古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

豊臣秀次切腹事件の真相について②~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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*前回のエントリーです。↓

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 前回の続きです。

 

 文録四(1595)年六月、曲直瀬玄朔(道三)の「天脈拝診怠業事件」が起こります。以下、『関白秀次の切腹』から引用します。

 

「同年六月十七日からの『御湯殿上日記』の記述をみてみよう。

 

 十七日、はるゝ、御心わろくて、道三御みやく(脈)にまいる、しゆこう(准后)御まいり、

十九日、はるゝ、御こゝろまたわろくて、御みやくみせらるゝ、

廿日、(中略)けふ(今日)は道三くわんはくとの(関白殿)わつらい(患い)にてふしみ(伏見)にまいる、御やうたい(容態)一つかき(一つ書き)にて御くすりとりにま(い脱カ)り候てまいる、

 

【口語訳】十七日、晴、天皇の御体調が優れず、道三が診療に訪れた。准后が参られた。

十九日、晴、今日も天皇の御体調が優れず、診療させた。

二十日、今日は道三が関白の病気のために伏見に入った。天皇の御容態を一つ書きにして、御薬をとりにいかせ、御所に届いた。」(*1

 つまり、六月十七日に当時の天皇後陽成天皇の御体調が優れず、曲直瀬玄朔(道三)は診療し、続く十九日も診療にあたっていたにも関わらず、二十日に道三は伏見にいる秀次の診療に向かいました。困った朝廷側は、天皇の御容態を一つ書きにして伏見にいる道三に伝え、御薬をとりにいかせることになりました。

 この行為は、関白秀次が道三に天皇の診療より自分の診療を優先させたということになってしまう訳で、非常に問題のある行為となってしまいます。

 矢部健太郎氏は、この一件を秀次詰問の要因として考えています。(*2)

 

 前回のエントリーでも引用しましたが、矢部健太郎氏によると「対して秀吉側では、密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。」(*3)というのが秀吉の考えであったとすると、上記の「天脈拝診怠業事件」は秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させる、またとない口実となったと考えられます。

 

 さて、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』によると、七月三日、前田玄以増田長盛石田三成、富田一白の四人の奉行衆が聚楽第を訪れ、秀次に謀反の疑いありとして詰問したといいます。

 藤田恒春氏の人物叢書 豊臣秀次によると、太田牛一は「七月三日に太閤秀吉と関白秀次とのあいだで日本国を闇夜とするようなことが起こったとしているが、具体的なことについては何ら触れていない」(*4)とあります。そして、「秀次が謀反といっても、秀吉を圧倒する軍勢も持たないことに鑑みれば、また、秀次附属の池田・山内などの軍勢も動いていないことをも勘案するとき、「謀反」との言葉は軍勢を動かすようなものではなく、単純に秀吉の意向あるいは命令に、真っ向から背く回答をすることによって引き起こされた混乱と考えるべきであろう。すなわち、両者の不和の内実は、直接的であれ間接的であれ、自明の問題である。豊臣家家督をめぐる問題である。」(*5)としています。

 

 詰問自体のきっかけは「天脈拝診怠業事件」であっても、その詰問される「謀反」の内容は、結局前からの豊臣家家督をめぐる問題であるという事なのでしょうか。前より、秀吉は秀次が自発的に関白職を辞することによって、自ら秀吉の後継を降りて、秀頼に譲る姿勢を示してほしいという意向でしたが、これを秀次は拒否し続けていたところ、「天脈拝診怠業事件」が起こり、これを理由として改めて秀次に関白辞任を突き付けたというところでしょうか。

 

 ちなみに、太田牛一の『大かうさまくんきのうち』は、後世作成された二次史料であり、その描写をそのまま鵜呑みできる訳ではありませんが、山科言経の日記『言経卿記』の文禄四年(一五九五)七月八日条には「一、関白(羽柴秀次)殿ト、太閤(羽柴秀吉)ト去三日ヨリ後不和也、」(*6)とあり、奉行衆の詰問自体があったかは記されていないものの、七月三日に秀吉と秀次との不和が決定的になるなんらかの事件があったことが伺えます。矢部健太郎氏は、その不和が決定的となる事件を『大かうさまくんきのうち』の記述から、「奉行衆による秀次詰問事件」ととらえているということになるかと思われます。

 

 たしかに、何もきっかけがなければ次回検討する秀次の高野山出奔あるいは追放事件に発展しないでしょうから、奉行衆からの詰問等、秀吉からの何らかの圧力があったと考えるのが自然といえます。このため七月三日、実際に「奉行衆による秀次詰問事件」はあった可能性が高いといえるでしょう。

 

 次回から、2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?の論点を検討します。

 

※次回のエントリーです。

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p66~67

(*2)矢部健太郎 2016年、p68

(*3)矢部健太郎 2016年、p58

(*4)藤田恒春 2015年、p178

(*5)藤田恒春 2015年、p178~179

(*6)矢部健太郎 2016年、p64

 

 参考文献

藤田恒春『人物叢書 豊臣秀次』吉川弘文観館、2015年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

【小説】 長い話

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【小説】 短い話を読む。(下の小説とは無関係です。)

 

