古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

関ヶ原への百日①~慶長五年六月

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☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ

☆慶長争乱(関ヶ原合戦) 主要人物行動・書状等 時系列まとめ 目次・参考文献 

慶長三(1598)年8月 

慶長三(1598)年9月~12月

慶長四(1599)年1月~12月

慶長五(1600)年1月~5月

 

(このページは、関ヶ原への百日①~慶長五年六月 です。)

関ヶ原への百日②~慶長五年七月 

関ヶ原への百日③~慶長五年八月

関ヶ原への百日④~慶長五年九月 

 

 以下に、関ヶ原の戦い(慶長五年九月十五日)の百日前である慶長五(1600)年六月八日前後から戦いのあった九月十五日前後までにあった事柄について時系列的に示す。

 

慶長五(1600)年六月

 

6月2日 「徳川家康上野国白井城主本多康重に対して会津征伐を報じ、直ちに準備して攻撃に参加するように命じた。」(藤井治左衛門、p134)

6月6日 「家康は諸将を大坂城西の丸に集め、会津攻撃の部署を定めた。家康・秀忠は白川口から、佐竹義宣は仙道口から、伊達政宗は伊達・信夫口から、最上義光は米沢口から、前田利長は越後津川口から。」(藤井治左衛門、p135)

6月6日・7日 徳川家康、大坂在(『舜旧』)(『居所集成』p118)

6月8日 毛利輝元、(京都在)。(これまでは、伏見に居住)(『お湯殿』6月8日条に「あきのもりちうなこん、くにへくたりのよし申されて、くわんしゆ大こんまて、しまのかみ御つかいにて、しろかね廿まい、おのみちの御たる十しん上申」とある。同日北野社から暇乞い。『北野社家』同日条に「輝元へ暇乞二参、国へ御下也、大祈進物」とある。(『居所集成』p233)

→この時期の輝元の本国(広島)への帰還は、6月16日より始まる家康の上杉景勝征伐と期を一にしたものと考えられますが、この時期からすでに西軍決起の陰謀が動いていたか、仮に動いていたとしても輝元がこの時期から首謀者に入っていたかは不明です。

6月8日 北政所大坂城より帰城。(この時期、北政所は京都新城に居住。)(『時慶』)(『居所集成』p430)

6月13日 家康、大坂在(『言経』)(『居所集成』p118)

6月14日 輝元、洞春寺で元就の三十三回忌を執行。(『居所集成』p233)

6月14日 伊達政宗、大坂発、伏見着(『治家記録』)。(『居所集成』p285)

6月14日 東征する毛利勢は、安国寺恵瓊吉川広家が率いることになった。(慶長五年六月十四日付安国寺恵瓊毛利輝元書状『萩藩閥閲録』遺漏巻三ノ三)(中野等、p413)

6月14日 「徳川家康は、越後国新発田城溝口秀勝に、佐渡国庄内へ進撃することを中止させた。」(藤井治左衛門、p137)

6月15日 「前田玄以長束正家増田長盛三奉行は六月十五日付で会津出陣の命を下す。(六月十五日付兼松又四郎正吉充て連署状・名古屋市秀吉清正記念館所蔵文書)。会津出陣の日時は「関東」すなわち家康が決するとするものの、七月十日以前の出陣は「地下人」に迷惑がかかるとして、それ以後にすべきことを述べている。」(中野等、p413)

6月15日 政宗、伏見逗留(『治家記録』)。(『居所集成』p285)

6月16日 家康、大坂→伏見 会津上杉景勝攻撃のために、家康は大坂を発して伏見に入る。(『言経』「会津中納言逆心有間、内府可発向之由云々、大坂ヨリ伏見マテ御上了」)。(『居所集成』p117、118)

6月16日 政宗、伏見発(『治家記録』)。(7月12日に北目城到着。)(『居所集成』p285)

6月17日 家康、伏見在(『鹿苑』「午時者新太明神へ内府公御社参ナリ」)。(『居所集成』、p118)

6月17日 輝元、厳島神社に参詣、同日夜に広島に帰城(「毛利家三代実録」)。(『居所集成』p233)

6月18日 北政所、豊国社へ社参す(『舜旧』)。(『居所集成』p430)

6月18日 家康、伏見→醍醐寺(通過)→(江戸)(『義演』「内府家康出陣下国也、当所巳剋被融了」)。(『居所集成』、p118)

6月18日 「家康は、伏見城を発し、途中大津で京極高次の饗を受け、同夜石部に泊まろうとしたが、水口城主長束正家石田三成京極高次等が夜襲するとの噂を聞き、夜半、遽に出発して伊勢の関に向った。」(藤井治左衛門、p139)

6月20日 『続武者物語』『関原軍記大成』によると、「石田三成上杉景勝の重心直江兼続に、徳川家康が十八日伏見を出発したことを報じた。」(藤井治左衛門、p143)

→この書状は石田三成上杉景勝直江兼続との事前通謀を示す書状になりますが、『続武者物語』『関原軍記大成』ともに江戸時代に編纂された軍記物であり、この書状は「関ケ原の戦いは、石田三成直江兼続が事前通謀して引き起こしたもの」という誤説を創作するために、江戸時代に作られた偽文書だと考えられます。

※ 石田三成上杉景勝直江兼続のあいだに事前通謀はなかったことについては、下記のエントリーで検討しました。↓

関ヶ原の戦いにおける西軍決起の首謀者たちは誰か?

6月23日 浅野長政、息子幸長の甲府到着を家臣に告げている(同日付藤井某等宛長政書状写「太祖公済美録」)、本人はおそらく江戸に滞在。(『居所集成』p328)

6月25日 「六月二十五日付で三奉行(筆者注:前田・増田・長束)は東下する軍勢に対して兵粮・馬飼料の給付を証明する連署状を発する。(六月二十五日付連署状・名古屋市秀吉清正記念館所蔵文書)。」(中野等、p413)

6月28日 織田秀信妙照寺に対し安堵城を出した。(藤井治左衛門、p144)

6月29日 丹後の細川忠興近江国今津を発する。(中野等、p413)

 

 参考文献

藤井譲治編『豊織期主要人物居所集成』思文閣出版、2011年

白峰旬「在京公家・僧侶などの日記における関ヶ原の戦い関係等の記載について(その2) −時系列データベース化の試み(慶長5年3月~同年12月)−」、2016年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

藤井治左衛門『関ヶ原合戦史料集』新人物往来社、1989年

『武将感状記』に書かれた、石田三成の「三献茶」の逸話

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『武将感状記』という書物に、石田三成豊臣秀吉に仕官する際の逸話で有名な「三献茶」の話が掲載されています。

 

 Wikipediaによりますと(Wikipediaですいません)、『武将感状記』とは、肥前国平戸藩藩士熊沢猪太郎(熊沢淡庵)によって正徳6年(1716年)に刊行された、戦国時代から江戸時代初期までの武人について著された行状記だとの事です。全10巻、250話からなり、『砕玉話』とも言うようです。もっとも、東京大学史料編纂所進士慶幹が、平戸の旧藩主・松浦家へ照会したところ、著者に該当するような人物は見当たらず、また熊沢家への問合せでも、そのような人物は先祖にいないということであり、実際、作者の正体は不明のようです。

