古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

大河ドラマ『真田丸』構成の考察・まとめ (第34話まで)

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※第34回の感想です。↓

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 真田丸も今週で第34話を迎え、このドラマのだいたいの全体の構成がみえてきましたので、このドラマの構成についての考察・まとめをしたいと思います。

 

(※この『真田丸』はフィクションです。これから、史実の人物名を使って考察しますので、「〇〇はこんな人物ではない!」と言われる方もいるかもしれませんが、この考察は、あくまで三谷脚本の『真田丸』の登場人物のことを書いているのであって、史実の人物とは全く違う人物です。ここで書かれる人物は、三谷世界の架空キャラクターだということでお願いします。)

 

1.このドラマのテーマは何か? 

「『義』とはなにか?」ということです。

 

「義」というと、非常に良い言葉のように聞こえます。しかし、実は三谷氏は「義」を全く評価していません。むしろ、これに懐疑の目を向け、登場人物に「それは『本当に、義といえるのか?』と疑義をぶつけていくのが、このドラマの骨格となっています。

 

 そもそも「義」とは何か?このドラマでは、比較的シンプルな回答となります。

「約束を守ること」です。「約束を守ること」、確かに美しいことです。

しかし、実際に約束を安請け合いして、それを守ることができなければ、それは「義」ではない、ただの「ええかっこしい」だ、と叩かれることになります。

 

2.「ええかっこしい」上杉景勝 

 この「ええかっこしい」を体現しているのが、このドラマの上杉景勝です。景勝は、自分を「義」に篤い男だと思っています。思っているというより、「義」に篤い男になるべきだと、義父謙信からの「約束」で自らを課しているのでしょう。だから、義に篤くあるべきだと思っている景勝は、何でも約束を安請け合いしています。なんでも約束してしまうことが、義に篤いことだと勘違いしているのです。

 ところが、約束を安請け合いしても、実際には守ることはほとんどできません。ほとんどの約束は果たされず反故となります。そもそも実行できない約束をすることが、本当に義なのか?それは、ただの「ええかっこしい」に過ぎないのではないか?と三谷氏は疑問をぶつけます。

 

 なぜ、景勝を「ええかっこしい」というキャラクター設定にしたのか?これは、第33回を見て分かります。

 

 第33回で景勝は、自分が家康を討つと三成に「約束」します。しかし、当然その未来の関ヶ原の戦いにおいて景勝は、関東に乱入しておらず、「約束」は果たされませんでした。

 

 景勝が関東に乱入する、あるいは乱入する構えを見せ続けるのが、西軍の生命線だったのです。景勝が関東を攻める気がないのを見て、家康は安心して大軍とともに西へ向かいます。景勝が関東に乱入しなかったのが、西軍が負けた主要な敗因です。

 

 三谷氏は、これを「こんなものは義ではない」と感じたのだと思われます。(史実の景勝がどうだったかというのは、この際置いておいてください。)自分が家康を討つと三成に約束しておきながら(これも史実ではどうかというのは置いといてください)、肝心な時に関東に乱入せず、西軍を結果的に見殺しにした景勝。そして、その後江戸時代には、素直に徳川家に屈し、大坂の陣には徳川方として豊臣家を滅ぼすために戦った景勝。こんな男はただの「ええかっこしい」であり、本当の義ではない、という三谷氏の景勝評であり、このイメージが原型として、「ええかっこしい」景勝というキャラクターが三谷氏によって創造されるのです。

 

3.「義から一番遠い」反面教師・昌幸

 信繫の父、真田昌幸は謀略を駆使して、各大名を渡り歩く謀将であり、「義」から遠く離れた人間として描かれます。生き延びるためなら、かつての同僚すら殺します。こうした「義」から一番遠い、父昌幸に幻滅した主人公は、父を「反面教師」として、「義に篤そう」にみえる景勝を「第二の父」として尊敬します。

 

 これが、ただの「ええかっこしい」にすぎないと分かったあとでも、信繫の景勝の尊敬は幻滅に変わりません。幻滅した「義から一番遠い」父親が「師」とはどうしても思えないのです。それよりも義は果たせずとも、少なくとも義であらんと志している景勝の方がまだ、マシに見えます。

 

 これに対して、上洛した時に景勝が、信繫にひとつの呪いを投げかけます。「お前は、わしのようになるな」と。これは、義を貫けない「ええかっこしい」の自分みたいになるな、お前は「義」を貫けという、景勝から信繫に投げかけられた、「約束」です。信繫は、この「約束」を受け入れます。

 

 このドラマでは、「約束」というものは、「呪い」でしかありません。誰もが勝手に他人に「約束」を押し付け、義に篤いと思っている人間は、その「約束」を受け入れることこそが「義」であると勘違いし、その「約束」を愚直に守り続けようとします。この約束を守り続けようとすること、それが「義を貫く」ことなのだと思う事こと、これこそが「義」の「呪い」です。

 

 信繫は、本来は景勝こそを反面教師とすべきでした。守れない約束を安請け合いすること、そして、それがはじめから分かっていた通り果たせないこと、それらすべて「ええかっこしい」で、それは「義」ではなく、「悪」なのです。果たせない約束だと分かっているなら、はじめからしない方がいいのです。

 

 しかし、信繫は、本来は反面教師とすべき、景勝の「約束」を受け入れ、「義を貫く」ことが自分の使命と感じます。果たすことができない約束をしてしまい、なおかつその約束を守ることが自分の使命と信じ、それを本当に貫こうとする男の先に待っているのは「死」しかありません。景勝との約束を果たすことが、自分の使命であり「義」だと勘違いしてしまった男の運命がこのドラマの枠組みです。

 

4.「勘違い」石田三成

 もうひとり、「義」という「勘違い」を果たそうとする人物が石田三成です。石田三成もまた、「義」という呪いに取り憑かれた男です。

 

 死に瀕した秀吉が三成に言ったことは「家康を殺せ!」でした。主君秀吉に忠誠を捧げてきた三成は、この秀吉の言葉を「遺言」と受け止め、その「遺言=約束」を守ることこそが、秀吉に対する「義」を果たすことと勘違いし、家康を殺すことに固執します。

 

 それは盟友大谷吉継にすら「耄碌した老人のたわ言」を真に受けた「狂った」行為だとしか見られない、ましては全然事情を知らない人には完全に「狂った」行為にしか見えなませんでした。現在の我々は、家康が、秀頼を殺すことを知っていますので、三成が「家康を殺さなければ、やがて秀頼様が殺される」という焦燥を少しは理解できる(いや、それでもほとんどいないでしょう)かもしれませんが、その未来を知っている我々でさえ、このドラマの三成は「狂っている」と思う人が多いでしょう。 

 

5.死に瀕した秀吉の頃の三奉行・四奉行の不在 

 こうして考えると、秀吉の死の直前になぜか三大老、四奉行が不在だったのかが自明となります。はじめ見た時に「NHKも予算も少ないのかな、なんでこんなに人が少ないのかな」と思っていましたが、次回の31回にワラワラと突然新登場人物が沸いてきたのを見て、「あれ、NHKは予算が少ない訳じゃないんだ、だったら前回から出せばよかったのに」と感じたものです。

 

 しかし、三谷氏は、あえて秀吉の死の直前に三大老、四奉行を出さなかったのです。それは、「家康を殺せ!」という秀吉の「約束・遺言」を聞くのが、三成だけという状況に持っていくためです。あと、秀吉の生前に出てくる大老景勝のみ(秀吉の生前に出演しているにも関わらず、死の直前にはいない大老宇喜多秀家との差異に注目)は「家康に何かあれば関東に乱入せよ」という家康を警戒した「約束」を示されます。他の四大老・四奉行はそのようなメッセージを全く受け取っていません。この「遺言」を聞くのは、三成と景勝だけでなければいけません。それは「彼らだけしか、この『約束』を聞いていない」というブラックボックスに彼らを追い込むためです。

 

 だから、三成は孤立するのです。秀吉からの「約束=義」を受け取ったのは自分しかいません。だから、自分の受け取った「約束=義」を果たす行為を、誰も理解してくれないのです。唯一打ち明けた友の吉継にすら(吉継は直接聞いていませんので)「耄碌した老人のたわ言」と切って捨てられます。吉継にすら、切って捨てられるのだから他に信じる者はいないでしょう。

(第34回で三成は清正に耳打ちしますが、その内容は多分この事(「殿下は「家康を殺せ!」と仰せられた。自分が謹慎した(あるいは死んだ)後は、お前が秀頼君を家康から守ってくれ」)でしょう。しかし、この時点では清正は三成の言う事を信用せず、後になってこの事を思い出し、秀頼上洛に至ってはじめてこの「約束」を守ろうとします。)

 

 絶望する三成に唯一理解を示すのが景勝のみです。彼だけは「家康に何かあれば関東に乱入せよ」という、家康を警戒せよという「約束」を三成とは別に、唯一受け取っています。それが故に、なぜ三成が家康打倒に執着するのか景勝のみが理解するのです。

 

 第31回の二人が抱き合うシーン、これはこの世界で、自分達の思い、「約束=義」を理解するものが二人しかいない、という絶望を示しています。

 

6.秀吉の認知症は、信繫・三成の「義」を「勘違い」とするため

 このドラマでは、秀吉の認知症を3回連続で執拗に描きます。しかし、この時期の秀吉が認知症だとする明確な史料はありません。なんで、こんなにしつこく書くのかな?と思ったのですが、これは秀吉の「遺言」は「耄碌した秀吉のたわ言」だとするためです。この「耄碌した秀吉のたわごと」を信繫と三成は「約束」と勘違いし、これを守るのが「義」だと勘違いするための設定です。

 

 こうして、秀吉の認知症とすることで、秀吉の「遺言」を守ろうとする2人を「お前らが守ろうとしているものなんて、認知症の老人のたわ言に過ぎないんだよ」と「勘違い」にしてしまうのが三谷氏の狙いです。「義」への懐疑をテーマとするこのドラマにおいて、秀吉の「遺言」「約束」は「認知症の老人のたわごと」でなければいけません。

 

7.三成は「コミュ障」というクッション

 三成は「コミュ障」というのは、近年(主にゲーム発信ですね)になって作られたフィクションに過ぎません。しかし、三谷氏はこの現代のイメージを、このドラマではうまくクッションに利用できることに気が付きました。

 

 ごくごく普通の男が、秀吉の遺言によって、「義」に目覚め、「遺言」を絶対の命令と固執して狂ってしまうというのは、さすがにホラーで、ダークでドン引きでしょう。実際には、このドラマの三成は(三谷氏視点からいって)「狂っている」のですが、狂ってしまった人間をそのままストレートにTVに出してしまうと鬱なドラマ、あるいは人格が急変する不自然なドラマにしかなりませんので、近年流布している「三成は『コミュ障』」設定を利用して、三成の「自分の『義』を誰も理解してくれない」狂気を、「あれは元々、ああいう変な奴だから」というエクスキューズに変換することによって、「別に、気が狂った人物を描きたい訳じゃないですよ」という風にクッションを入れているわけです。それを見ることによって、三成の狂気も、「ああ、空気読めない奴が馴れないことをして空回りしている」に過ぎない「あるあるドラマ」に卑小化することができ、あまり深刻にならずに見ることができます。笑いもとれます。その「卑小化」こそが三谷氏のねらいです。

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8.三谷氏の「惣無事」の「勘違い」

 三谷氏は「惣無事」をやたら連呼します。(正確には「三成に連呼させます。」)これは、三成が「惣無事」主義者だと三谷氏が解釈しているからだと思われます。これは、三谷氏は単純に「惣無事」そのものの解釈を間違えているからです。

 

