古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の四十七 「内府ちがひの条々」以降の三奉行(前田玄以・増田長盛・長束正家)の動向について

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 おもに慶長五(1600)年七月十七日に「内府ちがひの条々」を発出した以降の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)の動向について以下に記します。

 

7月17日 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(中野等、p418~419)

7月17日 三奉行、別所吉治に対して丹後(細川領)征伐に参加することを命じる。(中野等、p421)

7月29日 大老毛利輝元真田昌幸宛家康糾弾書状に三奉行が副状を発行。(中野等、p427)

7月29日 三奉行は毛利輝元とともに、毛利氏家臣佐波広忠へ、占領した阿波徳島城蜂須賀家政居城。家政は、七月十七日以降親徳川派行動を咎められ、剃髪の上高野山へ追放されていた。)の扱いについて書状を発出している。「この判物は大老輝元と三奉行の連署という形態であり、阿波の占領が公儀の命令に基づくことを示している。」(光成準治、p119)

8月1日 伏見城陥落(藤井治左衛門、p195)

8月1日 蒔田広定に伊勢方面攻撃に加わることを命じる二大老(毛利・宇喜多)四奉行(前田・増田・長束・石田)連署状発出(中野等、p433~434)

8月1日  真田昌幸長束正家増田長盛書状。この書状に「「景勝・佐竹一味たるべく候」とあり、豊臣奉行衆は(筆者注:佐竹)義宣の西軍参加を信じていた。」(光成準治、p204)

8月1日  二大老・四奉行 木下利房に北庄赴縁援を命じる。(藤井治左衛門、p195)

8月2日  真田昌幸伏見城陥落と丹後征伐の状況を報告する二大老・四奉行書状。(中野等、p434~438)

8月2日  前田玄以増田長盛長束正家鍋島勝茂毛利勝永に伏見の戦功を賞する。(藤井治左衛門、p198~199)

8月4日  九州の細川領収公のため太田一成に豊後に下る事を命じる四奉行書状。(同日付の二大老書状もある)(中野等、p438~440)

8月4日 毛利輝元宇喜多秀家、西軍の状況を九州細川領杵築城主松井康成に報じ、杵築城退城を命じる。副状に四奉行(前田・増田・石田・長束)書状。(藤井治左衛門、p204~205)

→この細川領収公に杵築城主松井康成が応じなかった(八月十三日)ため、毛利輝元や豊臣奉行衆は九州細川領を武力制圧する方針とし、大友吉統の九州派遣を命じます。(光成準治、p142)

8月5日 長束正家等、伊勢国安濃郡椋本に陣する。(藤井治左衛門、p218~219)

8月14日 増田長盛、松井康之に対し、味方しないことを難詰した書状を送る。(藤井治左衛門、p243~244)

8月23日 織田秀信岐阜城、東軍に陥落させられる。(中野等、p455)

8月25日 この頃、越後の堀秀治の下に豊臣奉行衆から使者が到来している。使者が何を伝えたのかは文書には明記されていないが、堀氏の越中乱入を催促するものと考えられる。(八月下旬に上杉景勝が堀氏に仕掛けた越後一揆が一時沈静化している。これは堀氏が西軍に付く意向を示したため、豊臣奉行衆が上杉に対して越後での一揆を行わないように要請したためと考えられる。)しかし、九月になると堀秀治は、東軍寄りの姿勢を明確にしている。(光成準治、p219)

8月25日 同日付長束正家増田長盛石田三成前田玄以宇喜多秀家上杉景勝書状。冒頭に「「太閤様不慮以来、内府(徳川家康)御置目に背かれ、上巻・誓紙に違われ、ほしいままの仕合せ故、おのおの仰せ談ぜられ、御置目を立てられ、秀頼様御馳走の段肝要至極存じ候事」」とある。(光成準治、p219)

8月25日 東軍方の伊勢安濃津城陥落。城主富田信高は剃髪し、高野山に上る。(笠谷和比古、略年表p2)

8月26日 「増田長盛は、吉川広家に対し、安濃津城攻略の戦功を賞し、併せて美濃表の状況を報じ、赴援を促した。」(藤井治左衛門、p298~299)

8月27日 輝元書状から、伊勢の占領地の処置は増田長盛が行っていたことがわかります。降伏した安濃津城の二の丸に毛利勢は入らないように長盛は指示しており、輝元は不満そうだが指示に従うように毛利家臣に指示をだしている。(光成準治、p83)

9月3日 増田長盛、毛利家臣九名に京極高次居城の大津城への「加勢」について指示をだしている。本丸・二の丸には御女房衆(淀殿の妹である高次室や高次の妹で秀吉の側室だった松の丸)がいるので毛利勢の在番を拒否されたことを受け、本丸・二の丸に入る事を断念し、三の丸に入る事を指示している。この時期の長盛は「高次の裏切りをまだ認識していないが、おそらく不穏を感じていたのであろう。」と光成準治氏は述べています。実際には、この日(3日)に高次が帰国し、強引に入城して東軍につくことになります。(光成準治、p84)

 その後、大津城攻めとなりますが、増田長盛が大津城攻めに援軍を派遣しています。(光成準治、p85)

9月7日 毛利秀元長束正家ら美濃南宮山に陣する。(藤井治左衛門、p338~339)

9月13日 毛利輝元増田長盛、多賀出雲守に対し、大津城攻撃の激励文を送る。。(藤井治左衛門、p352~353)

9月13日 細川幽斎の籠る田辺城開城。(笠谷和比古、略年表p2)

9月13日 豊後立石で黒田如水が大友吉統を破る。(笠谷和比古、略年表p2)

9月15日 大津城の京極高次降伏。(光成準治、p86)

9月15日 関ヶ原の戦い。(中野等、p459~465)

 

 上記をみても、二大老・四奉行が豊臣公儀の首脳部を形成し、豊臣公儀の命令により西軍の戦争は遂行されたことが分かります。 

 

 参考文献

笠谷和比古関ヶ原合戦大坂の陣吉川弘文館、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、2019年

光成準治関ヶ原前夜』角川ソフィア文庫、2018年

関ヶ原の戦いにおける西軍決起計画の『主導者』は誰か?

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関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?」という問いについて、下記のエントリーをブログに以前書きました。(下記参照↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com 

(このエントリーの考察は、上記のエントリーを前提とするものですので、必ず上記エントリーをご覧ください。)

 

 以前のエントリーで、七月十五日付上杉景勝島津義弘書状により、西軍決起の首謀者は毛利輝元宇喜多秀家御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)・小西行長大谷吉継石田三成島津義弘であることを指摘しました。

 

 次の論点として、この首謀者達のうち、「西軍決起計画の『主導者』は誰か?」について検討します。

 七月十五日付上杉景勝島津義弘書状にある、西軍決起の首謀者は毛利輝元宇喜多秀家御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)・小西行長大谷吉継石田三成島津義弘ですが、島津義弘は巻き込まれ感が強く、主導者から外れるでしょう。決起後主導的な行動はしておらず影の薄い小西行長も外れます。

残るのは、

A 毛利輝元 主導説

B 宇喜多秀家 主導説

C 御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行 主導説

D 石田三成大谷吉継 主導説、となるでしょうか。

私見では、C御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行 主導説が妥当と考えます。理由を以下に述べます。

 

 慶長五年七月十一日以降に西軍決起の首謀者達が行った重要な動きをみていきます。

 

1 石田三成大谷吉継佐和山・樽井で決起する。(七月十一日)

2 大坂方(=三奉行)が、大坂にいる大名の子女を大坂城に登城させるなど、人質にとろうとする。(七月十二日)

3 増田長盛らが徳川家康家臣に、石田三成大谷吉継の不穏な動きを報告する。(七月十二日)

4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)

5 石田正澄(三成の兄)、近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止して追い返す。(七月十二日)

