考察・関ヶ原の合戦 其の十六 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか?~②関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何かの続き1
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※前回のエントリーです。↓
では、関ヶ原の戦いをめぐる3派閥のうち、「徳川派」とは?の続きを書きます。
再掲します。
A.徳川派(東軍)
② 徳川(秀吉の生前からの)縁戚:(池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)
③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、黒田長政、加藤清正(北政所派?→東軍)
④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎・浅野幸長(北政所派→東軍)
⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興(北政所(前田)派→東軍)
前回から続いて、③から見ていきます。
③ 徳川(秀吉の死後の)縁戚:伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政、黒田長政、加藤清正(北政所派?→東軍)
秀吉の死後に徳川家康の縁戚となった大名があります。
まず、いわゆる私婚違約事件の3大名
イ.福島正則 徳川家康養女(松平康元娘)満天姫と福島正則嫡男正之の婚姻
ウ.蜂須賀家政 徳川家康養女(小笠原秀政娘)氏姫と蜂須賀家政嫡男至鎮の婚約
七将襲撃事件以降に行われた縁組
エ.黒田長政 徳川家康養女(保科正直娘)栄姫と黒田長政の婚姻
オ.加藤清正 徳川家康養女(水野忠重娘)清浄院と加藤清正の婚姻
結局、後世から見るならば、上記の一連の婚姻政策を家康が進めていたという事実は、秀吉の死直後から、家康が豊臣家簒奪のために多数派工作を行っていたことを如実に表しています。これは、「結果論」ではありません。この婚姻政策は、当時からの明確な家康の目的と計画があったことを明らかに示しているのです。以下、順に見ていきましょう。
徳川家と、伊達家の同盟。元々、(徳川家と伊達家の縁組ではなく)五大老同士である徳川家と上杉家の縁組を行うよう、秀吉は遺言をしていました。関東の大大名徳川家と奥州の大大名上杉家が婚姻によって、強固な同盟を結び、東国の統治に共同してあたるというのが、秀吉の構想でした。秀吉自身は、東北の雄である伊達家はいつ反逆してもおかしくない油断ならない家と警戒しており、懐柔しつつも、監視を怠ってはいけない存在として認識しています。
つまりは、徳川家が(秀吉の遺言によって予定されていた、上杉家とは婚姻を結ばず)、秀吉が警戒していた伊達家の方と縁組を結ぶという事は、秀吉の遺言方針に反する上に、むしろ他の五大老の一人である上杉家の方をライバル視するという、極めてきな臭く胡散臭い同盟をしようとしている訳であり、他の四大老・五奉行から警戒されて当然なのです。
また、秀吉の晩年から石田三成と伊達政宗は親しい関係にあり、(豊臣公議の対伊達家基本方針「警戒しつつ、懐柔する」の「懐柔する」ルートを三成が担ったといえるでしょう。)
前述したように、上記の縁組が成立すれば、徳川家・伊達家・石田家が縁戚で結ばれることになります。この縁組を通じて家康は、石田三成の取り込みもはかったといえるのかもしれません。(しかし、三成としては、「御掟」違反を咎めるべき五奉行としての立場もあり、難しい所でした。)
前述したエントリー↓
※石田三成と伊達政宗の関係については、以下を参照願います。↓
伊達政宗と石田三成について(3)~石田三成、伊達政宗を気遣う
伊達政宗と石田三成について(4)~秀次切腹事件における書状のやり取り
イ.福島正則 徳川家康養女(松平康元娘)満天姫と福島正則嫡男正之の婚姻
徳川家康が天下取りを狙って、そのため最終的に豊臣家と戦争となり、豊臣公議を滅ぼすことになるのであれば、最終的には家康は、豊臣の本拠大坂城を攻め落とさなければならなくなります。家康の軍勢は関東にあるのですから、東海道と中山道のルートから西を攻める形になります。
このうち東海道のルートは、豊臣譜代大名で敷き詰められており、やはり秀吉が家康を「警戒しつつ、懐柔していた」ことが分かります。
この東海道防衛ラインの最終地点が、尾張清洲城であり、ここに秀吉は自らの従兄弟であり、猛将の福島正則を配置しました。仮に徳川軍が東海道を西上しても、清洲城で粘られれば、徳川軍はそれ以上西にいけません。
家康としては、このため何としても福島正則を自分の味方に付ける必要がありました。そのために一番効果的なのは、やはり婚姻政策です。
福島正則は、脳筋の猪武者と、評価されることが多いです。これは、例えば正則の行政能力が低かったという意味ではありません。秀吉死後に、徳川家と福島家が婚姻を進めるという事が何を意味するのかまるで分かっていない、その政治センスのなさがそのような評価になっているのです。
秀吉の死後直後に、秀吉の従兄弟である正則がこのような行動を取ってしまう事に、四大老・五奉行は頭を抱えることになります。
ウ.蜂須賀家政 徳川家康養女(小笠原秀政娘)と蜂須賀家政嫡男至鎮の婚約
前述したように、蜂須賀家政は慶長の役の時に処分を受け、阿波国に在国して謹慎処分を受けます。
※慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件については以下を参照願います。↓
其の十(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相①~蔚山籠城救援戦で追撃戦はあった、長政・家政が処分された本当の理由
其の十一(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相②~朝鮮在陣諸将の独断決定はどこまで許されるか
其の十二(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相③~戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか
其の十五(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相④~処分の決定時に「石田三成外し」があった?
処分を受けて、豊臣公議に不満を持つ家政に、婚姻政策を持って家康は接近し、自派への取り込みを図ったといえます。
その他の縁組も見てみましょう。
エ.黒田長政 徳川家康養女(保科正直娘)栄姫と黒田長政の婚姻
この婚姻の約束自体がいつ行われたかは分かりませんが、慶長五(1600)年六月六日にこの二人は婚姻します。長政は、この期に蜂須賀家政の妹糸姫を離縁としますので、黒田家と蜂須賀家との決別という側面もあります。(両者とも徳川家の縁戚として東軍に付くのが興味深いです。)
この黒田長政の婚姻もまた、慶長の役時に処分を受け、豊臣公議に不満を持つ家政に、婚姻政策を持って家康は接近し、自派への取り込みを図ったものと言えます。
オ.加藤清正 徳川家康養女(水野忠重娘)清浄院と加藤清正の婚姻
関ヶ原の戦いまでの、加藤清正の行動は必ずしも、徳川派一辺倒というわけでもなく、また(おそらく家康から警戒されて)清正は九州にとどまり、関ヶ原の戦いに参加していません。ただし、関ヶ原戦い時には、九州で西軍の小西行長の留守部隊(行長自身は関ヶ原で戦っています)と戦っており、東軍といえます。
しかし、一方で、七将襲撃事件以降に加藤清正もまた徳川家と婚姻しており、関ヶ原の戦いにおいて清正が東軍(徳川軍)に付いたのも、ある意味自然といえます。
清正と西軍となった小西行長及び奉行衆兼軍目付(増田長盛・石田三成・大谷吉継)は、文禄の役時の対明・朝鮮講和交渉の方針で対立しており、これにより豊臣公議に不満を持った清正を自派に取り込もうと、家康は婚姻政策を取ったということになります。
ちなみに、文禄の役時に「清正が、小西・石田らの讒言にあって謹慎処分となり、慶長大地震の時に、真っ先に秀吉の元に駆けつけて、許された」といういわゆる「地震加藤」の逸話は、現在の研究では否定されています。
※詳細は、以下をご覧ください。↓
* * *
秀吉の死後、七将襲撃事件の七将のうち、蜂須賀、福島、黒田、加藤の四家と徳川家は婚姻を進めており、しかも、福島・蜂須賀家の2家はいわゆる私婚違約事件の対象です。
上記を見れば慶長四(1599)年閏三月四日に起こった、七将襲撃事件が、以下のような事件であることが分かります。
① 私婚違約事件の強引な解決を図り、また、家康が今後誰の咎めを受けずに婚姻政策による多数派工作を勝手に進められる権限を握ることが目的の一つとして行われた事件であること。
② 慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件に不満を抱く、長政・家政が、自身の処分の撤回及び、責任者の処罰を求めて起こした事件であること。
(事件後、長政・家政の処分の撤回を行うとともに、裁定時に不在で本来無関係の石田三成及び、裁定に関与できない三軍目付に責任を負わせるいうという、長政・家政に一方的に有利な、理不尽な裁定・処分を家康は行うことになります。)
③ 七将襲撃事件の七将のうち、蜂須賀、福島、黒田、加藤の四家と徳川家は婚姻を進めており(黒田・加藤はいつから進めていたのか不明ですが)、また、事件後家康は婚姻政策を自由に進めていることから見ても、七将襲撃事件の黒幕は家康である可能性が極めて高いと、少なくともその後の西軍諸将からは強く認識されたということ。(後のエントリーで説明しますが、事件後に、七将の一人である細川忠興へ、家康が理由が不明瞭な加増を行った事も、家康が七将襲撃事件の黒幕であるという疑いを強めさせることになります。)
さて、前回のエントリーでは、石田三成は、しばらく親徳川家康派だった、としました。しかし、仮に徳川家康が七将襲撃事件の黒幕だったとしたら、なぜ、家康は七将に三成を襲撃させたのでしょうか?
