古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑥ 天正十五(1587)年 三成28歳-九州征伐、肥後国衆一揆、真田昌幸の上洛、新発田重家の滅亡

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※本エントリーのコメントは下記に書きました。↓

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。▲は、肥後国一揆佐々成政関連の出来事。)

 

一月一日 ★「秀吉は年賀祝儀の席で、九州攻めの席で、九州攻めの部署を諸大名に伝え、軍令を発した。」(小和田哲男、p200)

豊臣秀吉堀秀政に宛てて「至九州御動座次第」九州動座の具体的な陣立てを示す。(中野等、p48)

一月三日 ■豊臣秀吉、大名や商人を招いて大茶会を催す。招かれた商人の一人が、博多の豪商の神屋宗湛である。神屋宗湛への茶会の招待の働きかけをしたのが石田三成と堺商人の津田宗及であった。この宗湛の茶会参加へのお膳立てを三成はすべて整え、当日は自らが給仕を行った。

 この日のことについて、武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年には、以下のように記されている。

「一度ならず、二度、三度と、満座の中で、宗湛は「筑紫の坊主」の愛称で(筆者注:秀吉から)呼ばれ、お飾りの拝見では一人ゆっくり手にとって拝見することを許された。それのみならず、大名衆といっしょに関白の前で食事を賜り、給仕は石田治部自身がしてくれた。

 この頃の最大級のもてなしは、主人みずから客人の前にお膳を運ぶことであるが、秀吉のブレーンである三成の給仕は、最大級のもてなしだったと考えてよいだろう。しかもこの食事を賜ったのは、大名、武士以外では今井宗及と宗湛二人だけだったようだ。淡淡とした筆致の中に、面目を施した宗湛の無上の喜びがにじみ出て『宗湛日記』の中でも、とりわけ圧巻の部分である。」(武野要子、p110~111)

※詳細は、↓

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一月四日 ★秀吉は、上杉景勝真田昌幸を上洛させるよう促している。(児玉彰三郎、p88)

一月十九日 ■島津義久は、正月十九日付書状にて羽柴秀長石田三成宛に重ねて秀吉に抗う意思のないことを告げるが、この弁明は秀吉には通じなかった。(中野等、p47)

一月二十三日 ★安国寺恵瓊黒田孝高宛て秀吉書状。博多の復興と還住を申し付ける書状。(『豊臣秀吉の古文書』、p259)

一月二十五日 ★豊臣秀吉宇喜多秀家(兵一万五千)を九州征伐に遣わす。(中野等、p47~48。柴裕之、p91)

一月二十七日 ★『時慶記』(公家、西洞院時慶の日記)のこの日の条に聚楽第落成後の天皇行幸が計画されていることが記されている。(実際の行幸は翌年(天正十六(1588)の四月十四日~十八日に行われる。)(中野等、p56)

二月 ★この頃、真田昌幸が上洛し、秀吉と対面する。(昌幸が三月に上洛したという説もありますが、下記のとおり三月一日には秀吉は九州征伐に出発していますので、三月の上洛・秀吉との対面はありえず、二月の上洛が正しいと考えられます。)

詳細は、↓

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二月十日  ★秀吉、弟の豊臣秀長(兵一万五千)を九州征伐に遣わす。(中野等、p48。柴裕之、p91)

二月十七日 ■石田三成筑紫国上座郡土豪宝珠山隆倍に書状を発する。書状の内容は、前年十月に九州に派遣された黒田孝高の調略により、孝高に属することを決めた隆倍が、その前提として秀吉自身による知行の保証を求めたため、孝高が宝珠山氏の知行保証を秀吉に言上したことに対する返状。

 この書状では、三成は、孝高の知行保証の言上を早速秀吉に伝え、了承を得た旨が記されている。中野等氏は、「三成は、九州で活動する諸将と秀吉の間を取り次ぐ立場にあったことがわかる。」(中野等、p48)としている。

二月三十日 ★真田昌幸宛秀吉朱印状。家康に付されることに不安な昌幸に対して秀吉は、「家康が自分の方に人質を出し、どのようなことでも秀吉次第だと懇望したので、信州の各自も自分の存分に従うことになった。だから戦争を止めろと述べている。」(笹本正治、p152)

三月一日 ★秀吉、島津征伐のために大坂を発し、自ら九州出陣。(中野等、p49。柴裕之、p185)総勢十八万の大軍であった。(小和田哲男、p200)■三成も秀吉に従ったと考えられる。(中野等、p49)

三月十五日 ★府内に入った島津義弘は、高野山の木食応其と一色昭秀と面会。降伏勧告であったが、この場では義弘は受け入れなかったようである。義弘は島津家久・島津忠長と相談し、豊後国撤退を決断。府内を脱出する。(新名一仁、p226~227、231)

三月十八日 ★真田昌幸小笠原貞慶、秀吉の命により、駿府徳川家康を訪問する。(藤井譲治、p116)

三月十八日 ■秀吉は九州出陣の途中、厳島神社に参拝し、戦勝を祈願して米穀を奉納。このとき、境内の水精寺で和歌の会が催された。(花ヶ前盛明、p18)この日に秀吉(雅号は「松」)と、秀吉に同行した三成、大谷吉継が詠んだ和歌については、下記参照。↓

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三月二十五日 ★秀吉、長門国赤間席に到着。(中野等、p49)

三月二十八日 ★秀吉、豊前国小倉に到着。(中野等、p49。柴裕之、p91)

三月二十九日 ★秀長の軍勢、縣城を落す。(小和田哲男、p204)

四月 ★秀吉、敵対した筑前国国衆・秋月氏を攻略。秋月氏の降伏後は、肥後国の島津勢力を鎮めつつ、薩摩国へ向かう。豊後方面からは秀長が日向国へ侵攻した。(柴裕之、p91~93)

四月十日 ★秀吉、高良山に入る。(小和田哲男、p203)

四月十二日 ▲「秀吉 肥後に入り、服属する肥後国衆たちに旧領安堵の朱印状」(荒木栄司、p201)

四月十五日 ★肥後人吉城主相良頼房の重臣、深梅長智、肥後八代で秀吉と面会、相良家の旧領安堵を秀吉に約される。(『秀吉の古文書』、p256)

→相良氏は、当初島津方として参戦していたが、三月の豊後における豊臣勢との戦いで島津勢は大敗を喫し、殿をつとめていた相良軍も命からがら人吉城に帰還した。彼我の差を思い知った相良氏は、豊臣方への鞍替えを決意し、相良重臣の深見が幼少の頼房(当時十四歳)に代わって秀吉との面会を果たした。(『秀吉の古文書』、p256)

四月十六日 ★秀吉、熊本に到着。(小和田哲男、p203)

四月十七日 ★根白坂の戦い。秀長軍、島津軍を破る。(小和田哲男、p204)島津軍は大きな被害を出し、撤退。(新名一仁、p234)

→この根白坂の戦いの際に消極的な戦いをしたと秀吉に咎められた、秀吉重臣の尾藤知宣は改易され、放逐処分を受ける。知宣が治めていた讃岐には、生駒親正が入る。「これまで姻戚として三成を支えてきた尾藤知宣は、完全に失領し、浪牢を余儀なくされた。類縁の難を避けるためか、知宣の弟宇田頼忠(三成正室の実父)の子河内守頼次(実名は「頼重」とも)は、三成の父隠岐守正継の養子となり、以後は「石田刑部少輔」と称することとなる。」(中野等、p53)

四月十九日 ★秀吉麾下の軍勢、肥後八代に入る。(中野等、p49)

四月二十日 ■三成は、二十日付で、肥後国玉名軍の願行寺に禁制を下す。(中野等、p49)

四月二十二日 ★島津重臣の伊集院忠棟、秀長の陣所へ使者として向かい、島津氏の降伏を申し出る。(柴裕之、p93)同じ頃、島津家久も降伏している。(新名一仁、p237)

四月二十三日 ■三成は、二十三日付で「大谷吉継安国寺恵瓊連署状を発して、博多町人の還住をすすめる(「原文書」)。」(中野等、p49~51)還住をすすめるにあたり諸役の免除がはかられている。(『秀吉の古文書』、p258)

四月二十六日「また、陣中見舞いをうけた三成は、この陣中から堺南北惣中に礼を述べ、戦況を報じている(大日本古文書『島津家文書』一一九六号)。」(中野等、p49~51。中野等②、p26)

四月二十七日 ★出水の島津忠辰、秀吉軍に降伏。(新名一仁、p234)

四月二十九日 ★高城で抵抗していた島津家臣山田有信、開城に同意、城を出る。(小和田哲男、p205)

五月三日 ★秀吉、薩摩国川内の泰平寺に着陣。(中野等、p51。柴裕之、p93)

五月八日 ★島津義久、泰平寺において出家姿で秀吉に対面、降伏の意を示す。秀吉、これを受け赦免。(中野等、p51。柴裕之、p93、p185)

■島津氏の降伏をうけ、三成は人質を催促している。これ以後、三成は豊臣島津氏との取次・指南の役を担うことになる。(中野等、p51)

五月九日 ★秀吉、島津義久に「薩摩一国」を充行う。(中野等、p53)

五月十八日 ★秀吉、大口方面へ軍を進めるため、泰平寺を発する。(中野等、p51)

五月十九日 ■「しかし、いまだ不穏な動きをみせる島津歳久(義久三弟)を抑えるため、三成は十九日島津家家老の伊集院忠棟(九州平定ののち剃髪して「幸侃」と号す)とともに祁答院(筆者注:歳久の居城)に派遣される。」(中野等、p51)この軍令の宛名には、忠棟、三成のほかに高野山の木食上人(応其)の名もあり、応其も三成とともに島津氏への和睦斡旋にあたっていた。同日の十九日付で応其は、義久宛てに徹底した恭順の態度を示すように諭す書状を送っている。(中野等、p52)

五月十九日 ★島津義弘、野尻まで来た秀長に見参、長男久保を秀長に人質として渡している。(新名一仁、p237)

五月二十三日 ★大友宗麟、死去。享年五十八歳。(新名一仁、p240)

五月二十四日 ■三成は、忠棟とともに大口進撃の指揮をとり、二十四日には曽木に至る。細川幽斎とともに、日向飫肥領を伊東氏へ引き渡すよう勧めてきたが、島津側の対応が悪く不快を感じている。さらに、三成は安国寺恵瓊とともに大隅宮内に向かい、敵対を続ける島津家家臣北郷時久・忠虎父子と面談する。(中野等、p52)その後、北郷時久・忠虎は秀吉に降る。

五月二十五日 ★秀吉、義久の弟の義弘に大隅一国を宛行う。(中野等、p53)★「義弘宛秀吉朱印状にて「肝付一郡」を老中伊集院忠棟に与えることが明記されて」(新名一仁②、p143)いる。

五月二十六日 ★最後まで抵抗を続けていた島津家臣新納忠元、曽木についた秀吉の元へ出頭し、降伏する。(新名一仁、p239)

五月二十八日 ★秀吉、肥後佐敷城で家臣の一柳直末充てに今後の方針を定めた書状を送る。その書状には、九州の国分けのこと、博多に自分の「御座所」を定め宿舎の普請をもしつけること(「唐入り」の基地としての整備を意識しているとされる)、九州が『五畿内同前』になるよう入念に支配を申し付けることなどが書かれている。(『秀吉の古文書』、p257)

五月三十日 ★秀吉、相良頼房に肥後国求麻郡を一色扶助。(中野等、p53)

五月 ★秀吉、伺候してきた対馬領主宗吉智に、朝鮮国王のすみやかな来日と上洛を命じる。(中野等、p152)

六月二日 ▲秀吉、佐々成政に肥後一国を宛行う。(中野等、p53)

六月五日 ★島津家久、急死。(新名一仁、p254)

六月六日 ▲「成政 隈本城に入る」(荒木栄司、p202)

六月七日 ★秀吉、筑前国筥崎に入り九州の国分けを行う。(小和田哲男、p206)■この頃の三成もこれに従ったと推測される。(中野等、p53)

六月十五日 ★秀吉、宗義調に対馬一国を宛行い、朝鮮国王の来日を要求。(中野等、p53)

六月十五日 ★宗義調・宗義智充て秀吉判物。内容は宗氏に対馬一国を安堵させること及び、高麗成に兵を遣わし成敗しようとするつもりだったが、宗義調が「御理」を申したので、派兵を差し延べることにし、この間に朝鮮国王はすみやかに日本に参洛すべしと記されている。さらに、参洛を拒めば、即座に渡海して朝鮮国に誅罰を与える、と書かれている。(中野等③、p10~11)

六月十五日 ★島津「義久は、三女亀寿、老中伊集院忠棟・本多親貞・町田久倍、奏者の比志島国貞ら重臣を伴い鹿児島を発つ。」(新名一仁②、p137)

六月十八日 ★六月十八日付秀吉朱印状による「定」。その第三条によると「大名たちに与えられた国郡知行は、当座のものであるとうたわれている。転封・移封はあたりまえとしているのである。この考え方が、徳川幕藩体制の柱の一つとなり、たくさんの「鉢植え大名」が生まれたことを想定すれば、その歴史的意義の大きかったことが理解されるのではなかろうか。」(小和田哲男、p209)

六月十九日 ★秀吉、伴天連追放令を出す。(柴裕之、p185)

六月二十五日 ★秀吉、小早川隆景筑前と北筑後・東肥前を充行う。また、立花宗茂らが筑後国内で「新恩地」を充行われる。毛利吉成に豊前国の金救・田川両郡を充行ったのもこの頃とされる。伊予には戸田勝隆と福島正則、讃岐には生駒親正が入る。(中野等、p53)

六月二十五日 ■三成は、細川幽斎とともに、上洛のため博多まで来た島津義久を訪ね、ほどなく義久を伴い上方へ向かう。(中野等、p54)

六月二十九日 ■三成ら、下関に入る。(中野等、p54)

七月一日 ▲「成政 肥後国衆たちに検地を通告、隅部親永ら一部の国衆たちは秀吉の旧領安堵の朱印状を盾に拒否」(荒木栄司、p202)

七月二日 ★秀吉、博多筥崎を出発し、大坂へ戻る。(小和田哲男、p210)

七月十日 ★秀吉、備前岡山に到着。(小和田哲男、p210~211)

七月十日 ■三成、島津義久らを伴い堺に到着。(中野等、p54)その後、島津義久は京都に居住。

七月十四日 ★秀吉、摂津大坂城に帰る。(柴裕之、p93)

七月二十四日 ▲「成政 菊池隅府城の(筆者注:肥後国衆の)隅部親永を攻める」肥後国一揆のはじまり。(荒木栄司、p202)

七月二十五日 ★秀吉、大坂城から聚楽第に入る。(小和田哲男、p211)

七月二十七日 ▲「隅府城陥落、隅部親永はいったん降伏したが山鹿城村城に立て籠もる」(荒木栄司、p202)

七月二十九日 ★秀吉、参内。(小和田哲男、p211)

七月三十日 ★北条氏、「百姓大量動員体制」を敷く「定」を領有する郷村に送っている。この動員も含めて、五万六千の軍勢を集めることができるようになったという。小和田哲男、p240)

八月六日 ▲「佐々勢 山鹿城村城を攻める」(荒木栄司、p202)

八月八日  ★秀吉の弟豊臣秀長徳川家康とともに、従二位大納言となる。(柴裕之、p185)

八月十二日 ▲益城郡の甲斐・田口・田代氏など肥後国衆の一部が、佐々成政居城の隈本城を成政の留守中に包囲攻撃する。(荒木栄司、p202)

八月十三日 ▲城村城を攻撃中の成政、城村城に付ヶ城を構築の上、隈本城の救援に向かう。(荒木栄司、p202)

八月十四日 ▲佐々軍別動隊を率いた成政家臣 佐々宗能、肥後国衆の内空閑勢により戦死。成政は山之上三名字衆・小代勢の支援で隈本城に入城した。(荒木栄司、p202)

八月十五日 ▲隈本城を「攻めていた旧阿蘇家臣の田口・田代氏ら城内の阿蘇宮司兄弟の生命保全を条件に城内の成政と呼応して、攻め手を攻め崩す。包囲とける」(荒木栄司、p202)

九月 ▲(肥後国衆の)「城村城の有働兼元勢が付ヶ城を攻め、佐々方は食糧不足、成政は柳川の立花宗茂に食糧を依頼」(荒木栄司、p202~203)

九月 ★宗義調、家臣を朝鮮に送り、秀吉の命令である服属の使者派遣を、秀吉の全国統一を祝賀する通信使ということにすり替え折衝。しかし、朝鮮側はこの要求を断った。(北島万次、p207)

九月四日 ★上杉景勝、秀吉に九州平定を賀す書状を送る。(児玉彰三郎、p91)

九月七日 ▲立花勢、食糧搬入に成功。(荒木栄司、p203)

九月八日 ▲秀吉、龍造寺家重臣鍋島直茂に書状を発する。同日付で同内容の書状を龍造寺政家にも発している。肥後国衆と戦っている佐々成政を援けるため、毛利秀包龍造寺政家とで相談し、すぐに出動するよう命じた。手勢が不足するならば、黒田孝高、毛利吉成、毛利輝元小早川隆景自身も出動せよと、隆景に指示していると告げている。(荒木栄司、p160)

