古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第9章 蒲生家と石田三成の繋がりについて

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

1.蒲生氏郷死去

 文禄四年二月七日蒲生氏郷が死去すると、嗣子鶴千世(のちの秀行)が跡を継ぎますが、しかし、鶴千世は年少(十二歳)であり、遺跡をめぐる問題を生じます。

 中野等氏の『石田三成伝』によると、

「家康は、秀吉の命によって、氏郷の没後間もなく娘を鶴千世に娶らせている。この婚姻は相続を条件とするであったと言われ、ようやく鶴千世の家督継承をみるが、蒲生家をめぐる混乱はこれでは収まらなかった。既述のように、この間に会津蒲生領では検地が実施されたが、それにともなう出米(石高の増加)の申告があまりに過少であり、また、洪水にともなう荒高の処置にも疑念がるとして、秀吉みずからが蒲生家年寄衆を糾弾する事態に至ったのである。

 蒲生家の年寄衆は五月吉日付で連署して、前田玄以・浅野長吉に「会津知行目録」を提出した。秀吉はこれにいちいち批評を加えた上で、「知行方之儀、年寄共如此不相届仕様、無是非次第候」と断じた。蒲生家は改易とされ、鶴千世には当面近江国で堪忍分二万石を与える、との処断がなされた。」(*1)

 この、秀吉の処断命令の写しは、諸大名に充てて発せられ、奉行衆の連署状も添えられていました。署名した奉行衆は、前田玄以・浅野長吉・石田三成増田長盛長束正家の五名です。

 

 これは、「秀吉の希求する領国構造を実現できなければ、大大名であっても改易のやむなきにいたるという、過酷な現実を全国に知らしめるに充分な効果を」(*2)持ちました。

 しかし、「事態は三転し、六月二十一日になると、この改易処分は急遽撤回される。蒲生鶴千世の岳父となった家康の、秀吉に対する説得が奏効したものと言われている。」(*3)とされます。

 

 こうして、この時は鶴千世(秀行)の、会津領継承は波乱を含みながらも認められることになりますが、結局、慶長三(1598)年正月、蒲生秀行は蒲生の家中対立に対する家中取締不始末を理由として、会津九十二万石から宇都宮十八万石へ減封されます。

 

2.蒲生騒動

 この、秀行の宇都宮減封の原因となった蒲生家中の対立は「蒲生騒動」と呼ばれています。

 この蒲生家中の対立は、氏郷の生前の文禄二(1593)年頃からあり、白川亨氏によると、「名護屋出陣中、国元の仕置奉行で米沢城代・七万石の筆頭仕置奉行・蒲生四郎兵衛郷安派と中山城代・一万三千石・蒲生左門郷可派との家中を二分しての対立抗争があり。その時は白石城代・四万石蒲生源左衛門郷成の調停により一応収拾」(*4)されました。

 しかし、「慶長三年の内紛は、秀行の寵臣で仕置奉行の亘利(綿利)八右衛門を蒲生四郎兵衛が斬った事件があり、それに反発した蒲生左門が蒲生源左衛門等とともに、秀吉に訴えて蒲生四郎兵衛を追放する事件があった。

 蒲生秀行もまた怒って、蒲生四郎兵衛を斬らせようとするが、四郎兵衛は追われて石田三成を頼った。秀行から相談を受けた徳川家康もまた、四郎兵衛を石田三成に預けようとするが、秀行は四郎兵衛を憎んで拒否し、加藤清正に預ける、という、いわゆる蒲生家のお家騒動があった。

 それに対し秀吉は、蒲生秀行の家中取締不始末を理由として、慶長三年正月、会津九十二万石を没収して、宇都宮十八万石に転封する左遷命令を発した。」(*5)

 このお家騒動の際に、蒲生四郎兵衛郷安が石田三成を頼ったことから、このお家騒動→蒲生秀行減封処置は、三成を画策したものだとする説があります。(『蒲生盛衰記』『続武者物語』等)(*6)

 