 ドラマの説明を見ていると、「惣無事」というものを、三谷氏は「AとBがいがみ合っている。→そこへ、秀吉が喧嘩の仲裁に入り戦争をやめさせる→結果、平和=平和主義」というものだと勘違いしているのだと思います。(あるいはあえて曲解している?)だから、「惣無事」主義者=「平和主義者(なるべく戦争が起こらないのが望み)」=石田三成というのが、おそらく三谷氏の見解です。だから、三谷世界では、三成は「惣無事」に反するからと、北条攻めに反対するのですね。

 

 しかし、「惣無事」というのは、そんなものではありません。「1.まず、大名同士(AとB)の争いを一般的に禁ずる。2.ただし、大名Aとそれに本来従属すべき非大名Bの戦いなら認める。(それを決めるのは秀吉だ。)3.禁じた命令を守らないならば、守らない方を秀吉が踏みつぶす」というもので、はじめから(いざとなったら当然戦争する)秀吉の強大な軍事力を背景にしたものであり、秀吉の命令に従わないものは、戦争で踏みつぶすのが「惣無事」です。北条攻めは「惣無事」そのままです。だから、三成が(三谷氏誤解のではなく、本来の)「惣無事」主義者なら、北条攻めに反対する訳がありません。

 

 なんで、こんなことを長々と書くと、たぶん三谷さんは、三成を「惣無事」主義者=「平和主義者」と描きたいのだと思うのですよ。これは、別に三成のことを評価している訳ではありません。三谷氏は、自分(三谷氏)の誤った(あるいは曲解した)「惣無事」観に基づき、「惣無事」=「平和主義者」であるはずの三成が天下に大乱を起こしてしまった、という皮肉を書きたくて仕方がないのではないかと思われます。(実際には書かれないことを祈ります。)三谷氏にとって、こういう皮肉は大好物でしょう。

 

9.登場人物達への冷たい眼差し

 三谷氏は、登場人物に対して冷たい目を向けます。この西軍の人物は、みな「義」を唱えおかしくなっていくからです。三谷氏としては、「義」ってそんなに大切なもん?お前らバカなん?と史実の人物に懐疑の眼差しを向けているのです。

 

 景勝は、「ええかっこしい」で結局「約束」を守れない人間であって実際には「義」ではありません。

 

 三成は、「耄碌した老人のたわ言」を「約束=義」と勘違いし、誰も理解してくれない「義」を貫こうとして、暴走し、親友にすら見捨てられ、自滅する「『義』に狂った男」です。(ここから、あえて狂った三成につく吉継の「友誼」は、かえって三谷氏すら、うち消せないものになりますが、それをどう描くかは今後の話です。)

 

 では、その側に居続けた主人公信繫は、どうなのか?本来、景勝は「自分にできない『約束』はそもそもするものではない」という反面教師だったのですが、信繫は、それを認めず、「景勝殿にできなかった『義=約束』を自分は貫く」という斜め上の理解になってしまいました。

 

 また、秀吉の死後、信繫が三成の側に居るのは「佐吉を頼む」と秀吉に言われたからでした。これは侘しいです。形見分けの時は「お前は誰じゃ」と言われ、遺言のときは本来秀吉が頼みたいはずの直接「秀頼を頼む」ではなく、「『秀頼を頼んでいる』佐吉を頼む」に過ぎないなのです。自分なら泣いちゃいますね。しかし、信繫は律儀に「秀吉との約束」を守ります。そこで、三成のサポートに移るわけですが、結局まったく役に立ちません。それは、そうです。三成の「狂気」を信繫は共有していないからです。

 

 このドラマに本来は、島左近は不要です。三成の「狂気」を景勝以外誰も理解しない、主人公の信繫も理解しないというのが、このドラマの本来の前提なのです。

「狂った」三成は、誰からも理解されないまま、暴走し、空回りして、裏切られ、自滅して当然の最後を迎えます。(唯一理解した景勝にも最終的に約束を破られます。)

 

 これは、三谷氏の三成に対する冷ややかな視線、「お前の『義』など勘違いに過ぎない」という断罪です。思えば、三谷氏は秀吉を悪辣な男として書いてきました。別に、三谷氏に限らず、正直現代において秀吉というのは、性格残忍な悪辣な男、人たらしサイコパスとしての印象が一般的です。このドラマにおいて「秀吉政権」というのは「悪」に過ぎません。その「悪」の秀吉政権に忠義をつくす三成も、結局は、そもそもの「悪」であり、それを「義」と勘違いしている男に過ぎないのです。

 

10.「悪」の政権・秀吉政権、三成の「義」への三谷氏の懐疑

 このドラマでは、秀吉の残忍な所業を、延々と描きます。ただ、そもそも秀吉のやっていることなんて本当に残忍な所業の連続ですから、ただ羅列するだけで、そのまま自然に残虐な所業になってしまいます。さすが、秀吉、ラスボスです。聚楽第落書事件、北条攻めの約束違反(これは江戸時代の史料にしかなく、当時の資料にはありませんが)、「唐入り」の凄惨(むしろ各方面への配慮からか、この描写は薄目です)、秀次切腹事件、秀次妻子の虐殺、26聖人殉教事件・・・・・・。

 

 この、ドラマが従来と違うのは、晩年の秀吉が耄碌して「おかしくなった」のではなくて、「昔から」彼はこうした残虐な恐ろしい人物だと描いているところです。この分なら、この秀吉は死ぬまで耄碌しないだろうと思っていたら、上記6.で書いた三谷氏の設定上の都合で秀吉は認知症になってしまいました。

 

 また、三谷氏は、三成について①聚楽第落書事件で命がけの諫言をさせたかと思えば(これはフィクションです)、②(三谷氏の曲解している)「惣無事」に反するとして、北条攻めを反対させたりする(これもフィクションです)一方で、史料に残っている③「唐入り」反対、④秀次事件で秀次家臣達を匿う、⑤26聖人殉教事件で被害者が少なくなるように尽力するエピソードは無視しました。特に⑤なんて、あまり真田家のエピソードに関係ないものを取り上げたにも関わらず、そのエピソードをスルーしたのは違和感を持ちました。

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 単純に三谷氏が③~⑤のエピソードを知らなかったと考えるのが自然ですが、三谷氏は、おそらく①のエピソードだけで(といっても三谷氏のフィクションなのですが・・・・・・)、三成が「諫臣」であるというエピソードは十分と考えたのでしょう。(②のエピソードは、8.で書いたとおり「惣無事」=「平和主義者」であるはずの三成が天下に大乱を起こしてしまった「皮肉」を描く前フリです。)

 

 あれだけ、秀吉に諫言を繰り返す三成という人物はそもそも秀吉とは本質的に相いれない人物なのではないか?いつも残虐な行為をする秀吉の、その尻拭いをしなければいけない、いつも誅殺の可能性に怯えながら、命がけの諫言をしなければいけない、そんな人間が、暴君秀吉が死んだら、忠義どころか、むしろ「暴君は死んだ!あとは自由に生きるぞ!」という発想に普通はなります。

 

 三谷氏は、「お前が本当の『諫臣』で、自分が『諫言』していることに、自分の強固な意思をもっているならば、むしろ秀吉が死んだら、お前は秀吉を見限り自由に生きるべきなのではないか?お前の『諫言』とやらは、本質的に秀吉の否定だろ?」と考えたのかもしれません。本質的に秀吉を否定している性格のはずの三成が、(三谷エピソードでは「耄碌した老人のたわ言」を信じ、)豊臣を守るのを「義」だと叫んでいるというのは、三谷氏にとって、三成のその「義」は、ただの「勘違い」・「感傷」に過ぎないと切って捨てるべきものであると考えているのかもしれませんね。まあ、そこまで三谷氏は考えていないかもしれませんが。

 

11.共依存真田信繁

 視聴者の意見で、「信繫の秀吉に対する感情は認知症の哀れな老人を介護していて、次第にそれが同情に転じているようで、とても『義』にはみえない」という感想をよく聞きます。正解です。三谷氏は意識的に、信繫の秀吉への「同情」が「義」だと、信繫自身が勘違いしているように描いています。信繫もまた「勘違い」男なのです。

 

12.信繫の「小田原開城交渉」は不名誉な行為

 信繫が小田原開城交渉をしたというのは、フィクションであり、そのエピソードを描くために黒田官兵衛の存在を消去したのは、一部で批判されました。(つーか、私も批判しました。)

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 しかし、この三谷ドラマにおいては、小田原開城交渉は、別に名誉でもなんでもない行為なのです。氏政は、信繫の説得もあって、小田原を開城し降伏します。しかし、そこで出た秀吉の命令は氏政の切腹と北条氏の改易。信繫は、所領安堵(といっても相当減封されるでしょうが)、北条氏の家名が生き延びるように交渉しています。これが最終的な秀吉の結論通り、北条氏の滅亡、氏政の切腹がはじめから条件であれば、むしろ、どうあがいても北条氏は助からない訳ですから、氏政にとっては降伏よりも戦って死ぬ方が名誉です。

 

 信繫は氏政を騙すつもりはなかったのですが、結果的に騙す役になってしまいました。三谷氏にとって、この小田原開城交渉は「汚れ役」であって、決して名誉なものではないのです。信繫に「汚れ役」を押し付けることによって、何らかの感情(「降服するのは必ずしも名誉ではない」かな?)を信繫に生み出すのが、このエピソードの役割です。

 

 三谷氏にとって、この小田原開城交渉は名誉な役ではなく、信繫になんらかのトラウマを植え付けるエピソードですので、当初から出す予定のなかった黒田官兵衛を、わざわざこの不名誉なエピソードのために特別出演させる気はなかったのかもしれません。

 

13.昌幸の凋落

 信繫の父、真田昌幸は、このドラマでは「最も義から遠い男」で、第一部では情報を駆使し、謀略を使って各大名間を渡り歩きます。しかし、第二部では、突然三谷氏の作為により、情報からも謀略からも程遠い無能な時代遅れの人物に成り下がります。

 

 最初は三谷氏の歴史的無知によるかと思ったのですが、そうでもなく意図的なもののようです。(ただ、実際にドラマを見ていると、三谷氏が「与力大名」とは何か、全く理解していないことが分かります。(おそらく時代考証担当が)三成の台詞を使って「与力大名」を解説させているにも関わらず、昌幸はその後でも「家康の家来とは・・・・・」と、まだ理解していない模様でした。これは、昌幸が理解していないのではなく、三谷氏が理解していないのですね。

 昌幸が上洛を延引し続けたのは、まさに「家康の家来」になることを拒否するためです。それで秀吉政権が家康と昌幸の両方の顔を立てるために考えたのが「家康の与力大名(主君は秀吉になり、家康の家来ではありません)」という条件でした。しかも、この条件(家康のための軍役)は一度も発動されないまま、北条攻め後、真田は与力を解除されます。「与力大名」の意味を昌幸が知らない訳がありません。「与力大名」となって秀吉の直接の庇護を受け、家康の脅威を防ぐのが昌幸のまさに上洛延引交渉の目的だからです。 

「家康の家来」になるということは、昌幸に恨み重なる家康によって、いつ何時、暗殺や上意討ちされるか分かったものではない事態になるのですね。そもそも、昌幸は家康によって室賀正武に暗殺されそうになっているのです。家康の家来ということになると、昌幸粛清は家康家中の出来事として、秀吉もノータッチで闇から闇へ葬り去られかねません。真田家にとって、家康の家来になることは屈辱とかではなくて、生命、家の存続の危機だったのです。

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 ちょっと、脱線しましたが、このドラマにおいて、昌幸が第二部において情報に疎い時代遅れの無能な男に凋落するのは、つまりは関ヶ原合戦においての昌幸の決断(西軍に付く)ことが「愚行」であるとするためです。

 

 信繫は、秀吉の遺言とかのしがらみで「義」という勘違いで西軍(三成方)につくことは解説しました。しかし、「義から最も遠い男」昌幸が西軍に付くことには新たな解説が必要です。

 

 ここまでの流れでは、昌幸は「狂った」味方の少ない三成方についた方が、乱世が深まる、そうすれば、戦によって自分の取り分が増える、そうすれば、自分の夢・野望である武田の旧領(甲斐・信濃)の回復(といっても真田が支配する訳ですが)も達成できるという発想で西軍につくことになります。

 

 このドラマの三成は弱すぎて、とても勝てるようにはみえませんので、まさに昌幸の「夢・野望」は時代がみえない、情報がみえない、時代遅れの男の自業自得の「愚行」として描写されることになります。そこに三成への「義理」は当然ありません。

 

14.なぜ、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係、三成と信幸(信之)との友誼は描かれない?

