古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

考察・関ヶ原の合戦 其の十二(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相③~戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか

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※前回のエントリーです。↓

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 さて、なぜ慶長の役において、朝鮮在陣十三将による「戦線縮小(案)」は、秀吉から事後的に承認されることはなく、蜂須賀家政黒田長政が処分されることになったかについて、以下に検討します。

 

7.戦線縮小(案)はなぜ、秀吉から激怒されたか

 

 前回のエントリーでは、秀吉政権においては、秀吉以外には誰も軍事指揮権の代行は認められていないため、軍事指揮命令は原則として秀吉の命令に従わなければいけず、命令違反行為を行えば、当然罰せられるという「建前」の話と、そんなことを言ったところで、現実に異国で秀吉軍は戦争しているのであり、名護屋であろうと、伏見であろうと、日本にいる秀吉にお伺いを立てて、その秀吉の軍事命令をいちいち待って行動することなど現実には不可能だという「本音」の話をしました。

 

 これを調整するためには、現地の秀吉の代理人(奉行・軍監・外交官・現地総大将等)が、秀吉の意向を「忖度」して、現地で独断決定・実行を行い、事後報告を行い、秀吉の事後承認を得るという歪んだ意思決定プロセスを経る必要がありました。

 

 その代理人の「忖度」による意思決定が、秀吉の意向の許容範囲であればいいのですが、それが秀吉の許容範囲から外れてしまうと、それは秀吉の「命令違反」ということになってしまい、処分・更迭の対象となるという、あぶない綱渡りを秀吉の代理人はしなければいけないことになります。

 

 上記で言いたいことは、現地で秀吉の命令を待たずに、総大将宇喜多秀家毛利秀元が「戦線縮小」という判断を現地で独断決定・実行したことは、それが直ちに「秀吉の命令違反」として処分の対象となるとは限らず、「戦線縮小(案)」(実行してしまっているので、もう案ではないのですが)が秀吉の意向の許容範囲内であれば、許容され、事後的に秀吉に承認されるということであり、十三将の連署状もまた、秀吉の事後承認を期待したものであったということです。

 

 しかし、十三将の独断決定による「戦線縮小」は、秀吉の意向の許容範囲内ではなく、十三将を代表して、(NO.1、2の責任は問えないため)NO.3である蜂須賀家政が「秀吉の命令違反」の責任を負って処分されることになります(黒田長政は家政の縁戚連座が実態)。

 

 なぜ、十三将の独断決定による「戦線縮小」は、秀吉の意向の許容範囲内として事後承認されることはなく、「命令違反」として処分されることになったのでしょう。

 

 秀吉は実際には、原理原則を振りかざすような「机上の名将」ではなく、現実主義者であり、百戦錬磨の軍事専門家です。

 異国の戦地で諸将が熟慮の上で、独断決行し、事後承認を求めたとしても、それが「やむを得ない」決定・行動であると秀吉が考えるならば、秀吉はその決定・行動は事後的に承認します。

 秀吉は、小西・三奉行のかなりの妥協的な対明講和交渉すら、最終的に許容している人間なのです。(イエズス会等を前にして(いるのか伝聞なのか分かりませんが)「欺かれた」と秀吉は怒りを示しているようです(*1)が、それは「ポーズ」です。本当に秀吉が怒っている場合は、彼はその武将を「処分」します。)

 

 さて、十三将の独断決定が、秀吉の意向の許容範囲内として事後承認されることはなく「処分」された理由は、朝鮮在陣諸将と秀吉政権の書状のやりとりを時系列に見ていくしかありません。

 

 以下、慶長三年の朝鮮在陣諸将と秀吉政権(秀吉・前田玄以長束正家ら)のやり取りをまとめます。(下記の時系列表の参考文献としては、笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦』及び中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』を参照しました。)

(〇は朝鮮在陣諸将→秀吉政権書状、■は秀吉政権→朝鮮在陣諸将書状)

 

慶長三(1598)年

 

a.〇1月1日(→1月11日披見)注進状 朝鮮諸将(毛利秀元ら12将?)→秀吉政権

 蔚山城が攻撃を受け、そのための救援軍が集結していることの報告。

 

b.〇1月4日(→1月17日披見)注進状 太田一正・加藤清正・浅野長慶→秀吉政権

 蔚山救援戦の勝利、大戦果の報告

 

c.〇1月5日(→1月22日披見)書状 朝鮮諸将(毛利秀元ら)→秀吉政権

 1月5日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告(内容不明)

 

d.〇1月9日(→1月21日披見)書状 毛利秀元→秀吉政権

 朝鮮諸将が、蔚山・順天城の放棄検討。秀元は不同意。

 

e.■1月11日朱印状 秀吉政権→朝鮮諸将(毛利秀元ら)

 a.(1月1日)の戦況報告を受けて、毛利輝元増田長盛らの救援派遣を意向。

 

f.■1月17日朱印状 秀吉政権→太田・加藤・浅野

 b.(1月4日)の返状。

 大戦果の確認。援軍派遣の取りやめ。蔚山城他在番体制の強化。

 在番体制強化後の太田・浅野の帰国許可。

 

g.■1月21日朱印状? 秀吉政権→毛利秀元

 d.(1月9日)の返状。蔚山・順天城の放棄は「臆病」。秀元の不同意はもっとも。

 

h.■1月22日朱印状 秀吉政権→朝鮮諸将(毛利秀元ら18将)

 c.(1月5日)の返状。

 ① 蔚山城救援・追撃戦で多大な戦果を上げたのは聞いたが、兵糧・人数が

  整わず、相手を壊滅させられなかったのは残念。

 ② 城々の手明き次第、帰朝できるところを在陣させて、戦わせたことは「辛労」

  であった。

 ③ 慶長へ追撃を検討したが、鍋島・黒田が自分の居城が心配で戻ってしまった

  ことについては、仕方のないことであり、今後このような事は言上しなくて

  よい。

 ④ 蔚山には加藤清正、西生浦には毛利吉成、釜山浦には寺沢正成を置き、

  (帰朝予定の)毛利秀元小早川秀秋が残していく将兵を加勢させる。

 ⑤ 蔚山をはじめとする城々の普請・兵糧・弾薬の補給等守備を固めれば、

 「各々は帰朝すべく候」(*2)

 

i.〇1月26日注進状 宇喜多秀家ら13将→秀吉政権

 問題の13将による注進状

 ① 蔚山城、梁山城、順天城、南海島の放棄。

  これを秀吉の指示を待たず決行する。(事後報告)

 ② 順天城・南海島の放棄については、在番の小西・宗が反対しているので、

   御諚(秀吉の決定)に委ねたい。(*3)

 ※「現地からの報告にした秀吉は激怒し、三ヵ所城の放棄を「曲事」として受け入れようとしなかった」(*4)とありますが、いつの日付かは不明です。

 

j.■3月13日朱印状 秀吉政権→立花宗茂

 ① 蔚山城、梁山城、順天城の放棄は曲事であり、認めない。

   ただし、梁山城の放棄だけは認める。   

 ② 立花宗茂らは固城に在番、毛利高成は西生浦に在番

 ③ 先年明の遊撃将軍(沈惟敬)が詫び言を言ってきた時に、在番諸将の手に余る

  であろうから、朝鮮の日本拠点を10か所以上破棄した。しかし、二年、三年に

  一度ずつ軍勢を差し向け、遼東(明国境)まで侵攻する予定だ。

 ④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され

  候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で

  新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった

  時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、相手が撤退したところに追撃を徹底せずに

  相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつ

  さえその蔚山を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 ⑤ 兵糧の廻漕は京都から容易なので、城々の兵糧・弾薬の備蓄をすること。

   敵が攻めても堅固な状態になれば、立花らには一札出して帰朝させる。

   ただし、不測の事態が発生すれば、そのときは別途伝える。

 ⑥ 来年は、軍勢を派遣して漢城を責める予定である。

   その意を得て、兵糧・弾薬の備蓄を怠らず、在番するように。(*5)

(③、④は同一項に入っているのですが、便宜上2つに分けました。)

 

 以下、検討していきます。

 

 a.で、朝鮮諸将から、正月一日に戦況報告(蔚山城が攻撃を受け、そのための救援軍を集結させていることの諸将の報告)が秀吉にもたらされます。この注進状を秀吉は正月十一日に披見し、即日返状であるe.「正月十一日付書状」で秀吉は、毛利輝元増田長盛らの救援派遣をする心づもりをしていると伝えています。(*6)

 その後、正月四日には、蔚山城救援・追撃戦は行われ、蔚山城は解放されていますが、この時点(正月十一日)では、秀吉はその事は知らず救援派遣の心づもりを述べています。

 

 次にb.の正月四日付(蔚山救援・追撃戦が行われた日です。戦の直後に書かれた書状でしょう。)で、太田一吉・加藤清正・浅野長慶(幸長)(彼らは蔚山城で籠城していた守将です。)の注進状が長束正家前田玄以宛てに送られます。(秀吉の披露を前提とした書状です。)

 

 この書状には、籠城戦の自分たちの奮闘及び、その後の救援戦において、味方の救援軍とともに多大な戦果(「手おい・死人その数を知らず」「今度の動きにをいては、あわれ御目にかけ候て仕りたきと存じ奉り候」)(*7)を上げたと述べるものになっています。

 籠城戦で兵糧がなく、城兵が飢えに苦しんだことについては書いていません。まあ、自らの功績を示す注進状には書かれないものなのかもしれませんが。

 

 このb.正月四日の注進状は、正月十七日に秀吉の元に到来・披見し、その日のうちに秀吉に朱印状を発します。これがf.です。その内容は、以下の内容です。

①(蔚山城救援戦)で大戦果を上げたことを認める。

②(朝鮮在陣諸将が)大戦果を上げて、敵勢を撃退したため、派遣する意向だった

 毛利輝元増田長盛らの援軍はその必要がなくなった(ので取りやめる)

③ 蔚山城を始め、在番諸城を堅固に守衛すること。

④ 蔚山城在番体制が固まったのち、浅野長慶・太田一吉の日本の帰還は許す

(*8)

 中野等氏は、「兵糧や水の不足から地獄のようなさまを呈した籠城戦の悲惨さ、戦いの緊迫感などに、秀吉はさほどの関心を示してはいないようである」(*9)と述べていますが、これは、b.正月四日付の太田・加藤・浅野の注進状への返書なのであり、彼らの注進状自体が自らの多大な戦果を誇るものであり、自らの籠城戦の悲惨さには触れていませんので、返書としては当然そうした内容になります。(他の諸将の注進状・秀吉の朱印状の内容は分かりませんので、そちらは何とも言えません。)

 

 蔚山籠城救援・追撃戦(慶長三(1598)年正月四日)後、朝鮮半島在陣諸将の間では、戦線縮小・撤退案が出ることになります。ただし、c.の正月五日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告の内容は、不明です。(h.の朱印状で存在が確認されるだけです。現存していないのか、参考文献に載っていないだけなのかは分かりません。)

 

 その後、正月九日に蔚山・順天両城を放棄する案が諸将において協議され、毛利秀元はこれに対して不同意(同心仕らざる由)である旨の書状d.が、秀元から秀吉宛てに出されます。

 これに対して、正月二十一日に伏見で披見した秀吉は、返状g.を秀元に送り、秀元の不同意はもっともであり、諸将は「臆病」であると指弾しています。(*10)

 

 h.正月二十二日朱印状に、正月五日の朝鮮諸将の今後の善後策の談合結果報告に対する秀吉政権から、朝鮮諸将(毛利秀元ら18将)への返答が出されます。

 内容は、上記時系列表の通りです。再掲します。

① 蔚山城救援・追撃戦で多大な戦果を上げたのは聞いたが、兵糧・人数が

  整わず、相手を壊滅させられなかったのは残念。

② 城々の手明き次第、帰朝できるところを在陣させて、戦わせたことは「辛労」

  であった。

③ 慶長へ追撃を検討したが、鍋島・黒田が自分の居城が心配で戻ってしまった

  ことについては、仕方のないことであり、今後このような事は言上しなくて

  よい。

④ 蔚山には加藤清正、西生浦には毛利吉成、釜山浦には寺沢正成を置き、

  (帰朝予定の)毛利秀元小早川秀秋が残していく将兵を加勢させる。

⑤ 蔚山をはじめとする城々の普請・兵糧・弾薬の補給等守備を固めれば、

 「各々は帰朝すべく候」(*2)