※前回のエントリーは、↓
その理由については、結局家康の内心の話であり、推測するより他ありません。
以下、推測です。↓
実は三成と類似したケースが、その後の事件でも起こります。
五奉行の一人、浅野長政は、徳川家康と協力して東国統治を行い、家康とも親しい仲でした。
しかし、私婚違約事件の際は、やはり浅野長政もまた、他の四大老・四奉行と共に(もちろん、三成も入っています)家康の「御掟」違反を咎めます。
いくら親しい関係といっても、奉行衆の立場である以上、「御掟」違反は立場としては責めなければなりません。そうなると、今後ますます家康が自らの野望により、豊臣家簒奪の意思を明らかにすれば、豊臣公議の奉行である浅野長政は、立場上、反徳川家康派として対峙・対決せざるを得ません。しかし、最終的に衝突して戦争になれば、家康としては長政を殺さざるを得なくなります。
家康としても、親交のあった長政を殺し、浅野家を滅ぼすのが忍びなかったのでしょう。このため、後の慶長四(1599)年九月に、前田利長らによる徳川家康暗殺未遂疑惑事件が起こった時(私は、この事件も徳川派による自作自演の狂言だと疑っています)に、容疑者の中に長政を入れてその責を問うことによって、長政を武蔵国府中に謹慎処分とします。
こうした措置を取ることによって、長政を奉行衆としてのジレンマから解き放つことにより、家康が長政を殺し、浅野家を滅ぼさなくてもよくなるような配慮を行ったのが、この長政の謹慎処分事件の実態なのだと思われます。
同様のことが、実は以前から親徳川派だった三成と石田家に対しても行われたのだと思います。
すなわち、七将襲撃事件とは、あえて(黒幕である)家康が七将を使嗾して事件を起こさせ、最終的に事件の責を負わせて三成を謹慎処分とすることによって、奉行衆の責務から三成を解き放ち、後に三成と石田家を家康が滅ぼさなければならない事態にはならないようにしようとしたのが、家康が事件を起こした目的の一つではなかったのではないかと思われます。(結局、その家康の配慮を三成はあえて無視する形になりますが。)
徳川家康という人物は、天下取りのためならば何ふり構わず手段を選ばないという「汚い」側面がある一方で、親しくなった武将には非常に義理堅いという側面がある、という不思議な魅力を持った人物です。
関ヶ原の戦いの後の佐和山城の戦いで、三成の父と兄は自害に追い込まれましたが、三成の子ども達三男三女はすべて助命され(当時佐和山城にいない子達もいますが)生き延びたという史実も併せて考える必要があります。
↑以上、推測終了です。
参考文献
考察・関ヶ原の合戦 其の十五(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相④~処分の決定時に「石田三成外し」があった?
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※前回(ではないですが)のエントリーです。↓
前回の続きです。
9.軍目付の帰還・報告
蔚山城はその後どうなったのかと思いましたが、第二次蔚山城の戦いが、慶長三(1598)年八月に行われていますので、蔚山城の放棄は(秀吉の指示で)取りやめになり、結局清正が在番に入ったようです。
さて、慶長三(1598)年五月二日、朝鮮在陣諸将軍の軍目付である福原長堯・垣見一直・熊谷直盛が秀吉の御見えを果たし、翌日朝鮮の状況を報告します。この時、三成は未だ帰国途中です。(*1)
その時の内容については、長堯・一直・直盛の三名が島津義弘・直恒に宛てた書状によって、詳細を知ることができます。以下、引用します。
「
一、我ら三人事、去る二日に御見目仕り、翌日朝鮮において去年以来の儀、御尋ねなされ候条、具(つぶさ)に申上げ候
一、蔚山へ唐人取り懸りに付(つけ)て後巻(うしろまき)の次第、唐人河を越え、少々山に乗揚げ候といへども、蜂須賀阿波守(筆者注:家政)・黒田甲斐守(筆者注:長政)、その日の先手の当番に有りながら、合戦仕ざる趣(おもむき)申上げ候処に、臆病の由御諚なされ、御逆鱗大形ならず候(①)
一、御手先(ママ)の城ども引き入るべき由、各(おのおの)言上仕り候儀、言語同断の曲事に思し召す旨、御諚なされ候、私通り申上げ候へば、聞し召されざる以前より島津・小西・対馬守[宗義智]三人の城を引き入れ、御為になるべき族(様ヵ)三人の城主、私方へも度々に書状を越し申し候へ共、御諚を受けず、下として御城引き入る儀、覚悟に及ばざる趣、三人の城主も返事仕り候に付て、その以後各(おのおの)手を失ひ言上仕らせたる儀候、即ちこの書状の談合衆并(ならびに)早主[早川長政]・竹源[竹中重隆]・毛利民[毛利高政]書状にて御座候とて、御目に懸け候処、猶以て御逆鱗なされ、三人の城主(筆者注:島津義弘・小西行長・宗義智)ども同心仕らざる儀、丈夫に思し召し、事の外、御感なされ候、阿波守(筆者注:蜂須賀家政)・甲斐守(筆者注:黒田長政)儀は後巻の合戦を仕らず、臆病者と思し召し候に、剰(あまつさ)え御先手の城を引き入れる興行人、旁(かたがた)以(もって)取りわけ阿波守に対し、曲事に思召候、只今進退を取り消さる儀に候へ共、永く御思案を加えらるの間、追て様子仰せ出さる迄は在国致すべく候、甲斐守、是も後巻の合戦をへり臆病者、殊に主(あるじ)居城の所さへ見定めず、諸卒の苦労を顧みず、詮無く城ども仕捨て候儀、曲事浅からず思召し候といへども、先づ御思案を加えらるの条、進物の儀は申すに及ぼすに及ばず、御注進等の一通も進上仕るべからず候、様子追て仰出さるべく候、次に早川主馬頭・竹中源助・毛利民部大輔事、御目付の身として惣談(そうだん)に相加わり、御城を引き入れるべき族(様ヵ)、城主方へ書状を遣し、同じく御目付の間へも書状を遣す儀、第一の曲事と思し召す間、召し寄せ、御成敗ありたく思し召し候といへども、是も御思案なされ候間、豊後にこれ有るべく候、右の様子、彼者ども方へ奉行三人(筆者注:前田玄以、増田長盛、長束正家の3名と考えられます。)、弾正[浅野長政]相加わり、申遣すべき旨仰せ出され候(②)
(中略)
一、両三人(筆者注:福原長堯、垣見一直、熊谷直盛)の事、前後の様子を聞き召し届けられ、御褒美として、豊後において新地を拝領候、仕合においては御心易かるべく候、兼(かねて)又来年には御人数を相渡され、赤国の筋、都河(辺ヵ)まで働き仰せ付けられ、蔚山のかたへ打入り候様にとの御有増(あらまし)候(中略)猶日本の様子追々申し述ぶべく候(③)、
恐煌謹言
福右馬
長尭(花押)
「慶長三年(ヵ)」五月廿六日
垣和泉
一直
隈内蔵(花押)
羽兵庫[島津義弘]殿
嶋又八郎[島津忠恒]殿
人々御中」(番号筆者)(*2)
大意について解説します。(内容が省略されている部分を、以前の書状等から一部補っています。)
①・蜂須賀家政と黒田長政は、蔚山城救援戦において当日先手当番でありながら、合戦をしなかったのは「臆病」と御諚をなされた。秀吉はこの件に激怒している。
②・三城(蔚山・梁山・順天)と南海島の放棄を十三将は独断決定・実行したが、島津義弘・小西行長・宗義智の3人の城主がこれに同心しなかったことは「丈夫に思し召し、事の外、御感なされ」た。
・蜂須賀家政と黒田長政は蔚山救援戦に参加しなかった上、家政は三城放棄に賛同したため、とりわけ秀吉は家政に対して曲事と思い、「進退を取り消させ(改易)」ようかと考えたが、思案するため、追って沙汰するまでは、(帰国して)所領の阿波国に在国せよとのことだった。
・黒田長政もまた、蔚山救援戦に参加しなかった上、在番していた梁山城を諸卒の苦労も顧みず、放棄したのは「曲事浅からず」と思ったが、まず思案するので、追って仰せ出す(のを待ちなさい、とのことだった。)(*長政は、十三将に入っていませんが、在番していた梁山城を放棄したことによって、放棄に同意したとみなされたということでしょう。結局長政の梁山城放棄は、秀吉に咎められたということです。
また、長政は、他の処分を受けた武将達とは違って、帰国は命じられず朝鮮に在陣し続けます。これも少し変な話であり、秀吉は長政に対して何らかの配慮があったことがうかがえます。)
・(軍目付の)早川長政・竹中重隆・毛利高政は、軍目付の立場でありながら、十三将の相談に加わり、三城の放棄の書状を城主及び他の目付にも遣わしたことは、(職権濫用であり、)これは第一の曲事であり、成敗(死罪)に処そうかと思案したが、これも思案するので、その間所領の豊後に在国すべきであるとのことだった。
以上の事は、彼ら(処分を受けた者)へ、奉行三人前田玄以、増田長盛、長束正家)、浅野長政が相加わり、申し遣わすように仰せがあった。
③・福原長堯、垣見一直、熊谷直盛には、褒美として豊後に新地の拝領を受けた。
・来年は、また軍勢を発して赤国の筋、都(漢城?)辺まで働き仰せつけ、蔚山の方まで打ち入る予定だとのことだった。
ここで、ポイントなのは、この慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政等の処分の決定を行ったのは、②で分かるように秀吉の前で前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政が相加わって、決定したことなのです。