 これは、はじめから非常に疑問だったのですが、第33回を見てようやく分かりました。このドラマの第一部を見ると、時代考証担当から詳細なレクチャーを三谷氏が受けていることが分かります。その中で、時代考証担当がその著作で詳細に書いている石田三成と真田家との昵懇な「縁戚・取次」関係が完全にスルーされているのは、私は、これもまた三谷氏の歴史的知識の無知だと思っていたのですが、考えてみればそんな訳がありません。この、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係は、本来は「なぜ、昌幸・信繁が西軍についたのか」のか、大きな核の理由となる史実な訳です。当然、時代考証担当が三谷氏にレクチャーしなかった訳がありません。

 

 三谷氏はレクチャーを受けて、あえて、ここら辺のエピソードを無視したのです。これが、ドラマでこうしたエピソードを詳細に描いた上で、犬伏で昌幸に「わしは、三成のために西軍につくのではない。己の野望のために西軍につくのだ」と言わせたらどうでしょう。視聴者の中には、「昌幸はなんだかんだ言っても、石田家、大谷家との義理で西軍についたんだな、このツンデレめ」と誤解する人が多く出て来るでしょう。

 

 あくまで、「最も義から遠い男」昌幸は、己の野心・時代遅れの夢のために、自業自得の愚行として西軍につく、という三谷氏のストーリーを誤解の余地のない行為として示すために、石田三成と真田家との「縁戚・取次」関係は、三谷氏にとっては絶対無視して抹消しなければいけないエピソードだったのです。

 

 愚鈍な昌幸・信繫とは違って、時代を正確に見渡している、賢い長男信幸にとって、信幸と三成の友誼は、三谷氏が規定した信幸の人物像に全く必要ないエピソードですので、当然無視します。

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15.家康の「不義」の不問

 ここまでのドラマの展開から見ると、三谷氏の史観は「豊臣家滅亡自業自得史観」というものに基づいているのが分かります。

 

 これは確かにごもっともなのかもしれませんが、これを強調しすぎると結局、家康の「不義」を擁護することになります。

 

 何が、「義」なのか?これは「正義」「道理」とは何なのか、という際限のない話になります。結論は出ないでしょう。ここで「義」の儒教的定義について延々と論争してもきりがありません。

 

 これに対して、「不義」は逆に分かりやすいです。

 

「義を見てせざるは勇なきなり」という有名な孔子の言葉があります。確かにごもっともです。でも、なんで正しいことをするのに勇気が必要なんでしょう?なんの抵抗もなければ簡単ですよね?孔子は乱世に生きた人物なのです。つまりは乱世には不義がはびこっていた。これをただそうとしても、不義の人物ほど実は強大な力を持っている。これをただすためには、時には死を覚悟しなくてはいけないかもしれない。だから義をもって不義をただすには勇気が必要なんです。

 

 家康は「不義」か?現代に生きて過去を知っている我々にとってこれは自明のことです。もちろん「不義」です。豊臣家の大老である(つまりは豊臣家の家臣である)家康が、主家豊臣家を滅ぼすのは「不義」、秀吉から後見を託された子秀頼を殺したのは「託孤殺し」で「不義」、孫の千姫と婚姻させた義孫秀頼を殺したのも「不義」、残念ながら家康のやったことは「不義」の大罪であり、未来永劫その汚点はぬぐえません。どんな言い訳を重ねても実際にやってしまったことはどうしようもないのです。これを「不義」と呼ばなければ、そもそも「不義」という言葉そのものがなくなってしまいます。

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 こうした大罪を信長や秀吉ですら、恐れていたのです。信長は将軍足利義昭を追放しましたが殺していませんし、秀吉は織田家の次男信雄を改易にしましたが、殺していません。三男信孝は、切腹に追い込みましたが次男信雄がやった形にしています。本来の後継者信長の孫秀信も岐阜の大名として豊臣時代は存在しています。

 残虐といわれる信長や秀吉すらやっていない「不義」の大罪を家康は行いました。ここで、別に家康を私は糾弾したい訳ではないです。結局「義」も「不義」も当時の価値観にすぎません。ただ、「義」というものを論ずるならば、「不義」もまた論ずることは避けられません。

 

 実際のところ、当時(秀吉死後、関ヶ原の戦い前)の人間たちは、しばらくは家康が「不義」だと確信していませんでした。関ヶ原の戦いまで西軍の主要人物達は、実は家康の内心が「義」か「不義」なのか(豊臣政権の「護持」か「打倒か」)、反家康急進派とされる三成すらも含めて、判断に迷っていたのです。

 

 家康詰問事件の前田派と徳川派の最中の慶長四(1599)年二月九日、三成は伊達政宗を茶会に招いています。この時期は、反家康派の急先鋒(このイメージすら、関ヶ原の戦いを知っている後世の人達の思い込みかもしれませんが・・・・・)とされる三成すら両派の和解に動いていました。

 

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 七将襲撃事件で三成が謹慎後、石田家も家康の命令で、(家康暗殺疑惑で詰問された)前田利長攻めの準備のために出陣しています。(この辺、三成が出陣したという記述のある史料があるのですが、謹慎中の三成が出陣したとは正直疑問に思うので、三成の兄か長男が出陣したのが誤って伝わったのではないかと思いますが・・・・・)しばらく、石田家は「大老」家康が仕切る「豊臣公議」に従っていたのです。

 

 それが、結局なぜ西軍諸将が立ち上がり、関ヶ原の戦いになるかといえば、それはその後の家康の横暴があまりにも酷かったからです。

 具体的には、

①家康暗殺未遂疑惑事件で、前田利長を屈服させ(暗殺の疑いを晴らすために利長の母(まつ)を家康の人質に出しました。家族を主君に人質に出すこと自体は、当時としてもよくあることです(というか基本的に秀吉は各大名の家臣を人質にとっていました)が、それを、豊臣家の家臣である家康の地元の江戸に出させるのは異常事態でした)、

②宇喜多家の御家騒動に介入し、

③毛利家における毛利秀元の所領配分に介入します。

 こうしてみると、まず大老前田家を屈服させ、次は他の二大老の内部事情に介入し「仲裁」を口実に彼らの力を削ごうとしている家康の動きがみえます。

 そして極めつけが、残る一大老を「征伐」しようとする④上杉征伐です。

 

 しかし、この④上杉征伐準備まで、お人よしの西軍の面々は、家康に豊臣家に対する叛意はあるのかないのか分からないと決めかねていました。(宇喜多騒動の介入、毛利秀元の所領の「仲裁」自体は、大老の役目としては認められることです。けれども、いずれの裁定もその大名の力を削ぎ、弱めるような裁定でした。ただ、別に「役目」としては認められるので、これだけで家康に叛心ありと決めつけることはできません。)

 

 しかし、上杉征伐の強行で、ようやく家康の目的が、家康が他の四大老を潰し、天下の実権を握ろうとする意図であることを四大老、三奉行も気が付きました。

 まさに『注文の多い料理店』で猟師たちが「壺の中の塩をたくさん(筆者注:自分達の体に)よくもみこんでください」という段階になるまで、彼等は確信を抱けず決めかねていたのです。しかし、まあ、ここまで総合的に見せつけられると、家康が他の四大老を潰し、天下の実権を握ろうとするのはバカでも分かるでしょう。

 

 ということで、さすがにお人よしの西軍の面々も立ち上がりましたが、その頃には西軍ははじめから結束力がなくガタガタであり、総大将毛利輝元の無能、怯懦が原因で崩壊することになります。

 

 脱線しましたが、つまりは西軍が「義」とされる場合は、まさに現代からの視点で、家康が秀吉から託された秀頼を殺すという、擁護のしようない最大の「不義」を家康が犯し、家康が「不義」だということが自明だからなのです。「不義」を討つのは「義」であり、そして「義を見てせざるは勇なきなり」です。西軍が「義」か否かを問うには、家康の「不義」は当然問われます。

 

 しかし、今作は、西軍の「義」への懐疑が主なテーマです。三谷氏が家康擁護者という訳ではないでしょうが、西軍の「義」を疑問視するためには、家康の「不義」はぼやかされ、相対化され、不問とされなければいけません。

 

 すでに第33回の段階で、三谷氏の西軍の「義」への懐疑・否定への傾向は伺えます。秀吉の「たわ言」を信じて、一方的に家康を敵視し、殺そうとする三成を守るため、家康を守ろうと武将達が集まるのを見て、「これは天下が取れる。三成がそれを気付かせてくれた。三成のおかげじゃ」という感じのセリフを言います。

 

 こうした、三成が一方的に家康を敵視し、暴走したがために、三成が本来成し遂げようとしたかったこととは全く正反対の効果を引き出して(はじめは天下取りの野心を持っていなかった家康が、一方的に敵意を持つ三成に対抗しているうちに、それまでは持っていなかった天下取りへの野心を(三成に引き出されて)明確に持つようになる)失敗し自滅するという「皮肉」なストーリーは、三谷氏の大好物ですので、よろこんでこういう展開にします。

 

 つまりこれは、はじめは家康が天下を取る気はなかったが、三成が一方的に敵視して仕掛けてきたから、それに対抗しているうちに、天下を取る気になった、という「相手が仕掛けて来たんだから、それに対抗しただけだ。相手が悪い。私(家康)は悪くない!」という家康擁護の典型的な「徳川史観」ですね。

 

 三成の家康暗殺計画そのものが、徳川時代に書かれた徳川よりの二次史料にしかなく、しかも一次史料の流れを見ると、最低でもドラマのような流れになるわけがないのですが、三谷氏は自分の描きたいストーリーを書くためならば歴史を捻じ曲げます。今回は、自分の描きたいストーリーを補強するのに使える二次史料(『当代記』)があったので使っていますが、この二次史料にすら、「うわさ話」としか書かれていません。

 詳細は下記エントリーをご覧ください。↓

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 今後の流れでは、家康は少なくとも豊臣家は存続されるように願っていたが、淀殿が非常識な言動を繰り返し、家康は本当は大坂の陣などしたくなかったのに、「仕方なく」戦をはじめ、「仕方なく」秀頼を殺す、という「豊臣家滅亡自業自得史観」に基づいた展開になる可能性が高いと思います。(あくまで予想で、予想が外れることを祈っています。)

 

 江戸時代には御用学者によって作られた、豊臣家の自滅は当然、神君家康公は悪くない、という資料はたくさんありますので、今後は、三谷氏は補強する史料に困ることはないでしょう。

 

 しかし、ですね。家康というのは「天下人」で自立した明確な意思を持ち、強大な力を持った「大人」です。はっきり言って、やってしまった歴史的事実は、もうどうしようもないのです。信長・秀吉ですら当然生き残らせるとそれだけのリスクがあるにも関わらず、それだけは避けていた行為をやってしまった以上、これは最大の「不義」と言われても仕方ありません。

 

 彼は、相手の行動に受動的な反応していたらこうなってしまったんだ、彼の意思じゃない、相手のせいだ、って擁護するのは、擁護しているように見えて、実際には家康を主体的な意思を持ってない、その力もない、相手の行動に受動的に反応しているだけの「ただの馬鹿」だと愚弄しているのと同じです。ちゃんと家康を主体的な意思決定を持って主体的な行動をする、それができる絶大な力を持った「天下人」「大人」として評価することが、家康の正しい評価になるでしょう。

 

