秀次自身の意思によるものであるとすると、これは秀吉政権にとって想定外の重大危機が発生したことになり、秀吉政権はこの危機に対して事態を収拾するために急遽迅速な対応を取ることが迫られることになります。

 また、この事件によって当初想定していた豊臣政権の運営のあり方から、想定外に大幅な変更を余儀なくされたことになります。

 

 さて、従来の通説は「秀次切腹は秀吉の命令である」説な訳ですが、矢部健太郎氏は新説として「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」説を唱えます。

 矢部氏の新説を以下要約します。

 

五奉行の「秀次切腹命令」書状が小瀬甫庵『甫庵太閤記』にあり、これが「秀次切腹は秀吉の命令である」説の根拠となっています。

 しかし、この『甫庵太閤記』の五奉行の「秀次切腹命令」書状に対して矢部氏は以下の疑問を呈しています。

a.通常は年号がないはずの「書状」なのに、年号が書いてある。

b.前田玄以を「徳善院」と記しているが、この時期玄以はまだ「徳善院」とは名乗っていない。

c.連署状の署名の格付け(奥に向かって高くなる)が逆になっている。

d.浅野長吉は当時東北におり、発給文書に署名があることが疑問。そもそも、この時点で「五奉行」は成立していない。

e.『甫庵太閤記』以外に、この書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない。

f.奉行衆の書く文書にしては、装飾性に富み文体として不自然。

g.『甫庵太閤記』では、七月十三日に伏見を発った「切腹命令」が、十四日夕刻に高野山に到着したとあるが、三千もの武装した兵が伏見→高野山間の距離は約130キロ強で、加えて麓から800メートルの高低差がある峻険の地である高野山に一昼夜で到着するのは非常に難しい。(*1)

 

 上記についての、個人的な感想を述べます。まず、そもそも『甫庵太閤記』の記載は虚飾も多く史料としては信憑性が低いと評価されています。a.~f.の点を考えても、この切腹命令書は甫庵の(特にモデルとなった原本すらない)ゼロから作った創作だと思われます。このため、e.で述べられているように、『甫庵太閤記』の他にこの書状の実在を裏付ける「原本」「写し」が伝来していない以上、「五奉行の『秀次切腹命令』」なるものは実在しないということになります。

 

g.の論点については、「強行軍で行けばなんとか可能だろ」、という反論が予想されますが(これに対して矢部氏は具体的に反論していますが(*2))、そもそも『甫庵太閤記』の記載自体が甫庵の創作だと思われますので、『甫庵太閤記』の記載を元に細かく検討してもあまり意味はないかと思います。(まあ、創作だからこんな無理な日程になるのだ、という補強証拠にはなりますが。)

 

 ②「秀次高野住山令」という史料の「写し」が『佐竹家旧記』及び『南行雑録』(『南行雑録』とは、徳川光圀が『大日本史』の編纂のために部下に諸国の史料を閲覧させて写し取った史料集。「秀次高野住山令」は高野山蓮華定院に所蔵されていたと書かれています。)に残っているということです。矢部氏は史料の由来等を検討した結果、史料としての信憑性は高いとしています。(*3)

 

a.この「秀次高野住山令」は、高野山側に秀次の住山(高野山で生活する)について命じた法令で、発出されたのは文禄四年七月十二日付になっています。「自敬表現」が使われていること等から作成主体は秀吉だと考えられます。

 

b.条文の口語訳を以下に引用します。

「一、召し使うことのできる者は、侍十人〔この内に〔坊主・台所人(料理人)を含む〕、下人・小者・下男五人を加え、十五人とする。この他に小者を召し仕うことは一切禁止する。ただし、出家の身となり袈裟を着ている以上は、身分の上下にかかわらず、刀・脇差を携帯してはならない。加えて、奉公する者の親類を召し置いてはならない。)(下線引用者)(*4)

 「一、高野山全山として、番人を昼夜問わず堅く申し付けるように。もし(秀次らを)下山させるようなことがあれば、高野山全山に成敗を加える。

 一、高野山の出入口ごとに番人を置き、秀次を見舞う者は固く停止させること。」(*5)

 

 以上を見ると、この「秀次高野住山令」は一定期間秀次が住山することを前提としたものであり(当然切腹させる意図はない)、また秀吉の許可なく下山することを認めない内容になっています。前の論点で高野山行きが秀次の自発的な出奔か、秀吉の命令かという論点がありましたが、どちらの場合であっても、今回の秀吉の許可なく下山を禁じる命令によって、秀次の高野住山は秀吉の命令として上書きされたことになります。

                                                                   

 特に注目する箇所は「刀・脇差を携帯してはならない。」という命令で、これは自害の防止・禁止のための措置ともいえます。このような命令を秀吉が発しているにも関わらず、秀吉が秀次の切腹を命令していたというのは矛盾していることになり、やはり秀吉(あるいは五奉行の)の切腹命令など存在しなかったということになります。

 

 ということで、矢部氏の説のとおり、「秀次切腹は秀次自身の意思によるもの」という見解が妥当だと思われます。

 

3´.秀次はいつ自殺したのか?三使はその場にいたのか?