 

 h.の書状で、まず④で蔚山在番は当然の前提とされていることが分かります。また、注目すべきなのは⑤で、城々の在番体制を固めれば、在番のための朝鮮駐留の継続を命じられた以外の朝鮮諸将は帰朝することが、予定されていたということです。

 

 これは、疲弊した第一軍の一部を帰朝させ、交代に派遣する第二軍に朝鮮半島南部の侵攻作戦を委ねる作戦でしょう。(慶長四年に福島正則増田長盛石田三成の派遣が予定されています(*11)が、ちょっと時期が離れていますので、これを秀吉が1月の時点から第二軍と予定していたのかは、不明です。

 

 加藤清正には、別の朱印状が与えられ、蔚山籠城戦の働きを「神妙の働き」と誉め、兵糧都合一万石を支給するので、引き続き蔚山城の守備にあたるように記しています。(元々の在番であった西生浦城の守備は、毛利吉成に引き継ぐように指示しています。)(*12)

 

 しかし、この間更にこの件については諸将の間で話合われ、正月二十六日付で、前述した十三将による戦線縮小案が、石田三成長束正家増田長盛前田玄以の奉行衆に宛てた秀吉への披露状において提示されます。この連署状には、d.の書状(*10)では不同意だったはずの毛利秀元も名を連ね、秀元も戦線縮小案に対して同意に転じたことが分かります。(*13)

 

 なお、以前のエントリーで触れたように、石田三成は正月十日の数日後には、会津転封作業のため、会津へ向かっていますので、この書状を見ていません。(*14)

 

 十三将の戦線縮小案の主な内容は以下の通りです。

① 蔚山城の処置については、先日秀吉からの返書の指令次第に決定しようと申し上げたが、蔚山城は地理的に突出しすぎており、これを放棄して、西生浦城まで撤退するように決定したこと。

② 順天城・南海島の処置についても、道が難所であり、いざという時に救援が困難なため、同城を放棄するように在番武将である小西行長宗義智に申し渡したが、彼らはこの決定に不同意であったため、御諚(秀吉の決定)に委ねたいこと。

③ 梁山城もまた、援軍の派遣が難しい箇所にあり、放棄・撤退すること。

(*15)

 

 これは在陣諸将の秀吉への「提案」ではなくて、秀吉の命令を待たずに既に十三将の合意だけで、意思決定を行い、撤退を実施しているということは前述しました。(*16)

 

 ただし、正月十一日・十七・二十一・二十二日に発給された秀吉の朱印状・返書(e.~h.)が朝鮮に到達した可能性があるのは、伏見→朝鮮間の書状が約10~17日かかっていることが想定されるのであれば、一月二十六日の時点で、かろうじて朝鮮在陣の諸将に届いた書状は、e.の書状くらいでしょう。e.の書状は、一月一日の戦況報告(一月四日の蔚山救援戦より前です)を受けて、毛利輝元増田長盛らの救援派遣を意向するという内容であり、蔚山城解放後の方針を検討するための判断材料にはなりません。また、f.(十七日付書状)で、援軍の派遣は取りやめになっていますが、それもおそらく朝鮮在陣諸将にはまだ届いてはいません。)

 

 f.(g.)h.の書状を見れば、蔚山城維持・在番は当然の前提であるという、秀吉の意思決定・公式命令であることは明白であり、諸将が独断決定・実行して事後承認を得る余地はありません。 

 

 しかし、このf.g.h.の書状は、一月二十六日の段階では朝鮮在陣諸将には届いていません。このため、諸将の行ったことは「意図的・故意的な、明白なる秀吉の命令無視・違反」ではありませんが、少し待てばこの秀吉の朱印状が届く訳であり、秀吉の明確な意思決定・公式命令が分かる訳ですので、やはり、秀吉・秀吉公議にとっては「命令違反」となります。

 

 秀吉はf.(g.)h.の公式命令で明白に蔚山城維持・在番を明記して指示していますので、この公式文書として朱印状を発した公式命令が事後的に覆ることは、秀吉自身にすらできず、この「命令違反」をしてしまったら、この明白な「違反」に対しては、少なくとも誰かは責任者として「処分」されなくてはいけないのです。(g.の書状には別の問題がありますので、以下に検討します。)

 

 逆に言うと、蔚山城以外の順天城・梁山城については明記されていません。

順天城については、毛利秀元宛て書状g.の「蔚山・順天両城儀指し捨て(中略)各々臆病」(*17)の表現をどう見るかの話になりますので、これを持って秀吉が公式に順天城維持を命令としたかが、問題となります。(ただし、結局小西行長の判断で結果的に順天城は維持されているので、これ以上この問題には立ち入りません。)

 

 梁山城については、f.g.h.には明記されていませんので、実際には明白な在番・維持命令は出ていません。このため、朝鮮在陣諸将にも独断決定する裁量の余地があり、梁山城放棄については、秀吉も事後承認しました。(おそらく、戦略的な意味でも放棄して構わないと、後日秀吉に判断されたのだと思われます。)

 

 f.g.h.の書状を見ると、秀吉が蔚山城の維持に固執したことが分かります。なぜ、秀吉は蔚山城の維持に固執したのでしょうか。これは、三月十三日付の立花宗茂ら宛て秀吉朱印状j.で分かります。内容は上記の時系列表をご覧ください。再掲します。

j.■3月13日朱印状 秀吉政権→立花宗茂

 ① 蔚山城、梁山城、順天城の放棄は曲事であり、認めない。

   ただし、梁山城の放棄だけは認める。   

 ② 立花宗茂らは固城に在番、毛利高成は西生浦に在番

 ③ 先年明の遊撃将軍(沈惟敬)が詫び言を言ってきた時に、在番諸将の手に余る

  であろうから、朝鮮の日本拠点を10か所以上破棄した。しかし、二年、三年に

  一度ずつ軍勢を差し向け、遼東(明国境)まで侵攻する予定だ。

 ④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され

  候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で

  新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった

  時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、相手が撤退したところに追撃を徹底せずに

  相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつ

  さえその蔚山を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 ⑤ 兵糧の廻漕は京都から容易なので、城々の兵糧・弾薬の備蓄をすること。

   敵が攻めても堅固な状態になれば、立花らには一札出して帰朝させる。

   ただし、不測の事態が発生すれば、そのときは別途伝える。

 ⑥ 来年は、軍勢を派遣して漢城を責める予定である。

   その意を得て、兵糧・弾薬の備蓄を怠らず、在番するように。(*5)

(③、④は同一項に入っているのですが、便宜上2つに分けました。)

 

上記の内容のうち、特に重要なのは、④です。

 蔚山籠城・救援・追撃戦及びその後の諸将の蔚山城独断放棄に対する諸将への評価は④につきます。④のみ抜粋します。

 

④ 各々の判断(上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され候処)で敵が弱いと判断し、城をとりひろげたところ、その(各々の判断で新しく築城した)蔚山城の普請を整えず、兵糧・弾薬を未だ入れ置かなかった時に明・朝鮮の大軍の襲撃を受け、(救援戦に勝利し)相手が撤退したところに、追撃を徹底せずに相手を壊滅させることができなかったのを(残念に思っている所へ)、あまつさえその蔚山城を、御諚を得ずに放棄するとは、曲事である。

 

 一月二十二日付朱印状h.の秀吉の意図の意味も含めて大分意訳しました。原文の方も引用します。

「(前略)然れば、今度仕置きの城々の儀、見計らい申し付け候由、言上候問、上様御覧なされざるところに候条、おのおの次第と思し召され候処、敵弱く候へば、何方までも、其の分と存じ、城をとりひろげ候、しかる処、蔚山城普請以下相調えず、兵糧・玉薬未だ入れ置かず候刻、大明・朝鮮一揆同前の者共罷り出で、城を攻めそこなひ、敗軍仕り候間、追い付き候て、悉く討ち果たすべしと思し食(め)し候処、其の段はのがし遣わし、あまつさえ蔚山の儀、御諚を得ず、引き払うべきの由、申し遣わし候儀、曲事の由申し遣わされ候事、」(*18)

 

 つまりは、朝鮮在陣諸将の判断で、(敵が弱いと考え)自ら城を取り広げたにも関わらず、(敵の来襲を予測も警戒もせず)、城の普請・兵糧・弾薬の備蓄が整っていない状況で城攻めを受けてしまい、(敵を撃退したのはよかったが、これまた兵糧・兵士の整備を怠っていたがために)追撃戦で敵を殲滅できる絶好の機会を失った。

 あまつさえ、(自分たちの判断で戦略上必要だから築城が必要と考え、取り広げたはずの蔚山城、彼らが救援戦で獅子奮迅の働きをしたことにより死守したはずの)蔚山城を自ら放棄、しかも自分(秀吉)の命令すら待たずに勝手に放棄するとは、曲事(言語道断)である、ということです。

 秀吉の目には、朝鮮諸将の行動・意向はことごとく無能に見えたでしょう。

 

 また、せっかく死守したはずの城をやすやすと放棄するとは、これでは命がけでこの城を守った守将、太田一吉・加藤清正・浅野長慶(幸長)の面目は丸つぶれです。秀吉は彼ら守将の面目のためにも激怒しているのです。(十三将の中に、太田・加藤・浅野が入っていないのは当然です。大勢が放棄に賛同している以上、彼らは表だって反対していませんが、「ではなぜ、我らは命をかけてこの城を守らねばならなかったのだ」と内心相当に不満だったでしょう。)

 間違えて、加藤清正も秀吉の叱責の対象としている方がいますが、当然、加藤清正は叱責・処分の対象には全くなっていません。

 

 一月二十二日付朱印状h.で、秀吉が何を「残念」に思っていたかを前提としないと、この書状は分かりにくいです。一月二十二日の段階では、追撃戦で兵糧・人数が整わず、敵を殲滅できなかったことは、その時点では「残念(残り多く思し召され候)」レベルに過ぎなかったのですが、諸将の蔚山城の勝手な放棄で、(一連の行動トータルとして)「曲事」レベルまで、怒りが増幅したのです。

 

 一月二十二日付朱印状については、以前のエントリーでも検討しました。↓

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 一方、黒田長政は梁山城の守将であり、梁山城については、蔚山城のような事情はありません。長政は十三将の連署状に入っていませんでしたが、守将の同意は当然得たうえでの連署状でしょうから、こちらについては、長政は梁山城の放棄に(消極的ではなく)同意していたとみなされています。しかし、これが蜂須賀家政だけでなく、(十三将ではないのに)黒田長政連座した要因となります。梁山城の戦略的価値は秀吉もあまり重視していなかったようで、事後的に放棄を承認していたものの、秀吉に断りなく城を放棄したこと自体が長政に秀吉が激怒した理由になります。

 実は、守城放棄の同意をして実際に城を放棄してしまったのは黒田長政だけだったのです。

 蔚山城を守る加藤清正は十三将の連署状に名を連ねておらず、また城の放棄に同意したとも、放棄に反対したとも書かれていません。しかし、実際には史実上清正は蔚山城を放棄していないのです。この点から、明確な意思を示してはいないが、実質的に清正は(秀吉の明確な意思がない限り)蔚山城の放棄に賛同しなかったという事が分かります。

 順天城を守る小西行長は、前述したように城の放棄に不同意です。このため、実際に十三将の指示に従って梁山城を放棄したのは黒田長政のみです。それ故、秀吉の怒りは長政にも向けられたという事になります。

 

 

 今回、処分を受けたのは、十三将のうちでは、蜂須賀家政のみ、そして黒田長政、また、軍目付でありながら、戦線縮小案に賛同した早川長政・竹中重隆・毛利高政の計五名です。

 

 他の十二将は、処分を受けていません。藤堂高虎脇坂安治に至っては、加増すら受けています。(*19)

 

 秀吉にとっては、朝鮮在陣諸将の無能、命令違反は許しがたいところですが、連署状のNO1、2は、義理の息子(秀吉の養女婿)でもあり、自らの手足ともいえる総大将宇喜多秀家及び毛利秀元(ちなみに毛利秀元は輝元の甥で、一時期養嗣子となっており、正室大善院は秀吉の養女(豊臣秀長の実娘)です。)を処分する訳にもいかず、NO.3の蜂須賀家政に全責任を押し付けたというのが実態でしょう。

 

 ただし、秀吉自身は蜂須賀家政に対して「責任を押し付けた」とはこれっぽっちも思っていません。

 