 

 さて、その「三献茶」の逸話を、『武将感状記』から引用します。

 

「秀吉石田三成を召し出さるゝ事

 

 石田三成はある寺の童子也。秀吉一日放鷹に出て喉乾く。其の寺に至りて誰かある、茶を點して来(きた)れと所望あり。石田大いなる茶碗に、七八分にぬるく立て持ちまゐる。秀吉之を飲み舌を鳴らし、気味よし今一服とあれば、又立てこれを捧ぐ。前よりは少し熱くして、茶碗半ばにたらす。秀吉之を飲み又試みに今一服とある時、石田此の度は小茶碗に少し許(はか)りなる程熱く立てい出す。秀吉之を飲みその氣の働を感じ、住持にこひ近侍に之を使ふに、才あり、次第に取り立て奉行職を授けられぬと云へり。」

 

 もとより、関ヶ原の戦いから100年以上たった正体不明の人物による逸話なので、史実とはいえないでしょう。しかし、これが現代にまで人口に広く膾炙したことを考えると、この逸話は、江戸時代の人々が「石田三成」に抱くイメージが、このようなイメージだったのだと考えらます。

 

(この項については、思いついたところがあったら追記します。よろしくお願いします。)

 

 参考文献 

Wikipedia『武将感状記』の項:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%B0%86%E6%84%9F%E7%8A%B6%E8%A8%98

熊沢猪太郎『武将感状記』(国立国会図書館デジタルコレクション)(「三献茶」については、コマ番号117)

『徳川実紀』にみる、「『秀吉は家康に政権を禅譲した』説の否定」

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徳川実紀』という歴史書があります。徳川実紀は、19世紀前半に編纂された江戸幕府公式史書で、編集の中心人物は林述斎成島司直であり、起稿から35年近い事業の末、天保14年12月(1844年1月から2月)に完成したとされます。

ただ、これは史料というより徳川政権を正当化するための歴史を編纂した政治文書の類とみるべきであり、特に、関ヶ原近辺のことについては、関ヶ原の戦いから200年以上たった後の史書ですので、史料的価値は低いといえるでしょう。)

 その『徳川実紀』の「東照宮実紀」に、「秀吉は家康に政権を禅譲した」説が触れられています。以下に引用します。

 

「初秋のころは其病いささかひまありとて君を病の牀にまねかれ。秀吉が命も今は旦夕にせまりたり。秀吉うせなん後は天下忽に亂れぬべ し。是を押しづめ給はむ人は。內府をのぞきてまたあるべしとも思はれねば。天下の事ことごとく內府にゆづり進すべし。我子秀賴成長の後天下兵馬の 權をも執るべくは。いかにとも御はからひ有べきなりと遺託せられしに。

 君も御落淚ましまして。我淺才小量をもていかで天下の事を主宰すべき。殿下万歲 の後も秀賴君かくてましませば。誰かうしろめたき心をいだく者あらん。しかりといへども人心測りがたし。たゞ深く謀り遠く慮りて。天下後世の爲に遺教をほどこさるべし。我に於ては决して此重任にあたりがたしと。再三辭退ましまし退き給へば。太閤ハいよいよ心を安ぜず。石田。增田。長束などいへる腹心の近臣 に密旨を遺言せらるゝ事しばしばにて。葉月十八日臥待の月もまちつけずうせられぬ。(天下を以て子にあたへず他人に讓られしは。堯舜の御後は蜀の昭烈帝嗣 子劉禪を諸葛亮に託して。輔くべくはたすけよ。もし其不可ならんには君自らとるべしといはれし事。後世たぐひなきことには申なれ。然るに秀吉の烈祖に孤を託せられ。天下の兵權をゆづらんとせられしは。昭烈の諸葛亮に託せられしに同じ。しかるを石田增田が詞にまどひ。其事をとげざりしは惜むべき事なりと さる人の申置しが。今案ずるに此說是に似て非也。凡秀吉の生涯陽に磊々落々として快活のすがたをなすといへども。其實はことごとく詐謀詭計ならざるはな し。石田等の奸臣よいよい秀吉の膓心に入て。常に其胸中を察するが故に。巧に迎合を行ひし者なり。秀吉石田等が說にまよひ前心をひるがへしたるにはあらず。

 烈祖は常に先見の明おはしまして。よく人の先を得給へるによて。秀吉が沒期の詐謀に陷り給ハざるなり。又ある書に。秀吉死に望み小出秀政。片桐且 元に密諭せしは。我家亡びざらん樣にはからんとすれば。本朝の禍立所におこりぬべし。彼を思ひ是をはかるに。此七年が間朝鮮と軍し大明とたゝかひ。我かの兩國に仇を結びし事こそ我生涯の過なれ。我死ん後彼國に向ひし十万の軍勢。一人も生て歸らん事思ひもよらず。もし希有にして歸る事を得たり共。彼國より此年月の仇を報はんと思はざる事あるべかず。元世祖が本朝を侵さむとせし事近きためし也。此時に至て。秀吉なからん後誰有てか本朝の動きなからん樣にはかる 者のあるべき。此事をよくはからんは。江戶內府の外又あるべしとも思はれず。しかし此人彌本朝のために大功を立られんには。神明も其功を感じ聖主も其 勳を賞し給ひ。萬民も其德になづき其威におそれ。天下はをのづからかの家に歸しぬべし。其時なまじゐに我舊恩を思ふやから。幼弱の秀賴を輔佐して天下をと らんとはかり。此人と合戰を結ばゞ。我家をのづから亡びむ事きびすをめぐらすべからず。汝等我家の絕ざらん事を思はば。相かまへて此人によくしたがひつか へて。秀賴が事あしく思はれぬ樣にはかるべし。さらば我家の絕ざらむ事もありぬべしと。遺言せられしとのせたり。この事いぶかしといふ人もあれど。思ふに これも詐謀の一にして。秀吉本心はかく正直なりと。死後に人にいはしめむとての奸智より出し所にて。その本心にてはなし。ゆへに四老五奉行などには此沙汰なく。小臣の兩人に申置れたると見ゆるなり。)太閤兵馬の權をゆづり進らせむとありしをかたく辭し給ふにより。しからば秀賴幼稚のほどは。天下大小の政務 は君にたのみ進らせ。加賀大納言利家は秀賴保傅となりて後見あるべしとの遺言なり。これより君伏見にましまして大小の政を沙汰し給へば。天下の主 はたゞ此君なりと四民なびきしたがふ。石田三成始大坂の奉行共これを見て。何となくめざましくそねみ思ふ事なみなみならず。いかにもしてかたぶけ奉ん事を。內々をのがじゝはからひける。」

 

 色々書いていますが、つまりは、はじめ秀吉は、蜀の皇帝劉備重臣諸葛亮に政権を委ねたのにならって、家康に政権を委ねようとしたのだが、奸臣である石田・長束・増田に惑わされたのかどうか知らないが、その前言を撤回したという話です。(補足で、それは秀吉自身の本性は「其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし」なので、別に石田等に惑わされたわけではなく、それが秀吉の本心だとしています。また、なんか小出・片桐に密かに別の遺言したような話が伝わっているが、これも秀吉が本気ならこんな小臣(片桐・小出のことです。さりげなく、『徳川実紀』片桐・小出をディスっています)にだけ(他の家臣に伝えず)密かに遺言するなんてありえないだろ、というある意味当然のツッコミをいれています。結局、家康は兵馬の権を譲られるのは固辞したので、政務は伏見の家康・秀頼の保傅は利家という体制となったという話になっています。)

