古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像  第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次)

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☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

 

☆目次☆

第2章~古渓宗陳を讒言により配流させた?

第3章~小早川秀秋左遷は、三成の讒言によるものではない  

第4章~ 文禄の役における黒田官兵衛の秀吉叱責は、三成の讒言によるものではない 

第5章~ 千利休切腹事件と石田三成は無関係

第6章~(当たり前の話ですが)豊臣秀頼は石田三成と淀殿の間の子ではありません。

第7章~ 豊臣秀次家臣を保護する三成

第8章 ~石田三成は蒲生氏郷を毒殺していません

第9章~ 蒲生家と石田三成の繋がりについて

第10章~『会津陣物語』に見る、江戸時代に作られた虚構のストーリー 

第11章~「地震加藤」はなかった?~文禄の役の加藤清正の一時帰還について

第12章 ~慶長の役に対する石田三成の「肉声」~「うつけ共か色々事申候ハ、不入事候」

第13章 ~細川ガラシャ事件と石田三成は無関係 

第14章 ~石田三成は加藤光泰を毒殺していません 

第15章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(1)

第16章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(2)

 

 石田三成ほど、江戸時代から現代に至るまで、讒言により他の武将を陥れる「奸臣」「佞臣」と貶められ続けた武将もいないでしょう。それらの「奸臣・石田三成」のほとんどは、江戸時代に作られた軍記物や各大名家の家譜で悪意的に創作された「虚像」といってよいもので、実際の「実像」としての石田三成とは違います。

 

 近年、歴史学者や研究者により従来の「虚像」としての三成の見直しは進んでいますが、昨年の大河ドラマ軍師官兵衛」のように、いまだに従来通りの「虚像」としての石田三成像が描かれることも多く、誤ったものでも一度見方が固定するとそのイメージを払拭するのは難しいものであることが分かります。

 

 次のエントリー(第2章から第14章)からは、軍記物語や大名家の家譜で語られた「虚像」としての石田三成が史実に反しているものであり、実際の史実の石田三成の「実像」がいかなるものであったかを個別に検討したいと思います。

 

 しかし、「実像」の石田三成が「虚像」とかけ離れたものであったとしても、それで彼が同時代の一部の武将達に嫌われていなかったとはいえません。全ての人に好かれるような人気者ではなく、実際に嫌った武将達もいたからこそ関ヶ原の戦いで敵対する武将も出てくるわけですし(※)、その後の家譜等でも悪口(その悪口が創作な訳ですが)が多く書かれるわけです。

 

(※)ただし、例えば関ヶ原の戦いを豊臣家臣団内部の親三成派と反三成派の内輪もめなどと考えてしまうと、日本全国の大名を巻き込んだ関ヶ原の戦いの意義を矮小化してしまうことになりますし、天下分け目の戦いが三成に対する好悪で東西陣営が旗分けされたと考えるのは、あまりにも三成を過大評価しすぎでしょう。各大名家はどちらの陣営が勝ち、自らの家が存続するかを必死に考えて、どちらの陣営に入るかを決めたと思われます。個人に対する感情の好悪で家の存亡を判断するほど、当時の大名達は単純ではありません。)

 

 実際に三成と言いますか、奉行衆を嫌った武将としては、加藤清正黒田長政蜂須賀家政がいます。加藤清正は、文禄の役の戦略を巡っての軍目付(奉行衆)との対立、黒田長政蜂須賀家政については慶長の役の戦略を巡っての軍目付との対立(慶長の役の際は三成は軍目付をしていませんが、当時の軍目付が三成の縁戚だったため、三成も同じく敵視されることになります。)ということになります。

 また、浅野長吉(長政)・幸長親子と奉行衆(というか、増田長盛石田三成)は東国政策に関して、対立が見られます。これが互いに憎悪に繋がったという可能性は大いにあります。

 従来、石田三成ら奉行衆が中央集権派、浅野長吉(長政)と徳川家康地方分権派という見解がありましたが、むしろ浅野長吉(長政)と徳川家康が「東国(徳川)集権派」であり、それに三成・増田長盛が対抗するも、秀吉の方針もあり押し込まれていくという理解が正しいと言えます。それを象徴するのが宇都宮国綱改易、佐竹義宣連座未遂事件といえます。

 ここでいう「奉行衆」ですが、前田玄以五奉行筆頭ながら、織田信忠の旧臣であり、寺社・朝廷に特化したスペシャリストの感があり、長束正家丹羽長秀の旧臣であり、兵站奉行のスペシャリストという感じで、また正家は、年齢が確定していませんが現在の説では五奉行最年少であり、どちらも豊臣公議を中心に仕切っている感じがしないのですね。

 浅野長吉(長政)に至っては、ほとんど他の四奉行に「家康付き」のスペシャリストと思われており、しかも「(本来は取り込まれてはいけない)取次先の家康に取り込まれている」とみなされていて、他の四奉行からの信頼性が非常に低かったのではないかと思われます。また、長吉が取次先の伊達政宗から絶縁状を出されたのも、同じ取次を務めている奉行衆から、長吉の(取次としての能力に対する)信頼を相当に低下させたでしょう。

 そうなりますと、豊臣公議の中心とは、つまりは増田長盛石田三成ということになります。

 しかし、石田三成は主君秀吉にすら諫言を憚らない「へいくわい者」ですので、いつ粛清されてもおかしくない。(秀吉が生きているときは当然秀吉に。秀吉死後は、権力者家康に。)

 また、三成の「諫言」って結局ほとんど通ってないのですね。二十六聖人殉死事件の際も、結局被害の拡大は防いだけれど、処刑そのものは止めることはできなかった。

 つまりは、三成は豊臣家の中心にいるけど、実際には中心ではない。他に秀吉にカウンターを言える人間が(秀長亡き後は)いないので、あえてカウンター役として「生かされている駒」だったのではないかと思われます。(組織の硬直化を防ぐために、こうした人間が必要。)それも、秀吉が気に入られなければあっという間に切り捨てられる駒です。

小瀬甫庵の『太閤記』には、三成の秀吉評として、「三成は諫に付ては、我が色気取らず。諸事有る姿を好みし者なり」とあります。(しかし、その評を載せた割には甫庵の三成描写は、虚偽を多く含んだ悪口だらけなのですが・・・・・・。)

 これは、三成自身の性格もさる事ならがら、豊臣公議の中でそうした「諫言役」という役割を(秀吉自身からも)期待され、その期待に沿って諫言を行ったという事なのではないかと考えらえます。ただ、その諫言が通るかは、結局秀吉の意思次第な訳です。)

 

 そう考えると、実質豊臣公議の中心を仕切っていたのは、増田長盛だったのではないかと思うのですね。