6 毛利輝元、上坂要請を受け広島より上坂する。(七月十五日。七月十九日に上坂)

7 島津義弘上杉景勝宛書状を発出。(七月十五日)

8 毛利秀元大坂城の徳川留守居を追い出す。(七月十七日)

9 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(七月十七日)

 

 これらの一連の動きは連携・連動しているものであり、この動きにくるいがあれば、西軍決起の陰謀は成り立ちません。

以下、「1 石田三成大谷吉継佐和山・樽井で決起する。(七月十一日)」以降の動きをみていきます。

「2 大坂方(=三奉行)が、大坂にいる大名の子女を大坂城に登城させるなど、人質にとろうとする。」と、石田・大谷の佐和山・樽井決起の翌日の七月十二日には三奉行は西軍決起に向けて主体的行動をとっており、三奉行にとって西軍決起は「巻き込まれた」ものではないことが分かります。

 上記の詳細については、以下のエントリーで記述しました。↓

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」①

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」② 

細川ガラシャの最期について~『霜女覚書』に見る「記憶の塗り替え」③ 

 

「3 増田長盛らが徳川家康家臣に、石田三成大谷吉継の不穏な動きを報告する。(七月十二日)」については、以前のエントリーで谷徹也氏の見解を紹介したように、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの、②三成らとは共謀がなされているものの、家康にも通じて密告したもの」のいずれかと言えます。

 

 筆者の私見としては、

a.増田長盛以外の大坂にいる親徳川方大名より家康家臣へ、長盛と同様の注進が行っており、増田が石田・大谷の動向を隠したところで全く意味はなく、かえって増田の石田・大谷への与同が疑われるだけであること、

b.この書状は、上方付近で騒動が起こったことを報告することにより、(三奉行が望んでいる)家康の上杉征伐中止を狙ったものであり、結果としてまさに三奉行の望み通りの効果(家康の上杉征伐中止)を発揮していることから、「①三成らと既に共謀しており、家康を欺くもの」と考えるのが妥当と考えます。

 

「4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)」

 この三奉行の上坂要請については、前のエントリーでの谷徹也氏の見解のとおり、「④三成らの動向を受けて、事前の協議通りに対家康のための上坂を依頼したもの」が妥当と考えられます。

 

「5 石田正澄、近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止して追い返す。(七月十二日)」

 この石田正澄の行動は、『勝茂公譜孝補』に記載されています。『勝茂公譜孝補』とは、初代鍋島藩鍋島勝茂の事績についてまとめたものであり、江戸時代の二次史料となります。

 該当する記述は、なぜ、鍋島勝茂が西軍についたかを弁明する記述であり、「石田正澄が近江愛知川に関所を置き、会津征伐に東下しようとしている諸大名を阻止したため、家康軍に合流できず、やむを得ず西軍についた」という内容です。

 『勝茂公譜孝補』には七月初旬としか書かれていませんが、『時慶記』慶長五年七月十三日に「昨夜、(上杉討伐のために出陣した)陣立の 衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのこと」という内容の記述があり、上記の東下阻止が慶長五年七月十ニ日のことであることが分かります。

 

 上記の記述で、石田正澄の諸大名東下阻止について二通りの解釈が可能です。

a.弟である石田三成の指示を受けた正澄が、諸大名の東下を阻止した。

b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。

 上記のうち、「b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。」が妥当といえます。鍋島氏は、徳川家と親しく、実際に後の史実をみれば徳川家康は、父の鍋島直茂の九州での働きもあり、鍋島勝茂を許しています。一方、特に鍋島直茂・勝茂が石田三成個人と親しい訳でありません。また、この時期の石田三成は、佐和山に隠遁しており、更に昨日(七月十一日)に佐和山で不穏な動きをして、徳川へ続々と注進がいく「不審人物」でしかありません。反乱を企てているかもしれない不審人物である石田三成の命で、特に三成と親しい訳でもない勝茂が、東下阻止命令に素直に従うというのは考えにくいことです。

 石田正澄は、三成失脚後も現役の大坂方奉行として活動しており、大坂方を代表する三奉行の命令で石田正澄は動いており、勝茂もそのように(三奉行の命令と)考えていたとするのが妥当でしょう。時期的にも佐和山・樽井で石田三成大谷吉継が不審な動きをしているため、その対策を講じるため三奉行が諸大名に対して東下中止命令を出したというのが「表向きの」理由と考えられます。(実際の三奉行の思惑は違っていた訳ですが。)このため、正澄の諸大名に対する東下阻止は、「b.三奉行の指示を受けた正澄が、諸大名を阻止した。」解釈が妥当でしょう。

 

「6 毛利輝元、上坂要請を受け広島より上坂する。(七月十五日。七月十九日に上坂)」は、

「4 三奉行が広島の毛利輝元に、大坂の仕置のため上坂を要請する。(七月十二日)」を受けてのものです。

 この事から、

a.三奉行の上坂要請がなければ、輝元は勝手に軍勢を率いての大坂入城はできない(勝手に輝元が三奉行の許可も得ずに大坂城へ軍勢を率いて入城することは、五大老といえども豊臣公儀への反逆行為になります)ことと、

b.毛利輝元の上坂は異常にスピードが速く(わずか四日で広島から大坂へ移動)事前に十分に準備していないと不可能であり、かなり前から少なくとも三奉行と輝元は西軍決起を通謀していたことが分かります。

 

7 島津義弘上杉景勝宛書状を発出。(七月十五日)」

 この書状については、前回のエントリーで検討しました。島津義弘については、前後の動向をみればおそらくこの日(七月十五日)の直前辺りに西軍に加盟しており、前述の西軍決起首謀者達の中でもおそらく一番遅い加盟ではなかったかと考えられます。

 

「8 毛利秀元大坂城の徳川留守居を追い出す。(七月十七日)」

 七月十七日に毛利秀元が、大坂城留守居を追い出したのは、事前の共謀による予定の行動でしょう。この日に徳川留守居を追い出したのも、同日付の「内府ちがひの条々」発出にあわせたもので、三奉行の指示によるものであるといえます。ここでも、「毛利巻き込まれ説」はありえないことが分かります。

 

「9 三奉行、「内府ちがひの条々」発出。(七月十七日)」

 大坂方(豊臣公儀)を代表する三奉行の宣言により、徳川軍は豊臣公儀軍としての正当性を剥奪され、五大老の地位も剥奪され、以後はただの反乱軍という扱いになります。このような家康の正当性を剥奪する権限は、大坂方(豊臣公儀)を代表する三奉行にしかなかった訳です。(この時点では、石田三成五奉行に復帰していません。)

 (参考↓)

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 以上の流れをみていきますと、1~9のうち、2・3・4・9が三奉行の直接的な行動によるもの、5・6は三奉行の指示によるもの、8もおそらく三奉行の指示によるものです。

 このように、西軍決起までの大部分の重要な行動及び指示が三奉行によるものである以上、三奉行がこの西軍決起の主導者である可能性が極めて高いと考えられます。

 

 残る説について検討してみましょう。

A 毛利輝元主導説

 上記の1~9でみたとおり、そもそも三奉行の要請・指示がないと毛利輝元はこのような決起に向けて動けませんし、その行動を正当化もされません。輝元は三奉行の要請・指示を受けて初めて動ける立場なので、主導者とはいえないでしょう。

 

B 宇喜多秀家主導説

 上記の1~9のとおり史実上、宇喜多秀家は西軍決起に向けて何か主導的な役割は何も行っていません。このため、宇喜多秀家主導というのは極めて考えにくいといえます。

 

D 石田三成大谷吉継

 これが「従来の通説」な訳ですが、上記のように三奉行が主体的な行動、指示をしている事が、実はいちいち佐和山・樽井で不審な動きをしている石田・大谷にお伺いをたてて行動しているというのも極めて考えにくいことです。三奉行は自立的な意思で行動・指示を出しており、石田・大谷の指示で動いている訳ではありません。