 

 元々、関ヶ原から200年以上たった、徳川家の政治文書である『徳川実紀』の話については、なんの信用性もない訳ですが、当時の徳川幕府の「公式見解」は知ることができる訳です。

 つまりは、徳川政権の公式史書である『徳川実紀』においても、「秀吉は家康に政権を禅譲した」説というのは、秀吉による(「其實はことごとく詐謀詭計ならざるはなし」)虚言としており、最終的にこれが秀吉の公式な遺言になったことなどない、と徳川サイドも認めている話な訳です。(当時の徳川方の一次史料にもありません。)

 

 まあ、結局徳川家康は、豊臣政権を簒奪し、秀吉の子秀頼を死に追い込み、豊臣家を滅ぼした訳ですから、秀吉が家康に政権を委ねるようなことが、秀吉遺言の最終決定としたら、それはとてつもない愚行であると、未来の人間には分かり切った話です。晩年耄碌したとされる秀吉も、そこまでは愚かではなかったということでしょう。

「徳川秀忠より上杉景勝の三家臣に遣れる書状〔慶長三年十月二十三日〕」について

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 慶長三(1598)年十月二十三日、徳川秀忠上杉景勝の三家臣に以下の書状を送ります。

 

「〔参考〕徳川秀忠より上杉景勝の三家臣に遣れる書状〔慶長三年十月二十三日〕

 

 今度中納言上杉景勝)殿上洛付而、被仰置候旨、先度大久保治部少輔(忠燐)迄来書之通披見、本望候、如承候御留守中相應之儀、不可存疎意候、委曲治部少輔可申入候條、令省略候、恐々謹言、

                           江戸中納言

                               秀忠

 

     (慶長三年)十月廿三日

       大石播磨守(元綱)殿

       岩井備中守(信能)殿

       安田上總介(能元)殿

 

 上杉景勝は、上洛に際し、家臣大石播磨守元綱・岩井備中守信能・安田上總介能元に命じ、江戸在城なる徳川秀忠の家臣大久保治部少輔忠燐に書状を遣って、景勝が上洛の行程を急ぐため、江戸城を訪問せざる旨を申し遣はせた。秀忠は書状を見て、大石元綱等にこの書状を裁し、景勝不在中、相應の事に就ては粗略を存ぜざる旨を申し送ったのである。」(中村孝也、p340)

 

 上杉景勝は秀吉死去の報を受けて、慶長三(1598)九月に上洛し、十月七日に京都に上洛しました。先の書状において景勝は、上記中村氏の解説のように、三家臣を通じて(本来であれば上洛までの途中にある江戸城を訪問して秀忠に挨拶すべきだが)上洛の行程を急ぐため、江戸城を訪問せざる旨を伝えます。この書状はその返書で、秀忠は景勝の伝えたことはもっともで、景勝の留守中も粗略のないようにする、と上杉家の三家臣に大久保治部少輔忠燐を通じて伝えた、という書状です。

 

 高橋陽介氏は、この書状を「徳川秀忠は、上杉領国の仕置のため、家臣大久保忠燐を会津へ遣わすこととした」(高橋陽介、p114)書状であり、そこから「上杉景勝徳川家康の指事どおりに動いており、もちろん、対等の関係ではない」(高橋陽介、p114)という、訳の分からない解釈を導いていますが、なぜこのような解釈になってしまうのか、全く意味不明です。

(当然の話ですが、大久保忠燐は書状の使者として会津に行っただけで、上杉領国の仕置のため会津に行った訳ではありません。もちろん、上杉景勝徳川家康の指事どおりに動いている訳では全くありません。)

 

 参考文献

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究<新装版>中巻』吉川弘文館、1980年(新訂版)

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年

書評③ 高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』~第二部 慶長三年三月~八月②

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 前回のエントリーの続きです。

(※前回のエントリーは、以下参照↓)

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19.「慶長三年七月一五日、毛利輝元と島津龍伯は徳川家康前田利家ら二人の年寄に起請文を提出した。」(高橋陽介、p81)

→(上記の起請文については、下記のエントリーに記載しています。↓1.慶長三(1598)年七月十五日の徳川家康前田利家毛利輝元起請文前書案がその内容です。 

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五奉行が自らを「年寄」と「公称(公式文書で自らを年寄と呼んでいる)」した当時の文書は複数ありますが、五大老を自称・他称を含め「年寄」とした当時の文書はなかったかと思われます。(私が知らないだけで、「こんな文書があるよ」という方がいましたらお知らせ願います。)

 

20.「これら二通はまったく同じ内容であり、毛利輝元と島津龍伯は奉行衆の起草した起請文に署名し、徳川家康前田利家ら二人の年寄にたいして豊臣政権への忠節を誓ったものであることがわかる。」(高橋陽介、p83)

→「奉行衆の起草した起請文」という根拠が不明です。

 

21.フランシスコ・パシオの報告書によると、輝元・龍伯らに起請文を差し出すように命じたのは豊臣秀吉である。」(高橋陽介、p83)

 

(→『イエズス会年報』にある、フランシスコ・パシオの報告書の記載については、以下のエントリーを参照願います。↓)

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 高橋氏は19.七月十五日に徳川家康前田利家宛に毛利輝元が提出した起請文は、パシオの報告書に書かれている「秀吉の眼前で家康宛てに出された起請文(というか、後述するようにパシオの報告書に書かれている起請文は秀吉宛に出されたもので、家康宛てに出されたものなどパシオの報告書上も存在しません)」と勘違いしているようですが、明らかな誤りです。パシオの報告書にはそんな事は書かれていません。

① まず日にちが違います。パシオの報告書によりますと、秀吉が起請文を出させたのは、西暦1598年8月5日(邦暦慶長三年七月四日)になります。一方、毛利輝元と島津龍伯が徳川家康前田利家に起請文を提出した日付は慶長三年七月十五日になります。

② パシオの報告書は「それから太閤様の希望によって、家康は誓詞をもって約束を固め、また列座の他の諸侯も皆同様に服従と忠誠の誓詞を差し出すことを要求され、」とありこれは家康と他の諸侯も同様に秀吉に誓詞を差し出すことを要求されたと考えるのが自然でしょう。家康・利家に誓詞を出せとは書いていません。

③ パシオの報告書には、もう一人の起請文の宛先にあるはずの前田利家について一切記述がありません。だから、少なくとも七月十五日の家康・利家宛輝元起請文と『年報』に書かれている起請文は、全く無関係といえます。

④ 元々イエズス会年報は外国人の書いた『伝聞史料』であり、この記載をそのまま鵜呑みにするのは危険です。これについては、後述します。

 

2.「慶長三年七月一四日(ユリウス暦一五九八年八月五日)、自らの死期を悟った秀吉は、最大の実力者である徳川家康に後事を託し、政権をゆだねた。また、秀頼が成人したあかつきには政権を返還するよう、家康に依頼した。」(高橋陽介、p83)