16.まとめ~「徳川史観」の立場から、敗者の「西軍派(信繁・三成ら)」の「義」への勘違いを同情するストーリー 

 三谷氏の史観は「豊臣家滅亡自業自得史観」であり、滅亡するのが当然、自業自得「豊臣政権」にあえて、「義」を唱えてつこうとする信繫・三成らに、お前らの、その「義」とは本物か、ただの「勘違い」ではないかと、懐疑を投げかるのが、このストーリーの骨格といえます。

 

 しかし、三谷氏自身は気が付いてないのかもしれませんが、三谷氏がベースとする「豊臣家滅亡自業自得史観」そのものが、現代の我々が刷り込まれている、従来からの「徳川史観」に基づくものです。

 

「徳川史観」というのは、家康の「不義」を免罪するために、「関ヶ原の戦いは奸臣石田三成による反乱、豊臣家の滅亡は淀殿の暴走による自業自得の自滅、だから神君家康公は悪くない、悪いのはあいつら(三成・淀殿)」という徳川政権の擁護のための政治的ストーリーであり、「史観」というと聞こえはいいですが、要は歴史というより「徳川イデオロギー」「プロパガンダ」なんですね。ところが、時の徳川政権が長々と、これが「正しい歴史」だと刷り込んできた訳ですから、現代にいたるまでその刷り込みがなかなか抜けない。

 

 いや、もう徳川幕府が滅んで150年近くも経つんだから、現代の我々はそんな「徳川史観」から自由だろ、と言いたくなるかもしれませんが、実際にはそうではありません。なぜなら、歴史というのは史料に基づくものだからです。だから、江戸時代の史料や逸話は基本的に「徳川史観」に基づいていますので、その史料を使って歴史を描くとそれはそのまま「徳川史観」になってしまう。いくら、現代の我々が客観的に史料を見ているつもりでも、そもそもの江戸時代の史料そのものがほとんどすべて「徳川史観」のフィルターを通したものなんで、逃れようがないのです。

 

 幸いにも、関ヶ原の戦いの前までの豊臣時代の一次史料は当然「徳川史観」には汚染されていませんので、一次史料を分析することによって、「徳川史観」に汚染されていない豊臣時代の実像を構築することが可能なのですね。近年この時代の歴史研究は飛躍的な進歩を遂げており、従来の「徳川史観」に基づいた豊臣時代観、関ヶ原の戦い等は根本的な見直しが進んでいます。

 

 しかし、こうした近年の歴史研究の成果をスルーして、三谷氏は従来からの「豊臣家滅亡自業自得史観」「徳川史観」に基づいて、彼らの「義」に対する懐疑をテーマとするストーリーを構築してしまった。その上で、三谷氏は「勘違い」にあがく信繫・三成に対して同情的な視線を送っている。ある意味、こうした「勘違い」にあがく人間こそが人間らしい人間なのだ、というのが三谷氏の視点なのでしょう。けれども、三谷氏は新しいことをやったつもりだったのでしょうが、全く新しくない。旧態依然に戻ってしまった。

 

 近年、従来の「徳川史観」に反して、西軍の石田三成直江兼続上杉景勝)・真田幸村ら西軍諸将こそは「義将」であるという、なんか彼らの「義」を称えるようなブームが起きているんですね。これは実の所、歴史ゲーム発信なんだと思いますが。この、ゲーム発信の西軍を「義将」と称えるブームそのものに、三谷氏は懐疑を抱いているのだと思います。だから、この「義」にたいして、懐疑を抱くストーリーを作ることが「新しい」視点だと思ってしまった。しかし残念ながら、そうした西軍の「義」の否定というのは、徳川時代に「徳川史観」に基づいて延々とやられた従来の見方に過ぎないのです。

 

 三谷氏は、西軍の「義」への懐疑が新しいと思ってしまったが、それは、ただ単にぐるっと回って、江戸時代の「徳川史観」に先祖返りしてしまい、カビの生えた古臭い歴史観に戻ってしまっただけなんですね。だからまったく新しくない。

 

 ただ、旧態依然としたストーリーというのは、それなりに安定していますので、これはこれで良い、という方もいるでしょう。視聴率も悪くない。ただ、多分三谷氏はこのドラマで色々と新しい試みをしようと模索し、全く新しいドラマを構築しようと意欲を見せていたように見えるので、三谷氏が当初目的としたところとは別の地点に着地してしまったのではないかと思ってしまうのです。

 

※第35話のエントリーです。↓

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大河ドラマ『真田丸』第34話「挙兵」感想

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※前回の感想です。↓

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 感想と言うか、史実との異同のみ。(なんか、ここまでドラマがああだと、史実との異同の話をしても仕方がない気がしますが、少数ながらドラマと史実との答え合わせをしたくてこの感想ブログを読んでいる方もいらっしゃるようですので、書いてみます。)

 

 いきなり三成が謹慎していますが(このドラマの前回のような大騒ぎをすれば当然ですが)、特にこの時期三成は当然謹慎していませんので、フィクションです。大元の「家康暗殺計画」がフィクションなので、当たり前ですね。

 三谷さんによる、「前回の『家康暗殺計画』はフィクションです」というアナウンスですかね。

 

 三成の謹慎はなぜかすぐ解け、「家康暗殺計画」に怒った七将がそんな処分は生ぬるいと、三成を襲撃するというのもフィクションです。(七将襲撃事件自体はありましたが。)大元の「家康暗殺計画」がフィクションなので、当たり前ですね。

 

 なにやら、三成が清正に耳打ちしていますが、「殿下は、『家康を殺せ』と仰せられた。家康に警戒するのだ!」ですかね。結局、清正は東軍で戦いますので、この耳打ちは効果なかったことになりますが。(秀頼上洛事件への長い前フリでしょうね。)

 

 さて、今度こそ三成が謹慎して、あっという間に時間が経ち直江状になります。前田利長浅野長政による「家康暗殺未遂疑惑」事件がスルーされるのは、尺がないからでしょうか。

 

 直江状は偽書か真書か長らく論争が続いています(私は偽書だと考えています。詳細は↓)が、

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ここら辺は論争になっていますので、脚本家は好きな立場で書くとよいかと思います。

(追記:そういえばこのドラマでは、さりげなく上杉が真田に事前通謀の書状を送っていることになっていますが、そのような話は聞いたことがなく、時代考証担当の丸島和洋先生の著作にもそのような記述は全然ありません(他の大名と同じく七月十七日付の三成を除く三奉行の「内府違いの条々」が真田家にとっても西軍決起の初情報のようです)ので、フィクションだと思われます。)

 

 そして、家康を弾劾した宇喜多秀家がふす間をあけるとそこには三成が。ここ、どこの話なのでしょう。(推測する気もわきません。)

 

 今後の展開ですと、三谷ワールドでは、三成は佐和山から大坂にワープして、人質作戦の指揮をとるのだと思われます。(もちろん、フィクションです。この頃、まだ三成はしばらく佐和山にいて、大坂には不在です。詳細は下の「細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」をご覧ください。)

 そして、このところ出ていたガラシャが最期を迎えるのでしょう。きりの運命やいかに?

 ※細川ガラシャの最期についての考察は以下に書きましたので、ご覧ください。↓

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※ 第34回までの構成の考察をまとめました。↓

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※第35話感想のエントリーです。↓

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参考文献 丸島和洋『真田四代と信繫』平凡社新書、2015年

大河ドラマ『真田丸』第34話「挙兵」感想 の前に・・・・・・

 

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※前回の感想です。↓

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 大河ドラマ真田丸』第34回の感想を書く前に、第33回、第34回で「三成による家康暗殺計画」なる、なんとも珍妙な説(これをメインストーリーにしてしまう大河ドラマが、2016年の現代にお目にかかることになるとは思いもよりもしませんでした)が出てきましたので、歴史の復習用にこの時期の主要人物の動きを抜粋してみます。 

 藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年という、織豊期の主要人物の居所・行動を当時の主要な一次史料等を元に記した便利な書籍がありますので、秀頼大坂城移行(慶長4(1599)年1月10日)から、七将襲撃事件(同年閏3月4日)までの各武将のタイムスケジュールを記してみましょう。(ページ数は前掲書のもの)

 

慶長4年(1599)

1月10日に大坂城へ移る秀頼に従い下向し(徳川家康)(p116)

1月10日、秀頼が伏見城から大坂城へ移り(『言経』)、利家もこれに従ったとされる(「高徳公記」)。以後、閏3月3日の逝去までの間、大坂屋敷が本拠となる。(前田利家)(p218)

1月12日頃には伏見に戻った。(徳川家康)(p116)

1月14日、三成と上杉景勝が豊臣蔵入地となった越前府中領大井村の百姓に条規を与える(『史料綜覧』)(石田三成)(p306)

1月18日5人の奉行人連署伊達政宗に対して、大坂のでの鉄砲使用を制限している。(『伊達』)(浅野長政)(p327)

1月19日には前田利家を擁し、他の奉行衆とともに、家康が秀吉の遺命に背いたことを責める。(『言経』)(石田三成)(p306)

同日で、筑前国内に慶長3年産米の年貢について指示を発している。(「朱雀文書」)。(石田三成)(p306)

1月19日、家康と毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家、そして利家との政治的対立が表面化するが、武力衝突にいたることはなく、20日は和解が目指されていた。(『言経』24日条)(前田利家)(p218)①

1月20日に伏見毛利邸で諸大名が集まり談合(毛利輝元)(p231)

1月23日秀元への国割について増田長盛石田三成から連署奉書を得、同日この事案について秀元へ書状を発する。(「長府毛利家文書」)(毛利輝元)(p231)

1月24日他の大老と家康が秀吉の遺命に反することを責める(『言経』)。(毛利輝元)(p231)

1月28日(伏見→大坂)(徳川家康)(p117)

1月29日伏見在(徳川家康)(p117)

2月2日 秀吉の死の公表に伴い、伏見城において他の奉行とともに出家した「『言経』」(浅野長政)(p327)

2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされた(『毛利』)。(浅野長政)(p327)②

2月29日には伏見の家康邸を前田利家が訪ね、(徳川家康)(p116)③

3月11日に、今度は家康が大坂の利家邸を訪問している(前田利家)(p218)④

3月11日には、家康が大坂の前田利家を見舞う予定があり、幸長・加藤清正細川忠興がその旨を大坂の長政に告げている(9日付長政宛細川忠興等書状写『綿考』)(浅野長政)(p327)

3月11日大坂在(徳川家康)(p117)

3月19日には伏見向島に移徙していた家康は、(徳川家康)(p117)

閏3月上旬、大坂屋敷で病により死去した。3日亡くなったとする記載と(「高徳公記」『加訂加能』捕遺495)、4日に亡くなったとする記載がある(「鶴田家文書」)。(前田利家)(p218)

閏3月3日付で大老連署の知行充行状を発する(『毛利』)。(毛利輝元)(p231)

 

閏3月4日 七将襲撃事件

 

 ご覧の通り、一次史料に家康暗殺計画なんて記載はありません。

①1月19日に家康に対する私婚違約詰問事件の当日が緊張のピークで、翌20日から既に和解が目指されています。

②その後、2月12日、縁辺問題が一段落し、徳川家康と他の「大老」「五奉行」との間で、誓詞が取り交わされています。

③その後2月29日には伏見の家康邸を前田利家が訪ね、(徳川家康)(p116)

④3月11日に、今度は家康が大坂の利家邸を訪問している(前田利家)(p218)

 

で、この問題はひと段落します。このように1月20日以降は事態の安定に向かっているので、この間に家康暗殺計画なんてものも、時代の流れ的にありえません。

 

 また、一般的には反家康の急進派とされる石田三成でさえ、下記のエントリーに書いた通り、↓

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大坂屋敷で、宇喜多秀家伊達政宗小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄)を招いて茶会を開きます。和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したそうです。

 宇喜多秀家小西行長、神屋宗湛、は三成の盟友(兄の正澄は当然)だからいても当たり前ですが、当然この時期に茶会を行ったのは伊達政宗を招くためです。

 