 今度は長い話を書こう。

 長い話といっても手早く書きたいから、話の分量としては短い。

 長いというのは別の意味だ。

         *         *           *

  1

 昔の頃、自分が高校生の頃の話だ。

 俺は、友人と屋上で昼食の弁当を食べていた。

 ふと、俺は思いついて言った。

「『ちょっとの間』って、どのくらいの時間かな」

「なんで、そんな話?」と友人は僕を見て言った。

「いや、同じ部活の奴に用事を頼んだんだけど、できてなくなさ。『まだ?』って聞いたら『もうちょっと待ってくれ』って言われたんだよ」

「そいつに直接聞けばいいじゃん」

「まあ、そうなんだけどさ・・・・・。そもそも『ちょっと』って、どれくらいの時間だよ、って思ってね」

「そうだな・・・・・」友人は考え込むような顔をした。

「『ちょっと』って『一寸』って書くんだよな。一寸は約3センチメートルだから、約3センチメートルぐらいなんじゃない」

「3センチメートルは長さだろ。3センチメートルぐらいの時間ってどんな時間だ?」

 友人は黙って肩をすくめた。まあ、確かにどうでもいい話だ。

 しばらく黙って飯を食べた。

 今度は、友人が僕に話しかけた。

「世界が、ひとつの長い長い蛇だってことは知っている?」

「なんだそりゃ?」

 初耳だ。そんな神話でもあるのか?

「この世界は、ひとつの長い蛇なんだよ」

「ふうん。それで、俺らはその蛇の上に住んでいるってわけか」

「いや、上じゃない。俺らはその蛇の中に住んでいるんだ」

「んじゃ、地球とか、太陽とか、太陽系とか、銀河系とかは?」

「そんなもの、蛇の細胞とかのひとつにすぎないんだよ。俺らはその細胞にまとわりついている、さらに小さな細菌だ。だから、蛇は俺らの存在なんてそもそもまるで知らない。俺達が自分の腸の中にある菌のことなんてまるで知らないように」

「なんで、そう思うんだ?」

「『そう思う』じゃない。知っているんだ」

「じゃ、なんで『知っている』んだ?」

「理由は知らない。ともかく俺は、物心がついた頃から、そうであることを『知っていた』んだ」

 なんと言えばよいか。まあ、友人のほら話にちょっと付き合おうかと思った。

「それで?お前は今、その蛇はどうしているか分かるのか?」

「蛇は、老齢を迎えていて、死にかけている」

「それで、蛇が死んだらどうなるんだ?」

「もちろん、中にいる俺達も消滅する。誰も蛇が死んだせいで、世界が消滅するということは知らないから、いきなり原因も知らないままに、ちょっとの間に皆消滅してしまうんだ」

 どう答えていいか、分からない顔をしている私を見て、彼はにやっと笑って言った。

「冗談だよ」

「つまらん冗談だな」

 そのまま、また飯を食い始めた。

 しばらくして、彼がぽつりと言った。

「お前にだけは言っとくよ」

「ん?」

 彼は俺をまっすぐに見て言った。真剣な顔だった。

「今の話は冗談じゃないんだ。本当のことだ」

 その目には少し狂気が宿っていたように感じた。俺は少しぞっとした。今度こそ本当に何も言えなくなってしまった。

 

  2

 その後、蛇の話は俺達の間で行われなかった。友人は、この話を俺に話したことを後悔しているようだった。自分も、そのような話をされても何も答えようがなかったので、ほっとした。

 特にそれから仲が悪くなることもなく、その後の高校時代も彼とは仲のよい友人だった。同じ大学に行ったので、大学時代も親しい友人であった。

 彼は、特に気が狂うこともなく、宗教家になることもなく、大学を卒業すると平凡な中堅どころの会社に就職して、普通のサラリーマンになった。自分も大学を卒業して就職して平凡なサラリーマンになった。

 違うのは、彼は大学時代に付き合っていた彼女と、就職した後数年ですぐに結婚したのに対し、自分は特に彼女ができることもなく、独身でい続けたことである。自分には家族を作るという事がうまくイメージできなかった。人間が長い長い蛇の中にいる、小さな小さな菌にすぎず、その蛇が死んでしまえば、訳も分からぬまま消滅してしまうものに過ぎないのなら、その生活など何の意味があるのだろう。

 友人が発した質の悪い冗談は、友人でなく俺を捉えてしまったのだ。

 

  3

 それから、数十年が経った。大学を卒業してからも友人との付き合いは続いたが、次第に疎遠になり、数年に1回会えばよいようになった。自分は相変わらず独身で、彼には孫がいるという。自分は会社は定年で退職し、今は関連会社で非常勤で働いている。彼もそんな感じらしい。

 彼の家族から電話があったのは、昨日の夜のことだった。前から病気で入院していたとは知っていたが、いよいよ思わしくないらしい。前に彼が入院した時に見舞いに行こうかといったが、かえってわずらわしいから来なくてよいと言われたことを思い出した。

 その時も実際には行ったのだが、彼の親族とかも見舞いに来ていて、あまり長居できる雰囲気ではなかったので、挨拶もそこそこに帰った。

 その後に、家族から自分に電話がかかってくるということは、体調がそういうことなのだろう。

 翌日、病院に見舞いに行った。

 ベッドで横たわる彼は、がりがりに痩せていて、顔には死相が浮かんでいた。

 眠っているのかと思って覗き込むと、彼が目を開けた。

「よう、・・・・・じゃないか、久しぶりだな」

 元気そうじゃないか、という冗談が言えないぐらい弱っていそうだったので、

「見舞いに来たぜ」とだけ言った。

 それから、しばらく沈黙が続いた。私は思い切って聞いてみた。

「昔の蛇の話、覚えているか?」

「ああ」

「結局、蛇は死ななかったな」

「いや」

 彼は、少し穏やかな顔になって言った。

「もう蛇は死んでいるんだよ。我々が気づいていないだけだ」

「そうなのか」

「そうなんだ」

「じゃあ、俺達は同じだな」

「そうだな」と言って、彼は少し微笑んだ。

 