 しかし、以下の事実によって、上記の説は否定されます。

1.蒲生四郎兵衛郷安を石田三成が匿おうとしていていますが、蒲生秀行の岳父徳川家康も同じように郷安を石田三成に預けようとしています。

 この事件では三成と家康は、蒲生騒動の事態を収拾するために、協力して事に当たっているのであり、秀吉の処置の裏に三成の画策があったという事はありえません。

2.三成は、減封されて録を失った蒲生家臣団を自分の家臣に引き入れることになります。これを三成による蒲生家臣団の吸収ととらえる向きもありますが、この騒動で三成が加増されたわけでもなく、旧蒲生家臣団を石田家に引き入れたのは、リストラされて困っている蒲生家臣団と、減封されて家臣をリストラせざるを得ず困っている蒲生家から家臣を迎え、救済するための処置といえます。

 この時、蒲生家から三成の家臣となった主なメンバーは、蒲生郷舎(今回の騒動の一方の発端となった蒲生左門郷可の次男)、蒲生大膳、北川平左衛門、蒲生大宅炊助、蒲生頼郷等であり、多くの元蒲生家臣が三成を頼り、関ヶ原の戦いでは三成の家臣として奮戦しています。

 特に、蒲生左門の息子である蒲生郷舎が、三成の家臣となったことは、この騒動で、三成がどちらの派にも肩入れしていた訳ではないことが分かります。

 3.関ヶ原の合戦後、蒲生秀行は、三成の娘婿(次女の婿)、岡重政を登用し、2万石の筆頭仕置奉行として重用します。(*7)三成が蒲生家を陥れ蒲生減封を画策したと、秀行が思っていたとしたらこれは考えられないことです。むしろ、減封となり家臣の処遇に困っていたところを助けてくれた三成への秀行の感謝が感じられます。     

 また、秀吉が蒲生氏郷に争乱の地である東北会津九十二万石を与えたのは、その大任を果たす器量があると見込んだからであって、その息子であっても年少で器量が不確かな秀行に当然に与えられるものではありません。年少の秀行には荷が重い大任であり、そのため秀吉が一時会津領を取り上げようとしたのは、むしろ当然のことといえます。

 家康が岳父となり後見をすることで、とりあえず秀吉は秀行の会津後継を認めたものの、結局、家中の統制すらままならない秀行に会津九十二万石の大領を治める能力はなく、蒲生騒動をきっかけに、身の丈に合った宇都宮十八万石に移したのは、秀吉なりの考えがあってのことだと思われます。

 

 前回のエントリーも併せ、以上のように見ていきますと、三成が蒲生氏郷を毒殺したとか、蒲生秀行の減封を画策したということはありえず、むしろ三成と蒲生家・蒲生家中の繋がりを考えると、三成と氏郷・秀行は親しい間柄にあったのではないかと思われます。

 

 注

(*1)中野等 2017年、p246~247

(*2)中野等 2017年、p248

(*3)中野等 2017年、p248

(*4)白川亨 1995年、p157

(*5)白川亨 1995年、p157~158

(*6)白川亨 1995年、p158

(*7)白川亨 2007年、p122

 

 参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第8章 石田三成は蒲生氏郷を毒殺していません

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 現代の方で、そもそも「石田三成蒲生氏郷を毒殺した」という説を信じている方はいないかと思いますが、江戸時代の史書というものが、いかに馬鹿げた嘘だらけのものであるかを示すために、この説も紹介いたします。

 江戸時代の史書の多くが、三成の策謀によって蒲生氏郷が毒殺されたとしています。例えば、「『藩翰譜』(新井白石)、『日本外史』(頼山陽)、『氏郷記』では、太閤没後の天下を狙う蒲生氏郷を恐れた石田三成によって、毒殺されたとする説を載せて」(*1)いますが、これは以下に述べるようにまったく根拠のない、でたらめな話です。

 また、『備前老人物語』にも同様な毒殺説が載っていますが、この『備前老人物語』によると、天正十九年(1591)年二月に切腹した千利休が、なぜか文禄二(1593)年に(毒による)病の蒲生氏郷を見舞うという滅茶苦茶な話になっており、これも全く信ずるに値しない論外な話といえます。(*2)