 石田三成は、五奉行から外され佐和山に隠遁しており、その行動は制限・監視されています。大谷吉継も実の所、五奉行ではなく豊臣公儀の中で特権的な地位にある訳ではありません。特に慶長五年七月十一日以降は、石田・大谷とともに「反乱を企ているのか?」と疑われている「不審人物」です。この時期は更に監視が強化されている訳です。(この時期に密かに石田・大谷が大坂へ入城したという説がたまにありますが、いかに馬鹿げた説が分かるでしょう。石田・大谷にそのような挙動があれば、大坂の徳川留守居や親徳川大名から逐一家康に報告が入っているはずです。また、誰かが佐和山の石田と交渉していたとしたら、その動きも逐一報告が行っているはずです。)

 現役の五奉行であり、大坂方(豊臣公儀)の代表である「三奉行」であるからこそ彼らは自由に動けますし、監視の目もくぐりぬけて毛利その他の大名とも自由に交渉(諸大名との交渉も三奉行の職務です)できる訳です。

 

 以上より「西軍決起計画の『主導者』は誰か?」の回答は、「C 御年寄衆前田玄以増田長盛長束正家)=三奉行説」の可能性が一番高いと考えられます。

 

※ 慶長五(1600)年七月の諸将の動きについて下記にまとめました。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 参考文献

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編『シリーズ・織豊大名の研究 第七巻 石田三成戎光祥出版、2018年所収)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会、2016年

考察・関ヶ原の合戦 其の四十六「七将襲撃事件」とは何だったのか?⑤

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 前回の続きです。(前回のエントリーは、↓)

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『多聞院日記』慶長四年閏三月十四日条に

「十三日午刻、家康ふしみ之本丸へ被入由候、天下殿ニ被成候、目出候」

とありこの短い一文で様々なことが読み取れます。

 

A.閏三月十三日に徳川家康伏見城の「本丸」に入ったとされますが、これは『多聞院日記』の誤りであり、正確には「西の丸」です。

 

B.家康が伏見城の「本丸(正確には西の丸)に入った」ことによって「天下殿」になったとされますが、これを逆に見れば、閏三月十三日以前は家康の居所は伏見城ではありませんでした(家康の居所は、伏見城下の家康屋敷→向島の家康屋敷)。家康の伏見城「在城」は許可されていません。そして、伏見城が家康の居所でないが故に、それまで家康は「天下殿」ともみなされていなかったということになります。

 つまり、「伏見城の本丸入城」という事実がなければ、家康は「天下殿」とはみなされなかったということになります。(ここで、この「天下殿」という認識が『多聞院日記』の著者の個人的見解に過ぎないのか「世間」一般の認識に近いとみなしてよいのかという問題も生じてきます。また、「本丸」入城でないと「天下殿」ということにならないのか、「西の丸」であろうと伏見城に入城してそこを居所とすることが「天下殿」とみなされるということなのかについても議論の余地があるでしょう。)

 

 さて、「七将襲撃事件」の始末において、家康は「伏見城入城」を果たし、『多聞院日記』に「天下殿になった」と記載される地位に上ります。「七将襲撃事件」の始末(講和)において、家康の「伏見城入城」が講和条件だったといえます。

 なぜ、家康の「伏見城入城」が講和の条件になるのか?これは、結局「七将襲撃事件」というのが(従来説の「石田三成VS七将の対立」という構図ではなく)、私婚違約事件から始まる(徳川派VS徳川警戒派(私婚違約事件の時点においては四大老五奉行))の対立の延長戦だったからといえます。そうでなければ、「石田三成VS七将の対立」とは全然関係ない「家康の伏見城入城」などという条件など出てくる訳もありません。

 私婚違約事件においては慶長四(1599)年二月五日に家康と四大老五奉行の間に起請文の取り交わしがあり表面上の和解ははかられていましたが、徳川派はこの「表面上の和解」に不満であり、「家康警戒派」のトップである前田利家の死去を好機として、一気に徳川派が豊臣公儀の主導権を掌握するために仕掛けたのが「七将襲撃事件」の実態といえます。

 この政争の勝利の成果として「家康の伏見入城」というのが講和条件のひとつとなり、この条件を勝ち取った結果として、家康は伏見城へ入城して「天下殿」と称せされ、「豊臣公儀の実権を握った」ことになります。「七将襲撃事件」は徳川派の実権獲得のための一種のクーデーターであったといえるでしょう。

 

『多聞院日記』で、家康が「天下殿」になったことが「目出候」というのは、徳川派VS徳川警戒派の政争は武士同士の争いであり、当然戦争に発展する可能性もありそうなれば京坂で市街戦という事もなりかねない訳で、いずれにせよ結着がついて戦争にはならなかったことは「目出候」という事になるでしょう。

 

 参考文献

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会企画部、2016年

「内府ちがひの条々」について

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 慶長五(1600)年七月十七日に前田玄以増田長盛長束正家の三奉行(年寄)により全国の大名へ発出された「内府ちがひの条々」について、中野等氏の『石田三成伝』より引用します。

(現代語訳のみ引用します。)

 

「◇確実を期して申し入れます。このたびの上杉景勝討伐の件は、家康(内府)公が上巻の誓紙ならびに秀吉(太閤様)の御置目に違背し、秀頼様を見捨てられての出馬です。そこでおのおので相談し、家康を追討することとなりました、「内府公御違之条々」については、別紙にまとめております。これらの廉々を尤もと考え、秀吉(太閤)様の御恩賞をお忘れではないなら、秀頼様への御忠節を果たされるべきです。」(*1)

徳川家康の行動を厳しく非難する「内府ちがいの条々」は全一三箇条に及び、概要をまとめると次のようになる。

一、五人の「御奉行(筆者注:通称「五大老」の徳川家康前田利家前田利長毛利輝元上杉景勝宇喜多秀家のこと)」と五人の「年寄(筆者注:通称「五奉行」の前田玄以浅野長政増田長盛石田三成長束正家のこと)」で上巻の誓紙を取り交わしたのに、いくばくも経たないうちに、「年寄」に二人を逼塞に追い込んだこと。

一、五人の「御奉行」のうち、前田利長肥前守)は潔白を示して誓紙まで指し出し、事が決着しているにもかかわらず、上杉征伐を実行に移すため、あえて人質を取り、追い込んだこと。

一、上杉景勝は何の咎もないのに、秀吉の遺命に背いて、今回討伐しようとすること。

一、知行宛行の権限を独占し、秀吉の遺命に反して、忠節も果たしていない者どもに領知を宛行ったこと(細川忠興森忠政らを指す)

一、伏見城から、秀吉の定めていた城番を追い出し、徳川家の兵を入れたこと。

(筆者注:家康が伏見城二の丸に入城し、秀吉の定めていた城番を追い出して徳川家の兵を入れ私物化したのは「七将襲撃事件」以後であり、「七将襲撃事件」の始末により家康が反徳川派を屈服させたことによる、徳川派勝利の成果のひとつといえます。

 鳥居元忠と徳川の兵が伏見城に居座っている事自体が、家康の逆意の証拠と「内府ちがひの条々」で糾弾された訳ですね。このため伏見城奪還が内府ちがひの条々を発出した後の西軍の最初の行動のひとつとなります。(7月21日から伏見城攻めは始まります)これを見ても「七将襲撃事件」とは徳川派VS反徳川派の前哨戦であったことがよく分かります。)