  4

 病院からの帰り道で考えた。

 彼は、昔、蛇が死んだら、俺たちもちょっとの間で消滅してしまうと言った。

 しかし、長い長い蛇の時間においては、数万年の間も「一寸の間」なのだろう。

 俺達は同じだ、と思った。

【小説】 短い話

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 短い話が好きだった。

 短い話を読むのが好きなのではない。短い話を書くのが好きなのだ。

 しかし、いざ書こうとすると、「あれも補足しなければ、これも補足しなければ」と付けたし、付けたししていく間に文章はとめどもなく長くなってしまい、文章を書き終えることができなくなってしまう。

 発想を変える必要がある。

 あらすじを書くつもりで話を書くのだ。

 あと、できれば長くてもA4で2ページ以内に収まるように書く。

 ということで、短い話を書こう。

         *         *          *

 その時、僕は喫茶店で一人でコーヒーを飲んでいた。

 僕は、コーヒーに何も足さない。そのままブラックで苦いコーヒーを黙って少しずつ飲んでいた。

 周りには数人の客がいたが、皆、僕と同じく黙ってブラックコーヒーを飲んでいた。

 元々、この店にはミルクも砂糖も置いていないようだった。机の上には何も、灰皿すら置かれていない。皆、ブラックが好きなのか、それとも店にミルクも砂糖もないから、黙って仕方なく飲んでいるのか分からないが、特にミルクと砂糖がほしいとか店員に言っている客もいないようだったので、皆満足しているのだろう。

 僕がその店に入ったのはたまたまだった。旅先で無性にコーヒーが飲みたくなったので、目についた喫茶店にでたらめに入っただけなのだ。

 店内をぼんやり見ているうちに気が付いた。他の客たちは、ただ、コーヒーを飲んでいるだけでなく「何かを待っている」ようなのだ。

・・・・・いきなり、前の席に座っていた男が振り返って聞いた。

「あんたも、ハインリヒを待っているのかね」

 僕は、「ええ、まあ・・・・・」と答えた。男の聞き方は有無を言わせぬ口調で、「いえ、違います」とか「ハインリヒって誰ですか」とか言える状況ではなかったのだ。

・・・・・・ハインリヒって誰だろう。ドイツ人っぽい名前だが、ここは日本だ。もちろん、ドイツ人か知らないが外国人を待っているのか、あるいは何かの芸名か、あるいは楽団かなにかのグループの名前なのか、分からない。ともかく、彼はハインリヒを待っているのだ。そして、ここの喫茶店にいる男たちは(ここの店には自分も含めて男だけだった)自分を除いて、おそらくハインリヒを待っているのだ。

 僕も、そのハインリヒを待ちたくなった。

・・・・・・しばらく待っていたがハインリヒらしき人物は来なかった。ハインリヒらしき人物というか、僕の後に客は店に入ってこなかった。コーヒーは冷めてしまったが、僕はちびりちびりと飲み続けた。周りの客も同じようだったし、店員も何も言わなかった。

 店に入っておよそ2時間が経ち、午後5時のチャイムがなった。結局誰も来なかった。

 店の壁に時計がかかっており、そこからチャイムがなっていた。午後4時には鳴らなかったのに不思議に思っていると、店員が店の皆に向かって言った。

「申し訳ありませんが、当店は午後5時をもちまして閉店となります」

 客の男たちは、文句も言わず冷めたコーヒーの残りを飲み干すとレジへ向かった。自分もそれにならった。

 店を出て、すぐにさっき話かけてきた男に声をかけた。

「結局、ハインリヒは来ませんでしたね」

 男は振り返った。何を言っているんだ、という目つきだ。

「いや、ハインリヒは来ていたじゃないか」

「え?」

 とまどう僕を無視して、さっさと男は行ってしまった。

 さっきの店に戻ろう。

 店のドアを開けると、店員は「申し訳ありませんが、もう閉店で・・・・・・」と言った。

 僕は聞いた。

「ハインリヒって誰ですか?」

「あなたです」

「は?」

「もう来ています」

「は?」

「鏡を見てください」

 そのまま、僕は追い出された。

 仕方ない。僕はその町の駅に向かった。

 小さな駅の待合室の壁には、大きな鏡がなぜか備え付けられていた。

 鏡を見て僕は、分かった。

 ああ、僕はハインリヒだ。

 僕は、この町から抜け出せないことを知った。電車はもう来ない。

 鏡の横にある電車の時刻表は空欄だった。

木食応其(深覚坊応其)と石田三成について

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 高野山の僧、木食応其(深覚坊応其)と石田三成の交流について、白川亨『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社p5~7にまとめられていますので、以下引用します。

 

「(前略)