 白川亨氏の『真説石田三成の生涯』を以下引用します。

蒲生氏郷肥前名護屋の陣中で発病したのは、文禄二年(一五九三)一月である。初め吐血があり、続いて下血、浮腫も出たと記録されている。(筆者注:また、医師曲直瀬道三の『医学天正記』にもこの時期に氏郷が病にかかった記載があります。(*3))従って同年八月二十五日、秀吉とともに大坂へ帰り、同年十一月には会津若松に帰っている。

石田三成が奉行として朝鮮に渡海したのは、その前年の天正二十年(一五九二)年六月三日であり、明の講和使節とともに一時帰国したのは文禄二年五月八日、肥前名護屋に到着し、直ちに朝鮮に引き返している。(筆者注:三成は、その後五月二十四日に朝鮮に戻り、九月二十三日帰国しています。(*4)従って、蒲生氏郷が文禄二年一月、三成は在鮮中であり、蒲生氏郷に毒を飲ませることができようはずがない。」(*5)としています。

 その後の氏郷の病状については、白川亨氏の『石田三成の生涯』より引用します。

「翌文禄三年一月、秀吉の伏見城完成・祝賀のため上洛し、四月には氏郷の伏見邸も完成している。四月十四日、伏見・蒲生邸に秀吉が来訪、その頃、病が再発したようである。

十一月二十五日、秀吉を再び伏見・蒲生邸に招いているが、その頃、既に氏郷の病状は相当に悪化していたようである。それを心配した秀吉は、十二月一日に徳川家康前田利家に命じて九人の医師を派遣して診断させている。

その一人である曲直瀬道三は、「十ニ九ツ大事ナリ、今一ツカカル年ノ若キト食ノアルトバカリナリ、食アルイハ減ジ気力衰エテハ、十ニ二十モ大事ナルベシ」と報告している。即ち「十の内九迄は回復の見込みはない、後の一つは年が若いのと食欲があるのが希望を抱かせるが、食欲がなくなり気力が減じたときは、その希みも断れる」としている。当時の医療水準では、もはや手の施しようがなかったのであろう。

その後は、曲直瀬道産の診断どおり病状が進んで、翌文禄四年二月七日、伏見・蒲生邸に於いて四十歳の若い生涯を閉じ」(*6)ることに氏郷はなります。

 

 つまりは、蒲生氏郷は、文禄二年(一五九三)一月は名護屋の陣中で発病し、その時に三成は朝鮮に在陣しており、毒を飲ませるようなことはできません。また、氏郷の死が病によるものであるのは、曲直瀬道三の記録から明らかであり、これを毒殺とすることもできません。

 江戸時代の史書というものは、新井白石頼山陽のような著名な学者ですら、平気でこのようなでたらめな話を載せてしまう水準のため、史料としての信用性の低さにはがっくりしてしまうのですね。

 

関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)白川亨 2009年、p216

(*2)白川亨 2009年、p217

(*3)白川亨 1995年、p156

(*4)中野等 2011年、p301

(*5)中野等 2011年、p217

(*6)白川亨 1995年、p156~157

 

 参考文献

白川亨『石田三成の生涯』新人物往来社、1995年

白川亨『真説 石田三成の生涯』新人物往来社、2009年

中野等「石田三成の居所と行動」『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第7章 豊臣秀次家臣を保護する三成

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る 

 

 豊臣秀次切腹事件の真相については、歴史研究界でも活発な論争が続いています。以下の論点について、秀次切腹事件の筆者(古上織)の見解をまとめます。(詳細については、具体的には下記の一連エントリーで論じましたので、ご覧ください。)

 

1.秀吉と秀次の不和の原因は何か?

→秀次の「謀反」(「秀吉死後に、御拾(秀頼)ではなく、自分(秀次)の息子を後継にする」)計画が露呈した。このため、秀吉奉行衆が聚楽第の秀次に詰問に訪れることになった。

 

 2.秀次の高野山行は出奔(自発的)か、追放(強制的)か?