 秀次はいつ自殺したのかは七月十五日と明らかになっています。そして、前述の「秀次高野住山令」が高野山に伝達されたのは七月十四日夕刻です。すぐにその内容は高野山から秀次に伝えられたでしょう。その一日の間に秀次は自害を決意したことになります。

 

 これは、「秀次高野住山令」が秀次にとっては思いの他厳しいものだったため、絶望したことによるかと思われます。秀次としては高野山に「自発的に」向かい、謹慎して秀吉に対する謝罪の意を示すことによって、秀吉の赦免があることをおそらく期待していました。あるいは、高野山に謹慎しても比較的短い間で謹慎が解けるかもしれないと思っていました。

 しかし、実際に発された「秀次高野住山令」を見ると、住山し続けなければいけない期限が一切書かれておらず、もしかしたら残る一生をこのまま高野山に謹慎したまま暮らすことになるのではないかとも思ったのかもしれません。

 

 深く絶望した秀次は切腹を決意します。そして、「秀次高野住山令」には「刀・脇差を携帯してはならない。」とあり切腹を決行する猶予の期間はほとんどありません。刀と脇差を取り上げられる前に秀次は切腹をする必要があり、そして明日(15日)の朝、秀次は切腹を決行することになりました。

 

 この時、高野山に「秀次高野住山令」を伝えに行った使者は福島正則、福原長堯、池田秀雄の3名。

 このうち、だれが秀次の切腹に立ち会ったのか、あるいは誰も立ち会わなかったのかは信頼できる史料がないとされます。ただし、二次史料の『川角太閤記』には、三使のうち福島正則、池田秀雄の二人だけが秀次の元に現れて、秀吉の真の御意は「切腹」である、と伝えたといいます。

(とすると、『川角太閤記』の記述は、矢部氏の説に反することになりますが。

 ただし、正則・秀雄が秀吉の意思に反して、秀吉の真の御意は「切腹」だと嘘をついたとすると悪質ですが、『川角太閤記』の記述とはつじつまが合います。

 しかし、そのような嘘を正則・秀雄が秀次に対して言う意図が(現在残っている史料からは)全く不明です。やはり他の二次史料と同じく『川角太閤記』の記述も著者の想像が多く混じっていて、これをそのまま史実として確定できないということになるかと思います。)

 

 矢部氏は、

 ①十五日の朝に福島、福原、池田の3名が秀次のもとを訪れた。

 ②十五日の朝に福島、池田の2名が秀次のもとを訪れた。

 ③十五日の朝には誰も秀次の元を訪れてはおらず、秀次は三使不在の中切腹した。

の3つのケースを上げ、「どのケースが最も合理性が高いのか、それを決するだけの根拠は残念ながら残されていない」(*6)としています。

 

 上記の3ケースのどれが正しいかで、色々な説が考えられますが、一次史料の根拠がない以上、あまり推測してもきりがないので、私も推測は述べません。

 

※次回のエントリーです。(「4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?」については、次々回に検討します。)↓

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  注

(*1)矢部健太郎 2016年、p153~162

(*2)矢部健太郎 2016年、p156~161

(*3)矢部健太郎 2016年、p162~167

(*4)矢部健太郎 2016年、p170~171

(*5)矢部健太郎 2016年、p175

(*6)矢部健太郎 2016年、p222~226

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り

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※以前のエントリーです。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2) 

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

 

 文禄4(1595)年7月に豊臣政権を揺るがす豊臣秀次切腹事件が起こります。諸大名にも動揺が広がっており、大名達は事態の詳細を把握するために、秀吉の奉行衆に照会をして情報収集に努めます。

 

 このうち、伊達政宗の家臣針生盛信も、三成に詳細を問い合わせる書状を発し、書状に対する三成の返書が『伊達家文書』に残っています。以下、引用します。

 

「預飛札本望二存候、今度関白殿御逆意顕形二付而、御腹被召、一味之面々悉相果、毛頭無異議相済候迚、可為御上洛間、期面談不能詳候、

                  石田少

                    三成(花押)