九月十三日 ★秀吉、完成した京都の聚楽第に大政所や北政所らとともに入る。(柴裕之、p96、185)

九月二十七日 ★北条氏、「鉄砲鋳造のため、大磯・小田原間の宿駅に命じ、大磯の土三五駄を小田原新宿の鋳物師のもとへ運ばせているが、(中略)そのころ、鉄の材料として、寺社の梵鐘を挑発している史料もかなりの数に及んでいる。」(小和田哲男、p237)

九月三十日 ★▲九州肥後で一揆が勃発した報せが京着する。(中野等、p54)■▲これを報じた安国寺恵瓊充ての同日付秀吉朱印状には、「猶、石田治部少輔可申候也」とある。(中野等、p54)

十月一日  ★秀吉、京都北野で大茶会を催す。(柴裕之、p185)■この間、三成は秀吉に近侍していた。(中野等、p54)この茶会は十日間続けられる予定だったが、肥後一揆勃発の報でわずか一日の開催となったとされる。

十月十三日 ★秀吉、「加藤清正増田長盛に対し米三〇〇〇石を義久に下すよう命じるとともに、翌日には「在京之堪忍分」=在京滞在費として来春上方にて一万石を宛行うことを約し、今年分として米五〇〇〇石を下している。」(新名一仁②、p138)

十月十三日 ★▲秀吉、波田信時宛て朱印状。肥後国一揆の鎮圧のために、毛利輝元黒田孝高小早川隆景、森吉成らの軍勢を投入することを決定したことを信時に告げている。信時には毛利の指揮下にはいるよう命じている。(『秀吉の古文書』、p256)

十月九日 ★「黒田長政 四国国替を拒否した豊後国衆・宇都宮隆房を城井城に攻める。(荒木栄司、p203)

十月二十八日 ★上杉景勝新発田城新発田重家を滅ぼす。天正九年に重家が叛旗をひるがえしてから七年、長年の宿敵新発田重家を景勝は滅ぼし、念願の越後統一を果たすことができたのであった。(児玉彰三郎、p91)

十月二十一日 ■▲三成と細川幽斎連署で島津家臣新納忠元宛てに、肥後一揆に関して油断なく伊集院幸侃の従うべきことを伝えている。(中野等、p54)

十月末 ▲「内空閑鎮房が霜野城に立て籠もる」(荒木栄司、p203)

十一月二十二日 ★秀吉から景勝に書状が送られる。新発田重家征伐を果たしたことを賀す書状である。副状として石田三成増田長盛の書状も送られている。(児玉彰三郎、p92)■「石田・増田の書状では、新発田平定の由を聞いて、秀吉公も大満足であること、九州平定・京都移徙の祝儀に兼続の弟(大国実頼)を上洛せしめられたことは、まともに尤もであること、なお、石田・増田の両人は、景勝に対して別儀なきことを誓い、最後に、来春は景勝自身上洛して、御礼を言上されるのが然るべしと存じる旨を附け加えている。」(児玉彰三郎、p92)

※秀吉は重家が滅ぼされる直前まで、三成・長盛とは別ルート(おそらく木村清久)で、重家赦免の企てをしていたようであり、上記の書状には、これに対して三成・長盛の弁明も書かれている。詳細は↓

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十一月二十四日 ★出羽庄内の大宝寺義興、最上義光に攻められ、自害する。(中野等、p72)

十一月二十七日 ▲「内空閑鎮房 停戦申し出(12・1とも)」 (荒木栄司、p203)

十二月二日 ▲「安国寺恵瓊 隈本城到着」(荒木栄司、p203)

十二月三日 ★秀吉、伊達政宗重臣片倉景綱宛てに秀吉直書の形式で書状を送る。(同様の書状が他の関東・奥羽の大名にも送られている。)「文書自体の主な内容は、関東における「惣無事」について、今後徳川家康に命じたので、そのことを政宗へ達するように、また「惣無事」に違背する族(やから)には成敗を加えるので、それを了解するように、というものである。」(『秀吉の古文書』、p261)ただし、本書状は年代記載のない書状形式であるため、研究者の間でも年代比定にばらつきがあり、天正十四年・十五年・十六年の各説が唱えられている。(『秀吉の古文書』、p261)

 平山優氏は、(上記書状が天正十五年に年代比定されることを前提として)「これにより、家康は、秀吉が想定する「関東」=仮想敵国は主に北条氏、奥州=主に伊達氏、と対峙する豊臣政権の重要な柱石と位置付けられ、事実上、徳川・北条同盟は形骸化することとなった。」(平山優、p212)としている。

十二月五日 ▲肥後国衆、和仁親実の立て籠もる和仁(田中)城 安国寺恵瓊の策謀で落城。(荒木栄司、p203)

十二月十五日 ▲隈部親永の籠もる城村城、停戦申し込み。(荒木栄司、p203)

十二月十七日 ▲「小早川隆景 秀吉に城村城開城を報告」(荒木栄司、p203)

十二月二十四日 ★「宇都宮隆房の城井城陥落」(荒木栄司、p203)

十二月二十四日 ★北条氏、「全領国下に「天下御弓矢立」の発動を宣言し、指定した領国の惣人数を翌天正十六年一月十五日を期日に小田原へ招集する陣触れを通達した。こうした指令は北条氏がかつて上杉謙信武田信玄による小田原侵攻の時にも発動したことはなく、その時とは比較にならぬ非常事態宣言の発令と位置付けられ、その緊迫した危機意識を看取できる。」(平山優、p212)

十二月二十七日 ★▲ 「秀吉 肥前国主・龍造寺政家の和仁(田中)城攻略での功労を褒める。」 (荒木栄司、p203)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』岩波新書、2012年

笹本正治『真田三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

新名一仁②『「不屈の両殿」島津義久・義弘」角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

山本博文・堀新・曽根有二編『豊臣秀吉の古文書』柏書房、2015年

天正十四(1586)年の秀吉政権と石田三成の動きについて

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※今回は下記エントリーのコメントです。

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 それでは、天正十四(1586)年の秀吉政権と石田三成の動きについてみていきます。

 

1.昨年(天正十三(1585)年の秀吉政権の動き 

 昨年(天正十三(1585)年の秀吉政権の動きは、

①一昨年(天正十三(1584)年)の小牧・長久手戦役の後始末(紀州(雑賀・根来衆等)・四国(長宗我部)・越中(佐々)・飛騨(三木)攻め)

② 秀吉の関白任官

③対徳川東国戦略

④九州情勢への介入

でした。

 

①については、主に小牧・長久手戦役時に織田信雄徳川家康方と同盟し、秀吉を攻撃した大名を征伐し、服従させるという小牧・長久手戦役の後始末の側面があります。

②の天正十三年七月十一日付の「秀吉の関白任官」は、日本の中央政権としての秀吉政権の誕生が名実ともに始まったことを示す任官といえます。関白はとは、文字通り「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職であり、国政を総覧する臣下第一の職でした。秀吉は、この関白の権威をもとに全国の大名に号令を降す権力を手に入れたといえます。

③についてですが、小牧・長久手戦役後の後始末の後、最後に残った敵が徳川家康といえ、当初秀吉は徳川家康を打倒するため、様々な工作を進めてきました(前年のコメント欄参照)が、十一月二十八日の天正地震が起こることになります。「天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴があ」(平山優、p190)り、地震による甚大な被害を受けた豊臣方は即時の即時開戦は困難になり、秀吉は対徳川の戦略の見直しをはからざるを得なくなることになります。翌年の天正十五年は、徳川を懐柔することによって、徳川の臣従を促す方針へ方向転換していくことなります。

④一方、天正十四年十月二日「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだ」(柴裕之、p185)しており、天下の万機を関(あずかり)白(もう)す関白として秀吉が九州情勢に介入していくことになります。この流れが翌年(天正十五年)の動きにつながっていきます。

 

2.天正十四(1586)年の秀吉政権の主な動き

 天正十四年の秀吉政権及び石田三成の主な動きについてみていきます。

①東国政策(上杉景勝の上洛、真田昌幸との交渉、徳川家康の上洛)

②西国政策(石田三成の堺奉行就任、対島津前哨戦)

 

 この年の秀吉は、東国政策と西国政策を同時並行的に行う必要があった点を注意する必要があります。東国政策を解決(徳川家康の臣従)させないと、東国の反撃も警戒しないといけませんので、西国に大兵力を投入する事は難しくなります。このため、秀吉は家康を一刻も早く臣従させる必要があったのです。

 

①東国政策(上杉景勝の上洛、真田昌幸との交渉、徳川家康の上洛)

 一月二十七日、織田信雄の仲介により、徳川と豊臣との「和睦」が成立し、ここから秀吉から徳川へ臣従を呼びかける交渉が始まることになります。

 前述したとおり、昨年の天正十三年の十一月二十八日に起こった天正地震の甚大な被害のため、豊臣秀吉は、徳川への軍事行動を見直さざるを得なくなり、家康を懐柔して臣従させる方向へ転換することになります。そして、それまで対家康包囲網を形成していた、秀吉の同盟勢力の上杉景勝や北関東衆には上洛(臣従)を呼びかけることになります。

 天正十四年三月十一日、下野の宇都宮国綱に書状を送り、速やかな上洛を促します。ここから石田三成は宇都宮国綱をはじめとする北関東衆との取次を行っていたことが分かります。宇都宮等北関東衆は、南関東の北条と対立しており、北関東衆の秀吉政権内の立場を確立させるため、北条よりも早い上洛を三成は国綱に促すことになります。

 その後、五月十四日には、秀吉の妹旭姫と家康の婚姻が決まりました。

 五月十六日には石田三成・木村清久・増田長盛は、徳川家康と秀吉の妹旭姫の婚姻が成った事を受け、上杉景勝直江兼続宛てに書状を発し、上杉景勝の速やかな上洛を促します。より早く上洛した大名が、秀吉政権に確固したる地位を築くことが大前提としてあり、上杉との取次である三成らは取次先大名の上洛を促すことによって、取次先大名の秀吉政権内の地位を固め、また取次先を交渉によって上洛(臣従)させる事で自らの秀吉政権の地位を高めることに繋がっていく訳です。

 上洛=臣従の意を明確に示すという事になりますので、上杉景勝としては悩ましい判断となる訳ですが、五月二十日には景勝は上洛のために春日山城を発しており、この五月の段階でほぼ景勝の上洛は双方の交渉により最終的に確定していた事が分かります。

 五月二十八日に加賀森本で景勝主従を出迎えた三成はこの後景勝一行と同行し、六月七日に入京します。六月十四日に景勝は大坂城で秀吉に拝謁、十五日には三成は大坂の石田屋敷に景勝一行を招き饗宴をはります。六月二十一日には、景勝は「秀吉の奏請により、左近衛権少将に任じられ、従四位下に叙せられ」(児玉彰三郎、p83)ています。

上杉景勝の上洛については、下記を参照。

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 七月には、徳川傘下につかない真田昌幸に対して、徳川家康は軍事行動を起こそうとします。

 一方、豊臣秀吉上杉景勝の上洛時にも同行せず、上洛を拒否する真田昌幸に対して怒り、「表裏比興者」と非難しています。秀吉は景勝に対しては「いずれ家康が討伐の軍勢を差し向けるであろうから、越後から真田に対して助勢などのないように、と厳命して」(中野等、p39)います。

 しかし、八月二十日、「家康の(筆者注:真田への)出馬は中途で取り止めとなり、同二十日には、浜松へ引き上げている。これは、秀吉の働きかけによるものとされ(後略)」(児玉彰三郎、p86)ます。秀吉は一見、昌幸を「表裏比興者」として非難しつつも、以前の同盟時には豊臣政権のために対家康の防波堤の役割を担ってきた真田昌幸を無暗に切り捨てる事ができなかったためと考えられます。(こうした過去に、秀吉に助けを求めてきた大名・国衆を未来の都合で容赦なく切り捨てていくのは秀吉政権の信頼・外聞に関わる話になっていきます。)

 私見では、こうした秀吉の真田家への強硬姿勢からの転換には、真田家の取次である石田三成の「取り成し」があったと考えます。十一月四日の秀吉の上杉景勝宛直書には、景勝の斡旋もあり、昌幸は赦免するとの書状を発しています。

真田昌幸が上洛するまでの変遷については、下記を参照願います。

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 九月二十六日には、秀吉の母、大政所が事実上の人質として浜松に向かう事を条件として、家康の上洛が決まります。 

 十月十四日には、家康は浜松を発ち上洛へ向かいます。十月二十七日に大阪城で家康は秀吉と対面し、臣従を誓うこととなります。

 

②西国政策(石田三成の堺奉行就任、対島津前哨戦)

 天正十四年の秀吉の西国政策(主に対九州島津政策)について記します。

 昨年の天正十三年十月二日「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだ」(柴裕之、p185)します。

 これに続き天正十四年一月二十三日に、昨年十月二日付の関白秀吉による大友・島津への停戦命令が「豊後侵攻の談合のため鹿児島に集まっていた(筆者注:島津家の)重臣達に披露され」(新名一仁、p197)たが、秀吉を「由来無き仁」とみなす重臣も多く、ひとまず織田信長による大友・島津の和平仲介は未だ有効である事、こちら(島津)は攻められているから防御しているだけだとの弁明を述べた書状を返信します。

 これに対し、四月五日に大友宗麟は自ら上坂を果たし、秀吉と対面します。

 五月十二日には秀吉の示した国分け案が島津家に伝わりますが、「これは、島津氏が切り取った国のうち、肥後半国・豊前半国・筑後大友義統に返還させ、肥前国毛利輝元に与え、筑前国を秀吉直轄領とするものであり、島津氏に安堵されるのは、本領の薩隅日三か国と肥後半国・豊前半国のみであった。支配の実態がほとんどない豊前半国を島津領というのはよく分からないが、島津氏にとってはとても受け入れられない条件であったであろう。しかも、七月までに鎌田が再度上京して国分け案を受諾しなければ、必ず出馬すると通告したのである(同上)。」(新名一仁、p203~204)といったもので、島津家としては到底受け入れられるものではありませんでした。このため、島津としてはこの秀吉の国分け案を黙殺する事になります。これは秀吉政権との戦いを島津は覚悟したという事でもあります。

 一方、「六月に、織田信長時代から堺政所を勤めていた松井友閑が罷免され、三成はそのあとを襲って、小西立佐とともに「堺奉行」に就任」(中野等、p44)し、「三成の堺奉行在職は天正十六年(一五八八)の末まで及ぶと」(中野等、p47)されます。

 石田三成が堺奉行に就任したのは、九州攻めのためでした。秀吉は堺を九州攻めの兵站基地とし、大量の兵粮・弾薬を商人達に輸送させることで、九州攻めを成功させようと考えたのです。

 大量の兵粮・弾薬の九州への輸送は堺商人に莫大な利益を供する事になりますが、一方で万が一にでも堺商人が島津家と豊臣家とを天秤にかけ、兵粮輸送の業務を履行しない事態は避けなければなりません。九州への兵粮輸送のもたらす利益という「飴」と引き換えに、堺は自由都市ではなく豊臣政権の統制を受けるという「鞭」を堺商人は受け入れろ、というのが、秀吉の直臣である石田三成の堺奉行就任の意味でした。

 三成は、「堺商人に対する統制という『鞭』を与えるための役割」として堺奉行に就任したのでした。六月といえば、三成が上杉の上洛を受けて自ら上杉の接待に大わらわになっていた頃です。秀吉は多忙な職責に追われる三成に、次々と難題を解決するよう三成に重責を課していきます。

 七月には、秀吉は「島津氏勢力の「征伐」の意向を示し、仙石秀久長宗我部元親ら四国勢を先勢に、毛利氏の軍勢にも出陣を命じ」(柴裕之、p185)ます。これより秀吉軍による九州攻めが本格化します。

 十月の大坂城での家康対面の最中、秀吉は堺の環濠の埋め立てを命じます。秀吉政権により堺統制政策の一環といえます。

 一方、九州では十二月十二日、九州に在陣していた「仙石秀久長宗我部元親らの軍勢は秀吉出陣まで戦闘は避けるようにという指示に背き、豊後国戸次川(大分市)で島津軍と戦う事態となり、大敗してしまう。」(柴裕之、p185)(新名一仁、p222~223)事態を迎えることとなります。

 

 まとめますと、この年の秀吉政権は前年から引き続く東国政策を解決し、上杉景勝徳川家康を臣従させることに成功しました。まさに孫子の兵法における「戦わずして勝つ」戦法を行った訳ですが、長期的に見た場合に、相手に妥協し続けての勝利は、後々禍根を残すことになり、まさにこの残った禍根により豊臣家は後に徳川家に滅ぼされたといえます。孫子の兵法における「戦わずして勝つ」が最善だというのも、時と場合と相手によるものであり、必ずしも常に最善とはいえない例といえます。

 西国政策については、この年は戸次川の敗戦で豊臣方の敗北として終わることになります。秀吉自ら大軍を率いての出陣以外に、島津との戦いは結着しないことを示した敗戦といえるでしょう。

 