 三成と伊達政宗は、一般的には漠然と仲が悪いイメージがありますが、実際にはこの時期は、政宗は「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」、親密な仲になっています。(詳細は下記のエントリー参照。)↓

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 家康の私婚違約事件の渦中にいる伊達政宗(そもそも伊達政宗の娘と、徳川家康の息子の婚約(他2件)がこの違約事件の発端です)(当然徳川派)と親密な仲にある三成が招いて茶会を開き、なんとか両派の和解を模索したというのが、この茶会の目的でしょう。

 

 つまりは、後世の書物で反家康の急先鋒とみなされる三成ですら、この時期は両派の和解に動いていた。大河ドラマの『真田丸』の「三成による家康暗殺計画」は、一次史料にも記載のない(あれだけ、ドラマのように派手に動いていたら、当然一次史料に記載があるでしょう。)、一次史料の時代の流れにも合致しない。

 あと、当然暗殺計画など起こせば、三成は普通に処分(悪くて死罪、甘い処分で謹慎・配流)されていたでしょうが、史実では、このドラマのように謹慎などされていませんし、七将襲撃事件は暗殺計画とは別の理由(もともと存在しないのだから、理由になるわけがありません。)です。

 

 このようにドラマで描けば嘘に嘘を重ねることになる訳で、かえって「やはり三成による『家康暗殺計画』などなかったのだ。存在するとしたら、このドラマのような史実に反したデタラメな展開にしかならないしね。」という、かえって三成による『家康暗殺計画』なるもののデタラメっぷりを強調する皮肉な展開になったといえます。

 

 で、普通はこれで終了のはずなんですけど、このドラマではもはや定番となってしまった、時代考証担当による後解説無理矢理フォロー劇場によりますと、三成による『家康暗殺計画』は『当代記』に記載があるぞ、ということだそうです。あと干し柿のエピソードは、『細川家譜』を参考にしていますね。(『細川家譜』にも三成が忠興に家康暗殺計画の協力をもちかける逸話が入っています。)

 

・・・・・・これについては前のコメント欄↓

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でも指摘したのでその記載をそのまま再掲します。

 

「今回、三谷さんが(私は、三谷さんではなく、三谷さんのあまりの初めのデタラメシナリオにびっくりした時代考証担当さんが、後付で補強のために持ってきた史料だと思います。多分、三谷さんは『当代記』とか知らないでしょう。)参考にしたとされる資料は『当代記』及び『細川家譜』です。

『細川家譜』のデタラメぶりは、私は下記のエントリーで、指摘しました。↓

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 しかも、三谷さんのストーリーは『細川家譜』とすら全然違うストーリーです。どうみても、私が最初に紹介した2ちゃんの出典不明の与太話の方をソースにした話でしょう。大河ドラマで2ちゃんをソースにする脚本家って前代未聞です・・・・・。(まあ、これは私の推測で、推測が間違っていることを祈ります。さすがに・・・・・・。)

『当代記』は、寛永年間(1624年~1644年)頃に成立したとされる史書で、編纂者は姫路藩松平忠明と言われるが不詳だそうです。松平忠明徳川家康の養子、徳川の重臣奥平信昌の実子で、当然『当代記』は徳川史観で脚色された後世に書かれた二次史料であり、(追記:三成あるいは西軍関係については、という意味です。)信憑性・客観性にそもそもの疑問があります。

 しかも、『当代記』には、実際に家康暗殺計画があったとはしておらずその「物言(うわさ話)」があったとしかありません。

 徳川時代に書かれた、家康寄りであることが当然の作者による、その二次史料にすら「物言(うわさ話)」としか書いていない与太話を元に、今回のストーリーをでっち上げた、いや、多分元ネタですらなく、三谷氏がゼロからでっちあげたストーリーを補強する史料を時代考証担当が必死に探して見つかったのが、この程度の与太話しかなかったのです。

 いや、二次史料だから嘘とも限らんだろうという意見もあるかもしれないですが、その二次史料が(追記:その二次史料自体にも「物言(うわさ話)」としか書いていない)与太話にすぎない上に、複数の一次史料からほぼ確定される史実の流れに対して今回のストーリーは、そもそも全然合っていないのですね。お話になりません。」

 

 補足するなら、「物言(うわさ話)」自体はあったかもしれません。ただし、その「物言(うわさ話)」を広めたのは当の家康自身であると考えるのが合理的でしょう。この時の家康は五大老五奉行の中で、そのうち自分以外の九人に弾劾されるという総スカン状態だったのです。後世の我々は勝者家康のイメージで見てしまうので、家康はこの頃も余裕綽々だったように思ってしまうのですが、結構この状態ってきつく、家康は追い詰められた状態にあったのです。

 

 そこで、家康は、豊臣の非主流派となってしまった面々に声を掛け多数派工作をしようとします。(基本的に家康の諸大名の釣り方は、各家に徳川家との縁組を呼びかけるというやり方です。違約事件の発端の福島家、蜂須賀家、伊達家は当然、その後も黒田家、加藤(清正)等と婚姻を結んでいきます。「豊臣恩顧の大名達がなぜ、東軍(家康派)に?」って不思議がる必要なんてなかったのですよ。もともと彼らは「徳川ファミリー」なんですから。」)

 この時に、気をつけなくてはいけないのは、伏見で勝手に徒党を組んだり、兵を動かそうとしたりすると、そのこと自体が「反乱計画あり」とみなされ、かえってこれを理由として、逆賊として討たれる危険性があります。ましてや、今家康は四大老五奉行から弾劾されている真っ最中なのです。

 

 このため、家康は「反家康派の石田三成による『家康暗殺計画』の物言(うわさ話)」ありと自ら自作自演の嘘の噂話を流し、そのような噂話があるならば、身辺を警護せねば、という理由で諸将を集めたり、兵を動かそうとしたりできるようにしたんですね。このように、徒党を組むこと自体が目的なので、噂話が事実無根で全然かまわないのです。

 

 当時の人達は、この家康の自作自演の「噂話」とやらに付き合う必要がありませんので、一次史料にはなく、徳川時代に書かれた徳川よりの二次史料に書かれているというのは、そういう可能性が高いのだと思われます。

 

 参考文献

藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年

 

※第34話感想のエントリーです。↓

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大河ドラマ 『真田丸』 第33話 「動乱」 感想

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※前回の感想です。↓

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 大河ドラマ真田丸』第33回「動乱」感想です。

 

 今回、一から百まで三谷ファンタジーワールドが展開されます。はあ、視聴するの疲れた・・・・・。

 

 最早、このドラマに突っ込む余地はありません。全部フィクションだからです。そもそも、始まりのこの家康暗殺未遂事件そのものが全部フィクションなんで、初めから終わりまで全部フィクションです。いちいち、ここがフィクションって指摘が必要あります?ご安心ください、「全部」三谷フィクションですから。

 

 もう、いい加減「このドラマは全部フィクションです。デタラメの責任は全部三谷幸喜が負います」で良いんじゃないでしょうか?今後そういうテロップを、NHKもこのドラマに貼ってください。

 

 いや、ひでーよ、こんなひでー歴史ドラマ見たことがないわ。もう打ち切りにしろよ。本当に不愉快だわ。『軍師官兵衛』より酷い。NHK、三谷幸喜よ、『軍師官兵衛』より、『花燃ゆ』より、最低に酷いぞ。

 

 西軍ファンの皆さんは、こんなドラマ見て、消耗しているんですか?もう見なくていいですよ。私が保証します。このドラマはクソです。視聴率下げましょう。そうでないと、NHKは、こんなクソドラマを来年も再来年も垂れ流し続けるでしょう。西軍が主人公であるにも関わらず、西軍を貶めた今作は、長州が主人公であるにも関わらず、長州を貶めたクソドラマである『花燃ゆ』の伝統は正しく守っていますが、それがNHKの守りたい伝統なんですな?FA? それがお前の答えなんだな、NHK?

 

 いや、いくらこのドラマが三谷フィクションだからって、全編フィクションって普通ねーだろ!お前の妄想を公共の電波で垂れ流すな!三谷幸喜

 

 三谷も、もう少し賢いと思ったんですけどね・・・・・。買い被りやったんやね・・・・・。とにかく此度のことは認めません。三谷に言ってすぐやめさせないさい。つーか、すぐに辞めろ!

 

 なにかを解説する価値はありません。まごうことなく全編三谷オリジナルフィクションクズドラマ。前から思っていたけど、どうにもイラッとさせられる男だ、三谷幸喜

 

 いや、見てて苦痛なドラマでした、嫌なら見るなって?ここまで西軍の面々を、西軍が主人公がドラマで、貶めた三谷オリジナルデタラメドラマを三谷幸喜が書いて、批判しちゃいけないんですかね。これを批判しちゃいけないなら、何を批判するというのですか。『花燃ゆ』を「自爆テロ」という評がありました。この『真田丸』も「自爆テロ」です。

 

 吐き気がします。

 

(追記1:具体的な指摘がないという声がありそうですが、今回そもそもすべてが三谷幸喜のフィクションなので、「すべてがフィクション」としか言いようがないです。あれが違うとか、これが違うとかいう次元じゃありません。「すべて」です。もうこのドラマ駄目だな・・・・・・。)

 

(追記2:あまりにも(私にとっても)予想外にクソだったので、来週の視聴をしようか悩んでいますが、このドラマのクソ加減を世間に広めるためには、もう少しレビューを続けた方がいいのかもしれませんので、悩んでいます。)

 

(追記3:個別に疑問がある方はコメント欄に質問をお願いします。今の時点では、「全部デタラメ」としか言いようがありません。私も天下のNHKでこんなものが流されるとは思ってもみませんでしたので、衝撃でした。)

 

※1そもそも『細川家譜』の記述自体が嘘だと思われるので、あまり参考になりませんが・・・・・↓

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※2 ドラマで描かれた「三成による家康暗殺計画」なる珍説について検討しました。(いや、いちいち検討するにも値しないと思ったのですが、まさか時代考証担当までフォローしだすとは思いもよりませんでしたので↓)

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大河ドラマ 『真田丸』 第32話 「応酬」 感想

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※前回の感想です。↓

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真田丸」第32話『応酬』感想です。32回から新展開となり、人も増えて少しはマシになるかと期待したのですが(期待するなって?)・・・・・・

 

 思っていたのですが、NHKの朝の連続テレビ小説は、現実のモデルの人がいても架空の名前の人にして、「このドラマは実在のモデル・モチーフはいるけど、架空のドラマなんです」としているのに、なんで大河ドラマは同じようにしないんでしょう。これだけ、ファンタジードラマを展開しているのだから、朝の連続テレビ小説みたいに登場人物の名前も架空にすべきでしょう。そうすれば、史実とドラマを混同する人もだいぶ減るでしょう。NHKにおかれましては、是非次回から、そうしていただければと思います。

 

「いや、史実とドラマを混同する奴なんていないよ」という人もいますが、そんなことはないですよ。

 

 例えば朝の連続テレビ小説とと姉ちゃん』。主人公小橋常子さんのモチーフは『暮らしの手帳』を設立した大橋鎭子さんだというのは、NHKでも紹介しているように多くの人が知っているでしょう。そして、全然名前が違うにも関わらず「大橋鎭子さんの人生は、だいたいドラマの小橋常子さんの人生と同じだろう」と思っている人も多いです。かなり重要な部分も含めて、モチーフの方とドラマの主人公とは違う部分が多いのですが、わざわざ名前を変えても「だいたい同じ」と思ってしまう人はそれなりに多いのです。これが、ドラマで同一名にすれば、「だいたい同じ」どころではなく、シームレスに「こういう人物だったのだろう」と頭に刷り込まれてしまうので、本当に影響力はでかいのですよ。

 

 なので、せめて「これはフィクション」ということを示すためにも、NHKは朝の連続テレビ小説の例にならって、登場人物の名前を史実の人物の名前と変えるようにしていただきたいです。