→秀吉奉行衆の詰問に対して、秀次が秀吉に対して謝罪の意を示すために、高野山へ出家・出奔を決意し実行した。秀次自身の意思ともいえるが、秀吉の詰問を受けて、自ら処する態度を迫られたものであるので、完全に自発的な意志とも言えない。 

 

 3.秀次切腹は秀次自身の意思によるものか、秀吉の命令によるものか?

高野山に来た秀吉の使者(福島正則、福原長堯、池田秀雄)が秀次に渡した秀吉の命令(秀次高野山在住令)は、秀次の高野山「出奔」を後追いで、改めて秀吉政権の「謹慎」命令として確定し、高野山に在住すべしというものだった。

 

 秀次はこの命令が予想していたものより重かった(しばらく謹慎すれば許されるものと秀次は思っていたが、「秀次高野山在住令」には在住の期限が書いていなかった。このため、秀次は無期限(残る一生すべて)の高野山禁錮ではないかと勝手に解釈した可能性がある。)ため絶望して、秀吉の命に背き、自ら切腹を決意した。

 

4.なぜ、秀次の妻子は処刑されたのか?

→①「謀反」を行った秀次に対して、(本来なら成敗すべきところを)高野山謹慎という穏便で「温情」処分に減じた秀吉の命令に逆らう形で、勝手にあてつけのように自殺したことへの怒り。

 ②高野山によって、秀次の切腹は「むしつ(無実)ゆへ」と京に伝えられた。

 この「無実ゆえ」というのは、「秀次は、秀吉から『謀反の噂』の疑いで、高野山に謹慎させられることになったが、秀次は「秀吉の疑いは間違いだ、自分は無実だ」という抗議の意味で自殺したという主張になる。

 この秀次の抗議を認めたら、秀吉は「自分の判断・処分は間違っていた」と世間に公表したということになってしまう。

 秀吉は秀次への処分に対する自分の判断は間違っておらず、むしろ「温情的な」処分だと考えていた。この秀次の(誤った)「抗議」を、世間的にも認める訳にはいかず、否定するより他なかった。このため、はじめは穏便に事態を処理するため、曖昧にしていた「秀次の『謀反』があった」という事実を公表し、更なる過酷な処分を行うことによって、秀吉の意思を世に示す必要があった。

 

③加えて、秀次が切腹した場所は高野山中の青厳寺だった。青厳寺は秀吉の母大政所菩提寺であり、そのような大切な場所で、秀吉の法令に反し勝手に切腹して、青厳寺を血で汚した秀次の行為は、「秀吉側の処罰感情を厳格化させてしまった」。(*1)

 

④中世において「切腹」は色々な意味を持つが、そのひとつとして、「「強烈な不満・遺恨、自己の正当性などを表明する「究極の訴願の形態」であり、「復讐手段」という意味もあった。(*2)

  秀次の切腹もまた、秀吉にとっては「復讐手段」として受け取られた可能性があり、そして、その秀次が「復讐」を呼びかける対象は、秀次の家族や家臣に対してということであり、復讐の対象は秀吉ということになる。

 秀次の死を賭した「復讐」の呼びかけに、秀次の遺族達が立ち上がり、秀吉や秀頼を標的として復讐戦を行うかもしれない、という「怯え」が秀吉にはあった。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(①~⑥まであります。)↓koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com 

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

4.秀次切腹事件の時の石田三成の動きは?

→①上記で書いたとおり、秀次の「謀反」の噂が表面化したため、秀吉の命令で三成ら奉行衆は、秀次を詰問せざるを得なかったが、「成敗」ではなく、「高野山の謹慎」という、なるべく穏便な処置に留まり、事態が深刻化しないように動いていることが、他大名への書状から分かる。

②秀次切腹後は、三成は秀次家臣の保護に奔走しており、秀次の旧部下の「若江衆」の大部分は三成の配下として、関ヶ原の戦いで東軍と奮戦・討死している。

 このような経緯を考えても、江戸時代の(小瀬甫庵『太閤記』等の)「石田三成らが、秀吉に讒言して秀次を陥れ、切腹に追い込んだ」という俗説は、神君家康公に逆らった三成を貶めるために後年創作されたものであり、誤りである。