参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

石田三成関係略年表⑤ 天正十四(1586)年 三成27歳-上杉景勝・徳川家康の上洛、堺奉行、九州前哨戦

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※コメントは、次回のページに記載します。(下記がコメントです。↓)

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)

 

この頃 ■三成長男(重家)誕生(白川亨、p72~73)

一月十八日 ■石田三成、木村吉清・増田長盛とともに、上杉氏宛ての連署状を発する。(中野等、p32)

一月二十三日 ★昨年十月二日付の関白秀吉による大友・島津への停戦命令が「豊後侵攻の談合のため鹿児島に集まっていた(筆者注:島津家の)重臣達に披露された。

 重臣らの反応は様々であった。関白からの書状であり、相応の請書を出すべきという意見がある一方、「羽柴事ハ寔々(まことに)無由来仁」と噂されており、由緒正しい島津家がそのような人物を関白扱いするとの意見もあった。結局、秀吉書状と同日付の細川玄旨(幽斎)・千宗易(利休)連判副状(松井氏所蔵文書)に対する返書を出すことになり、正月十一日付で細川幽斎島津義久書状が作成された(上)。

 その内容は、停戦を命じる勅命に従うとしながらも、織田信長近衛前久の仲介による豊薩和平は有効であり、島津側から大友氏に攻撃を加えるつもりはないこと、大友氏が日向・肥後境で数か所「破郭」しており、相応の防戦はするだろうが、島津側から手切れすることはないと、島津家の現状認識と立場を表明している。」(新名一仁、p197)

一月二十四日 ★織田信雄三河岡崎城に赴く。(柴裕之、p87)

一月二十五日 ★「既に秀吉に臣従していた(筆者注:毛利)輝元は、小早川隆景・吉川元長(元春長男)を大坂に派遣し、これ(筆者注:秀吉による大友氏と島津への停戦命令)を受託したこと、そして京都への「馳走」を島津氏に助言するよう命じられたことを、天正十四年正月二十五日付で義久に伝えている(『旧記雑録附録』)。」(新名一仁、p196~197)

一月二十七日 ★織田信雄岡崎城で家康と会見、秀吉との和睦をまとめる。(柴裕之、p87)

二月 ★秀吉、「織田信雄徳川家康に和睦を応じさせたことを受けて、家康を「赦免」する。」(柴裕之、p185)

二月二十一日 ★秀吉、京都で聚楽第の工事をはじめる。(小和田哲男、p167、211)

二月二十二日 ★「小早川隆景龍造寺政家に書状を出し、秀吉から停戦命令が出されたことを伝え、これに従うよう勧告し、龍造寺側も重臣成富氏を大坂に派遣したことがうかがえる。」(新名一仁、p201~202)

三月十一日 ■石田三成、下野の宇都宮国綱宛て書状を送る。

「◇大関晴増(弥七郎)方へ、飛脚を指し下す用がありましたので、ご挨拶いたします。先日、上杉景勝の使者の天徳寺宝衍を通じて、近々(宇都宮国綱が)御上洛されるという連絡がありました。私の満足というのは此の事ですし、(宇都宮家の)為にもなると思います。もし、北条が(宇都宮国綱の)上洛を聞いて、それを妨害するために、足利を攻略するなどと称してそちらに軍勢を差し向けるといった噂を流して、(宇都宮国綱の)上洛を妨害しようとするような企てがあるかもしれません。(とはいえ)そのうちに北条も、一門の誰かを上洛させ、公議のつとめを果たすようなことになることは必定です。たとえ(今回、北条が)出勢し、いったん領国を失うことになろうと。上洛されて(秀吉への拝謁・臣従)を済ますことが、つまるところはよい結果につながると思います。北条の策略による噂に怯え、上洛を先延ばしにする間に、北条氏輝(陸奥守)が先に上洛して、(宇都宮氏に)不利な申し立てをすれば、すでに時を逸することになります。とにかく一刻も早い上洛をお待ちしています。進上品などの配慮は無用ですので、万事を後回しにして、まず上洛を優先してください。こちらでの所用は私が行いますので、ご安心ください。」(中野等、p34)

四月五日 ★大友宗麟、「みずからが大坂に上り、四月五日、大坂城にて秀吉に拝謁しており(大録)、ここで〝九州国分け案〟を提示されたと見られる。」(新名一仁、p206)(中野等、p45だと四月六日になっています。)

四月十日 ★「四月十日付で、秀吉は毛利輝元に対し、九州攻めの準備として豊前肥前から人質を取ることや、筑前に軍事・兵糧を運び入れるように指示している。」(新名一仁、p207)

→既に、秀吉は島津が停戦命令を拒否する可能性が高いことを前提に、戦の準備をしていたことが分かります。(戦国大名の基本外交は「和戦両様」なので、戦の準備をしつつ、交渉もするのは常道の手段ということでもありますが。)

五月十四日 ★「妹の朝日姫を徳川家康に嫁がせ、羽柴家の親類とする。」(柴裕之、p185)

五月十六日 ■石田三成・木村清久(吉清)・増田長盛、上杉家重臣直江兼続宛ての連署状を発する。

「◇お手紙を拝見し、満足しています。先般の手紙でも申しましたように、家康が謝罪をしてきましたので、(秀吉が)お許しになられ、さらに婚姻を結ばれることとなり、(朝日の)輿入れとなりました。殿下様(秀吉)は、こうした機会を無駄にされないので、(家康からの)人質や誓紙もあるでしょう。このような次第ですので、ほどなく東国も秀吉思い通りになると存じます。関東における(諸勢力の)境界が決定する以前に、景勝が上洛されるのがよろしいと思い、意見を申し入れます。西雲寺の話では、(景勝が)熱心に上洛のことを口にされているようです。上洛の具体的な日程が決まれば、越中まででも御迎えにうかがいますので、確実に連絡をしてください。詳しいことは(使者の)口上に委ねますので、細やかなことは控えます。」

五月二十日 ★上杉景勝、上洛のため春日山城を出発。(児玉彰三郎、p81)

五月二十二日 ★島津義久によって「秀吉のもとに派遣されていた使番の鎌田政広が、日向に戻ってきた。」(新名一仁、p203)ここで、鎌田政広は、秀吉のつきつけたいわゆる「九州国分け案」を持って帰ります。「これは、島津氏が切り取った国のうち、肥後半国・豊前半国・筑後大友義統に返還させ、肥前国毛利輝元に与え、筑前国を秀吉直轄領とするものであり、島津氏に安堵されるのは、本領の薩隅日三か国と肥後半国・豊前半国のみであった。支配の実態がほとんどない豊前半国を島津領というのはよく分からないが、島津氏にとってはとても受け入れられない条件であったであろう。しかも、七月までに鎌田が再度上京して国分け案を受諾しなければ、必ず出馬すると通告したのである(同上)。」(新名一仁、p203~204)

五月二十五日 ■「五月二十五日付で秀吉は東国の諸勢力に朱印状を発給し、その書き留めに従って石田三成増田長盛とが連署の副状を発する。(中略)同様の文書は、白川義親充てのものなどが知られるが、ここでは宇都宮家重臣塩谷義綱(受領名はのちに「伯耆守」)に充てられたものを紹介する。(中略)

(筆者注:秀吉の朱印状)◇佐野家のことについて、異儀もなしとのこと尤もに思う。万一の場合にも、親しく話し合うことが大事であろう。家康はいろいろと縁組みのことまで望んできたので、誓紙・人質などを占い選び、(指し出してきたので)赦免することとした。そういうことなので関東へは近日中に使者を派遣し、(諸勢力の)境界を確定し、穏やかに治まるようにしたい。もし妨害するような族がいるようなら、厳しく処罰する。それまでは、軽々しく軍事行動を起こしてはならない。委(くわ)しいことは山上道牛に言いきかせている。なお、増田長盛石田三成が申すだろう。(中略)

(筆者注:増田長盛石田三成連署状)◇佐野家のことについて、(秀吉からの)御書がくだされましたが、佐野家家中は混乱もないとのことで、尤もに思います。今後はいっそう親密にすることが大事であると仰せです。概して、関東へはすぐに御使者を派遣され、穏やかに治まるようにされるでしょう。それまでは軽々しい軍事行動を起こさぬように。委しいことは山上道休に言い含めます。(筆者注:書状の現代語訳終わり)

下野国の佐野家では、前当主宗綱が討ち死にしたため、その家督継承が大きな問題となっていた。とはいえ、佐野家中として特に紛糾もないことを、秀吉は諒としている。」(中野等、p36~38)

五月二十五日 ■白川義親宛豊臣秀吉朱印状。「猶、増田右衛門・石田治部少輔申すべく候也」とあり、増田長盛石田三成が副状を送っているのが分かる。内容は、家康と縁辺の儀が整い、赦免した事、「境目を相立て、静謐に属すべき候」とあり、「惣無事」を命じた書状であることが分かる。「栗野氏(筆者注:栗野俊之氏)の研究によれば、これと同日の日付で下野塩谷氏(筆者注:上記の塩谷氏宛て書状のこと)、常陸佐竹氏にも出されていたという。」

 更に秀吉は、「静謐」の命令に背いた族(やから)がいた場合には、「急度申し付くべくの条」と書いており、北関東の大名達を脅かす北条氏を牽制していたことがわかる。(小和田哲男、p215~216)

五月二十八日 ■石田三成、「上杉景勝の上洛を迎えるために北陸道を北上し、五月二十八日には加賀森本で景勝主従を出迎えている。」(中野等、p38)

五月二十九日 ■上杉景勝、「前田利家金沢城に招かれ、歓待を受ける。こののち三成は景勝と同道」(中野等、p38)「そのさい(筆者注:景勝が利家の金沢城に招かれた際)、能の上手の誉れ高かった九歳になる利家の次男又若に、能を舞わせてふるまったりした。」(児玉彰三郎、p82)

五月下旬 ★「同年五月下旬までに宗麟は豊後に戻り、大友義統は、秀吉から国分け案の提示があり、その「検使」(黒田孝高安国寺恵瓊)が下向することを各地に伝えている(大録)。」(新名一仁、p206)

六月   ■「天正十四年(一五八六)六月に、織田信長時代から堺政所を勤めていた松井友閑が罷免され、三成はそのあとを襲って、小西立佐とともに「堺奉行」に就任する」(中野等、p44)「三成の堺奉行在職は天正十六年(一五八八)の末まで及ぶという」(中野等、p47)

六月六日 ★島津義久、秀吉の「九州国分け案」への対応のため、重臣たちを鹿児島に招集し、談合を開催する。(新名一仁、p204)(※新名氏の著書では、「八月六日」となっていますが、文脈上「六月六日」の誤植と思われます。)

六月七日 ★「(筆者注:上記六月六日の談合の)参加者全員が神慮に基づき大友氏を対峙すべきとの意見で一致をみる。」(新名一仁、p204)

六月七日 ■上杉景勝一行(三成も同道)、「近江国大溝を経て、夜五つ過ぎ(午後八時頃)に入京する。この日は、いったん坂本に一泊する案もあったが、三成の意見に従ってそのまま入京した。」(中野等、p38~39)

六月九日 ★「義久は豊後出陣を決断。六月二十七日に日向口から、同月二十四日に肥後口から進攻することを命じる(上)。」(新名一仁、p204~205)

六月十日 ■「三成は六月十日に、秀吉の使者として改めて京都百万遍に出向き、景勝に拝謁する。」(中野等、p39)「秀吉の使として石田三成が来訪し、在京の賄料として三百石を贈られ、遠路をねぎらわれた。その他、木曽義昌・村上義明・溝口頼勝等が来訪している。」(児玉彰三郎、p82)

六月十二日 ★景勝、大坂下向。(中野等、p39)「(筆者注:景勝は)増田長盛の館に泊」まった。(児玉彰三郎、p82)

六月十三日 ★「義久は突如筑前出陣を決定した。」(新名一仁、p206)

→豊後出陣から筑前出陣に、強引にでも方針転換したい義久の意向でした。毛利勢進攻が近く、筑前に秀吉方の軍勢・兵粮が運び込まれる予定を知った義久が、筑前の攻略を急いだとみられます。(新名一仁、p206)

六月十四日 ★上杉景勝、「大坂城で秀吉に拝謁する。」(中野等、p39)

六月十五日 ■「三成は十五日に大坂の石田屋敷に景勝一行を招き、饗宴をはる。」(中野等、p39)

六月十六日 ★「秀吉はふたたび景勝を招いて茶の湯を催し、自ら茶をたてて景勝にすすめた。」(児玉彰三郎、p82)

六月十八日 ★上杉景勝、大坂を発ち、深更京都に入る。(児玉彰三郎、p83)

六月二十一日 ★景勝、「秀吉の奏請により、左近衛権少将に任じられ、従四位下に叙せられた。」(児玉彰三郎、p83)

六月二十三日 ★「(筆者注:この日)秀吉より景勝に与えた書にも、佐渡の鎮撫を命じ、景勝の意見に背く者は、きっと成敗を加えるべきであるといっている(後略)」(p83~84)

六月二十四日 ★上杉景勝、帰洛。(中野等、p39)

六月二十六日 ★島津義久、出陣。(新名一仁、p206)

六月末 ★「島津勢が筑前に侵攻したことは、六月末、大友義統によって秀吉に通報された。」

七月二日 ★義久、肥後八代に布陣。(新名一仁、p207)

七月六日 ★「島津忠長・伊集院忠棟ら率いる島津勢は、(筆者注:島津方から大友方へ寝返った)筑紫広門の支城鷹取城(佐賀県鳥栖市牛原町)を攻略。(新名一仁、p208)

七月六日 ★上杉景勝、越後春日山に戻る。(中野等、p39)

七月十日 ★島津勢、筑紫広門の居城勝尾城を攻略し、広門を降伏させる。(新名一仁、p208)

七月十二日 ★「秀吉は、七月十二日、大友義統に返書を送り、島津討伐を決めたことを伝えている(大録)。(中略)

具体的には、長宗我部父子と四国勢に先手を命じて、七月二十日に出船させること、毛利輝元吉川元春小早川隆景に中国の先手を命じ、門司関を超えて、立花統虎・高橋紹運らを助成するように命じたこと、そして黒田孝高・宮木堅甫を派遣したと記している。なお、この頃までに、毛利輝元大友義統の和睦が成立したことも記されている。」(新名一仁、p211)

七月 ★「島津氏勢力の「征伐」の意向を示し、仙石秀久長宗我部元親ら四国勢を先勢に、毛利氏の軍勢にも出陣を命じる。」(柴裕之、p185)

七月十四日 ★島津勢、大友氏重臣高橋紹運の籠る岩屋城(福岡県太宰府市大字観世音寺)を包囲。(新名一仁、p208~209)

七月十七日 ★「家康は真田昌幸を信州上田に討とうとして、浜松から駿府まで出馬した。」(児玉彰三郎、p86)

七月二十五日 ★「黒田孝高・宮木堅甫と毛利の先勢が渡海した」(新名一仁、p211)

七月二十七日 ★岩屋城陥落。高橋紹運自刃、城兵は全員討ち取られた。(新名一仁、p210)

七月二十七日 ★徳川家康従三位参議叙任が行われる。(藤井譲治、p111)

七月二十八日 ★島津勢は、高橋紹運の子長男立花統虎(宗茂)が籠る立花城(福岡県福岡市東区大字下原)の攻略に向かう。(新名一仁、p210)

八月頃 ■「堺奉行に就任して二ヶ月ほど経った後、三成は堺の豪商でキリシタンであったディオゴ日比屋了珪の女婿ルスカ宗礼なる人物を断罪している。」(中野等、p45)

八月三日 ★「いまだ岩屋城落城を知らない秀吉は、高橋紹運・立花統虎に対しても書状を送り、毛利・小早川・吉川の各氏に関戸(関門海峡)を超えて、大友義統と相談の上「凶徒」=島津方を誅伐するように命じたことなどを伝え」た。(新名一仁、p211)

八月三日 ■「景勝から無事帰国の使者(吉田肥前守)を迎えた三成は、その返信として、八月三日付で増田長盛との連署状を発する。秀吉の意向に従って、当面する東国政策の詳細について連絡するためである。具体的には、秀吉の意向に背いて上洛しなかった真田昌幸への対処と、佐渡仕置などについての指示である。真田昌幸は、北条氏と上野方面で交戦する一方で、徳川家康と緊張関係が継続していたため、上洛するに至らなかった。このことが秀吉の怒りを買う事になり、秀吉をして「表裏比興者」と言わしめている。いずれ家康が討伐の軍勢を差し向けるであろうから、越後から真田に対して助勢などのないように、と厳命している。その一方で、佐渡の仕置については景勝の意向に任せる、とした。さらに今後関東・奥羽へ秀吉の朱印状を送達する場合、上杉家の手寄りによって進めていきたいと告げている(『上越市史』二-三一二四号文書)。」(中野等、p39)

八月九日 ★「秀吉は家康の家臣水野惣兵衛に書を送り、家康の上洛がおくれようとも、苦しくない、真田の首をはねることが専一である。とまで言っている。」(児玉彰三郎、p86)

八月九日 ★「上杉景勝新発田征伐のため出陣した。」(児玉彰三郎、p85)

