古上織蛍の日々の泡沫(うたかた)

歴史考察(戦国時代・三国志・関ヶ原合戦・石田三成等)、書評や、        日々思いついたことをつれづれに書きます。

石田三成関係略年表⑪ 天正二十・文禄元(1592)年 三成33歳-文禄の役①、梅北一揆

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

正月五日 ★豊臣秀吉、「「唐入り」実施にあたり、渡海の軍事編制を明示する。」(柴裕之、p186)同日付で「街道(海道)筋や軍勢が陣を構えるような場所の地下人や百姓が家を空け、逃散することを禁じた」(中野等②、p24)「掟」を発する。

正月十八日 ★秀吉、小西行長宗義智充てに書状を発し、朝鮮国の日本協力を取り付けるよう指示。秀吉の認識では、「朝鮮国は天正十八年の使節派遣で服属している」というものであり、日本の明侵攻に朝鮮も協力する前提であったが、いちおうその確認を行うため、行長・義智に対し朝鮮へ渡海し朝鮮の意思を確認し、朝鮮が軍勢の通行に異議を唱えるのであれば、四月一日をもって朝鮮半島に上陸・討伐に踏み切れと命じている。その交渉が済むまでは日本の軍勢が朝鮮の領土内に入ることを厳に戒めた。(中野等②、p26)

正月十九日 ★秀吉、島津義久・義弘に、「「薩摩国出水の薩摩守忠辰は、一国全体の支配を義弘に命じているのだから、陣普請も義弘と一緒につとめるように」と命じ」(新名一仁、p171)ている。同日、同じ命令を忠辰にも命じている。(新名一仁、p171)

正月十九日 ★「秀吉は、琉球を大明国に出陣するついでに改易するつもりであったが義久の取次により挨拶にきたので安堵し、島津家の「与力」として「唐入り」への出陣を命じている。」(新名一仁、p171)

正月十九日 ■「細川幽斎石田三成は、「虫気」で国元に残っていた義久に書状を送り、琉球からの「綾船」派遣が遅延していることを糺し、義久自身も秀吉が到着する前に名護屋に参陣し、出迎えるよう厳命している。」(新名一仁、p173)

正月二十一日 ■石田三成は、「細川幽斎とともに、島津義久・義弘充てに連署状を発して、出水島津家の処遇を述べ、琉球との交渉を島津家に委ねること、肥前名護屋への出陣のなどを指示している。」(中野等、p154~156)

正月二十六日 ■島津「義久は石田三成家臣安宅秀安・細川幽斎家臣麻植長通(おえながみち)に対し書状を送り、「唐入」は騎馬武者以下を形だけ申しつけたが、「田舎之国ぶり」のためまったく準備が出来ていないと釈明し、軍役数が揃わないまま義弘が名護屋に出陣することを伝えている。さらに、延び延びになっている島津久保・亀寿夫妻の上洛についても「仕立」が見苦しいという理由で、久保だけを上洛させると回答している」(新名一仁、p174)

正月二十八日 ■三成、京都の前田玄以の催す能興行に増田長盛とともに招かれる。(中野等、p156)

正月二十九日 ★「秀吉の養子・羽柴秀俊(小早川秀秋)と秀長の養嗣子・羽柴秀保がともに従三位中納言となる。」(柴裕之、p186)

二月二十日 ■三成、「唐入り」に従うため大谷吉継とともに京都を出発。(中野等、p156)

二月二十七日 ★島津義弘、「唐入り」のため、本拠栗野を出陣するが、供奉する武者は二三騎に過ぎず、途中大口で兵が揃うのを待つ。(新名一仁、p174)

三月四日 ■三成・大谷吉継増田長盛連署状。小荷駄馬の通行に関するもの。(中野等、p156)

三月十二日 ★小西行長対馬に入る。(中野等②、p34)

→この後、小西行長は景轍玄蘇を朝鮮に遣わし、「仮途入明」(日本が明に攻めるための道を貸せ、という意味)の交渉を進める。(中野等②、p34)

三月十三日 ★秀吉、「九州・四国・中国諸勢に渡海・命じる。」(柴裕之、p186)「秀吉は、この軍令で一番から九番に分けた「陣立て」を示し、さらに当面の戦略について述べている。」(中野等②、p30)

島津義弘は一万人の軍役を課せられている。前年の石田正澄の伝えた一万五千人から五千人減っているが、この時期、義弘の元には千人も揃っていなかったとみられる。(新名一仁、p174)

三月十三日 ■三成、大谷吉継・岡本宗憲・牧村利貞とともに、名護屋駐在の「船奉行」に任じられる。(中野等、p156)

三月十四日 ■この日までに三成は長門国の関戸に到着。名護屋に向かう。(中野等、p157)

三月二十二日 ★小西行長対馬に入る。行長に同行するのは肥前(松浦・有馬・大村・五嶋ら)の諸将。小西は朝鮮との最終交渉のため、ひと月対馬に留まる。(中野等、p34)

三月二十六日 ★秀吉、京都を発し「「唐入り」実行の拠点である肥前名護屋へ向かう。」(柴裕之、p186)

三月二十九日 ■三成、相良頼房充て書状。鯛を送ってもらった礼と、相良氏のすみやかな渡海を促したもの。この頃には三成は名護屋にいたことが分かる。(中野等、p157)

四月三日 ■島津家臣・新納忠元充て島津義弘書状。

 琉球との交渉を担っていたのは島津家であったが、秀吉により琉球に対しても「唐入り」への軍事動員が命じられていた。その後、軍事動員の代わりに兵糧米の拠出をすることとされたが、島津家は琉球との交渉も島津家自身の出陣の準備もままならない状態であった。

 諸々の梃入れをはかるため、三成は家臣の安宅秀安の薩摩派遣を決める。これを受けて義弘は新納忠元に安宅秀安と熟議の上、諸事を進めるように命じた。義弘は島津家の不調が続けば家の滅亡にもなりかねないという危機感を持っていたことがこの書状から分かる。(中野等、p159~160)

参考↓

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四月三日 ■三成・家臣安宅秀安、肥後水俣に至る。(中野等、p160)

四月六日 ★島津義弘・久保親子、国元に書状を送る。国元から朝鮮に渡る船が一艘も来ないことに困惑している、借船で義弘・久保親子だけ渡海することになり、兵は残しておくので、国元からの船が到着次第渡海させるよう申し付けた、とある。(新名一仁、p175)

四月七日 ■安宅秀安、鹿児島に入る。(中野等、p160)

■安宅秀安は、島津領国内の各寺社領の三分の二を上地=収公し、更に「地頭職分」も一町につき二反ずつの上地を命ずる強行策を行った。これにより、一説には米二万七千石を確保したという。(新名一仁、p176)

四月七日 ★朝鮮に派遣されていた景轍玄蘇、対馬に戻り小西行長に朝鮮側の対応を伝える。これを受け、小西行長ら武力侵攻を期して最終的な準備に入る。(中野等②、p35)

→玄蘇の交渉は不調に終わり、これを受けて行長は侵攻の準備に入ります。

四月八日 ■島津義久琉球国建善寺に兵糧米の拠出を促す書状を送る。(中野等、p160~161)

四月九日 ■島津義久、久保夫人の上洛の遅延、借銀の弁済の遅延、自身の名護屋参陣の遅参について弁明の書状を石田三成に送り、秀吉への取り成しを依頼している。(新名一仁、p177)

四月十二日 ★日本軍(小西らの軍勢)が朝鮮半島への上陸を開始。(中野等、p162)(中野等②、p35)

四月十三日 ★小西行長ら、釜山城を包囲し、戦闘が始まる。釜山城はその日のうちに陥落した。(中野等②、p39~40)

四月 ★「朝鮮半島に上陸した日本軍が「唐入り」の協力を拒絶した朝鮮への攻撃を開始する。(文禄の役壬辰倭乱の開始)。」(柴裕之、p186)

四月十七日 加藤清正鍋島直茂ら釜山に上陸。(中野等②、p40)

四月十七日 毛利吉成率いる第四軍、釜山近郊金海(キメ)に上陸。本来、島津軍は第四軍として共に渡海すべきだったが、渡船がないため、共に渡海できなかった。(新名一仁、p178)

四月十九日 ★秀吉、小倉に入る。(中野等、p34)

四月十九日 ★小西行長ら日本軍の進発が秀吉に注進させられる。(小西の交渉が不調に終わった報告も秀吉にも伝えられたと考えられ)、これを受けて今まで朝鮮の協力を得て明に侵攻する当初の目的は撤回され、日本軍は朝鮮半島での戦闘を前提とする新たな軍令が発せられる。(中野等②、p35)

四月十九日 ★駒井重勝木下吉隆長束正家充て加藤清正鍋島直茂書状。路地に豊富に兵粮が蓄えられているため、兵粮の心配はないことを告げ、小西行長と別経路で都(漢城)を目指すとしている。この時期の清正は小西行長と協同する姿勢を示しており、清正と行長の対立は認められない。(中野等

四月二十五日 ★秀吉、名護屋へ入城。(中野等、p161)■この日の秀吉朱印状から、三成・大谷吉継名護屋在陣が確認できる。(中野等、p161~162)

四月二十七日 ★小西行長、忠州で申硈の率いる朝鮮軍を破る。(中野等②、p40)

四月二十七日 ★島津義弘対馬を発つ。(新名一仁、p178)

四月二十八日 ★清正らの軍勢忠州に至る。(中野等②、p40)

五月三日 ★「日本軍が朝鮮国の首都・漢城を陥落させる。」(柴裕之、p186)

五月三日 ★島津義弘、釜山上陸。(新名一仁、p178)

五月四日 ★島津「義久は、留守居をつとめる老中本田親貞・新納旅庵・同忠元・川上忠智ら八名に対して指示を与える(『島津』三-一四四九」。義久は名護屋参陣命令に応じることを伝えるとともに、数年に及ぶ義久・義弘の在京により「国家」=島津領国が「困苦」したとし、皆で熟談して、高麗への支援、名護屋在陣・京都への調進、船手手配など昼夜油断なきよう命じている。そして、「当家一難儀相及事眼前候」(島津家の危機は目の前に迫っている)と今までに無く危機感を煽り、精を入れないものがあれば「京儀」に任せ成敗せよとまで命じている。」(新名一仁、p180)一方、四月に安宅秀安の行った仕置の変更(上地の返還)も行っており、家中の不満を和らげようという意向も見られる。(新名一仁、p181)

五月五日 ★島津義弘、国元の重臣川上忠智に対し上陸までの苦境を伝える。この書状で国元から船が一艘も来ないので、やむなく借船一艘で、本隊から遅れて上陸することになってしまい「日本一之遅陣」となり、自国・他国の「面目」を失い無念千万であるとし、国元からの支援を精一杯果たして欲しいとしている。(新名一仁、p178~179)さらに「義久様は、ご存じないだろうが、「逆心之者共」(裏切り者)が島津家を崩すことになる。逆心を企てている者は後日明らかになるだろう。」(新名一仁、p179)とも述べている。

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五月上旬 ■薩摩に留まっていた安宅秀安は、五月上旬には名護屋に帰還したようである。(中野等、p161)

五月七日 ★玉浦沖で李舜臣らが率いる朝鮮水軍が、藤堂高虎の水軍を破る。(中野等②、p78)

五月八日 ★島津義弘、玄風(ヒヨンプン)の毛利秀康陣ちかくに布陣。(新名一仁、p181)

五月八日 ★島津義久、鹿児島を出発。(新名一仁、p182)

五月十六日 ★漢城陥落の知らせが名護屋の秀吉に元に届く。(中野等②、p52)

五月十八日 ★秀吉、「三国国割構想」を発表する。(柴裕之、p186)秀吉、「覚」を発し、関白秀次に対して出陣を要請する。(中野等②、p53)

五月 ★漢城に集結した諸将は、秀吉の命令である早急なる明国侵攻ではなく、朝鮮半島の安定支配のため、朝鮮八道に諸将を派遣して経略を進める方針を決定する。

※諸将の分担は以下のとおり。

慶尚道(白国) 毛利輝元

全羅道(赤国) 小早川隆景

忠清道(青国) 蜂須賀家政

京畿道(青国) 戸田勝隆 長宗我部元親

漢城      宇喜多秀家

江原道(黄国) 毛利吉成

平安道(黄国) 小西行長 宗義智

南海道(緑国) 黒田長政

或鏡道(黒国) 加藤清正(中野等②、p56)

五月十八日 ★小西行長宗義智らは臨津江付近にいた朝鮮軍と和平を模索していたが、朝鮮側は反攻を仕掛けてきたため、和議の企ては破れる。以後は、上記五月の経略が開始される。(中野等②、p57)

五月二十七日 ★「漢城より北に赴く小西行長加藤清正黒田長政らは五月二十七日に都元帥金命元らが率いる臨津江朝鮮軍を駆逐」(中野等②、p63)する。

五月二十八日 ★小西行長加藤清正黒田長政ら開城を占拠。(中野等②、p63)

五月二十九日 ★泗川沖李舜臣らが率いる朝鮮水軍が、日本水軍を破る。(中野等②、p78)

六月一日 ★加藤清正・相良頼房・鍋島直茂ら或鏡道へ向けて開城を発する。(中野等②、p63)

六月一日 ★「諸将のうち最も秀吉の軍令に忠実で、早急に明国に攻め入るべきとする(筆者注:加藤)清正は漢城で行われた諸将の談合を「迷惑」と論談し、軍勢を明国に向かわせるためには秀吉みずからの出陣によるしかないと、そのすみやかな渡海を要請している。」(中野等②、p56)(跡部信、p131、174)

六月一日 ★宛所不明の加藤清正書状。清正がこれから向かう或鏡道は僻遠であり、秀吉本隊が明との国境に集結するようになっても間に合わないかもしれないと危惧している。(中野等、p115~116)

加藤清正の或鏡道攻略は諸将の談合で決まったものであり、清正の意思によるものではなく、清正はこの分遣に不満と懸念を抱いていたことがわかります。

六月二日 ★秀吉の渡海が延期される。(柴裕之、p186)結果、秀吉の渡海は翌年三月までに延期。(柴裕之、p120)この時、石田三成は秀吉の渡海を主張したが、徳川家康前田利家らが渡海再考を主張したため、渡海は延期となった。(中野等、p164)

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■渡海延期を決定した秀吉は、奉行衆(長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成大谷吉継増田長盛)を朝鮮半島に遣わすこととした。(中野等、p164)

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六月三日 ■秀吉の代わりに朝鮮に派遣されることになった奉行衆は、秀吉の「軍令」を携行することになった。この「軍令」を朝鮮在陣諸将に周知し、履行させることが奉行衆の任務となる。秀吉の「軍令」の主眼は、朝鮮在陣諸将に朝鮮半島の奥地さらに明国へ侵攻すること、朝鮮八道には代官を派遣して支配させるので諸将は明国侵攻へ専念すること、である。 これにより、朝鮮在陣諸将が現地決定した朝鮮八道を分割支配する方針は、秀吉の軍令により覆されることになる。(中野等②、p79~80)

六月五日 ■この日まで、三成の名護屋在陣が確認できる。(中野等、p162)

六月五日 ■島津義久名護屋に着陣。「石田三成細川幽斎、そして秀吉に拝謁している。」(新名一仁、p182)

六月六日 ■石田三成ら奉行衆は、名護屋から出船、壱岐に着陣する。(中野等、p165)

六月十五日 ★「軍役を忌避した島津家中の梅北国兼が、肥後の加藤清正領内で叛乱を起こした。(梅北一揆)。六月十五日、梅北国兼らは清正の留守居を追って肥後佐敷城を奪取する。」(中野等、p165)

六月十五日 ★小西行長平壌入城。(中野等②、p72)

六月末 ★黒田長政、海州を占拠。(中野等②、p72)

六月十六日 ★一揆勢、小西行長の肥後麦島城を目指し北上。(中野等、p165)

六月十七日 ★梅北国兼、佐敷城内で謀殺される。これにより、一揆自体は収束する。(中野等、p165)

六月十七日 ★加藤清正、或鏡道の安辺に到着。(中野等②、p64)

六月十八日 ★鍋島直茂、或鏡道の安辺に到着。(中野等②、p64)

六月十八日 ★「名護屋城在陣中の秀吉は梅北国兼蜂起の一報をうけ、一揆勢鎮圧の軍勢を派遣すると共に、六月十八日には、朝鮮渡海衆の加藤清正鍋島直茂毛利輝元らに書状を送り、一揆勢鎮圧のため軍勢を派遣したことを報じて、島津義弘に安心するよう伝えている。」(新名一仁、p183~184)