 

 ※詳細は、以下のエントリーをご覧ください。(⑦~⑨まであります。)↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 注

(*1)矢部健太郎 2016年、p184

(*2)矢部健太郎 2016年、p218~219

 

 参考文献

矢部健太郎『関白秀次の切腹』KADOKAWA、2016年

(上記エントリーの見解は、筆者(古上織)の見解であり、参考文献の矢部健太郎氏の見解とは違う部分も多くありますので、よろしくお願いします。)

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第6章(当たり前の話ですが)豊臣秀頼は石田三成と淀殿の間の子ではありません。

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 上記のタイトルの通りですが、なぜこんなことをわざわざ書くかというと、NHKはなぜか、過去の大河ドラマでこの手のファンタジー話が好きなようで、確か『秀吉』『功名が辻』『江』あたりでも、三成と淀殿の「あやしげな」関係を描いていました。すいませんが、天下のNHKさんがこうした創作話を描かないでほしいんですね。描くのは歴史上の実在の人物なんですから。

 

 まず、物理的な話。秀頼が生まれたのは、文禄二(1593)年8月3日。

 石田三成は、天正二十・文禄元(1592年)6月6日に名護屋から軍目付として朝鮮に向かい、文禄二(1593)年9月23日に名護屋に戻るまで、(文禄二年5月13日から24日の間の一時帰国を除き)、朝鮮に在陣し続けます。

 対して淀殿は、その間当然日本にいますので、そもそも物理的に秀頼の父が三成であることはありえません。

 

 以上、終了の話なんですが、この時代の三成と淀殿の関係が何かないかと思って調べてみても、むしろ、「接点なさ過ぎじゃね?」て、感じがしてしまうのですね。三成と淀殿との(公的な意味での)関係がうかがえる文書がほとんどないのです。(まあ、あったとしても関ヶ原の戦い以降、破棄されてしまったのかもしれませんから、何ともいえませんが。)

 むしろ、西軍諸将と淀殿との関係の薄さこそが西軍敗北の原因のひとつだったのではないかと思ってしまいます。

 

 これに対して、石田三成は次女小石を北政所の侍女としており、後に彼女は北政所の執事の孝蔵主の義甥の岡重政と婚姻、三女辰姫は秀吉死後に北政所の養女となっています。大谷吉継の母東殿は北政所侍女、小西行長の母わくさ(洗礼名マグダレナ)も北政所侍女、宇喜多秀家は秀吉・北政所養女の豪姫(実親は前田利家)の婿殿、彼ら西軍諸将は北政所ファミリーといってよいです。

 

 関ヶ原の戦いの間、北政所淀殿は険悪ではなく、むしろ大津城開城のために協力しあってはいるのですが、淀殿の内心としては、「西軍諸将は、所詮は北政所ファミリーであり、自分自身(淀殿)の味方ではない」と思われたかもしれないなー、と思います。そこら辺が淀殿関ヶ原の戦いにおける消極的な姿勢に反映されたのではないでしょうか。 

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第5章 千利休切腹事件と石田三成は無関係

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

 千利休切腹事件については、以下のエントリーで詳細に検討しましたので、参照願います。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 結論としては、千利休切腹事件とは石田三成は無関係であり、また石田三成(及びその兄弟・義兄弟)は利休とは親密な仲であり、利休を追い落とすような策謀を考えることがそもそも考えられず、また時間的・物理的にもそのような策謀を行うことは無理だという主旨です。

 

 ※関連エントリー

koueorihotaru.hatenadiary.com

「嫌われ者」石田三成の虚像と実像~第4章 文禄の役における黒田官兵衛の秀吉叱責は、三成の讒言によるものではない

☆ 総目次に戻る☆ 

☆戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次に戻る

☆「嫌われ者」石田三成の虚像と実像 第1章~石田三成はなぜ嫌われまくるのか?(+目次) に戻る

 

※以下の記載は、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版社、2014年)を参照したものです。

(以下のページ記載については、上記書籍の参照ページです。)

 