つまり、この黒田長政・蜂須賀家政等に対する秀吉政権の処分が間違っていると、誰かから糾弾されるとするならば、(主君の秀吉の責任は咎められない以上)、まず咎めをうけるべきなのは、この四名(前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政)である、ということになります。
石田三成は処分の決定協議に加わっていません。(繰り返しですが、この時会津からの帰国途中で不在のためです。)
次に、以下の書状を見ていきます。慶長三年五月三日付の軍目付福原長堯による石田三成宛て書状です。福原長堯は、石田三成の妹婿であり、縁戚です。一部を除き、中野等氏の現代語訳のみ引用します。
「◇態々(わざわざ)、急ぎの手紙によって申し入れます。
一、朝鮮半島の一部割譲については、(日本勢駐留のための城郭)普請が出来ましたので、太田一吉(飛騨守)・熊谷直盛(内蔵允)・垣見一直(和泉守)と同道して、日本へ帰還しました。
一、昨五月二日、伏見において(秀吉)に拝謁しましたが、大変良い具合でした。(本来なら事前に)内々ご相談の上、御拝謁するところですが、ご不在でしたので協議もできませんでした。(筆者注:原文「内々万得貴意、御見目へ可仕と存候処ニ、御留す二候て、無計方候つる、」)①しかしながら、増田長盛(増右)に相談して、(秀吉の御前に)出で、右のように次第となりました。②私に対しましては、ありがたい決定を下され、表向きも実際もこの上なく悦んでおります。細かなことは(意味とれず)ですが、きっとご配慮いただいた結果と存じております。③朝鮮半島に残って御普請にあたっている諸将も、近いうちに日本へ戻ることと思います。
一、さてさて奥州会津(相津)に御越しとのこと、遠路といいながら諸々の御苦労申しあげる言葉とてございません。(しかしながら)すでに務めを終え、近日中に御帰洛とのことですので、満足いたしております。拝見していろいろ積る話も申したく思いますので、委しいことはここに記しません。
返々申しますが、(秀吉への)拝謁も終え、すべて順調ですので、ご心配には及びません。なお、朝鮮半島の諸将から書状なども言付かっておりますが、こちらで御目に懸かれると思い、飛脚などで送達することはいたしません。以上。」(*3)(下線部、番号筆者)
上記書状について、意見を述べます。
①のように、軍目付であり、三成の妹婿である福原長堯が、「(本来なら事前に)内々ご相談の上、御拝謁するところですが、ご不在でいたので協議もできませんでした。」とあるように、今回の事件の処分決定の事前の協議を受けておらず、三成は、決定に関与していないことが分かります。そして、
②「増田長盛(増右)に相談して、(秀吉の御前に)出で、右のように次第となりました。」とあるように、先ほど述べた秀吉の処分決定に関わった四人の奉行(前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政)のうち、増田長盛が中心的な役割を果たしたことが分かります。
③「きっとご配慮いただいた結果と存じております。」というのは、前述したような、三軍目付が「褒美として豊後に新地の拝領を受けた」恩恵の配慮が、石田三成によるものだと、福原長堯は考えている訳ですが、事前に協議も情報提供も受けていない、処分決定時にも不在の石田三成が、三軍目付に恩恵を与えるような進言を秀吉にできる訳がそもそもありません。三成の配慮があったと長堯が考えたのは、長堯の勘違いです。
軍目付の仕事は、秀吉の軍令の諸将への伝達、戦場からの秀吉への戦況報告及び、諸将の賞罰の評価基準となる戦功・失敗・命令違反等、武将の行動の報告です。当然報告については正確な報告が求められます。独断で勝手に書状を発行して各将に指示するなど、権限を踰越した職権濫用行為であり、処断(死罪)されても当然な大罪です。軍目付の早川・竹中・毛利が秀吉から処分されるのは当然であり、助命されたのは秀吉の温情でしょう。
また、秀吉の軍令に違反する行為を咎め、正確な報告をした三目付福原・垣見・熊谷が秀吉から評価されるのも当然のことです。軍目付が軍令の遵守徹底を諸将にさせ、正確な戦況報告をしなければ、総司令官である秀吉は、正確な状況報告も受けられず、正しい指揮命令もできなくなり秀吉軍は崩壊します。
そして、軍目付には秀吉の裁定に関与する権限はありません。秀吉の裁定に関与できるのは、秀吉の側に仕える奉行衆のみです。
五月五日に三成は、入京します。裁定が下ったのは五月三日。なぜ、三成の入京を待てなかったのでしょうか。一月に起こった事件の裁定であり、しかもほとんど思案中としており、裁定を急ぐ必要はなかったはずです。
※ここから、「推測」です。↓
ここからは推測ですが、おそらく四奉行は裁定が秀吉の意向に沿う形になるように、裁定前から協議を進めていたのでしょう。しかし、三成が帰国してこの協議に参加してしまうと、この協議を引っくり返されてしまう可能性があります。
三成は、過去に秀吉に諫言を行い、サン・フェリペ号事件・二十六聖人殉教事件における秀吉の裁定を一部引っくり返した事があります。三成が帰京して協議に参加すれば、三成の性格上、黒田長政・蜂須賀家政の弁護を行うため、秀吉に「諫言」しかねません。
二十六聖人殉教事件では、秀吉の裁定を一部引っくり返した三成ですが、奉行衆は今回ばかりは本当に秀吉は激怒しており、三成の諫言は通らず、かえって秀吉の逆鱗に触れ粛清される危険性があると判断したのではないかと思われます。
二十六聖人殉教事件については、下記をご覧ください。↓
そして、特に玄以・長盛・三成・正家の四奉行は一体として連帯責任を負っており、三成が処分されれば、連座して他の奉行も処分を受けかねません。
このため、三奉行と浅野長政は、三成の帰京を待たずに今回の事件の裁定を急ごうという判断があったのではないかと、推測します。
この「推測」は、もとより史料に基づくものではなく、前後の史料の状況から推量したものにすぎませんので、結局推測に過ぎません。特にこれが「史実」に違いない、と述べている訳ではありませんので、ご注意願います。
↑「推測」終了です。
以上から、今回の慶長の役の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の裁定を行ったのは、秀吉自身であり、その裁定に関与したのは、奉行衆である前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政の四名で、福原長堯の書状によれば、特に増田長盛が中心になって動いていたことが分かります。
七将襲撃事件の直前に、この慶長の役の黒田長政・蜂須賀家政処分事件が七将によって、この処分はおかしいと問題視され糾弾されるわけですが、秀吉死後の豊臣公議を代表する五大老・五奉行のうち、奉行の前田玄以、増田長盛、長束正家、浅野長政の四名は当時の秀吉の裁定に関与しており、また五大老のうち、宇喜多秀家及び、毛利秀元の元養子であった毛利秀元が、問題となっている十三将連署状の一番・二番目に連署しており、本来は処分されておかしくないにも関わらず、その罪は不問(おそらく、貴人であり実質豊臣御一門とみなされていたため)とされているのです。
裁定に関与した四奉行(前田玄以・浅野長様・増田長盛・長束正家)及び、その裁定によって罪を不問とされた大老宇喜多秀家及び毛利秀元の元養父である毛利輝元が、裁定のやり直しなどできる訳がないのです。彼らが裁定のやり直しができないのは、彼らの事情によるものであり、石田三成とは本来関係がありません。
ところが、軍目付が石田三成の妹婿福原長堯であった事から、黒田長政・蜂須賀家政をはじめとする七将は、慶長の役の黒田長政・蜂須賀家政処分事件を主導したのは、石田三成に違いないと誤解し、これが七将襲撃事件の一つの要因となります。
江戸時代中期の二次史料である『常山紀談』になりますので必ずしも事実か分かりませんが、関ヶ原の戦い後に、捕縛された三成が大津の陣にあった時、「黒田長政が通った時には、長政は馬から下りて、「不幸によって、このようなおなりになってしまった。これを」と着ていた羽織を脱いで三成に着せたという。」(*4)という逸話があります。
七将襲撃事件の時には黒田長政は、慶長の役の黒田長政・蜂須賀家政処分事件を主導したのは、石田三成だと誤解していたが、その後、その誤解が解けたため、三成に謝したという事でしょうか。
これもまた推測ですが、七将襲撃事件以降に、黒田長政が正室であった蜂須賀家政の妹を離縁し、家康の養女と再婚した事実も、家政に対する不信感(家政のせいで、縁戚である長政がとばっちりの処分を受けた)が長政に芽生えたという側面もあるのかもしれません。
※ 次回のエントリーです。↓
注
(*1)中野等 2017年、p353
(*2)笠谷和比古 2000年、p139~141
(*3)中野等 2017年、p353~354
(*4)湯浅常山 2011年(原文の完成は1770年)、p227
参考文献
笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役と関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)
中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年
考察・関ヶ原の合戦 其の十四 (3)関ヶ原の戦いでなぜ西軍は東軍に負けたのか? ②~関ヶ原の戦いをめぐる3つの派閥 a.「徳川派」とは何か・石田三成は、しばらく「徳川派」だった!?