八月十四日 ★「再度秀吉は統虎に書状を送り、七月二十五日に黒田孝高・宮木堅甫と毛利の先勢が渡海したこと、兵粮・玉薬の補給を黒田・宮木に命じたことを伝えている。」(新名一仁、p211)

八月十六日 ■「十六日には、石田・増田が兼続に書を送り、信州の郡割りのことについて指示し、家康と協力すべきことを命じたのである。」(児玉彰三郎、p86)

八月二十日 ★「ところが、家康の(筆者注:真田への)出馬は中途で取り止めとなり、同二十日には、浜松へ引き上げている。これは、秀吉の働きかけによるものとされる(後略)」(児玉彰三郎、p86)

八月二十四・二十五日 ★「島津勢は立花城包囲を秋月種実ら筑前筑後勢と交替し、肥後へと撤退していった(同上)。」(新名一仁、p212)

八月二十四日 ★立花統虎(宗茂)は反撃に転じ、島津軍を追撃。(小和田哲男、p195)

八月二十五日 ★統虎(宗茂)は島津方の高鳥居城を攻撃。毛利輝元の援軍もあり、高鳥井を落とし、島津方の武将星野鎮胤・鎮元を討ち取る。その後、岩屋・宝満山両城も奪回している。(小和田哲男、p195)

八月二十七日 ★島津方に拘束されていた筑紫広門、脱走。(新名一仁、p214)

八月二十八日 ★筑紫広門、勝尾城奪還。(新名一仁、p214)

九月六日・八日 ■「九月に入ると秀吉は、景勝に敵対する新発田重家へ対応するため、木村吉清(弥一右衛門尉)を越後に下す。この決定は九月六日付の秀吉直書で景勝に告げられるが、三成も翌々日の八日付で直江兼続に充てた書状を発している(『上越市史』二-三一三五号・三一三六号文書)。ここで秀吉は、越後国内に敵対勢力を抱えることは、天下のためにも東国のためにもならない、と景勝を諭している。その真意は、景勝と新発田重家を和解させ、上杉勢の力を真田追討に向けることにあった。」(中野等、p39~40)

九月十一日 ■「秀吉は三成らに命じてあらためて新発田重家らに降服を勧告し、木村清久は兼続に新発田城を明渡し、本領相当の替地を与えるという重家の降服条件を示し、ついで新発田に赴いて重家らを説得したが、これはついに成功せず、吉清は空しく京に引き上げたのであった。」(児玉彰三郎、p85~86)

九月十六日頃 ★島津氏、鬮引きで豊後出陣の成否をはかる。霧島山(現在の霧島神宮ヵ)で鬮(くじ)が引かれ、「結果はすぐさま豊後への出陣であった(上)」。(新名一仁、p216)

九月十八日 ★「仙石秀久(一五五二~一六一四)・長宗我部元親ら率いる四国勢が、豊後沖の浜(大分県大分市)に上陸する。」(新名一仁、p212) 

九月二十五日 ■新発田重家は、「景勝への服従を嫌って、抵抗をつづけた。さきに景勝と新発田重家との間を調停しようとした秀吉も態度を変え、九月二十五日付の直書(『上杉家文書』八一五号)では、景勝の新発田攻めを諒解した。」(中野等、p40)

この直書は、上杉景勝石田三成増田長盛連署副状を伴っています。(内容は以下のとおり)

「◇  御手紙の趣旨は、(秀吉に)細かく披露しましたので、御書として指示がくだります。

一、新発田を厳しく攻めつけられていること、近々には決着がつきそうなので、尤もに存じます。詳細を木村吉清に言伝されて、そちらに遣わされていますので、どのようなかたちであれ、すみやかに解決するようにとの指示、尤もなことと存じます。

一、真田については、先般命令があったように、虚偽ばかりなので討伐することにしていたが、今回は控えることとします。

一、関東ならびに伊達・蘆名(会津)などの御取り次ぎのことについて、(秀吉の)朱印状を調えました。賢明に対処していただくことが大事かと存じます。」(中野等、p41)

九月二十六日 ★「徳川氏は上洛を求める秀吉の使者・浅野長吉(のちの長政)たちを交えて岡崎城で話し合い、家康の上洛を決めた。」(柴裕之、p88)

★「秀吉および織田信雄は家康に使いを遣わし、先に家康のもとに嫁した秀吉の妹朝日姫と面会することを口実に、事実上は人質として、秀吉の母大政所を浜松に送ることを条件に、家康の上洛を促し、ようやく家康もこれを諒承して、これに従うことになった。」(児玉彰三郎、p87)

九月二十七日 ■島津義久、関白秀吉・弟秀長・石田三成・施薬院全宗に対し書状を送る。

「秀吉には、「夏以来肥筑境の凶徒の妨害により返事が遅くなった」と釈明し、施薬院全宗には、「鎌田政広が下向途中に病気となり快気しないので、長寿院と大膳坊を派遣した」と見え透いた嘘をつき、秀長や三成には、「筑前出陣が領内の悪党を懲らしめるためであり、京都や隣邦(大友氏)に敵対するつもりはない。中国・四国勢が九州に向かっているとの噂を聞いたが、納得できない」として「邪正糾明」を求めている。

 豊臣勢の強さをよく分かっていた義久は、この外交交渉に一縷の望みを託したのであろうが、もはや手遅れであった。」(新名一仁、p217~218

十月三日 ★黒田孝高豊前に入る。(小和田哲男、p199)

十月三日 ■「ついで十月三日附の秀吉の書状が来着した。これは九月十日の景勝の書状に答えたもので、「新発田征伐については、諸口の通路を留めて納馬のことはもっともである、来春の一撃を期待している。なお委細は増田・石田より申すであろう」と言っており、右両人の書状はかなり長文のものであるが、新発田氏については、来春は即時討ち果たすべきとの由、もっともであること、真田氏については、先に景勝上洛時のときにも仰せられた通り、表裏の者であるので成敗を加えるべきであるが、今回は遠慮されたこと、家康が近日上洛することになり、小河原貞慶も召されているので、その時信州の境目のことは決定する予定であること、などを報じたのであった。」(児玉彰三郎、p88)(笹本正治氏によると、増田・石田の副状は十月五日のようである。(笹本正治、p148~149))

十月五日 ★「四国勢も、十月五日までに大友義統とともに豊前に陣替し、豊後南部には、朽網鑑康(くたみあさやす)・一万田鑑実(いちまだあきざね)だけが留守に残り、日向との国境の宇目は手薄になっているとの情報ももたらされている。」(新名一仁、p219)

十月十四日 ★島津義久ら、鹿児島を出陣。(新名一仁、p219)

十月十四日 ★家康、浜松を発する。(児玉彰三郎、p87)

十月十八日 ★「徳川家康の上洛にあたり、(注:筆者注:秀吉は)母の大政所を人質に差し出す。」(柴裕之、p185)「大政所は徳川方に迎えられて岡崎城に入った。」(柴裕之、p88)

十月二十日 ★家康、岡崎城を出発。(小和田哲男、p187)

十月二十四日 ★島津義弘ら、津賀牟礼城(竹田市入田)を落とす。その後、岡城(竹田市竹田)を攻めている。(小和田哲男、p196)

十月二十六日 ★島津家久ら、三重松尾城大分県豊後大野市三重町)に進駐する。その後家久は豊後府内へ進軍。(新名一仁、p220)

十月二十六日 ★家康、「大坂に着き、秀吉の弟・秀長の屋敷を宿所とした。秀吉は着いたばかりの家康を歓迎し、その夜は宿所の秀長の屋敷を訪れて自らもてなした。」(柴裕之、p88)

十月二十七日 ★「徳川家康と摂津大坂城で対面し臣従を誓わせる。」(柴裕之、p185)

「ここに両者(筆者注:豊臣秀吉徳川家康)は「入魂」となり、家康は何事にも関白殿次第」と秀吉に臣従する姿勢をとった。その折に秀吉と家康が談合した結果、「関東の儀」は家康に任せることになる(『上杉家文書』)。しかしその内実は、北条氏と関東諸領主との抗争の和睦=「惣無事」の仲介であり、北条氏を秀吉に臣従させる手助け、具体的には北条氏直あるいは父氏政の上洛を実現させることにあった。」(藤井譲治、p114)

十月 ★「家康を大坂に迎えた最中、秀吉は堺の環濠を埋めるように命」ずる。(中野等、p47)

十一月 ★「十一月に入るみずから出馬して(筆者注:堺の)濠の埋め立てを進める」(中野等、p47)

十一月四日 ★「家康の上洛を景勝に報じたものとして、十一月四日付の秀吉直書が二点残っている。(『上越市史』二-三一五九号・三一六〇号文書)。これらによると、関東のことは家康に任せ、真田昌幸小笠原貞慶木曾義昌らを家康に属させたとし、とくに真田は景勝の斡旋もあるので赦免するという。秀吉は、上杉家の面目をつぶさないように真田の問題を解決させ、景勝には新発田討伐と越後統一に専念することを命じたのである。」(中野等、p42)

十一月五日 ★「秀吉は家康を従わせ参内し、家康を秀長と同位の正三位中納言に叙任させた。」(柴裕之、p89)「秀吉は上洛を遂げた家康に改めて信濃国衆の真田・小笠原・木曾の三氏を政治的・軍事的支配下の与力として認め、徳川領国の存立を保護した。そのうえで、秀吉が求める「関東・奥両国惣無事」(関東・奥羽〔東北〕地方の統制と従属)に、徳川氏がこれまでの諸大名・国衆との通交や軍事力を駆使して尽力すること(奉公)を求めた。」(柴裕之、p89)

十一月七日 ★「正親町天皇の譲位式を催す。」(柴裕之、p185)

十一月八日 ★家康、帰国する。(柴裕之、p89)

十一月十三日 ★秀吉、島津勢の豊後侵攻を許してしまった二人(仙石秀久長宗我部元親)に対し、「他国に移動したのは無分別だとして、軽率な軍事行動を戒め、陣を固めるよう命じ(百瀬文書)、大友宗麟には、蜂須賀家政加藤嘉明脇坂安治率いる阿波・淡路勢を新たに派遣することを伝える(大録)。」(新名一仁、p221)

十一月十五日 ★徳川家康北条氏政に秀吉の「関東惣無事令」を伝える書状を送っている。これより前に、秀吉から北条氏に「関東惣無事」令を出していたことがわかる。(小和田哲男、p216~217)

十一月二十一日 ★秀吉、真田昌幸に書状を送り、上洛を促す。「秀吉は、昌幸が家康に対して思うところがあるようだが、それはこちらで直接聞く。自分としても昌幸のやったことは道理に背いていると考えるが、この度のことは許そう。だから早々に上洛せよと命じたのである。」(笹本正治、p151)

十一月二十三日 ★秀吉、「仙石秀久に対し、自身が出馬するまで四・五十日間、味方に落ち度がないように諸事手堅く、もし出馬する前に少しでも落ち度があれば曲事であると念押ししていた。(「黒田家譜」)。」(新名一仁、p221~222)

十一月二十五日 ★「後陽成天皇が即位する。それにあわせて太政大臣となる。」(柴裕之、p185)

十二月三日 ★十二月三日付多賀谷重経宛豊臣秀吉書状。

「◇石田三成に対する書状を披見した。関東・奥羽の惣無事のことを、このたび家康にお指示したので、異議を差し挟むことのないように。もしこれに背く者があれば討伐する。なお、石田三成も申述するであろう。

 冒頭の文言から、三成が多賀谷重経の書状を取り次いでいたことが理解される。恐らく、結城晴朝についても同様であろう。これは結城や多賀谷も佐竹と同様に常陸国を本拠とすることから、佐竹家の奏者をつとめる三成が、これらについても奏者として機能していたものと考えられる。」(中野等、p43)

→上記の書状については天正十五年のものとする説もあります。

「佐竹氏などと同様、北条氏の圧迫をうけていた常陸結城晴朝や多賀谷重経も天正十一年(一五八三)六月には秀吉は書状を送って誼を通じていた(後略)。」(中野等、p42)

十二月四日 ★家康、居城を浜松城から駿府城に移す。(小和田哲男、p187)「これも秀吉容認のもとで実現したのであろう。」(平山優、p210)

十二月六日 ★島津家久ら、利光宗魚が籠もる鶴賀城(大分市大字上戸次利光)を攻める。(新名一仁、p220)

十二月十日 ★利光宗魚、戦死。(新名一仁、p220)

十二月十一日 ★伊鶴賀城の後詰のため、大友義統仙石秀久長宗我部元親ら四国勢が戸次川左岸に布陣。(新名一仁、p222)

十二月十二日 ★「仙石秀久長宗我部元親らの軍勢は秀吉出陣まで戦闘は避けるようにという指示に背き、豊後国戸次川(大分市)で島津軍と戦う事態となり、大敗してしまう。」(柴裕之、p185)(新名一仁、p222~223)

十二月十三日 ★島津家久勢、府内制圧。このまま越年する。(新名一仁、p223)

十二月十九日 ★秀吉、太政大臣に任官。(中野等、p47)

十二月二十二日 ★この日までに戸次川の戦いの敗報が大坂の秀吉に伝えられている。(新名一仁、p223)

十二月二十四日 ★島津義弘、朽網城に移り、そこで越年。(小和田哲男、p199)島津義弘は、それまで志賀親善の籠もる豊後岡城を攻めるも激しい抵抗にあって失敗し、攻略を諦めている。(新名一仁、p220~221)

 

 参考文献

跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

笹本正治『真田氏三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

白川亨『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

石田三成関係略年表④ 天正十三(1585)年 三成26歳-紀州攻め、「治部少輔」三成、真田家との取次

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事)

 

正月 ★「安芸毛利氏との中国地方の領土配分(国分)が確定する。」(柴裕之、p185)

一月七日 ★この頃、羽柴秀勝(秀吉の養子、織田信長の五男)と毛利輝元養女が婚姻したとみられる。(毛利の人質となっていた小早川秀包が、この婚姻と入れ替わりのように一時帰国をゆるされているとされる。)(跡部信、p219)

二月二十二日 ★「織田信雄が摂津大坂城の秀吉の元へ出頭し、臣従を明確化させる。」(柴裕之、p185)

三月一日 ★秀吉、「信雄を従三位大納言(同年中に正三位に昇進)に推挙する。」(柴裕之、p84)

三月十日 ★秀吉、「正二位内大臣となり、初の参内を遂げる。」(柴裕之、p185)

三月二十日 ★ 秀吉、紀伊国への先勢を派遣。(柴裕之、p84)

三月二十一日 ★ 秀吉、紀伊国へ自ら出陣。(柴裕之、p84)

三月二十三日 ★秀吉、敵対する根来寺を攻撃・放火。(柴裕之、p84、p185)

三月二十四日 ★秀吉、雑賀へ軍を進め、その後雑賀一揆の討伐を進める。(柴裕之、p84、p185)同日、太田城を包囲。(小和田哲男、p162)

三月二十五日 ★秀吉、太田城の水攻めをはじめる。(三月二十八日説もあり)(小和田哲男、p163)

三月二十五日 ■「『宇野主水日記』の三月二十五日条の記事から、三成もこの(秀吉の紀伊攻めの)陣中にも従っていたことがわかる。」(中野等、p26)

三月二十七日 ★「北信濃福島城主須田信正が真田昌幸と通謀し叛逆を企てていたとして、海津城代上條宜順により成敗された。」(五月八日とも)(平山優、p150)

四月五日 ★太田城の堤防できあがる。(小和田哲男、p163)

四月十日 ★■高野山、秀吉に服従を示す。秀吉、四月十日付で高野山宛て朱印状を下す。(小和田哲男、p171)(柴裕之、p84)「高野山の木食応其は、根来寺金剛峯寺高野山)と秀吉との間の和解斡旋につとめており、高野山も応其を通じて秀吉に降伏を申し出る。木食応其は近江国の出身であり、こののち三成と親しく交わっていくこととなる。」(中野等、p26)

 また、白川亨氏は「そのとき(筆者注:高野山と秀吉との和解斡旋のときに)三成は深覚坊(筆者注:木食)応其のため関白秀吉の説得に努めている。深覚坊応其と三成の関係はそのときに始まったと考えられる。」(白川亨、p5~7)としています。

※参考↓

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四月十三日 上杉景勝、「真田昌幸が小県尼ヶ淵に城を築いたのを攻めさせ、また島津義忠に更科郡虚空蔵山に城を築かせ、これを監せしめている。」(児玉彰三郎、p75)

→この四月十三日の時点では、真田昌幸は徳川の下で上杉景勝と戦っていたことが分かります。

四月二十二日 ★太田城開城(小和田哲男、p164)(柴裕之、p185)

四月二十五日 ■「四月二十五日、紀州太田城開城の折も、三成は太田の秀吉陣所にあった。『宇野主水日記』」(中野等、p26)

五月八日 ★上杉景勝、「高井郡福島城の須田信正が家康の働きかけにより、真田昌幸と通じて景勝に叛いたのを、上杉宜順に命じて成敗せしめなければならなかった。」(児玉彰三郎、p75)

五月二十五日 ★「山城青蓮院尊朝法親王が、秀吉の懇請により去年依頼長谷三位を遣わして調停しようとしていたが、五月二十五日、法親王はさらに越後本誓寺にその斡旋を依頼した。」(児玉彰三郎、p75)