→(ユリウス暦一五九八年八月五日は、慶長三年七月四日です。)

(※『フランシスコ・パシオの報告書(イエズス会年報)』の内容については、以下のエントリー参照。↓)

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 高橋氏の著作のタイトル『秀吉は「家康政権」を遺言していた』のとおり、上記の論点が本著作の最大の論点でしょう。

 上記の「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説の根拠として、『フランシスコ・パシオの報告書(イエズス会年報)』と姜沆の『看羊録』があげられています。

(令和4年2月20日追記)

 姜沆の『看羊録』(朴鐘鳴訳、平凡社、2008年)には、「家康には、秀頼の母〔淀殿〕を室として政事を後見し、〔秀頼の〕成人を待ってのち、政権を返すようにさせた。」(p164)という記述があります。姜沆は朝鮮の虜囚であり、日本では親家康派の藤堂高虎の屋敷に捕らえられており、その記述は全て伝聞情報で、ここに書かれた家康が淀殿を室にしたというのも誤情報であるため、信用できる情報ではないことになります。

 

 これは、いずれも同時代史料とはいえ、外国人の伝聞史料であることに注意が必要です。

 仮に「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説が真とするならば、同時代の日本側の一次史料にもそのような記載があって当然かと思われますが、こうした史料はありません。 後世の勝者である徳川家・親徳川方の大名がこのような史料をすべて亡失したとも考えられず、このような史料が一切残されていないというのは、そもそもこのような史実はなかったのだと考えた方が自然です。

 

 イエズス会年報は、日本に在住するイエズス会修道士がローマに報告している年報です。当時イエズス会伴天連追放令によって豊臣公儀から弾圧される立場にあったことを考慮する必要があります。このため、彼らが直接見た事物についてはある程度信頼できるものの、伝聞史料については信頼できるか注意すべきです。そして、この秀吉の遺言の部分はあくまで「伝聞史料」です。

 姜沆は、朝鮮の役で日本軍に捕まった虜囚の儒者の記録であり、姜沆は伏見の藤堂高虎屋敷に抑留され続けていますので、彼の書いた記録は全て伝聞記録ということになります。

 一方、「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説によって、否定されることになる「秀吉は「五大老五奉行体制」を遺言していた」説は、秀吉の遺言や起請文などの日本側の一次史料によって裏付けられているものです。

(※当時の起請文の内容については、以下を参照願います。↓)

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(※秀吉の遺言の内容については、以下を参照願います。↓)

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 当事者である日本の一次史料には「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説は一切なく、外国人の伝聞史料にのみ「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説があるとは、なんとも奇怪な話で、この「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説というのが疑わしい、怪しげなうさんくさい話であることをむしろ証明しています。

 これが関ヶ原の戦いで負けて滅亡したのが徳川家であれば、つじつまが合うのですね。IF世界の勝者、西軍諸将にとっては「「秀吉は「家康政権」を遺言していた」なんてものが事実だったら、自らの正当性がゆらぎますので、必死になってそうした文書は破棄・消去する。結果、日本側の一次史料は残らない。しかし、日本側(勝者西軍側の)都合のなど考慮しない外国人の史料には残ってしまった、ということであれば話は分かる。

 しかし、現実の勝者は徳川方な訳で、徳川が自らの正当性を証明する文書を破棄する必要性がないので、実際にそうした文書があるならば、大手を振ってその文書を持って証明すればいいだけの話です。

 

 つまり、当事者である日本の一次史料には「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説を証明するものは一切なく、外国人の「伝聞史料」にのみ「秀吉は「家康政権」を遺言していた」説があるというのは極めておかしな話であり、当時誰かが家康にとって都合のよい「怪情報」を流したのではないかと疑われる、という新たな「疑惑」が浮かんでくる訳です。

 パシオの報告書における「秀吉の遺言」シーンは、パシオ本人が見ている訳ではありません。しかし、妙に詳しく書かれていますので、情報提供者(伏見城内に入れる立場にある大名家の家臣(おそらくキリシタン))がいたのだと考えられます。パシオは、その情報提供者の提供する情報を頼りに報告をまとめていますが、情報提供者の名は明らかにされていません。情報提供者の名も明らかにされていない以上、この情報がどこまで信頼できる情報か分からない訳です。特に上記で書いた、「当時誰かが家康にとって都合のよい「怪情報」を意図的に流したのではないか」という疑惑がある以上はなおさらです。この上記の情報提供者そのものが「怪情報」の発信源である可能性が高い訳です。

 また、この「パシオの報告書」における「秀吉の遺言」が極めて怪しいのは、前田利家への言及が一切ないことです。

 高橋氏は、慶長三年七月一五日付徳川家康前田利家毛利輝元起請文、徳川家康前田利家宛島津龍伯起請文と「パシオの報告書」を紐づけて考えていますし、時期的に近いことを考えればその発想は自然なものですが、関連があるとするとかえっておかしな話になります。起請文の宛所として徳川家康前田利家の二名が並び立つ存在であるはずなのに、「パシオの報告書」には、その並び立つ存在であるはずの前田利家に対する遺言が一切ありません。

 ということで、「パシオの報告書」における「秀吉の遺言」には、仮にすべてが嘘ではなかったとしても、「重大で意図的な欠落」があるのだと考えられます。少なくとも前田利家に対する遺言は完全に消されている。すなわち、「徳川家康に後事を託し、秀頼が成人するまで政権をゆだねる」ようなことを秀吉は言ったかもしれないが、「『家康一人だけに』後事を託し、政権をゆだね」たわけではないし、そんなことは言っていない。だから、そのような印象操作をしている「パシオの報告書」が伝える「秀吉の遺言」は意図的に誤った情報を流しているものになる訳です。

 少なくとも、七月十五日の起請文を見る限り、七月の時点でも前田利家は、「後事を託し、政権をゆだね」られたメンバーの中に入っているし、遺言は未だ確定しておらず、その「後事を託される」メンバーはこれから増える可能性もあった。そして、実際他のメンバーが入り、八月五日の秀吉の自筆遺言をもって「五大老五奉行制」が「秀吉の遺言体制」として確定したということでしょう。

 それにしても秀吉の生前から、こうした「怪情報」を意図的に徳川方が流していたというのであれば、秀吉の死去の直前から他の四大老五奉行が家康を警戒し、秀吉の死去とともに何か行動を起こすのではないかと、敵視したのもある意味当然のことでしょう。絶対的権力者が死去するその時こそが、一番クーデターを警戒しなければならない時な訳です。

 

 参考文献

高橋陽介『秀吉は「家康政権」を遺言していた』河出書房新社、2019年

考察・関ヶ原の合戦 其の四十五「七将襲撃事件」とは何だったのか?④

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 前回の続きです。(前回のエントリーは、↓)

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 慶長四年閏三月三日、豊臣政権の五大老の一人、前田利家が死去し、その翌日の閏三月四日、いわゆる「七将襲撃事件」が起こります。これまで、「『七将襲撃事件』とはなんだったのか」を追ってきましたが、以下では1.「『七将』とは誰のことを指すのか?」と2.「『七将襲撃事件事件』その後」について説明します。

 

1.「七将」とは誰のことを指すのか?