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※前回のエントリーです。↓
豊臣秀吉の死後、豊臣傘下の大名は大きく分けて3つの派閥に分かれることになります。
この3つの派閥が一時的には協力し合い、また一時的には反発し合う複雑な過程をたどり、関ヶ原の戦いに至ります。また、この派閥からの離脱・鞍替えも起こっており、最終的には寝返り・不戦が西軍の派閥から発生し、東軍の勝利・西軍の敗北に終わることになります。
1.秀吉死後の「3派閥」とは何か?
秀吉死後にあった「3派閥」とは、つぎの3つを指します。
A.徳川派(東軍)
B.奉行派(西軍)
以下、順にみていきましょう。(主な大名ですので、すいません。)
2.A.「徳川派」とは?
まず、徳川派です。これが当然関ヶ原の戦いにおける東軍の中核となります。
A.徳川派(東軍)
② (秀吉の生前からの)徳川縁戚:池田輝政・蒲生氏行・真田信幸・石田三成(※)(→西軍)
③ (秀吉の死後の)徳川縁戚:伊達政宗・福島正則・蜂須賀家政(私婚違約事件の
④ 徳川支持派:大谷吉継(→西軍)・藤堂高虎・浅野幸長(北政所派→東軍)
⑤ 徳川支持派:(加増を受けた者):森忠政・細川忠興(北政所(前田)派→
東軍)
下線を引いた大名は、途中で派閥が変わった大名です。
※後述しますが、石田三成は、徳川派であり、奉行衆派であり、北政所派です。
以下、順に見ていきます。
徳川家康とその一族、譜代大名です。(数が多いので名前は割愛します。)関ヶ原の戦いで、徳川一族・譜代大名から東軍からの裏切り・離脱は発生していません。そんなの当たり前ではないかと思う方もいるかもしれませんが、対する豊臣一門・譜代大名、毛利一族大名内のグダグダっぷりの結果を見てしまえば、これは西軍厳しいな、としか言いようがありません。
② (秀吉の生前からの)徳川縁戚
秀吉死後の私婚違約事件がクローズアップを受けていますが、秀吉生前にも家康と大名の縁組はありました。(もちろん、秀吉の許可を受けてのことです。)
主な大名は以下の通りです。
・蒲生秀行(正室は家康の三女・振姫)
そして、実は石田三成も、秀吉の生前から、徳川家の縁戚(少し縁が遠いのですが)となっているのです。
3.石田三成は、しばらくの間、徳川派だった!?
(以下の、三成と家康との縁戚関係については、白川亨氏の『石田三成とその子孫』、『真説 石田三成の生涯』を参照しています。)
三成と家康が縁戚になったのは偶然の可能性が高いです。
三成の長女は、山田隼人正勝重に嫁ぎます。山田勝重は、石田正継(三成の父)の家臣山田上野介の息子です。
この山田勝重は家康の側室の茶阿局の甥であり、家康と茶阿局の間に生まれた子忠輝の従兄弟になります。白川亨氏は茶阿局が家康の側室となったのは、天正十九(1591)年頃ではないかと指摘しています。三成長女が山田勝重に嫁したのは、文禄元~二年(1592~3)年頃と考えられるとのことです。 茶阿局が辰千代(後の忠輝)を生んだのは天正二十(1592)年一月四日とされます。
これにより、三成と家康は縁戚の関係となります。
三成は、この縁戚関係を少なくとも秀吉の死後の私婚違約事件の頃には知っていたことが考えられます。(*1)
また、秀吉の生前、秀吉は三成と家康が「公的に」仲が深まらないように阻んだふしがうかがえます。これは、豊臣傘下最大の大名である家康と、既に上杉・佐竹・毛利・島津等といった大大名の取次を任せている(毛利の取次は慶長年間以降ですが)三成が結び付けば、三成の権力が肥大化しすぎると秀吉が判断したためでしょう。秀吉は、三成や家康も含め、本質的に誰のことも信用していません。
これは以下をご覧ください。↓
しかし、一方で秀吉の生前から、三成と家康との交流がうかがえる史料もまたあるのです。
石田三成は真田家の取次であり、また縁戚でもありました。
そして、石田三成と真田信幸とは特に親交があり、また、石田三成の真田信幸宛書状から石田三成-真田信幸-本多忠勝-徳川家康という連絡ルートがあったことがうかがえるのです。(こんなまわりくどい連絡ルートを構築しなければいけないことが、秀吉から三成が徳川家との「公的な」交流を阻まれており、直接のチャンネルを持っていなかったことが分かります。)
詳細については、以下をご覧ください。↓
上記のエントリーを書いた時点では、三成と家康がこの連絡ルートを使って何を相談していたのか不明でした。
しかし、石田三成と徳川家康双方の行動を見ていくと、これは、おそらく「蒲生騒動」の対処の相談をしていたのではないかと推測されます。秀吉の生前において、三成と家康が相談して共同で問題を対処しようとしていたケースが他に見当たらないからです。
「蒲生騒動」とは何か?「蒲生騒動」は複数回ありますが、ここでは、慶長三(1597)年に、会津の大名蒲生秀行の寵臣で仕置奉行の亘利(綿利)八右衛門を蒲生四郎兵衛が斬った事件があり、それに反発した蒲生左門が蒲生源左衛門等とともに、秀吉に訴えて蒲生四郎兵衛を追放する事件に端を発する蒲生家のお家騒動の事を指します。
石田三成は、蒲生秀行の岳父である徳川家康と相談・協力の上、なんとかこの騒動が大事にならないように事態の収拾を図ろうとします。しかし、秀吉は、慶長三(1597)年一月に秀行の家中取締不始末を理由として、会津九十二万石を没収して、宇都宮十八万石へ減転封させました。
この秀吉の判断には、会津のような枢要の地を、若年であり家中もまとめられない秀行に任せる訳にはいかない、という秀吉なりの考えがあったと思われます。
三成は、自ら会津に向かい、この転封処理の差配を行います。また、減転封で家臣の多くをリストラせざるを得なくなった蒲生家家臣の一部を自身の家臣に引き取り、上杉家他への仕官の斡旋も行います。三成家臣となった蒲生郷舎をはじめとする彼ら蒲生家旧臣は、関ヶ原の戦いで三成のために奮戦しました。
この時の三成の処置に感謝した秀行は、関ヶ原の戦い後に、三成次女の婿岡重政を家臣として招き、重用することになります。(元々岡重政は蒲生家の旧臣で、この減転封の際に上杉家へ仕官し、関ヶ原の戦いの後に蒲生家に戻る形になります。)
こちらの詳細については、以下をご覧ください。↓
このように、三成と家康は、秀吉の生前から既に縁戚関係にあり、また徳川・石田双方の縁戚である真田家を通じて、蒲生騒動等の問題を相談する仲であったといえます。
4.私婚違約事件時の三成の動き
慶長三(1598)年八月十八日の秀吉の死後、いわゆる私婚違約事件が発生します。
私婚違約事件とは、徳川家と伊達家・福島家・蜂須賀家との婚儀を、家康が「御掟」に背いて、他の九人の衆にはかることなく勝手に進めた事件を指します。
そのうちで、徳川家の伊達家の縁組とは、家康の六男・忠輝と伊達政宗の娘(五郎八(いろは)姫)の縁組を指します。
この3つの縁組を巡って、徳川家康と、四大老・五奉行が対立します。
従来の説やドラマでは、三成がこの私婚違約事件における家康糾弾の急先鋒のように描写されることが多いのですが、実際には石田三成は、この私婚違約事件糾弾の急先鋒でもなんでもありません。
問題となっている「縁辺の儀」について、特に徳川・伊達家の婚姻が認められると、忠輝の血縁を通じて、徳川家・伊達家・石田家の三家が縁戚として結ばれることになり、これは石田家にとっても悪いことではまったくないのです。
しかし、奉行衆の立場上、「御掟」の違反は咎めなくてはいけません。他の四大老・四奉行も掟違反を糾弾しているのですから、なおのことです。
さて、その禁じられている「御掟」とは何でしょう。以下引用・抜粋します。
「一、諸大名縁辺の儀、御意を得、その上をもって申し定むべき事、」(*2)
これは文禄四(1595)年八月三日付文書で小早川隆景・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・徳川家康の連署による掟書です。(これに「御掟追加」には連署している上杉景勝を加えた六名が、「五大老」の原型とされます。(小早川隆景は秀吉の生前に死去しています。))
上記の「御掟」ですが、諸大名同士の婚儀を「禁止」するものではありません。
事前に御意(秀吉の許可)を得よ、と言っているだけです。(逆に言うと「御意」なしには認められません。)これは当時の婚姻とは、すなわち大名同士の「(かなり強固な)同盟」だからです。勝手に諸大名家が婚姻しあえば、大名同士の派閥争いになることが目に見え、内乱の原因になることが明らかです。このため、勝手に諸大名が婚姻を結ぶことは認めず、御意(秀吉)を得なければいけないと、したわけです。