 その二として、三成の人間性を表現する言葉として、多くの歴史学者は高野山の深覚坊応其の次の言葉を引用している。

「石田治部という人は、その意に逆らうと報復の怖い人である」とする三成評である。

 それでは深覚坊応其の経歴と、三成との関係に触れてみよう。

 深覚坊応其は三成と同じ近江の出身で、近江佐々木氏の家臣であったが、佐々木氏が没落した後は大和の越智氏に仕え、越智氏も没落したため三十七歳で高野山に上り出家された方である。

 天正十三年(一五八五)、関白秀吉が高野山を攻略しようとしたとき関白秀吉に拝謁、高野山の無事を嘆願し、高野山の安泰を成し遂げた方である。

 そのとき三成は深覚坊応其のため関白秀吉の説得に努めている。深覚坊応其と三成の関係はそのときに始まったと考えられる。(注1)

 その後の深覚坊応其の足跡を辿ると、三成とは常に一体となった行動をとっている。

九州征討のときはもちろん、関ヶ原合戦のときには阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走している。特に大津城の開城交渉は、北政所の執事・孝蔵主が同行し、京極高次に開城を求めている。

 また深覚坊応其は高野山の伽藍の荒廃や僧侶たちの堕落を嘆き、自ら木の実を食べ難行を繰り返した高僧であり、そのことから世の人々は木食上人と呼んでいる。

 それに先立つ天正十八年(一五九〇)、一寺を草創して「興山寺」の勅額を賜り、それ以降は興山上人とも呼ばれている。

 石田三成もまた天正十九年(一五九一)興山寺に六角経蔵と経典を寄進し、自らの逆修墓(生前の墓)を建立している。

 そのとき三成の義弟・熊谷半次郎(内蔵允直盛)もまた、その祖先に当たる熊谷次郎直実の供養塔を建立している。

 三成の逆修墓と熊谷次郎直実の供養塔は、現在も残されている。

 (中略)

 慶長四年(一五九九)三月三日「内府(家康)の御意に入り度(た)く体」の七将の襲撃によって佐和山に隠退した三成のもとに、慶長五年(一六〇〇)正月、深覚坊応其は年頭の挨拶に訪れている。

 正月二日、深覚坊応其は豊国社に参詣に訪れ、神龍院梵舜や祝(はふり)衆に贈り物をし、その足で佐和山城に三成を訪ねたようである。そして正月七日の帰路、豊国社を再び訪れ、石田三成に託された金子を奉納、高野山に帰っている(『舜旧記』)。

 前述のように関ヶ原合戦のとき深覚坊応其は、西軍のため阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走している。

 そのため敗戦の報せに近江の飯道寺に逃れ、高野山には帰らなかった。その後、徳川家康使者に詰問を受けている。

 そのときの深覚坊応其の言葉が「開城交渉により一人でも多くの命を救うのが、多くの寺塔を建てるより大事なことである」と述べたあと、「石田治部はその意に逆らうと報復の怖い人であり、そのため阿濃津城や大津城の開城交渉に奔走せざるを得なかった」と答えたのである。

 仏者の言葉に「嘘も方便」という言葉がある。「嘘をつくことは悪いことだが、ときと場合によっては物事を穏便に解決する手段として容認される」という意味である。

 苦労人であり人の心の底を見抜けない徳川家康ではない。あえて黙認したものであろう。

 さらに佐和山城に目付として家康が送り込んだ津田清幽(きよふか)に伴われ、佐和山城を脱出した三成の三男佐吉を家康は助命し、津田清幽に命じて深覚坊応其に託し出家させたのである。

 深覚坊応其は津田清幽の恩義を忘れないようにと、佐吉に「深長坊清幽(せいゆう)」の坊安名を与え、甲斐国(山梨県)河浦山薬王寺の法弟に託したのである。その後、津田清幽は家康の命により大坂城に配されたが、間もなく尾張義直公に配されている(『津田家譜』)。

 その深長坊清幽(佐吉)が寛永年間、河浦山薬王寺の十六世住職に就任するが、そのとき三代将軍家光は寺領を寄進している(『薬王寺文書』)(注2)。さらに四代将軍家綱は寺領のほか村名主一〇名に対し米一〇俵の拠出を命じている(『薬王寺文書』)」

 

 関ヶ原の戦い後、木食応其は弟子の文殊院勢誉に高野山を託し、近江の飯道寺に隠棲し、慶長十三(1608)年に73歳で没しました。

 

(注1)和多昭夫氏の「木食応其考(承)」『密教文化』

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1962/61/1962_61_82/_pdf

によりますと、『高野説物語』では「「其比、近江侍の道心木食にて有けるが、いにしへは世にある武士の由にて、心けなげなる利発者、殊に石田治部少輔懇意なれば、かゝる山の難儀なる時節一働仕へきとおもひ」」(前掲論文p83)とあり、これによれば元々木食応其と石田三成は懇意だったということになりますが、前掲論文では続けて「数多い応其史料の中高野説物語以外にそれを物語るものがない事もそれが疑わしいもの」(前掲論文p84)であり、木食応其・石田三成旧知説を疑わしいものとしているため、やはり白川氏の指摘の通り、深覚坊応其と三成の関係はそのとき(高野山の降服交渉)に始まったと考えられます。

 

(注2)将軍家光が薬王寺に寺領を寄進したのは、石田三成の次女の孫(お振りの方)が家光の側室になった関係からでしょうか?