六月十一日  ★「織田信雄徳川家康に書状を送り、①秀吉の越中出陣は間近に迫っているが、家康と成政が共謀しているとの情報が頻繁である、②その疑念を晴らすためにも家康重臣を二、三人人質として清州に出すことを勧める。③すでに於義伊(秀康)、石川勝千代(康勝)を差し出しているではないかと思われるだろうが、今回は格別であるので人質を差し出される方が賢明だ、秀吉も人質となる重臣と交換に於義伊と石川勝千代を岡崎に一度戻す用意がある、④秀吉出馬後、成政が家康の領国に逃げ込んでも匿わず秀吉に差し出すこと、などを勧告した(『大日』十一編十六-一〇五)。

 これは秀吉の意を織田信雄が伝えたものであろう。ここに織田氏は、完全に豊臣政権下の一大名に成り下がったことが確認できる。しかし、家康はこれを拒否したらしく、実現しなかった。だがこの勧告は家康が成政支援に動くことを秀吉が牽制したものであろう。事実、家康は成政支援のために動くことはなかった。」(平山優、p171)

六月~八月 ★秀吉、「弟の羽柴秀長を総大将として四国へ出兵させて土佐長宗我部氏勢力の攻略を進め」る。(柴裕之、p185)この四国攻めには毛利勢も参加しています。

六月十六日 ★秀長、三万の軍を率い、淡路島洲本に上陸。(この他合わせて全体で十万五千~十二万三千の兵。)(小和田哲男、p177~178)

六月二十五日 ★秀吉は、「六月二十五日に上杉景勝に書状を送り、佐々成政征伐の予定に変わりはないので、前田利家とよく相談しておくよう求めている。なおこの書状で秀吉は、上杉景勝北条氏政を攻撃するための「関東越山」を積極的に支持し、支援するつもりであると述べているのは注目される(『上越』三〇三七号)。秀吉は徳川・北条同盟を打倒すべき敵とみなしていたのである。」(平山優、p168)

七月十一日 ★秀吉、「近衛前久の猶子となったうえで、従一位関白となる。」(柴裕之、p185)

七月十三日 ■「歴名士代」には天正十三年七月十三日に、石田三成従五位下・治部少輔に任じられたことが記されている。(中野等、p28)

七月十五日 真田昌幸、徳川方から上杉方につき、秀吉とも誼を結ぼうとする。

→徳川と北条が同盟を結んだ際に北条は徳川に対して、真田が支配していた上野沼田の地を北条に与えよう要請しており、このため家康も当時徳川傘下となった真田に対して沼田領の割譲を強く要求していました。

 これまで徳川方について上杉と戦っていた真田でしたが、沼田割譲要求には替地の約束もなく、また、これまで昌幸が家康のために尽くしてきた戦功に対しても家康はなんら報いることはなかったため、こうした家康の真田に対する扱いを昌幸は不満に思い、徳川を見限って上杉方につくことになります。「昌幸が景勝に異心なきを誓ったのに対して、七月十五日、景勝も誓書を与えて、その知行等を安堵せしめた。」(児玉彰三郎、p76)

 上杉景勝が昌幸に送った起請文の内容は、以下の内容でした。

「①再び上杉方に忠節を尽くすことになった以上は、何か手違いがあっても見捨てない、②敵(徳川・北条)が攻めてきたら、上田だけでなく沼田・吾妻領にも援軍を派遣する、③今後は何か密謀があるとの噂があっても、よく調査して関係継続につとめる、④信濃国の知行は海津城代須田満親より与える、⑤沼田・吾妻・小県郡と坂木庄内の知行は安堵する、⑥佐久郡と甲州のどこかで一ヵ所、上野国長野一跡(箕輪城とどその領域のこと)を与える、⑦屋代秀正の一跡を与える、⑧禰津昌綱の身上については昌幸が取りはからう(禰津氏の与力化)、などである。」(平山優、p151)

八月四日 ★越中佐々成政を攻撃する秀吉軍の先陣が出陣。(小和田哲男、p184)

八月七日 ★秀吉、越中へ向けて大坂を出陣。先陣は越前に入る。(小和田哲男、184)

八月八日 ★秀吉、京を出て越中に向かう。(小和田哲男、p184)

八月八日 この頃までに講和が成立し、長宗我部元親は秀吉側に降伏し、土佐一国を安堵される。(小和田哲男、p183)(柴裕之、p85、185)伊予国小早川隆景に与えられます。

八月十日 ★「「大友氏に対し、羽柴秀吉から菊田名字の使者が下向し、調略資金として金箱が贈られた」との情報が(筆者注:島津)家久にもたらされている。この時点で、大友氏が羽柴秀吉に接近し、両者が連携して島津領への侵攻を計画していると、日向衆は理解していたようである。これらの情報は、すぐさま鹿児島の(筆者注:島津)義久のもとにも伝えられている。」(新名一仁、p171)

八月十五日 ★秀吉家臣の金森長近、飛騨の三木自綱を攻め、降伏させる。(平山優、p173)

八月十八日 ★秀吉の本隊、加賀に到着。(小和田哲男、p184)

八月二十日 ★秀吉、倶利伽羅峠まで軍を進める。(小和田哲男、p184)

八月二十三日 ★秀長、大坂に凱旋。(小和田哲男、p183)

八月二十六日 ★佐々成政、剃髪し秀吉本陣を訪れ降伏。越中国のうち新川郡のみ安堵される。(小和田哲男、p185)「この北陸征討の結果、前田氏は利家の子利長が越中三郡を与えられ、加賀・能登越中を支配する大大名の地位が確定し、特に利家は、秀吉の最も信頼する臣として、羽柴筑前守の名乗りを許されたのであった。」(児玉彰三郎、p77)

 この頃の上杉景勝の行動については、「この時(筆者注:秀吉の佐々征伐の時)の景勝の行動はあまり詳らかではないが、八千の軍を率いて黒部まで出馬し、兼続を秀吉のもとに遣わして、挨拶せしめたという。成政を降したあと、秀吉は木村弥一右衛門を遣わして、景勝に今回の出陣を謝し、かつ、その上洛を求めて、引きあげた。」(児玉彰三郎、p77)とあります。

八月二十九日 ★真田昌幸が子の信繁を人質として、上杉家臣須田満親のもとに送ってきたのに対し、「満親は昌幸の臣矢沢頼幸に書を送り、これを謝し、かつ、小県郡曲尾に援軍を送ったことを報じている。」(児玉彰三郎、p78)

閏八月二日 ★「真田勢は徳川の兵を小県国分寺に迎え撃ち、大いにこれを破った。昌幸は、「千三百余討捕り、備存分に任せ候」と言っており、徳川方の記録『当代記』でも、「寄手少々敗軍の体也」と認めているほどである。」(児玉彰三郎、p77)(第一次上田合戦)

閏八月六日 ★三木秀綱・季綱の籠る飛騨松倉城が落城し、三木氏滅亡する。(平山優、p173)

閏八月十七日 ★秀吉、「近江国坂本に入り、畿内周辺の諸将の国替えを行い、畿内を羽柴の占有とし、「天下静謐」を成し遂げる。弟の秀家には大和・和泉・紀伊の三ヵ国が与えられ、大和郡山城に入る。甥の秀次は近江八幡城の城主となる。」(柴裕之、p185)

閏八月二十四日 ★秀吉、上洛。(柴裕之、p86)

九月三日 ★一柳末安に宛てた秀吉書状。「「秀吉、日本国は申すに及ばず、唐国迄仰せ付けられ候心に候か」」とあり、はじめて秀吉が「唐入り」に言及した書状とされる。(小和田哲男、p263)

九月九日 ★秀吉、「この日付で、「豊臣」改姓を許可される。」(柴裕之、p185)

九月十四日 ■『宇野主水日記』の九月十四日条では、秀吉の有馬湯治に従った面々の名前として、石田三成増田長盛大谷吉継などの名前が挙げられている。(中野等、p28)

※ 参考エントリー↓

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九月十八日 ★「景勝は新発田陣に参加していた、沼田城将矢沢綱頼の子頼幸を、沼田に返し、また加勢の兵を送ることを報じているが、それは北条氏直が軍勢を送って真田の城である沼田城を攻めたからであった。」(児玉彰三郎、p79)

九月二十九日 ★北条軍、真田家の矢沢綱頼の籠る沼田城を八月下旬より攻めるが、攻略できないまま九月二十九日撤退する。(平山優、p163)

十月二日 ★秀吉、「豊後大友・薩摩島津両氏に停戦命令をだす。」(柴裕之、p185)

「「嶋津修理大夫殿(折封ウワ書)」

 勅諚につき、染筆候。よって関東は残らず、奥州の果まで綸命に任せられ、天下静謐のところ、九州のこと今に鉾楯の儀、然るべからず候条、国郡境目の相論、互に存分の儀聞越し召し届けられ、追って仰せ出さるべく候。まず、敵・味方とも双方弓箭をあい止むべき旨、叡慮候。その意を得られるべき儀、もっともに候。この旨を専らにせられず候はば、急度御成敗なさるべく候の間、各々の為には一大事の儀に候、分別有りて言上あるべく候也。

 (天正十三年)拾月二日               (花押)(豊臣秀吉

    島津修理大夫(義久)殿」(小和田哲男、p188~189)

十月八日 ★伊達輝宗阿武隈川畔で不慮の死を遂げる。(輝宗の代から、伊達氏は北条氏と誼を結んでおり、それは息子の政宗にも引き継がれた。)(小和田哲男、p220)

十月十七日 ★秀吉、真田昌幸にはじめて直書を送る。(豊臣家と真田家の交渉のはじまり。)(中野等、p31)

「昌幸は九月末から十月初旬頃、大坂城羽柴秀吉に好誼を結びたい趣旨を認めた書状を送った。秀吉はこれを喜び、十月十七日付で返書を寄越した。それが次の書状である。(『信』⑯三八三)。

 未だ申し遣わさず候の所に、道茂の所への書状披見候、委細の段聞召し届けられ候、その方進退の儀、何の道にも迷惑せざる様に申し付くべく候の間、心易かるべく候、小笠原右近大夫(貞慶)といよいよ申談じ、越度なき様にその覚悟尤もに候、なお道茂申すべく候なり

 十月十七日 (花押)

     真田安房守とのへ」(平山優、p165)

→この頃まだ徳川方となっているはずの小笠原貞慶が、既に秀吉と通じていたことを示す書類といえます。平山優氏は、秀吉が越中(佐々氏)・飛騨(三木氏)を平定したことにより、小笠原貞慶が周囲を包囲され孤立したことが、貞慶が秀吉に転じた理由としています。(平山優、p174)

十月十八日 ■三成、真田家重臣で上野沼田に在城する矢沢頼綱真田昌幸の従兄弟)に、書状を発する。(現代語訳のみ引用)

「◇これまで親しくやりとりをしたこともありませんでしたが、先程真田昌幸安房守)どのことは上杉家の使者から細かにうかがいました。関白殿(秀吉)の御耳にも達していますが、真田昌幸の思い通りで(構わない)と上杉家の使者に伝えています。私は上杉家のお世話を担当しているので、今後は特に御用などをうかがっていきます。この(書状を携えてきた)使僧は、これから関東へ遣わされますので、念入りに送り届けて頂ければと存じます。さらにやがて関東から(秀吉のもとへ)のぼってくるであろう使者たちが(ご領内を)問題なく通過できるようにご配慮いただければと存します。そうした対応をとっていただければ、あなたのことを粗略にあつかうようなことはございませんので、御用などあれば仰ってください。ところで、九月十九日の天徳寺充て書状を拝見しました。(秀吉にも内容を)披露しています。詳しいことはこの使僧がお伝えすると思いますので、省略します。」(中野等、p31~32)

十一月三日 ★「景勝は、矢沢綱頼に上野国において地を宛行っている。」(児玉彰三郎、p79)

十一月四日 ★新発田重家、山城青蓮院尊朝法親王の進めていた上杉家との調停を断る。(児玉彰三郎、p80)

十一月十一日 ★徳川家康三河における一向宗七ヶ寺の追放を解除する。(平山優、p186)

十一月十一日 ★大友義統、「天正十月二日の停戦命令(筆者注:秀吉による大友氏と島津氏の停戦命令)に対し、十一月十一日には受諾する旨の書状を秀吉に送り、「筑後に在陣していたところ、島津が和平を破って義統分国に乱入したと訴え、支援を求めている(義統が筑後に在陣したという事実はない)。」(新名一仁、p205)

十一月十三日 ★「家康の重臣で、三河岡崎城代をつとめていた石川数正が突如尾張に出奔する。」(平山優、p175)この時、数正は「一族や妻女はもちろん信濃小笠原の人質幸松丸らを伴っていた(『家忠』)。」(平山優、p175)

「数正がなぜ徳川氏を裏切り、秀吉のもとへ走ったのかについては諸説あって定まっていない。ただ、出奔直前の十月二十八日に、家康が家臣を招集して秀吉に人質を出すか否かで評議を催し、あくまで拒否をすることが決定したことが最も大きく影響していることは間違いない(『家忠』『三河物語』等)。数正は、秀吉との取次役をつとめていた経緯があり、羽柴氏との回線には反対だったのだろう。しかしそれが容れられず、家中で孤立したのが出奔の背景と思われる。」(平山優、p175)と平山優氏は述べています。

十一月十五日 ★「家康は、十一月十五日に同盟国北条氏政・氏直父子に石川数正の出奔を知らせ、また信濃に在陣する徳川軍にただちに撤退し、平岩親吉・芝田康忠・大久保忠世には浜松へ帰還するように厳命した。事態を知った徳川方諸将の動揺と混乱は激しかった。」(平山優、p175)

十一月十七日 ★「真田昌幸の兼続へもたらした情報によると、家康は甲州・諏訪・佐久郡鎮将である平岩親吉・柴田康忠・大久保忠らを浜松に招集し、何事か相談したといわれ」る。(児玉彰三郎、p79)「昌幸は何故彼らが揃って帰国したのか理由がわからず、十一月十七日に直江兼続に宛てた書状で何の意図があるのか不明なのでただちに甲斐に目付を派遣して様子を探り、事実関係が判明次第報告すると述べている。(『上越』三〇七一号)。だがまもなくその理由が石川数正出奔のためであることを知ることになる。」(平山優、p178)

十一月十七日 ★伊達政宗陸奥国安達郡の人取橋で、佐竹義重・芦名亀若丸・岩城常隆・石川昭光・白河義親連合軍と戦う。(小和田哲男、p220)

十一月十八日 ★家康、三河岡崎城の大改修に着手。(平山優、p188)

十一月十九日 ★秀吉は、「十一月十九日に真田昌幸に条目を送り、①家康は天下に対し表裏を構え許し難いので成敗するつもりである、②家康討伐のため来年一月には出陣するので、その際には参陣すること、③信濃と甲斐のことは、小笠原貞慶木曾義昌と相談し、経略を進めること、などを伝えた(『信』⑯三八四)。」(平山優、p165)

十一月二十一日 ★「秀吉は昌幸がかつて家康に与したのを赦し、速やかに上洛すべきことを命じている。」(児玉彰三郎、p79)

十一月二十一日 ★秀吉、「公家、寺社に所領を給与する。」(柴裕之、p185)

十一月二十三日 ★家康、三河国衆の妻女らを遠江国二俣城などへ移すよう命ずる。(平山優、p188)

十一月二十八日 ★「家康のもとに使者が訪れた。それは織田信雄より派遣された織田長益(信長の弟、後の有楽斎)、信雄家臣滝川勝利・土方雄久である。三人は秀吉の意を受けた信雄が派遣してきたもので、家康に秀吉との講和を勧告した。だが家康はこれを拒否している(『家忠』等)。これにより、ますます秀吉との決戦は避けられぬ情勢へと進んでいった。」(平山優、p189)

十一月二十九日 ★天正地震が起きる。(柴裕之、p185)「つまり天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴がある。しかも山内一豊織田信雄らの事例を持ち出すまでもなく、秀吉麾下の諸大名に大きな打撃を与えており、家康との即時開戦は困難になったと考えられる。」(平山優、p190)

十二月二日 ★家康、三河岡崎城の改修を完了。(平山優、p188)

十二月二日 ★家康方から秀吉方についた小笠原貞慶、「保科正直の居城伊那郡高遠城を攻めた。しかし、これは保科勢の奮闘で防がれる。(児玉彰三郎、p79)(平山優、p179)

十二月七日 ★秀吉、「義統に返書を送り、毛利輝元と和睦するよう命じるとともに、島津氏の返答次第では、四国・西国の軍勢を、毛利輝元羽柴秀長を先勢として派遣すると伝えている。(大録)。」(新名一仁、p205)

十二月十日 ★秀吉の「養子の羽柴於次秀勝(織田信長の五男)が丹波亀山城で病死する。」(柴裕之、p185)

十二月十日 ★上杉景勝、山城青蓮院尊朝法親王の進めていた新発田重家との調停(重家の赦免)を拒む。(児玉彰三郎、p80)