秀吉の死後、この「御意」を与えるのは誰でしょうか?秀吉の子、秀頼ということになりますが、秀頼はまだ幼く成人するまで政治は行えません。このため、秀頼に代わって十人の衆(五大老・五奉行)が「御意」を代行することになる訳です。
十人の衆ならば、勝手に婚姻して良いという訳ではありません。そもそも五大老はいずれも大大名なのですから、めいめい勝手に婚姻政策を進めることができてしまうならば、あっという間に日本に複数の派閥が乱立し、それこそ内乱の原因になってしまいます。
それではこの「御掟」の趣旨がまったく果たせないことになります。
しかし、「御意」を得れば、縁辺は認められるのです。つまり、十人の衆が協議の上、この縁辺の儀を「諾」とすれば、この縁辺は認められることになります。
今回の問題は、家康が他の九人の衆に事前に協議することなく、勝手に独自に縁談を進めようとしたことでした。他の九人の衆として、これを看過する訳にはいきません。
ここで咎めなければ、家康が他の九人の衆を無視して、たとえ「御掟」を破ろうが勝手に行動することができることを認めることになります。秀吉が亡くなって、すぐに一大老が独断で暴走しようとする。これでは、豊臣公議は崩壊してしまいます。
九人の衆としては、危機感をもってこの問題に対処しているのです。
一方で、こうした問題が発生した以上、なんとか事態の収拾は図られないといけません。家康としても、この縁談を持ち出した以上、認められなければ引っ込みがつかないでしょう。双方が衝突していて一切引くことがないならば、最終的には家康が怒って豊臣公議から離脱し、豊臣公議に反逆しかねません。この時期においては、奉行衆としてもなんとか豊臣公議の分裂を阻止したいのが本心です。落としどころが必要なのです。
この時期、三成が考えていたのは、家康のフライングはフライングとして、改めてこの件について五大老・五奉行が協議して、この縁辺の儀を許可する方向で話をまとめることができないかということでしょう。それが以下の行動でわかります。
慶長四(1599)年二月九日、石田三成は大坂屋敷で茶会を開きます。その時の茶会の客は、宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、途中から三成の兄・正澄も参加し、和気藹々の雰囲気で話が弾み、皆夜遅く帰っています。(*3)このとき三成は長崎から来た舶来の葡萄酒を出したということです。
この件については、以下でも書きました。↓
上記の中に五大老の一人、宇喜多秀家と、私婚違約事件の当事者伊達政宗が入っていることが重要です。上記の茶会で、この縁辺の儀が改めて四大老・五奉行によって許可されるように出来ないかと三成が動いていたのではないかという事が推測されます。
『当代記』に、この時期に石田三成が徳川家康の暗殺をはかろうとしていたという物言(噂話)があったという記述がありますが、上記の経緯を見れば誤りであることが明らかです。『当代記』は、寛永年間(1624~1644)頃に成立したとされる史書で、編纂者は姫路藩主の松平忠明(徳川家康の外孫)とされますが、複数の手が加わっているようで、不詳とのことです。
いずれにしても、『当代記』が執筆されたのは、関ヶ原の戦いから20~40年以上経った寛永年間の作であり、執筆者にとっては、三成が「関ヶ原の戦いの西軍首謀者」として、家康に刃向かったというストーリーは自明なことだったのです。(その(誤りである)ストーリーを作ったのは徳川サイドなのですが、この時期になると自分達が作ったストーリーを自分達自身が信じ込むという状態になっています。)
さて、『当代記』の該当する具体的な記述を見ていきます。
「慶長四己亥正月自中旬、於伏見各有物言、是亡家康公を度との企、専石田治部少輔執行①、折節内府公衆歴々自関東上伏見②、叉大谷刑部少内府公□荷擔之間、彼組之衆多以同之③、然而二月無爲内府家康公與羽柴筑前北國主和平④、」(下線、番号は筆者)(*4)
以下意訳・解説します。
① 慶長四年の正月中旬、伏見で物言(噂話)があり、それは石田三成が家康を暗殺するという企みの噂だった。
上記で述べた通り、この時期は、石田三成は両派(徳川家康派VS前田利家(を中心とする家康糾弾派)の間に立って、事態の収拾を図ろうとしていた、と考えた方がよいです。
しかし、関ヶ原合戦以後20~40年以上経った頃に『当代記』を書いた、徳川時代の執筆者にとっては、「石田三成が家康打倒派の首謀者である」というストーリーが自明でしたので、この時期に(反家康派による)家康暗殺計画なる噂があるならば、それは三成が首謀者に決まっている、と執筆者自身が勘違いしている訳です。
② 折節、家康公の衆(配下の将兵)が続々と関東から伏見へ上った。
これは因果関係が間違っています。(いや、江戸時代には「折節」に別の意味があるのかもしれませんが。)徳川サイドは、この私婚違約事件での対立をよい機会ととらえ、おそらく自ら「家康打倒派による家康暗殺計画」という噂を流すことによって、そのような風聞があるのならば、家康を防護しないといけないという口実の元に、関東にいる家康配下の将兵を伏見に上がらせたのです。この口実により堂々と家康は兵を伏見に集め、自らの軍事力を誇示することができると考えたのでしょう。(といっても、「護衛」のためですから、大軍ではないでしょうが。)
つまり、「家康打倒派による家康暗殺計画」という物言(噂)は、徳川サイドが将兵を伏見に集めるために、自ら流した自作自演の狂言である可能性が高いです。が、これは当時においては分からないことです。(現在においても確定できませんが。)
また、実際には「四大老・五奉行」の問責使が家康の元へ向かったのは正月十九日で、その翌日の二十日には、早くも和解の風聞が流れて(『言経卿記』)いますので、この関東の将兵が伏見に到着する前に、すでに両者は和解に向けて動いています。
③ 大谷吉継と彼の組衆が与同し、家康に荷担(家康の屋敷を護衛したということでしょう)した。
また、『校舎雑記』には、真田昌幸・信幸・信繁、石川光元・一宗らが徳川屋敷の護衛に駆けつけたことが伝えられています。(*5)
つまり、上記の「彼組之衆多」とは、大谷吉継の縁戚である真田・石川一族であるということです。真田家が徳川家の縁戚でもあることを考えるならば、特にこれは不思議なことではありません。
以前にも書きましたが、真田・石川いずれも石田家の縁戚であり、大谷吉継も真田・石川家の縁戚であり、この縁をもって石田・大谷家も二重の縁戚関係となっています。そして、石田・大谷・真田・石川の一族は婚姻関係より、ひとつの拡大ファミリーを形成しています。
詳細については下記をご覧ください。↓
大河ドラマ『真田丸』では、上記の『当代記』『校舎雑記』の記述等を元に「石田三成が本当に暗殺計画を立てて、兵を集めるも、盟友の(『真田丸』では石田・真田・大谷・石川の縁戚関係はほとんど一切書かれていません。吉継娘と信繁の婚姻のみは描かれていますが。)大谷吉継や真田一族にすら家康についてしまい、三成はほとんどの人から見捨てられる」という、滅茶苦茶な出鱈目ストーリーを書いていましたが、これは完全な間違いです。
上記で書いたとおり、この時期の石田三成は両派の間に入って事態の収拾に動いているとみられます。しかし、五奉行の一人として「御掟」の違反は咎めなければいけませんので、彼自身が表立って徳川の擁護に回る訳にはいきません。(それでは両派の「調整役」はできません。)
このため、自身は四大老・五奉行の一員として「御掟」違背の弾劾をする立場に立ちつつ、自らの縁戚である大谷・真田・石川一族は家康の屋敷の警護に向かってもらうことで、自分には家康に対しての敵意はないことを示しているのです。
また、噂話が本当で家康が襲撃されるようなことがあっては一大事です。(暗殺されても、未遂であっても、戦争となり天下大乱になることは必定です。)このためにも、大谷吉継らに護衛を依頼する必要があったのです。
④ 無為に時は過ぎて、二月に徳川家康と前田利家の和平が結ばれた。
上記の記述で、家康糾弾派の中心人物が前田利家であり、江戸時代の認識でもそうだったことが明らかにされています。
この和平、徳川派と徳川糾弾派のどちらが有利になったかという話ですが、特に一次史料では内容がよく分かっていません。