 

 参考文献

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

和多昭夫「木食応其考(承)」密教文化』

 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jeb1947/1962/61/1962_61_82/_pdf

豊臣秀次切腹事件の真相について①~(矢部健太郎『関白秀次の切腹』の感想が主です)

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(☆本エントリーは、①~⑨までの一連のエントリーとなっています。(このエントリーは①です。)各エントリーのリンク先を以下に示します。↓)

豊臣秀次事切腹事件の真相について①   ②   ③   ④   ⑤   ⑥ 

 豊臣秀次切腹事件の真相について ⑦~秀次切腹事件時の石田三成らの動向について(上) ⑧(中) ⑨(下) )

 

 

 

 関白豊臣秀頼切腹事件の真相について、矢部健太郎『関白秀次の切腹』(KADOKAWA)を読んだ感想を中心に考えたことを以下に書きます。

 

 矢部健太郎氏著の『関白秀次の切腹』はタイトルのとおり、関白であった豊臣秀次切腹の真相を追ったものです。著者の矢部健太郎氏は國學院大學教授、専門は日本中世史の方です。本書においては当時の史料を読み込み、秀次の切腹の理由について詳細に検討されています。

 

 秀次はなぜ切腹したのか?いや、従来の通説ですと「秀吉はなぜ秀次を切腹させたのか?」ということになるでしょうか。著者は、従来の通説に疑問を呈し、「秀次の高野山行は自らの意思による出奔」「秀次は秀吉の命令により切腹したのではなく、自らの意思で切腹した」という説を呈示します。

 

 本書の特徴は一次史料と二次史料を厳密に分けて考察しているところでしょう。この事件の難解な点は、そもそもの豊臣政権の後付公式発表が実際の現実と違うのではないかと考えられる点、また江戸時代以降に作られた『甫庵太閤記』等の(意図的に)虚構を多く含んだ俗書が人口に膾炙し、通説として考えられてきたことにあります。この点、筆者は当時の一次史料を丹念に解きほぐすことによって真相に近付こうとしています。秀次切腹の真相については、今後は賛同するにせよ、批判するにせよ、矢部氏の説を検討しないと解明することはできないかと思われます。

 筆者は、概ね矢部氏の説に賛同しますが、矢部氏の説だけでは全貌が解明できないところもありますので、後ほど個別に検討していきたいと思います。

 

 いくつか秀次切腹事件については論点があります。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

 

 以上の論点について、矢部氏が本書でどのように説明しているか順に検討します。

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か? 

 豊臣秀次切腹の真相について検討する際に、一般的な関心があるのは「秀吉と秀次の不和の原因は何か?」ということですが、矢部健太郎氏はこの点以下のように述べます。

 

「確かに、秀頼誕生によって秀次が不安を感じるというのは正論である。秀吉としては、何らかの形で政治の全権を実子に譲りたいと考えるのが当然だからだ。関白職は秀次に譲られたものの、政治的な権限の大半はなお秀吉が握っていたから、それを直接秀頼が継承することは可能だった。一方で、関白職は「豊臣宗家」が摂関家であることを示す重要な身分標識だから、やがて秀吉はその地位に就けようとするだろう。いずれにせよ、このまま関白職にあり続ければ何らかの問題が生じることは容易に予測できる。それが秀次のおかれた状況であった。

 では、逆に、秀吉・秀頼側から秀次側の状況をみてみるとどうだろうか。

 最も大きな問題は、秀次には秀次の一族があったといことである。聚楽第には大勢の妻・側室が住み、子宝にも恵まれていた。秀吉がそうであったように、秀次もまた実子には深い愛情を感じていただろうから、その地位を実子に継承させたいと思っても不思議ではない。そのためには当然秀頼の存在が邪魔になるし、仮にその継承劇が秀吉死後に行われた場合、秀頼の立場が守られる保証はどこにもない。老年を迎えた秀吉は、次なる家督継承者が誰であるのか、秀吉自身が保有している権限は誰に譲られるべきか、自らの存命中に広く人々に周知する必要があった。これが、秀吉・秀頼側から秀次側の状況をみた場合の心理分析である。

 こうした両者の状況を踏まえた場合、最も望ましいのは秀次自身が率先して関白職を辞することであった。ただし、その場合には秀頼の幼さが問題となってくる。文禄二年に生まれたばかりの秀頼には、天皇後見役としての関白への任官はまだ早い。秀次としては、どのように対処すべきか悩みを深める一方だったのである。

 対して秀吉側では、密かに秀頼への権限委譲に向けた動きが進められていた。何らかの口実をもって秀次を詰問し、聚楽第を退去させてどこかへ隠遁させるというのが、政権主体の青写真であった。「殺生関白」など秀次の残虐な一面は今に伝えられているものの、そうした行為を実際に裏付ける良質な根拠は残っていない。一方で、「豊臣宗家」の跡目争いや秀次に関するゴシップが巷に広がりつつあった可能性も否定できない。そのような不穏な情勢の中、ついに石田三成ら秀吉側近の「奉行衆」が聚楽第に出向き、謀反の疑いで秀次を尋問するに到ったのである。」(*1)

 

とあります。

 

 また、藤田恒春『豊臣秀次』2015年、吉川弘文館によりますと、(文禄四(1595)年七月十五日が、秀次が切腹した日です。)

 