十二月二十三日 ★島津義久、「毛利輝元に書状を記し、(中略)。この書状で義久は、前年九月に毛利氏から持ち掛けられた大友氏包囲網について、いまだ有効かどうか確認するとともに、現時点で島津家としては豊薩和平を維持するつもりであるが、大友氏が逆心を構えて立て籠もっており、「案外之儀」=和平破綻となるかもしれないと述べている。後半は、前出の細川幽斎宛書状とほぼ同内容である。秀吉と和睦した毛利氏に対し、島津家の認識・立場を明らかにし、この停戦命令に対する毛利氏の姿勢を問うたのである。」(新名一仁、p198)

十二月二十八日 ■秀吉が上杉景勝からの歳暮の使者の返礼の直書を発した時に、三成も副状を発している。(中野等、p29~30)

「◇歳暮の使者として富永備中守殿を遣わされました。遠路ご苦労をかけ、殿下(秀吉)も満足に思われています。また、私にまで御太刀一腰と銭一〇〇〇疋を御用意頂き、いつもながらのご懇情に感謝を表す言葉もありません。A特に、東国のことについては御使者に申し渡しておりますので、(御前にて)ご説明があると思います。御領国の境界を厳重にされることも当然かと存じます。さらにまた、重ねてご連絡を差し上げます。」(中野等、p30)

→ 下線部Aのとおり、石田三成が上杉との取次として東国政策(対徳川包囲網の形勢)について積極的に関わっていることがわかります。

 

(コメント)

 天正十三(1585)年の秀吉政権の大きな動きは、1.昨年の小牧・長久手戦役の後始末2.秀吉の関白任官3.対徳川東国戦略の3つといえます。以下にみていきます。

 

1.昨年の小牧・長久手戦役の後始末

 前回のエントリーで、小牧・長久手戦役とは、ただ秀吉派と信雄・家康派の戦いであるにとどまらず、周囲の大名もいずれかの陣営について戦い、関ケ原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」とみられるような大規模な戦役であったことについて説明しました。小牧・長久手の戦い自体は天正十二(1582)年十一月に織田信雄が秀吉に実質降伏することにより、終結を迎えますが、この時信雄・家康派についた大名の後始末をつけることが、秀吉にとってこの天正十三(1583)年の重要な課題となります。彼ら旧信雄・家康派勢力は、信雄との講和により秀吉政権に従うことになった訳では当然なく、今後も秀吉政権を脅かす存在となる訳ですから放置しておくわけにはいきません。このため、天正十三年に秀吉は、旧信雄・家康派残党勢力を一掃するために一連の軍事行動を起こします。

 天正十三年に行った秀吉の戦は以下のようになります。

① 三月~四月  紀州攻め(対根来・雑賀衆等)

② 六月~八月  四国攻め(対長宗我部元親

③ 八月     越中攻め(対佐々成政

④ 八月~閏八月 飛騨攻め(対三木氏)

 石田三成もまた、秀吉の側近として紀州攻め、越中攻めに在陣しています。(四国攻めについては秀吉の弟秀長が総大将として軍を率いており、飛騨攻めも金森長親に命じたもので、秀吉は出陣していませんので、三成も在陣していません。)

 紀州攻めの際に、高野山が秀吉に降伏を申し出、無血開山します。この時、高野山で秀吉との和解斡旋につとめた僧が木食応其でした。近江国の出身である木食応其は、こののち三成と親しく交わっていくこととなります。

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2.秀吉の関白任官

 天正十三年七月十一日、秀吉が関白に任官されます。関白とは文字通り「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職であり、国政を総覧する臣下第一の職でした。その「総覧」の中には公家・寺社も含まれます。(小和田哲男、p172)

 江戸時代の史料(林羅山豊臣秀吉譜』)では、秀吉は将軍職が望みだったが、足利義昭の猶子になろうとして断られたため将軍になれなかった等の記述(小和田哲男、p170)がありますが、摂関家でない人間が関白に任官される方が、将軍に任官されるよりも遥かに難しいことですので、この説は誤りでしょう。秀吉は、「天下の万機を関(あずかり)白(もう)す」職として関白の任官を望み、関白の地位を元に天下へ号令する権威と政治的な正統性を得ようとしたのだと考えられます。(この朝廷の「臣下第一」の権威も「武威」を背景としなければ実質的な権力を持ちえない訳ですが。)

 秀吉の関白任官に伴い秀吉家臣も官位を授かり、石田三成もまた七月十三日に五位下に叙位され、治部少輔の官途を与えられることになります。(中野等、p27)

 

3.対徳川東国戦略

小牧・長久手の戦いで決定的な勝利を収められず家康を打倒できなかった秀吉は、家康に対する武力討伐路線をあきらめ、朝廷の権威で家康を臣従させる路線を目指した」みたいな説が以前唱えられていたことがありましたが、上記の年表にあるように、天正十三年の段階では、秀吉は、降伏の姿勢を取ろうとしていない徳川を打倒する姿勢を崩しておらず、色々な戦略を徳川陣営に仕掛けて、徳川征討の準備をしていることが分かります。以下に秀吉の対徳川東国戦略をみていきます。

① 八月 越中攻め(対佐々成政

② 八月~閏八月 飛騨攻め(対三木氏)

③ 十月 信濃小笠原貞慶真田昌幸との同盟

④ 十一月 徳川重臣石川数正の出奔

 

 ①、②の秀吉による越中・飛騨攻略により、③徳川方だった信濃小笠原貞慶を孤立させることにより、豊臣方に寝返らせることに秀吉は成功しました。七月に徳川方から上杉方へ離反した真田昌幸とも十月に秀吉は同盟を結びます。④特に、徳川重臣石川数正の出奔が徳川に与えた衝撃は大きく、徳川軍の軍制や戦法等の軍事機密が秀吉方に漏洩したことになりますので、軍制改革に着手せざるを得なくなりました。また、石川数正岡崎城代だったため城の内部情報も漏洩したことになり、家康は岡崎城の改修を急ぐことになります。(平山優、p188)

 この他にも、秀吉は「本願寺法主より三河遠江一向宗門徒に呼びかけさせ、秀吉に味方すれば耕作は切り取り(年貢免除)とするとの条件で一向一揆を蜂起させる作戦」(平山優、p187)や、「「越後に武田信玄の息子御聖導殿(龍宝)という目の不自由な方とその子が匿われている。その武田父子を上杉景勝が支援して甲斐に帰国させる準備が進められている」」という噂を流す(この噂を流したのは真田昌幸)(平山優、p175~176)などの工作を行っています。

 このようにして、秀吉は工作により家康を追い詰めており、家康は窮地に立たされていました。

 

 この頃に、石田三成が行った東国政策を示すものとして、十月十八日付の真田重臣矢沢頼綱宛三成書状があります。以下、再掲します。

 

「◇これまで親しくやりとりをしたこともありませんでしたが、先程真田昌幸安房守)どのことは上杉家の使者から細かにうかがいました。関白殿(秀吉)の御耳にも達していますが、真田昌幸の思い通りで(構わない)と上杉家の使者に伝えています。A私は上杉家のお世話を担当しているので、今後は特に御用などをうかがっていきます。この(書状を携えてきた)使僧は、これから関東へ遣わされますので、念入りに送り届けて頂ければと存じます。Bさらにやがて関東から(秀吉のもとへ)のぼってくるであろう使者たちが(ご領内を)問題なく通過できるようにご配慮いただければと存します。そうした対応をとっていただければ、あなたのことを粗略にあつかうようなことはございませんので、御用などあれば仰ってください。ところで、九月十九日の天徳寺充て書状を拝見しました。(秀吉にも内容を)披露しています。詳しいことはこの使僧がお伝えすると思いますので、省略します。」(記号・下線筆者)(中野等、p31~32)

 

 Aにあるとおり、三成は上杉家の取次をつとめていますので、上杉傘下となった真田家の取次も今後三成がつとめていくことを知らせています。これより、三成は真田家の取次を担い、真田家と親密な関係を築いていくことになります。

 

 Bにあるように、三成と秀吉が地勢的に真田家を重視していたのは、真田家が信濃と上野沼田にまたがる領地を領有していたことが大きいと考えられます。反徳川・北条の北関東諸侯(佐竹・宇都宮等)との(沼田を経由した)連絡役を担う役割として、真田家は秀吉から重視されていたのです。

 

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 上記のような対家康への打倒体制が見直されることになったのが、十一月二十八日の天正地震でした。「天正地震は、豊臣秀吉の領国に甚大な被害が集中し、家康領国の被害が軽微だった点に特徴があ」(平山優、p190)り、地震による甚大な被害を受けた豊臣方は即時の即時開戦は困難になり、秀吉は対徳川の戦略の見直しをはからざるを得なくなることになります。

 

 参考文献

跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

白川亨『真説 石田三成の生涯』2009年、新人物往来社

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第16章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(2)

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 前回の続きです。(前回のエントリーは↓)

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 それでは、続きを見ていきます。

 

②「書状に拠らば

先度の「小田原の陣の頃」

【富田一白から政宗への書状】

「若し又御遅延に至りては一途之仁、御代官として指上せらる」

秀吉への平伏が遅れるなら強硬者(三成)を送るので覚悟せよ-と政宗は脅され」(『センゴク権兵衛㉒』)

 

 前述したとおり、豊臣政権「内」における「中央集権派VS地方分権派」の派閥対立は存在しないことについて説明しました。(「中央政権(豊臣政権)」と「地方大名」との対立・利害調整は当然ありえます。)

 上記の②の書状についても、豊臣政権内の「中央集権派VS地方分権派」の対立という誤った構図で読み解こうとすると、誤った理解をしてしまうことになります。

 

 上記の書状については、豊臣政権の(あるいは戦国大名の一般的な)外交方法が「和戦両様」であることと、「和戦両様」の構えの交渉をする際に有効なブラックな交渉術として知られる「良い警官、悪い警官」交渉術について理解する必要があります。

 

「和戦両様」とは、敵勢力と外交する際に、交渉で平和的に解決する可能性も、全面的な戦争となる可能性も、両方の可能性がある事を計算に入れ、どちらでもよいように準備しておき、交渉に臨むことです。戦国大名だからといって、必ず敵対勢力と戦争することによって自勢力の目的を達成するわけではありません。かといって、交渉が成功しなければ結局戦争となる訳ですから、戦争への準備を交渉の間にも怠らずに進めていく事が必要な訳です。

 こうして、戦国大名の外交交渉ルートには、「和」(平和交渉)のルートと「戦」(戦争準備)のルートの2つのルートが必然的に発生します。「和」のルートと「戦」のルートを同一人物が担当することはできませんので、この2つのルートは、それぞれ別の家臣が担当することになります。

 この時、豊臣政権において、対伊達交渉の「和」のルートを行ったのが、富田一白らでした。当時、伊達家とも敵対していた反北条勢力(佐竹・芦名・宇都宮等)との同盟交渉を担っていた石田三成増田長盛らはそのまま、対伊達の「戦」ルートを担うことになります。

 

「良い警官、悪い警官」とは、昔のドラマなどでよくあるパターンですが、警官が容疑者を自白に追い込む時などに使う手法で、まず「悪い警官」役が取り調べで容疑者に対して怒鳴りつけたり暴力をふるったりして散々ビビらせ、恐怖心を抱かせます。

 その後におもむろに「仏の〇〇さん」という優しい刑事(「良い警官」)があらわれて、「悪い警官」をなだめ、容疑者を優しく扱い、同情するようなことを言って説得を始める。「良い警官」を味方と思い信頼した容疑者は泣きながら自白を始める、という「交渉術」です。(応用パターンは色々あります。)

 しかし、この「良い警官」の手に相手が乗らず自白しなかった場合は、また「悪い警官」が出てきて容疑者を締め上げる訳ですね。

 上記の書状における、豊臣家臣の対伊達家取次・富田一白も、伊達政宗を懐柔するのに、この「良い警官、悪い警官」メソッドを駆使した訳です。ここで、富田一白は、自分たちの交渉に応じれば伊達家の安全と領地は保証されると「良い警官」を演じて伊達を懐柔する一方、「このまま我ら『和』のルートの交渉に乗らないと、(石田三成ら)『戦』(悪い警官)の担当ルートの出番になるぞ、そうならないうちに、我らの交渉に乗っておけ」と脅している訳ですね。

 上記で見た通り、富田一白らにしろ石田三成らにしろ、豊臣家中でそのような外交ルートを担う交渉役をあらかじめ秀吉に命じられて、それぞれの担当職務を仕事として行っているだけの話であり、彼ら秀吉家臣が、先に伊達政宗を個人的に敵視したり、親しく感じたりしている結果、そのような「和」や「戦」の交渉を勝手に行っている訳でもなんでもないということです。

 

③「「奥州叛乱」の頃にては

政宗書状】

石田治部少輔下向之由候間廿一日此方へ可相立候」

政宗は三成が来ると聞いて 急遽 一揆鎮圧を※六日早め 豊臣への忠誠を示している

※27日予定→21出立」(『センゴク権兵衛㉒』)

 

④「そして此度の「上洛」

政宗書状】

「我等不図罷登二付而 治少輔(三成)も 御登ときこえ申候 但いかゝ(いかが)いかゝ」

我らの上洛につき 三成も上洛とはいかがなもの- と政宗は苦言を呈す」(『センゴク権兵衛㉒』)

 

 しかし、現代でも同じかと思いますが、仕事や職務上で「敵対関係」になった人間に対して、人間は結果としてその後事情が変わったとしても、人間として個人的に敵意や警戒感を抱くものです。逆に、それが職務上・仕事上でやった事であったとしても、取り成してくれた人間に対しては感謝の意を抱き、信用するのが人情というものです。「仕事は仕事。個人は個人」と感情を切り分けられる人は(現代でも)ほとんどいません。

 前述したように、小田原参陣前の伊達政宗に対して職務上「戦」のルートの担当を担い、政宗と「戦う」準備を進めてきた三成ですが、その後、伊達政宗が小田原に参陣し豊臣家に臣従することに決した以上、これ以上対伊達の戦争準備を仕事として進める必要もなく、政宗を敵視する行動をする必要もなくなりました。

 前述した、その後の三成の伊達家への協力的な姿勢(伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う 」「伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り」)をみれば、三成が過去の経緯にとらわれて、個人的に過去の「敵意」を引き摺るような人物ではない事は明らかです。

 しかし、このように仕事上の過去の経緯であったしても、その時に敵対的な業務を行えばその人物に対して敵対的感情を普通の人間は抱いてしまうものですし、その後事情が変わったとしても、過去の敵対感情を水に流してしまうような人間は実際には少ない訳です。三成は珍しい人物といってよいかと思われます。

 このため政宗は、小田原参陣以後も「三成は相変わらず政宗に対して『敵意』を抱き続けている」と思い込んでおり、三成に対して警戒を解いていないことが③、④の政宗書状から分かるのです。ここで重要なのは、③、④の書状は、この時期の政宗が三成に対してどう思っていたのかについては伺い知る事ができる史料にはなりますが、当時の三成が政宗をどう思っていたかを示す史料にはならないということです。

「自分が思っている同じ事を、相手も思っているだろう」という「勘違い」というのは人間にはよくある思い込みですが、それはただの「勘違い」であり、事実ではありません。

 政宗が秀吉に臣従する前に、三成が「対伊達」の「戦」のルートの担当をしていたことから始まる政宗の三成に対しての警戒感は、その後も容易に解消されるものではなく、三成が時間をかけて解消していく必要のあるものであったという事です。その後、三成の政宗に対する協力的な働きかけがあったことにより、慶長年間頃には両者は親密な関係を結んでいる訳です(伊達政宗と石田三成について(1)」等参照)。

「取り成し」によって人望を集めた、三成の(意外な)「人たらし」としての才の側面が垣間見えるものといえるでしょう。

 

※ 参考エントリー

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 参考文献

宮下英樹センゴク権兵衛㉒』講談社ヤンマガKC)、2021年

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第15章 なぜ、(実際には違うが)石田三成は伊達政宗を「敵視」していたと誤解されるのか?(1)

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1.石田三成伊達政宗との関わりについて

 石田三成伊達政宗との関わりについて、以下について書きます。

 なんか、対徳川家康と同じパターン(石田三成徳川家康との関わりは「「最初から家康は石田三成と仲が悪かったのか?」」参照)になってしまいますが、三成は東国政策で豊臣政権が関東の北条家と対立していた頃から、北条家に対抗するために佐竹家・芦名家等の北関東・南陸奥諸侯と同盟交渉を行っていたので、それら北関東・南陸奥諸侯と敵対していた伊達政宗は、自動的に対抗すべき敵になってしまった訳です。

 だから、石田三成伊達政宗を「敵視」していたという訳ではありません。「敵視」ではなくて、当時伊達政宗は明確に豊臣の「敵」だったということです。

 小田原陣の時に伊達政宗は、遅れたものの小田原に参陣して許されます。その後は伊達家は豊臣家に臣従する訳ですので、もはや豊臣の「敵」ではないし、当然三成の「敵」ではありません。敵ではないのだから「敵視」もしないことになります。

 天正十九(1591)年九月、伊達政宗一揆を起こした大崎・葛西の旧領への転封を命じられます。この転封は、政宗が大崎・葛西一揆に加担した疑いをかけられた事による懲罰的な意味合いが含まれたものでした。居城の移転をしなければいけない政宗を三成は気遣い、移転について積極的な協力を申し出ます。