一、五人の「御奉行」と五人の「年寄」のほかには誓紙交換を認められていないのに、勝手に多くの誓紙をやりとりしていること。

一、北政所のお住まいに居住していること(大坂城西ノ丸に入ったことを非難している)。

一、大坂城西ノ丸に、本丸と同様の天守閣を建てたこと。

一、諸大名の妻子は人質であるはずなのに、贔屓を行って勝手に国許に帰したこと。

一、私の婚姻は秀吉の遺命に背くものであるにもかかわらず、数多くの婚姻を進めたこと。

一、「御奉行」五人で政務を処理すべきところを、家康一人で専断を行ったこと。

一、内縁の関係に拠って、石清水八幡宮の検地を免除したこと。」(*2)

 

コメント:

 この内府ちがひの条々は三奉行(年寄)から全国の諸大名へ発せられました。秀吉死去後の家康の行動に非を鳴らし糾弾し、諸大名に家康追討を呼びかけるものでしたが、上杉征伐で家康に従軍した大名のうち、真田昌幸田丸直昌を除いて西軍につく大名はいませんでした。

 結局のところ、諸大名にとって豊臣政権の行く末や、家康の行動が非難に値することなのかはあまり関心のないことであり、誰が自分の家を守ってくれるのか、あるいはどちらにつけば自家の利益になるかという視点で行動していたのではないかと思われます。

 そういった意味では、関ヶ原の戦いの勝利は秀吉死去後の家康の多数派工作が実を結んだ結果といえます。その多数派工作の多くが秀吉の置目・遺言・誓紙違反であり、多数派工作をすることにより豊臣政権を凌ぐ大名が出ては、後の史実が示すとおり豊臣政権の危機となり滅亡に繋がるが故に、置目・遺言・誓紙で禁じられていたわけです。

 秀吉死去後の、置目・遺言・誓紙違反の家康の多数派工作を止めることができなかったのが、関ヶ原の戦いの敗因であり、西軍決起をせざるを得なくなる前の段階で家康の暴走を止めることが必要だったといえるでしょう。関ヶ原の戦いは、秀吉の死の直後から既に始まっていたといえます。

 

 注

(*1)中野等 p418

(*2)中野等 p418~419

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

関ヶ原への百日④~慶長五年九月

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戦国時代 考察等(考察・関ヶ原の合戦、大河ドラマ感想、石田三成、その他) 目次 

 

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

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関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

 関ヶ原への百日③~慶長五年八月

 

慶長5(1600)年9月

 

9月1日 徳川家康、江戸→神奈川(同日付福島正則宛家康書状『家康』)。(『居所集成』、p118)

9月2日 家康、藤沢在(同日付池田輝政宛家康書状『新修家康』)。(『居所集成』、p118)

9月2日 細川藤孝、田辺城を開城(『島津』)。(7月27日から籠城していた。)((『居所集成』、p198)

9月3日 家康、小田原在(同日付加藤貞泰宛家康書状『家康』)。(『居所集成』、p118)

9月3日 浅野長政、諏訪へ向けて甲府を発する。(13日付小河久介宛小河越中書状写「清光公済美録」)。(『居所集成』、p328)

9月5日 毛利輝元、大津城請け取りのため軍勢を派遣(『時慶』)。(『居所集成』、p233)

9月6日 家康、島田在(同日付福島正則宛家康書状写『家康』)。(『居所集成』、p118)

9月7日 家康、中泉在(同日付稲葉貞通宛家康書状写『家康』)(『居所集成』、p118)

9月7日・9日 近衛信尹西洞院時慶に徳川方と大坂方との扱いにつき申し談ず。(『居所集成』、p391)

9月8日 家康、白須賀在(同日付妻木頼忠宛家康書状写『家康』)(『居所集成』、p118~119)

9月9日 家康、岡崎在(同日付福島正則宛家康書状写『家康』)(『居所集成』、p119)

9月9日 西笑承兌、在京都、於近衛邸天下無事の談合(『時慶』)(『居所集成』、p409)

9月9日 北政所、暮、豊国社へ社参(『舜旧』)(『居所集成』、p430)

9月10日 家康、熱田在(同日付藤堂高虎宛家康書状『家康』)(『居所集成』、p119)

9月11日 家康、(一宮在)(十3日付藤堂高虎宛家康書状『家康』)、清洲在(同日片倉景綱伊達政宗書状写『政宗2』)。(『居所集成』、p119)

9月11日 孝蔵主(北政所の侍女頭)、西軍の大津城攻の調停使として饗場局とともに赴き、11日に帰京。(『居所集成』、p455)

9月13日 家康、岐阜在(同日付丹羽長重宛家康書状『家康』)。(『居所集成』、p119)

9月13日 長政、諏訪で徳川秀忠を待つ。(13日付小河久介宛小河越中書状写「清光公済美録」)。この間秀忠より上田の戦況を報せる書状を受け取っている(9月5日付長政宛徳川秀忠書状『浅野』)。その後秀忠と合流して上洛したものと考えられる。(『居所集成』、p328)

9月14日 家康、赤坂で先発の諸大名と合流したものと考えられる。(『居所集成』、p118)

9月14日 福島正則ら、大垣より関ヶ原に軍勢を進める。(『居所集成』、p335)

9月15日 家康、赤坂在(『言経』)。関ヶ原石田三成らの軍勢を破った。西軍敗北。(『居所集成』、p118、119)石田三成、敗北後、近江伊吹山中に逃走。(『居所集成』、p306)

9月15日 正則、決戦勝利後は山科に在陣(「福島太夫殿御事」)。(『居所集成』、p335)

9月15日 伊達政宗、在北目城、最上義光の嫡男義康が援軍要請のため北目城着(「よしあき御子そく修理殿(中略)山かたより(中略)此地まて御越候」『政宗2』)。(『居所集成』、p285)

9月15日 孝蔵主、また大津へ赴く。(『居所集成』、p455)

9月18日 『北野社家』18日条には「〇(ママ)元と内府とハ同心之由也」とある。(『居所集成』〔第二版〕、p237)

9月19日 毛利輝元福原広俊に書状を発して、ひとまずの無事を伝える(『閥閲録』「福原対馬家文書」)。(『居所集成』〔第二版〕、p237)

9月19日 細川幽斎丹波亀山城に入城。(『居所集成』〔第二版〕、p202)

9月22日 毛利輝元、「22日付で池田輝政らに対して大坂城に西丸を引き渡す旨をなどを記した誓紙を提出し(『毛利』)」た。(『居所集成』〔第二版〕、p238)

9月23日 「『北野社家』23日条に「大坂あつかいニ成申由来候也、内府様と輝元の事也」と家康との和議にふれる。」(『居所集成』〔第二版〕、p237)

9月25日 毛利輝元、「大坂城を退去し(『言経』)、摂津国木津の毛利邸に移った。そこで敗北の責任をとり、恭順をしめすため隠居。(『居所集成』〔第二版〕、p237)

 

 

 

 参考文献

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

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慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

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慶長五(1600)年1月~5月

 

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関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

慶長5(1600)年8月

8月1日 「午前、伏見城は落城した。」(藤井治左衛門、p195) 

8月1日 「黒田如水は、吉川広家に対し、東軍に応ずることを勧め、人質の安全を計らしめた。」(藤井治左衛門、p195)

8月1日 「徳川家康は、脇坂安治の款に対し、答書を送った。」(藤井治左衛門、p195)

8月1日 毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家、「連署し、木下利房に対して、北庄に扶援を命じた。」(藤井治左衛門、p197)

8月2日 前田玄以増田長盛長束正家、「鍋島勝茂毛利勝永に対し、伏見の戦功を賞した。」(藤井治左衛門、p198~199)

8月2日 徳川家康、小山発ヵ(同日付森忠政宛家康書状写「先刻于江戸帰陣申候」『家康』)。(『居所集成』、p118)

8月2日 毛利輝元里神楽執行(『舜旧』)。(『居所集成』、p233)

8月2日 前田利家は、北国において、大聖寺城攻撃の前日、部下の諸隊長に軍令を発した。(藤井治左衛門、p199)