「さて、文録四年に入って両者(筆者注:秀吉と秀次)の関係はどうであったのだろうか。正月十二日より秀次は聚楽第から大坂に下り、十日ほど在坂している。十八日ころ伏見より下坂した。秀吉と会ったものと思われるが、目的は明らかではない。三月八日には秀吉が聚楽第に秀次を訪ねている。四月十八日、秀次は伏見へ下向している。五月四日より伏見へたびたび下向し、二十一日には能を舞い、秀吉と北政所の御成があった。関白就任後、例のない頻度で伏見へ下向している。秀吉に呼ばれた場合もあろうし、秀次の意思で行った場合も考えられる。用件はまったく推測の域をでないが、実子秀頼をえた秀吉が禅譲をはたらきかけるためではなかったか。両者が相会いして政情を話し合うことは考えられず、実子を楯に秀次へ攻勢にでたと考えても見当はずれではないように思われる(『言経卿記六』)。

 六月に入ると、十四日には秀次は「御くわくらん(霍乱)心にて、けんさく(曲直瀬玄朔)御みやく(脈)にまいりて御くすりまいる)と煩っていたが、十九日には伏見へ下り二十日には曲直瀬玄朔も伏見へ下向している。二十八日までに聚楽第へ戻っている。病気にもかかわらず、このときに伏見へ下向した理由が大きな謎であり、秀次事件の伏線となるのではないかと推察される。」(『言経卿記』六)。」(*2)(下線・太字は筆者)

 とあります。

 

 つまりは、文禄四年に入って何度も秀吉と秀次の間に何かの話合いが持たれ、その内容は不明ながら、秀次の回答が秀吉の意にそうものではなかったため、その後の事件へ繋がっていたということでしょう。藤田氏は、この話し合いの内容を「用件はまったく推測の域をでないが、実子秀頼をえた秀吉が禅譲をはたらきかけるためではなかったか。」としています。

 

 上記の2つの著作の感想を述べます。

 第一に、矢部健太郎氏にしても、藤田恒春氏にしても、秀吉と秀次の確執の原因は、秀頼誕生による後継者問題という見解で一致しています。これは両氏に限らずこの時代の日本史学者での一般的な見解といっていいでしょう。応仁の乱の原因を考えるまでもなく、実子がなかなか生まれず(あるいは生まれてもすぐに亡くなってしまい)近親者(弟とか、甥とか)を後継者としてしまった後に実子が生まれてしまうことによる後継者トラブルというのは戦国大名でよくあるオーソドックスなトラブルと言ってよいです。この見解を否定する理由はなく、やはり一般的な見解のとおり、秀吉と秀次の確執の原因は、秀頼誕生による後継者問題という見解でよいかと思われます。

 

 問題なのは、既に秀次は「後継者候補」ではなく関白に就任し、「豊臣政権」の二代目社長に正式になっていることです。現在の豊臣政権は実質的には太閤秀吉会長が豊臣政権のほとんどの実権を握っているのは誰もが知っていることですが、このままいけば秀吉会長が亡くなった後は、名実ともに関白社長の椅子に座っている秀次が豊臣政権の全実権を握ることになります。その秀次が、秀頼成人後に大人しく後継を譲るか、秀吉は疑念を抱きます。誰しも自分の実の子が可愛いものであり、障壁である自分(秀吉)が亡くなれば、生前にいくら約束しようが秀次は、秀頼ではなく自ら(秀次)の子を後継に据え、秀頼は排除される(下手をすると暗殺等されるのではないか)と、秀吉は不安になりました。

 秀吉からの秀次へ妥協案(日本国を五分して、五分の四を秀次に、残りを御拾に与える(*3)、御拾と秀次の姫との婚約を決める(*4)はいくつか出されますが、最終的に秀吉は秀次を豊臣政権から排除する(関白を辞任させる)ことが、後継者問題を結着させる唯一の解決策だと考えるようになったということでしょう。

 

 第二に、従来の見解では、やたらこの事件を石田三成ら奉行衆の暗躍や讒言に結び付けようとする見方がありますが、結局のところ、これは豊臣政権失墜の理由を三成ら奉行衆に責任転嫁するための、江戸時代に作られた俗書による家康側の宣伝を基にした偏った見解に過ぎません。

 

 後継者問題は、独裁者秀吉による豊臣政権の中でも、最も秀吉の専権事項といってよい問題です。秀次切腹事件は秀吉と秀次自身の意思により行われたものであり、他の者の介在する余地はありません。

 

 後継者問題という、秀吉のまさにこの豊臣家という「家」に関わる命令に逆らうような所行を奉行衆は出来る訳もなく、秀吉の命令に従わざるを得ません。別に秀吉は奉行衆だからといって信用していません。現在奉行衆が秀吉に忠誠を尽くしているのは理解していますが、秀吉死後になれば、当然現在の関白秀次の権力が大きくなり、秀吉自身の権力は消滅してしまう訳ですから、その時に奉行衆がどのような行動を取るのか、遺言通りの行動を取るのか、未来のことは不明なのです。常識的に考えれば、現在権力のある人間になびくというのが普通の人間の人情でしょう。そのようにはならないように、秀吉は生きているうちに色々な保険をかけていかなければいけません。(後に奉行衆も書かされる起請文もそのひとつです。)

 

 こうした状況下に、下手に秀次を擁護するような発言をすれば、そのような発言をした者は秀吉・拾(秀頼)に対する忠誠を疑われ粛清されても仕方ありません。奉行衆にとっても、後継者問題は下手な発言が命取りとなる命がけの問題だということを理解する必要があります。