黒田家譜』によると、朝鮮出兵文禄の役)の際に、「三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。」(p173)などの記述があります。その結果、秀吉は激怒し、危うく黒田官兵衛は死罪に問われそうになりますが、かろうじて赦免され剃髪して隠居に追い込まれた、という話です。

 

 さて、この話は事実なのでしょうか?この件については、中野等氏の「黒田官兵衛朝鮮出兵」に詳細に記されていますので、以下引用・参照します。

 

 黒田官兵衛は、文禄の役で朝鮮に渡海しますが、病を得て一時(天正二十・文禄元年(1592年)9月末)日本に帰国します。そして、文禄二(1593)年には、病も癒えたようであり、秀吉の命令を受けて再び官兵衛は、二月中旬、浅野長吉とともに再び朝鮮に渡ります。両者とも北上はせず、しばらく釜山付近にとどまります。(p168~169)

 

「さて、漢城をめぐる戦線は膠着し、厭戦気分も拡がるなか、明軍は捏上(でっちあげ)の勅使を小西行長の陣営に投じる。日本側はこれを明軍降伏(詫び言)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えた。石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かう。朝鮮半島を南下してきた奉行衆は官兵衛・浅野長吉と面談する必要を感じたようであり、梁山での合流と決した。」(p170)

 

 しかし、梁山の会見については「(前略)浅野長吉(弾正)のみが出向いたようである。一方の官兵衛は朝鮮半島での処置について秀吉の指示を仰ぐため肥前名護屋城に戻ることとなる。この間の経緯について、フロイスの『日本史』は次のように記している。

 

 関白(ここでは秀吉)は朝鮮に使者を派遣し、黒田官兵衛殿がその武将たちをもって赤国(全羅道)を攻略し、ついで越冬のための城塞工事に着手するように、と命令した。だが、朝鮮にいる武将たちの間では、まず城塞を構築し、それを終えた後に赤国(全羅道)の攻略に赴くべきであるとの見解が有力であったので、彼らは官兵衛を他の重臣とともに、関白の許に派遣してその意向を伝えることにした。」

 

 ここでいう「赤国(全羅道)」とは具体的には晋州を指す。晋州は慶尚道に位置しているが、当時日本側は何故かここを全羅道に属していると認識していた。沿岸部での城塞構築と晋州攻略のいずれを優先すべきかで、現地と秀吉の判断が分かれており、官兵衛はこの調整を行うため名護屋に戻ろうとしたのである。五月二十一日、官兵衛は名護屋に到着するが、こうした行動は軍令違反ととられてしまう。秀吉の不興をかった官兵衛は対面すら許されずに朝鮮に追い返されてしまう。」(p171)とあります。

 

「この晋州城は天正二十年(文禄元年)十月に長谷川秀一・細川忠興らの軍勢が攻め落とすことができなかった。こうした経緯もあり、この時期の秀吉にとって晋州城の攻略は何よりも優先される軍事上の課題であった。官兵衛はこの晋州城攻略に何らの手配も施さないまま、名護屋に戻ったとみなされたのである。先に述べたように、官兵衛には官兵衛なりの理由もあったのであるが、秀吉からは軍令に従わずに戦線を離脱したと見なされたのである。」

(p172) 

 

 また、「さらに、厳罰をもって臨もうとする秀吉には、官兵衛を他の諸将に対する「見せしめ」にする意図があった。」(p172)ともしています。

 

 以上のように、「いずれにしろ、官兵衛が秀吉の逆鱗に触れたことは事実であり、この背景について『黒田家譜』などは、三成以下が東萊に官兵衛と浅野長吉を訪ねたが、両者が囲碁に興じて適正に対応しなかったことを恨み、秀吉に訴えたとする。しかしながら、長吉が梁山に乗り込んで三成等と会談は行ったわけであり、秀吉による叱責の理由も既述した通りである。『黒田家譜』の挿話は、後年石田三成等を貶めるために創作されたものに過ぎず、史実として採用することはできない。」(p173)としています。

 