 詳細については、以下のエントリー参照。↓

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 豊臣秀次事件が起こった時に、伊達政宗が急便を送らせ頼ったのも石田三成でした。この書状を受け、三成は「預飛札本望二存候」と返しています。

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 慶長三(1598)年七月一日付の石田三成伊達政宗書状には、「三成とは奥底から意思を通じ合いたい(「奥底懇に可得貴意候」)」とあり、三成と政宗は親密な関係にあったことが分かります。

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 また、伊達政宗石田三成といえば、慶長四(1599)年二月九日に大坂屋敷で行われたワインパーティの話が有名です。

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 伊達政宗石田三成との親密な関係を長々と紹介しましたが、何を言いたいかというと、つまり豊臣臣従後の伊達政宗石田三成が「敵視」したというのは、端的に言って誤りだということです。

 誤りであるにも関わらず、いまだに「豊臣臣従後の伊達政宗石田三成が「敵視」していた」という誤説がでてくるかについて、以下に考察してみたいと思います。

 

2.『センゴク権兵衛㉒』における伊達政宗石田三成描写の感想

 

 なぜ、上記のような文章を書いているかというと、先程読了した『センゴク権兵衛㉒』が、まさにこの誤説を前提とした物語の展開をしており、更になぜこのような「誤説」が流布されたのかの手がかりも与えてくれているからです。以下に記述します。

 

 宮下英樹氏の『センゴク権兵衛㉒』に、伊達政宗石田三成を警戒・敵視した描写が描かれています。以下、引用します。

 

前置きとして 政宗は奉行衆の とりわけ「石田三成」を警戒していた

 豊臣政権の秩序を求める〝一途之仁〟たる三成は「中央集権」を志向し

 一方 野心を秘める政宗は「※戦国大名的独立」を志向する。

  ※地方分権の意。

是は両儀相容れない価値観であった・・・・」

 

②「書状に拠らば

先度の「小田原の陣の頃」

【富田一白から政宗への書状】

「若し又御遅延に至りては一途之仁、御代官として指上せらる」

秀吉への平伏が遅れるなら強硬者(三成)を送るので覚悟せよ-と政宗は脅され」

 

③「「奥州叛乱」の頃にては

政宗書状】

石田治部少輔下向之由候間廿一日此方へ可相立候」

政宗は三成が来ると聞いて 急遽 一揆鎮圧を※六日早め 豊臣への忠誠を示している

※27日予定→21出立」

 

④「そして此度の「上洛」

政宗書状】

「我等不図罷登二付而 治少輔(三成)も 御登ときこえ申候 但いかゝ(いかが)いかゝ」

我らの上洛につき 三成も上洛とはいかがなもの- と政宗は苦言を呈す」(番号は筆者、宮下英樹センゴク権兵衛㉒』講談社ヤンマガKC)、2021年)

 

 上記の個所についてのコメントを述べます。

 

①「前置きとして 政宗は奉行衆の とりわけ「石田三成」を警戒していた

 豊臣政権の秩序を求める〝一途之仁〟たる三成は「中央集権」を志向し

 一方 野心を秘める政宗は「※戦国大名的独立」を志向する。

  ※地方分権の意。

是は両儀相容れない価値観であった・・・・」

 

 三成ら奉行衆を「中央集権」派とし、伊達政宗及び親伊達派(徳川家康前田利家浅野長政)らを「地方分権」派とする区分けは、当時の呼称として不正確なものであるだけでなく、以下に述べるように、この区分分けそのものが不正確であり誤解を招くものです。

 

 織豊・徳川時代には「中央集権」国家は存在しませんし、それを目指した派閥(「中央集権」派等)も存在しません。織豊・徳川時代の国家は「封建国家」です。封建国家とは、大名・諸侯が地方権力の領主としてその地方を支配する権限を与えられ、中央政権はその地方領主連合の長としての存在でしかない国家のことです。織田・豊臣・徳川時代(それ以前の鎌倉・室町時代も含め)を通じて、日本は「封建国家」であり、「中央集権」国家が形成されたことも、またそれが目指されていたこともありません。

「中央集権」国家とは、地方の統治には中央政権から「知事」等が派遣され、「知事」には地方領主としての権力はなく、ただ中央政権から統治のみを任され派遣された役人・官職に過ぎないという体制のことです。(その官職も任期が終われば終了であり、世襲されることもありません。)

 

 では、豊臣政権が目指したものは何だったのか?これは、「考察・関ヶ原の合戦 其の二十 太閤検地とは何か? 」で書いたとおり、(中央集権国家ではなく)「大名集権」国家です。

 戦国時代において、戦国大名の領地の統治権力は強いものではなく、実質戦国大名は支配領域の国衆・小領主の盟主的存在にすぎませんでした。このような、国衆・小領主は大名の家臣といっても独立性が高く(このため、純粋な「家臣」とは言えないのかもしれません)、大名に不満を持てば、機会を見て反抗・反逆しますし、大名同士で戦争が起こり、これはもう負けそうだと見ると、雪崩をうって大名を裏切り見捨てるような存在です。

 こうした支配力の弱い大名の支配体制では、ふとした不満や遺恨がきっかけで、すぐに大名家内部での御家騒動に発展し、争乱になってしまいます。武士は、皆武装した軍事集団ですので、武家の「御家騒動」とはすなわち「戦」という事です。

 これでは、豊臣公儀が目指す「惣無事」にもなりませんし、「天下静謐」にもなりません。天下を静謐にするには、大名がその支配領域では家臣団とは隔絶した強大な権力を持ち、家臣が大名に逆らうことのないように上から統制し、「御家騒動一揆=内戦」などが行われることがないようにしないといけません。

 このため、豊臣政権は「惣無事」政策として、太閤検地を推進して大名権力の強化(「大名集権」)をはかることになります。

 

 秀吉の指令により、この「大名集権」政策を推進したのが、石田三成ら「奉行衆」です。(当然、この中には「奉行衆」である浅野長政も含まれます。)これは当然主君である秀吉の命令で行っていることです。彼らは秀吉の命令で政策を行っている訳ですから、たとえば、豊臣政権内に「中央集権派(この呼称自体が間違いですが)」と「地方分権」派があり、この相容れぬ二派の頂点に君主秀吉がいるという政権構図は明らかな間違いです。豊臣秀吉は、政権運営において自らの明確な政策の意思を持ちその実現を強力にはかっていく「独裁型君主」であり、日本ではよくあるような、部下の「〇〇派」と「〇〇派」のバランス・調整をとることで政権をコントロールするような「調整型君主」ではありません。

 秀吉をこのような「調整型君主」と誤解してしまうと、豊臣政権そのものを誤って理解してしまう危険性があります。

 秀吉その人が「大名集権」政策の推進者であり、奉行衆は秀吉の命令に従って動いているにすぎませんので、「中央集権派(大名集権派?)」なる派閥自体が存在しません。

 あえて区分しないと気が済まないなら、「豊臣政権」と「地方大名(伊達・徳川・前田他)」との対立・調整ということになるでしょうか。地方大名は独自の地方権力を持っている訳ですから、それを中央政権(豊臣政権)から干渉されれば、反発することは当然ありうることです。ただし、その地方大名への干渉をしているのは豊臣政権の独裁者である秀吉本人な訳であり、豊臣政権内には派閥対立は存在しない訳です。

 

 地方大名たる伊達政宗は、実際には、このような秀吉の「大名集権」政策に反発し、近世的大名(「大名集権」を果たした大名)に脱皮することを拒否し、「中世的大名=国衆連合の長程度の権力の大名」に留まりたいのが本音だったのかもしれませんが、豊臣政権の傘下の大名になるということは、「近世的大名」に脱皮せよというのが秀吉の指令だった訳であり、この指令に耐えられない大名は、秀吉から「大名失格」とみなされ、改易されても仕方ない過酷な指令といえました。

 

 つまり、秀吉の伊達政宗をはじめ傘下の大名に対して「改易するか」か「取り立てる」かの基準は、「中世的大名(国衆連合の長)」から「近世的大名(家臣・国衆を統制して、一揆・反乱などを起こさせない強力な大名)」に脱皮できるかを、判断基準としている訳です。

 秀吉が、伊達政宗一揆の起こった(政宗自身が扇動したと疑われる)旧大崎・葛西領へ転封したのも、「自分の支配地域で、一揆など起こさせない強力な近世的大名に脱皮せよ」と政宗に課題を押し付けた訳で、この課題を解決する能力がないと秀吉がみなせば、政宗は秀吉によって改易のうきめにあうことになります。

政宗が上洛した、親伊達派の取り成しによって許された、あるいは政宗が秀吉のお気に入りなので許された」、等により政宗が許された、といった単純な話ではなく、秀吉は政宗に「テスト」を仕掛けているのであり、政宗に対する「テスト」は政宗上洛後もずっと続いている訳です。

 また、はじめから秀吉は政宗を「テスト」にかけるつもりだったので、政宗を許すのはそもそも秀吉政権(石田三成ら奉行衆も含む)にとっても既定事項であり、これに秀吉の配下である奉行衆が反発することもありえません。

 

 政宗が、この秀吉の「大名集権」政策に反発し続けるならば、「是は両儀相容れない価値観であった」ことになり、結果伊達家は改易ということになりますが、これは政宗「秀吉と相容れない」結果ということになります。(「三成ら奉行衆と相容れない」ということではありません。)実際には、伊達家は豊臣政権から改易されなかった史実をみれば、秀吉による伊達政宗へのテストの採点は一応「及第点」だったのでしょう。

 (2)に続きます。((2)は以下です。↓)

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 参考文献

宮下英樹センゴク権兵衛㉒』講談社ヤンマガKC)、2021年

石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い

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石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い

 のページです。

(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事) 

 

一月 ★秀吉、「近江の坂本まで出てきて、信雄と三井寺で会見」(小和田哲男、p122)する。

三月六日 ★「織田信雄が親秀吉派の重臣・津田雄光ら(筆者注:津田雄光・岡田重孝・浅井長時)を殺害する。その後、徳川家康とともに挙兵する(小牧・長久手の戦い開始。)(柴裕之、p185)(柴裕之、p78)

三月七日 ★織田信雄、土佐の香宗我部親泰(長宗我部元親家臣)に書状を送る。秀吉方についた家臣を成敗した内容が書かれている。(小和田哲男、p123)

三月十三日 ★徳川家康尾張清須城に着き、信雄と対面。作戦会議を開き、陣城の構築を指示する。(柴裕之、p80)(小和田哲男、p123)

三月十三日 ★秀吉方の池田恒興尾張犬山城を攻略。(小和田哲男、p129)

((柴裕之、p80)では、三月十四日になっています。)

三月十四日 ★秀吉方の蒲生氏郷堀秀政、伊勢の信雄方の峰城を攻略。(小和田哲男、p130)

三月十五日 ★森長可池田恒興の女婿)、兼山城を出る。(小和田哲男、p130~131)

三月十五日 ★家康家臣の酒井忠次小牧山に本陣を置く。(小和田哲男、p131)

三月十五日 ★「毛利氏の使僧であった安国寺恵瓊は(一五三七?-一六〇〇)は、秀吉の命を受けて豊後大友氏のもとに使者として赴き、島津義久にも書状を出して、秀吉と毛利氏の和睦が成立したことを伝え、秀吉が鷹を所望していることを伝えている(旧)。この時点で毛利氏が豊臣政権に取り込まれたこと、そして安国寺を介して秀吉と大友氏が繋がったことを、義久に正式に知らされたのである。

 なお、この時大友宗麟は、安国寺恵瓊に対して、秀吉に天下三肩衝のひとつ「新田肩衝」と天下の四茄子茶入のひとつ「似たり茄子」(百貫茄子)を献上している(尾下成敏二〇一〇年)。」(新名一仁、p195)

三月十六日 ★秀吉の弟、秀長、伊勢松ヶ島城を攻める。(小和田哲男、p130)

三月十六日 ★森長可、兵3000で、犬山城の南の羽黒近く八幡林のあたりまで出てくる。(小和田哲男、p131)

三月十七日 ★酒井忠次松平家忠・奥平信昌ら5000の兵を率いて、八幡林の長可を急襲。長可は羽黒に退いたが、そこでさらに攻撃を受け敗走した(羽黒の戦い)。(小和田哲男、p131)

三月十九日 ★秀吉の弟、秀長によって、伊勢松ヶ島城が開城。(小和田哲男、p124)

三月二十日 ★佐竹義重、「秀吉へ「遠境候共無二可申議候」と同盟の再確認の意思を述べ(「紀伊風土記」『大日本史』11-14、八〇頁)、黄金二〇両を進呈する」(立花京子、p235)

三月二十一日 ★羽黒の戦いの敗報を聞いた秀吉、大軍を率いて大坂城を出発。(小和田哲男、p132)((柴裕之、p80)では、三月十日となっています。)

三月二十二日 ★反秀吉方である根来・雑賀衆が秀吉出陣の報を聞き、動き出す。岸和田ではげしい戦いがくり広げられる。(小和田哲男、p133)

三月二十四日 ★粂田で根来・雑賀衆と秀吉方の合戦。(小和田哲男、p134)

三月二十四日 ★島津・有馬連合軍、沖田畷の戦いで龍造寺軍を破る。龍造寺隆信戦死。(新名仁、p140~142)

三月二十四日 ★秀吉、岐阜に到着。(小和田哲男、p132)

三月二十五日 ★家康、下野の皆川広照に秀吉を糾弾する書状を送る。この書状には、羽黒の戦いの勝利が喧伝されている。(小和田哲男、p123)

三月二十六日 ★根来・雑賀衆が大坂まで攻め入り、大坂が大混乱となる。その後、大坂を守る中村一氏蜂須賀家政黒田長政宇喜多秀家勢が反撃に転じ、追い戻すことに成功した。(小和田哲男、p134)

三月二十六日頃 徳川方だった信濃木曽義昌が羽柴方に転じる。(平山優、p118)

三月二十六日 「秀吉は佐竹義重に書を送って、伊勢・伊賀を平定し、犬山城をぬき、明日、清須に家康を攻めるので、もし家康が出てくるにおいては、一戦をとげ、討ち果たすべしなどと広言している。もっとも、秀吉が言いたかったのは、木曽義昌上杉景勝の両名は、秀吉に対し無二の入魂であるので、この二人に連絡の上、家康征伐に動くことが肝要である、というところにあったはずである。景勝・義重らを動かして、はるかに、家康の背後を討たせようとするのであった。」(児玉彰三郎、p69)(関連:中野等、p79)

三月二十七日 ★秀吉、犬山城に到着。陣城の構築を指示。(小和田哲男、p132)(柴裕之、p80)

三月二十八日 ★秀吉、家康の本陣である小牧山の東わずか約2.2キロの楽田を本陣とし、家康と対峙。(小和田哲男、p132)

三月 ■「景勝は、秀吉の使者として舟岡源左衛門尉を上洛させて修好を深めているが、この際にも三成が木村吉清・増田長盛とともに応接している。」(中野等、p22)①

四月一日 ★「越中侵攻を告げた上杉景勝に対し、佐竹義重は軍事行動は何より秀吉の指示を得るべきだとし、義重も秀吉とは親密(「無二」)な関係にあるので、万一の場合にも安心するように、と書き送っている。」(中野等、p79)

四月二日 ★四月二日付で信雄が家臣の吉村氏吉に与えた文書に、雑賀勢が二万丁の鉄砲を装備して大坂を攻め「勝利」したことが書かれている。(小和田哲男、p134)

四月六日 ★三好信吉(羽柴秀次)、池田恒興・元助、森長可堀秀政ら率いる1万6千の軍が三河へ向けて進軍。(小和田哲男、p137)((柴裕之、p80)では2万4千となっています。)

四月八日 ★三好信吉らの軍勢は、徳川方の尾張岩崎城を攻略。(柴裕之、p80~82)

四月九日 ★「長久手の戦いが起こり、(筆者注:秀吉軍が)徳川家康の軍勢に破れ、羽柴方の池田恒興森長可らが戦死する。」(柴裕之、p185)(小和田哲男、p139)  「

四月二十日 ■「『宇野主水日記』天正十二年四月二十日条から確認されるように。三成や増田長盛らも秀吉の陣所(尾張国犬山)にあったが、先の陣立書には名前を確認することができない。三成や長盛のつとめは秀吉に近侍することであり、軍勢を率いて戦闘にあたる立場にはなかったからであろう。」(中野等、p23)②

四月二十三日 ★北条氏直から家康宛に長久手の戦勝を祝う書状が送られている。(小和田哲男、p138~139)

五月一日 ★秀吉、楽田から撤退。ただし、一部の軍が撤退しただけであり、主力部隊はそのまま残ったため、にらみ合いはなお続いた。(小和田哲男、p140)

五月四日 ★秀吉、細川忠興を先鋒の将として加賀井重宗の守る美濃加賀井城(信雄の支城)を攻め、これを落とす。(小和田哲男、p141)

五月六日 ★秀吉、不破広綱の守る美濃竹ヶ鼻城(信雄の支城)を攻める(小和田哲男、p141)

五月十一日 ★竹ヶ鼻城攻めを水攻めにきりかえる。(小和田哲男、p141)