六月二十日 ★「細川幽斎は朝鮮の義弘に書状を送り、(筆者注:梅北一揆を謀った)「彼悪逆人一類」成敗のため義久とともに薩摩に下向するように命じられたことを報じている。」(新名一仁、p184)

六月二十一日 ★細川「幽斎家臣麻植長通が義弘側近伊勢貞真に宛てた書状には、大隅・薩摩に対し新たな検地を命じるように」との秀吉の上意があったとし、「御法度」が軽んじられているからこのようなことが起きると警告している」(新名一仁、p184)

六月二十四日 ★加藤清正、或鏡道の監営の地、或興に入る。(中野等②、p65)

七月 ★この頃から、朝鮮各地での「義兵」による反攻が活発化する。(中野等②、p82)

七月初旬 ★全羅道侵攻を企図する小早川隆景ら、高敬命らと錦山で戦う。高敬命は戦死を遂げるが、隆景らの全州侵攻は阻止される。その後、隆景は漢城に移動。立花宗茂らは残り全羅道の経略にあたった。(中野等②、p82)

七月五日 ★李舜臣、閑山島沖で脇坂安治率いる水軍に壊滅的な打撃を与える。(中野等②、p83)

七月六日 ★島津義久、鹿児島に戻る。直後に細川幽斎も鹿児島に入る。(新名一仁、p184)

七月九日 ★李舜臣、安骨裏の加藤嘉明・九鬼義隆を襲い、船手に打撃を与える。(中野等②、p83)

七月十日 ★秀吉、義久に書状を送る。梅北一揆の始末としてその首謀者を義久・義弘の弟・歳久とみなし、これから歳久が義弘と高麗に渡れば、その身は助けるが代わりに一揆の棟梁を一〇・二〇人も首をはねて送ること、歳久が高麗に渡らないならば、その首をはねることを命じる。歳久は持病(リウマチか)が悪化しており、朝鮮出陣はとても無理な状態であった。(新名一仁、p185)

七月十五日 ★秀吉、「奉行衆からの朝鮮半島情勢に加え、海上での敗退という報に接した秀吉は、七月中旬にいたって六月三日令の凍結を決断した。すなわち、七月十五日付の朱印状によって、当年中に明国境に迫るようにした軍令を改め、まずは朝鮮半島内の支配を優先するように指示している。」(中野等、p84)

 これをうけて巨済島に二か所の城塞を築きそれぞれに九鬼・加藤・菅、脇坂・藤堂・紀伊国衆・来島兄弟の船出を入れることとし、この両者を豊臣秀勝に統括させた。

いたずらな海戦は避けるよう命じている。(中野等②、p84)

七月中旬 ★祖承訓の率いる明軍、平壌を攻めるが小西行長に撃退される。(中野等②、p75)

七月十六日 ■石田三成ら、漢城到着。(中野等、p165)

七月十八日 ★島津義久、秀吉の上意により、歳久を討つ。(新名一仁、p187)

七月二十三日 ★加藤清正、会寧で二人の朝鮮王子の身柄を確保。(中野等②、p67)

七月末 ★加藤清正、会寧を発して「おらんかい」へ侵攻。(中野等②、p67)

七月~八月 ■石田正澄・木下吉隆長束正家充て増田長盛大谷吉継石田三成書状。

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→明国侵攻を命令した秀吉の「六月三日軍令」でしたが、石田三成ら奉行衆が現地の状況をつぶさに見た状況では、各地の朝鮮軍や義兵の反攻により朝鮮は全く静謐になっておらず、補給路の確保も難しい状態であり、このまま明国に侵攻するのは非現実な状況でした。

 このため、年内は、明国の侵攻ではなく朝鮮の支配に専念すべきであるとの報告といえます。これは、秀吉の「六月三日軍令」に真っ向から反するものであり、そのまま秀吉に披露してしまうと逆鱗に触れてしまう可能性があるため、まず名護屋の奉行衆にメモの形で渡され、秀吉の機嫌のよい時に状況説明をしてほしいと依頼した文書といえます。

七月十八日 ★一揆の後処理として、細川幽斎が薩摩へ派遣された。島津義久・義弘の弟歳久の一揆への与同が疑われ、誅殺された。(中野等、p165)(山本博文、p88)

七月二十二日 ★秀吉、母大政所の危篤の報を受け、名護屋城を離れ、大坂に向かう。

(中野等②、p86)

七月二十二日 ★秀吉の母、大政所死去。(柴裕之、p186)

七月二十三日 ★朝鮮の権応銖、永州を回復。(中野等②、p82)

七月二十九日?(八月一日?) ★秀吉、急ぎ名護屋から大坂城に戻るが、母の死に間に合わず。(柴裕之、p186)((中野等②、p93)では七月二十九日になっています。)

八月十日 ★漢城で諸将参集の上軍議が開かれた。両党から救援に来た明軍への対処、七月十五日による秀吉の六月三日軍令「凍結」への対応について協議することが目的と考えられる。(中野等②、p86)

八月十四日 ★秀吉、義久に対し歳久を成敗したことを賞する。秀吉は、歳久の成敗により、義久の失態は不問に付した。また、秀吉は(細川幽斎による)検地を実施することを命じている。(新名一仁、p187)

八月十五日 ★黒田孝高、罹病を理由に帰国が許される。(中野等②、p108)

八月二十二日 ★加藤清正、「おらんかい」から或鏡道に戻る。(中野等②、p67)

八月三十日 ★小西行長と明の将・沈惟敬平壌近郊で会談を行い、停戦協定を結ぶ。(柴裕之、p186)この会談で沈惟敬は降伏を乞うたとされる。会談の結果、日明間に五十日間の休戦協定が結ばれている。(中野等②、p88)

八月三十日 ★吉川広家充て木下吉隆書状。秀吉は来春渡航し朝鮮統治を徹底すること、明侵攻は延期することが書かれている。(中野等②、p84) 

九月六日 ★朝鮮の朴晋、慶州を回復。(中野等②、p82)

九月九日 ★秀吉の甥の豊臣小吉秀勝、朝鮮陣中で死去。(柴裕之、p186)

九月中旬 ★加藤清正、安辺に到着。(中野等②、p68)

九月中旬 ★加藤清正に降った、或鏡北道・鏡府城の鞠世必、鄭文に説服されて朝鮮側への復帰を決断。清正に反攻する。(中野等②、p88)

九月中旬 ★全羅道経略に残された立花宗茂ら、攻略を諦め漢城へ転進する。「これは明軍が遼東から進出してきたことをうけ、新たに平壌漢城間の守備を充実するという方針が策定されたことによる。」(中野等②、p83)

九月二十日 ★加藤清正書状。「おらんかい」探情の詳細が述べられている。「おらんかい」ルートを通って明国への侵攻が可能か調べたが、田地もなく畠地ばかりであり、兵粮の確保も難しいため不可と判断したこと、おらんかいは伊賀・甲賀のような一揆支配の地であること、自らの或鏡道の経略は成功していること、それとは裏腹に制圧に苦慮する諸将の様子を述べ、特に平安道における小西行長の経略の不調を批判している(中野等③、p124~126)

⇒前述したように、或鏡道の経略は加藤清正の希望ではなく、不満に思っていたところへ、(本来の清正の希望であったと考えられる)明への攻略ルートである平安道小西行長平壌城に入城はしたものの、それ以上の侵攻は行っていない(これは明との休戦協定が行われたためです)ため、清正としてはこれを歯がゆく思い、平安道の経略を自分に替えてほしいとの思いが伺えます。九月中旬から或鏡道においても朝鮮側の反攻がはじまり、清正の或鏡道経略は必ずしもうまくはいっていませんが、この書状では清正は経略はうまくいっていると強調しています。

 この書状に小西行長平安道経略に対しての不満が述べられているところから、この頃から、両者(小西行長加藤清正)の確執が始まったことがうかがえます。

九月二十三日 ★木村重玆・長谷川秀一・細川忠興らの軍勢、慶尚道昌原を落す。(中野等②、p90)

十月 ■島津義弘、京畿道と或鏡道を結ぶ交通の要衝、金化(クムフア)への陣替えを石田三成に命じられる。(新名一仁、p193~194)

十月一日 ★秀吉、大坂城を発向し、名護屋へ向かう。秀吉は、当初九月上旬の名護屋再下向を予定していたが、正親町上皇後陽成天皇の、秀吉は名護屋下向を思いとどまるべきという「叡慮」を受け、しばらく延引していた。(中野等②、p91~92)

十月六日 ★木村重玆・長谷川秀一・細川忠興らの軍勢、晋州牧使・金時敏の守る慶尚道・晋州城を囲む。晋州城は全羅道にいたる経路にあり、頓挫した全羅道経略にも道が開けることとなるため、日本軍としてはなんとしても攻略したい城であった。しかし、城方の抵抗は強く、数日の戦闘の後、金時敏は数万の日本軍を押し返した。(中野等②、p90)

十月中旬 ★或鏡道の「明川以北の地がこぞって朝鮮義軍の手に帰すこととなった」。(中野等②、p88~89)

十一月一日 ★秀吉、再び名護屋城に入る。六月に渡海しなかったことを後悔し、来春三月の渡海を期する秀吉書状がみえる。また、朝鮮在陣諸将から兵糧枯渇の注進が相次いでおり、名護屋の秀吉は兵糧対策を進めていく必要があった。(中野等②、p93~94)

十一月五日 ★秀吉、島津義久に寺社領の蔵入地化を厳命するとともに、旧島津歳久領と没収する寺社領の検地を、細川幽斎の仕置により行わせる(幽斎仕置)。幽斎仕置はこの年の冬から翌年の正月にかけて行われた。この仕置で、寺社・地頭職・御一家衆・国衆らの「上地」も行われ、一定の成果を収めたとされる。(新名一仁、p189~190)

十一月十五日 ★或鏡道を「南下した鄭文孚の兵が加藤(筆者注:清正)勢を撃破し、清正の部下が守る吉州や端州が孤立する危険性が高まっていく。」(中野等②、p90)

十一月十八日 ■漢城増田長盛大谷吉継石田三成黒田長政に書状を発する。内容は、つなぎの城に黒田利高(孝高の弟)を派遣することになったことを了とした事、先手の人数が必要な場合は小早川隆景に対応を要請している事、黒田勢が来年三月までの兵糧を蓄え、更に秀吉進軍のための兵糧を一万石用意されている事を了とする事が書かれている。(中野等、p373~374)

→上記の書状等から、漢城の三奉行(増田長盛大谷吉継石田三成)は、朝鮮在陣諸将の各つなぎの城への配置の割り振り・兵糧の管理・諸将への秀吉の軍令の伝達等を行っていたものと考えられます。

十一月下旬 ★小西行長の陣中を沈惟敬が訪れ、講和の成立も間近いことを報じてきた。(中野等②、p98)

十一月 ■石田三成ら奉行衆、加藤清正漢城への退却を指示する。しかし、加藤清正は或鏡道の支配はうまくいっていると、これを拒否。(熊本日日新聞社、p68~69)

十二月九日 ★「日本の諸将は開城で会議をもつが、恐らく沈惟敬の報告をうけ、その後の対応を協議したものであろう。あるいは晋州城攻略の失敗も伝えられたのかもしれない。」(中野等②、p98)

十二月二十三日 ★明の李如松、四万三千の兵を率いて義州に入る。(中野等②、p98)

 

 参考文献

跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇戎光祥出版、2016年

熊本日日新聞社編(執筆:山田貴司・鳥津亮二・大浪和弥・浪床敬子)『加藤清正の生涯-古文書が語る実像』熊本日日新聞社、2013年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、202筆者

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、200③8年

中野等③「唐入り(文禄の役)における加藤清正の動向」(山田貴司編『シリーズ・織豊大名の研究 第二巻 加藤清正戎光祥出版、2014年所収)

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

石田三成関係略年表⑩ 天正十九(1591)年 三成32歳-大崎・葛西一揆の鎮圧、伊達政宗上洛、千利休切腹、九戸政実の乱(九戸一揆)、三成の佐和山入城、秀次の関白任官

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

 

正月十日 ■石田三成、相馬に到着。これを受けて、伊達政宗は正月晦日には黒川に到着する見込みのもと、伊達家中に対して二十五、六日の黒川集結を命じる。(中野等、p131)

正月 ★伊達政宗蒲生氏郷の間で和解がなる。政宗一揆与同の嫌疑が晴れたことで、豊臣秀次を総大将とする大崎・葛西一揆鎮圧軍の派遣が取り止めとなる。(柴裕之、p112)

政宗の「嫌疑が晴れた」と書かれてはいますが、この後、政宗一揆与同の嫌疑の糾明のため、秀吉に上洛を命じられていますので、嫌疑が完全には晴れてはいない事が分かります。

正月二十二日 ★豊臣秀吉の弟、秀長死去。(柴裕之、p186)

正月二十八日 ★朝鮮使節一行、釜山浦に帰る。この使節には回礼使として景轍玄蘇・柳川調信が同行し、秀吉の要求を「征明嚮導」から「仮途入明」に緩和して協力を要請する。(中野等③、p17)

正月三十日 ★秀吉から、上洛を命じられた伊達政宗、米沢を出発。(柴裕之、p112)

閏正月四日 ■佐竹義宣充て石田三成書状。黒川に諸将が集結しており、三成・義宣もここに参陣していた。

「◇先ほどはお出でい頂き感謝します。明日はそちらへ伺いますので、必ずお会いしお話をしたく存じます。鶴はそちらで料理頂くということですので、こちらから持参します。御茶はしばらく執着もしておりませんので(うまく点てられるか)どうかと思いますが、(とりあえず)明日持参いたします。御逢いできることを楽しみにしています。」(中野等、p132)

参考↓

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 この後、伊達政宗が召喚に応じたのを受け、三成も帰京した。(中野等、p133)

閏正月十二日 ■石田三成、武蔵岩槻に到着。(中野等②、p303)

閏正月二十日 ■島津義弘、嫡男久保に手紙を送る。「「いつも言っているように酒を飲み過ぎないように肝に銘じよ。細川幽斎石田三成も酒を飲み過ぎないよう何度も龍伯様=義久を説得している」と記している。」(新名一仁、p157)等とある。

閏正月二十七日 ★上洛途中の伊達政宗、清須で秀吉に謁見。(中野等、p133)

閏正月 ★豊臣秀次及びその家臣団の移封に伴い、近江国の検地行われる。(中野等、p140)

閏正月 ★京都の御土居の工事始まる。(柴裕之、p186)

閏正月~二月 ★島津義久、豊臣政権内の誰か(細川幽斎もしくは石田三成とみられる)に書状を送る。財源不足で、名護屋の普請・唐入りの準備が難しいことを述べている。また、久保の上洛を命じたが延引していることを知らせた。自分は老いぼれたので、今後の命令は義弘・久保に命じていただけないかともあり、隠居も示唆している。(新名一仁、p158)

二月  ★京都の御土居の工事が大方できあがる。(柴裕之、p186)

二月四日 ★伊達政宗、上洛。(中野等、p133)

二月九日頃 ★秀吉、伊達政宗に旧大崎・葛西領への移封を命じる。(柴裕之、p186)

二月十三日 ★千利休、堺へ追放を命じられる。(白川亨、p29)

二月十五日 ■この頃には、石田三成の在京が確認される。(中野等、p133)

⇒上記のように、この年二月の石田三成は奥羽から帰還している途中であり、二月十三日に実際に在京していたか自体も確認できません。俗説で言うような「石田三成千利休追い落としを画策していたような説」は、この時期の石田三成が奥羽の事態収拾にかかりきりだったことを考えると、時系列的には非現実的な説といえます。

二月二十六日 ★洛中に秀吉の政策を批判する十首の「落首」が掲げられる。(小和田哲男、p265~266)

二月二十八日 ★千利休、秀吉の怒りにふれ、自刃に追い込まれる。(柴裕之、p186)

参考↓

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三月 ★陸奥南部一族の九戸政実らが一揆を起こす。(柴裕之、p186)

三月十三日 ★九戸政実、櫛引・久慈・七戸氏らを誘い、石川(南部)信直方の城を攻撃。南部家当主の後継を巡って、同じ南部一族の政実が信直の後継に不満を持ったことによるもの(九戸政実の乱・九戸一揆)。(小和田哲男、p258)