 

 さて、本題に移ります。

 

 このブログでは、ドラマと史実との異同を書きますが、このドラマに史実らしきものは何ひとつないので、もう「全部フィクションです」でいいような気がします。

 

 前から書いていますが、フィクションだから批判している訳ではありません。脚本家が史実をねじまげて(あるいはそもそも史実に無知で)フィクションの筋書きを書いていて、その筋書きが面白くなく、はっきりいって「つまらない」「改悪」だから書いているのです。ただし、「面白い」「つまらない」というのは見る人の主観で、感想人それぞれですので、「いや、面白いよ」という人の感想も排除しません。が、史実とドラマを混同してほしくないな、と思って書いているんですね。

 

 あと、このレビューでこのドラマの人物の名前を史実の名前そのままに書くのも、かえって誤解を広げるので、ここでは略称を使います。略称は以下を参照願います。

 

【凡例】(史実の呼称=このエントリーでのドラマの登場人物の呼称(略称))

石田三成=三谷版石田三成(三三(さんざん))

加藤清正=三谷版加藤清正(三清(さんきよ))

細川忠興=三谷版細川忠興(三忠(さんちゅう))

前田利家=三谷版前田利家(三利(さんとし))

大谷吉継=三谷版大谷吉継(三吉(さんきち))

 

1.さて、史実の三成は8月18日の秀吉の死後に、9月には朝鮮出兵の兵の撤退作業のため博多に向かっています。そして12月24日頃に大坂に戻っています。だから、史実の三成はしばらく博多に行っており、ドラマの三三のように、秀吉死後の多数派工作とかいろいろやっている暇がそもそもないのです。

 

 というか、まさに家康の私婚問題というのは、三成と浅野長政が撤兵作業のため、博多に下向している隙を狙った行動でしょう。前回に三成(及び三三)が博多へ下向する前フリを三谷氏が書いたのは、普通にそういうことだと思ったのですが、おそらく時代考証担当の指摘を受けて脚本に書き足した意図を三谷氏が全く理解できなかったか、理解できても今更書き換えられない事情(役者の手配とか)が三谷氏及びNHKにあったのでしょう。

 

 だから、このドラマの三三が多数派工作のために酒宴をしたけど、ガラガラだったとか、三三が空気を読めず中座したとか、それを見て三忠が愛想をつかしたとかはファンタジーです。

 

 さて、ドラマの三三は、はじめは空気を読めない、頭のおかしいコミュ障キャラクター設定だったのですが、ここ数回は(主に秀吉から)信繫に害が及ばないようにフォローをしたりする普通に空気が読めるキャラクターになっていました。そりゃ、そうですね。空気を読みきれなければ即死の暴君秀吉の御側近くに長く仕えていて、空気が読めないコミュ障キャラクター三三では本当に何度も即死しているでしょう。さすがの三谷氏もドラマの展開上無理があると思ったのでしょう。(なら、そんな無理のある設定にはじめからするなという話ですが・・・・・)それで三三の「空気読めないコミュ障キャラ」はしばらく封印でした。

 

 それが秀吉の死とともに、このキャラクター封印は解除され、三三は、今回再び三谷設定の「空気の読めないコミュ障キャラクター」を演じ切ることになります。つまりは、三谷氏の脚本的には、三三が「空気の読めないコミュ障キャラクター」なので、周りの人望を集められず関ヶ原の戦いは負けた、という従来の俗説をなぞったキャラクター設定にしたということですね。

 

 だから、酒の場で三三が中座して三清と付き合わなかったから、仲が悪化したというファンタジーストーリーも酷過ぎるフィクションですが、そういう三谷設定なのだから、その設定上そうなるでしょう。この三谷ドラマは、三谷設定の非現実的な頭のおかしなキャラクターがたくさん出てきて、頭痛がしてきます。そういうのは現実の登場人物名を使わず、三谷氏のオリジナルフィクションドラマでやっていただきたいです。

 

2.そして三利が、既に死にかけのキャラクターとして、実質的に退場しています。史実では慶長四(1599)年1月、(この頃前田利家は確かに既に病だったようですが)「前田利家を含む」四大老五奉行は家康の私婚問題を詰問しています。このドラマの三吉の忠告の通り、この時点では三成はドラマのように家康の矢面に立っていません。史実では、前田派(家康以外の四大老五奉行)VS家康の対立として展開していきます。

 

 まとめます。三三が「空気の読めないコミュ障キャラクター」で人望がなく、それゆえ必然的に西軍が負けたという三谷さんの設定は、江戸時代に徳川(東軍)派が作った俗説通りですね。東軍の黒田官兵衛が主人公のドラマの『軍師官兵衛』なら、そういう展開でも仕方ないでしょう。しかし、西軍の信繫が主人公でありながら、結局徳川史観の俗説通りのストーリーを作り、更にそれを三谷オリジナル設定で上書きするというのが、三谷さんと時代考証担当さんが、このドラマで目指すところだったのですな。

 

 まあ、関ヶ原の戦いの終わりまでドラマは見届けますが、まあ今までの酷さからいってたいして期待できないでしょう。しかし、なんつーか、失望しました。関ヶ原の戦いの終わりとともに、このドラマの視聴もレビューも終了しようと思います。このドラマが始まった時には、これから『軍師官兵衛』より酷いレベルの戦国ドラマを見ることになるとは思いもよりませんでした。

 

※次回の感想です。↓

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秀吉の三つの遺言状

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 豊臣秀吉の遺言とされるものは「覚書」も含めると3つあります。

 

 ひとつは、浅野家に伝来した「太閤様御覚書」、ひとつは早稲田大学に所蔵されている「豊臣秀吉遺言覚書書案」、ひとつは「豊臣秀吉自筆遺言状案」(山口・毛利博物館蔵)です。それぞれ順に見ていきます。

 

1.「太閤様御覚書」(浅野家文書) 

 

 この覚書は、五奉行のひとりである浅野長政が、秀吉の遺言を聞き取ったものを覚書として残し、代々浅野家に伝えられたものとされます。

 

「太閤様御覚書」の全文については、阿部正則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年)から引用しました。

 

「大閣様被成御煩候内二被為 仰置候覚

①一内府久々りちきなる儀を御覧し被付、近年被成御懇候、其故 秀頼様を孫むこになされ候之間、 秀頼様を御取立候て給候へと、被成 御意候、大納言殿年寄衆五人居申所にて、 度々被 仰出候事

②一大納言殿ハおさなともたちより、 りちきを被成御存知候故、 秀頼様御もりに被為付候間、 御取立候て給候へと 、 内府年寄五人居申所にて、 度々被成 御意候事

③一江戸中納言殿ハ 秀頼様御しうとになされ候條、 内府御年もよられ 、 御煩気にも御成候者、 内府のことく、 秀頼様之儀 、 被成御肝煎候へと 、 右之衆居申所にて被成 御意候事

④一羽柴肥前殿事ハ、 大納言殿御年もよられ、 御煩気にも候間 、 相不替秀頼様御もりに被為付候篠、 外聞實儀忝と存知、 御身二替り肝を煎可申と被 仰出 、 則中納言二なされ 、 はしたての御つほ、 吉光之御脇指被下 、 役儀をも拾万石被成御許候事

⑤一備前中納言殿事ハ 、 幼少より御取立被成候之間 、 秀頼様之儀ハ御遁有間敷候條 、 御奉行五人にも御成候へ、 又おとな五人之内へも御入候て 、 諸職おとなしく 、贔屓偏頗なしに御肝煎候へと 、 被成 御意候事

⑥一景勝、輝元御事ハ、 御りちぎに候之間、 秀頼様之儀御取立候て給候へと、 輝元ヘハ直二被成 御意候、 景勝ハ御國二御座候故、 皆々二被為 仰置候事

⑦一年寄共五人之者ハ、 誰々成共背御法度申事を仕出し候ハゝ、 さけさやの躰にて罷出、 双方へ令異見、 入魂之様二可仕候 、 若不届仁有之而きり候ハゝ 、 おいはらとも可存候、又ハ 上様へきられ候とも可存と、 其外ハつらをはられ、さうりをなをし候共、 上様ヘと存知、秀頼様之儀大切二存知 、肝を煎可申と、 被成 御意候事

⑧一年寄為五人、 御算用聞候共、 相究候て、 内府、大納言殿へ懸御目 、 請取を取候而、 秀頼様被成御成人、 御算用かた御尋之時、 右御両人之請取を懸 御目候へと、被成 御意候事

⑨一何たる儀も、内府、大納言殿へ得御意、 其次第相究候へと、 被成 御意候事

⑩一伏見ニハ内府御座候て、 諸職被成御肝煎候へと 御意候 、 城々留守ハ徳善院、長東大蔵仕、何時も内府てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、 無気遣上可申由、 被成 御意候事

⑪一大坂ハ 秀頼様被成御座候間、大納言殿御座候て、惣廻御肝煎候へと被成 御意候、 御城御番之儀ハ 、 為皆々相勤候へと被 仰出候、大納言殿てんしゆまても、 御上り候ハんと被仰候者、無気遣上可申由、被成 御意候事

右一書之通 、年寄衆、真外御そはに御座候御女房衆達 、御聞被成候 、 以上」(*1)

 


 従来、この覚書で「年寄」とされているのは「五大老」のことを指していると解釈されていました。例えば桑田忠親氏の「太閤の手紙」(1959年初出)では、そのような解釈に基づいた現代語訳になっています。

 

 しかし、近年の研究では、この「年寄」というのは、五大老ではなく、五奉行のことであるとされています。と書くと、半分しか正しくないのですが・・・・・・。(以下参照)

 

真田丸』の時代考証担当である丸島和洋氏は、下記のインタビューで

「三成を中心とする五奉行たちは、家康らいわゆる五大老のことを奉行と呼び、自分たちこそが年寄、おとな(老)だと主張。豊臣政権の家老は自分たちで、家康たちは役人にすぎないという意味を込めて、そういう言葉の使い方をしていた」

と述べています。

 また、

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」

 

とも述べています。

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/special/subject/subject37.html

 

 これは丸島氏の見解というだけでなく、現在の歴史研究者の方達の主流な見方といってよいといえます。

 

 阿部正則氏はこの「太閤様御覚書」(浅野家文書)について前掲の「豊臣五大老五奉行についての一考察」(この論文が、「五奉行=年寄」であるという指摘をした最初の論文だとされています。)で、以下のように指摘しています。

 

「第一条の条文解釈は 、 年寄を大老とした場合には「大納言殿年寄衆五人居申所にて」の部分が「大納言殿と大老衆五人が居るところで」という解釈を余儀なくされ 、不自然な感じを受ける 。 第二条の「内府年寄五人居申所にて」の部分も 、内府と年寄五人は別のものと考えた方が解釈しやすい。内府(徳川家康)・大納言(前田利家)と年寄五人は別の存在と考えられる。

 第六条には「景勝ハ御囲二御座候故」とあることから、景勝が会津に在国中であることが明らかである。 とすれば、通説の場合「年寄五人居申所にて」(①・②)と矛盾する 。上杉景勝と年寄五人は別の存在として考えなければならない。

 第八条では 御算用の事は年寄五人で究めることが記されているが 、 内府・大納言は 、年寄五人の上に位置づけられるべきではないだろうか。」(*2)

 

 

 特に、蔵入の算用は、奉行衆の仕事ですので五大老が行うというのはやはり不自然です。やはり、この「覚書」に関しては少なくとも「年寄=五奉行」とするのが正しい解釈となります。

 

 このように、少なくとも五奉行自身は、自らを「年寄」と称していたことが近年の研究で明らかにされています。この『覚書』は「浅野家文書」であり、五奉行の一人である浅野長政が記したものですので、ここでの「覚書」の「年寄」とは「五奉行」であり、「年寄=五大老」と訳するのは間違いとなります。

 