五月 ★「北国越中では、佐々成政が信雄・家康に呼応する動きを開始し、五月には上杉景勝との連携を模索する。秀吉方の前田利家上杉景勝にはさまれたままでは、思うままに動くことができないと、成政は判断したのであろう。」(中野等、p23)㋐

五月から七月 沼尻合戦。(佐竹・宇都宮・佐野氏らの北関東の反北条勢力と北条氏との戦い。「この合戦は紆余曲折の末、北条軍が戦局を優位に進めたうえで和睦している。」(平山優、p111)しかし、この沼尻の長陣は、北条氏を関東に釘付けにさせる重大な影響を及ぼしました。

六月四日 ★秀吉、佐竹義重に「書を送り、景勝・義昌は秀吉と入魂であるので、安心して北条氏直を攻略すべきことをすすめている。」(児玉彰三郎、p69)

六月十日  ★竹ヶ鼻城の不破広綱、秀吉に降伏。(小和田哲男、p142)

六月十一日 ★「上杉景勝は、成政の誘いに応じなかったが、こうした事態をうけて、秀吉は景勝に対し、証人(人質)の上洛要請を要求する。成政の動きを警戒せざるをえず、秀吉は景勝の去就を確かめる必要があった。六月に景勝は一門の上条政繁上杉謙信の養子。当時は入道して「宜順」と号していた)の子義真を自らの養子に迎え、秀吉の許へ送った。」(中野等、p23)㋑「六月十一日、景勝は証人を上方へ差し登すについて、上条宜順の軍役ならびに諸役を停止した。」(児玉彰三郎、p70)

六月十二日 ★家康、秀吉が大坂に戻り始めたことを受け、小牧山酒井忠次に任せ、自らは清須城に入る。(小和田哲男、p142)(柴裕之、p82)家康、羽柴方となった滝川一益尾張蟹江城を攻撃。(柴裕之、p82)

六月十三日 ★秀吉、岐阜城に立ち寄る。(小和田哲男、p142)

六月二十日 ★東義久(佐竹一門)は、秀吉宛書状に佐竹義宣北条氏直の長陣に勝負を決する所存を秀吉に報告している。(立花京子、p236)「北条氏軍を小牧・長久手の戦いでの家康救援に向かうことを阻止していたのは、まさしく秀吉・北関東同盟の効力によるものであった。」(立花京子、p236)

六月二十八日 ★秀吉、大阪城に戻る。(小和田哲男、p142)

七月三日 ★家康、尾張蟹江城の滝川一益を降伏させた。(柴裕之、p82)

この頃 ★「家康は同盟関係にある相模北条氏に援兵の派遣を求めた。だが北条氏は、秀吉に従う常陸佐竹氏をはじめとした北関東の大名や国衆と下野国沼尻(栃木県栃木市)で対峙しつづけ、援軍の派遣は果たせずにいた。」(柴裕之、p82)

七月七日 信濃小県郡室賀正武、家康の命により密かに真田昌幸暗殺をはかろうとするが、発覚して逆に暗殺される。(平山優、p147~148)

七月八日 東義久・梶原政景(佐竹家臣)宛ての秀吉書状では、秀吉は「対信雄・家康戦が優勢のうちに推移していることを詳述している。」(立花京子、p236)

七月十一日 ■上杉景勝からの証人(人質)である義真の上洛を受け、一旦尾張から帰陣していた秀吉は、七月十一日付で景勝宛に証人の上洛を告げる書状を発する。(中野等、p24)「同日付で三成・木村吉清・増田長盛の三名も直江兼続(山城守)に充てた連署状を送り、秀吉が証人の上着をことのほか喜んでいることを告げている。」③(中野等、p24)

八月十六日 ★秀吉、ふたたび大軍を率いて大坂城を出発、尾張に向かう。(小和田哲男、p142)((柴裕之、p82)では八月二十六日になっています。)

八月十八日 ★「秀吉は、上杉景勝に「貴慮之御手柄故、彼凶徒即時ニ如此之段、御勇武不申足候」と述べて、上杉氏が上州境目まで兵を出したことにより、佐竹・北条対戦の長陣に決着がついたことを深謝している(中略)さらに、将来行うであろう出馬について秀吉は、「併御方申談東国於令発向者、彼滅亡不可廻踵候条、可被任御存分儀眼前候事」と述べて、それが北条氏の望む上杉氏の意に沿うであろうことも告げている。佐竹氏も北条氏の北関東侵攻対策として、景勝の援助を依頼していた。」)(立花京子、p236)㋒

八月二十六日 ★八月二十六日付で家康が郷村からの百姓に対する総動員命令書が発せられている。(小和田哲男、p143)

八月二十七日 ★秀吉は、遅くとも八月二十七日には楽田に入っている。(小和田哲男、p142)

八月二十八日 ★秀吉、陣地を楽田から「こほり筋」に移した。家康も清須から出陣し、岩倉城に入る。(小和田哲男、p144)

八月 秀吉が美濃の駒野城を攻めたときの陣立て注文の鉄砲衆に、鈴木孫一雑賀衆の中心メンバーの一人)の名前がある。(小和田哲男、p134)

九月二日、六日 ★双方の停戦の交渉が行われた。(小和田哲男、p144)

九月七日 ★停戦の交渉が打ち切られた。家康は重吉に本陣を映している。(小和田哲男、p144)

九月九日 ★佐々成政は前田方の末森城を攻めるが、上杉・前田の軍勢に挟撃されて、結局は苦戦を強いられることになる。」(中野等、p24)㋓(児玉彰三郎、p72)

九月十五日 ★秀吉、蒲生氏郷に命じ信雄家臣の木造氏の守る伊勢戸木城を攻めさせ、これを陥落させる。(小和田哲男、p145~146)

九月 ★「足利義昭毛利輝元は、天正十二年(一五八四)九月の時点で、島津義久に出陣を求め、龍造寺・秋月氏と共に大友氏包囲網を築こうとしていた。」(新名一仁、p194)

九月 ★「秀吉からの所望により、大友家の家宝「吉光骨啄刀(よしみつほねはみとう)」(粟田口吉光の作刀と伝えられる名刀)も(筆者注:大友宗麟より秀吉へ)献上されている(大友家文書)。」(新名一仁、p195)

十月二日 ★秀吉、はじめて叙爵され、従五位下・左近英衛権少将に任じられた。(小和田哲男、p148)

十月~十一月 ★「織田信雄の領国である南伊勢を攻略し、さらに信雄居城の伊勢長島城の近辺の桑名に進軍する。」(柴裕之、p185)

十一月六日 ★秀吉、信雄の居城・伊勢長嶋城の近辺にまで進軍。(柴裕之、p83)

十一月十二日 ★秀吉、「織田信雄と講和する。(実質的には信雄の降伏承認。)直後に家康とも講和し帰国する(小牧・長久手の戦い終結。)」(柴裕之、p185)((小和田哲男、p147)(児玉彰三郎、p73)では、十一月十五日となっている。)

十一月十六日 ★家康も秀吉との講和に応じた。(小和田哲男、p147)「家康は、二男の於義丸を秀吉に差し出している。これは、名目上は養子という形をとっているが実質は人質である。」(小和田哲男、p147)((中野等、p25)では、十二月となっています。これは、実際に降伏の証として、家康が息子の秀康を送り出したのが十二月十二日(跡部信、p211)であることによることによると思われます。)

十一月二十七日 ■「十一月二十七日の日付をもつ「江州蒲生郡今在家村検地帳に尼子六郎左衛門・石田左吉・宮木長次・豊田竜介・森浜吉と署名が残っており、」(中野等、p25)この時期、三成が近江国内の検地に関わっていたことが分かります。(中野等、p25)④

十一月末 ★佐々成政越中より雪深い峠を越え、家康のいる浜松を目指す。(児玉彰三郎、p73)

十一月二十八日 ★秀吉、「従三位権大納言となり、官位でも(筆者注:当時、正五位左近衛中将にあった)織田信雄を凌駕する。」(柴裕之、p185)(柴裕之、p84)((小和田哲男、p148)では、十一月二十二日となっています。)((中野等、p24)では、十月となっています。)

十二月十二日 ★家康、息子の義伊(秀康)を浜松から秀吉の許へ送り出す。(跡部信、p211)

十二月十五日 ★秀吉、上杉景勝家臣の須田満親に「書を与え、このたびの佐々成政の反逆にさいし、速やかに景勝が出馬し、堺城を攻略した功績は比類ないものであるともちあげ、尾勢では、信雄・家康の懇望により、和議を結んだことを伝え、いずれも、人質として実子をとっておいたと報じている。」(児玉彰三郎、p73)㋔

十二月二十五日 ★佐々成政、浜松で家康と面会、再挙を促すも家康に断られる。(児玉彰三郎、p73)

十二月二十六日 ★義伊(秀康)、大坂に到着する。(跡部信、p211)

 

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 天正十二(1584)年(三成25歳の頃)は、小牧・長久手の戦いに代表される、羽柴秀吉織田信雄徳川家康との戦いが起こった年です。

小牧・長久手の戦いは、三月六日に織田信雄が親秀吉派の重臣・津田雄光らを殺害し、徳川家康とともに挙兵したことから始まり、十一月十二日(十五日)に織田信雄が秀吉に事実上降伏することにより終わりました。

この戦いは、ただ秀吉派と信雄・家康派の戦いであるにとどまらず、周囲の大名もいずれかの陣営について戦い、関ケ原の戦いにも比肩する「天下分け目の戦い」とみられるような大規模な戦役でした。(藤田達生、p1)この二派を分けると以下のようになります。

 

羽柴秀吉

羽柴秀吉畿内・中国地方)、毛利輝元(中国地方)、宇喜多秀家備前・美作)、筒井順慶(大和)、細川忠興(丹後)、丹羽長秀(越前・加賀)、堀秀政(近江)、前田利家(加賀・能登)、池田恒興(美濃)、木曽義昌信濃)、上杉景勝(越後)、佐竹義重常陸)等

 

織田信雄徳川家康

織田信雄尾張・伊勢・伊賀)、徳川家康(甲斐・駿河遠江三河信濃)、長宗我部元親四国地方)、雑賀・根来衆等(紀伊)、佐々成政越中)、小笠原貞慶信濃)、北条氏政(関東地方)等

 

 四月九日の長久手の戦いの徳川の勝利がクローズアップされることが多い小牧・長久手戦役ですが、長久手の戦いは緒戦における局地戦にすぎず、自らの要の城をいくつも秀吉に落された織田信雄は最終的に降伏を余儀なくされ、徳川家康も人質(息子の秀康)を秀吉の許に送って講和するより他ありませんでした。結局、全体の戦いとして勝利したのは秀吉だったといえます。しかし、この時点でなぜここで秀吉は信雄・家康を完全に滅ぼす選択を選ばず、講和による限定的勝利でおさめることにしたのでしょうか。

 それは、信雄・家康だけでなく、長宗我部、雑賀・根来衆、佐々、北条等の信雄・家康に与する諸侯が各地で秀吉派を脅かしており、軍を一方面に集中させておくのも危険が高く、また多方面に向けて同時に軍を分派して長時間派遣するのも消耗も激しかったためだと考えられます。このため、秀吉は信雄・家康と秀吉に有利な条件で一旦講和を結んだ後、信雄・家康に与していた各地の勢力を個別撃破していく作戦に切り換えたと考えられます。この秀吉の作戦は翌年(天正十三(1585)年)から展開されることになります。

 

 外交戦において、秀吉は特に徳川・北条同盟に対抗するために、上杉及び佐竹等北関東諸侯との同盟を強化し、上杉及び佐竹等北関東諸侯に徳川・北条の背後を突かせるよう工作を行うことになります。佐竹等北関東諸侯と沼尻で長陣を余儀なくされ、上杉の出兵も警戒しなければならなくなった北条は、徳川の救援を向かうことを阻止されることになります。また、立花京子氏は「この時点で北条氏は秀吉にとってすでに「凶徒」であったことに注意すべきである。」(立花京子、p236~237)としています。

 

 この年の小牧・長久手の戦いの頃、石田三成は、以下にあるように秀吉の陣所にあり、秀吉に近侍していました。

四月二十日 ■「『宇野主水日記』天正十二年四月二十日条から確認されるように。三成や増田長盛らも秀吉の陣所(尾張国犬山)にあったが、先の陣立書には名前を確認することができない。三成や長盛のつとめは秀吉に近侍することであり、軍勢を率いて戦闘にあたる立場にはなかったからであろう。」(中野等、p23)②

 

 しかし、以下の記述にあるように「十月の後半以降は、秀吉自身が北伊勢の各地を移動しており、三成も行動を共にしていたわけではなさそうである」(中野等、p25)ようです。

 

十一月二十七日 ■「十一月二十七日の日付をもつ「江州蒲生郡今在家村検地帳に尼子六郎左衛門・石田左吉・宮木長次・豊田竜介・森浜吉と署名が残っており、」(中野等、p25)とあるように、この時期、三成が近江国内の検地に関わっていたことが分かります。(中野等、p25)④

 

 この年に石田三成が秀吉家臣として果たした重要な役割として、上杉との同盟強化があります。

 以前より主に対柴田勝家対策として上杉家との同盟を進めてきた秀吉ですが、この年の五月に織田信雄徳川家康派についた越中佐々成政が、同じ頃上杉家にも織田・徳川派につくようにはたらきかけており、秀吉としては上杉家がどちらの派につくのか、去就をはっきりさせる必要がありました。前年(天正十一(1583)年より、上杉の取次を務めていた増田長盛・木村吉清・石田三成ですが、この年(天正十二(1584)年)、上杉の証人(人質)として景勝の甥(養子)の義真を上洛させることで、羽柴家・上杉家の同盟を強化し、上杉家を織田・徳川・北条派に対抗させることに成功しました。

 これにより、関東の北条氏政・氏直は上杉及び佐竹等北関東諸侯と対峙せねばならず、徳川の援兵に動くことができなくなりました。また、越中佐々成政上杉景勝前田利家に東西から挟まれ苦戦を余儀なくされることになります。

 以下にこの年に行った羽柴家と上杉家との交渉の経過と、上杉景勝らの動向について年表より抜粋します。

 

三月 ■「景勝は、秀吉の使者として舟岡源左衛門尉を上洛させて修好を深めているが、この際にも三成が木村吉清・増田長盛とともに応接している。」(中野等、p22)①

 

五月 ★「北国越中では、佐々成政が信雄・家康に呼応する動きを開始し、五月には上杉景勝との連携を模索する。秀吉方の前田利家上杉景勝にはさまれたままでは、思うままに動くことができないと、成政は判断したのであろう。」(中野等、p23)㋐

 

六月十一日 ★「上杉景勝は、成政の誘いに応じなかったが、こうした事態をうけて、秀吉は景勝に対し、証人(人質)の上洛要請を要求する。成政の動きを警戒せざるをえず、秀吉は景勝の去就を確かめる必要があった。六月に景勝は一門の上条政繁上杉謙信の養子。当時は入道して「宜順」と号していた)の子義真を自らの養子に迎え、秀吉の許へ送った。」(中野等、p23)㋑

 

七月十一日 ■上杉景勝からの証人(人質)である義真の上洛を受け、一旦尾張から帰陣していた秀吉は、七月十一日付で景勝宛に証人の上洛を告げる書状を発する。(中野等、p24)「同日付で三成・木村吉清・増田長盛の三名も直江兼続(山城守)に充てた連署状を送り、秀吉が証人の上着をことのほか喜んでいることを告げている。」(中野等、p24)③

 

八月十八日 ★「秀吉は、上杉景勝に「貴慮之御手柄故、彼凶徒即時ニ如此之段、御勇武不申足候」と述べて、上杉氏が上州境目まで兵を出したことにより、佐竹・北条対戦の長陣に決着がついたことを深謝している(中略)さらに、将来行うであろう出馬について秀吉は、「併御方申談東国於令発向者、彼滅亡不可廻踵候条、可被任御存分儀眼前候事」と述べて、それが北条氏の望む上杉氏の意に沿うであろうことも告げている。佐竹氏も北条氏の北関東侵攻対策として、景勝の援助を依頼していた。」)(立花京子、p236)㋒

 

九月九日 ★佐々成政は前田方の末森城を攻めるが、上杉・前田の軍勢に挟撃されて、結局は苦戦を強いられることになる。」(中野等、p24)㋓

 

十二月十五日 ★秀吉、上杉景勝家臣の須田満親に「書を与え、このたびの佐々成政の反逆にさいし、速やかに景勝が出馬し、堺城を攻略した功績は比類ないものであるともちあげ、尾勢では、信雄・家康の懇望により、和議を結んだことを伝え、いずれも、人質として実子をとっておいたと報じている。」(児玉彰三郎、p73)㋔

 

※ 参考エントリー↓

考察・関ヶ原の合戦 其の三 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交①三成、外交官デビュー 

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

藤田達生「はじめに」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

跡部信「秀吉の人質策-家臣臣従策を再建とする-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

立花京子「乱世から静謐へ-秀吉権力の東国政策を中心として-」(藤田達生編『小牧・長久手の戦いの構造 戦場編 上』岩田書院、2006年所収)

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望ー天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年