三月 ★秀吉の甥である豊臣秀勝岐阜城入部。(中野等、p138)■これに前後して、石田三成美濃国内に領地を与えられたようである。(中野等、p138)

四月十日 ■石田三成、秀吉に従い大津に逗留。(中野等②、p303)

四月十九日・五月七日 ■島津義弘、国元に重臣談合のために派遣した島津家家臣・鎌田政近に書状を送る。概要は以下のとおり。

「・これまで親切だった取次の石田三成の態度が豹変し、「島津家滅亡ハ程有間敷」(島津家の滅亡はまもなくであろう)と言うようになった。これは島津家が国持大名であるにもかかわらず動員がなく無勢であり、関白様の御用に立たないからである。

・京都・大坂を往復する際、島津家では騎馬が五騎、三騎ほどで、槍を持つ供衆すらいない。これは同じ九州大名の龍造寺・鍋島・立花・伊東にも劣っており、「言語道断沙汰之外」である。義久・義弘ともに二度も上洛しているのだから、京都の様式・侍の風体は知ったはずであり、恥ずかしい。

・島津家は豊臣に何の忠貞もなく、屋敷作りも人並みにできず借物(借金)に頼るばかりである。多くの扶持をもらいながら借金するのは不届きであり、それは「国之置目」=国元の支配がいいかげんだからである。

・義久が下向する前、細川幽斎にて国元の置目や屋形作りの処置について石田三成から丁寧に指示があったのに、いまだに実現できていない。これはひとえに義久が心得ていないからである。石田三成は無駄なことを言ったと後悔している。

・義久は取次=細川幽斎石田三成が島津家内部のことまで立ち入って「熟談」するのは不要と考えていると聞いた。一方、三成は島津家の存続は難しく、良くて国替えで「御家滅亡」はまもなくだと言っている。

・「国の置目」をいいかげんにせず借金をしなければ、騎馬武者の一〇人、二〇人も引き連れ「外聞」も国持大名らしくなり、屋作りも人並みに準備できる。

・「京儀」=京都での豊臣政権への奉公に精を入れるものは国元衆から嫌われ、義久もこうした国元衆に同意して「京儀」を重視していないと、石田三成は聞き及んでいるという。義久以下小姓衆・小者、女房衆に至るまで政権批判をしないように。」(新名一仁、p161~162)

 新名一仁氏は、「本当に石田三成が義弘に突然冷たくなって島津家を見放すようなことを言ったのかは分からない。恐らく、三成か安宅秀安(筆者注:石田家重臣・島津家との交渉役)がそのように国元に伝えるよう義弘にアドバイスしたのではないだろうか。つまり、「京儀」をないがしろにする義久や国元衆に対し、政権側が島津家を潰そうとしていると脅すことで、義弘がコントロールできるように示唆したのではないか。」(新名一仁、p163)としている。

参照↓

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四月二十七日 ■三成、「近江国犬上・坂田郡美濃国の豊臣蔵入地代官に命じられ」(中野等、p140)る。

五月 ★上杉景勝らによって出羽国一揆が平定される。(柴裕之、p186)

五月三日 ■前田玄以石田三成増田長盛長束正家、全国の諸大名に秀吉の意向として「大名の領知内容を「御前帳」「郡図」に仕立てて呈上するように命じ」(中野等、p135)る。

五月三日 ■「前田玄以石田三成ら奉行衆四名は在京中の(筆者注:島津)義弘に対し、「御国之知行御前帳」を来る一〇月までに調達するよう命じる。」(新名一仁、p166)

五月三日 ■三成、家中の北畠助大夫に対して美濃国内の知行を宛行っている。この頃の三成の石高は、一〇万石程度と想定される。(中野等、p138~139)

五月九日 ■この頃も、三成は秀吉に近侍して大津にいたようである。(中野等、p141)

五月十一日 ■この日の秀吉書状を見ると、この頃から石田三成佐和山城に拠点を置いていたようである。(中野等、p140)

六月二十日 ★九戸一揆の鎮圧に、豊臣秀次を総大将とする軍が秀吉の命令により出陣。徳川家康上杉景勝佐竹義宣蒲生氏郷伊達政宗らもともに出陣する。(柴裕之、p186)■この派兵命令の中に石田三成の名も入っている。三成は、大谷吉継とともに相馬筋の「横目」としての派遣だったようである。(中野等、p144)

六月二十八日 ■石田三成、須藤道光を美濃の領国に代官として派遣する。(中野等、p148)

七月三日 ★佐沼城が攻撃され、大崎・葛西一揆が鎮圧される。(小和田哲男、p258)

七月十五日 ■この頃は、石田三成は大津にいたようである。(中野等、p304)

→三成の奥羽行きはこの後か。

七月二十五日 ★秀吉、ポルトガルのインド副王に充てて書簡を送る。(中野等③、p21)

七月末  ■石田三成、岩城に到着。その後は相馬を経て北上する。(中野等、p144)

八月五日 ★秀吉の嫡男、鶴松が死去。(柴裕之、p186)

八月 ★秀吉、後継を甥の秀次に家督と関白職を譲る意向を示す。また、「翌天正二十年三月の「唐入り」実行を明言し、黒田長政小西行長加藤清正らの九州諸大名に肥前国名護屋佐賀県唐津市)に拠点の築城を命じた。」(柴裕之、p118)「大陸派兵の期日は、結果的におよそ一年延期され、天正二十年三月と決定する。」(中野等③、p20)

八月七日 ★豊臣秀次徳川家康陸奥二本松に着陣。秀吉の指示を受け、旧大崎・葛西領における伊達・蒲生氏の所領配分を行う。家康は、政宗陸奥国岩出沢への入部につき、居城の岩出山城などの普請をはじめる。(柴裕之、p113)

八月十五日 ■石田三成の兄・正澄、島津義弘名護屋城普請に関わる書状を発する。これを受け、義久が名護屋に向かうが、罹病を理由に途中で鹿児島に帰ってしまう。義久は代わりに義弘を向かわせるので問題ないと、三成に弁明の書状を送っている。(中野等、p153)

(新名一仁、p169)によると、義久が途中で鹿児島に帰ったのは、十月頃である。

八月十五日 ■「石田三成の兄、正澄は在京中の義弘に対し、島津家の「御軍役」が「一万五千」になったこと、名護屋での普請はその三分の一を割り付けるよう、「両三人」=義久・義弘・久保に命じられることになったと伝えている。軍役の人数が確定したということは、その前提となる島津領国の石高が確定したことを意味する。八月五日の時点で「一ヶ村分」の差出も届かなかったにもかかわらず、どうもこの時点で島津領国の「御前帳」は出来つつあった。」(新名一仁、p168)

八月二十日 ★和賀・稗貫一揆が平定される。(小和田哲男、p258)

八月二十一日 ★秀吉、「身分統制令」を発する。(中野等③、p19)

九月 ★対馬島主宗義調、みずから朝鮮に渡り、秀吉の征明について警告したが、朝鮮国は「仮途入明」の要求も受け入れず、単なる脅迫として無視する。義調は帰国して秀吉に状況を説明するとともに、朝鮮の地図を献上。(中野等③、p20~21)

九月一日 ★九戸政実方の姉帯城・根反城落城。(小和田哲男、p259)

九月二日 ★九戸政実の居城である九戸城が包囲される。(小和田哲男、p259)

九月四日 ★九戸一揆が平定される。(柴裕之、p186)九戸政実、主だった一五〇人の城兵とともに、首を斬られる。(小和田哲男、p259)

九月十五日 ★秀吉、「小琉球」(当時スペインの服属下にあったフィリピンを指すとみられる)に日本への服属を要求する書翰を発する。(中野等③、p21)

九月二十二日 ■石田三成伊達政宗に書状を発する。「気仙・大原両城の修築を負え、それらを伊達政宗の家中に引き渡すことを告げた」(中野等、p144)もの。この時、三成は陸奥国江刺郡黒石にいたとされる。(中野等、p144)かつて、三成は会津蘆名家を支援し、蘆名家を滅ぼした政宗と敵対関係にあった。「しかしながら三成は、岩手沢(大崎岩手山)への居城を移そうとする政宗の立場を考え、ここでは積極的な協力を申し出ている。気仙・大原両城に駐留する伊達勢の人数に不安があれば、三成管下の兵を充当するとし、また豊臣秀次中納言殿)の指示で破却される城に、まわすべき普請衆が不足するおそれがあれば、これまた三成が管下の兵に命じて、家々を損ぜないように分解してどこにでも運ばせよう、と述べている。」(中野等、p146)

詳細は↓

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十月 ■秀吉、島津義久に代わって義弘を名護屋に向かわせることを命じる。八月の義久の弁明が認められたものと思われる。詳細は石田三成家臣の安宅秀安により伝えられた。(中野等、p154)

十月 ★名護屋城の「御座所」普請が「浅野長吉(のち長政)を惣奉行、黒田孝高(如水)を縄張り奉行とし、九州の諸大名を動員して開始された。」(中野等、p20)

十月二日 ■島津義久、取次の石田三成細川幽斎充てに書状を送る。

 これによると、薩州家・出水の忠辰が島津家の与力から「別所」の与力になろうとしており、御前帳作成のための「差出」を拒否し、名護屋城普請の人数も石材調達も拒否しているとしている。このため、薩州家はどこか別に移封して、出水は島津の直轄領にしてほしいと訴えている。(新名一仁、p170)

十月六日 ■石田三成蒲生氏郷とともに米沢に至る。(中野等、p147)

十月八日 ■三成、在三春。(中野等、p147)

十月十日 ■三成、岩城平で仕置を行う。(中野等、p147)

十月二十四日 ★島津「義久は(筆者注:琉球の)尚寧王に対し、「入唐」に際し島津家には琉球分も込みで一万五〇〇〇人の軍役が賦課されたことを伝え、琉球には軍勢の代わりに七〇〇〇人の兵粮一〇か月分を二月までに坊津(鹿児島県南さつま市坊津町)に輸送するように求めた。」(新名一仁、p171)

十月末  ■この頃、三成は京に到着したとみられる。(中野等、p148)

十一月二日 ■島津義久が義弘に送った書状によると、「義弘は三成家臣安宅秀安からの書状を見せたようである。安宅の書状には「義久のすべてが気にいらない」と書かれており、「何共慮外至極候」と義久も困惑している」(新名一仁、p170)

これに対して義久は、自分が老中に命じても誰も島津家のために動かないと言い訳をしている。(新名一仁、p170)

→安宅秀安が「義久のすべてが気にいらない」としているのは、義久が結局は名護屋に向かわず病気を理由に鹿児島に帰ってしまったこと、御前帳の提出のための「差出」についても、ほとんど履行していないこと等についてと考えられます。 

十一月二十八日 ★豊臣秀次権大納言を拝任。(中野等、p150)

十二月四日 ★秀次、内大臣へ昇任。(中野等、p150)

十二月十三日 ■三成、島津は久・一仁に「人質番組」(島津家側に要求する人質のリスト)を発する。(中野等、p154)

十二月十九日 ★島津義久琉球の「尚寧王に対し、「綾船」の派遣が遅いと豊臣政権から責められて「島津家の面目が失われた」と抗議し、「入唐」の軍役についても。「天下一統之国役」はどんな遠くの島であっても逃れられないと恫喝している。」(新名一仁、p171)

十二月二十六日 ■五月二十五日付では石田三成増田長盛連署近江国高島郡百姓中充てに書状が出されており同地の代官支配は秀吉の奉行衆である三成・長盛によって行われていたが、十二月二十六日付の書状では秀次の奉行である駒井重勝・益庵宗甫の連署による置目が発出されており、この頃より「国内支配の関わる権限が三成ら秀吉奉行衆から秀次の奉行衆へ移譲されていたことがわかる。いうまでもなく、秀吉自身はもとより、三成らも「唐入り」へ専念するためである。」(中野等、p151)

十二月二十八日 ★秀吉、甥の秀次に家督と関白職を譲る。以後は太閤を称する。(柴裕之、p186)秀次は関白・左大臣に任じられる。同時に秀吉から三〇万石といわれる蔵向かわす次に譲られた。(中野等、p150)

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

白川亨『石田三成とその子孫』新人物往来社、2007年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、.2021年

石田三成関係略年表⑨ 天正十八(1590)年 三成31歳-北条攻め、忍城攻め、奥羽仕置、大崎・葛西一揆

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成関連の出来事。)

※「水攻め・水責め」については、(引用部分を除き)「水責め」に統一します。

 

正月十四日 ★徳川家康に嫁いでいた秀吉の妹の朝日姫が死去する。(柴裕之、p186)

正月二十一日 ★北条氏、鎌倉建長寺へ兵糧の城への搬入を指示。(小和田哲男、p237)

正月二十七日 ★島津久保、粟野を出立。(新名一仁、p151)

二月十日 ★徳川家康、北条攻めのため三万の兵を率いて出陣。(柴裕之、p106)(小和田哲男、p241)

二月二十二日 ★島津久保、大坂に到着。(新名一仁、p151)

二月二十八日 ■石田三成、島津家の継嗣久保(島津義弘の息子)を同行して京を出発。関東へ下る。(中野等、p102)三成は人数1500を率いて出陣。(中野等②、p302)★島津久保は、騎馬十五騎・歩行四五〇だったとされる。(新名一仁、p151)

二月二十八日 ★秀吉、琉球国王尚寧への返書を発し、琉球使節は帰国。この書状で、近い内に「大明」に対し軍勢を反剣するつもりであることを秀吉は明記している。秀吉は使節派遣により琉球は服属したと理解していた。(新名一仁、p152~153)

二月三十日 ■三成、近江国柏原に到着。(中野等、p102)

三月一日 ★豊臣秀吉、北条攻めのため三万二千の兵を率いて京都を出発。(柴裕之、p107)(小和田哲男、p241)

三月十九日 ★秀吉、駿府城に入る。(柴裕之、p107)

三月二十五日 ★伊達政宗、「黒川城に重臣を集め、秀吉の軍門に降ることを告げている。」(小和田哲男、p249)

三月 ★島津久保、富士川の先陣(一番に渡河)を行い、天下に名誉を高める。(山本博文、p63)

三月二十七日 ★秀吉、駿河国沼津へ進軍。(柴裕之、p107)

三月二十九日 ★豊臣秀次、伊豆山中城を攻め落とす。わずか半日での落城であった。(柴裕之、p107)(小和田哲男、p242)

四月一日 ★秀吉軍、箱根山に陣を張る。(小和田哲男、p243)

四月一日 ■三成、駿河三枚橋を発する。(中野等、p102)

四16\53秀吉軍、箱根湯本に至る。(小和田哲男、p243)

四月三日 ★秀吉軍の先手隊、小田原まで進む。(小和田哲男、p243)

四月三日 ■三成、小田原付近に到着。「以後、三成は秀吉の陣所にあったものと判断され、浅野長吉・増田長盛らとともに側近として秀吉発給の直書や朱印状に登場している」「また、かねてから三成と関係の深かった真田昌幸は、前田利家上杉景勝らが率いる別働の北国勢に属していたが、秀吉の昌幸充て直書には、三成の副状が付随していたと推察される」(中野等、p102~103)

四月 ★豊臣軍、小田原城を大軍勢で水陸から包囲。(柴裕之、p107)

四月六日 ★秀吉、小田原城近くの笠懸(かさかけ)山に家臣を登らせる。(後にここに石垣山城が築かれる。)(小和田哲男、p244)

四月九日 ★この頃、石垣山城の築城が開始される。(小和田哲男、p244)

四月二十日 ★北条方の大道寺政繁の守る上野松井田城が開城。政繁降伏。(小和田哲男、p247)

五月二日  ■佐竹義宣充て石田三成書状。「具体的な戦況を告げるとともに佐竹勢の動きについての具体的提案をおこなっている」(これより前にも三成は義宣に変化する戦況について告げている。)(中野等、p103~104)

五月九日 ★伊達政宗、黒川城出発。小田原へ向かう。(小和田哲男、p249)

五月十六日 ■岩城常隆充て石田三成書状。「ここで三成は、岩城常隆の小田原陣へのすみやかな出仕を促している。近々に佐竹義宣が参陣することになっているので、佐竹と同道するのが最善だが、万一遅参するような事態になっても、佐竹義宣を追って秀吉の許に出向くように告げている。」この書状から三成の居所が秀吉の本陣のあった箱根早雲寺であり、三成が秀吉に近侍していたことが分かる。(中野等、p106)

五月二十二日 ★武蔵岩付城落城。(柴裕之、p109)