 

 次回は文禄四(1595)年六月の曲直瀬玄朔の「天脈拝診怠業事件」及び七月三日にあったとされる「奉行衆」による詰問について検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p57~58

(*2)藤田恒春 2015年、p175~176

(*3)藤田恒春 2015年、p141

(*4)藤田恒春 2015年、p143

 

 参考文献

藤田恒春『人物叢書 豊臣秀次』吉川弘文観館、2015年

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

「徳川家康暗殺未遂疑惑」について、ちょっと思ったこと。

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関連エントリー①↓

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関連エントリー②↓

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 最近、物を書く気力が続かず、更新が滞り気味です。なので、あまり堅く構えずに最近気になったことをメモ代わりに思いつくままに書きていきたいと思います。(前書いていたことと、かぶるかもしれませんが。)

 

 それで、表題の「徳川家康暗殺未遂疑惑」についてな訳ですが、別に三谷氏が大河ドラマで「新発見」するまでもなく、以前から、秀吉の死後より石田三成徳川家康の暗殺を企てた「とされる」とか「いわれる」という記述は、この時代の歴史関係の一般書にはよくあるのですね。

 

 要注意なのは、歴史関係(に限りませんが)で、書籍で、この「とされる」とか「いわれる」とかいう記述は、要は書いている著者自身も確信がつかめない、史実なのか自信が無い」という意味なのです。(この指摘は書いている自分にも跳ね返ってきますが・・・・・。)

 

 酷い記述(といっても一般書だとよくあるのですが)になると、「とされる」とか「いわれる」とだけ書いていて、そう推測した根拠史料の記述がないこともあります。そうすると、読者の側でその根拠となった史料を推測しないといけず、しかし結局よくわからないことも多いです。研究者の方には、難しいかもしれませんが、「とされる」とか「いわれる」という記述はなるべく避けていただき、やむを得ない場合はその推測をした根拠史料を提示していただきたいと思います。そうしないと、読者が調べ直すのに非常に大変です。(調べ直してほしくなんてない、ってことなのでしょうけど。)

 

 さて、今回は時代考証担当の先生のおかげで元ネタが江戸時代の姫路藩松平忠明徳川家康の外孫)の著した『当代記』であり、その『当代記』にすら「物言(噂話)」としか書かれていないことが分かり、三谷氏の「新発見」とやらは、客観性に疑問のある元史料からすら逸脱したデタラメだということが判明しました。

 

 実は、この事件の他にも江戸時代の二次史料によれば、三成による「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件はあったと「される」のですが、結局全部根拠のない風聞にすぎず、三成による徳川家康暗殺計画」など存在しなかったと私は考えます。

 

 なぜなら、実際にこの時代には別の「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件が発生しているからです。それは、石田三成によるものではなく、前田利長浅野長政らによる「徳川家康暗殺未遂疑惑」事件です。現代ではこの疑惑は「濡れ衣」(つまりは、前田利長らは徳川家康暗殺など企てていない)だという見解が多いのですが、それでも疑惑を持たれた浅野長政は配流となり、前田利長は実母を江戸に人質に出さなくてはならなくなりました。

「疑惑」だけで、家康サイドは疑惑を持たれた側をこれだけの窮地に追い詰めることができるのです。石田三成が本当に暗殺を企てていたならば、当然家康はこの機会を逃さず三成を窮地に追い込み処分していたたでしょう。そうした史実が一切ないことが、三成が家康暗殺計画など実際には企てておらず、すべては風聞(というより徳川サイドが流した自作自演のデマ)だという何よりの証拠となるでしょう。

 

 三谷氏も自分で書いていて、これはおかしいと思ったのか、なんと七将襲撃事件の原因を、三成による「徳川家康暗殺未遂」事件のせいにしてしまいました。こういう三谷氏の行為を「歴史の捏造」と呼ぶのですね。

千利休と石田三成について

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 前回の続きです、と言っても前回から随分経っていますが・・・・・。

 ※前回のエントリーはこちら↓

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 今回は千利休石田三成について書きますというか、千利休切腹石田三成は何の関係もないことについて書きます。

 

 桑田忠親氏は著作『千利休』において利休切腹についての三成陰謀説については全般的に否定的なのですが、一方で「また、秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像が、京都奉行の前田玄以石田三成らによって急に問題視され、」(*1)とも記載してあります。(豊臣秀長が亡くなったのは、天正19(1591)年1月22日。)

 

 しかし、この時期(後年京都奉行だったのは確かですが)にそもそも三成が京都奉行だったのか不明(示す史料がない)(以下※追記参照)ですし、実際には三成はこの年の前年12月からに大崎・葛西の一揆の鎮定のため奥州に向かって、そのまま越年、閏1月12日には武蔵岩槻にいます。秀長が亡くなったころには京都にはいません。三成が戻ってきたのは2月の中旬頃までのようです。(*2)このため、「秀長が死ぬと同時に、その前から大徳寺の山門の上に安置されていた利休の木像」について三成が問題視したという史実は成り立ちえません。(千利休の堺追放は2月13日、切腹したのが2月28日)

 

(※平成29年5月20日追記)

伊藤真昭『京都の寺社と豊臣政権』(法藏館、2003年)(p154)によりますと、石田三成京都所司代になったのは、文禄4年8月~慶長4年閏3月だということです。やはり、天正19年の頃は石田三成は京都奉行・京都所司代ではありません。)