 秀家・秀元のような「貴人」を、はっきりいってしまうと、「この程度の件」で処分などできません。しかし、「この程度の件」であっても、「明白な命令違反(公式命令である朱印状に、明記された蔚山城維持・在番命令に対する命令違反・無視、としての蔚山城放棄)」であり、これは秀吉自身であっても無視ができない違反となります。誰かが責任を負わねばならず、負うのであれば、秀家・秀元を除いた次の責任者、連署状のNO.3の家政ということに当然なります。

 

 連署状の署名の書き順は適当に書いているのではありません。前の方が偉い場合もありますし、後ろの方が偉い場合もありますが、(今回は前者)とにかく責任の重い順に書いてあります。実質御一門の貴人秀家(当時二十六歳)・秀元(当時二十歳)を罰せれられない以上、NO.3である家政(当時四十一歳)は、彼らの補佐役として、年が若く未熟な彼らのサポートをして、今回のような「明白な命令違反事件」をさせないようにフォローしなければなりません。そのサポートができなかった以上、家政の処分は免れ得ません。もっと下(NO.4以下の十将)の責任を問わなかったのは、秀吉としての温情です。

 このため、秀吉としては「家政に責任を押し付けた」のではなく、「補佐役・NO3としての家政本人の責任」として彼を処分したのです。

 

 黒田長政が処分された本当の理由は、家政の縁戚であることによる連座と梁山城放棄の同意ですが、梁山城放棄は秀吉も事後的に認めていますので、こちらはあまり重要ではないのでしょう。(追記:後日の書状を見ると、秀吉の同意なき、長政の梁山城放棄もやはり問題視されたようです。梁山城放棄を秀吉も事後的に認めているのは、「放棄してしまったものは、もはやどうしようもない」、という認識からでしょう。

 処罰の理由は、これに加えて)表面上の理由は、前に書いた通り、「先手当番を怠った」ということです。この処分理由は、以前には問題とされていませんので、理由としては後付けであり疑問が残ります。)本当、とばっちりお疲れ様です。

 

8.軍目付(早川長政・竹中重隆・毛利高政)3名はなぜ、処分されたのか

 

 さて、この2名以外に軍目付3名(早川長政・竹中重隆・毛利高政)も処分された理由はなんでしょうか。

 実は、この軍目付の3名の処分の理由は明らかです。彼らは、文禄の役の三軍目付(増田長盛石田三成大谷吉継)とは格が全然違います。長盛・三成・吉継は、元々奉行衆として豊臣公議の中核であり、その彼らが奉行兼軍目付として派遣されているが故に、幅広い裁量が結果として認められているのです。(もちろん、前のエントリーで書いたように秀吉の許容する範囲を超えると処分・粛清されてしまう危険性はあります。) 

 これに対して、慶長の役の軍目付は、文字通りの軍目付のみの権限に過ぎず、秀吉は彼らに裁量は与えていません。裁量を与えられていない早川長政・竹中重隆・毛利高政が僭越にも、十三将の独断決定を賛同・保証することなんてできません。これは、縮小案に反対した軍目付の福原長堯・垣見一直・熊谷直盛も同じことで、彼らが十三将の独断決定に賛同していれば、同じく処分されていただけです。(十三将の報告が、たまたま秀吉に認められる可能性もありましたが、それはたまたまの幸運であり、いずれにせよ、彼ら(早川・竹中・毛利)の(裁量権のない)軍目付の職分からは外れていることに変わりはありません。)

 

 軍目付として彼らが本来やるべき事は、「自分たちの出した注進状に対して、秀吉の朱印状が返信されるのは間違いないのだから、それを待たずに独断決定・実行してしまった後で、明らかにその独断決定に反する公式命令が来てしまったらどうしようもないことになる。自分たちが出した注進状の返書くらい待ちなさい」と止めることでしょう。

 

 しかし、結局彼らの独断決定に(やむを得ず)賛同してしまったら、彼らに残された手段は、ただひとつで「確かに諸将は独断決定をして、しかも後から来た公式命令にも違反しているが、これはやむにやまれず緊急に現場で判断しなければいけない事態があり、対処しなければいけなかったのだ。これを責めるのは、非現実的だ」と弁護・弁解することぐらいでしょう。

 

 ところが、死守して確保したはずの蔚山城を、やがて注進状の返信として来るであろう秀吉の命令(朱印状)を待たずに緊急に放棄しなければいけない理由は、実際にはどこにもありませんでした。少なくとも今ある史料からは全くうかがえません。彼らが、仮にそのように弁護・弁解したとしても、彼らのその弁護・弁解は成り立たず、やはり彼らは処分を免れえないのです。

 

(令和2年10月9日 追記)

 三鬼清一郎氏の『豊臣政権の法と朝鮮出兵』青史出版、2012年、p334に以下の記述があります。

「(筆者注:蔚山城救援・追撃戦後)明・朝鮮の大軍が撤退したのち、正月五日には、後続の支援軍や主だった武将が早朝から集まり、退却する明・朝鮮軍を慶州まで追撃するべきか否かについての軍議が行われている。これの内容には触れられていないが、長期にわたる苦しい籠城戦を経験した諸将は、蔚山城からの撤退も視野にいれた戦線縮小を秀吉に提言している。しかし秀吉は、蔚山城を足がかりとして、首都の漢城府を奪回し、さらに北進する希望を抱いていた。秀吉は蔚山城を、軍勢の通過点に武具・兵粮を確保しておく「繋ぎの城」ではなく、拠点強化をはかるための恒久的な「仕置の城」と位置づけていた。このような在陣諸将との現実認識の相違は、諸将の間に深刻な亀裂を生じさせた事実が知られており、関ヶ原の戦いへ連なる要因となった。」(下線部筆者)

 

在陣諸将との(筆者注:秀吉との)現実認識の相違」とありますが、前述したように、在陣諸将からの注進状は、自らの大戦果を誇るもので、「長期にわたる苦しい籠城戦」については記載していません(これは兵粮の備蓄を怠り籠城中飢えで苦しんだというのは、武将にとっては「失敗」の部類に属し、不名誉だったため自らの注進状には書かなかったからでしょう)ので、これでは彼ら在陣諸将の「現実認識」が秀吉に伝わる訳がありません。

 秀吉と在陣諸将の相違を起こさせ、諸将の間に深刻な亀裂を生じさせた原因は、彼ら「現場」にいる在陣諸将自身が秀吉に送った「不正確な」注進状自体にあったといえるでしょう。

(令和2年10月9日追記 おわり)

 

 

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 注

(*1)跡部信 2016年、p374

(*2)中野等 2006年、p335~337

(*3)中野等 2006年、p339~342

(*4)中野等 2006年、p342

(*5)中野等 2006年、p342~344

(*6)中野等 2006年、p330~332

(*7)中野等 2006年、p332~333

(*8)中野等 2006年、p333~334

(*9)中野等 2006年、p334

(*10)笠谷和比古 2000年、p135

(*11)中野等 2017年、p359

(*12)中野等 2006年、p337~338

(*13)笠谷和比古 2000年、p135

(*14)中野等 2011年、p304

(*15)笠谷和比古 2000年、p135~137、

     中野等 2006年、p339~341

(*16)笠谷和比古 2000年、p137

(*17)笠谷和比古 2000年、p135

(*18)中野等 2006年、p343

(*19)山内譲 2016年、p221 

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)

中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

山内譲『豊臣水軍興亡史』吉川弘文館、2016年

考察・関ヶ原の合戦 其の十一(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相②~朝鮮在陣諸将の独断決定はどこまで許されるか

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※前回のエントリーです。↓

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※このエントリーで「独断」という言葉を使っていますが、実際には複数の諸将が判断している場合の方が多いですので、「独断」と書くのはおかしいのかもしれませんが、ここでは、「主君秀吉の意向・意思決定を聞かず(待たず)に現場で独自に意思決定・実行すること」を「独断」と言っています。よろしくお願いします。

 

5.そもそも朝鮮在陣諸将は独断決定をしてはいけないのか?-「建前」の話

 

 朝鮮在陣の十三将が、秀吉の叱責を受け、蜂須賀家政黒田長政が処分を受けたのは、朝鮮在陣十三将が、蔚山籠城・救援・追撃戦終了後に、秀吉の命令を待たずに、勝手に諸将で相談の上、独自の判断で、戦線を縮小するために朝鮮で秀吉軍が確保している3城(蔚山・梁山・順天)の放棄・撤退を決定し、実行してしまったからでした。(ただし、順天城については在番担当の小西行長が反対したため、結局放棄されていません。また、蔚山城も、後の史料を見ると放棄しなかったようです。)

 

 更に、入れ違いに発給された秀吉の軍令に、蔚山城の維持・在番が明記されており、この命令に明確に違反していましたので、「秀吉の公式命令違反」ということになり、今回の命令違反の実質責任者とみなされた蜂須賀家政と、その縁戚の黒田長政が処分されることになりました。(長政の処分された表向きの理由は、蔚山城救援戦の先手当番であったにも関わらず、先手を務めなかったことです。なお、追撃戦には長政は参加していることは、秀吉もその朱印状で認めています。(*1))

 

 しかし、中野等氏の『秀吉の軍令と大陸侵攻』を見ると、書状は朝鮮から伏見へ約10~17日かかって届いています。

 このため、何か朝鮮在陣諸将から提案・注進の書状が届き、秀吉が即日意思決定を行って命令を発しても、その書状が朝鮮在陣諸将に届くには、往復で約20~34日もかかってしまうことが分かります。

 刻々状況の変わる戦場で、悠長に伏見の秀吉に事前相談を行って、その返答を待っている暇はない、というのが現地諸将の本音でしょう。

 

 また、十三将のNO.1、2宇喜多秀家毛利秀元は、秀吉の養女婿(秀家の正室豪姫の実父は前田利家、秀元の正室大善院の実父は豊臣秀長)であり、秀吉の義理の息子といってよいです。

 秀吉の義理の息子達である総大将秀家・秀元が現地において、やむを得ないと独断決定したことであれば、秀吉も許してくれるのではないかというのが、連署した諸将の密やかな期待だったと思われます。

 ここでは、遠い異国の戦場で戦っているにも関わらず朝鮮在陣諸将には、本当に独断決定・実行することはできず、できることは日本にいる秀吉に注進状を送って、秀吉の命令が往復で約20~34日かかって来ることを待ち続けるしかなかったのか?という疑問について検討します。

 

 まず、「建前」の話をします。

 

 軍令は、軍事指揮権者である秀吉の専権事項であり、命令に違反すること、命令を待たずに独断決定で軍事的行動を行う事は、原則として義理の息子たる秀家・秀元にも許されていません。

 

 異国の戦場であり、軍事指揮官である秀吉は名護屋か伏見かはともかく日本におり(慶長の役はほとんど伏見であり、名護屋にすら行っていません。)注進・命令が往復約20~34日もかかってしまう事態は、これは軍事上の常識からはかけ離れている状態になってしまっています。

 往復に約20~34日もかかってしまうような軍令は、その間に情勢は変化して意味のないものになっている可能性が高く、結果として軍事作戦が失敗する可能性が極めて高くなります。

 

 こうした連絡が困難な遠く離れた戦場に大軍を派遣する場合は、古代中国では「節」を付与し、軍事指揮権を現地の将軍に付与するのが普通です。こうした古代中国の常識を秀吉及びその側近が、知らなかったとは思えませんが、秀吉の理屈では、天皇から軍事指揮権「節」を付与されているのは、太閤・太政大臣である自分(秀吉)であり、それを他の人間(たとえ、それが義理の息子であっても)に委譲する気はありませんでしたし、もし、委譲しようとするにも、日本においては、以下の重大な問題が発生してしまいます。

 

 日本的な意味で、もし誰かに「節」(軍事指揮権)を付与するという事は、すなわち朝廷に「征夷大将軍」に任命してもらい、「幕府」を開くということになります。

 

 誰かを征夷大将軍に任命するということは、摂関家家格としての関白継承権を日本統治の正統性の根拠とする豊臣公議の中に、(例えば宇喜多秀家を将軍にするならば)軍事政権(幕府)である(例えば)宇喜多公議を更に現出させることになります。

 

 せっかく政治と軍事が統一されている「武家関白=豊臣公議」が誕生しているのにも関わらず、その中に更に幕府を作り、関白・幕府の二重公議を作り、政治を不安定にするわけにはいけません。

 