五月二十五日 ■佐竹義宣、相州平塚へ到着。翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえる。(中野等、p106)

五月二十五日 ■佐竹(東)義久(佐竹家一族・重臣)充て石田三成書状。「翌日(二十六日)の秀吉への拝謁をひかえ、義宣からの進物などについて、三成は細やかな配慮をみせている。しかしながら、書状の眼目は、若年の義宣を当主とする佐竹家を、義久がこれからも支え続けて行くべきである、との助言であろう。」この書状に、嶋左近清興の名があり、この頃には既に嶋左近が三成に属していたことが分かる。(中野等、p106~108)

五月二十六日 ■佐竹義宣、秀吉に拝謁。この頃までは三成は秀吉の陣所にいたと考えられる。(中野等、p108)

五月二十八日 ■秀吉、石田三成大谷吉継長束正家に上野館林城・武蔵忍城を命じる。また秀吉、佐竹・宇都宮・結城・那須・天徳寺らに、三成の指示に従って動くように命じた。(中野等、p108~p109)

五月三十日 ■三成、上野舘林城を開城させる。(中野等、p109)

六月二日 ■秀吉、三成に上野国の代官を命じる。(中野等、p109~110)

六月四日 ■三成、上野舘林城を発ち、武蔵忍へ移動。(中野等、p110)

六月五日 ■三成、六月五日以降は、忍城を囲む。(中野等②、p303)

六月五日 ★伊達政宗、小田原到着。(小和田哲男、p249)

六月七日 ■加藤清正充て秀吉朱印状。「忍城石田三成に、佐竹・宇都宮・結城・多賀谷・水谷勝俊・佐野天徳寺を添え、二万の軍勢で包囲するように命じたが、すでに岩付城が陥落したので、(筆者注:忍城の)城方の命は助け、城を請け取るように命じた。」とある。(中野等、p110)

→既に、忍城開城の目途がたっている(降伏の交渉が妥結した)かのような、秀吉の書状です。この書状を見ると、既に忍城は降伏することが決まっているというのが、秀吉の認識なのだと思われます。小田原城内に籠る忍城主成田氏長が秀吉に通じ、密かに降伏を申し出ていたら、秀吉がそのような認識となるのも自然かと考えられます。

 また、岩付(岩槻)城が陥落したため、忍城に積極的に落城させるべき戦略的価値がさほどなくなったことも、秀吉が急いで力攻め行う必要性をなくしたということもあるでしょう。

六月十二日 ■石田三成充て秀吉朱印状。

忍城攻略のことは堅く命じたが、(城方の)命は助けてくれるようにとの嘆願①がある。水責めにすれば②城内に籠もる者は一万ほどもいる③であろうが、(水没して)城の廻りも荒所であるから助けるようにし④城内の者の内で、小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤は、別の城(端城)に移して、忍城を請け取り⑥、岩槻城と同様に鹿垣を巡らせておくように。小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦そなたのことについては、何の疑念も持っていないので、別の奉行を差し向けることはしない。忍城を確保したら、すみやかに報告するように。城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧る。」(中野等、p111)(下線、番号筆者)

→ここからは私見です。上記の書状から考えると、小田原城内に籠っている忍城城主成田氏長が豊臣軍と既に内通しており、氏長の指示で忍城は開城する運びになっていたのだと思われます(「命は助けてくれるようにとの嘆願」①をしているのは氏長と考えられます)。

 ところが、小和田城にいる城主氏長に代わって城を守っていた成田長親らが氏長の指示に反発して開城を拒否し、籠城することで歯車が狂いだすことになります。

 氏長の内通の最低条件が、「小田原城に籠っている者たちの老人・婦女子(足弱以下)⑤」の助命ということでしょう。氏長による内通の利益(小田原城内の状況の密告など?)を得ていた秀吉は、氏長との約束を裏切る訳にはいかず、忍城攻めに対しては、殲滅戦は行わず「水責め②」に切り換える必要があったことになります。更に秀吉はこの書状で内に籠もる者は一万ほどもいる③」(これらは、付近の村から城内に避難した民が多く含まれていると考えられます)が、これらの者も、「助けるようにし④」また、既に「小田原が陥落したら、拘束している味方の者を召し抱える。⑦」ことになっているので、「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」)ています。

 

 三成は「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を殺すことなく、城内の籠る民達も「助けるようにし④」、小田原城内で内通している者たちは「召し抱える⑦」予定なのだから「城内の家財などが散逸しないよう、取り締まりを堅く命じ⑧」る、という条件を全てクリアした上で、相手方を降伏させなければいけないという極めて困難なミッションを抱えることになります。

もとより、戦闘中に「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)⑤」を見分けて助けるなど困難な訳で、更に秀吉は「内に籠もる者は一万ほどもいる③」がこれも「助けるようにし④」ろ、言っている訳ですから、基本的に城攻めでこのような命令を実行するのは不可能に等しいです。

 敵を殺さずに攻めるとしたら、秀吉の命令通り「水責め②」にするより他にありません。力攻めなどできない訳です。(なお、この書状から「水責め②」は秀吉の命令であった事が明確に分かります。)

 以上の、六月十二日付秀吉書状及び前述の六月七日付秀吉書状を見ると、秀吉の命令は既に相手方が降伏していることが前提な話であるように見えますし、そうでなければ実行が極めて困難なものばかりですが、既に降伏が決定事項ならば、水責めをする必要もないし、城内の全ての将兵及び民も降伏しているはずな訳です(つまり忍城の降伏は決定されていない)。秀吉の命令は意味不明で、三成も理解に苦しんだと思われます。

 なお、「岩槻落城後は、忍城の軍略的意味合いも低下し、むしろ敵味方を問わず関東・奥羽の将兵に、上方勢の戦の仕様を見せつけることに意味があったとみるべきであろう。」(中野等、p113)という指摘もあり、忍城を降伏させることより、敵味方の将兵に秀吉のパフォーマンスを見せつけることを目的として、秀吉は「水責め」を選択されたとも言えます。

六月十三日 ■浅野長吉・木村重茲充て石田三成書状。

「昨日、家臣の河瀬吉座衛門尉を遣わしたところ、御懇の返事と口上で詳細を河瀬にお伝えいただき①、諒解しました。忍城のことは、これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰ったのでその通りとします②。ところで、味方の軍勢は水責めの用意を進め、押し寄せることもなく、その方向で動いています。城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③ただし、城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④御返事を待ちます。なお(使者に)口上を言付けします。」(中野等、p112~113)

→この書状の日付は六月十三日付書状ですが、先程の六月十二日付の秀吉朱印状が三成に届いていたかは不明です。しかし、この書状は、三成家臣の河瀬吉座衛門尉を浅野長吉・木村重茲の元に遣わして詳細を伺った事に対する返状であり、その「詳細」とは秀吉朱印状の内容とほぼ同内容が伝えられたのだと考えられます。

 三成が忍城に派遣される以前は、浅野長吉・木村重茲が忍城攻略の担当だったと考えられ、三成は「引継ぎ」を受ける必要があったのでしょう。このため、三成は「引継ぎ」を受けるため、家臣の河瀬吉座衛門尉を派遣したということになります。

「これまでの手立てによって、ほぼかたがつきそうなので、先陣の者たちを退かせたいと仰った②」のは、浅野長吉・木村重茲ということになりますので、長吉・重茲の話をそのまま信じれば、ほぼ忍城降伏の目途がついたという事になりますが、なぜかその後「水責め」の話になってしまいます。ほぼ「降伏」でかたがつきそうなら、水責めをする必要もない訳で、前任の浅野長吉・木村重茲も、後任の石田三成も、秀吉の命令は意味不明で、困惑していることが伺えます。

「城内への御手立てに任せて(城方の)半数を城外に出させるのでは、ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)③」の「半数」とは、六月十二日付秀吉朱印状に書かれた「別の城(端城)に移」すようにとされる「小田原城に籠っている者たちの(忍城内の)老人・婦女子(足弱以下)」のことでしょう。「城内への御手立てに任せて」とは、忍城内に内通している者がいるのが前提なのでしょうが、そもそも内通者だけでなく、城を守る成田長親が事前の交渉でこの条件を受諾していなければ、城内の半数の引き渡しなど無理でしょう。三成が「ゆっくりしすぎるでしょうか?(原文:「遅々たるへく候哉」)」③と書いているところからみれば、このような条件での城方との交渉は全く行われておらず、ゼロから交渉しろということになります。このような「引継ぎ」を受けた三成の困惑はいかばかりか、と思われます。

「城方の退去する人数によらず、(殲滅せずに)降伏させるというご決定に影響がないのなら、すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」

→「城内の半数を退去させる」という条件交渉を貫徹せず、ただ単に「(殲滅せずに)降伏させる」という目的だけを守ればよいのなら、何もしていなくても相手方が「城内の半数を退去させる」という条件を受諾するとは思われませんので、「すみやかに攻撃をかけるべきでないでしょうか?④」と三成は聞いています。これに対する長吉・重茲の返信があったかは分かりませんが、六月十二日付の秀吉朱印状の内容から考えると、「すみやかに攻撃をかける(力攻め)」ことも不可、あくまで水責めをするとともに、条件交渉も行え、という返信が三成にあったのだと思われます(こうした返信がなくても六月十二日付の秀吉朱印状の内容で、秀吉の意思は三成には伝わったと考えられます)。

六月十四日 ★武蔵鉢方城落城。(柴裕之、p109)

六月二十日 ■石田三成充て豊臣秀吉朱印状。

「◇其所について送って絵図と説明を諒承した。水責めのための普請を油断なく命じたこと、尤もである。浅野長吉・真田昌幸の両名を派遣するので、相談の上、手堅く措置するように。普請の大部分が出来上がれば、使者を遣わし実見させるので、それを招致して精進するように命じる。」(中野等、p114)

六月二十四日 ★北条氏規の籠る韮山城開城。(小和田哲男、p242)

六月二十六日 ★相模石垣山城が作られる。(柴裕之、p109)秀吉、石垣山城に本陣を移す。(中野等、p105)

七月一日 ■この頃、浅野長吉が忍城攻めに戻った。(中井俊一郎、p36)

七月三日 ■浅野長吉宛て秀吉書状。

「(忍城の)皿尾口を破って首を三十余り取ったそうだが、絵図を見れば破って当然のところだ。(忍城は)ともかく水攻めにする。その段申し付ける。」(中井俊一郎、p36~37)

→浅野長吉が忍城の皿尾口を「力攻め」した報告に対する秀吉の返状とみられます。秀吉は、皿尾口は破って当然のところであり、ともかく「水責め」の履行を命令します。ここから、(「力攻め」ではなく)「水責め」が遵守すべき秀吉の既定方針であることが分かります。

七月五日 ★北条氏直、豊臣軍に投降。(柴裕之、p109)

七月六日 ★小田原城開城。(柴裕之、p109)

七月六日 ■上杉景勝宛て豊臣秀吉書状。

「小田原では(筆者注:北条)氏政をはじめ、その他年寄りたち四、五人切腹させます。(略)ついては(小田原の事は片付いたので)こちらへ来ずに、忍城へ早々に行って、堤づくりをしてください。十四、十五日頃には忍城の堤を見物に行きます。」(中井俊一郎、p37)

小田原城開城後もなおも、秀吉が水責めに固執していることが分かります。秀吉にとって忍城水責めは28km(「大正期に現地調査した清水雪翁氏の「全く新規に作った堤が6km程度、既存の堤を補修した部分が22km程度あった」、という評価が妥当なものであろう。」(中井俊一郎、p38)))に渡る大堤防を築き、敵味方に豊臣の水責めの威容を知らしめること自体が目的であり、忍城を早く落城させることすら目的ではないということです。中井俊一郎氏は、「仮に堤の全長を14kmと仮定した場合、必要となる土砂の量は70万㎥となる。旧陸軍の基準に照らすとこの規模の土木工事は築堤だけで約四就六万人に地、すなわち一日一万人の人が働いたとして四十六日かかる工事量という計算になる。」(中井俊一郎、p39)としています。

七月十一日 ★北条氏政・氏照ら切腹。氏直は高野山へ蟄居。(柴裕之、p109)

七月十三日 ★小田原城内で秀吉の論功行賞。功第一とされた家康の関東移封が決まる。(小和田哲男、p251~252)

七月 ★秀吉、徳川家康を関東へ移封。(柴裕之、p109)秀吉は、織田信雄徳川家康の旧領への移封を命ずるが、信雄は断ったため改易とした。(柴裕之、p186)

七月十六日 ■忍城が開城。(中野等、p115)

※参考↓

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七月十七日 ★秀吉、小田原城を出発し、奥州に向かう。(小和田哲男、p253)

七月十九日 ■石田三成、佐竹家重臣の小貫氏・真崎氏に、家臣の井口清右衛門尉を派遣し、こちらの指示に従うべしとの書状を送っている。(中野等、p116)

七月二十二日 ■岩城常隆が相模国星谷(しょうこく)で客死。常隆は実子の政隆(当時1歳)がいたが、幼少により秀吉の命により養子の能化丸(のちの貞隆)が岩城家の後を継ぐ(能外丸は佐竹義宣の弟)。能外丸は宇都宮で秀吉に拝謁し、正式に岩城領主となるが、三成も拝謁の場に陪席していたと考えられる。(忍城落城後、宇都宮で三成は秀吉の本隊と合流したと思われる。)(中野等、p116)

七月二十五日 ■石田三成、「鹿島社の大宮司則興に社領において乱妨狼藉を行う者は罪科に処す旨の書状を手交するが、(中略)この文書発給は宇都宮で行われている。」(中野等、p116~117)

七月二十六日 ★秀吉、宇都宮に到着、北関東と奥羽の諸大名に出頭を命じる。(第一次奥羽仕置)(小和田哲男、p253~254)

七月晦日 ■秀吉、本願寺顕如に戦勝祝賀の礼状を出しているが、この副状に三成と増田長盛が出している。(中野等、p117)

七月 ★朝鮮の使節が京都に到着。この時期には秀吉は関東におり、会見は十一月十七日になる。(新名一仁、p154)

八月 ■三成は、制札・禁制などにあたっての「料銭」の料金を具体的に公定した書状を発出している。「もとより、依怙贔屓や現地での不正を防ぐためのものであり、違犯が生じれば厳罰に処するためである。こうした政策に裏付けられて、豊臣政権による支配の正当性が担保されていくことになる。」(中野等、p117~119)

八月三日 ★秀吉、宇都宮を出発。(小和田哲男、p254)

八月六日 ★秀吉、白河に至る。(小和田哲男、p254)

八月九日 ★秀吉、黒川に入る。黒川城に入らず、城下の興徳寺に入った。ここで第二次奥羽仕置が行われる。大崎義隆・葛西晴信らの領地を没収。(小和田哲男、p254)

八月十日 ■秀吉、石田三成に「奥羽仕置」のための「定」を与えている。

 内容としては、以下のとおり。

・今回の検地によって定められた年貢・銭の他、百姓に臨時に道理の合わないことを命じてはいけない。

・盗人は厳罰に処する。

・人身売買を厳禁する。

・諸奉公人は知行によって役をなし、百姓は田畠の耕作に専念すること。

・刀狩りの徹底。

・百姓が居所の村が移動することの禁止。

・永楽銭二十貫文=金子一枚、鐚銭三銭=永楽銭一銭に換算する。

 右の条々に違反するものは、厳罰とする。(中野等、p119~121)

八月十二日 ★秀吉、検地施行に関る朱印状を出す。(小和田哲男、p255)

八月十三日 ■石田三成・長谷川秀一、石川義宗に秀吉朱印状の写しを送り、秀吉の指示を伝える。知行について異動が生じるので、今年の年貢の三分の二を維持し、今後の公儀の指示に従うこととしている。(中野等、p121~123)

八月十三日 ■上記の書状に危機感を覚えた石川義宗は、伊達政宗に取り成しを依頼する。義宗と政宗は従兄弟の関係にあり、このため義宗は政宗に窮状を訴えたのであろう。この後、結果的には石川氏は改易の処分となり、義宗は伊達家の家臣となる。(p123~124)

八月十三日 ★秀吉、黒川を出発、京に戻る。(小和田哲男、p255)

八月十六日 ■石田三成増田長盛、岩城家臣の白土摂津盛守・好雪斎顕逸に「覚」を発給する。岩城家の跡を継いだ能化丸の所領を保障し、蔵入地の代官衆に算用の適正化・明確化を促している。能化丸は、佐竹義宣の弟であり、好雪斎顕逸は佐竹家より遣わされた家臣であり、岩城家はこの後佐竹家の統制下に入り、政権内では三成や増田長盛の指南を仰ぐことになる。(中野等、p124~126)