 この事をふまえると、現代語訳は以下のようになります。(現代語訳は、桑田忠親氏の「太閤の手紙」講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)、p293~295の訳を参考にしていますが、桑田忠親氏は「年寄」は「五大老」と訳していますので、ここでは「年寄」をそのまま「年寄」に直しています。(*原文の「年寄」「おとな」とは「五奉行」のこと、「奉行」は「五大老」のことになります。)


「『太閤様御覚書』

一つ、内府(徳川家康)殿に対しては、太閤様も、長い間その律儀な人柄であるのを知っていられ、近年になって親しくされた。そうして、秀頼様を家康の孫千姫の婿になされたのだから、その孫婿の秀頼様を取り立てて頂きたいと、大納言(前田利家)殿と年寄五人のいる所で、度々仰せになったことである。

一つ、大納言(前田利家)殿は、幼な友達の頃から律儀な人柄であることを知っていられるので、特に秀頼様の御守役に附けられたのだから、お取り立て頂きたいものだと、内府(家康)殿と年寄五人がいる所で、度々仰せになった。

一つ、江戸中納言徳川秀忠)殿は、秀頼様の御舅の間柄になったので、親の家康殿が年をとられ、わずらいがちにでもなった時は、家康殿と同様に、秀頼様のことを面倒見て頂きたいと、右之衆(年寄のこと?)のいる所で仰せになった。

一つ、羽柴肥前殿(前田利長)殿は、親の利家殿が年も寄られ、わずらいがちになっても、相変わらず秀頼様のお守役に付けることにしたから、忝く思って、世話をやいてほしいと仰せられ、これを中納言に進め、橋立の茶壷と吉光の脇差を下され、祝儀として十万石も与えられた。

一つ、備前中納言宇喜多秀家)殿は、幼少の時から太閤様がお取立てなされたのだから、秀頼様のことは放っておけない義理がある。御奉行五人(五大老のこと)にもなり、またおとな五人(五人の年寄)へも交わられて、政務万端、重々しく、依怙贔屓なしに尽力してほしいと仰せになった。

一つ、(上杉)景勝と(毛利)輝元は、律儀な人柄だから、秀頼様のことを取立てて頂きたいと、輝元には直々仰せられた。景勝は領国にいるので、皆々に云い渡された。

一つ、年寄五人は、たとい誰であっても、御法度に背くような事をしでかしたら、さげ鞘の恰好でやって来て、仲違いした双方の者に意見し、仲よくするようにしてほしい。それでも万一不届きな者があったならば、刀を抜いて斬れば、太閤様に対して追腹を切ったと思っている。また、太閤様に斬られたとも思うがよい。たとい秀頼様に面をなぐられ、草履を直しても、それを太閤様のやったことだと思い、大切に扱い、世話をやいてほしいと仰せられた。

一つ、年寄五人で蔵入の御算用を処理することにきめたから、家康殿と利家殿にそれを見せ、受取状をとっておき、秀頼様が御成人なされて、御算用のことをお尋ねになった場合は、御両人の受取状をお目にかけるようにしてほしい、と仰せられた。

一つ、どんな事でも、家康殿と利家殿の御意見を聞き、その御意見次第できめるように、と仰せられた。

一つ、伏見城には家康殿が居られて、庶務を世話やかれたい、と仰せになった。留守役は前田玄以長束正家がつとめるが、家康殿が天守までも上ると云われたら、心配なく上げるようにと、仰せられた。

一つ、大坂城には秀頼様が居られるから、利家殿がお守役として、すべてについてお世話願いたいと仰せられた。御城番のことは、皆で協力して勤めてほしいと仰せになった。そうして、もし利家殿が天守までも上りたいといわれたならば、心配なく上って貰うように仰せになった。

以上十一ヶ条にわたる御遺言は、年寄衆その外、お側にいられる女房衆まで聞き取ったのである。」

 

(追記1:「浅野家文書」の「遺言覚書」は基本的には信用できるものの、残念ながら、もし仮に江戸時代に、部分的に浅野家自身による一部改竄があったとしても、誰にも分かりません。(関ヶ原の戦いの時に東軍についた浅野家が、江戸時代に徳川家に有利になるように覚書の記載を改竄する無言の圧力があったとしても不思議はありませんが、実際に改竄されていても他の文書がない以上、検証しようがないでしょう。ここら辺は確かに今後の課題として残るかと思います。ただし、後述する、遺言の部分的な抜書きに過ぎない「宮部文書」遺言覚書が正しく、全般的な遺言の覚書である「浅野家文書」が間違っているという見解はやはり無理です。)

 

(平成29年5月21日・令和元年9月22日追記)

 上杉景勝は、「3年の間は在国してもよいとの許可を秀吉から得た」と唱えて、慶長5年(1600年)の家康上洛要請を拒みます。

「※ フェルナン・ゲレイロ編「イエズス会年報集」は、景勝が、3年の間は在国してもよいとの許可を秀吉から得たと唱えて、上洛を拒み、家康と対立したと記す(『イエズス会』)。類似した記述は、慶長6年に毛利一門の一人吉川広家が作成した覚書の案文にもみられる。そこには「今度景勝上洛延引之儀者、太閤様依 御諚、国之仕置(被)申付候、〇(三年役儀御免被成候)故、如比候」とある(『吉川』)。三年間は在京を免除されていたということか。」(尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年、p267)

 

 また、宇喜多秀家は、慶長4(1599)年9月に、家康から「太閤様御置目」を根拠に、秀家の大坂から伏見への異動を強制されます。これに対して、宇喜多秀家は、自分は前田利家とともに大坂在留を指示されていたと反論しますが、結局家康の要請を受け伏見に異動します。(大西泰正『豊臣期の宇喜多氏と宇喜多秀家岩田書院、2010年、p122)

(令和元年9月15日追記)

 姜沆(朴鐘鳴訳注)『看羊録』(平凡社、1984年)には、

「そして〔家康は、〕備前中納言筑前中納言小早川秀秋〕とを伏見に駐留させようとした(筆者注:慶長四(1599)年9月の出来事です)が、備前は拒否し、

「〔なくなられた〕大(太)閤には、肥前守と私の二人で共に秀頼〔公〕を戴き大坂を守れ、と遺言された。そのお声がまだ耳に残っております。どうしても命令は聞けませぬ」

と言った。〔しかし、〕家康が〔彼の主張を〕固く拒んで聴かなかったので、秀家はやむをえず、伏見に移駐した。」(p173~174)

とあります。

 

 これらに関する秀吉の『遺言』は、「浅野家文書」の「遺言覚書」には載っていませんが、上記で書いた通り、関ヶ原以後の浅野家が徳川家康に不利になるような遺言覚書を記載する訳がありませんので、景勝・秀家に対する上記の秀吉の遺言が事実であったとしても、この覚書には省かれていることになります。

 

(令和元年6月2日 追記)

 毛利輝元家臣の内藤隆春の慶長三(1598)年八月十九日付書状には、慶長三(1598)年八月九日に、秀吉が諸大名を集めて「遺言」した様子が詳細に書かれています。ここで、毛利輝元は、「西国の儀を任せ置かれ」た事などが記されていますが、上記の浅野家文書にはその事が書かれていません。この事からも「浅野家文書」には(意図的な)遺言の欠落があるとみてよいでしょう。(下記参照↓) 

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2.早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案

 

 この全文は、清水亮氏の「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』(柏書房)、2011年)にありましたので引用します。

 

「【釈文】

    覚

一、内符(徳川家康

  利家(前田)

  輝元(毛利)

  景勝(上杉)

  秀家(宇喜多)此五人江被仰出通(御脱力)口上、付縁辺之儀

                         互可被申合事、

一、内府三年御在京事 付用所有之時ハ

           中納言徳川秀忠)御下候事

一、奉行共五人之内徳善院(前田玄以)・長束大(長束正家)両人ハ一番二して残三人内壱人宛伏見城留守居候事、

  内符惣様御留守居候事、

一、大坂城、右奉行共内弐人宛留守居事、

一、秀頼様大坂被成御入城候てより、諸侍妻子大坂ヘ可相越事

  以上

 (慶長三年)八月五日

 

【現代語訳(本文のみ)】

    覚

一、内府(徳川家康

  利家(前田利家

  輝元(毛利輝元

  景勝(上杉景勝

  秀家(宇喜多秀家

 

 この五人へ太閤様から仰せ出された通り、太閤様の口頭に従って五大老同士の縁組みのことについては、五大老が互いお申し合せになって行うべきこと。

一、徳川家康殿は三年御在京なさる事。付則。領地でやるべきことが有る時は、徳川秀忠がお下りになること。

一、五奉行の内、前田玄以長束正家を一つの番として、残る三人の内一人ずつ伏見城留守居をすること。

 徳川家康殿が全体の留守居として責任を持つこと。

一、大坂城については、右の奉行の内、残る二人ずつ留守居をすること。

一、秀頼様が大坂城に御入城なさったあとは、諸侍の妻子を大坂へ移すこと。」(*3)

 

 

 時々、この「覚書」を持って「秀吉は家康に死後の体制を全権委任したのだ」と主張する方がいらっしゃって「なんでそんな主張になるんだ」とびっくりすることがあります。どうも詳しく聞いてみると、どうやら①「この『覚書』こそが、秀吉の真の『遺言』であり、浅野家文書の『覚書』は全部デタラメ」、②「この『覚書』の内容が秀吉の『遺言』の全部」という解釈をされているようです。

 

 なるほど、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、かつ、この「覚書」が秀吉の遺言の全部だとするなら、家康のみ「全体の留守居として責任を持つ」という役割を与えられ、他の四大老及び五奉行の役割(五奉行の留守役の当番以外に)には全く触れられていないから、「秀吉は家康に全権委任した」という解釈になるかもしれませんが、そんな訳ないじゃないですか。

 

 清水亮氏の前掲書によりますと、

「「遺言覚書」(筆者注:2.の早稲田大学に所蔵されている豊臣秀吉遺言覚書書案)のこと」は、秀吉の遺言の全貌を記していません。浅野家に伝来した豊臣秀吉遺言覚書(筆者注:1.の「太閤様御覚書」(浅野家文書)のこと)のは、十一ヶ条にのぼる秀吉の遺言を書き上げており、現存する秀吉の遺言覚書では最も詳細な内容を示しています」(*4)

 

とあります。

 

ここで、清水氏は1.と2.の遺言覚書を比較して、1.と2.には共通の内容の文言の一致(1.の④・⑩・⑪の部分等)があることから

「「遺言覚書」と『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書とが共通の情報源に基づいて作成されたことは明らかです。すなわち『浅野家文書』の豊臣秀吉遺言覚書の書止文言に書かれた「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」が、双方の情報源であると推測されます。」(*5) 

としています。 

また、

「秀吉の遺言は、相手の構成を変えて度々行われていたのであり、「浅野家文書」の豊臣秀吉遺言覚書の全容は「五大老」を交えず「年寄衆・其の外御そばに御座候御女房衆達」のみに伝えられたと考えられます。文書が浅野家に残っていることからみて、「年寄五人」(「五奉行」)の一員である浅野長政が作成したものと考えてよさそうです。」(*6) 

ということで、浅野家文書の「覚書」が秀吉の遺言の全貌を記しているのに対して、この早稲田大学所蔵の「遺言覚書」は秀吉の遺言のうち主に家康の役割に関する部分を切り出して書いてあるだけで、遺言の全貌は記していないのです。

 

 また、この2.の「覚書」では、「五奉行=奉行共」という呼称になっています。『浅野家文書』の1.の「覚書」のように「五奉行=年寄」という呼称ではありません。

 つまり、丸島氏が前掲のインタビューで

徳川家康に近い人たちは自分(筆者注:家康)たちこそが年寄、おとな(老)であって、三成らはただの奉行であると主張。」 

と述べているように、

「「遺言覚書」を作成者は徳川家康の「五奉行」に対する認識を察知し、それに寄り添おうとしていると考えられます。」(*7)