 例えば、宇喜多秀家は信頼できる義理の息子なのですから、今現在は信用できるかもしれませんが、状況が変わったり、代替わりをしたりしてしまえば、あっという間にこの二重公議の関係は悪化し、日本に内乱が再び発生してしまう可能性が出てきます。(それ以前に、宇喜多家のままで、将軍に任官できるかの家格上の問題が発生しますが・・・、結局ifの話ですので更に深くは検討しません。)

 

 秀吉及び豊臣公議としては、こうした政治構造を現出させる訳にはいきません。

 であれば、結局異国に出兵するならば、関白または太閤が自ら朝鮮半島に出馬するより他は、本来はないのです。豊臣秀次朝鮮出兵は検討されてきましたが、秀次切腹事件でこの構想は頓挫しました。

 

石田三成文禄の役のはじめに秀吉の出馬を求めたのも、この理由のためだと推測されます。↓ 

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(また、朝鮮出兵が秀吉の意思により続くのであれば、なおさら、奉行衆にとっても関白秀次の失脚・死は避けなければならないものであり、彼らが関白秀次の失脚・死を望むわけがないことも理解いただけるかと思います。)

 

 今回の軍令違反事件は、秀吉自身の体調がすぐれず出馬が困難であり、軍事指揮権を代行すべき関白秀次も切腹事件でいなくなり、戦地から遠く離れた伏見から軍事指揮権を持つ太閤秀吉が朝鮮出兵の指揮をとるという非常識な事態に突入した時点から、必然的に発生する可能性が高いものであり、既に秀吉公議自体が歪んだ政治・軍事構造になってしまっていたのです。

 

6.文禄の役の奉行衆らの綱渡り~「本音」の軍事・外交

 

 以上、これは「建前」の話です。

 

 というのは、実は文禄の役において朝鮮に派遣された三軍目付兼奉行(増田長盛石田三成大谷吉継)及び明との外交担当者小西行長、朝鮮との外交担当者加藤清正は、現地で判断しなければならない事が実際には多々あり、現地で決定して、秀吉には事後報告という形式も多かったのです。上記のような、「建前」を実際の異国の戦場でやれる訳もありません。

 

 このように、「軍司令官の命令は絶対。独断決定など論外で、厳罰の対象」という「建前」を無視して、実際には、奉行らは現地の諸将と相談して自らの判断を決定しなければなりません。

 戦場は刻々と状況は変化しているのですから、いちいち日本に書状を送って事前相談して、秀吉の命令の書状が来るのを待ってから行動するなどという悠長なことは実際にはやっていられません。

 

 しかし、彼らには上記で見た通り、秀吉の「代理人」としての地位が与えられているのみです。「代行軍事指揮官」ではありません。だから、代理人には本来的な意味で軍事指揮官の意思決定は委任されておらず、その独自決定が軍事指揮決定者の秀吉の事後承認を得られなければ、それは直ちに軍令違反として処分の対象となりえます。彼らに「節」は与えられていません。

 

 彼らが現場で、独断で意思決定するには、この意思決定ならば、秀吉は事後承認として許容してくれそうだ、と「秀吉の意思」を「忖度」して決定する必要があります。

 

 現場で「秀吉の意思」を「忖度」して、現地の判断で動き、書状で秀吉に対して事後報告で承認を求める、というのはかなり危ない橋を渡っているのです。彼らの独断決定・事後承認申請が、秀吉の許容する範囲ならば、結果的に秀吉は許していますが、その独断決定が、秀吉の許容する範囲を超えているのならば、事後承認は認められず、それは秀吉の逆鱗に触れ、粛清される可能性があります。

 

 文禄の役の秀吉の代理人は、三軍目付(増田・石田・大谷)に加えて、対明の外交官小西行長、対朝鮮の外交官加藤清正がいました。更には後に軍監として、浅野長吉(長政)、黒田(官兵衛)孝高が付きます。あまり、独自の意思決定をしていない浅野長吉を除き、三軍目付及び小西行長加藤清正は、かなり自由な裁量を与えられ、独自の判断決定が事後報告により、秀吉に許容されています。

加藤清正の判断が、どこまで独自の判断で、どこまで秀吉の判断だったのかは別の問題としてあり、むしろ清正は秀吉の方針を堅持し過ぎだったのかもしれません。)

 

 また、元来異国との交渉・調整で、こちらの主張が100%通るなんてことはありえません。外交とは妥協・調整・条件交渉の産物であり、外交官には元々幅広い裁量が許されているものです。(ただし、一旦条約が締結され、批准されればそれは双方にとって法規範性をそなえ、遵守されなければならないものとなります。)

 

 そして、結果として三軍目付兼奉行及び行長・清正は処分されていません。

 

 ただし、行長は対明交渉の失敗により、実際には政庁から追放されそうになり、行長は北政所から慰撫され、復帰に力をかす態度をとられたといいます。(*2)(行長の母ワクサは北政所の侍女です。)北政所の助力のためか、行長は、結局は処分を受けることもなく、慶長の役の出兵を命じられます。

 

 一方、清正は帰国の際に、部下の佐野仁左衛門を通じて、徳川家康前田利家に秀吉への取り成しを頼んでいるようです。(*3)

 結局、加藤清正は特に対朝鮮交渉の失敗(そもそも、秀吉が「失敗」と見なしたかも不明)で処分は受けていません。(下記エントリーにも書いた通り「地震加藤」はありません)

 

関連エントリー

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 清正が処分を免れたのは、家康・利家の「取り成し」のおかげなのか、初めから秀吉に清正を咎めるつもりがなかったのかは分かりません。

 

文禄の役の時に、対朝鮮交渉が失敗したのは、対朝鮮外交担当官であった加藤清正が、条件の原理原則(最大条件)にこだわり、交渉条件を一切妥協することがなかったためですが、対朝鮮に対しては、これが秀吉自身の外交方針だったのかもしれず、そうだとすると、対朝鮮方面の交渉は、はじめから失敗を前提としていたのかもしれません。

 秀吉自身の外交方針であったとするならば、清正がそもそも処分される理由がありませんので、当然処分されない訳です。

(ただし、そうなると行長の対明交渉が結果として無意味になります(対朝鮮交渉の成功を前提としたものでした)ので、行長の交渉努力は無駄だったという話になりますが。))

 

 続いて、黒田官兵衛のケースを見てみましょう。

 

 黒田官兵衛は、軍監として浅野長吉(長政)文禄二年二月中旬朝鮮に再渡海します。(*4)

 この時期、戦線は膠着し厭戦気分が広がる中、明軍は、偽の明勅使を小西行長の陣営に投じます。これを、日本側は明軍降伏(詫び言)の使節と解釈し、名護屋の秀吉に経緯を伝えます。そして、石田三成増田長盛大谷吉継ら奉行衆と小西行長は偽りの明国勅使を伴って名護屋へ向かいました。朝鮮半島を南下する奉行衆は、日本から来た浅野長吉と黒田官兵衛と面談する必要性を感じ、五月に梁山で浅野長吉と会合します。(*5)

 

 一方の官兵衛は、この会合には出向かず、朝鮮半島の処置について秀吉の判断を仰ぐため、肥前名護屋城に戻ろうとします。

 これは、秀吉の1.晋州城攻略命令、2.沿岸部の城塞構築事命令に対して(秀吉は1.晋州城攻略命令が優先としました)に対して、諸将らの間でも疑問が起こっていた(2.の沿岸部の城塞構築を優先すべきではないか)ため、この命令の優先順位の調整のために、名護屋に戻ろうとしたのでした。(*6)

 

 官兵衛は、秀吉の意思を読み間違えて(「忖度」に失敗したのです)、この調整のため、独断で帰国してしまい、秀吉の逆鱗に触れ、面会も許されず、朝鮮に戻ることを命じられます。

 そして、危うく死罪の覚悟までする事態に発展してしまいます。結果、官兵衛は剃髪・入道して如水と号することで秀吉に許されます。(*7)

  

 官兵衛は何を誤ったのか。

 

 秀吉は、かなり現実主義者であり、「唐入り」の不可能なことは、軍目付からの報告である時点からは理解していました。だから、秀吉の出した明への要求が結果として不可能なことも、途中からは理解していたのです。

 だから、行長・三奉行の進める講和交渉を、事後承認的に秀吉は不承不承ながら認めています。(別に喜んで認めていた訳ではありません。)ただ、秀吉の事後承認の許容範囲は意外に広いという、現代の我々の評価の材料にはなります。

 

 対明講和交渉は始まっており、ならば、そもそもこの時期に晋州城攻めを優先するというのは、かえってせっかくの明からの講和交渉に反する行為であり、講和を前提とするならば意味の無い行為だと考える者もいたでしょう。

 

 しかし、秀吉には秀吉の別の考えがあり、以下のように考えていたと思われます。

①交渉中であっても、ギリギリまで軍事的成果を出すことによって、対明・朝鮮の条件交渉を良いものとしようと考えた(実際、どの程度効果があったか不明ですが)。

②また、国内的に「この戦は勝利だった」と喧伝する材料として、秀吉にとっては、晋州城攻略は至上命題だと考えた(この秀吉の「至上命題」といった認識がどこまで客観的に正しいかは別問題です。)

 

 朝鮮在陣諸将の不満・疑問を受けて、官兵衛は秀吉を説得するため帰国しようとしますが、これがまずルール違反です。こうしたことは注進状を送って、秀吉の意思を事前に確認するのが家臣としてのルールな訳です。

 豊臣公議内であっても、直接家臣が書状を主君に送ることは許されず(これは、豊臣公議だけではなく、一般的な戦国大名ルールです。)おそらく、名護屋で秀吉に近侍する奉行長束正家等奉行衆に、注進状(秀吉への披露状)を送付して、まずは秀吉の意思を確認するのが、正しいルールです。

 

 このため、無断で帰国しようとする意図・行動自体がルール違反なのです。上記のような書状ルール及び無断帰国はルール違反であることを官兵衛が知らなかった訳がありませんが、なぜ、官兵衛がわざわざルール違反であることを承知で、帰国したかといえば、結局書状でやり取りしたところで、秀吉は拒否(やはり晋州城攻略を優先せよ)することを官兵衛は理解していたからということでしょう。

 

 書状でやっても無理なところを自分が直談判すれば、秀吉は説得されるであろうと、官兵衛は考えてしまいます。(調整・相談しに行くとはありますが、実際には、秀吉の晋州城攻略は絶対優先命令である以上、これは秀吉の意思を阻止するための「相談」にほかなりません。)

 

 織田政権の頃からの個人的関係の深さによる説得で、秀吉が動くと考えてしまうというのは官兵衛の読みの甘さであり、書状でやっても拒否されることが分かっているならば、それは直談判しても無理な話なのです。

 

 織田政権の家臣だった頃の仲ではないです。既に全国政権である豊臣公議には、傘下の大大名がひしめている訳で、特定家臣の独断行動を許してしまい、彼らの外聞が悪い判断・行動を許してしまえば、それだけで、豊臣公議の面目はつぶれてしまいます。

 また、こうした独断行動を咎めなければ、官兵衛の行動をまねて独断行動をしてしまうものが続出しかねません。そうなれば、たちまちのうちに豊臣公議は危機に瀕します。

 

 合理的・客観的に見れば、晋州城攻めなど無駄であると、秀吉自身も思っていたのかもしれませんが、外聞として、この戦役が「勝利」であるとの印象を諸大名に植え付けるには、最低限晋州城の攻略が必要だと考えたのでした。

 

 このため、官兵衛が書状を送ってきても返事は同じであり、ルールを破って直談判して秀吉が納得すれば良いという話ではありません。これは諸大名への「外聞」の問題であり、秀吉ひとりが納得すれば良い訳ではなく、豊臣公議の運営には「諸大名の世論」の支持が必要だからです。

 

 このため、ルール違反の官兵衛の無断帰国は許されず、官兵衛は面会も許されず朝鮮に戻されることになります。

 

 このように、秀吉の「代理人」にすぎない奉行衆・軍監・外交官らが、やむを得ず(かどうか微妙な場合もありますが)独断で決定・行動し、事後報告(官兵衛の場合は、事後報告は関係ありませんが)をして、その判断が秀吉(公議)の許容する範囲を超えるものであった場合、それは地雷を踏んだことになり、秀吉から処分・粛清される危険がつきまとうのです。

 

 また、今回のテーマである朝鮮在陣十三将の「戦線縮小」の独断決定は、上記の問題に加えて、入れ違いの「秀吉の公式命令(朱印状)」に、明確に違反していたため、更に問題の大きいケースとなりました。

 これについては、次回のエントリーで詳しく検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2006年、p338

(*2)跡部信 2016年、p242

(*3)跡部信 2016年、p328

(*4)中野等 2014年、p169

(*5)中野等 2014年、p170

(*6)中野等 2014年、p171

(*7)中野等 2014年、p173~174

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』戎光祥出版、2016年

中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

中野等「黒田官兵衛朝鮮出兵」(小和田哲男監修『豊臣秀吉の天下取りを支えた軍師 黒田官兵衛』宮帯出版、2014年所収)

考察・関ヶ原の合戦 其の十(2)慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の実相①~蔚山籠城救援戦で追撃戦はあった、長政・家政が処分された本当の理由

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 それでは、今回から、慶長の役の時の黒田長政蜂須賀家政の行動が、秀吉の咎めを受け、処分を受けるに至った事件の実相及び、この事件が関ヶ原の戦いに及ぼした影響について検討したいと思います。

 

1.慶長の役、はじまる

2.蔚山籠城戦→救援戦→追撃戦

3.「なぜ、明・朝鮮軍を追撃しなかったか」(×)→追撃戦は行われていた。(〇)

4.蜂須賀家政黒田長政が秀吉から処分を受けた理由は?