     七月廿五日

        針(針生)民舞太輔殿

                 御返報

                   (大日本古文書『伊達家文書』六六四号)

◇急便を嬉しく思う。この度関白(豊臣秀次)殿の逆心が露わとなったので、(秀次は)切腹し、与同の連中も悉く死に果てた。すべて問題なく片付いたことをうけ、御上洛されるとのことなので、面談の時を期して詳しい事を述べない。」(*1)

 

 針生盛信という人物は、「蘆名一門であり、蘆名義広の家老を勤めた人物である。これが奥羽仕置ののち、伊達家に転任するという経緯をもつ。したがって、政宗家中の中では三成と昵懇の間にあった。こうした関係を前提とした文書のやりとりであろう。」(*2)

 

とあります。前述した通り、以前に伊達政宗と対立していた佐竹義宣及びその弟である芦名義広を三成は秀吉政権の取次として支援していましたので、当時義広の家臣であった針生盛信とはその頃からの旧知の仲なのでしょう。

 

 上記の書状は、秀次切腹事件に対する文禄4(1595)年7月25日時点における豊臣政権の「公式見解」として注目されることが多い書状ですが、一方で、この書状が誰に送られた書状なのか注目されることが少ないと思われます。

 

 この書状を見て分かるのは、家臣の針生盛信を通じて、以前より伊達政宗石田三成は交流があり、秀次切腹事件という重大事態に対して、伊達政宗が情報と対処方法を頼ったのは石田三成だったという事です。

 

 よくドラマなどでは、「石田三成が以前から伊達政宗を敵視しており(これも上記で書いた通り、以前に伊達政宗vs蘆名・佐竹連合の戦いで、三成は秀吉政権として蘆名・佐竹連合を支援する立場であったということで、政宗を個人的に敵視していたわけではありません。)、秀次事件を契機として(政宗は秀次の反乱に与していたという理由をつけて)政宗を除こうと画策し、政宗は堂々と反論してあやうく難を逃れた」ような話が描かれます。

 

 しかし、この書状を見ると、現実には伊達政宗は三成にこの事件の情報や対処方法を尋ねており、秀吉政権の中では三成を頼りにしていたことが分かるのです。また、この書状は以前から三成と政宗との間に交流があったことをうかがわせます。

 

 

 結局、秀次事件において政宗連座させられるような事はありませんでした。その時に三成の取り成しがあったという史料はなかったかと思いますが、少なくとも三成がこの事件で政宗を陥れようとした史実はありません。むしろ、三成は政宗を擁護する立場にあったのではないかと、この書状から推測されます。

 それは前にも紹介しましたが、慶長三年七月一日の政宗の三成宛書状「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」(*3)という記述からもうかがえます。(もし、三成が秀次事件で政宗陥れようとした史実が本当にあるなら、こんな書状が書かれることはありえません。)

 

 今回の書状や、前回のエントリー

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 

で紹介した書状などを見ると、従来の見方とは違って三成と政宗は互いに敵視したわけではなく交流もあり、またある意味互いに信頼できる関係でもあったのではないかと思われます。

 

関連エントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2017年、p259~260

(*2)中野等 2017年、p260

(*3)福田千鶴 2014年、p57~58

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年

伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う

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※前回、前々回のエントリーです。↓

伊達政宗と石田三成について(1)

伊達政宗と石田三成について(2)

 

 天正十九(1591)年、奥州で起こった大崎・葛西の一揆の始末をするために六月、石田三成は奥州への派遣を命じられます。そして、

 

「八月上旬には一揆も壊滅し、九月に入ると、出羽米沢の伊達政宗が、一揆を起こした大崎・葛西の旧領への転封を命じられる。結果的に政宗は、米沢や奥州の伊達・信夫郡など父祖伝来の地を没収されたのであり、そこに懲罰的な意味合いがなかったとは言えまい。」(*1)

 

「懲罰的な意味合い」とは伊達政宗が大崎・葛西の一揆に加担していたのではないかという疑惑に対することです。

 