「七将襲撃事件」の「七将」とは、「慶長四年閏三月五日付七将宛徳川家康書状」(中村孝也、p398~399)から加藤清正浅野幸長蜂須賀家政福島正則藤堂高虎黒田長政・長岡(細川)忠興であることが分かっています。

以下に、この「七将」が、「七将襲撃事件」に参加したかを考察します。

 

加藤清正・・・加藤清正は、文禄の役時の講和交渉方針を巡って小西行長及び三軍目付(石田三成増田長盛大谷吉継)と対立したことにより、関係が悪化します。(ただし、石田三成の讒言によって清正が謹慎処分となったという史実はありません。)この時は、加藤清正小西行長を秀吉に糾弾して、行長の失脚を求めている訳で、小西行長とそれを支持する三目付の方が、加藤清正の「讒言」により、失脚する可能性もあった訳です。

 どちらが失脚してもおかしくない批判合戦を両派(加藤清正VS小西行長+三軍目付)は繰り広げていた訳ですが、秀吉は実際にはどちらも処分しませんでした。

 なぜ、秀吉がどちらも処分しなかったというと、「和戦両様」の二枚舌外交で両部下たちにその一舌を担わせて両者を競わせ、そのうち実際に自分にとって有利な判断を選ぶのが秀吉の意思であったからです。結局のところ、加藤清正小西行長らも秀吉の思惑の下で踊らされる駒にすぎなかった訳です。しかし、このような秀吉の二枚舌外交の道具として使われた同士は互いに互いに対して激しい憎悪を抱くことになり、秀吉死後も禍根として残ることになります。

 

浅野幸長・・・父浅野長政石田三成増田長盛と宇都宮氏・佐竹氏の処分方針を巡って対立しています。石田三成増田長盛は、以前宇都宮国綱の取次を務めていましたが、後に宇都宮家は浅野長政の与力となります。しかし、年に宇都宮は突如改易の処分を受けることになり、これには浅野長政の関与があったといわれます。更には石田三成が取次を務めていた佐竹家も連座されそうな事態になります。

石田三成増田長盛はこれ以来、浅野長政・幸長親子と仲がうまくいってなかったと考えられます。

 

蜂須賀家政黒田長政・・・慶長の役の際に蜂須賀家政黒田長政が処罰される事件が起こりますが、戦況を報告した軍目付の福原長尭の縁戚が石田三成であり、これを遺恨に思ったことが理由とされます。このことについては、後述します。(※)

 

福島正則蜂須賀家政・(黒田長政加藤清正・・・福島・蜂須賀は徳川家との婚姻を「私婚違約」だと四大老五奉行によって糾弾されます。この四大老五奉行の糾弾を主導したのが奉行衆(特に石田三成)だとみなされ、遺恨に思われたのが理由と考えられます。(また、この時期から、黒田長政は内々に徳川家との婚姻を進めていたようです。ちなみに、加藤清正と徳川家の縁辺が「七将襲撃事件」後に進められ、清正は家康の養女を嫁に迎えることになります。)

 

 上記のように、加藤清正浅野幸長蜂須賀家政黒田長政については、秀吉の生前から、(浅野長政を除く)奉行衆(前田玄以増田長盛石田三成長束正家)と何らかの政治方針の対立・遺恨があり、秀吉の死によって対立が深刻化したということになります。

 福島正則については、秀吉の生前には対立するような具体的理由はありませんでしたが、徳川家の縁辺の儀を四大老五奉行に阻まれていますので、これは正則が「家康派」に近づき、「奉行派」を敵視する理由になったのでしょう。

 

 藤堂高虎については、特に藤堂高虎は秀吉晩年より家康に急接近しているため、「親家康派」として、「家康警戒派」の「奉行衆」を排除するために動いたということになると考えられます。(中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』をみると、徳川家康藤堂高虎は何度も書状のやりとりをしており、秀吉晩年より親しい仲であったことが分かります。)

 

 細川忠興は、「私婚違約事件」で家康との対立の矢面に立った前田利家と縁戚です。また、石田三成と忠興の父細川幽斎は、同じ島津の取次を務めており関係が悪かった訳ではありません。

しかし、前田利家の死去が近いことが分かった段階で、家康に敵対した前田家が利家という大黒柱を失った後、家康によって排除される事態が、忠興にとっては十分に予想され、これに巻き込まれて細川家が前田家と共倒れになる前に、徳川家に恩を売る行動を取って友好関係を深める必要性を考えた故の行動と思われます。

 

(※)「慶長の役の際の蜂須賀家政黒田長政処分事件」について捕捉します。この事件については、実は二大老五奉行が関わっている事件です。まず、秀吉が処分の命令を下した時に、秀吉の側近くにいて協議に参加したのは、前田玄以増田長盛長束正家浅野長政の四奉行です。(この時、石田三成は上方に不在で協議に参加していません。)

 そして、秀吉が激怒した原因となった、三城縮小案を示す十三将連署状の一番・二番目に名を連ねたにも関わらず(署名の筆頭が宇喜多秀家、二番目が毛利秀元、三番目が蜂須賀家政)、なぜか処分を受けなかったのが宇喜多秀家毛利秀元です。

 宇喜多秀家は秀吉の養女婿、毛利秀元は輝元の元養子で、秀吉の養女婿でもあり、毛利一族で重要な位置を占める武将です。秀家と秀元は秀吉の養女婿であるがためおそらく処罰の対象から外された訳で、本来であれば処罰を受けてもおかしくなくない立場であったといえます。

 対して、石田三成は秀吉の処分命令が発せられたときには上方に不在であり、軍目付の報告についての事前の協議も受けていませんでした。(中野等、p353~354)、

 しかし、秀吉に朝鮮の役の報告をした軍目付の福原らが三成の縁戚だったため、連帯責任を問われた訳です。

 こうして、慶長の役蜂須賀家政黒田長政処分事件もまた、審理のやり直しなどすれば、二大老(毛利・宇喜多)、五奉行に類が及ぶ危険性がある話だったといえます。

 他の大老・奉行に類が及びそうな事件であったため、他の大老・奉行衆は自分に累が及ばないように、裁定した秀吉及び協議した四奉行に責任を負わせるのではなく(もとより太閤秀吉に責任など死後であっても誰も負わせられませんが)、報告した軍目付とその縁戚である石田三成に責任を押し付けてスケープゴートにすることにより、事態の収拾をはかったといえるでしょう。

↓(参考エントリー)(①~④まであります。)

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2.「七将襲撃事件」その後

「七将襲撃事件」のその後について、時系列で記します。

 

閏三月十四日条「十三日午刻、家康伏見之本丸(ママ)(西の丸ヵ)へ被入由候、天下殿二被成候、目出候、」(『多聞院日記』、白峰旬、p41)