 

 

1.慶長の役、はじまる

 

 文禄の役の、日本と明・朝鮮の講和交渉が破綻したため、秀吉は再び朝鮮半島への再出兵を号令します。

 

 文禄の役は、「唐入り(明への侵攻)」を当初の目的としたものでした。

 しかし、今回の再出兵(慶長の役)の目的は、文禄の役の講和交渉時に秀吉側が主張し、明・朝鮮側から拒否された、朝鮮半島南部の日本の支配権を、実力を持って確保することを目的とするものです。

 このため、文禄の役慶長の役は、その戦争目的が大きく異なりますので、この点は、注意が必要です。

 

 慶長二(1597)年七月に、巨済島沖の漆川梁海戦で、日本側水軍(藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明)が、元均指揮下の朝鮮水軍を破り、朝鮮水軍を撃ち破ります。(*1) 

 八月には、宇喜多秀家を総大将とする島津義弘小西行長宗義智蜂須賀家政らの率いる軍勢が、全羅道原城を攻略、八月十六日に陥落させます。

 一方、毛利秀元を総大将とする加藤清正黒田長政鍋島直茂長宗我部元親らの軍勢は、黄石山城を落としたのち全羅道の道都である全州を占領し、そこから忠清道へと侵攻しますが、九月八日黒田長政の部隊は、稷山の地において、明将解生の率いる明軍と戦うことになります。

 当初この戦いは互角ないし明軍の優勢のうちに推移していましたが、救援に駆けつけた毛利秀元の部隊が明軍の側背をついたため、明軍の陣容は大きく崩れ、明軍は水原の方面へ撤退しました。(*2)

 

 しかし、秀吉軍は、九月半ばより一斉に向きを転じて南下します。これは、「明・朝鮮軍の抵抗を考えるならば、年内の漢城攻略は無理と(筆者注:秀吉軍が)判断し、朝鮮半島の厳寒をしのぎ、年明けの雪解けを待って大規模攻勢に出ることを予定しての暫定的な行動であったと見なすべきであろう。」(*3)と笠谷和比古氏は指摘しています。

 

2.蔚山籠城戦→救援戦→追撃戦

 

 また、釜山の北東約50キロにある蔚山に、秀吉軍は防衛拠点として城を築きます。縄張りは加藤清正が行い、慶長二(1597)年十一月初めより毛利秀元の部将宍戸元続・浅野幸長および清正たちの配下の部将たちの手によって築城工事は進められます。

 そして、蔚山城は、十二月二十二日に竣工し、本城の在番を担当する加藤清正に引き渡す予定となっていました。(*4)

 

 しかし、十二月二十二日未明、明・朝鮮連合の大軍約5万7千人によって蔚山城は急襲を受けることになります。

 まず、惣構外の仮陣所に宿泊していた毛利の部隊が襲撃を受けます。浅野幸長及び軍目付の太田一吉らは手勢を率いて、これを援けますが、惣構えの造りは不十分であり、援軍も含めて本丸に撤退することになります。

 蔚山城襲撃の報を、同日西生浦城で受けた加藤清正は、側近二十余人とともに蔚山城の救援に向かい、同日夜半に入城します。

 ここから、蔚山城の籠城戦が始まります。籠城軍の兵数は約2千と伝えられます。(*5)

 

 秀吉軍が明・朝鮮連合軍の大軍の急襲を受けたのは、「斥候以下の警戒行動を怠って大軍の南下をまったく察知していな」(*6)かったからだとみられます。

 

 明・朝鮮軍は、二十二日から二十四日の三日間激しく攻め立てますが、秀吉軍の守りも堅いため、無理攻めはあきらめ、兵糧攻めに転じます。

 

 元々蔚山城には、兵糧が二日分しかなく、城兵側はたちまちのうちに飢えに苦しみ、「尿を飲み、壁土を口にした」(*7)という状況に陥ります。

 

 翌年慶長三(1598)正月二日、蔚山籠城軍を救援するために、秀吉軍は西生浦城に集結し、同地を出陣して陸海両面から蔚山に向かいます。

 陣容は、「毛利秀元三九〇〇、鍋島直茂一六〇〇、黒田長政六〇〇、蜂須賀家政二二〇〇、その他に加藤嘉明長宗我部元親、生駒一正らの兵を合わせた一万三〇〇〇と、加藤清正の主力軍(筆者注:加藤清正自身は前述したように蔚山城に入城しています。)との総数二万余の軍勢であった。」(*8)

 

 救援軍の到来を知った、明・朝鮮連合軍は、蔚山城を陥落させるべく、猛攻を加えますが、蔚山城は陥落せず、四日救援軍による攻撃を背後に受けた明・朝鮮連合軍は陣容を崩し、城の囲みを解いて退却します。蔚山籠城軍は救援され、加藤清正以下の将士は九死に一生を得ることになります。(*9)

「『明史』は、この戦いでの明軍の損害について「士卒死亡殆二万」と書いている。」(*10)とあります。

 

3.「なぜ、明・朝鮮軍を追撃しなかったか」(×)→追撃戦は行われていた。(〇)

 

 さて、この蔚山城救援戦にて、上記の通り秀吉軍は明・朝鮮軍を撃ち破り多大な戦果をあげます。また、下記で述べるように追撃戦も行われました。

 しかし、笠谷和比古氏は、「それにもかかわらず、実際には追撃戦はほとんど行われなかった」(*11)と、著書で述べられていますが、これは、笠谷氏の誤解です。

 

 笠谷氏の著書で、蔚山城救援成功の報告を受けた秀吉が、その正月二十二日付で救援諸将に宛てた感状が紹介されています。以下引用します。

 

「一、蔚山表へ後巻として、各押し出し候ところ、敵敗軍に付(つき)て、各川を越へ、追い打ちに数多く討ち捨つる由①、聞し召し届候、一揆懸に仕に付て、兵糧これ無く、人数これ無き故、これなき故、悉くは討果さざる段②、残り多く思し召され候事、

  (中略)

 一、慶州表へ追駆け、相働くきといへども、右の仕合わせ聞し召され候、然(しから)ば鍋島加賀[直茂]、黒田甲斐[長政]居城、心元なく候間、差し戻り候通り、書中に相見え候、書中に相見え候、追崩し候上、跡々心元なき由候て、差し戻り候との儀共、その沙汰に及ばざる儀に候ところ③、申し越し候、重ねても左様の儀ども言上に及ばざる儀に候④」(*12)(下線、番号筆者)

 

 ①に書かれているように、救援戦後に撤退する明・朝鮮連合軍への追撃戦は行われています。

 だいたい、追撃戦を行うことなく、(*10)で書かれた「士卒死亡殆二万」などという大戦果を挙げることなど無理です。笠谷氏も述べる通り「浮き足だって敗走する敵兵を背後から襲いかかって討ち取る追撃戦ぐらい、多大の戦果を挙げる機会はないと言ってよい」(*13)からです。

 

 では、何を秀吉は「残り多く思し召され候」と言っているのでしょうか。それは、②に書かれているように兵糧も軍勢も整わなかった(「兵糧これ無く、人数これなき故」)ため、相手を壊滅させることができなかった(「悉くは討果さざる段」)ことが残念だと言っているのです。

 約五万七千人の大軍を壊滅させてしまえば、秀吉軍は、今後は圧倒的に戦いの局面を有利に展開させることができ、慶長の役の目的である朝鮮半島南部の実力支配という目的に大きく近づくことができたはずだと、秀吉は考えました。

 

 秀吉の戦争とは、兵站を整備することが絶対の勝利条件です。中国大返しも、賤ケ岳の戦いにおける美濃大返しも、九州攻めも、北条攻めも、まず兵站を整備することによって、決定的な勝利を得ることができたのです。これが、秀吉が「常勝将軍(常勝関白?)」となった所以です。兵站があらかじめ整備されていれば、兵糧・軍勢を整えて、追撃戦を継続することが可能になり、相手を壊滅に至らしめることができたであろうに、と秀吉は残念がっている訳です。

 

 百戦錬磨の将、軍事の天才である秀吉ならではの、みずからの経験に基づく、専門的視点からの秀吉の意見です。

 ただ、これは「感状」なのですから、(この時点では)諸将をけなしているのではありません。戦果に対して一定の評価をして、その功を賞しつつ、この次は兵站を整えれば、更なる戦果が期待できるであろうと、秀吉は諸将に助言を行っているのですね。

 

 ただし、蔚山籠城戦の最中に兵糧・水の不足から地獄のような労苦をした将兵への秀吉の気遣いや、救援戦・追撃戦で諸将が大戦果を挙げたことに対する秀吉の感激等は、この感状からは、ほとんど感じられず、ただ淡々と経緯と秀吉の分析が述べられているだけであり、この感状を受け取った諸将の感覚からは、大きくギャップがあったであろうとはいえるでしょう。

 

(追記)しかし、その後の在番諸将が蔚山城を含む城の引き払いを勝手に決めたことについては、三月十三日付秀吉の立花宗茂宛て朱印状を見ると、激怒していることが分かります。この時に、追撃戦において敵を取り逃して壊滅させられなかったことについて、改めて持ち出して怒っています。これは、城の引き払いを勝手に諸将が決めたことにより、怒りが増幅したことが原因だと思われます。(中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』p342~344参照)

 

 後段は、「鍋島直茂黒田長政は自分の居城が心もとないと言って引き上げてしまったようであるが、そのようなことはことさらに言うにおよばないことであり、今後は無用にするようにとの」(*14)意味です。

 ここでは、「その沙汰に及ばざる儀に候ところ③」、「重ねても左様の儀ども言上に及ばざる儀に候④」と書かれているように、鍋島直茂黒田長政が戦の後に、自らの居城(在番している朝鮮の居城)に引き上げたことについては、秀吉はまったく問題しておらず、今後このような報告は無用とさえ言っています。

 この事が、後に問題視された訳でもありませんし、後の黒田長政の処分の理由にもなっていません。

(追記)

 慶長三年正月二十五日付で秀吉は黒田長政に、蔚山城救援の功を賞する朱印状を送っていますので、この時点では秀吉は黒田長政の行動を問題していないことが分かります。「追い討ちに数多討ち捨て候由」とありますので、長政は追撃戦に参加して戦果を挙げたというのが、秀吉の認識です。(中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』p338)

 

4.蜂須賀家政黒田長政が秀吉から処分を受けた理由は?

 

 後のエントリーで詳しく見ていきますが、蜂須賀家政黒田長政が後に秀吉から咎めを受け処分される理由となったのは、

 

① 蔚山籠城救援戦において、蜂須賀家政黒田長政は、その日の先手当番にありながら、合戦に敢えて参加しなかったこと(追撃戦ではなく、その前の救援戦です。)。

 

② 蔚山籠城救援・追撃戦後に、朝鮮在陣諸将の間で、戦線縮小が議論され、諸将は、秀吉の命も待たずに勝手に前線の城の放棄を指示しましたが、この戦線縮小案に関する連署状に蜂須賀家政も名を連ねたこと。

 

です。(*15)

 

②については、この戦線縮小案に関する連署状に名を連ねたのは、蜂須賀家政だけではありません。この連署状に名を連ねたのは以下の十三将です。(順番は、連署状に書かれた署名の順番の通りです。)

 

宇喜多秀家備前中納言

毛利秀元(安芸宰相)

蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)

生駒親正(生駒讃岐守)

藤堂高虎(藤堂佐渡守)

脇坂安治(脇坂中務大夫)

・菅達長(菅三郎兵衛尉)

・松嶋彦右衛門尉

・菅右衛門八(菅達長の子?)