8月2日 宇喜多秀家毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家、「徳川家康の非行を挙げ、書を発し、真田信幸を誘った。(藤井治左衛門、p200~201)

8月3日 「徳川家康の士、永井直勝は、美濃国黒野城主加藤貞泰に返書を送り、加藤平内の出陣に対する家康の賞詞を伝え、併せて家康軍の概況を報じた。」(藤井治左衛門、p201)

8月3日 「伊達政宗は、答書を井伊直政等に送り、上方を後にし、会津攻略を前にすべしとの意見を述べ、併せて大坂の妻子を捨て一意御奉公申すべきことを披瀝した。」(藤井治左衛門、p202)

8月4日 「黒田如水は、吉川広家に返書を送り、更に親交の意を通じた。」(藤井治左衛門、p203)

8月4日 毛利輝元宇喜多秀家前田玄以増田長盛石田三成長束正家は、「西軍の状況を松井康之に報じ、杵築城退城を命じた。」(藤井治左衛門、p204~205)

8月4日 「徳川家康は、福島正則井伊直政の先発を報じ、更に尾張の無領主の地を与えた。」(藤井治左衛門、p206)

→書状中の「明地(無領主の地)」というものが何であるかは不明です。明地であれば普通は収公されているもののはずです。いずれにしても、家康に独断で勝手に領地を差配するような権限は当然なく、徳川家康は豊臣公儀に対する叛逆の意思を露わにしたと書状といってよいでしょう。

8月5日 家康、江戸着(7日付伊達政宗宛家康書状「一昨五日江戸致帰城候」『家康』)。同日江戸在(同日付福島正則等宛家康書状『家康』)。(『居所集成』、p118)

8月5日 「石田三成は、真田父子に対し、伏見落城と、其の他上方の状況を報じ、更に関東へ向かうべき西軍の部署を示した。」(藤井治左衛門、p206)

8月5日 石田三成大坂城を出て佐和山城に戻る。(『居所集成』、p306)

8月5日 「石田三成佐和山に帰り、瀬田の守備を熊谷直盛・垣見一直・相良頼房・秋月種長・高橋元種等に委せ、毛利秀元吉川広家は伊勢に入って、関に陣し、長束正家安国寺恵瓊等は、進んで伊勢国安濃郡椋本に陣した。」(藤井治左衛門、p218)

8月5日 「毛利輝元宇喜多秀家連署を以て、鍋島直茂毛利勝永伏見城攻略の戦功を賞した。」(藤井治左衛門、p218)

8月6日 「石田三成は真田安房守父子に対し、上方の状況を報じた。」(藤井治左衛門、p224)

8月7日 「徳川家康は、上田庄下倉城主小倉政照を攻めて、これを攻略した堀丹後守に対して感状を送った。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「徳川家康は、伊達政宗に対し、八月五日江戸帰城と、会津上杉景勝に対する処置を報じた。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「徳川家康は、美濃国黒野城主加藤貞康に対し、書を送って、加藤平内の出陣を賞した。」(藤井治左衛門、p227)

8月7日 「石田三成は、佐竹義宣に対し、大坂城西の丸の処置と、伏見城の攻略に併せて、諸将の去就と西軍の作戦を報じた。」(藤井治左衛門、p228)

8月8日 「本多正純は、黒田長政に対し、本多忠勝を先発として、清須に向かうことを報じた。」(藤井治左衛門、p230)

8月8日 「徳川家康は、黒田長政に書を送り、吉川広家の書状により、毛利輝元の二心のないことを知り、満足の意を表した。」(藤井治左衛門、p230)

8月8日 「徳川家康は、石川貞清の送款に対し、答書を送った。」(藤井治左衛門、p231)

8月9日 三成、美濃垂井に出陣。(『居所集成』、p306)

8月9日 「徳川秀忠も、家康同様、堀秀政(筆者注:堀秀治の誤りと思われる)に感状を送った。」(藤井治左衛門、p231)

8月9日 「美濃国黒田城主一柳直盛は、石田三成の誘いを退けた。」(藤井治左衛門、p231~232)

8月10日 三成、大垣城に入る。その後一旦佐和山に戻り、9月初め再び大垣に到着。(『居所集成』、p306)

8月10日 この頃に浅野長政甲州に戻る予定だった(8日付小河久介宛小河越中書状写「太祖公済美録」)(『居所集成』、p328)

8月10日 「藤堂高虎は、熱田に到着した。」(藤井治左衛門、p232)

8月11日 輝元、西洞院時慶より祓札を送られる。(『時慶』)。(『居所集成』、p233)

8月11日 伊達政宗白石城普請(「此普請中(中略)五六日も此方にかたくおき候て可燃候」『政宗2』)。(『居所集成』、p285)

8月11日頃 「織田秀信は、井口道場に禁制を出した。」(藤井治左衛門、p233)

8月11日 「岐阜城織田秀信の家老百々安信は、稲葉郡上川手村へ、竹林伐採停止の状を出した。」(藤井治左衛門、p233)

8月12日 「徳川秀忠は、伊達政宗に答書して、政宗の善処を賞め、以後、家康の指揮に従うようにと諭し、秀忠自身は、宇都宮に在ることを報じた。」(藤井治左衛門、p233)

8月12日 「徳川家康は、加藤清正に対し、相異なく味方をするならば、肥後・筑後の両国を与えるとの返書を送った。」(藤井治左衛門、p234~235)

8月12日 「徳川家康は、伊達政宗に対し、会津攻略をと思って出陣したが、福島正則田中吉政池田輝政細川忠興等が、上方を先にすべきだと言い出したので、江戸迄帰陣したから、その方面については、善処してもらいたいと申し入れをした。」(藤井治左衛門、p235)

8月14日 政宗白石城発、北目城着(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

8月15日 近衛信尹、参内。後陽成天皇より「天下無事義」(関ヶ原合戦のこと)について仰せ聞かさる。(『居所集成』、p391)

8月17日 信尹、徳川方・大坂方和議のことについて西洞院時慶へ申し聞かす。(『居所集成』、p391)

8月18日 北政所、早朝、豊国社へ社参す(『舜旧』)。(『居所集成』、p430)

8月21日 家康、江戸在(同日付堀親良宛結城秀康書状写「内府も(中略)此四五日比二江戸可被罷立由二候」)。(『居所集成』、p118)

8月22日 福島正則ら、木曽川の萩原渡、尾越渡を越える。(『居所集成』、p335)

8月23日 正則ら、岐阜城を攻略して尾張まで退いたのち、佐和山表への進軍を予定している。(「系譜」)その後、大垣城周辺に陣を構える(「大洲加藤文書」)(『居所集成』、p335)

8月24日 輝元、北野社へ初穂献上。(『居所集成』、p233)

8月24日 長政、家康より、中山道を進む徳川秀忠を助けるよう依頼される(同日付長政宛徳川家康書状『浅野』)(『居所集成』、p328)

8月29日 北政所、禁裏の側ゆえ戦乱に巻き込まれることを慮ってか、周囲の石垣・塀・門などを破却させた(『義演』『時慶』)。(『居所集成』、p430)

 

 参考文献

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

関ヶ原への百日②~慶長五年七月

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

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慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

 (このページは、関ヶ原への百日①~慶長五年七月 です。)

関ヶ原への百日①~慶長五年六月 

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関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

慶長5(1600)年7月

 

7月1日 細川忠興、水路琵琶湖を経て朝妻に上陸し美濃国に入る。(中野等、p413)

7月2日 細川忠興、「うるま町、次で犬山より坂祝に上陸、同夜、土田に止宿」(藤井治左衛門、p146)

7月2日 徳川家康、江戸着(『当代』)。(『居所集成』、p118)

7月2日 「家康は、江戸城に於て、諸将に会津征伐に関する軍法を示した。」(藤井治左衛門、p144)