 この家康が伏見城に入城した状況について、堀越祐一氏は以下のように説明しています。

「これは先述したような秀吉の遺言により認められていた天守の立ち入り許可(筆者注:『浅野家文書』に残る秀吉遺言状参照。下記参考エントリーにあります。)などとは次元の異なるものであり、反家康派を強く刺激する行為であった。このことは、関ヶ原合戦直前にあたる翌慶長五年八月に、西軍首脳が家康の罪状の一つとして「伏見御城被仰置候御留守居を追出、関東之凡下野人之者共御座所を踏荒候段」(筆者注:著者の注によると「鈴木重朝宛宇喜多秀家毛利輝元前田玄以石田三成増田長盛長束正家連署状」)を挙げていることからもわかるが、逆に家康からしてみれば、自らの権威を示すのに大きな効果があったと言えよう。また、ここで注目されるのは「御留守居を追出」という記述である。これは、秀吉から留守居を委任されたはずの「五奉行」が伏見城から完全に切り離され、伏見城がほぼ家康の所有となったことを意味しよう。秀吉が晩年の大半を過ごした伏見城を手中にした家康を、世上の人々は「天下殿」になったと噂したのである。」(堀越祐一、p215~216)

 

※ 秀吉の遺言については、以下参照↓

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閏三月十九日蜂須賀家政黒田長政五大老書状

「朝鮮蔚山表、後巻の仕合わせ、今度様子聞き届け候の処、御目付衆言上の通り、相届かざる儀と存じ候間、新儀御代官所、前々の如く返し付け候、并(ならびに)、豊後府内の城も早川主馬(長政)に返し付け候様に申付け候、然る上は彼表において其方越度にあらざるの段、歴然候間、その意を得らるべく候、 恐々謹言

[慶長四年]                           利長

閏三月十九日                          輝元

                                景勝

                                秀家

                                家康

        蜂須賀阿波守殿

        黒田甲斐守殿」(笠谷和比古、p221)

→上記の書状は、蔚山城後巻戦の蜂須賀家政黒田長政の処罰を誤りとし、処分を取り消した五大老連署状です。同じく処分された軍目付早川長政も没収された城を返却されています。

(なお、前田利長も含む五大老連署状は、慶長四年閏三月三日(前田利家が死去した日)から発給されています(堀越祐一、p156)ので、五大老のうち前田利家が死去した場合は、大老の役割は利家嫡男利長が引き継ぐことがあらかじめ決まっていたことが分かります。)

 

閏三月十九日 石田三成に近い軍目付熊谷直盛・福原長堯が朝鮮出兵時の「私曲」により改易にされる。(『史料綜覧』巻一三、慶長四年閏三月十九日条)(白峰旬、p49)

→このことから、慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処分事件は、「軍目付熊谷直盛・福原長堯の報告が「私曲」であり、責をこの二人(と縁戚の石田三成)を負わせ、蜂須賀・黒田には咎められる責はない、という五大老の「裁定」により結着したことになります。

もとより、熊谷・福原の報告に誤りなどなく、処分を裁定したのは秀吉本人であり、関与したのは四奉行(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政)な訳ですが、政争による処分については「事実がどうだったか」というのはどうでもよく、誰が処分を受けるかは政治的な力学によって決まるものといえます。

慶長三年の時点では、貧乏くじを引いてスケープゴートとなったのが蜂須賀・黒田であり、慶長四年の時は、石田・熊谷・福原がスケープゴートとなったという話になります。

 

閏三月二十一日 徳川家康毛利輝元、互いに起請文を交わして和解を図る。

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』より、上記起請文の内容について引用します。

「しかし、その文言には大きな違いがみられる。(中略)

 家康が輝元を「兄弟の如く」としているのに対して、輝元は家康に「父兄の思いを成す」としているほか、書止文言は「恐々謹言」(筆者注:毛利輝元徳川家康起請文)と「恐惶敬白」(筆者注:徳川家康毛利輝元起請文)、宛所も「安芸中納言殿」と「家康様」というように敬称が異なっている。さらに、「讒人之族」が現れたならば、家康は互いに「糾明」しようとしているが、輝元の場合、家康の「御糾明」がなされ、それを「仰聞」かせいただければ満足だと述べているなど、家康を上位、輝元を下位とした両者の上下関係は明らかである。また、全体的に似通った文章表現が用いられていることから、徳川・毛利両家において事前に綿密な文面のすり合わせが行われたことは明白で、この点にも注意する必要があろう。徳川上位、毛利下位の格づけは、両者の、明確な認識・合意の上で決まったのであり、三成失脚により、輝元が家康に対する戦意を喪失したことは疑いあるまい。この直後に勃発した九州島津氏領内における、いわゆる「庄内の乱」は、本来ならば秀吉から西国を任された輝元が中心となって対処すべき案件であるべきなのに、家康主導で行われたことは先述した通りであるが、この事例は、当時の家康と輝元の力関係をよく象徴していよう。」(堀越祐一、p217)

※ 参考エントリー↓

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 前回のエントリーで述べたように、この家康派より仕掛けられた「政争」により、家康派は以下の目的を達しようと考えたのだと思われます。

① 家康が伏見城に入城することによって、天下の実権を握る。

②「徳川家康牽制派」の「奉行衆」を中央政界から排除する。

③「縁辺の儀」をなし崩し的に承認させる。

④「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の撤回及び裁定に関わった者の処罰

 

①~④のうち、「奉行衆」全員の排除はできませんでしたが、石田三成の排除はできました。この「政争」の勝利により、家康派は、ほぼその目的を達成したといえます。

「七将襲撃事件」は、慶長四年初頭からの「私婚違約事件」にはじまる「徳川家康派」と「徳川家康牽制派」の延長線上にある事件といえ、「私婚違約事件」においては、妥協を余儀なくされた「家康派」が、前田利家の死去により弱体化した「家康牽制派」を潰して豊臣公儀における主導権を徳川家康が握ることを目的とした事件であるといえます。石田三成と七将の個人的な対立によって起こった事件と誤解してしまうと、この事件の本質を見誤ることになるでしょう。

 ただし、この事件で家康は一気に独裁体制をひけたわけではなく、前述したように「七将襲撃事件」以降も、「五大老・五(四)奉行制」が崩壊した訳ではなく、五大老連署状はその後も発行されています。渡邊大門氏によると、

「事実、五大老制は、その後も維持されていく。いくつか例をあげておこう。慶長四年四月、五大老は薩摩島津氏に対して、海外での海賊行為を禁止している(「東京大学史料編纂所所蔵文書」)。これは、豊臣政権の基本政策の一つである海賊禁止令を徹底したものであり、五大老がある意味で秀吉の政策を基本的に受け継いだことを示している。つまり、表面的に五大老は互いの不信感を拭って、一致していたのである。

 そして、同年六月には、五大老連署により、対馬宗義智に一万石を与えられている(「榊原家所蔵文書」)。宗氏の朝鮮出兵に対する功績を賞するものであった。朝鮮出兵後の戦後処理に関しても、五大老によって対応がなされたのである。いわゆる五大老制の中で、秀家(筆者注:宇喜多秀家)は前田利家が亡くなったことを受けて、署名の順番ではナンバー2になっていた。したがって、先に触れた家康と秀家の対立を避けることは、政権を維持するには不可欠だったのである。」(渡邊大門、p253~254)とあります。

 

 豊臣公儀における「家康独裁体制」を決定付けるには、「七将襲撃事件」政争の勝利だけでは足らず、「七将襲撃事件」の結着は「家康派」にとっても「家康牽制派」を潰しきれなかった、中途半端な処理であったといえます。

「家康派」が「家康牽制派」を完全に潰し、「家康独裁体制」を敷くためには新たな政争を仕掛ける必要がありました。これが、慶長四年九月の「家康大坂城入城クーデター」に繋がっていくことになります。

 

※ 次回のエントリーです。↓

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 参考文献

笠谷和比古「第七章 かくして関ヶ原合戦は起こった」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』文英堂、2000年)

白峰旬『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』吉川弘文館、2017年

堀越祐一『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、2016年

渡邊大門『宇喜直家・秀家-西国進発の魁とならん-』ミネルヴァ書房、2011年

考察・関ヶ原の合戦 其の四十四「七将襲撃事件」とは何だったのか?③

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3.「七将襲撃事件」の「襲撃対象者」は誰だったのか? 