後に七将襲撃事件が起こったことを考えると、この和平は決して、徳川派に有利なものではなく、徳川派が譲歩したもの(つまり、この縁辺は一旦白紙に戻して、協議を一からやり直す)だったのではないかと思われます。(七将襲撃事件には、この縁辺問題の(強制的)解決という側面もあったと考えられます。)
この一応の和平後、石田三成は改めて協議を図ろうとしたとみられます(それが二月九日の茶会な訳ですが)が、整わないうちに、大老前田利家の病が重くなり死去、その直後に七将襲撃事件が起こります。
以下、私婚違約事件を時系列的に示します。(堀越祐一『豊臣政権の権力構造』、白川亨『真説 石田三成の生涯』、藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』を参考としました。)
慶長四(1599)年
初頭 徳川家と福島・伊達・蜂須賀家が勝手に婚姻を進めようとした事実が発覚。
正月十九日 これを咎める「四大老・五奉行」の問責使が家康の元へ向かう。
正月二十日 早くも和解の風聞が流れる。(『言経卿記』)
二月五日 双方が起請文を提出して一応の和解が成立。(『武家事記』)
二月九日 石田三成、大坂屋敷で宇喜多秀家、伊達政宗、小西行長、神屋宗湛(博多の豪商)、石田正澄(三成の兄、途中から)と茶会を開く。(『宗湛日記』)
二月二十九日 伏見の家康邸を前田利家が訪ねる。
三月十一日 家康が大坂の利家邸を訪れて病気を見舞う。
閏三月三日 前田利家死去
閏三月四日 七将襲撃事件
(*「この時系列を見ると、正月中は、石田三成は徳川家康の暗殺計画に動いていたが諦めて、二月五日の一応の和解以降は、縁談が許可されるように動いていた、という可能性もありうるのではないか」という意見をされる方は、いないと思いますが念のため。
正月には家康の暗殺を企てた人間が、二月にはころっと変わって縁談が許可されるように動くような、そういった支離滅裂な判断・行動を人間はしません。(秀吉の生前から石田家と徳川家は縁戚であり、三成と家康の交流もあったことは既述しました。)
人間は基本的には一貫とした考えと行動を取り、(あくまで本人の主観にとってはですが)合理的な判断・行動をするものです。
そうでなければ歴史上の人物の考察・分析など不可能です。
(信用性の低い二次史料も混ぜて)史料のみを追っていき、考察・分析をせずに、機械的に繋ぎわせると、支離滅裂な人間を創作してしまう危険性がありますので、注意する必要があります。)
(令和元年10月22日追記)
以下のエントリーを、令和元年10月22日に記述しました。結論としては、秀吉死後に「五大老・五奉行体制」の遵守を目指す石田三成に対して、「単独執政体制」を目指していた徳川家康が相いれる余地はなく、秀吉死去の前後から、少なくとも徳川方は石田三成を敵視していたと考えられます。
しかし、三成が目指していたのは、あくまで「五大老・五奉行体制」の遵守であり、その体制の中にはもちろん家康も含まれています。この時期から三成が家康打倒を考えていた、あるいは家康暗殺を考えていたとは思われませんし、その根拠となる一次史料もありません。↓
次回は七将襲撃事件について検討する前に、七将襲撃事件の原因となった二大要因である「私婚違約事件」及び「慶長の役時の蜂須賀家政・黒田長政処分事件」のうち、「慶長の役時の蜂須賀家政・黒田長政処分事件」が、結局どのような始末となったのか、改めて検討します。
※ 次回のエントリーです。↓
※ 次々回のエントリーです。↓
注
(*1)白川亨 2009年、p124
(*2)矢部健太郎 2014年、p100~101
(*3)白川亨 2009年、p120、元史料は『宗湛日記』
(*4)「当代記」 p71、コマ番号は42
(*5)黒田基樹 2016年、p40
参考文献
黒田基樹『シリーズ 実像に迫る001 真田信繁』戎光祥出版、2016年
国書刊行会編、国立国会図書館デジタルコレクション「当代記」『史籍雑纂. 第二』 国書刊行会〈国書刊行会刊行書〉、1912年。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1912983/7
藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年
考察・関ヶ原の合戦 其の十三 (3)関ヶ原の戦いで西軍はなぜ、東軍に負けたのか?①~西軍の組織構造は?
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関ヶ原の戦いで西軍はなぜ、東軍に負けたのか?
これについての「大原因」は、やはり西軍総大将の毛利輝元の立てた戦略が大元から間違っており、そして、その戦略が失敗したことが判明したら、(関ヶ原の戦いの前日に)南雲山の毛利軍が味方を見殺しにして、さっさと自分たちだけ降伏してしまったからです。
(この「降伏」が吉川広家の単独判断なのか、輝元の許可があったものか現代でも不明ですが、広家の単独講和であっても(白峰旬氏の参考文献(章末参照)を見ますと、この広家の講和は、吉川広家のみの単独講和(毛利軍ではない)というのが白峰氏の見解のようです。)、そうした勝手な行動を放置して、最終的にはその広家の判断を輝元は受け入れた訳ですから、結局敗戦の責任は輝元になります。)
これについては、下記で考察しました。↓
しかし、いかに毛利輝元がたよりなき総大将であり、その戦略方針が間違っていたとしても、石田三成はこれを覆すべく、彼は彼で独自の戦略を練っていました。しかし、この戦略提案は、結果的には輝元には受け入れられず、その後、窮地に陥った際の起死回生の策(関ヶ原の戦い)も結局は不発に終わり、輝元の戦略の失敗を覆すにはいたりませんでした。
以下では、石田三成は、この一連の「天下分け目の戦い」の戦いで、どのような具体的な戦略・作戦を考え、それはなぜ失敗したのかを検討してみましょう。
その前に、まず慶長四(1600)年七月十七日の「内府違いの条々」から九月十五日の「関ヶ原の戦い」に至る天下分け目の戦いにおける「西軍」の構造を考えるとともに、その西軍の構造の中で三成はどのような役割だったのかを考えてみる必要があります。
1.改めて「石田三成は西軍の総大将ではなく、毛利輝元が総大将」、及び西軍の構造とは?
以下に、天下分け目の戦いにおける東軍・西軍のうち、いわゆる「西軍」の構造を示します。
そもそも「西軍」とは何か?
西軍とは、豊臣公議大老であった徳川家康を弾劾・追放し、自分たちこそが「豊臣公議」である、と主張する(及びその主張に賛同する)者たちの連合軍です。
前田利家の死去及び七将襲撃事件以降、徳川家康は五大老筆頭家老として、他の四大老・四奉行(石田三成は七将襲撃事件で失脚)の権力を凌ぎ、豊臣公議の執政・公議の代行者として絶大な権力を握り、天下の執政を行います。
その家康の政治・行動は自らの権力を拡大し、他の大老・奉行達の権力を失わせようとする意図があまりに露骨であり、特に上杉征伐の強引な挙行により、その野心が明らかになったと他の大老・奉行衆から判断されたため、家康の暴挙を咎め阻止するために、二大老(毛利輝元・宇喜多秀家)、三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)、及び石田三成・大谷吉継らが立ち上がりました。これが、いわゆる後に関ヶ原の戦いを含む「天下分け目の戦い」で「西軍」と呼ばれる集団となります。
彼らは、自らこそが「豊臣公議」であるとの認識のもとに、家康を弾劾・豊臣公議からの追放を宣言し、家康率いる「東軍」と対峙することになります。
彼ら西軍は、「暫定『豊臣公議』」です。なぜ、「暫定」がつくかといえば、豊臣公議筆頭家老・豊臣公議の代行者であった徳川家康に対して、戦によって勝利か、あるいは彼ら西軍にとって有利な和睦を行い、家康が豊臣公議から完全に追放されたことを確定しない事には、彼らの「豊臣公議」としての正当性もまた確定しないためだからです。
では、具体的に「西軍」の構造・組織図を見ていきます。(彼らの戦争中の行動を見ると、彼らがこの「西軍」という組織で、どのような役割だったかが分かります。)
① 西軍総指令官・・・毛利輝元
② 豊臣公議政務・財政担当・・・増田長盛
③ 豊臣公議朝廷・寺社担当・・・前田玄以
④ 西軍副指令官・・・・宇喜多秀家
⑤ 作戦参謀、調略・取次、部将・・・石田三成(・長束正家?)