「三成は、九月二十二付日付で伊達政宗に書状を発し、気仙・大原両城の修築を終え、それらを伊達政宗の家中に引き渡すことを告げた。

   猶以、家幷矢倉之儀、念を入、不損様申付候、此方より可相届との、御内々候

   者、無御隔心、御報二可承候、以上

内々此方より可申入処、御折帋本望之至候、御所労如何無御心元候折節、預恩問候、仍拙者儀、気仙・大原両城之儀普請出来、則任御理、最前より被付置両人二相渡、彼地在陣之衆、明日辺可罷出之旨申付、拙者迄爰元へ今日罷出候、最前より度々雖御理候、彼両城御留守居少二付而者、何迄成共、不寄五百・千、人数可残置之旨申付候、但御手前より被差置候物主衆被申様次第、可随其之旨堅申付候、随而当地家共、岩手沢之地へ可有御引之由、尤候、当地之儀者令破脚之旨、従中納言殿(豊臣秀次)任御理之旨、立木・壁儀者拂申候、於家之儀者不損様可申付候、御手前御普請人遣於無之者、彼家之事こほち、何之地迄成共、為此方人数相届可進候、無御隔心可承候、猶御使迄申含候間、可為演説候、恐惶謹言、

              石田治部少補

天正十九年)九月廿二日       三成(花押)

          政宗

            御報

◇実はこちらからご連絡をしようと思っていましたが、御手紙(御折紙)を頂き本望です。いかばかりかお疲れだろうと心配しておりましたが、御手紙ありがとうございました。拙者は気仙・大原の普請を終え、(秀吉の)指示に任せ、先般来付置された両名に引き渡しました。彼の地に在陣していた軍勢も、明日あたり(気仙・大原から)移動するように命じ、私も今日この地まで出張ってきました。先般来たびたび説明しておりますが、彼の両城の守備に当たる兵力が少ないようでしたら、いつまでも五〇〇・一〇〇〇に限らず兵力を残し置くようにします。ただし、伊達家から派遣される大将の意向に従うべき旨を申し付けます。また、当地にある家(屋敷)を岩手沢に引き移されるとのこと、尤もに思います。当地(の城)は破却すべしとの秀次(中納言)殿の命に従い、立ち木や壁は取り払います。家(屋敷に)ついては、損なわないように配慮します。伊達家として普請にあたる手勢が足りないようでしたら、家の破却・どこまででも、こちらの手勢を廻しますので遠慮なく、(用務を)承ります。なお、御使者にお話ししておきますので、説明をお聞きください。

   さらに申し上げますが、家(屋敷)・矢倉などは入念に損なわないように

   いたします。こちらの手勢で運ぶようにと密かにお考えなら、遠慮なく返

   信でご連絡ください。」(*2)

 

 以前のエントリー↓で

伊達政宗と石田三成について(1)

書いた通り、三成は佐竹・芦名氏(芦名当主となった芦名義広は佐竹義宣の弟です)の取次として、佐竹氏と対立する伊達氏との戦いを支援する立場にあり、伊達氏との関係は敵対的でした。そして伊達対芦名・佐竹連合軍による摺上原の芦名・佐竹連合軍の敗北、芦名氏の滅亡で取次先の面目を潰された三成は伊達氏を憎む理由があり、それは政宗も分かっていました。

 

 しかし、政宗一揆との共謀を疑われ苦しい立場にあったこの時期に、三成は「岩手沢(大崎岩出山)への居城を移そうとする政宗の立場を考え、ここでは積極的な協力を申し出ている。気仙・大原両城に駐留する伊達勢の人数に不安があれば、三成管下の兵を充当するとし、」(*3)しかもその兵は伊達氏から派遣される大将の意向に従うとします。

 城の破却についても家(屋敷)が損なわないように配慮し、岩手沢に家(屋敷)を移設したいという政宗の意向を聞いて、「また、豊臣秀次中納言殿)の指示で破却される城に、まわすべき普請衆が不足するおそれがあれば、これまた三成が管下の兵に銘じて、家々を損ぜないように分解してどこまでも運ばせよう、と述べ」(*4)移設についても積極的な協力を申し出ています。

 

 このような私的な遺恨を捨て去り、苦境にある政宗に対して「気遣う」三成の態度に、政宗は胸を打たれたのではないでしょうか。こうしたことが、(以前のエントリーを書いた時にはきっかけが良くわからなかったのですが)三成と政宗が懇意(後に「奥底懇に可得貴意候」(*5)政宗が書状に書くような)になったきっかけになったのかもしれません。

 

↓続きです。

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 注

(*1)中野等 2017年、p144

(*2)中野等 2017年、p146~147

(*3)中野等 2017年、p146

(*4)中野等 2017年、p146

(*5)福田千鶴 2014年、p57~58

 

 

参考文献

中野等『石田三成伝』(吉川弘文館、2017年)

福田千鶴『(歴史文化ライブラリー387)豊臣秀頼吉川弘文館、2014年