八月二十日 ■この頃、石田三成は葛西氏旧城の登米に入り浅野長吉と合流。ともに大崎・葛西氏の旧領の仕置に従う。(中野等、p129)

八月二十日 ★秀吉、「唐入り」に向けての具体的準備に入るべく、小西行長・毛利吉成に指示を下す。(中野等、p152)(中野等③、p15)

「当初の計画では大陸侵攻が「来春」すなわち天正十九年に予定されていたことが分かる(筆者注:実際の侵攻は天正二十年・文禄元年)。こののち小西行長・毛利吉成らがいくつかの候補地を踏査し、侵攻の拠点は肥前名護屋に決定する。」(中野等③、p15~16)

八月二十四日 ■毛利家臣佐世元嘉宛て毛利輝元書状。(中野等、p136~137)詳細は、↓

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→上記書状について、中野等氏は天正十八(1590)年としていますが、この頃三成は葛西氏旧領の登米にいるので、少し違和感はあります。三成が直接応対している書状ではありませんので、三成がどこにいてもあまり関係はないかもしれませんが。

九月一日 ★秀吉、京に到着。(柴裕之、p110)★秀吉に従軍していた島津久保も果たす。(新名一仁、p153)

九月八日 ■増田長盛、白土摂津盛守に(能化丸の)すみやかな上洛を促している。(中野等、p126)

九月十五日 ■石田三成奉行滝本太郎左衛門尉・増田長盛奉行永原平左衛門尉、「札」を定める。内容は、「田中郷三ヶ村」の支配を佐竹一門の大山義景に認めたもの。(中野等、p129)

九月二十八日以前 ★島津義弘、国元から大坂に到着。これに伴い、久保は帰国する。(新名一仁、p153)

九月二十九日 ■石田三成、岩城家家中に指示を与える。三成と細川忠興は、奥羽仕置の一環として相馬領・岩城領の検地を担当しており、その結果を受けたものである。秀吉の命令では、検地の出目分を能化丸の蔵入地とするとしているが、今年においては本知の三分の一を能化丸に上納するように指示している。上納は十月中にするようにし、十一月にずれこめば四割上納とし、十一月を過ぎた場合は、闕所とするとしている。(中野等、p126~127)

十月五日 ■好雪斎岡本顕逸充て石田三成書状。好雪斎の経済基盤が派遣元の佐竹家の所領だけでは不十分なため、検地によって期待される「出米」の一部から充当するように指示している。(中野等、p126~127)

十月五日 ■この頃までの石田三成の奥羽在住が確認される。(中野等、p130)

→おそらく、(十月十六日の)大崎・葛西一揆が発生していたら、三成は京都へ戻れずに待機命令が下されていたと考えられますので、十月五日のすぐ後に京都へ向かうため奥羽を出発していたと思われます。

十月十六日 ★「奥州仕置で改易になった陸奥大崎・葛西両氏の旧臣と百姓たちが、陸奥国の旧大崎・葛西領(宮城県北部・岩手県南部)に配置された秀吉直臣の木村義清に対して一揆を起こした」(柴裕之、p110)大崎・葛西一揆の他、和賀・稗貫一揆、仙北一揆、庄内一揆が起こっている。大崎・葛西一揆、和賀・稗貫一揆は翌年まで続いた。(小和田哲男、p256)

十一月七日 ★秀吉、京都聚楽第で「天下一統」を祝する朝鮮通信使に謁見。(柴裕之、p186)

 この使節はあくまで秀吉の国内統一を祝賀するものであったが、秀吉はこれをもって朝鮮国が「服属」したものとみなし、朝鮮国へ「征明嚮導」を要求する。(中野等③、p16~17)

十一月二十四日 ★大崎・葛西一揆への対処に伊達政宗会津に配置された蒲生氏郷らが対処するが、氏郷の政宗への不信感から、氏郷が秀吉へ「政宗別心」と訴える事態に発展する。(柴裕之、p111)「少なくとも京都では、「伊達政宗謀反」との取り沙汰がもっぱらであった」(中野等、p131)

十一月三十日 ■三成、京都で島津義久・義弘を茶席に招いており、この頃には在京が確認される。(中野等、p130)

十二月四日、五日 ■この頃も三成の在京が確認される。(中野等、p130)

十二月四日 ■島津義久・義弘、細川幽斎の京屋敷に招かれる。石田三成も同席し、「薩隅辺之御置目」について話があったという。(新名一仁、p154)

十二月五日 ■前日の「薩隅辺之御置目」についての話し合いは、細川幽斎石田三成連署の条書にまとめられ、義久に渡された。主な内容は以下のとおり。

・島津領内の蔵入地・寺社領・給人領の収穫量を(京屋敷造営費用を捻出するために)指し出すことと、その前提として検地の実施を命ずること。

・島津久保とその妻亀寿の来春早々の上洛を命じたこと。

・上洛する久保には、しっかりとした老中を補佐役としてつけること。(新名一仁、p155~156)

十二月 ★秀吉、大崎・葛西一揆等の解決のため、甥の豊臣秀次を総大将に、徳川・結城・佐竹他の諸大名に出陣を命じる。(柴裕之、p111)

十二月十五日 ■秀吉の朱印状によると、「三成は佐竹勢とともに「相馬口」の担当を命じられて」おり、この命令を受けて三成は奥羽へ出立した。(中野等、p.130)

十二月十六日 ■「島津義弘様御上洛。火急のこととて東国で一揆が発生し、豊臣秀次殿・石田三成殿・増田長盛殿が出立されたことを聞かれ、御立ちになった。この日は大雪である。」(「天正年中日々記」)(中野等、p.130)

十二月十八日 ■羽柴秀次充て秀吉朱印状。「◇最前、石田三成に一書を充てて、その方(秀次)は宇都宮に居るように命じたが、関東に留守は必要ないので、家康が白河に着陣したら、その方は岩瀬に、また家康が岩瀬に至れば(秀次は)白河にあって、伊達の城にいる軍勢を押さえ、確実に蒲生氏郷会津少将)を先陣に組み入れるよう。

 軍勢の発向後に軍令が変更されたわけだが、当初の命令は秀吉から三成への「一書」、おそらく朱印状のかたちと思われるが、通達されていたことがわかる。こうしたことからも、秀吉の軍令伝達者たる三成の役廻りをうかがうことができよう。」(中野等、p.130)

十二月十九日 ★島津義久、大坂を発ち帰途につく。(新名一仁、p155)

十二月二十七日 ★名護屋が領国内にある肥前波多家宿老有浦大和守充て小西行長重臣小西若狭守書状。この書状によると、「改年後早々にも名護屋城の普請作事が始められる予定であった。」(中野等③、p16)

十二月二十七日 ★島津義久、「日向国細島に上陸するも、厳寒のため持病の「虫気」を発症」(新名一仁、p156)する。

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

中井俊一郎『石田三成からの手紙 12通の書状に見るその生き方』サンライズ出版、2012年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

石田三成関係略年表⑧ 天正十七(1589)年 三成30歳-聚楽第落書事件、庄内問題の結着、摺上原の戦い、美濃国検地、名胡桃城奪取事件

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。)

この年 ★「内裏の修築(築造)が行われ、その周辺に公家が住む屋敷が置かれた。寺院町は寺院を移転し、一定地区に集中させて形成された。」(柴裕之、p100)

一月二十一日 ■島津義久充て石田三成細川幽斎連署状。書状の内容は、「箇条ごとに内容を追うと、巣鷹(巣にいる鷹のひな)の徴発、琉球問題への対処、造営中の東山大仏殿(方広寺)への用材調達、刀狩り、勘合(対明貿易)、賊船の取り締まり、などである。」(中野等、p67)

■同日の伊集院幸侃・島津忠長充て石田三成細川幽斎書状。

内容は、

屋久島の檜・杉を、残らず残らず書き出したうえ、島の者には一本も伐採してはならないと申し付けるよう命令。

・刀狩りを命じているのに、未だに提出がされていないことへの督促。提出していないのは貴殿の領国のみなので速やかに提出せよ、としている。

琉球国が未だに秀吉に使節を派遣していないのを批判。上方の軍勢が琉球を征服しようと思ったらさしたる時間はかからず、そうなれば島津の面目も失われるだろう、(琉球使節派遣の)命令を遂行しなければ御家(島津家)の滅亡である、としている。

・明との勘合を、明から望むように交渉するよう要請。

・賊船(倭寇)の取り締まりを要求。

などである。(山本博文、p57~60)

二月 ★秀吉、北条氏の使者として派遣された板部岡江雪斎から徳川氏との国分交渉の内容と経緯を聴聞したうえで、北条氏政の上洛・出仕を条件として、沼田・吾妻地域の三分の二(沼田城を含む)を北条氏へ、三分の一(名胡桃城を含む)を真田氏へ引き渡すという裁定をくだす。さらに秀吉は家康に真田氏へ割譲分の代替地を渡すよう指示。家康は、信濃国伊那郡を真田氏に与える。(柴裕之、p105)

二月二十九日 ★秀吉は、大坂天満の本願寺に対し、寺内にいる牢人衆の身柄引き渡しを命じる。これに先立ち、秀吉の政策を批判する「落書」が聚楽第の白壁に見つかる事件が発生しており、牢人衆はこの「落書」事件に関わったとみられる。(中うなしなわれる

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三月一日 ■「秀吉は三成と増田長盛本願寺に遣わし、関係者の身柄引き渡しを命じる。本願寺は、尾藤次郎右衛門尉入道道休なる人物を自害させ、その首級を三成らに渡した。」(中野等、p68)

三月二日 ■「本願寺は、三月二日付で三成・増田長盛を充所として起請文を発する。」「起請文の内容は、牢人衆を謀反人として、本願寺が彼らを隠匿したにもかかわらず、教団としての成敗を免れたことに謝意を表し、今後「勘気の輩」や「科人」を匿った場合には教団として成敗されることを甘んじて受け入れると、誓約するものとなっている。」(中野等、p69)

三月七日 ★「牢人衆の隠匿に直接関わった願徳寺は、七日の夜に自害した。」(中野等、p69)

三月八日 ★「尾藤道休の妻子や関係する町人ら六六人は京都に護送され、翌九日彼らはことごとく六条河原で磔にされる。」(中野等、p69)

三月十三日 ■石田三成増田長盛本願寺に「条々」を下す。これにより、本願寺は武士や奉公人を抱え置くことや、追放された牢人等を助勢・保護することも禁じられた。本願寺教団はその自律性を剥奪され、ある種の「治外法権」も完全に否定された。この後、本願寺は秀吉政権への絶対服従を余儀なくされることになる。(中野等、p69~71)

三月二十四日 ■石田三成、蘆名家宿老、富田氏実への返信を送る。蘆名家家臣金上盛備が昨年末上洛して秀吉の歓待を受けた事の礼状に対する返書。当主の蘆名義広自身の上洛を促す内容である。(中野等、p76~77)

三月二十四日 ■石田三成家臣(徳芳・清源)、同日付で芦名義広重臣、富田氏実・平田氏範・針生盛信へ書状を送る。内容は同じく当主蘆名義広の年内の上洛を促している事、義広の上洛が難しければ富田殿父子のどちらかが上洛し、義広が上洛できない理由を説明いただくことになる事、越後(上杉)と会津(蘆名)の境目の件について三成から上杉家へ説明を行っている事などが書かれている。この後も、石田三成は蘆名家との交渉を担っているが、「この前提には義広の実家である常陸佐竹氏の存在が考えられる。」「のちの状況からの推測にはなるが、三成は増田長盛とともに、佐竹義宣の奏者と位置づけられていた可能性が高く」このため、佐竹氏を実家とする会津蘆名家に対しても奏者の役割を担っていたものと考えられる。(中野等、p77~79)

四月六日 ■島津義弘、義久に二度目の上洛をすすめる。諸国の大名が大仏殿普請のためみな上洛を命じられる中、義久のみ国元にいるのは許されなかった。義弘が上洛を要請したのは、石田三成からつよい督促があったためである。(山本博文、p61~62)

五月 ★伊達政宗会津蘆名領に侵攻する。(中野等、p79)

五月中旬 ★大宝寺義興の養子千勝丸(上杉家臣本庄繁長の実子)、上洛のため国許の出羽庄内を発する。(中野等、p74)

五月二十七日 ★豊臣秀吉と「淀殿との間に長男の鶴松が生まれる。」(柴裕之、p185)

六月五日 ★会津摺上原の戦い。蘆名・佐竹連合軍と伊達政宗が戦い、蘆名・佐竹連合軍が大敗した。蘆名義広は黒川城を捨てて常陸に逃れ、政宗は黒川城に入り会津を抑えた。(中野等、p79~80)

六月二十八日 ★千勝丸、上洛。(中野等、p74)

七月 ★「佐竹方だった白河義親が政宗に従属した。」(武井英文、p221)

七月一日 ■石田三成家臣(素休・徳子・潜斎)、摺上原の戦いで討ち死にした蘆名重臣、金上盛備の息子盛実充てに書状を送る。以下内容の要約。

・このたびのお父上のご不幸、残念なことでした。しかし蘆名義広様に対する忠節はひろく知れることになりました。

石田三成から越後(上杉氏)に事情を伝えたので、越後からの支援があるでしょう。

・そちらの状況を知らせるため、確実な使者を立てて、三成まで連絡ください。

・鉄砲百挺・鉛・焔硝・硫黄を越後の廻船で送ります。

・義広様へここで申し上げたことについてお取りなし、その他各所へ書状で連絡いたします。

・秀吉様の耳にも入っていますが、きっと伊達が悪いと仰せられるので、本懐までは時間もかからないでしょう。油断なく防御に努められるのがよいと思います。石田三成が苦心していることは神々に対しても偽りではありません。

・兵糧などの御用は早めに指示ください。越後にて対処します。(中野等、p80~82)

七月四日 ■千勝丸、秀吉に拝謁。京で元服した千勝丸は、大宝寺家継承を秀吉から承認され、実名を義勝と称するようになる。従五位下に叙され、左京大夫の官途名を許される。この間、三成は増田長盛とともに、千勝丸の大宝寺家継承の周旋を行っていた。(中野等、p74)

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七月四日 ★秀吉、上杉景勝へ直書を発し、蘆名氏を支えるよう上杉・佐竹両氏へ命じている。(中野等、p84)

七月五日 ■石田三成、富田氏実・平田氏範・針生盛信・金上盛実宛に書状を送る。救援のため鉄砲等を送ることを知らせている。(中野等、p83~84)

七月十二日 ■石田三成家臣(素休・浄源・徳子)、金上盛備宛に書状を送る。救援のため上杉景勝石田三成から兵糧を送ることを知らせている。(中野等、p85)

七月中旬 ★伊達政宗より、前田利家・富田一白・施薬院全宗宛に書状が届く。内容は、摺上原の戦いの勝報、会津の奪取について。「秀吉へは彼らから注進されたものと考えられる。」(中野等、p86)

七月十三日 ★富田一白、伊達政宗への返書。「会津攻めの一件はすでに上杉景勝から秀吉の許に報じられていることを告げている。さらに、秀吉に対するすみやかな弁明を促し、みずからも秀吉の代官として関東へ下向する旨を報じている。」(中野等、p86)

七月十六日 ★秀吉、上杉景勝に直書を発する。「景勝の佐渡平定を諒として、堅実な支配の遂行を求めている。」(中野等、p84)■この「朱印状に増田長盛とともに取次として三成の名がみえる。」(中野等②、p301)

七月二十一日 ★「相模北条氏に信濃真田氏との係争の地にあった上野国沼田・吾妻両領を裁定に基づいて引き渡す。」(柴裕之、p185)

七月二十一、二十二日 ★「前田利家や施薬院全宗らが伊達政宗に充てて書状を発し秀吉への取り成しを約している。しかしながら、秀吉はここに至る政宗の振る舞いには強い不信を募らせており、政宗からの弁明を強く求めた。」(中野等、p86)

七月二十二日 ★施薬院全宗、伊達政宗へ書状を送る。蘆名家は豊臣政権にしきりに服従の礼をとってきており、その蘆名家を私的な理由で討ち果たしたことで秀吉の機嫌を多く損ねていることを知らせた。京(豊臣)の意向を踏まえないと重大な過失となることを告げ、弁明の使者を送るか、その必要がないかは御分別次第だとしている。(中野等、p89)