・山口宗永(山口玄蕃頭)

・中川秀成(中河修理大夫

・池田秀氏(池田伊与守)

長宗我部元親(長宗我部侍従)(*16)

 

 上記から分かることを述べます。

 

 第一に、ご覧の通り、十三将の中には関ヶ原の戦いで西軍についた武将も多く混じっています。だから、戦線縮小案を提案し、勝手に実行したことによって、この十三将が秀吉から叱責された事自体は、関ヶ原の戦いで、諸将が東西に分かれた理由ではありません。

 蜂須賀家政以外の十二将が秀吉の「叱責」を受けたといっても、「処分」を受けた訳ではありません。

 同じく名を連ねた藤堂高虎脇坂安治に至っては、慶長三(1598)年六月二十二日付で、高虎は一万石、安治は三千石の加増すら受けています。(*17)

 こうした点からいっても、この時の秀吉の「叱責」など、何の実態のないものに等しいのです。

 

 第二に、黒田長政は、この連署状に名前が入っていません。入っていませんが、軍目付または秀吉からは、この十三将に同調する者とみなされたようです。(*18)

 

 第三に、この連署状に名を連ねて、処分を受けたのは蜂須賀家政のみです。なぜ、他の十二将は処分を受けずに、蜂須賀家政のみが、秀吉の処分を受けることになったのか理由を考えることが重要です。

 

 上記の理由を考えると、この連署状の本来の中心人物である、宇喜多秀家毛利秀元は特に秀吉の「お気に入り」であり、秀吉としては、この両者の処分はしたくなかったのではないかと思われるのです。

 

 しかし、秀吉としては、自分の命令を待たずに勝手な行動を取った朝鮮諸将に対して、一人でも二人でもよいので、「みせしめ」の処分を下す必要がありました。

 命令違反は、本来は重罪であり、(秀吉としては)当然処分しなければならないが、その「みせしめ」として、本来の中心人物、宇喜多秀家毛利輝元の処分はしたくはない。 

 よって、この「みせしめ」処分の対象としてリストアップするための、後付けの追加条件として①の、

蔚山籠城救援戦において、蜂須賀家政黒田長政は、その日の先手当番にありながら、合戦に敢えて参加しなかったこと(追撃戦ではなく、その前の救援戦です。)」

が、持ち出されたのだと考えられます。

 

 処分が下される前に、軍目付等の書状には、この両者の①の行動が問題として取り上げられていません(といっても、私の知る限りですので、仮にそのような史料がありましたらご教示願います)ので、この行動は、本来はさほど咎めるほどの問題ではなかったのでしょう。

 

 おそらく何らかの事情で、二人は先手当番を務めることができず、朝鮮在陣諸将はそれを内々に認めていたのでしょう。蜂須賀家政の事情はよく分かりませんが(兵力は二二〇〇です)、黒田長政の兵力は六〇〇と少なく、それが先手当番を免除された理由かもしれません。

 

 こうしてみますと、①の処分条件追加により、「みせしめ」処分のリストアップ対象となった蜂須賀家政のお付き合いで、黒田長政は共に「みせしめ」処分の対象となった訳で、とんだ「とばっちり」といえるでしょう。

 

 ただし、黒田長政の当時の正室(糸姫)は、蜂須賀家政の異母妹であり二人は縁戚でした。長政が家政と共に処分を受けたのは、あるいはこの縁戚関係による連座が重視されたのかもしれません。

(追記1)

 秀吉が本心より、蜂須賀家政を戦線縮小案の中心人物とみなしていたという見解もあります。(山内譲『豊臣水軍興亡史』p219や、津野倫明「朝鮮出兵と西国大名」p234~239は、そのような見解と思われます。)

 筆者は、秀吉が「みせしめ」として蜂須賀家政黒田長政を処分したのではないかと考えますが、一方で秀吉が本心から蜂須賀家政(及び黒田長政)を戦線縮小案の中心人物とみなしていたという見解を否定する材料もないため、これは、どちらともいえません。

(追記2)

 ただし、おそらく十三将の連署状の署名の順番は、責任者順だと思われます(宇喜多秀家毛利秀元上記で書いたように、各方面軍の総大将です。(そうすると、一番後ろの長宗我部元親の立場って・・・・・))

 だから、NO.1、2の責任者である宇喜多秀家毛利秀元を飛ばして、3番目の蜂須賀家政の責任を問うのはおかしいといえますが、秀吉政権に限らず「偉い人には責任は負わせない」という原則も日本にはありますので、総大将である宇喜多秀家毛利秀元の責任が問えないならば、NO.3の蜂須賀家政の責任を問う、というのも日本的にはおかしな話ではないということになります。

 そう考えると、本当に黒田長政は家政の縁戚による連座の側面が大きそうですね。

 後述するように、この長政・家政処分事件に石田三成は関わっていないにも関わらず、七将襲撃事件で責任を問われたのは、秀吉に報告をした軍目付の一人福原長堯が三成の妹婿だったためで、縁戚関係による連座というのは、当時よく適用されていたことが分かります。

 

※この時、秀吉の処分を受けたのは、蜂須賀家政黒田長政だけではなく、軍目付でありながら戦線縮小案に賛同した早川長政・竹中重隆・毛利高政の三名も処分を受けることになりますが、この点についても後のエントリーで検討したいと思います。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)笠谷和比古 2000年、p121

(*2)笠谷和比古 p122~123

(*3)笠谷和比古 2000年、p123~124

(*4)笠谷和比古 2000年、p125~126

(*5)笠谷和比古 2000年、p126~128

(*6)笠谷和比古 2000年、p128

(*7)笠谷和比古 2000年、p129

(*8)笠谷和比古 2000年、p130~131

(*9)笠谷和比古 2000年、p131

(*10)笠谷和比古 2000年、p131

(*11)笠谷和比古 2000年、p132

(*12)笠谷和比古 2000年、p132~133

(*13)笠谷和比古 2000年、p132

(*14)笠谷和比古 2000年、p133

(*15)笠谷和比古 2000年、p138~142

(*16)中野等 2006年、p339~341

(*17)山内譲 2016年、p221

(*18)笠谷和比古 2000年、p138~142

 

 参考文献

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)(本文献についてですが、上記考察で記述したとおり、筆者と見解を異とする箇所が複数あります。本考察は、この文献の著者の主張の要約等ではありませんので、ご注意願います。)

・津田倫明「Ⅲ部 3章 朝鮮出兵と西国大名」(佐藤信藤田覚『史学会シンポジウム叢書 前近代の日本列島と朝鮮半島山川出版社、2007年所収)

・中野等『秀吉の軍令と大陸侵攻』吉川弘文館、2006年

・山内譲『豊臣水軍興亡史』吉川弘文館、2016年

考察・関ヶ原の合戦 其の九(1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑦ 上杉家の会津転封、慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家政処分事件の裏側

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※前回のエントリーです。↓

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 慶長三(1598)年一月十日上杉景勝は秀吉から越後から奥州会津への国替えを命じされます。蒲生氏行の宇都宮への転封を受けたものです。(*1)

 蒲生氏行の宇都宮への減転封事件については、下記に記しました。↓

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 一部では、蒲生氏行の宇都宮への減封は、石田三成ら奉行衆の画策によるものと言う人がいますが、これは上記に書いた通り、誤りです。

 また、石田三成は、減封となりリストラせざるを得なくなった蒲生家中の元家臣を、自らの家中に引き受け、蒲生氏行から感謝されています。これは、江戸時代に蒲生氏行が石田三成の娘(次女)婿である岡重政を重用したことからも分かります。

 

 転封前の上杉景勝の石高は九十一万石であり、転封後は百二十万石の大幅加増でした。(*2)

 

 奥州会津は、奥州・羽州両国の入口にあたり、枢要の地です。奥州仕置以降、「京儀」に反発する国衆・牢人の一揆が頻発しており、争乱の地でもありました。このため、武辺名高き蒲生氏郷が、いわば豊臣公議の奥州・羽州方面前線基地として、会津の大領を持ってこの地を守護してきたのです。

 

 しかし、氏郷は文禄四(1595)年病死し、跡を継いだ子の氏行は年少であり、一時はこれでは頼りにならぬと、氏行の領地を取り上げようと考えた秀吉も、氏行の岳父となった徳川家康の反対もあり、最初は相続を許します。

 しかし、その後、蒲生家中のお家騒動が発生することにより、やはり氏行に枢要の地を任せるのは難しいと秀吉は考え、秀行を宇都宮へ減転封させることにしました。

 

 会津の大領を任せ、この地を安寧の地とするために白羽の矢が立ったのが武門の誉れ高き上杉家、秀吉から絶大な信頼を受けている景勝でした。景勝にしてみれば、加増転封とはいえ、長年統治してきた越後を離れ、またいつ争乱が起こってもおかしくない難治の地である会津に、積極的に移動したくはなかったかもしれませんが、天下人太閤秀吉の頼みとあれば断ることもできません。

 

 いずれにしても、会津転封は大事業であり、早くも、その日(一月十日)のうちに石田三成の転封作業のために奥州へ発向する予定があったことが「言経卿記」に記されています。(*3)

 二月十六日、三成は、上杉家重臣直江兼続連署して、会津領に禁制などを発給しています。(*4)

 主人の異なる者が共同で命令を出すことは珍しいことで、二人(三成と兼続)の親密度合いを示す証左ともいえると、加藤清氏は指摘しています。(*5)

 

 三成が会津に入るのに先立って、他の石田家中も会津領に入っていたようです。このように、会津転封には、上杉家と石田家が、共同で作業にあたることになりました。(*6)

 

 会津に上杉家を迎えた後、三成は上杉の旧領越後に向かい、検地及び民への条書の発出を行っています。この条書は「上杉時代に行われた先例を遵守すべきことを改めて確認した内容となっており、新規のものではない。とはいえ、長くこの地に君臨した上杉家の転封をうけ、在地の動揺を防ぐ上で大きな意義を有したと考えられる。」(*7)とされます。

 

 三成は、上杉家の転封作業を終えると帰国の途につき、五月三日に佐和山に帰着し、五日は入京したようです。(*8)

 

 さて、ここまでは「表の動き」です。

 

 実は、石田三成が不在中の、慶長三(1598)年五月二日に秀吉により、慶長の役時の黒田長政・蜂須賀家久の行動を咎める処分が下されます。この、黒田長政蜂須賀家政の処分の元となった行動とは、黒田長政蜂須賀家政を含む朝鮮在陣の諸将が勝手に朝鮮の戦線を縮小してしまい、事後報告の形でその案を秀吉に報告したことです。このことが、秀吉の激怒を買ったのでした。

 この戦線縮小案が朝鮮在陣諸将によって話し合われ、秀吉に書状が出されたのが一月九日でした。現実にこの書状を秀吉が披見したのが一月二十一日です。また、同様の内容の秀吉への披露状が、一月二十六日付で石田三成ら奉行衆に宛てられましたが、(*9)これらの書状を石田三成が見たのかは微妙です、というより、おそらく見ていません。

 というのは、上記で見た通り、一月十日には近日中に石田三成は、会津へ出立する予定だったからです。これらの書状を実際に見る前に、石田三成会津へ出立した可能性が高いです。 

 これらの書状を見た秀吉は激怒しますが、処分を直ちには下さず、朝鮮在陣の軍目付の帰国報告を待つことになります。彼ら軍目付の秀吉への帰国報告が実際にあったのが、五月二日であり、上記で見た通り、まだ三成は帰京の途中にあり、秀吉の側におらず、報告も受けていません。軍目付の一人、石田三成の妹婿福原長堯の書状を見ると、事前の協議すら受けていません。(*10)

 

 もし、この時に三成が秀吉の側にいたならば、どうであったか?三成の性格上、朝鮮在陣諸将の弁護を買って出て、秀吉に「諫言」しかねません。その場合、いつもは三成の「諫言」を聞いていた秀吉も(下記の二十六聖人殉教事件を参照してください)、今度ばかりは激怒して、三成は粛清されていた可能性もあったのではないかと思われます。

 

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石田三成が以前より、朝鮮出兵に反対する立場にあったことについては、以下のエントリーをご覧ください。↓