7月3日 細川忠興、「御嵩山の宿に泊った。」(藤井治左衛門、p146)

7月7日 『越前金森家文書』によると、長束正家増田長盛・浅野(ママ)徳善院法印の連署により、金森法印に対し、秀頼の為に勧誘状を送ったとされます。(藤井治左衛門、p147)

→おそらく、上記の日付は「内府ちがひの条々」の発出された七月十七日の誤りと考えられます。また、「浅野徳善院法印」と、浅野長政前田玄以を混同している署名となっており、この書状自体の信憑性が疑われます。

7月7日 「徳川家康は、出羽国角館の城主戸沢政盛に対して、最上義光と共に米沢表に出陣し、上杉景勝に備えるように命じた。〔戸沢上総介家所蔵文書〕」(藤井治左衛門、p147)

7月7日 「家康は、出羽秋田城主秋田実季に対し、最上義光・戸沢政盛等と共に、米沢表に出陣し、上杉景勝に備えるように命じた。〔奥州三春城主秋田河内守家所蔵文書〕史料編纂所採集」(藤井治左衛門、p148)

7月7日 「家康は従軍の諸将に対して軍法を示した。〔大洲加藤家所蔵文書〕」(藤井治左衛門、p148)

7月11日 前田茂勝(玄以の息子)、大坂を出発し伏見に着陣。(『時慶卿記』)(藤井治左衛門、p150)

7月11日 『慶長見聞書』等によると、「石田三成は家臣樫原彦右衛門を遣わして美濃国垂井駅まで出陣した大谷吉継佐和山城に迎えさせ、徳川家康討伐を誘った。吉継は友情を棄てるに忍びず、これに従った。」(藤井治左衛門、p150)

→とありますが、『慶長見聞書』等は江戸時代の二次史料の記述のため、これが本当に正確な記述なのかは不明です。

7月12日 北政所、煩う(在京都新城)(『時慶』)。(『居所集成』、p430)

7月12日 政宗、北目城到着(『治家記録』)。(6月16日に伏見発)(『居所集成』p285)

 

7月12日 七月十二日付永井右近大夫(徳川家臣)宛増田長盛書状(「一筆申入候、今度於樽井大刑少両日相煩、石治少出陣之申分、爰許雑説申候、猶追々可申入候、恐々謹言、(慶長五年)七月十二日 増田右衛門尉長盛 永井右近大夫殿

◇一筆申し入れます。美濃の垂井(樽井)において大谷吉継(大刑少)が罹病、石田三成(石治少)の出陣に対し、こちらでいろいろ取沙汰されています。今後のことについてはまた連絡します。」(中野等、p414)

→この書状は、家康の侍医として仕えていた板坂卜斎の記録(『慶長年中卜斎記』)に残されたもので、原本はありません。(このため、この書状を偽文書とみる研究者もいますが、ここでは真書であることを前提として考えてみます。) 

 

7月12日 七月十二日付毛利輝元宛三奉行書状

「大坂仕置儀付而、可得御意候間、早々可被成御上候、於様子者、自安国寺可被申入候、長老為御迎可被罷下之由候得共、其間も此地之儀申談候付而、無其儀御座候、猶早々奉待存候、恐煌謹言、 (慶長五年)七月十二日  長大 増右 徳善  輝元様 人々御中」

(『松井文庫所蔵古文書調査報告書』二)

◇大阪の御仕置について、ご相談がありますので、早々に御上がりください。詳細は、安国寺恵瓊から申し入れます。(本来なら)安国寺恵瓊長老を御迎として指し下すべきですが、現在恵瓊も多忙でそれも叶いません。早々の(御上坂)をお待ちしています。)(中野等、p415)

 

上記の、これらの書状が書かれた意図については、以下のエントリーで考察しました。 ↓ 

koueorihotaru.hatenadiary.com

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また、下記も参照願います。↓

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7月12日 石田正澄(三成の兄)、近江愛知川に関を設けて、(会津征伐のために)東下する大名を阻止する。(『勝茂公譜孝補』)(水野伍貴、p111)

(下記の7月13日付『時慶記』の記述も参照のこと。『勝茂公譜孝補』には「七月初旬」としか書いていませんが、『時慶記』の記述から7月12日としました。)

 

7月13日 「大坂に雑説がある、とのことを申し来る。」(北野社(『北野社家日記』)5−275頁)(白峰旬、p79)

7月13日 「大坂に雑説がある、ということである。よって、伏見より荷物を京 へ運ぶ(者がいる)、ということである。(これは)家康が(上杉討 伐のために下国して伏見城が)留守になっているからである。何事 があるのか。(その)子細は(義演は)知らない。

 ※別々の2つの史料が同じ日(7月13日)に大坂での雑説を報じている、というのは、具体的に大坂で何かおこったのかも知れない。」(義演准(『義演准后記』)2−200頁)(白峰旬、p79)

7月13日 「昨夜(筆者注:7月12日)より伏見・大坂において風評・騒動(がある)と(いうので) これを尋ねるつもりである。(上杉討伐のために出陣した)陣立の 衆(の中で)少々帰ってきた衆がいるとのことであり、(このことは) 不審である。このあたりの惣門3ケ所を2、3日以前より閉めている。(そして)潜り戸だけ(開けている)。

 ※7月13日の時点で、上杉討伐に向った(つまり東下した)諸将の中で、少数の部将は帰ってきていた、としている点は注目される。 このことについて西洞院時慶が不審である、と率直に感想を書いているのは興味深い。西洞院時慶は戦争の予感というかきな臭い雰囲 気を感じ取っていたのかも知れない。」(時慶記(『時慶記』)2−83頁)(白峰旬、p78)

 

7月14日 安国寺恵瓊の使者が、毛利輝元のいる広島城に到着。急遽輝元の上坂を乞うた。(『居所集成』p233)

7月14日 「大坂において「乱劇」が勃発する。大坂にあった諸大名の屋敷が、軍事的に制圧されることとなったのである。これは、在坂「三奉行」によるある種の「クーデター」と言えよう。一定規模の軍事力が裏づけとして必要となることから、毛利家につながる安国寺恵瓊の事前了承が前提となる。」(中野等、p416)

→ここから、「三奉行」は、事前より「西軍決起」の首謀者の中核であり、「毛利輝元の上坂によって「巻き込まれた同調者」ではないということが分かります。この時期の石田三成大谷吉継は上坂しておらず、三奉行の独自の判断でこのような「クーデター」を実施している訳です。

7月15日 輝元はこれに応じて、「俄に大坂上国」(『広島古代中世Ⅱ』「厳島野坂文書」)。

→あらかじめ計画的に準備されていなければ、大軍を率いて上坂するために準備がこれほど早くできるとは考えられず、この時点での輝元が相当前から他の西軍首謀者と謀ってこの上坂計画を周到に準備していたことは、ほぼ間違いないと考えられます。

7月15日 七月十五日付加藤清正毛利輝元書状。

「急度申候、従、両三人、如此之書状到来候条、不及是非、今日十五日出舟候、兎角秀頼様へ可遂忠節之由言上候、各御指図次第候、早々御上洛待存候、恐々謹言、  (慶長五年)七月十五日 芸中  加主  御宿所

◇確実を期して申し入れます。(大坂の)両三人から、このような書状が到来しました。やむを得ないので、今日十五日出舟します。とにかく秀頼様へ忠節をとげるべく言上します。各対応は(秀頼の)御指図次第となりますが、すみやかな御上洛をお待ちします。」(中野等、p416)

→この時点では、輝元らは加藤清正が西軍決起に参加する可能性が高いと見込んでいたのだと考えられます。

7月15日 上杉景勝島津義弘書状。

「雖未申通候、令啓候、今度内府貴国ヘ出張二付、輝元・秀家を始、大坂御老衆・小西・大刑少・治部少被仰談、秀頼様御為二候条、貴老御手前同意可然之由承候間、拙者も其通候、委曲石治 ゟ 可被申候、以上、