七月二十六日 ■石田三成、金上盛実へ書状を送る。盛実は、当時蘆名義広と離れて越後津川城に拠り上杉景勝を頼っていた。三成は、盛実が(蘆名家と同盟している)景勝を頼るのは仕方ないが、義広に従わないのは問題だと非難している。また、公儀への取り成し、兵糧・鉄砲・弾薬の補給も約した。(中野等、p87~88)

八月 ★秀吉、宗氏に朝鮮国王を服属させるよう重ねて命令。このため、正使として博多聖福寺の景轍玄蘇正使、宗義智副使として朝鮮に渡り、日本への通信使を重ねて要請。(北島万次、p208)

八月十日 ★島津義弘、大坂を発って帰国の途につく。(山本博文、p62)(新名一仁、p148)

八月十六日 ★伊達政宗、弁明の使者として遠藤不入斎を上洛させる。(中野等、p90)

八月二十四日 ★島津義久、国元を出発し、京に向かう。(山本博文、p62)

九月二十四日 ★島津義久、大坂に到着。その後京都で秀吉に謁見した。(山本博文、p62)

九月二十八日 ★上杉景勝充て秀吉直書。「伊達政宗左京大夫)が何事も秀吉の命に従うと承諾した旨、(秀吉が)お聞きになった。しかしながら、(政宗が)会津を返還しないようなら、軍勢を出し制圧するつもりである。そう諒解し、境域について佐竹と相談し、厳重に支配することが肝心である。」(中野等、p91)■「ここにも三成と増田長盛が取次として登場する。」(中野等②、p302)

九月 ★これまで、越後津川城に拠って伊達政宗に抵抗していた金上盛実、伊達政宗に降伏。伊達家に服従する。(中野等、p92)

九月 ★朝鮮側、秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を決定。(北島万次、p208)

十月 ★琉球使節聚楽第で秀吉に謁見し、琉球国王尚寧王)の国書を呈する、(新名一仁、p152)

十月一日 ■秀吉、石田三成大谷吉継に充てて検地に関する「御掟条々」を発する。これはこの年に行われた美濃国検地実施に関わるものと考えられる。(中野等、p92)

十月十六日 ■石田三成増田長盛近江国伊香郡富永荘に年貢の納め様について訴えがあったため、裁許状を発している。(中野等、p94~95)

十月二十四日 ★川上経久(島津家の弓馬師範)充て島津義久書状。これによると、「秀吉から器量を認められた久保に対し、「縁重」(縁組み・結婚)と、次期島津宗家家督とすることを命じられたようで、義久はこれを了承する。この「縁重」とは、義久の人質としてともに上洛した三女亀寿との縁組である。」(新名一仁、p149)

十月二十六日 ★伊達政宗、「岩瀬二階堂氏を攻めて十月二十六日に須賀川城を攻め落として滅亡させた。」(竹井英文、p221)

十一月 ★「十一月には石川昭光も従属し、岩城常隆とも和睦するなど、政宗の領国は南奥の大部分に拡大し、奥羽最大の大名へと急成長を遂げていった。それでもなお、相馬氏は伊達氏との争いを続け、秀吉がやってくる直前まで駒ヶ嶺城を攻撃するなどしていた。」(武井英文、p221)

十一月三日 ★相模北条の家臣で上野沼田城の城主を務めていた猪俣邦憲が上野名胡桃城を奪取する。(柴裕之、p106。)

十一月十四日、十六日 ■秀吉の伊来忠次への美濃国内五千石の宛行状を受けて、石田三成・浅野長吉と連署で十一月十四日付の知行打渡状を発給している。また、十六日付美濃国内で三〇〇石を南宮領として打ち渡しをしている。(中野等、p95)

十一月二十日 ■島津義弘周辺の者による覚書。島津義弘二男久保の家督継続・義久娘亀寿との縁組につき、秀吉の上意があり、これに対する御礼として義弘が進物を贈ること、亀寿と久保の上洛時期は石田三成の内儀=意向を確認することが記されている。(新名一仁、p149~150)

十一月二十一日 ■真田昌幸充て秀吉直書。「秀吉はとりあえず来春には行動を起こすので、それまではしかるべく軍勢を配し、北条方を抑え込んでおくように命じた。例によって、詳細は浅野長吉(弾正少弼)と三成が申し述べると言っている。」(中野等、p96)

十一月二十四日 ★秀吉、「相模北条氏への「征伐」の意向を示した「最後通告」を行う。」(柴裕之、p185)

十一月二十五日 ■石田三成島津義久宛返書。「秀吉の側で終日働いた結果、御前を退出する義久への挨拶もままならなpったと陳謝している。」(中野等、p99)北条征伐の準備等に忙殺されていたのであろうか。

十一月二十五日 ■石田三成・浅野長吉・増田長盛尾張聖徳寺に寺領打渡状を発給する。(中野等、p95)

十一月二十八日 ■石田三成、南奥州の相馬氏などに書状を発する。「三成はここに至る北条家側の態度を糾弾し、相馬家にも小田原出勢を促し、秀吉への忠節を求めたのである。」

十二月七日 ★北条氏直、豊臣家臣、豊田一白・津田信勝に弁明の書状を送る。上洛遅延及び名胡桃城奪取事件の弁明であったが、秀吉にはこの弁明は通らなかった。(小和田哲男、p234~235)

十二月二十六日 ★佐竹義宣、上杉家中の直江兼続・木戸寿三に書状を発する。「内容は、上杉景勝の上洛を祝し、上杉勢の伊達領(会津)侵攻を懇望する、というものだが、それに関連して蘆名義広の身上復活に触れている。蘆名家の復活自体は、もちろん秀吉自身の意向を前提とするものであり、秀吉は大関晴増を使者として、そうした意向を伝えてきたようである。おそらく、そこには三成の副状ももたらされたのであろう。蘆名家の復活にむけた具体的方策は、三成の「内意」に沿って進められようとしているのであり、さらにいえば、三成の「内意」が伴って、はじめて秀吉の指示・命令が実態化するといってもよい。佐竹義宣は蘆名家の復活をさらに具体化するため、上杉家の後援を求め、上記のような書状を発したのである。」(中野等、p101~102)

 

 参考文献

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

北島万次『秀吉の朝鮮侵略と民衆』岩波新書、2012年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

竹井英文『列島の戦国史7 東日本の統合と織豊政権吉川弘文館、2020年

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

石田三成関係略年表⑦ 天正十六(1588)年 三成29歳-聚楽第行幸、毛利輝元・北条氏規の上洛、刀狩り・海賊停止令、庄内問題

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(★は当時あった主要な出来事。■は、石田三成の出来事。▲は、肥後国一揆佐々成政関連の出来事。)

 

一月 ▲「豊後国主・大友吉統 小国に出兵して下城慶経隆を攻める」(荒木栄司、p204)

二月二日 ★島津竜伯(義久)宛近衛龍山(前久)宛書状。この書状は二通りに意味がとれ、「ひとつは、あなた(筆者注:竜伯)が侍従昇進を望んでないと世間で噂されており迷惑しているとのこともっともです。もうひとつは義房の侍従昇進に望みはないと世間で噂されている、つまり義久は侍従昇進を期待していたが、政権側にそのつもりがないと噂されており困惑している、という解釈である。」(新名一仁、p138)結局、この後、義久が「侍従」に昇進することはなく、弟の義弘が「侍従」に任官することになる。これについて、中野等氏は、「秀吉の降伏に際し、義久はすでに法体となり、「修理大夫入道竜伯」を称しており、「侍従」への任官は困難であった」(中野等、p62)としており、義久がすでに法体となっていたことが「侍従」昇進とならなかった理由と考えられる。

二月五日 ▲「島津義弘 成政援助のため肥後に入ろうとしたが、相良勢に進路を様だけられたと秀吉に申告」(荒木栄司、p204)

二月十一日 ■豊臣秀吉、「島津義弘北郷時久らに宛てた朱印状で、肥後境からの撤退を許可する。三成は、それぞれの朱印状の書き留めに「猶、石田治部少輔可申候也」として登場しており、実務を管掌したものと判断される。(中野等、p55)

■同じ書状で、秀吉は、「義弘に対し、「日州知行分出入」については義弘が上洛した際に判断すると伝えており、同時に義弘と伊集院忠棟に上洛が命じられた。」(新名一仁、p131)

石田三成と島津家の宛て関係宛ついては、↓

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二月十九日 ■島津義弘肥後国内の戦況を報じ、秀吉への「取り合わせ」(口添え)を石田三成細川幽斎に依頼している。秀吉の支持の下、三成と幽斎が島津家の指南の任にあたっていることが分かる。政権内部では、ほかに西国仕置を束ねる豊臣秀長も島津氏に関与している。(中野等、p55)

二月二十日 ▲「秀吉 肥後のため戦後処理と検地強制執行のため浅野長吉を主席とする上使衆派遣(加藤清正小西行長黒田長政蜂須賀家政ら)」(荒木栄司、p204)

二月 ▲「この月、成政は騒動になった事情弁明のため大坂へ向かったという」(荒木栄司、p204)

三月 ■秀吉、古渓宗陳に天正寺創建費用として預けた三千八百六十貫文の返還求める。この返還の催促状は、前田玄以増田長盛石田三成の奉行衆から発せられている。(谷徹也、p33~35)

詳細↓

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三月三日 ▲「内空閑鎮房 柳川城黒門口で襲われ戦死という。現在、供養の地蔵あり」(荒木栄司、p204)

四月三日 ▲「成政 尼崎に到着。秀吉に会えぬまま、尼崎の法園寺に留置される」(荒木栄司、p204)

四月八日 ▲「大津山家稜 佐々方の吉祥寺での和談中に宴席で刺殺されたという。(一説に7月23日)」(荒木栄司、p204)

四月十四日~十八日 ★後陽成天皇の京都聚楽第行幸。(柴裕之、p185)「織田信雄徳川家康ら大名達には後陽成天皇の前で秀吉への忠誠を誓約させた。」(柴裕之、p97)

■「聚楽第行幸に際して、関白秀吉はみずから禁裏に天皇を迎えに出る。秀吉の前駆として直臣が左右にそれぞれ三七騎配されるが、左列の先頭が増田長盛、右列は三成が先導した。儀礼上のこととはいえ、三成は増田長盛とともに「関白家来の殿上人」の先頭に配されたことは注目してよかろう。(中野等、p56~57)

聚楽第行幸の際、秀吉は天皇上皇・皇族・諸公家・諸門跡に、地子金・米の進上、知行の加増等を行ったが、その原資には近江国高島郡があてられている。高島郡を秀吉の代官として支配していたのは、増田長盛石田三成であり「諸公家・諸門跡の知行地からあがる年貢などは、三成と長盛の手を経由して、洛内の公家・門跡のもとに届けられたものと考えられよう。」(中野等、p57~58)

■「三成も、「関白家来の殿上人」の中心人物としてこの盛儀(筆者注:聚楽第行幸のこと)を取り仕切ったと考えられる。しかし、それはあくまで「裏方」の仕事であり、残念ながらその詳細をうかがうべき史料は確認できない。(中野等、p58)

四月十六日 ▲「名和顕輝 宇土城を追われ大口にいたが、島津忠永勢の戦いで戦死」(荒木栄司、p204)

四月 ▲「この月内に肥後国の検地終了したという。国高は五四万石」(荒木栄司、p205)

四月二十日 ★上杉景勝、上洛のため春日山城出発。(中野等、p58)

四月二十一日 ★島津義弘、比志島国貞・本多正親(義久に付いて上洛中の島津家家臣)宛に国元にいる島津家老中たちのサボタージュ(義弘の上洛にひとりの供もしようとしない、上洛費用のための反銭・屋別銭を一銭も徴収しようとしない)を伝えている。(山本博文、p54)

四月二十三日 ■石田三成細川幽斎連署の島津家臣新納忠元宛書状。「肥後一揆の鎮定を祝し、島津義弘の上洛を促すものである。」(中野等、p61)

四月二十五日 ★日向の「飫肥城に入城予定の伊東祐兵は義弘に書状を送って(筆者注:飫肥城から退城しようとしない)上原に下城を命じるよう求め、従わない場合豊臣政権に通報すると通告している。」(新名一仁、p134)

四月末 ★島津義弘は、上洛のため飯野を出発。(新名一仁、p131)

五月 ★豊臣秀吉、「妙音院(富田知信)・一鴎軒(津田信勝)を使者として小田原に遣わし、「すみやかに氏政・氏直父子を上洛すべし」と伝えさせている。」(小和田哲男、p221)

五月三日 ■島津義弘充て秀吉朱印状。(中野等、p61)

五月五日 ■島津義久宛て秀吉朱印状。「いすれも端午の祝儀に関わるが、それぞれ文書の書き留めには三成の名がみえる。」(中野等、p61)

五月六日 ▲「加藤清正 北里政義に帰納(武士から農民になること)を指示」(荒木栄司、p205)

五月七日 ★上杉景勝、入京。(中野等、p58)

五月十日 ★島津義久は、国元の新納忠元への書状で、在京の苦痛を訴えている。(新名一仁、p140)

五月十一日 ■「細川幽斎新納忠元に宛てた書状には、義久を疎略にはしていないのだが長期の在京で「窮屈」になったようで、「国家のためなので御分別くださいと数度にわたりなだめた」とある」(新名一仁、p140)「幽斎は義久の「御殿」=帰国について、共に島津氏と豊臣政権の「取次」をつとめる石田三成と談合し、秀吉に取りなすつもりだと伝えている。」(新名一仁、p140)

五月十一日 ■細川幽斎の「新納忠元充て書状にも「石治少令相談(そうだんせしめ)」という文言がみられる。」(この頃三成は在京。)(中野等、p61)

五月十二日 ★上杉景勝、秀吉との対面を果たす。(中野等、p58)「その間に秀吉の腹心増田長盛に、白布二端を送っている。」(児玉彰三郎、p93)

五月二十一日 ★徳川家康北条氏政・氏直父子に起請文を遣わし、秀吉に臣従を示して氏政の兄弟衆を上洛させるよう促す。応じないのであれば、氏直に嫁いだ娘督姫を返してもらい、同盟を破棄すると警告した。(柴裕之、p97)

五月二十三日 ★上杉景勝正四位下・参議に昇任。(中野等、p58)

五月二十五日 ■「近江国高島郡百姓目安上候付書出条之事を発しているが(『駒井』)、現地に降った可能性は低い。」(中野等②、p301)

五月二十五日 ▲「北里政義に下城領を与える。北里氏は反乱を起こした下城一族討伐に貢献したからか」(荒木栄司、p205)

五月 ▲「秀吉 肥後を相良長毎・小西行長加藤清正に任せることを決める」(荒木栄司、p205)

五月二十六日 ★島津義弘、上洛のために本拠飯野を出立する。(新名一仁、p140)

五月二十七日 ▲「蜂起理由弁明に大坂に行く途中の隅部親泰・有働兼元・山鹿重安ら小倉で毛利勢に襲われ戦死。この日、隅部親永・隅部親房らが柳川で戦死の説あるも、一説に閏5月27日」(荒木栄司、p205)

閏五月 ★この頃には家康の仲介により、北条氏の秀吉への従属の申し入れが行われ、秀吉により北条氏の赦免が決され、両勢力の講和が成立した。(中野等、p60)

閏五月 ★毛利輝元、肥後一揆の鎮圧後、居城吉田郡山城に凱旋。上洛の準備を進める。(中野等、p59)

閏五月十一日 ■京都にいた島津義久は、石田三成細川幽斎から、未だに上原尚近が飫肥城から退城しないことを責められ、「上原に直接書状を送り、飫肥城籠城を「言語道断曲事」と糾弾し「不忠之至」だと叱責して下城を命じた」(新名一仁、p134)

閏五月十四日 ★「摂津国尼崎で佐々成政肥後国一揆勃発の責任により自刃させる。」(柴裕之、p185)「佐々成政の遺領肥後は二分割され、北肥後に加藤清正が封じられ、隈本を本拠とし、南肥後に小西長が封ぜられ、宇土を本拠としている。」(小和田哲男、p213)

閏五月十四日 ▲「清正 戦死した下城経隆の妻子を探し出して殺すよう北里政義に指示」(荒木栄司、p205)

閏五月 ▲「相良長毎・小西行長加藤清正肥後国を三分割統治することになる」(荒木栄司、p205)

閏五月二十日 上杉景勝高野山の参詣を思い立ち、この日、奈良に着いている。(児玉彰三郎、p93)