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 タイミングが微妙すぎて、偶然、結果的に三成は、この処分の決定の場から外されただけなのか、「誰かの意思」(おそらく奉行衆の誰か)によって、三成をこの処分事件に関与できる立場から外されたのか、分かりません。

(1月10日の時点では、朝鮮在陣諸将の書状は届いていませんので、その時点から「三成外し」が考えられたことはありえません。もし、「三成外し」を奉行衆の誰かが「三成外し」を考えたのならば、それは書状が届いた1月21日以降になります。)

 

もし、誰かの積極的な意図であれば、それは増田長盛でしょう。他の奉行、前田玄以浅野長政長束正家には積極的にそのような事を考える動機が、あまりありません。

むしろ、五奉行の中で三成と最も近く(ここまで見た通り、上杉景勝の取次として、長盛・三成は長い間二人三脚で協力してきたのでした)、三成が粛清されれば、連座しかねない長盛に強い動機があるのです。

 

次回は、慶長の役時の黒田長政蜂須賀家政の処分事件の詳細について、検討します。

 

※次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2011年、p304

(*2)児玉彰三郎 1n979年、p148

(*3)中野等 2011年、p304

(*4)中野等 2011年、p304

(*5)加藤清 2016年、p146

(*6)中野等 2017年、p350~352

(*7)中野等 2017年、p352

(*8)中野等 2017年、p352

(*9)笠谷和比古 2000年、p135

(*10)中野等 2017年、p353~355

 

 

 参考文献

笠谷和比古「第四章 慶長の役(丁酉再乱)の起こり」(笠谷和比古・黒田慶一『秀吉の野望と誤算-文禄・慶長の役関ヶ原合戦-』文英堂、2000年所収)

・加藤清「第二陣 第八章 直江兼続 三成とともに家康にけんかを売った男」(オンライン三成会編『決定版 三成伝説 現代に残る石田三成の足跡』サンライズ出版、2016年)

・児玉彰三郎(児玉彰三郎氏遺著刊行会編)『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年(初出1979年)

・中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

・中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

考察・関ヶ原の合戦 其の八 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑥ 豊臣公議のルール(「惣無事」令等)、石田三成ら取次と上杉家の信頼関係、上杉家はいかにして「親豊臣大大名」となりしか

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※前回エントリーです。↓

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 これまで、上杉景勝と豊臣公議の関わり、取次(石田三成増田長盛ら)との昵懇の間柄、そして、いかに上杉家が外様大名ながら親豊臣大大名の地位を確立し、のちの五大老の地位を占めるに至ったかについて、述べてきました。今回は、これまでの説明をまとめます。

 

※                  ※                 ※

 

 豊臣公議の傘下の大名(全国統一が果たされた後は、日本の全ての大名)には、以下のルールが適用されることになります。

 

1.豊臣公議において、上洛とは「臣従」の証です。

2.豊臣公議においては、傘下の大名の「私戦」は認められません。

3.豊臣公議においては、傘下の大名同士の「国郡境目相論」(大名同士の国境線の確定)は、豊臣公議の裁定に委ねられます。

4.豊臣公議においては、傘下の大名は軍役・普請等の「貢献」が求められ、「貢献」を十分に果たした大名は、官位上昇・領地加増等の恩恵を受けることになります。

「貢献」が果たせない大名は、最悪、改易処分になります。

 

 以下、順に見ていきます。

 

1.豊臣公議において、上洛とは「臣従」の証です。

 

 天正十四(1586)年六月に景勝は上洛を行い、豊臣公議に臣従します。(秀吉に対する豊臣賜姓は、天正十四(1586年)九月なのですが、便宜上「豊臣公議」に統一させていただきます。)

 この上杉家臣従のために奔走したのが、豊臣公議の対上杉家取次であった石田三成増田長盛らです。

 特に石田三成は、景勝上洛の際に、加賀まで出迎え、京・大坂までの案内を行い、上坂後は自邸にて景勝一行を招き饗宴をはります。このように、景勝上洛の儀式の一切をとり仕切ったのは石田三成でした。この事により上杉家も、取次であった三成も大いに面目をほどこし、両者はその後も昵懇の間柄となったのです。

 

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2.豊臣公議においては、傘下の大名の「私戦」は認められません。

 

 上記が明確化するのは、天正十三(1585)年十月に九州地方、天正十五(1587)年十二月に関東・奥羽地方に発令されたいわゆる「惣無事」令になりますが、豊臣傘下の大名については、天正十三(1585)年十月頃から、豊臣公議としての「惣無事」の意思決定は、明確なものになっていったものと考えられます。

 

「惣無事」令は、あったかなかったか、長らく歴史学研究界では論争が続いていますが、個人的な意見といたしましては、豊臣公議としての統一的・継続的意思を示す政策としての「惣無事」令は、あったと考えています。

(「なかった」と唱える方も、「惣無事」令自体は存在している事は認めており、恒久的成文法としての「惣無事令」はなかったという意味のようですが。)

 

 このため、大名にとって必要があり、戦争を起こすためには、豊臣公議の許可が必要になります。上杉家においては、新発田重家の討伐、佐渡出兵がこれに当たります。

 

 豊臣公議の取次は、大名の許可要請に応じて、秀吉がこの戦を許可し、「公戦」と認めるように、周旋するのが仕事です。

(取次の仕事は、豊臣公議にとっても利益になる範囲内において、取次先大名の利益を最大に図ることです。

 もちろん、その大名の求める「利益」が豊臣公議の「公議益」(左記ワードは、私個人的につけたものです。現代風に言うなら「国益」が近いニュアンスですが。)に反するならば、その大名の要請は拒絶する必要があります。

 取次が、その周旋によって取次先の大名の利益を図ることに成功すれば、これは取次と取次先大名双方の「面目」を大いに上げることになります。)

 

 しかし、新発田重家のケースを見ると分かるように、大名にとっての敵にあたる大名・領主・国衆(この場合は新発田重家)にも、「豊臣公議」の別の取次がついている場合があるのです。

 これは、当然上杉家にとっては、二枚舌外交のように見えますが、当時の戦国大名にとっては、複数の手筋を使って、複数の勢力と交渉に当たるのは常識的な行動であり、秀吉のみが、そのような行動をしていた訳でありません。また、戦国大名の一般的な外交交渉は、基本は「和戦両様」であり、当初敵対していても、条件次第で和睦になることも多いのです。

 

 三成と長盛は、上杉家の取次として、取次先である大名の上杉家が有利になるように当然動きます。一方で、豊臣家における新発田重家の取次は、当然新発田重家の有利になるように動くのです。(ただし、今回の新発田重家の取次は、ある時期から秘密交渉であった可能性が高く、さらにややこしい話になっています。)

 

 そして、取次先の利益を図れた取次は、取次としての面目を上げ、取次先の利益を図れなかった取次は、取次としての面目を失うのです。

 

 このように、取次という制度は、(豊臣公議に限りませんが)豊臣公議内の別の取次と必然的に利益が衝突する可能性が出てくる構造になっている、危ういものでした。

 これは、取次の構造そのものが、そのようなものになっているので、個人の性格とは関係のない話となります。(「取次」という仕事は、「コミュ強」でないと成り立ちえません。)

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 新発田重家の乱・佐渡出兵については、三成・長盛の奔走もあり、最終的に上杉景勝の主張がすべて認められ、新発田重家・反抗した佐渡の在地領主は滅ぼされることになります。

 この事によって、景勝・三成・長盛は面目を上げることになります。

 

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3.豊臣公議においては、傘下の大名同士の「国郡境目相論」(大名同士の国境線の確定)は、豊臣公議の裁定に委ねられます。

 

 出羽庄内における上杉家と最上家の対立が、これに当たります。このような傘下の大名同士の「国郡境目相論」が豊臣公議で発生した場合、双方の取次は、取次先の大名の利益を図るために、いわば、裁判の大名側「弁護人」として、周旋に望むことになります。

 当然、この裁判に「勝訴」すれば、「弁護人」としての取次及び、弁護された大名は、面目を上げることになります。この「裁判」は上杉家の「勝訴」に終わり、このケースにおいても、上杉家・三成・長盛も面目を上げることになります。

 

 だいたい分かるかと思いますが、裁判で負けた側の大名・弁護人たる取次は面目を下げることになり、勝った側の大名及び取次を恨んでも不思議はありません。これもまた、取次の構造的なものであり、こうした事が当然に発生する事自体が「仕事」なのですから、一部から嫌われても当然な、過酷な「仕事」なのです。

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4.豊臣公議においては、傘下の大名は軍役・普請等の「貢献」が求められ、「貢献」を十分に果たした大名は、官位上昇・領地加増等の恩恵を受けることになります。

「貢献」が果たせない大名は、最悪、改易処分になります。

 

 これまで見てきたように、上杉家は、北条攻め・出羽仕置(一揆鎮圧)・朝鮮出兵伏見城普請と、豊臣公議の軍役・普請等の要請に答え、豊臣公議への「貢献」を十分に果たします。

 権中納言への官位上昇(その結果としての、後の「五大老」就任)、後のエントリーで触れます、会津への加増転封は、こうした上杉家の「貢献」が豊臣公議にとって、十分満足行くものであると秀吉に評価されたがゆえの、「恩恵」です。

 

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 これに対して、文禄の役で敵前逃亡した大友義統は「貢献」がまったく果たせていないと、改易処分となります。

 

 この後見ていく、島津家については、「唐入り」について、十分な「貢献」が果たせず、「日本一の大遅陣」の失態を起こしてしまいます。更には「朝鮮出兵反対」の梅北一揆を領内に引き起こしてしまい、改易の危機に陥ります。

 

 これにより、島津家の取次であった三成が、島津家改易の危機を救うために、必死に島津家の仕置に介入し、島津家を「指南」することになります。

 取次先の大名が潰れてしまう事態とは、取次にとって最大の恥辱であり、これ程の「不面目」はありません。三成が島津家の「指南」に必死(他の取次先大名に対して、三成自身も含み、これほど細かく「指南」した取次の例はありません。)なのは、必死になるだけの理由があったのです。

 

 少し外れますが、三成・長盛・大谷吉継ら軍目付は、文禄の役において朝鮮に在陣し、在陣する大名(景勝含む)たちの兵糧等兵站管理、大名たちの日本帰還への準備作業に従事しています。

 関ヶ原の戦いにおける「西軍」とは、文字通り西軍諸将が主力なのであり、戦地に近い大名ほど重い軍役が課された当時の戦役の慣例において、西軍諸将が「唐入り」の主戦力なのです。

 

 最近言う人はさすがに少なくなりましたが、時々、「唐入り」で石田三成ら軍目付が、朝鮮在陣「諸将」と衝突し、これが関ヶ原の戦いの一因となった、と述べる方がいますが、仮にそうであれば、関ヶ原の戦いにおいて、朝鮮在陣の主力である西軍諸将が軍目付=三成・長盛・吉継ら奉行衆側に付く事などはありえないことです。

 

 むしろ、西軍諸将は、軍目付(三成・長盛・吉継ら)の在陣大名の兵糧等兵站管理、日本帰還への準備作業に対する感謝の念が高く、この事が関ヶ原の戦いに多くの西軍諸将が「西軍」に付いた要因になったと考えられます。

 

 文禄の役における一次史料から確認できる、軍目付(三成・長盛・吉継ら)と衝突した武将は、加藤清正のみです。加藤清正が軍目付と衝突した理由は、よく知られているように、小西行長・奉行衆らが進めた、対明講和交渉への不満です。(また、加藤清正は、謹慎処分は受けていません。従来の通説は誤りです。)

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 慶長の役における処分において、奉行衆に対する不満を抱いたのは、蜂須賀家政及び黒田長政ですが、実はこの件については、石田三成は、それより以前に景勝の会津転封作業のため会津へ行っており、その帰国途中であり、また事前の協議も受けておらず(慶長の役時の軍目付福原長堯の石田三成宛書状で分かります)(*1)、一切関わっていません。

 

 関与しているのは、当然、主君豊臣秀吉自身の意思決定が最大で、石田三成を除く他の奉行衆、浅野長吉・前田玄以増田長盛長束正家が意思決定の場に同席していました。

 

 この件については、他のエントリーで詳細に検討したいと考えます。

 

※                  ※                 ※

 

*まとめ

 

 上記で見たように、上杉景勝は、臣従以後、豊臣公議へ最大限の貢献を行っており、外様大名であるに関わらず、秀吉自身も含む豊臣公議から絶大な信頼を受ける親豊臣大大名でした。