 

 そもそも一次史料に石田三成千利休の対立をうかがわせるものは何も存在しません。むしろ、親密な仲である記録はあります。

 

「利休百会(回)記」という千利休の晩年の茶会記があります。天正18年(1590)8月17日から翌年閏1月24日まで、約百会の利休の茶会がおさめられていています。

 白川亨氏によると、「『利休百回記』の記録は、正確には九十七、八回であるが、その中には奥州検地から帰国した三成と佐竹義宣天正十八年十一月十二日の朝会に招いており、十二月十九日の朝会には三成の兄・石田杢守正澄と木下半介吉隆を招き、さらに利休が堺に追放される直前の天正十九年閏正月十五日には、戸田民部少輔(勝隆)と熊谷半次(半次郎=熊谷内蔵允直盛)を招いている。

『利休百回記』の解題では「熊谷半次を熊谷半吉では?」としているが、熊谷半吉ではなく熊谷半次郎(熊谷内蔵允直盛)である。

 すなわち千利休は「惜別の茶会」に、三成兄弟のうち三人までを招いていたのである。熊谷内蔵允直盛は三成の妹婿である。

 また豊臣秀長(筆者注:前回のエントリーでも指摘しましたが、秀長は利休の庇護者であり、秀吉が利休を切腹に追い込んだのは秀長が病死して、秀長に遠慮する必要がなくなったため、と見られています)と三成は、決して対立する間柄ではない。秀長は三成の仲人親であり、三成の舅・宇多頼忠(尾藤久右衛門=尾藤下野守)は藤堂高虎と同じく豊臣秀長重臣の一人であった。

 特に石田三成は、千利休の娘婿・万代屋宗安とは親しい間柄であり、関ヶ原合戦の直前に大垣城の三成に「陣中見舞い」に訪れている。そのとき三成は「唐来肩付(茶入)」を呈している。」(*3)とあります。

 

(ただし、川口素生氏によると「このうち、宗安は利休の娘婿で、茶の湯の上での弟子にあたります。『武辺雑談』には関ヶ原の戦いの直前、三成が宗安に名高い茶道具を預けたという逸話がしるされています。

 ただし、通説によると宗安は、文録三年(一五九四)に病没しています。三成が茶道具を預けたのは宗安ではなく、宗安の息子に当たる万代屋宗貫ということなのでしょうか。」(*4)とされています。)

 

 また、川口素生氏の上記著作によりますと、「さらに、ある土地の件で利休が三成の世話になっていたことが、年号欠十月二十日の三成宛ての利休の書状によって明らかにされました。従って、利休と三成が対立していたとは思えず、利休が三成に蹴落とされたという点も確認できません。」(*5)とあります。

 

 ちなみに、吉田神社吉田兼見の日記『兼見卿記』には、利休の生母と娘が石田三成に囚われて「蛇責め」の.拷問を受けて死んだという「噂」が記されていますが、そもそも利休の生母は天正十七年以前に没しており、また利休の娘がそのように殺されたという史料・書状・記録は、この「噂」を記した日記以外一切存在しません。「従って、「蛇責め」云々というのは、全く根拠のないデマ」(*6)といってよいでしょう。

 

 結論を言いますと、三成(及びその兄弟・義兄弟)は利休とは親密な仲であり、利休を追い落とすような策謀を考えることがそもそも考えられず、また時間的・物理的にもそのような策謀を行うことは無理だということです。

 

(令和2年8月4日追記)

天正18(1591)年12月下旬から天正19年(1591)年2月28日の千利休切腹までの流れを時系列的に参考に記します。

 

天正18(1590)年12月26日 石田三成、大崎・葛西一揆(十月に発生)を受けて奥羽再下向。

天正19(1591)年1月10日 三成、相馬に到着

1月19日 伊達政宗に上洛命令書到着

1月22日 豊臣秀長病死

1月30日  政宗、米沢をたち京都へ向かう

1月30日? 三成、黒川に到着

閏1月4日  佐竹義宣石田三成書状より、三成は常陸の国にいたようである。

閏1月12日 三成、武蔵岩槻に到着

閏1月27日 政宗、清須で秀吉に閲して、そのまま上京

2月4日 政宗上京

2月9日 政宗、秀吉の聴取を受ける

2月12日 政宗、侍従に任じられて、従四位に任じられる

2月13日 秀吉は、千利休に堺屋敷での閉門を命じる

2月15日 『時慶記』に記載あり、2月中旬までには三成は帰京していたようである

2月25日 京都で利休の木像が磔にされる

2月28日 千利休切腹

(参考文献)

 田中仙堂『千利休』宮帯出版社、.2019年

 藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成【第2版】』思文閣出版、2017年

 中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

 注

(*1)桑田忠親 2011年、p125

(*2)中野等 2011年、p299

(*3)白川亨 2009年、p214~215

(*4)川口素生 2009年、p245~246

(*5)川口素生 2009年、p246

(*6)川口素生 2009年、p254~256

 

 参考文献

桑田忠親著、小和田哲男監修『千利休』宮帯出版社、2011年(初版 中公新書、1981年)

川口素生『利休101の謎 知られざる生い立ちから切腹の真相まで』PHP文庫、2009年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』、思文閣、2011年所収)