 その後、日本勢は文禄二(1593)年六月末に晋州城を陥落させます。しばらく秀吉の官兵衛に対する怒りは解けず、死を覚悟した官兵衛は、八月九日付で息子長政に「遺言」と評すべき「覚書」を与えます。また、八月上旬頃までには剃髪し如水と名乗りますが、程なく許されて助命されました。これについては、本来であれば如水(官兵衛)は「成敗」すべきであるが、引き続き朝鮮に在陣して城普請等を進める黒田長政の奉公にも支障が生じるであろうから助命することとした、と八月十日付の長政宛秀吉朱印状で、秀吉は告げています。(p173~174)

関連エントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

又吉直樹『劇場』書評・感想(ネタバレあり)

 又吉直樹氏の『劇場』を読了しました。以下、感想を書きます。(ネタバレです。また批判的ですので、そういうのは読みたくない方は読まないように願います。)

 

 

 

 

 

 おおざっぱなあらすじを書くと、売れない劇作家が主人公で、女の子(沙希)をナンパして、付き合い、家賃も払えないほど困窮して彼女の家に転がり込み、ヒモになり、ヒモになった劣等感からモラハラ言動を彼女に対して繰り返して、彼女は疲弊して、最終的に彼女は東京から実家に帰るという、まあ正直言ってどこかでみたことがたくさんあるようなパターンの小説です。

 

 なんつーか、こういう「ダメ男」小説って『純文学』の黄金パターンで、ミステリーであれば「クローズド・サークル」並みの「ああ、それやっちゃう?」という話なんですよね。

 

 すいませんが、「クローズド・サークル」がアガサ・クリスティのオリジナルを誰も越えられないように、「ダメ男」小説ジャンルでは、誰も(少なくとも又吉氏は)太宰治は越えられないわけです。オリジナルを越えられないのは分かっていながら、あえてこうした黄金パターンを書くのは、それでも小説家として、別の(面白い)バリエーションを創り、何か世の中に問う矜持があるのかと思ったのですが、別にこの小説からは何も感じられませんでした。

 

 たとえば、この小説のタイトルは『劇場』であり、主人公は劇作家なのですから、彼の『脚本』、『劇』そのものが、本来はこの小説の核となるべきなのです。この小説では、主人公の考えた劇のアイディアが断片的に出てきて、それは結構興味深いものもあるのですが、こうした描写がアウトラインに留まるのではなくて、「作中劇」の文章としてもっと描写を具体的に描かれれば、バリエーションとしてもっと面白いものになったでしょう。

 

 特に、主人公がヒロインに演じさせた作品などは、最後にセリフを言わせる伏線があるのですから、本来は劇とセリフの全体部分を1章割いて描写すべきものでしょう。なぜこの方向でもっと話を膨らませなかったのか、残念に思います。

 

 おそらく、作者にとっては、主人公とヒロインの恋愛関係こそがメインであって、演劇は刺身のツマみたいなものだったのではないかと思ってしまいます。この小説が陳腐なストーリーである以上、メインのストーリーは、このままでは太宰未満の陳腐なストーリーに過ぎません。作者が小説としてのオリジナリティと新鮮さを出すには、この『劇場』というタイトルの通り、劇作家としての(奇人・変人劇作家としての)主人公の真摯な姿勢による、彼の創った「作品(演劇)」の具体的な描写以外に陳腐なつまらないストーリーとの差異が出せないかと思います。このような描写があって、はじめて何故ヒロイン沙希が主人公に惹かれたのか、客観的に描写できるというものでしょう。(この小説の主人公は、ひたすらにただ気持ち悪いだけの男で、このままでは魅力がまったく感じられません。)

 

 こうした、骨格が「どこかでみたような」ストーリーには、どのようなバリエーションを提示できるかこそが重要な意味を持つのです。この小説を刺身定食とするなら、この小説においては演劇部分こそが刺身なのであり、これを作者自身が刺身のツマと思っているような本作品は、凡作としかいえません。

 

 「劇」の部分を煮詰めていけば、もっと面白い作品になるような気がしました。又吉氏の次回作に期待です。(次回作は「劇」ではないかと思いますが。)