閏五月二十三日 ★島津義弘、堺に到着。(新名一仁、p131、141)

閏五月二十五日 ★島津義弘、兄義久と対面。(新名一仁、p142)

閏五月二十七日 ■「要請を受け五月二十三日に堺に着津した島津義弘を応接するため、三成は二十七日までに堺まで出向いている」(中野等、p61)

 中野等氏の『石田三成伝』では、「閏五月」ではなく「五月」とされていますが、(新名一仁、p131、141)によると島津義弘は、閏五月二十三日に堺に着いたことになっています。こちらが正しければ、三成が堺に出向いた日も閏五月二十七日だと考えられます。(新名一仁、p140)では、五月二十六日に義弘が飯野を出立した記載になっていますので、「閏五月」が正しいと考えられます。

閏五月下旬 ★上原尚近は、「豊臣秀長が「朱印状」を持たせて派遣した上使を討ち果たすという暴挙に出て、秀長を激怒させている。」(新名一仁、p134)

六月二日 ■細川幽斎石田三成とともに島津義弘、上坂。(中野等、p61)

六月四日 ★島津義弘、秀吉に拝謁。その後、「島津義弘従五位下・侍従に叙任され、さらに従四位下に叙位され、豊臣姓・羽柴苗字を許される。」(中野等、p61~62)「この時(筆者注:六月四日の秀吉拝謁時)義弘は秀吉から、直接「公家にしてやる」と言われている」(新名一仁、p141)

六月五日 ★義弘、大坂城千利休の手前で茶を振る舞われ、「秀吉はその場で細川幽斎に対し義弘の「公家成」支度を命じ、「在坂料」として二〇〇石を与える旨を伝えられている」(新名一仁、p141)

六月七日 ▲「清正 下城伊賀を討ったことで北里左馬助を褒める」(荒木栄司、p205)

六月十三日 ▲「小西行長加藤清正 肥後へ出立」(荒木栄司、p205)

六月十五日 ★「(筆者注:高野山)参詣をすませて帰洛した景勝に、秀吉は六月十五日、近江国蒲生・野洲・高嶋三郡の内において、一万石の地を宛行って、在京の賄料とすべしとの朱印状を与えた。」(児玉彰三郎、p94)「なおまた、京都の邸地を一条下戻橋に給わ」(児玉彰三郎、p94)った。

六月十五日 ★島津義弘は、「従五位下侍従」に叙任し「公家成」した。(新名一仁、p141)

六月十五日 ★島津義久と義弘、起請文を交わす。(新名一仁、p141~142)

六月二十日 ■「六月二十日付の上井秀秋書状には、日向国の図田状(一国単位の土地台帳)のことで事前に三成に相談する、という件がみえていた」(中野等、p64~65)

六月二十二日 ▲「行長・清正 豊後鶴崎に上陸」(荒木栄司、p205)

六月二十七日 ▲「行長は宇土城に、清正は隈本城に入る」(荒木栄司、p205)

七月五日 ★豊臣秀吉は、島津義久に充て、「在京賄料」として、摂津・播磨国内で一万石の領知を与えた。(中野等、p62)

七月八日 ★秀吉、「刀狩りと海賊停止令を命じる。」(柴裕之、p185)刀狩り令については、天正十三年の際の紀州攻めのときにだされた「原刀狩り令」を徹底したもので、肥後一揆の際に百姓が多く加わり、それぞれ刀を持って戦い鎮圧に手間取ったことの反省によるものとされる。(小和田哲男、p213)

七月十四日 ★徳川家康が家臣の朝比奈泰勝に、北条氏規の上洛を督促する使者として北条氏の許へ向かう事を命じる書状を出している。(小和田哲男、p224~225)

七月十九日 ★毛利輝元大坂城に入る。(中野等、p59)

七月二十二日 ★刀狩りは、大仏建立の釘やかすがいに用いるためとしたが、『多門院日記』七月二十二日条では、「「内証は一揆を停止するためなり」」(小和田哲男、p213)とある。

七月二十二日 ★毛利輝元、初めての上洛を果たす。(中野等、p59)

七月二十三日 ■石田三成は浅野長吉とともに、輝元の京都の宿所上京妙顕寺を秀吉の使者として訪れ、米千石を呈上した。(中野等、p59)

七月二十六日 ■石田三成は、二十三日の返礼として、太刀一腰と銀子三〇枚を受けている。(中野等、p59)輝元が秀吉の家来衆にあてた進上品の厚薄のなかでは、浅野長吉が最も厚く、これに前野長康・富田一白が続き、三成は増田長盛と同等の扱いでこれに次ぐとされている。(中野等、p59)

七月二十七日 ★毛利輝元正四位下・参議に叙任される。(中野等、p60)■輝元の国許下向に際して、三成は「一廉之物」とされる脇差二腰を受けている。(中野等、p60)

七月末 ★秀吉によって「「真幸院付一郡」が諸県郡であることが認められたようであり、ようやく日向国内各大名の領域が確定する。天正一六年八月四日から五日にかけて、日向国内各大名に対し領知宛行状と知行方目録が発給されている。」(新名一仁、p132)

八月七日 ■島津「義弘は国元の新納忠元に書状を送り、自身が「公家成」したことと、義久の帰国が決まった事を伝えている。細川幽斎石田三成の秀吉への取りなしが成功したのであろう。」(新名一仁、p143)

八月十日 ■石田三成は、「在京賄料」として、島津家に与えられた摂津・播磨国内の領知について(おそらく)義久充てに書状を発している。三成はこの領知についての調査を詳細に行っており、領知の「打ち渡しに際しては三成の細やかな配慮があった」(中野等、p62~64)ことが分かる。

八月十日 ▲「秀吉 肥後在留の諸将に一〇月の米の収穫終了までは留まれと指示」(荒木栄司、p206)

八月十七日 ▲上杉家重臣、直江「兼続も従五位下、豊臣兼続として、山城守に任じられた。」(児玉彰三郎、p93)

八月十二日 ▲「秀吉 城久基に筑前の内八〇〇町、名和顕孝に五〇〇町を与えるよう小早川隆景に指示」(荒木栄司、p206)

八月十二日 ■「島津義久・義弘兄弟が連署して三成・長岡玄旨(細川幽斎)に書状を発し、日向南郷を伊藤氏に与えられると島津の領国支配に大きな支障を来すため、従前どおり伊集院幸侃に領知させるよう、取り成しを依頼している。」(中野等、p64)

八月十二日 ★琉球中山王充て島津義久書状。これまでも琉球に来聘を促しているのに無視されていることを咎め、本来ならば追討すべきところだが、長年の関係を考えるとそれも憚られるので、すみやかな使節の派遣を求めている。「島津義久がみずからの判断でこうした要求を行ったというより、なんらかの秀吉の意向が背景にあったと考えるべきだろう。」(中野等③、p12)★実際にこの書状が琉球に送られたのは、十一月であり、義久は秀吉の命令を意図的に遅らせたとみられる。(新名一仁、.p152)

八月二十二日 ★「相模北条氏が当主・氏直の叔父・氏規を上洛させて、京都聚楽第で臣従を示す。」五月二十一日の徳川家康の「最後通告」を受けての対応だった。(柴裕之、p185)

 なお、この日の謁見には、「家康・毛利輝元織田信雄豊臣秀長宇喜多秀家上杉景勝島津義弘ら」(小和田哲男、p225)が同席していたという。

 この時、北条氏規の「「沼田問題が解決しなければ氏政の上洛はない」との主張に対し、秀吉が「国境問題をはかるため家老をよこせ、解決するようにしよう」と約束した」(小和田哲男、p225)とされる。

八月二十六日 上杉景勝、帰国。(児玉彰三郎、p94)

九月 ■秀吉、古渓宗陳を筑前博多に配流。(中野等、p55)

九月 ■島津「義久・伊集院幸侃らが薩摩に戻る。三成はその後も上方に留まる義弘と、さまざまな交渉を続けている。」(中野等、p65)

九月 ■大宝寺千勝丸(最上義光によって自害に追い込まれた大宝寺義興の養子、上杉家臣本庄繁長の実子)、実父の本庄繁長の支援を受けて親最上勢力を鎮圧し、庄内を奪還する。最上義光はこれを「惣無事」令違反と訴える。(中野等、p65)

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九月二日 ■秀吉は、北条氏規の上洛を受けて、「北条氏政か氏直の上洛と出仕を命じ、九月二日付朱印状を発し、関東八州への上使派遣と諸勢力の領域確定を実施することを告げる。」(中野等、p60)この朱印状は、北義斯・東義久(佐竹一門)、太田道誉・梶原政景(佐竹配下)、多賀谷重経・水野勝俊(結城家中)宛に送られている。「いずれの文書も、書き留めは「委細、石田治部少輔可申候也」となっている。いずれも充所が佐竹関係あるいは常陸国内の勢力だからであろうか、上使派遣の詳細は三成から告げられることになっている。」(中野等、p60~61)

九月八日、十日 ■石田三成の在坂が確認できる。(中野等②、p301)

九月十日 ★島津「義久の従兄弟で大隅清水領主であった島津以久に対しても、秀吉から直接「其方本知事」を安堵する旨の朱印状が下されている」(新名一仁、p144)

九月十一日 ★「秀吉は、朱印状をもって、景勝に対し、越後国中において、鶴・白鳥・鳫・鴨外諸鳥をうち、進上すべきことを命じている。」(児玉彰三郎、p94)

九月十四日 ★島津「義久は義弘・久保に見送られ、堺を出港して帰途についた。」(新名一仁、p143)■「同日付で義久は石田三成細川幽斎に書状を送り、「伊集院忠宗の肝付郡目録を承りました。去年分の年貢についてはすべて今年命じます。もし上納を渋るものがいれば島津家から納入します」と伝えている」(新名一仁、p143)

九月二十日 ▲「内空閑鎮輝 霜野城を攻められて自害

このころまでに、甲斐宗立・白間野宗郷・伊津野将監ら討たれる」(荒木栄司、p206)

十月五日 ★島津義久日向国細嶋に上陸。(新名一仁、p145)

十月二十二日 ■島津家臣伊地知重秀充て島津義弘書状。(義久への披露状)。

「◇琉球派遣の御使者についての不手際は許されません。断固として(使者を)下す様にしばしば石田三成(治部少輔)が仰っていますので、このように(あらためて指示を)行います。琉球のことがもし不調に終わるようでしたら、義久様のためにもなりませんので、よくよく指示を下し、油断なく配慮するように。詳しい支持は三成が書状をくだすでしょうし、白浜次郎左衛門が三成から直々に話を聞くことになっていますので、ここで詳しいことは言いません。

 なお、明に渡った賊船については真剣に追求すべく、これまた精を入れしっかりと命じるべきです。かえすがえすご油断のないように。」(中野等、p65~66)

十一月二十四日 ★上杉景勝は、本庄繁長に使者を送り、庄内の戦勝を祝し、虎皮一枚を贈った。(児玉彰三郎、p94)

十一月二十八日 ■秀吉、「三成に充てて相良家からの人質への扶持方配当を命じる朱印状を発する。」(中野等、p66)「相良家の奏者をつとめる三成は、相良家から差し出された人質の扶持方差配の責任を課せられたのである。ちなみに、深水・犬童の両家は相良家の家老にあたる。これは肥後相良家の事例だが、島津家他の場合でも、三成が奏者をつとめる家々についても、同様の関わりをもったとみて大過なかろう。」(中野等、p67)

十二月 ■「島津氏に充てた歳暮の秀吉朱印状にも(筆者注:石田三成は)取次として名を見せている」(中野等②、p301)

十二月九日 ■上杉景勝充て豊臣秀吉直書。

「◇(必要にかられ)態々(わざわざ)手紙を書く。最上領に属すると伝え聞く庄内城を本庄勢が制圧したらしいが、事実か。双方の言い分を聞きたいと思うが、年内は日数もないので、年明けに最上(山形)を召喚する際、本庄も上洛させるように。双方の状況を聞いて合理的判断を下すので、それまで互いに手出しをしないように、最上へも命じている。(上杉・本庄側も)下々が勝手なことをしてはならない。さらに往来の道中に関わる者たちも、支障のないよう堅く命じる。なお増田長盛石田三成も申述する。」(中野等、p73)

十二月十二日 ★島津「義久は、北郷忠虎と起請文を交わし、島津家に対する「無二」の「忠勤」と日向国内の秋月・高橋・伊東と「入魂」にならないように約束させている。」(新名一仁、p144)

十二月二十八日 ■本庄繁長充て上杉景勝書状。

「◇確実を期し、脚力(飛脚)に手紙を届けさせる。出羽庄内のことについて、最上(山形)が抗議を行ったので、このように秀吉直書がもたらされた。両人の奏者(三成と長盛)の言い分によると、その方(本庄繁長)が片時も急いで上洛すべきであるが、その方には政務があるだろうから、急いで息子の千勝(筆者注:大宝寺義興の養子・本庄繁長の実子、(のちの)大宝寺義勝)を上洛させるのが尤もであろう。委しいことは直江兼続(山城守)が言ってよこす。」(中野等、p73~74)

十二月末 ■石田三成は、この年末には堺奉行を退いたようである。(中野等、p67)

十二月末 ■芦名義広家臣・金上盛備、上洛し秀吉の歓待を受ける。(中野等、p76)

冬 ■島津義久石田三成に国元の荒廃を嘆き、自分(義久)と義弘と久保の三人が交代で一年ずつ上洛する体制にしてほしいとの書状を送る。また、出水領主島津忠辰が義久を支持を受けようとしないため、注意してほしいとも依頼している。(山本博文、p55~56)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

谷徹也「総論 石田三成論」(谷徹也編著『シリーズ・織豊大名の研究7 石田三成』(戎光祥出版、2018年)所収)

新名一仁『「不屈の両殿」島津義久・義弘』角川新書、2021年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

中野等③『戦争の日本史16 文禄・慶長の役吉川弘文館、2008年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

天正十五(1587)年の秀吉政権と石田三成の動きについて

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※本エントリーは、↓の年表のコメントです。

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 それでは、天正十五(1587)年の秀吉政権と石田三成の動きについてみていきます。

 

 主に天正十五年の秀吉政権下の動きを分けると以下のようになります。

1.真田昌幸の上洛(二月)

2.九州征伐(三月 秀吉出発、五月 島津義久降伏)

3.肥後一揆の勃発と鎮圧(七月~)

4.秀吉による、関東・奥羽への「関東総無事」命令の伝達(十二月)

 また、昨年の上洛で秀吉政権傘下となった上杉景勝が、長年景勝に刃向い叛乱を続けてきた新発田繁家をようやく滅ぼし、この年の十月二十八日に念願の越後統一を果たすことになりました。

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1.真田昌幸の上洛(二月)

 昨年(天正十四年)からの秀吉の上洛命令に応じず、真田昌幸は上洛の延引を続けていました。

 昌幸がなかなか上洛に応じなかったのは、上洛以後に約束された体制として、真田家が徳川家康傘下に戻ることが命令されていたためです。真田昌幸は、元々真田家は武田家臣でしたが、武田滅亡後、織田家滝川一益)→上杉景勝北条氏政徳川家康上杉景勝と主を変転した経緯があります。

 そして、徳川傘下の時に北条・上杉の信濃排除に貢献しましたが、その後、徳川と北条が和睦をしてしまい、北条が当時真田領であった沼田の地の引き渡しを求めると、家康は昌幸に沼田を北条に引き渡すよう要求してきました。

 替地の約束もなく、沼田の引き渡しを求めてくる家康の理不尽な要求に不満に思った昌幸は、徳川の差し金とされる室田正武の昌幸暗殺計画もあり、徳川家康を見限って今度は上杉景勝の傘下に入ることになります。

 天正十三(1585)年閏八月二日、昌幸は攻め寄せてきた徳川勢を信濃上田城で打ち破り、昌幸は武名を轟かせます。当時、家康と対立していた秀吉も、昌幸と同盟を結び共同して徳川を打倒しようとしています。

 しかし、翌年の天正十四(1586)年になると、豊臣家は徳川家に対して和睦に向けて近付くこととなり、その結果和議が結ばれ、五月には家康と秀吉の妹旭姫が婚姻することになりました。秀吉はこれを受けて真田昌幸を含む信濃衆を徳川の傘下とすることを決めますが、昌幸はこれに従いませんでした。上述したように家康は沼田の引き渡し等、傘下に理不尽な要求をしてくるような主君であり、ましてや暗殺者を仕掛けてくるような人物に再び仕えるというのは、不満であるばかりでなく、昌幸自身の身体の安全すら(再び暗殺される危険性があり、しかも臣従した後では「上意討ち」として不問にされる危険すらある)保証されるものではありませんので、昌幸がこの要求を拒否するのはある意味当然といえるでしょう。