 また、後の五奉行となる石田三成増田長盛は、古くより上杉家の取次を務めており、彼ら個人にとっても、外様大名の中でも、まず信頼するのは景勝であり、強固な信頼関係にありました。

 そして、最大限の信頼をする取次先の大名が、豊臣公議に対する謀反の疑いを理不尽にもかけられ、その大名を潰されるような事態は、彼ら取次にとって最大の恥辱であり、最大の不面目であり、武士の面目にもかけても、これは阻止しなければいけない事なのです。 

 この事を、考慮に入れて関ヶ原の戦いを再検証していく必要があります。

 

 次回は、上杉家の会津転封について、検討します。

 

※ 次回のエントリーです。↓

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 注

(*1)中野等 2017年、p353~355

 

 

 参考文献

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

 

※他の注、参考文献については、過去のエントリーを参照願います。また、「取次」の一般的な権能・役割については、丸島和洋氏の『戦国大名の「外交」』講談社、2013年等を参考にしました。

考察・関ヶ原の合戦 其の七 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交⑤ 奥羽仕置・朝鮮出兵・秀吉の御成、そして五大老へ

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 関東出兵以後の上杉景勝の動きについて、以下に記載します。

 

天正十八(1590)年七月十四日頃、忍城陥落。(*1)

 

 その後、秀吉の奥州仕置を共に行うため、景勝は出羽に向かいます。

 8月1日に、景勝は木村常陸介、大谷吉継を助けて出羽の検地を命じられます。(*2)

 8月17日には出羽仙北郡大森に着陣します。(*3)

 検地に反対する一揆が仙北や出羽由利、庄内で起こりますが、景勝は吉継らを助けて、これを鎮圧します。11月上旬までに出羽の一揆を鎮圧した景勝は、同月下旬に春日山に帰還します。その後、上京。(*4)

 

天正十八(1591)年6月、秀吉は奥両国の再仕置に着手し、豊臣秀次徳川家康、そして景勝らに出陣を命じます。景勝は一旦帰国して、その上で7月、奥両国へ軍勢を進めます。7月晦日に出羽米沢周辺に着陣した後、陸奥葛西へ進み、8月に柏山城の普請に当たります。(その間、陸奥二本松で秀次らと会談した可能性、仙北大森城に入った動きなどが指摘されています。)10月上旬に国許へ帰還します。(*5)

 

天正二十(1592)(文禄元)年 3月1日、景勝は軍勢を率いて国許を発し、上洛。上洛後、肥前名護屋に向かいます。唐入りのためです。しばらく名護屋に在陣の後、翌文禄二(1593)年、秀吉の「御代」として、朝鮮へ渡海、熊川倭城の普請に当たることになりました。実際に渡海したのは、7月頃のようです。(*6)

 熊川倭城の普請には、既に渡海していた、軍目付である石田三成大谷吉継らも、共に携わっていました。(彼ら軍目付は朝鮮在陣緒将の在番体制の構築に全面的に関わっています。(*7)

 景勝は、熊川倭城の普請を終えると、9月8日に名護屋へ帰還します。その後上京し、10月中に国許へ帰還します。(*8)

 上記のような、朝鮮在番諸将の兵糧他所物資の確保、将兵の帰還の指揮も、石田三成ら軍目付の仕事です。(*9)諸将への手当てを終えた石田三成も帰還する最後の組に編成され、9月23日に名護屋に着岸しました。(*10)

 

〇文禄三(1594)年10月28日、秀吉が諸大名や公家衆を引き連れ、京都の上杉邸に「御成」し、景勝を権中納言へ昇進させます。(*11)

 天下人・太閤秀吉の「御成」は、景勝にとって大変名誉なことであり、また、景勝の権中納言へ昇進を伴っており、景勝にとっても非常に重要な儀式でした。

「三成と増田長盛(筆者注:これまで述べた通り、二人は上杉家に対する豊臣家の取次(外交官)です。)は、上杉邸への御成に際して、準備が整ったとして景勝から事前の点検を依頼されている。(大日本古文書『上杉家文書』八六一号)。」(*12)

 秀吉の上杉邸「御成」を準備したのは、豊臣方では、石田三成増田長盛、上杉方では、直江兼続であり、この準備には三者の綿密な打ち合わせがあったことがうかがえます。

 

〇文禄四(1595)年(と中野等氏は比定しています)正月四日、浅野長吉が、上杉領における金の採掘を促す書状を、石田三成に充てて発しています。

 分かりにくいのですが、浅野長吉は秀吉の意を受けて、書状を発し、直接、中納言に昇進した景勝を宛所にするのは、非礼にあたるので、上杉家の取次である三成を発したということのようです。(*13)

 おそらくこの後、石田三成から、上杉家における豊臣家の取次にあたる直江兼続充てに同様の依頼を行う形になったのではないでしょうか。

 

〇文禄四(1595)年7月、関白豊臣秀次切腹事件が発生します。この知らせを受けて、8月4日に景勝は、上洛します。そして、この年の8月に、いわゆる御掟・御掟追加が発令されます。この法令は、徳川家康宇喜多秀家前田利家毛利輝元小早川隆景上杉景勝の名のもとに出されました。(*14)

 上記の6名のうち、慶長二(1597)年に死去した小早川隆景を除く5名は、いわゆる後の「五大老」であり、「五大老」の原型は、この頃から作られたとされます。

 

〇文禄四(1595)年9月、景勝の伏見城普請が開始されました。(*15)(ただし、伏見城普請そのものは、文禄三(1594)年正月から始まっていますし (*16)、中野等氏の記述を見ますと、景勝の普請は文禄三年から始まっているように見受けられます。(*17))

 

〇文禄五・慶長元(1596)年、9月1日に大坂城内で明の使節が、秀吉と対面します。この時、宣教師ルイス・フロイスの記述によると、徳川家康前田利家毛利輝元・小早川秀俊(秀秋)・中納言宇喜多秀家カ)・上杉景勝らが列席していたとのことです。(*18)

 

〇慶長二(1597)年7月27日に来日中の呂宋(ルソン)国の使者を饗応するため伏見城内で能が行われ、景勝は徳川家康前田利長とともに列席しています。また、8月9日、秀吉の命により、家康とともに伏見城へ出仕します。秀吉の朝鮮渡海計画のことで召されたようです。(*19)

 このように、豊臣公議の重大な案件について、家康とともに秀吉の相談を受ける程、景勝は豊臣公議において、重要な位置をしめていたことが分かります。

 

 次回は、これまでのまとめについて書きます。

※次回エントリーです。↓

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 注

(*1)尾下成敏 2011年、p262

(*2)児玉彰三郎 1979年、p118

(*3)児玉彰三郎 1979年、p118

(*4)尾下成敏 2011年、p262~3

(*5)尾下成敏 2011年、p263

(*6)尾下成敏 2011年、p263~4

(*7)中野等 2017年、p211

(*8)尾下成敏 2011年、p264

(*9)中野等 2017年、p208~213

(*10)中野等 2017年、p213、中野等 2011年 p301

(*11)尾下成敏 2011年、p264

(*12)中野等 2017年、p234

(*13)中野等 2017年、p237~238

(*14)尾下成敏 2011年、p265

(*15)尾下成敏 2011年、p265

(*16)児玉彰三郎 1979年、p138

(*17)中野等 2017年、p233

(*18)尾下成敏 2011年、p265

(*19)尾下成敏 2011年、p265

 

参考文献

尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

児玉彰三郎(児玉彰三郎氏遺著刊行会編)『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年(初出1979年)

中野等「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

考察・関ヶ原の合戦 其の六 (1)「外交官」石田三成 ~上杉家との外交④ 上杉景勝の佐渡出兵と関東出兵

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※前回のエントリーです。↓

考察・関ヶ原の合戦 其の五 (1)「外交官」石田三成~上杉家との外交③ 出羽庄内における上杉(及び大宝寺)家と最上家の対立事件について 

 

 出羽庄内における上杉・最上の対立事件以降(多少前後する場合もありますが)の上杉景勝と秀吉政権の動き、特に景勝の佐渡出兵及び関東出兵について、以下に記載します。

 

天正十七(1589)年六月、上杉景勝は、佐渡へ出兵し、同国の本間三河守らと一戦を交え、彼らを滅ぼし佐渡支配下に置きます。(*1)

 

 この景勝の佐渡出兵には以下の背景がありました。

 

 既に、天正十四(1586)年六月二十三日、上洛して帰国を目前とした景勝に対して、秀吉は直書を与え、佐渡の厳重な仕置きを命じ、これに背く者に対しては、きっと成敗を加えるべきことを令しています。この時点で、秀吉政権は上杉家の佐渡支配権を認めています。しかし、現実的にはこの時点では、佐渡は在地領主達の支配下にあり、景勝の直接支配の及ぶところではありませんでした。(*2)

 

 また、いまだ越後内において新発田重家の乱を抱えている景勝にとって、佐渡出兵をする余力はありませんでした。

 

 転機が訪れるのは、天正十五(1587)年十月に、上杉景勝が、新発田重家を滅ぼした後になります。

 

 前回のエントリーで、述べたように、天正十六(1588)年五月七日、上杉景勝は入京、十二日に秀吉と対面を果たし、五月二十三日付で正四位下、参議に昇任することになります。(*3)

 

 この際の上洛で、再び佐渡の仕置きについての問題が、秀吉との間で取り上げられ、「帰国の途中、急いで八月二十三日、佐渡へ後藤左京入道(筆者注:後藤勝元、上杉家の重臣を指します)を渡海せしめ、来春か夏、景勝自身渡海して静謐せしむべきこと、特に潟上・河原田の一党が忠勤をぬきんずべきこと(筆者注:潟上・河原田は佐渡の在地領主です)、そして、渡海の準備をなしおくべきことなどを命じたのであった。」(*4)

 

 元々、佐渡の争いは、佐渡在地領主の北佐渡衆と南佐渡衆の闘争でした。

 北佐渡衆は、景勝が出兵準備に及んだことを聞き、勝ち目はないと降伏しました。これに対して、南佐渡衆は、あくまで抵抗したため、いよいよ準備を整え、天正十七(1589)年六月に佐渡へ出兵した景勝の軍勢に打ち破られ、あえなく滅亡しました。(*5)

 

 上記のように、景勝の佐渡出兵・佐渡を上杉家の支配下に置いた事は、秀吉政権との綿密な打ち合わせ、命令により行われたものといえます。

 

〇9月下旬までに佐渡を離れた景勝は、越後に戻るや、「すぐに軍勢を率いて三条(筆者注:越後国三条)へ向かっている。これは陸奥会津伊達政宗の動向に備えるためで、10月下旬頃まで在陣していたと伝えられている。」(*6)

 

天正十七(1589)年冬、秀吉政権により、関東の北条氏政父子攻撃命令が下され、景勝は前田利家・利長父子らとともに、関東へ侵攻することになります。

 翌天正十八(1590)年、碓氷峠を越えて上野に侵入、北条氏の重臣大道寺政繁の籠る松井田城を攻め、4月20日、大道寺政繁を降伏させました。

 ついで、武蔵に侵入、氏政の弟北条氏邦の守る鉢形城に迫りました。6月中には同城の占拠に成功しました。(「北条五代記」では、14日とされています。)

 その後、氏政の弟北条氏照の本拠武蔵八王子城を攻撃し、6月23日に、同城を陥落させます。

 八王子落城の後、小田原城攻撃に参戦しますが、7月5日、氏直が降伏し、小田原城が開城したため、武蔵忍城攻めに向かう事になりました。忍城陥落は、7月14日頃です。(*7)(『行田市史』などでは7月16日とされていますが、ここでは、尾下成敏氏の見解(『浅野家文書』に基づくようです)を記載します。)

 

 なお、石田三成忍城水攻めの実相については、以下のエントリーをご覧ください。 ↓ 

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 注

(*1)尾下成敏 2011年、p261

(*2)児玉彰三郎 1979年、p99

(*3)中野等 2017年、p58

(*4)児玉彰三郎 1979年、p100

(*5)児玉彰三郎 1979年、p98~101

(*6)尾下成敏 2011年、p261

(*7)尾下成敏 2011年、p262

 

 参考文献

尾下成敏「上杉景勝の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』思文閣、2011年)

児玉彰三郎(児玉彰三郎氏遺著刊行会編)『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年(初出1979年) 

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年