⑦ 総軍司令官(輝元)派遣軍・・・
e.大友義統(九州・対黒田)
f.宍戸景世(伊予・対加藤忠明)
g.毛利元康(付:立花宗茂等)(大津・対京極)(九月八日~)
以下、検討します。
① 西軍総指令官・・・毛利輝元
①の「西軍総司令官」が毛利輝元であり、そして彼は総司令官として「作戦本部」の大坂城で西軍全体の指揮をとることになります。
ところで、ここで問題が2つ生じます。
第一に、「総大将」、総司令官といいつつ、実際には輝元は、すべての西軍の指揮権を掌握している訳ではないのです。彼が掌握しているのは、実は⑦の総司令官派遣軍及び大坂城の自軍のみ(それでも西軍の大部分と言えますが)であり、③の副司令官宇喜多秀家は、独立した指揮権を持っていますし、また従三位権中納言クラスの大名である⑥上杉景勝・小早川秀秋・織田秀信は毛利輝元の軍事指揮権下に入っておらず、独立した軍事指揮権を持っていたと考えられます。毛利輝元自身が従三位権中納言であり、彼らと同格なので、これは考えてみれば当然のことです。
(特に上杉景勝は大老ですし、遠く離れた会津にいる訳ですので、指揮権の及びようがありません。)
彼ら(宇喜多秀家・上杉景勝・小早川秀秋・織田秀信)は、総司令官毛利輝元からは独立した存在であり、西軍とは毛利・宇喜多連合軍に西軍「同盟軍」(上杉・小早川・織田)が加わった構図なのだと考えた方がわかりやすいです。
第二に、秀吉の遺言で五大老・五奉行制が作られ、そして毛利輝元は五大老ではありますが、直接秀吉から遺言で政務の委任を受けたのは徳川家康、秀頼の守役を受けたのは前田利家であり、遺言では五大老の中でもこの二人の権限が突出する形になっています。
他の三大老(輝元・宇喜多秀家・上杉景勝)は上記の二大老のサブ的存在であり、家康は七月十七日の「内府違いの条々」クーデターで大老の地位を失権した(というのが三奉行、西軍「豊臣公議」の認識・主張です)とはいえ、これによって家康に代わって大老輝元が天下の政務・軍事を見るという正当性を示すのは実は微妙です。(これが、利家の息子である利長であれば、まだ理屈が成り立つわけですが。)この正当性を保証するとともに実際の実務を行うのが、三奉行、特に大坂城にいる増田長盛の役割です。
② 豊臣公議政務・財政(実務)担当・・・増田長盛
輝元が家康に代わって、天下の政務・軍事を担うといっても、実際には政務の実務を行うのは三奉行であり、また「豊臣家中」の臣である三奉行が実質的には「豊臣公議」を代表します。白峰旬氏の参考文献を参照しても、世間では三奉行を「豊臣公議」と認識しているようです。
「豊臣公議」を代表する三奉行の保証があって、はじめて輝元は「天下殿(秀頼)の代行人」「西軍総大将」の地位が対外的に認められるわけです。
しかし、三奉行のうち、前田玄以は後述するように病気で動けなくなり、関ヶ原の戦いにはほとんど何の力も発揮することなく終戦を迎えます。
そして、長束正家は基本的には伏見(八月一日陥落)→伊勢→南雲山と戦場を転戦して、大坂城には基本的にはいませんので、公議代表としての政務の実務を行えません。
七月十七日の「内府違いの条々」以降、石田三成も奉行衆に復帰したようですが、佐和山→伏見→大坂→佐和山→美濃→大垣→佐和山→大垣→美濃→大垣→関ヶ原と転戦していますので、こちらも正家と同じく大阪城で政務は行えません。
長盛ひとりが大坂城で政務を行うことになります。
豊臣家の財政管理も奉行衆の仕事であり、増田長盛が行いましたが、この関ヶ原の戦いで豊臣家の家計からの支出はなかったようです。これは長盛の判断だと思われます。また、細川ガラシャ事件以降、結局西軍につかなかった東軍諸将をみせしめのために殺さなかったのも長盛の判断だったようです。(誤解されている方もいるかもしれませんが、細川ガラシャ事件以降も人質作戦は継続しています。また、事件の時に三成は佐和山におり、大坂にはいませんので、細川ガラシャ事件と三成は無関係です。)
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細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」②
細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」③
これらの行為は、いわば西軍が負ける可能性あることも予測し、負けた後に豊臣本家が泥をかぶらないようにと考えての行動な訳です。
豊臣家の家計から軍資金を出さないのは、負けた後に「あれは私戦で、豊臣家は関係ありません」と言い訳をするためです。三奉行連署による「内府違いの条々」を発出した時点で、この戦いは、本来は「公戦」であり、そのような言い訳は成り立たないのですが、戦後の処理で家康はこの言い訳を受け入れています。東軍にも「豊臣恩顧の大名」が多いための、家康の配慮による処理ということになります。
大坂城の奉行衆は総司令本部の作戦参謀としての意味もあるはずなのですが、長盛は何か輝元に進言していたのか、あるいは何も進言していなかったのかどうかは不明です(書状として残っていないかと思われます)ので役割からは外しました。
③ 豊臣公議朝廷・寺社担当・・・前田玄以
前田玄以は、豊臣公議の朝廷・寺社担当です。ですので、今回の戦では朝廷工作等の働きを積極的にしていてもよかったのではないかと思われますが、少なくとも慶長五(1600)年七月二十三日には玄以は病であったことが確認されており(*1)、これは戦が終わるまでそうだったようです。このため、目立った働きのないまま終戦を迎えます。(もっとも、公家等の日記を見ると「西軍」は明らかに「豊臣公議」と認識されていますので、それ以上の朝廷工作は不要だったかもしれません。)
④ 西軍副指令官・・・・宇喜多秀家
宇喜多秀家が西軍の副将となったのは、ただの副指令官以上の意味がありました。
秀吉の兄弟・養子が相次いで亡くなった豊臣本家で、秀頼を支える「豊臣家御一門」に連なる存在と呼べるのは、秀吉養女の婿である宇喜多秀家(正室は、秀吉養女(実父は前田利家)豪姫)、毛利秀元((正室は、秀吉養女(実父は豊臣秀長)大善院)、及び秀吉の元養子であり北政所の甥の小早川秀秋(北政所の甥は他にもいますが、秀吉の元養子であり、従三位権中納言の地位にあるのは秀秋のみです)の三名くらいになります。
この三名が西軍についたということは、西軍が豊臣家一門の支持を受けている存在であり、西軍=豊臣家=豊臣公議と世間に知らしめるものとなる根拠になる訳です。(このため、関ヶ原の戦いで毛利秀元が不戦であり、また小早川秀秋が裏切ったことにより西軍が敗戦すると、一挙に西軍は崩壊することになる訳です。)
この三名の中で、五大老は宇喜多秀家のみであり、このため西軍副指令官としての地位を得るわけです。
石田三成には軍事指揮権はなく、大きな作戦行動については、基本的には作戦本部である大坂城の総司令官毛利輝元及び増田長盛へ注進し、本部の指示を受けてしか行動できない訳です。しかし、後に西軍副指令官宇喜多秀家の幕下で同行することにより、大坂城からの指示ではなく、独自の作戦を直接秀家に進言して、宇喜多副司令官指揮下の軍の作戦を展開することが可能になりました。
⑤ 作戦参謀、調略・取次、部将・・・石田三成(・長束正家?)
さて、この戦いにおける石田三成の役割とはなんであったのでしょうか?
第一には、作戦参謀です。作戦参謀というと、総司令本部に籠って作戦を立案・提案しそうですが、この時代通信技術は発達していませんので、みずから前線へ行って敵情を視察し、状況を分析して、作戦を進言するしかありません。(あるいは、総大将軍が自ら前線に行ってその幕下で進言のパターンかです。)
慶長の役の軍令を見た限りでは、豊臣軍においては総司令本部と前線が離れている場合、敵情を偵察した参謀が、注進状を書いて敵情を報告し、その敵情に基づく作戦を提案し本部へ送付、これを披見した本部が注進の諾否を判断し、また報告の状況分析を受けて新たな命令を発した返状を前線に送付するという流れになっています。(戦場で緊急に対応しなければならない事態が発生した場合は、独断専行するより他なく、これが逸脱しすぎると「軍令違反」が問われる危険が出てくるという事も関連エントリーで触れました。)
※関連エントリー↓
しかし、実際にはこの三成⇔大阪城間の書状(注進状・返状)がないに等しいのですね。(私が知らないだけかもしれませんが。)(大阪城開城前に機密情報のため、破棄された可能性が高いです。)
例外的にあるのは、九月十二日付増田長盛宛石田三成書状ですが、以前のエントリーでも触れましたが、これは偽文書の可能性が高いです。
(これについては、以下のエントリーを参照願います。↓)
だから、実際には三成がどのような作戦を立案・提案し、大坂城(毛利・増田)はその提案に対してどのような反応をしたのかよく分かっていないのです。
しかし、真田昌幸(には、同盟軍上杉景勝との連携・連絡役が求められていましたので、情報を知らせないといけません)宛の一連の石田三成書状を見ていくと、三成がこの戦いでどのような作戦を立案・提案していたのか、そしてその提案は大坂城サイドには、ほとんど受け入れられていなかったことがうかがえます。これは後のエントリーで見ていきます。
第二に調略・取次です。
調略については、三成は、信濃上田の真田昌幸、岐阜の織田秀信の調略(西軍につけること)に成功しています。(元々、昌幸は三成の縁戚・取次なのですが、昌幸が嫡男信幸の縁で徳川方に付く可能性もありました。)
しかし、昌幸の嫡男信幸は、徳川家康養女(本多忠勝実娘)を正室としていましたので東軍につき、これが大きく西軍の作戦に支障をきたすことになります。
(※石田三成と真田信幸との親交は、以下に書きましたが、家康・忠勝との縁戚関係を重視したこと及び、真田家を東西に分けることによってどちらが勝っても真田家を生き残らせるために、信幸もこの時ばかりは非情の決断を行うことになりました。)