 

               羽兵入

(慶長五年)七月十五日     惟新

         景勝 人々御中 (『薩摩旧記雑記後編』三-一一二六号)

 

◇いまだ書信のやりとりはございませんが、ご連絡いたします。このたび内府(徳川家康)が会津へ出陣された件で、毛利輝元宇喜多秀家を筆頭に大坂の御年寄衆小西行長大谷吉継石田三成らで御談合なされ、秀頼様の御為には(家康ではなく)あなた様との連携こそがとるべき途との結果に至りました。拙者もその通りと考えます。委しいことは、石田三成から連絡があると存します。」(中野 等 2017年、p416~417)

詳細は、下記のエントリー参照。↓

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 中野等氏は、「ここにみえる「大坂御老衆」(筆者注:現代語訳の「大坂の御年寄衆」のこと)とは、長束正家増田長盛・徳善院前田玄以らを指す。この書状から、彼ら「三奉行」による家康排斥は、毛利輝元宇喜多秀家という二人の「大老」、および小西行長大谷吉継(刑部少輔)・石田三成(治部少補)らとの与同によるものであったことがわかる。引退し、奉行職も退いた三成に、表立った活動があるわけではない。しかし彼らには、このまま政局が推移すれば、徳川家康による「天下」簒奪が不可避である、との危機感が共通してあったのであろう。この政変は、実質的に「公儀」権力を掌握しようとする家康を廃することを企図したものであった。」(中野等、p417)としています。

7月16日 「金森可重が家康の催促に応じて会津征伐に出陣した報告に、秀忠は慰労の答書を出した。」(藤井治左衛門、p162)

7月17日 輝元、恵瓊・増田長盛らの要請をいれて家康討伐軍の盟主となることを承諾、大坂城西の丸に入った。『北野社家』17日条には「大坂御城へ御奉行衆悉被籠由申来、輝元も上洛在之由、申来」とある。(『居所集成』、p233)ただし、7月19日の輝元大坂入城説もある。(中野等、p417)いずれにしても、「輝元上坂の確報は、それに先立つ十七日には「三奉行」のもとにもたらされた。」(中野等、p417~418)

7月17日 毛利秀元、家康の留守居を排除し、大坂城西の丸占拠。(中野等、p418)

7月17日 三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)、「内府ちがひの条々」をまとめ、全国の諸大名充てに発する。(中野等、p418)

※ 内府ちがひの条々の内容については、以下参照↓

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7月17日 別所吉治宛三奉行(前田玄以増田長盛長束正家連署状。

「◇細川忠興(羽柴越中守)は、何の忠節もないのに、太閤様御取立の福原長堯(右馬助)の旧領(豊後国速見郡)を家康(内府)から扶助され、さらには今度は何の咎もない上杉景勝を追討するため、内家康に助勢して、細川一門は残らず会津征伐に赴いています。仕方のないことです。秀頼公より御成敗のため(丹後に)軍勢を差し向けることとなりましたので、軍忠を尽くすよう、下々に至るまで、その軍功によって、御褒美を与えられるでしょう。」(中野等、p421~422)

「三奉行は、秀頼の名で忠興の罪を責め、近隣の諸大名に丹後の諸城請け取りを命じることとなる。」(中野等、p422)

7月18日  「義演准后日記」に「七月十八日、増田右衛門・長束正家二人、家康条数ニ(シテ)、江戸へ遣云云、伏見城にハ今内府衆籠了」とある。(藤井治左衛門、p165)

7月18日 「石田三成が、「内々に」豊国社へ参詣している。(『時慶記』)。いろいろ取沙汰もされているが、この前後に三成は京坂の間にいたことがわかる。すでに隠居していた三成は表立って活動することはなく、奉行衆連署状の発給者に名を連ねることもしない。」(中野等、p424)

※ 豊国社は京都にありますので、7月18日には三成は京都にいたことが分かります。三成が大坂に赴いたとする当時の記録は一切ありませんので、この前後に三成が大坂にいたことはなく、「内府ちがひの条々」に三成の名が入っていない事も当然のこととなります。

 

7月19日 毛利輝元大坂城入城(中野等、p424)

     (7月17日説もあり。(上記参照))

7月19日  「義演准后日記」に「十九日、家康ヘ奉行ヨリ十三ケ条数流布一見了」とある。(藤井治左衛門、p165)

7月19日  『島津家代々軍記』によると、「島津惟新は、伏見城の守備の主将鳥居元忠に対して、自分も入城してともに防衛しようと交渉した。」(藤井治左衛門、p168)(鳥居元忠はこれを拒否。)

→前述したように、遅くとも7月15日の時点では、島津義弘は西軍についていますので、この『島津家代々軍記』の7月19日の日付が正しいとすると、これは島津が鳥居元忠に仕掛けた罠といえ、うっかり元忠が義弘の要請を信じて入城を許せば、伏見城はあっという間に陥落していたでしょう。元忠の入城拒否の判断は正しかったといえます。

 七月十二日の島津義弘の「覚」によると、島津義弘伏見城在番のための入城を要請したところ、伏見城留守居鳥居元忠)から断られたということです。(桐野作人、p69~70)『島津家代々軍記』の記述が正しいとすると、義弘の要請は二度目の要請ということになります。

※参考エントリー↓

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7月20日 松井康之(杵築城に拠って細川豊後領を預かる細川家臣)宛大谷吉継書状

「◇態々申し入れます。上方の御仕置が急変したことで、御肝を潰されたことと推察します。ついては御身上のことについて、大坂御奉行衆に相談したところ、奉行衆の連署状と「内府ちかいの条々」を送り下すので、よくよく御覧いただいて、太閤の連々の御恩賞の段忝じけなく思い、御忘却なくば、早々に上方へ御上りになって、盛法印(筆者注:京都の医者・吉田盛法印のこと。松井康之の妹が盛法印に嫁していた)のところに身を寄せられることが尤もでしょう。(私としても)しっかり尽力するつもりです。なお、追って申しれます。」(中野等、p422~423)

7月21日「家康に従って「会津征伐」の途次にあった真田昌幸安房守)に宛てた三成の文書が、七月二十一日までには届いている。」(中野等、p424)

※ いつ三成がこの書状を出したのかは不明ですが、中野等氏は「三成は、「三奉行」による輝元への上坂要請(筆者注:この「三奉行」による輝元への上坂要請は当然、三奉行が輝元に西軍への決起への参加を促すための上坂要請ということになります。)あるいはそれに対する輝元の対応が明らかになった段階、すなわち換言すれば、家康排除を実行にうつす環境が整った時点で、与党と頼む諸大名に対して、私的な通信を開始したのである。」(中野等、p424)としています。

 真田家は石田三成の取次先であり親密な関係にあり、また石田三成大谷吉継と真田家は縁戚関係にあったため、このような書状が送られたのだと考えられます。

(参考)↓

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7月20日「美濃国揖斐郡黒野城主加藤貞泰が、前に関西に雑説が流れたので、これを監視するため従軍を延期することを報じたのに対し、徳川家康並びに従軍した加藤太郎座衛門から返書が来た。」(藤井治左衛門、p169)

7月21日「大坂奉行衆は伏見城の奪還を指示し、七月二十一日から宇喜多・島津・小早川らの軍勢が攻撃を開始する。」(中野等、p423)

7月21日「丹後宮津の城主細川忠興は、領内杵築城の留守に対して、関西の事変の処置を命じ、家康並びに自身等の行動を報じた。」(藤井治左衛門、p170)

7月21日 家康、江戸→(会津)(同日付松井康之等宛細川忠興書状写『家康』)。(『居所集成』、p118)

7月21日 政宗白石城攻略のため北目城発、名取郡岩沼宿陣(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月22日 政宗、在岩沼城(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月23日 伏見城攻撃に毛利勢も加わる。(中野等、p424~425)