「七将襲撃事件」というと、石田三成一人が「襲撃」の対象者だったようにとらわれがちですが、必ずしもそうとはいえません。

 

「日付欠の毛利元康宛毛利輝元書状」【44号文書】 (『山口県史』史料編・中世3、光成本のD文書)を見ますと(前のエントリーで引用したものとは、別の書状です。)、

 

「(前略)a治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、b治少一人さほ山へいんきよ候て天下事無存知候様との儀候、是ニ可相澄候、c増右をもミな〱種々申候へとも、治少一人にて可澄と内意候、dさ候とも増右者其まゝにてハ被居 候ましく候条、可為同前候、是ほとニ澄候へ者可然候、(後略)」(白峰旬②、p142。(光成準治、p42~43にも同書の記載あり)

 

とあり、石田三成だけではなく増田長盛も「訴訟」の対象だったことが分かります。(増田長盛は、実際には何も処分は受けず石田三成一人の処分となります。

 

 また、「慶長四年閏三月九日付鍋島信房・石井生礼・鍋島生三宛鍋島勝茂書状によると、

 

「a仍御奉行中・御年寄衆御間御沙汰ニ付而、此此伏見・大坂さわかしく雑説申、b此五三日は石治少一人御迷惑之躰候つれ共、是も昨日相済、」(中略)「【史料11】」「(白峰、p61)

 

とあり、白峰氏は

「傍線aは、この頃の伏見、大阪での雑説の原因が、五奉行五大老の間における評議の問題に起因する、としている点は重要である。評議の問題が伏見、大坂での雑説の原因となったとしていることは、五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたと見なすことができる。その評議の具体的な内容は、上記の【史料11】には記されていないが、五大老の一人である前田利家の死去(閏三月四日)と関係しているのもかもしれない。とすれば、前田利家の後任の大老に関する問題であろうか。

 傍線bは、この数日、石田三成一人が「御迷惑」という状況であったとしているので、上述した五奉行五大老間での評議の問題についての確執に関して、石田三成一人が責任を取らされる形になった、という意味であろう。ただし、石田三成一人が責任を取らされれる形になった経緯は【史料11】には記されていない。」(白峰、p63)

としています。 

 しかし、白峰氏の「五大老の一人である前田利家の死去(閏三月四日)と関係しているのもかもしれない。とすれば、前田利家の後任の大老に関する問題であろうか。」という推測が正しければ、それに関する史料があるはずですが、特に前田利家死後の大老について何かもめたということに言及した史料はないかと思われますので、これが原因とはいえないでしょう。(後継の大老は息子の利長になりました。これは秀吉の遺言(『浅野家文書』)で決まっていたようです。)

(参考エントリー↓) 

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 いずれにせよ、「七将襲撃事件」の原因は、「五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたのが原因」であり、この確執は、本来石田三成一人の責任とされるものではありませんでした。「襲撃」あるいは「訴訟」の対象は石田三成だけではなく、(浅野長政を除く)「奉行衆」全体であったといえるでしょう。

 しかし、両者(「徳川派」と「徳川警戒派」)が「交渉」した結果、石田三成のみに責を負わせ、他の大老・奉行衆の責任は問わないことで結着したということになります。三成はスケープゴートにされたということです。

 

 ところで、「五奉行五大老の間で評議に関してなんらかの確執が生じたのが原因」という事で普通に考えられるのが、つい数か月前の慶長四年一月~二月に起きた「私婚違約事件」でしょう。

 このときは四大老五奉行がそろって家康を糾弾し、二月五日に家康が四大老五奉行に血判の起請文を提出するとともに、五大老五奉行で誓詞を交わし、互いに遺恨なきことを誓っています。(中村孝也、p383~386)

 二月五日付の四大老五奉行宛の家康起請文には、「今度縁辺之儀付、御理之通承届候、」(中村孝也、p383)と書いてあり、この書状では家康は、四大老五奉行の糾弾を承諾して受け入れたことになっています。これにより「縁辺の儀」は一旦白紙に戻ったと考えられ、このような血判状を書かせられたことに対し家康は非常に屈辱を感じ、四大老五大老への遺恨が深まったと考えられます。

 この後、前田利家の健康状態が悪化し死期が迫る中、両者(家康派vs家康牽制派)の形勢は逆転します。家康牽制派(四大老五奉行)の中核を占める前田利家が死去する時期を見計らって、家康派は家康牽制派に対して反撃をしようと考えたのだと思われます。

 ところが、誓詞で「遺恨をいだかない」ことも誓っていますので、「家康派」は反撃するにあたって、この「私婚違約事件」を蒸し返す訳にはいきません。「騒動」を起こすには別の理由が必要となる訳です。その「別の理由」として使われたのが「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰事件」であったと考えられます。

 

 この家康派より仕掛けられた「政争」により、家康派は以下の目的を達しようとしたのだと考えられます。

① 家康が伏見城に入城することによって、天下の実権を握る。

②「徳川家康牽制派」の「奉行衆」を中央政界から排除する。

③「縁辺の儀」をなし崩し的に承認させる。

④「慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の撤回及び裁定に関わった者の処罰

 

①~④は以下のような結果になりました。

① 閏三月十三日に家康は伏見城二の丸に入城し、『多聞院日記』に「天下殿」になったと記されるほどの権勢を示すことになります。(ただし、『多聞院日記』では家康が「本丸」に入ったと誤認していますが。)

②については、敵対する「奉行衆」全員の排除はできませんでしたが、石田三成の排除はできました。

③「私婚違約事件」で糾弾された縁組は、その後、なんら咎められることなく成立していますので、「七将襲撃事件」以降、なし崩し的に承認されたとみてよいでしょう。

④の処罰の撤回は「家康派」の要求通り認められることになります。

裁定に関わった者の処罰」についてですが、秀吉の裁定には、前田玄以増田長盛長束正家浅野長政が関わり、石田三成はその場の裁定には不在でした。しかし、戦況を報告した軍目付の福原長堯が三成の縁戚であったため、石田三成が責を問われる形にの結着となったことになります。

 これは、慶長の役時の蜂須賀家政黒田長政処罰」の裁定の責任を、報告した軍目付及びそれを監督すべき縁戚の石田三成の責任とすることで、裁定を下した豊臣秀吉(もちろん、その責を問える者は誰もいない訳ですが)及び裁定に関与した四奉行(前田玄以増田長盛長束正家浅野長政)の責任を回避したということになります。