※関連エントリー↓
取次については、西軍にとっては、特に会津の上杉景勝との連絡・連携が最重要事項でした。これは、会津の上杉軍と、大坂の毛利・宇喜多連合軍が、東西から徳川軍を挟み撃ちにする構図にあり、これが西軍連合軍の強みであり、かつ弱み(東の上杉軍と西の毛利・宇喜多軍は分断されている訳ですので挟み撃ちといっても連携は困難です)でもありました。
このため、三成は、石田三成⇔真田昌幸(信濃・上田)⇔真田信幸(上野・沼田)⇔上杉景勝(会津)の連絡ルートを構築し、上杉軍との連携・協力を図ろうとしますが、真田信幸が東軍に付いたことで、この連絡ルートは遮断されてしまい、三成と景勝の連絡は非常に困難なものとなりました。この事により、景勝は上方の情勢を把握することが困難になり、これが、景勝が関東乱入を判断しなかった要因となったことが考えられます。
第三に、一軍の将としての役割です。三成は自領の四千の兵に加え、秀頼麾下の兵二千を加え計六千の兵を率いて戦に参加しています。
奉行衆である長束正家にも同様の役割が課せられたはずですが、こちらは大坂⇔正家間の書状がない(知る限りですが)ので、長束正家が作戦参謀等として、どのような役割をしていたかは、よく分かりません。
前述したように、上杉景勝、小早川秀秋、織田秀信は従三位権中納言クラスの大名であり、同格である毛利輝元・宇喜多秀家の指揮下に入っていません。このため、それぞれ独自の思惑・判断で動くことになります。他の西軍諸将ができることは、彼らを同盟軍として扱い、協力を呼び掛けることとなります。
彼らの軍の行動を西軍の指揮下に入っていると誤解してしまうと、よく分からないことになります。
⑦ 総軍司令官(輝元)派遣軍
総大将毛利輝元が各地へ送った派遣軍です。見ての通り、分散させ過ぎですね。
これ以外にも阿波占領のために毛利軍を派遣しています。
輝元の関心は、家康軍(東軍)の打倒よりも、この機会に西国に残存する東軍(東軍の大部分の大名は上杉征伐で家康とともに東下していますので、多くは留守居の城代か隠居です)を撃破し、その事によって自領及び毛利の影響圏を拡大したいという意欲の方が高く、このため西軍の兵力は各地へ分散してしまうことになり、これも西軍が敗北する大きな原因となります。
(ちなみに、従来の研究書を見ると、石田三成がこの派遣軍の指令をしていたかのように誤って記述している書籍もたまにありますが、総司令官である輝元が当然派遣軍の指令を行っていたのであり、石田三成に、総司令官輝元や副司令官秀家を凌いで派遣軍の指令をできるような権限など、はじめからありませんし、指令などそもそもできません。)
次回のエントリーでは、石田三成の真田昌幸宛書状を参考に、三成がどのような戦略を立てていたのかを検討する予定でしたが、その前に関ヶ原の戦いを巡る3つの派閥について及び、石田三成がしばらく「徳川派」だった可能性について検討しました。よろしくお願いします。
※次回のエントリーです。↓
注
(*1)白峰旬 2016年、p85
参考文献
小和田哲男監修・小和田泰経著『関ヶ原合戦公式本』Gakken、2014年
白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) -時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)-」(『史学論叢第 46 号(2016 年3月)所収』
http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php/sg04607.pdf?file_id=8233
光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』NHKブックス、2009年
矢部健太郎『敗者の日本史12 関ヶ原合戦と石田三成』吉川弘文館、2014年
中野等「石田三成の居所と行動」(『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年所収)
「兵農分離」はあったか?
☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る
「兵農分離」はあったか?
これは、そもそも従来の考え方の前提が間違っているのだと思われます。従来一般的に考えられていた「兵農分離」とは、「戦国の兵とは、農繁期には農業をして、農閑期には戦争をする『兼業農兵』だったが、織田信長・豊臣秀吉は兵農分離を行い、専業兵士を作り、1年中戦争できる軍隊を作ったため、天下統一にまい進することができた」という意味でした。
しかし、西股総生氏の『戦国の軍隊』等を読むと、そういった「兼業農兵」は存在せず、戦国の兵達は、はじめから「専業の兵隊」であるようです。だから、戦国時代には、そもそも分離されるべき「兼業農兵」など存在しなかったのです。
ただ、その戦国の兵隊は元々武士である「正規兵」と、その場雇いの「非正規兵」に分かれています。この「非正規兵」が問題となります。
この「非正規兵」の出身はどこか。西股総生氏の著書を読むと、①元々武士だったが、主家が滅亡するなどして「牢人」になってしまった者、②元々農民だったが、田畑を戦乱等で失ってしまった流浪の者か、腕に覚えがあって農村から飛び出し(逃げ出し)、立身出世や恩賞狙いで兵となった者、がいるようです。
しかし、こうした戦国時代に大量に発生したであろう「非正規兵」たちは、「天下泰平」になれば、仕事がなくなってしまい、「牢人」や「浮浪の者」になってしまうことになります。この者たちをどう処遇すべきか、という難題に天下統一を果たした豊臣政権は突き付けられることになる訳です。
彼らは放っておけば、(食い扶持がない訳だから)内乱を起こす原因となり、内乱が各地で勃発して豊臣政権が転覆すれば、天下は再び戦国時代へ逆戻りとなってしまう危険性が高いです。
そうした事態を避けるために秀吉が考えたのが、
①「兵農分離」
②「失業者対策・公共事業としての『唐入り』」
だと思われます。
①については、つまりは(日本国内では)戦乱の世は終わったんだから、農村に帰れる者(元農民)は農村に帰って農業しなさい、牢人は武士に戻りなさい、という意味です。
戦国時代に大量に発生した「非正規兵」という層を「兵」と「農」という身分に再分離しなおすということです。
しかし、いくら戦乱の世で田畑が荒れていたとしても、既に農村に農民はいるわけですので、仮に彼らが農村に戻ってきたとしても、そのすべてを農村が吸収できるとも限りません(というか、実質困難なのでしょう)し、元々農業よりも腕に覚えがあって「非正規兵」に参加したのですから、そもそも農民に戻りたくないという者もいるでしょう。
また「牢人」は、農民になろうとしても、元々帰って農業につける農村があるかも怪しいですし、これから「天下泰平」になることが前提ならば、新規に召し抱える大名は激減し、仕官先がないということになります。
そうした、農村に吸収できない「牢人」「浮浪の者」の失業対策として秀吉が考えたのが「唐入り」という「公共事業」だと考えられます。彼らが国内に留まれば、不満分子として内乱の原因となる。彼らに「外征」という「フロンティア」を与えて開拓してこい、というのが、秀吉の「唐入り」の趣旨ということになります。
しかし、周知のとおり秀吉の「唐入り」は失敗に終わります。恩賞や土地をほとんど得ることもなく、ただ兵士の消耗と借金のみがかさんだ諸大名の不満は、秀吉の死後の豊臣公議にぶつけられます。そのため起こったのが「七将襲撃事件」です。(この事件の石田三成は、ほとんどスケープゴートですが。というか、三成っていつもスケープゴート・・・・・・。)
そして、相変わらず「非正規兵」の問題は解決していません。そこで「七将襲撃事件」以後、天下殿(公議の代行者)となった徳川家康が考えたのが、「内戦ビジネス」でした。
すなわち、国内に「敵」をでっち上げて、その敵を「征伐」するために戦争を起こし、これに賛同して参戦する大名達と恩賞と土地を山分けすることで、諸大名の不満に答え、更にはこの内戦の論考功賞により、豊臣公議の蔵入地を恩賞として諸大名に与えることによって豊臣家を弱体化させ、しかる後に、自らが公議を乗っ取るという計画でした。
実はこの内戦が終了してしまえば、再び「非正規兵」の問題は復活してしまうだけなのですが、家康としては、①とりあえず非正規兵に仕事の場を与え、②「敵」を作り出すことによって諸大名の不満をそらして、不満をその「敵」にぶつけさせ、③かつ自己権力の増大と豊臣公議の弱体化をはかり公議乗っ取りを達成するという、一石三鳥の策なわけです。
この家康の意図に気が付いた奉行衆は七月十七日の「内府違いの条々」クーデターにより、家康のもくろみを阻止しようとしますが、関ヶ原の戦いで敗れ、東軍(家康)の勝利に終わることになります。
この「非正規兵」問題を、この後どのように徳川幕府が解消していったのかは、徳川時代について詳細に調べないとよく分からず、現状は守備範囲外で何ともいえませんので、ここでは検討しません。(ただ、「大坂の陣」「島原の乱」で大量の死者が出たであろうことは分かっています。)
※「非正規兵」の中には「兵」とはいえないのも含まれているかと思いますが、煩雑さを避けるために便宜上「非正規兵」で統一しました。ご了解願います。
※花園大学文学部准教授の平井上総氏が『兵農分離はあったのか』(平凡社)という著作を近日出されるようです。読む機会がありましたら、感想等書きたいと思います。
参考文献
西股総生『戦国の軍隊』角川ソフィア文庫、2017年(2012年初出)
※上記が参考文献ですが、本エントリーの考察は筆者の考察によるものであり、上記参考文献の要約等ではありませんので、ご注意願います。よろしくお願いいたします。