 自らの要求に応じない昌幸に対して、秀吉は「表裏比興者」と非難し、家康に討伐を許しますが、上杉景勝の取り成しもあり、討伐を延期させ、後に赦免します。一方で秀吉は昌幸に対して、早期の上洛を改めて命令します。

 長々と上洛を渋ってきた昌幸でしたが、天正十五(1587)年二月にようやく上洛します。渋っていた昌幸が上洛した理由については、当時の一次史料からは判りませんが、その後の処遇から想像ができます。おそらく、真田家を徳川家の「家臣」とするのではなく、徳川家の「与力」大名とすることで処遇の結着がつき、この結着に納得した昌幸は上洛した、という流れではないでしょうか。

 徳川の「与力」大名になるということは、真田家の直属の主君は豊臣秀吉になりますが、軍役の際だけ徳川の軍事指揮下になるということです。

 これが仮に徳川の「家臣」となったとすると、直属の主君は徳川家康ということになり、昌幸の生殺与奪の件は家康に握られるということになります。「与力」の場合は、昌幸の主君は秀吉ということになりますので、家康が昌幸の処遇や所領を勝手に決めることはできなくなります。こうした保証がない限りは、昌幸が上洛する可能性はなかったといえます。

  こうした、上洛に際する下交渉などは文書としては現代まで残りませんので、内容は想像するより他ありませんが、その後の展開をみればそのような交渉が行われたと考えられる訳です。

 石田三成は、天正十三年十月より真田家との取次を担っており、こうした真田家との下交渉を行ったのも三成だと考えられます。

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2.九州征伐(三月 秀吉出発、五月 島津義久降伏)

 昨年(天正十四年)の十二月二日の戸次川の戦いにおける島津勢の勝利、豊臣勢の敗北により、天正十四年の九州の情勢は島津勢が優勢であるようにみえますが、一方では十月四日には小倉城が豊臣勢に落ち、十二月二十一日に入ると島津方の高橋元種の居城香春嶽(かわらだけ)城が落ちています。島津義弘は豊後岡城を攻略しようとしますが、失敗して撤退しています。また、天正十四年十月には竜造寺政家も既に秀吉と通じるようになっており、肥後にたびたび出陣し放火に及んだといいます。天正十四年の末の段階では既に島津の九州での進撃は止まっており苦戦が続き、島津の前途には暗雲が立ち込めた状況になっていました。

 天正十五年三月の秀吉出陣の報が届くと、島津勢は三月に豊後を放棄して撤退をはじめました。秀吉と秀長はふたつに軍を分け、秀吉は筑後→肥後ルートから、秀長は豊後→日向ルートからそれぞれ九州を攻略することとなります。

 秀吉軍の進撃に対する島津勢の組織抵抗は、筑後の、本拠を古処山とする秋月種実の抵抗くらいで、その種実も四月三日に降服します。秀吉は順調に肥後を南下していき、肥後勢も秀吉に戦わずして降服していきました。(この降服があまりにスムーズだったことが、逆に肥後国一揆が起こった一因ともいえます。)島津方の隈本城主、城親賢も降伏します。

 一方、秀長勢は日向を南下します。四月六日、新納院高城(にいろいんたかじょう)を包囲します。その数十万余であったといいます。四月十七日、秀長勢が高城近くにある根城坂に築いた陣城に対して、島津義弘、家久らの軍勢が総攻撃を仕掛け、激戦となりますが、島津勢は反撃を受け大きな被害を出して撤退します(根城坂の戦い)。

 その後、薩摩川内泰平寺に入った秀吉の許を、五月八日に剃髪した義久が見参し、正式に降伏することになります。

 九州征伐における石田三成の役割は二つあり、ひとつは、九州攻めのための兵糧・物資の補給基地を作ることでした。九州征伐のためには、総勢十八万人に及ぶ兵の兵糧・物資を補給し続けることが必須となります。このため、全国より兵糧・物資を集積し、九州へ輸送するための出発点の港として、豊臣政権として堺(の町人)をあらかじめ支配し、物流を管理する必要がありました。このため、石田三成天正十四年六月より堺奉行に任命され、堺の統制にあたることになります。秀吉の三成堺奉行任命の目的も九州征伐の準備のためだといえます。

 また、九州征伐の兵粮・物資の輸送先の拠点(港)として、戦災で荒廃した九州博多を復興させ、補給基地として整備し、機能させる必要もありました。このため、石田三成は、天正十五年正月の秀吉の催す茶会に博多の豪商である神屋宗湛を招き、秀吉と対面させ、また自ら給仕を務め歓待する等、博多商人との結びつきを強化することになります。また、天正十五年四月二十三日付で、石田三成安国寺恵瓊大谷吉継連署で、博多商人の還住をすすめ、また諸役の免除を行っています。

 石田三成ら奉行衆による、十八万の兵士の兵糧補給を支えるロジスティクスが機能しなければこの九州征伐は成り立たず、三成ら奉行衆の兵站管理のはたらきは九州征伐の成功の根幹をなしたといえるでしょう。

 もうひとつの三成の役割は、島津との取次の役割です。天正十四年九月二十七日に島津義久は、関白秀吉・弟秀長・石田三成・施薬院全宗に対し弁明の書状を送っており、この頃から義久は島津と豊臣の外交窓口として石田三成を認識していたことが分かります。更に天正十五年一月十九日付でも豊臣秀長石田三成宛に義久は弁明の書状を送っていますが、この弁明が聞きとげられることはありませんでした。

 五月八日の島津義久の降伏後、三成は人質の督促を行い、義久降伏後も未だに従わない歳久(義久の弟)に対処するため、十九日歳久居城の祁答院に、伊集院忠棟とともに向かいます。二十四日には、日向飫肥領を伊藤氏への引き渡すよう交渉しますが、島津側の反応が悪く不快を感じています。更に安国寺恵瓊とともに、大隅宮内で敵対を続ける島津家家臣北郷時久・忠虎父子と面談します(その後、北郷親子は降伏)。

 このように、三成らは、義久の降伏後も未だ従わない島津一族・家臣らの説得にあたるなど、戦後処理に奔走することになります。

 その後、六月二十五日に上洛のために博多に来た義久を三成は細川幽斎と迎え、義久を伴い上方へ帰還します。これ以降、三成と細川幽斎は、島津家の取次・指南役として活動を続けることになります。

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3.肥後国一揆の勃発と鎮圧(七月~)

 天正十三年六月二日に秀吉に肥後一国を宛行われた佐々成政は、六月六日に隈本城に入城します。そして、七月には早くも肥後国衆の反発を受け、肥後国一揆が勃発してしまいます。

 なぜ、肥後国一揆は勃発して拡大してしまったのか?佐々成政が検地を強行したことに国衆が反発したことが原因とされますが、以下で理由をみていきます。(荒木栄司氏の『増補改訂 肥後国一揆』を参考文献としています。)

 第一の理由として挙げられるのは、秀吉が肥後に入国した際、肥後の国衆は競って秀吉に降り、秀吉は降伏した国衆たちに旧領安堵の朱印状を交付しました。この安堵状は石高が記載されているものではない簡便なもので、秀吉としてはとりあえず仮のものとして渡したつもりであり、正式な知行宛行は新しい国主が決まり検地が実施された後のものであるという認識でした。しかし、肥後の国衆たちからすると、秀吉が仮だと思っていた朱印状が領地安堵の証であり、この朱印状によって彼らは秀吉直参の家臣となったと考えたのでした。

 このため、新しい国主(佐々成政)が据えられ、その検地命令に従わなければならないということが、そもそも肥後国衆にとって予想外の事態だった可能性があります。これにより、新しい国主である佐々成政が検地を命令しても、国衆たちはこれに従う必要はないと考え、検地に反発したという事になります。命令に従わない国衆を佐々成政が攻めることにより、更に反発が広がり反乱は拡大していきます。

 第二の理由として、佐々成政が検地を命令する時や、命令に従わない国衆を攻める時において、成政は秀吉に伺いを立てずに、独自の判断で決行してしまっていたということが挙げられます。成政としては、肥後国主として秀吉に任じられた訳ですから、国主としての判断・決定は秀吉によって委任されたものであり、いちいち秀吉に伺いを立てる必要はないと考えたのかもしれませんが、肥後の国衆としては、自分たちは秀吉の直参だと考えている訳なので、秀吉の命令ではなく、佐々成政の独自の判断での命令をそもそも聞く必要があるのか、と考えていたのだと思われます。

 また、ここまで肥後国一揆が拡大した第三の理由として、しばらく佐々成政が事態の報告を秀吉にしていなかったという可能性が考えられます。このため、近隣の大名の援軍が必要な事態に拡大するまで、成政が自力でなんとかできると一人で対応している間に事態がどんどん拡大してしまったことが考えられます。

  結局、最初に肥後国衆に統治のあり方を詳しく説明しなかった秀吉の問題と、秀吉に事前に伺いを立てず独自の判断で検地を急ぎ、そして肥後国衆の反発を甘く見て説得する等の柔軟な対処を怠っていきなり城を攻め、反乱の事態が拡大して収拾がつかなくなるまで中央への報告を怠った成政の問題があると考えられます。

 肥後国一揆は、西国の大名達(龍造寺政家鍋島直茂毛利秀包黒田孝高、毛利吉成、毛利輝元小早川隆景立花宗茂安国寺恵瓊ら) が救援に駆けつけなくてはいけない事態まで拡大しました。その後、十二月十七日には一揆の首謀者の一人である隅部親永の籠もる城村城が開城し、ひとつの目途がつくことになります。(一揆自体は 他に抵抗する国衆もまだおり、翌年(天正十六年)まで続いています。)

 翌天正十六年閏五月十四日、肥後で騒動を起こさせた責任を問われる形で、佐々成政は自刃を命じられることになります。

 肥後国一揆では、石田三成細川幽斎は上方にいて、連署で島津家臣新納忠元宛てに、肥後一揆に関して油断なく伊集院幸侃の従うべきことを伝えています。三成と幽斎は島津家との取次として、肥後国一揆への対処について島津家へ指示を出していることが分かります。

 

4.秀吉による、関東・奥羽への「関東総無事」命令の伝達(十二月)

 天正十五(1587)年(?)(後述のとおり年代比定に諸説あります)十二月三日付で伊達政宗家臣片倉景綱宛てに豊臣秀吉判物が送られています。徳川家康に関東惣無事を申し付けたこと、惣無事に違背する者は成敗する旨、伝えています。

 同日付で同様の書状が南奥州岩城家の一族白土右馬助や、常陸下妻の多賀谷重経にも送付されています。

 研究者の間では、上記の書状の年代がいつなのかを巡って天正十四年・天正十五年・天正十六年説が上がっていますが、私見では、この片倉景綱宛ての書状については、『豊臣秀吉の古文書』(柏書房)が比定しているとおり天正十五年だと考えます。

 理由についてですが、天正十四年は徳川家康が上洛したばかりで、真田昌幸の上洛もまだされておらず、また秀吉は九州征伐の準備にかかり切りの状態です。天正十五年は二月に真田昌幸上洛、五月に島津降伏、七月に起こった肥後国一揆も十二月には鎮圧の目途がついている状態となっており、秀吉が奥州の「惣無事」に目を向けてもよい頃だと考えられるためです。

 天正十五年十二月二十四日には、北条氏が「全領国下に「天下御弓矢立」の発動を宣言し、指定した領国の惣人数を翌天正十六年一月十五日を期日に小田原へ招集する陣触れを通達した。こうした指令は北条氏がかつて上杉謙信武田信玄による小田原侵攻の時にも発動したことはなく、その時とは比較にならぬ非常事態宣言の発令と位置付けられ、その緊迫した危機意識を看取できる。」(平山優、p212)とあり、平山優氏は、これは秀吉の各大名への惣無事命令に北条氏が危機感を抱いたためとします。この説が正しいとすると、秀吉判物は天正十五年のものということになります。

(ただ、この書状を天正十四年と比定しても矛盾はありませんので、どちらの年か確定するのは難しいといえます。)

 

 参考文献

荒木栄司『増補改訂 肥後国一揆』熊本出版文化会館、2012年

小和田哲男『戦争の日本史15 秀吉の天下統一戦争』吉川弘文館、2006年

児玉彰三郎『上杉景勝』ブレインキャスト、2010年

笹本正治『真田三代-真田は日本一の兵-』ミネルヴァ書房、2009年

柴裕之編著『図説 豊臣秀吉戎光祥出版、2020年

武野要子『西日本人物誌[9] 神屋宗湛』西日本新聞社、1998年

新名一仁『島津四兄弟の九州統一戦』星海社新書、2017年

中野等『石田三成伝』吉川弘文館、2017年

中野等②「石田三成の居所と行動」(藤井譲治編『織豊期主要人物居所集成』[第2版]思文館、2011年所収)

花ヶ前盛明「大谷刑部とその時代」(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』新人物往来社、2000年所収)

藤井譲治『徳川家康吉川弘文館、2020年

平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年

山本博文島津義弘の賭け』中公文庫、2001年(1997年初出)

山本博文・堀新・曽根有二編『豊臣秀吉の古文書』柏書房、2015年

石田三成関係略年表 目次

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石田三成関係略年表 目次

石田三成関係略年表①(永禄三(1560)年~天正十(1582)年(1~23歳) 

石田三成関係略年表② 天正十一(1583)年 三成24歳-賤ケ岳の戦い

石田三成関係略年表③ 天正十二(1584)年 三成25歳-小牧・長久手の戦い 

石田三成関係略年表④ 天正十三(1585)年 三成26歳-紀州攻め、「治部少輔」三成、真田家との取次

石田三成関係略年表⑤ 天正十四(1586)年 三成27歳-上杉景勝・徳川家康の上洛、堺奉行、九州前哨戦 

天正十四(1586)年の秀吉政権と石田三成の動きについて

石田三成関係略年表⑥ 天正十五(1587)年 三成28歳-九州征伐、肥後国衆一揆、真田昌幸の上洛、新発田重家の滅亡

天正十五(1587)年の秀吉政権と石田三成の動きについて 

石田三成関係略年表⑦ 天正十六(1588)年 三成29歳-聚楽第行幸、毛利輝元・北条氏規の上洛、刀狩り・海賊停止令、庄内問題 

石田三成関係略年表⑧ 天正十七(1589)年 三成30歳-聚楽第落書事件、庄内問題の結着、摺上原の戦い、美濃国検地、名胡桃城奪取事件

石田三成関係略年表⑨ 天正十八(1590)年 三成31歳-北条攻め、忍城攻め、奥羽仕置、大崎・葛西一揆

石田三成関係略年表⑩ 天正十九(1591)年 三成32歳-大崎・葛西一揆の鎮圧、伊達政宗上洛、千利休切腹、九戸政実の乱(九戸一揆)、三成の佐和山入城、秀次の関白任官

石田三成関係略年表⑪ 天正二十・文禄元(1592)年 三成33歳-文禄の役、梅北一揆

石田三成関係略年表⑫ 文禄二(1593)年 三成34歳-文録の役②、拾(秀頼)の誕生 

石田三成関係略年表⑬ 文禄三(1594)年 三成35歳-文録の役③(休戦中)、島津忠恒の上洛、伏見城普請、島津領国・佐竹領国の「太閤検地」、秀吉の上杉邸御成

石田三成関係略年表⑭ 文禄四(1595)年 三成36歳-文録の役④(休戦中)、佐竹・島津領国の知行目録発出、蒲生氏郷死去、秀次事件 

石田三成関係略年表⑮ 文禄五・慶長元(1596)年 三成37歳-文録の役⑤(講和使節の来日→交渉決裂)、サン・フェリペ号事件、二十六聖人殉教事件

石田三成関係略年表⑯ 慶長二(1597)年 三成38歳-慶長の役①、宇都宮氏改易事件

石田三成関係略年表⑰ 慶長三(1598)年一月~七月 三成39歳-慶長の役②、蔚山城の戦い、蒲生秀行の宇都宮転封、上杉景勝の会津転封、蜂須賀家政・黒田長政らの処罰、秀吉の病重篤となる、筑前・筑後巡検

※慶長三(1598)年八月以降は、「慶長争乱(関ヶ原合戦)時系列まとめ・関ヶ原への百日」を参照。↓

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