 

 そして、清水氏は

「以上の検討から、「遺言覚書」は徳川家康に宛てて、彼の職務を知らせるために作成された文書の控えであったことが明らかになります。「遺言覚書」の原本は徳川家康に送付されたとみるべきです。そして、「遺言覚書」の作成者は、秀吉の遺言に立ち会った「年寄衆・其の外御そばに御座候女房衆達」の中で家康と政治的に近い者であることもまた導きだせるのです。」(*8) 

としています。

 

 この2.の「遺言覚書」の作成者についてですが、清水亮氏はこの後、史料の出どころが「宮部文書」であることを確認し、

「宮部長熙もしくは継潤であったことが確実」(*9) 

であるとしています。

 

 ちなみに、浅野家文書の「覚書」が全部デタラメで、宮部文書の「覚書」こそが正しいという説は、第一に、(*5)で書かれているように、この宮部文書の「覚書」と浅野家文書の「覚書」とは共通の部分があり、その記述の根拠は同一の「年寄衆、其外御そはに御座候御女房衆達御聞被成候」ものであると考えられることから成り立ちません。(むしろ、「宮部文書」の「覚書」は、「浅野家文書」の「覚書」の信憑性を補強するものになります。)

 

 第二に、基本的に秀吉死後の五大老五奉行の動きは、利家の死まで浅野家文書の「覚書」の通りの体制で動いており、これに対して家康が「聞いていた遺言と違う」と抗議した例も聞きませんので、基本的にやはり「浅野家文書」の「遺言覚書」が秀吉の意思・発言に沿ったものだと思われますし、家康も「宮部文書」の「遺言覚書」が家康宛ての「抜粋」に過ぎないということは承知していたということになります。

 

3.豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)

 

 この豊臣秀吉自筆遺言状案(山口・毛利博物館蔵)とは、

「死期の迫った秀吉が、五大老に対し息子の秀頼の将来を託した遺言。徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家、五人の大老に秀頼の成り立ちを繰り返し頼み、このほかには思い残すことはないと結んでいる。末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする。秀吉は八月十八日、数え年六歳の秀頼を遺して没した。」(*10)

 

というものです。大河ドラマ真田丸』の31回で出てきたのは、この遺言状です。以下が釈文です。(この釈文は、東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年より引用しました。)

 

「[釈文]

返々、秀より(筆者注:秀頼)事、

たのミ申候、五人

のしゆ(筆者注:五人の衆=五大老の事)たのミ申候〱、

いさい五人の物(筆者注;五人の物=五奉行の事)二申

わたし候、なこり

おしく候、以上、

 

秀より事、

なりたち候やうに、

此かきつけ候

しゆとして、たのミ

申し候、なに事も 此ほかにわおもひ

のこす事なく候、

かしく、
八月五日 秀吉御判

いへやす(筆者注:徳川家康

ちくせん(筆者注:前田利家

てるもと(筆者注:毛利輝元

かけかつ(筆者注:上杉景勝

秀いへ (筆者注:宇喜多秀家

 まいる

御自筆御判御うつし」(*11)

 

 

「五人のしゆ=五人の衆=五大老」、「五人の物=五奉行」です。これによって、秀吉自身は「五大老」とも、「五奉行」とも、「五年寄(どちらに対しても)」とも誰に対しても言っていないことが分かります。

 

 簡潔な文なので、現代語訳はいらないかと思います。内容も「秀頼のことを頼む」という一点に絞られています。八月五日とは、秀吉の亡くなる十三日前です。まさに秀吉が最期の力を振り絞って書いたのが、この遺言状です。

 

 大河ドラマ真田丸』はもともとフィクションなので言うまでもないかと思いますが、この遺言状を家康が無理矢理書かせるというのは当然ありえません。また、三成が無理矢理書き換えさせるということもありえません。全てフィクションです。

 

 あと、

「末尾の注記によると、原本は自筆で認められたとする」(*12)

 

とあるので、この(山口・毛利博物館蔵)の遺言書の原本は自筆遺言状だということです。だから、ドラマ『真田丸』においても、無理矢理にでも秀吉自身に書かせているし、秀吉自身が書いたものでないといけないのですね。

 

(追記2:いわゆる「五奉行」の序列は書状の書かれ方から、1.前田玄以(60)、2.浅野長政(52)、3.増田長盛(54)、4.石田三成(39)、5.長束正家(37?諸説あり)(カッコ内は、秀吉没年の年齢(慶長3(1598)年当時、かぞえ年))とされます。ドラマ等では、まるで石田三成五奉行筆頭のように描かれる事が多いですが、年齢からいっても序列4位なのは当然のことです。)

 

 注

(*1)阿部勝則 1989年、p63~64

(*2)阿部勝則 1989年、p64

(*3)清水亮  2011年、p299~303

(*4)清水亮  2011年、p304

(*5)清水亮  2011年、p306

(*6)清水亮  2011年、p308

(*7)清水亮  2011年、p309

(*8)清水亮  2011年、p309

(*9)清水亮  2011年、p310

(*10)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*11)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

(*12)大関ヶ原展 図録 2015年、p309

 

参考文献

阿部勝則「豊臣五大老五奉行についての一考察」(『史苑』49巻2号、1989年所収)

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1258&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1

桑田忠親『太閤の手紙』講談社学術文庫、2006年(文藝春秋、1959年初出)

清水亮「秀吉の遺言と「五大老」・「五奉行」」(山本博文・堀新・曽根勇二編『消された秀吉の真実-徳川史観を超えて』柏書房、2011年所収)

東京都江戸東京博物館京都府京都文化博物館福岡市博物館テレビ朝日編集『徳川家康没後四〇〇年記念特別展 大関ヶ原展 図録』2015年

大河ドラマ 『真田丸』 第31話 「終焉」 感想

(※平成28年8月11日追記しました。)

 

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※前回の感想です。↓

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 大河ドラマ 『真田丸』 第31話 「終焉」 感想を書きます。

 

 今まで見てきて思ったのですが、このドラマは「大河ドラマ」ではないな、と思います。「小川ドラマ」ですね。

 

 五大老五奉行と言いつつ(いや、五大老ではなく五人の老衆(おとなしゅう)か。(五大老というのは江戸時代以降の呼称で、当時はありません。こういう細かいどうでもいい所だけはお金がかからないから、このドラマではこだわります。))、出てくるのは、家康と三成だけ、上杉景勝は史実で会津にいるから仕方ありませんが、前田利家毛利輝元宇喜多秀家慶長の役から帰国しているはず)はどこへ行ったのでしょう。それで、今後の流れをどう描くのでしょう。

 

 今まで「信繫が見ていないことは、描かなくてもよい」というエクスキューズがありました。しかし、官兵衛の小田原開城交渉の不在でこの法則は危うくなり、今回三大老(先程も述べたとおり、景勝は不在なのは史実通りです)及び四奉行の不在はやはりただ単に「省エネ・小川ドラマ」だったに過ぎないというということが分かります。

 

 三成の他の四奉行はどこにいるのでしょう。彼らは、今後も出てこなさそうですが「内府違いの条々」クーデターは一体誰がやるんでしょう?(毛利輝元も出てこないようですし)やっぱり史実を無視して、佐和山城から三成がワープするんですかね?(*追記1参照)

 

 いや、チープなB級ドラマなら、これでいいでしょう。しかし、これが日本の歴史ドラマを代表する「大河ドラマ」なのか?あまりにも「人がいなさすぎる」のです。これは脚本家の責任というより、こんな省エネでしか出演者を揃えられないNHKの責任でしょう。「いや、スタッフも大変なんだよ」と同情している場合ではありません。心あるスタッフだって同じことを思って情けない思いをしているかもしれません。むしろ、視聴者が「人少な過ぎ、手抜き過ぎ」と抗議の声を上げていくことが、予算獲得の道筋につながるのではないでしょうか。

 

(追記1:大河ドラマのNHKのHP

http://www.nhk.or.jp/sanadamaru/cast/index12_05.html#mainContents 

を見ると毛利輝元は今後出演するみたいです。これで、「五人の老衆」はとりあえず全員配役は揃いましたが、出てくるのが遅いですね。前田利家毛利輝元宇喜多秀家はこの時期伏見にいたと思いますので、利家くらいは今回出してもよかったと思います。

 四奉行のうち、長束正家は出演するようです。増田長盛じゃないんだ・・・・・・。「内府違いの条々」クーデターの時は正家が大坂城で条々を発出するのでしょうか。

 島左近出るんだ・・・・・。出ないかと思ってました。(出るならもう少し早く出るだろうと思ってました・・・・・。)

 とりあえず、32話以降は人は揃えてきてますね。もう少し早い回から出て欲しかったキャラクターが色々いますが・・・・・・。)

 

 家康が押し入って秀吉に無理矢理に遺言を書かせるのもフィクション、三成が秀吉に無理矢理書き直させるのもフィクション、三成が真田昌幸に家康に暗殺を依頼するのもフィクション、出浦昌相が常に昌幸の側にべったりいて、思いっきり顔バレしているにも関わらず、素顔を晒して家康を暗殺しようとするのもフィクション、死にかけているのに不寝番する者もいず秀吉が孤独に死んでいくのもフィクション(且元が寝ていたという話にしていますが、且元しかいないというのが不自然)、いや、別にフィクションであったっていいのですよ。しかし、そもそもフィクションとしても現実的に有り得ないだろ、という描写の連続な訳です。これも天下人秀吉のそばに、非現実的にあまりにも人がいなさすぎなのです。これで、何を感じろというのか全く不明です。

 

 遺言状を巡るドタバタ劇は、三谷氏オリジナルのコント(寸劇)なら、まあ面白いです。昌相VS忠勝もゲーム『戦国無双』(昌相は出てきませんが)なら面白いでしょう。ただ、これは「大河ドラマ」なのであって、コントやゲームじゃないんです。「大河ドラマ」という大きな骨太な流れがあって、歴史コントや歴史ゲームも映えるというものでしょう。「大河ドラマ」自体がコントと化したのでは、大河の流れはなくなり、全ての歴史ドラマは小川となってしまいます。

 

 ある意味、今回は「大河ドラマ」が「終焉」し、すべては「小川ドラマ」になった回ということなのかな、と思います。

 

(追記2:追記1で書いたように次回以降は配役は増えるようなので、その点は良かったですが、今回(31回)に関しては、いるべき人がいない、人少なすぎ、非現実的な展開、というのは変わらないので、感想はこのままにしておきます。)

 

(追記3:大河ドラマのNHKのHPで気になるのは、相関図で北政所→家康は「信頼」なんですね。北政所が東軍(家康派)だったというのは昔の俗説で、近年は西軍派だったという見解が主流だと思うのですが、今回のドラマでは昔の俗説通りに書くのかな、と思うとかなり不安です。

 あと、石田三成細川忠興は「連携?不信?」なのがなんか細かいですね。「七将襲撃事件」の中に細川忠興が入っているので、一般的には「連携?」というのはないと思われていますが、実際には、「七将襲撃事件」前まで細川家と石田家が仲が悪かったという事実はなく、前田利家の死後の「七将襲撃事件」に忠興が参加したのは、前田派から徳川派についた方が有利だと政治的に判断したからだと思われます。

 このため、それまでは同じ「前田派」(忠興の息子が利家の娘と婚姻しており、細川家と前田家は縁戚です)といえる忠興と三成が『連携』してもおかしくない、というか利家の死までは連携していたというのが自然の流れだと思いますが、そんな細かいことを今回の大河ドラマで本当にやるのかな?という気がします。

 石田三成細川忠興については、過去に以下のエントリーで書きましたので参照願います。↓)(下のエントリーにも書きましたが『細川家譜』の記載も、あまり信用できるものではありません。)

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※秀吉の三つの遺言状について書きましたので、よろしければご覧ください。↓

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※次回の感想です。↓

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