7月23日 最上義光徳川家康書状。

「◇確実を期して申し入れます。石田三成(治部少輔)・大谷吉継(刑部少輔)の才知によって、方々へ触状が廻り、いろいろな風聞が拡がっています。(そこで)御働(会津征伐)については、これ以降御無用とします。状況については、こちらから重ねて申し入れますが、大坂の儀は政務以下、手堅く進めており、家康(此方)と大坂奉行衆とは一明示す。三奉行からの書状を進覧します。」(中野等、p420)

※ この頃、家康は7月17日の三奉行による「内府ちがひの条々」を知らなかったのか、知っていても知らないふりをしていたのか不明です。石田・大谷が方々へ出した触状の内容も、義光に家康が進覧した「三奉行からの書状」の内容も不明です。

 中野等氏は「家康自身も、秀頼を擁する大坂「三奉行」の存在が、政務・軍務の正統性を保証する前提と、意識していたことがわかる。」(中野等、p420)としています。

3月23日(7月23日の誤り?) 「四奉行は竹中源助を大坂に召した。」(藤井治左衛門、p172)

7月23日 政宗、岩沼城宿陣(『治家記録』)。(『居所集成』、p285)

7月23日 北政所筑前中納言小早川秀秋)様御祈念のため7人して7日参仕す。北政所より銀子1枚拝領す(以上『北野社家』)。(『居所集成』、p430)

7月24日 政宗白石城攻略(「昨日廿四日白石表相動候」『「政宗2」)。8月14日まで在白石城。(『居所集成』、p285)

7月24日 家康、小山に至る。(『居所集成』、p117)

7月24日 「寛政重修諸家譜」によると、「小早川秀秋は、伏見城守備の主将鳥居元忠に対して、自分も入城して倶に防衛しようと交渉した。」(藤井治左衛門、p173)→とありますが、7月21日から西軍による伏見総攻撃が始まっている状態です。24日に秀秋が伏見城に入城交渉したとは考えられず、後世に秀秋の旧臣が小早川の挙動を弁護するために書いた虚偽の記述だと考えられます。)

7月25日 家康、小山で諸将を集めて以後の方針につき協議したとされる(『家康』)(『居所集成』、p117~118)

→いわゆる「小山会議」については、実際にあったかなかったか研究者の間でも論争になっています。

7月26日 東軍の上方衆が小山を発って西上した(同日付堀秀治宛家康書状写『家康』)(『居所集成』、p118)

7月26日 「小早川秀秋は東寺に禁制を掲げた。」(藤井治左衛門、p183)

7月26日 「徳川家康は、越後国春日山城主堀秀治に、下野国小山を去るにあたり、西上を報じた。」(藤井治左衛門、p183)

7月26日 「京極高次が上方の状況を報じたのに対して、徳川家康は復書を発した。」(藤井治左衛門、p184)

7月27日 榊原康政は、出羽国秋田城主秋田実季に対して、上方で石田・大谷が蜂起した旨を伝える。(藤井治左衛門、p184~185)

7月27日 「山内一豊は、其の妻が大坂から送って来た書並びに増田長盛長束正家連署の書を家康に呈した。そこで家康は、本多正信等に一豊を召致させて、密議する所があった。」(藤井治左衛門、p185)

7月27日 7月27日までに石田三成、居城佐和山に戻る。「挙兵が現実のものとなったことをうけ、軍勢を整えるためであろう。」(中野等、p425)

7月27日 細川藤孝、家康方として居城の田辺城を西軍から攻められる(『義演』)。(9月2日まで籠城)(『居所集成』、p198)

7月28日 家康、小山在。(同日付芦名盛重宛家康書状「此方も小山令在陣」『家康』)。(『居所集成』、p118)

7月28日 「家康は芦名盛重出陣の報に答書した。」(藤井治左衛門、p186)

7月29日 「七月二十九日付で三成は、近江国友村に対して、鉄砲の真儀吹き替えを禁じる判物を発している」(中野等、p425)「おそらく国友の鉄砲は、「公儀」に用所のみ応じることを要求したものであろう。」(中野等、p426)

7月29日 石田三成佐和山を出て、伏見城攻撃に参加。(『居所集成』、p306)

7月29日 「飛騨高山城主金森長近とその子、可重(よししげ)は、共に家康に従い、関東に居たが、家康は彼らに北濃の地を略取させようとした。又、一方、美濃国加茂郡西白川村小原の領主遠藤慶隆、及び同郡蘇原村犬地の領主遠藤胤直に書を送り、その旧邑、郡上郡を与えることを約束した。」(藤井治左衛門、p186)

7月29日 「家康が大坂の「三奉行」の「逆心」を知るところとなり、「会津征伐」軍の陣中に大きな衝撃が走る。家康の行軍は「公儀」権力の発動であり、豊臣秀頼に近侍して政権中枢に位置する「三奉行」の支持は、その大きな前提であった。「三奉行」が輝元や三成らに与するということは、とりもなおさず、家康の行動が正統性を失うことを意味する。正統性を喪失した家康の軍勢は「賊軍」に転落し、史料上にも「徒党」と評されることとなる。」(中野等、p425)

※それより以前の、家康に従軍する「会津征伐」軍の認識は、細川忠興が家臣の松井康之・有吉立行に充てた書状によると「「会津征伐」軍の陣内では、毛利輝元石田三成が語らって騒擾を起こしているとの理解が拡がっていたことがわかる」(中野等、p425)とのことです。

7月29日 徳川家康は、黒田長政田中吉政最上義光に奉行等の異謀を報じた。(藤井治左衛門、p191)

7月29日 「二大老毛利輝元宇喜多秀家徳川家康を糾弾する書状を真田昌幸宛に送付する。この日、宇喜多秀家伏見城を攻撃中であり、毛利輝元大坂城にいた。

 宇喜多秀家の副状は(同じく伏見城攻め陣中にあ又た)石田三成が発しており、毛利輝元の副状は三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)が発している。

 大老宇喜多秀家の副状を石田三成が発行しているところから、この日までに石田三成が「奉行(年寄)」に復帰したことが考えられる。(中野等、p426~427)

(中野等氏は「これに先立って石田三成大坂城で秀頼に拝謁し、親しく豊臣家奉行職への復帰が認められたのであろう。」(中野等、p427~428)としています。

(下記は宇喜多秀家真田昌幸に送った書状の現代語訳。)

「◇態々書状を敬達します。去年以来、家康(内府)は秀吉の御置目に背き、誓紙を反故にしています。恣(ほしいまま)の所業は是非もないことです。今度おのおの相談して戦端を開くこととなりました。上方のことは一円に制圧し、妻子は悉く人質と定めました。(こののち)上杉景勝と連携して、関東を平定させることを想定しています。あなたも引き続き太閤様の御懇意をお忘れなくば、このときこそ秀頼様への御忠節が肝要に存じます。なお、委細については、石田三成(石治少)から申しれます。」(中野等、p427)

7月29日 毛利輝元前田玄以増田長盛長束正家、「連署して、佐波広忠に蜂須賀家政の居城阿波国猪山城の収城を命じ、併せて軍令を発した。」(藤井治左衛門、p190)

7月30日 三成、大坂城入城。(『居所集成』、p306)

7月30日 「徳川家康は、藤堂高虎に対して、福島・池田・田中等と共に、西上するように命じた。(藤井治左衛門、p192)

7月30日 「徳川秀忠は、伊達政宗白石城攻略を賞し、更に奮励を促した。」(藤井治左衛門、p193)

 

 参考文献

桐野作人『関ヶ原 島津退き口』学研M文庫、2013年(2010年初出)

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1979年

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

水野伍貴『秀吉死後の権力闘争と関ヶ原前夜』日本史史料研究会、2016西