(参考エントリー↓)

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 以上のように、完全に目的を達成したとまではいえませんが、この「政争」の勝利により、家康派は、①~④までの目的をほぼ達成したといえます。

 

 奉行衆の中で特に三成が「襲撃」の対象になったのは、三成が大坂にいたからであり、つまり大坂城外の石田三成屋敷では「七将」の「襲撃」または「屋敷閉じ込め」に対するには安全ではなかったからでしょう。前述したとおり毛利元康宛毛利輝元書状によれば、大坂城の門の守備を務めていた片桐且元・小出秀政は「内府方」)であり、内府方の息のかかった武将が門の守備を任されている以上、大坂城は安全ではありませんし、大坂城に入城することもできなかったことになります。

 他の奉行衆についてですが、「七将」の中に息子の浅野幸長が入っている、浅野長政は元々「襲撃」の対象外となります。三成以外の三奉行(前田玄以増田長盛長束正家)は伏見城にいたのだと考えられますので、実質的に「七将」が「襲撃」する機会がなかったのだと考えられます。(大身の「四大老」を「襲撃」するのは、さすがにはじめから計画に入っていなかったと思われます。)

 

(付論)白峰旬氏の論文(白峰旬②)では、複数の「毛利元康宛毛利輝元書状」について解釈を示されています。前回及び上記エントリーでもいくつかコメントしましたが、コメントしきれなかった部分について以下に記します。

 

「【43号文書】(『山口県史』史料編・中世3、光成本のB文書) (「一」脱ヵ)a面むきあつかい之事、いまた不澄候、b増右・治少より被申分ニハ、景勝・我 等覚悟次第、何に分ニも可相定との儀候条、c景勝申談候而異見申候、可有分別哉と存 候、趣可申候、

一 d夕部禅高被越候而かたり被申候、内府入魂ハ非大かた候、e於其上も神文等とりかハ し候様ニとの被申事候、弥無異儀候、可御心安候、

 一 f下やしきへ罷下候と聞え候て、尤可然と被申たる由候間、弥可相尋と申事候、一段可 然被申様と聞え申候、只今之あれまハり候物、気ニ少もあい不申、又そこ用心ニ聞え候、 御賢慮之前候〱、趣追々可申候、

一 g御気分可然之由肝心候、尚以不可有御緩候、時分からにて候、h夕部もそとハさわき たる由候、禅高とはるかまてかたり候て不存候つる〱、早々しつまり申候様ニと申事、かしく、

 ※下線a~cの文の箇所は、冒頭の「一」が脱落している可能性が高い。」(白峰旬②、p141)(光成準治、p40~41に同書の掲載があります)

 

上記の文書を白峰氏は、慶長五年六月上旬に比定しています。一方で光成氏は慶長四年閏三月に比定しています。どちらが正しいのでしょうか。

私見を申し上げますと、この書状は慶長四年閏三月に比定されるべきものと思われます。

① 冒頭に、「増右・治少より被申分ニハ、」とあり、増田長盛石田三成が同じところにいて発言しているかのような記述ですが、この時点では石田三成佐和山城で隠居、増田長盛は現役で大坂(または伏見)にいますので、同じところにいるかのような記述は不自然といえます。

② 慶長五年六月では、既に会津征伐が具体化している段階であり(六月十六日に家康が総大将となり遠征軍を率いて大坂を出発します。(笠谷、p29)。そして、景勝は会津にいます。

 輝元は景勝と相談(景勝申談候而異見申候)して異見を述べたといっていますが、遠く離れた伏見(輝元)と会津(景勝)とで連絡をとって(書状の往復で約一ヵ月以上かかるのではないでしょうか)相談しているような書状には到底見えません。

 ①~②より、この書状は慶長五年六月上旬の書状とはいえず、慶長四年閏三月の書状だと考えられます。

 

「【44号文書】(『山口県史』史料編・中世3、光成本のD文書)

g昨日彼方と間如此相調候、

一 a治少身上面むき之あつかい三人衆へ申渡候、是も此中あつかいかけ有之候由候、b治少

一人さほ山へいんきよ候て天下事無存知候様との儀候、是ニ可相澄候、c増右をもミな

〱種々申候へとも、治少一人にて可澄と内意候、dさ候とも増右者其まゝにてハ被居

候ましく候条、可為同前候、是ほとニ澄候へ者可然候、e治少ことのほかおれたる被申

事候、長老へふしを(か脱ヵ)ミなミたなかし候、f此一通事、家康よりも一段ミつ

〱候へとの事候、一人ニも御さた候ましく候、よく〱その御心へ候へく候、梅りん・

渡飛・児若其元へ被召寄候而、ミつ〱にて被仰聞可給候、召上せ申候へ者、こと〱しく候、少も口外候ましく候由、かたく可被仰候〱、かしく、」(白峰論文、p142)(光成準治、p43~43に同書の掲載があります。)

 

→白峰氏にはgの「彼方」への言及がありませんが、「彼方」とは、光成氏によると上杉景勝の可能性があるとしています。(光成準治、p44)

「内意」を白峰氏は、輝元自身の内意としていますが、「此一通事、家康よりも一段ミつ〱候へとの事候、」と指示した家康の「内意」とみた方がよいでしょう。

といいますか、この書状の内容は「七将襲撃事件」の「扱い」を誰かと「協議」した結果を、輝元が元康に知らせている書状ですので、「内意」を輝元自身の内意としてしまうと、輝元が一人問答で脳内協議をしていることになってしまい、おかしな書状になってしまいます。

 ちなみに、「長老へふし(筆者注(*):み?)を(か脱ヵ)ミなミたなかし候」を、光成氏は、「(三成から)安国寺恵瓊(筆者注:原文の「長老」)への書状を見て、(輝元も)涙を流しました。」光成準治、p43)と輝元が涙を流したことになっていますが、白峰氏は安国寺恵瓊(「長老」)に対して、三成は伏して拝み涙を流した」(白峰旬、p143)としています。

((*)光成氏(光成準治、p43)は「し」を「み」と呼んで「ふみ=文」としています。)

 どちらの訳が正しいかはよく分かりませんが、白峰氏の訳は「か」を補って訳していますので、この訳もちょっと強引かなと思われます。

 

 この事件の調停にあたったのは輝元だけではなく、上述のように上杉景勝も入っていますし、『言経卿記』によると、北政所も仲裁しています。ただし、彼らの調停の相手方は、「七将=内府方」の背後にいる徳川家康だったといえるでしょう。

 

次回に続きます。

※ 次回のエントリーです。↓

koueorihotaru.hatenadiary.com

 

 参考文献

白峰旬①『新視点 関ヶ原合戦 天下分け目の戦いの通説を覆す』平凡社、2019年

白峰旬②「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利 輝元書状(「厚狭毛利家文書」)の解釈について」

http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=gk02109

白峰旬③「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は「武装襲撃事件」ではなく単なる「訴訟騒動」である : フィクションとしての豊臣七将襲撃事件」http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=sg04810

中村孝也『新訂 徳川家康文書の研究〈新装版〉中巻(オンデマンド版)』、吉川弘文館、2017年

光成準治関ヶ原前夜 西軍大名達の戦い』角川ソフィア文庫、2018年